ニーチェ
神なき世界で、 どう生きる?
孤独と狂気の果てに、生の肯定を叫んだ思想家
- 超人
- 永劫回帰
- 力への意志
時代の空気
19世紀後半のヨーロッパは、1871年のドイツ統一とビスマルクの帝国経営、産業化と都市化、ダーウィン進化論と聖書高等批評による信仰の動揺が同時に進んだ時代だった。普仏戦争(1870-71)の勝利後のドイツは大学と古典文献学を国家の権威として整備、バーゼル大学のような独語圏スイスもこの学術圏にあった。バイロイト祝祭劇場(1876)に象徴されるワーグナー芸術の隆盛、産業労働者と社会主義の台頭、反ユダヤ主義の地下水脈が並走する。ニーチェはこの空気のなかで山と海辺の安宿を渡り歩いた。
01牧師館の子、神を葬る
1844年10月15日、プロイセンの小村レッケンで生まれた。父カール・ルートヴィヒは村のルター派牧師。生まれた日はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の誕生日と重なっていたため、少年は王の名を授けられた。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。敬虔と忠誠の匂いに浸された命名である。
その父が、彼が 4 歳のとき脳の病で死んだ。半年後、弟ヨーゼフも 2 歳で世を去った。母と祖母と叔母たちの家に、ただ一人の男児として、ニーチェは残された。女たちは彼を「小さな牧師」と呼んだ。主日学校で聖書の一節を涙ながらに朗読する少年の姿は、村で評判だった。
母フランツィスカは敬虔なキリスト者で、息子も父のように牧師になると信じて疑わなかった。姉エリーザベトは生涯、兄を神の人として愛した(後に彼の遺稿を歪曲することになるのも、この愛の延長線上である)。
少年ニーチェは名門ギムナジウム、シュールプフォルタに進む。14 歳で入学、そこで彼は古典ギリシャ語とラテン語に出会った。ホメロスの韻、アイスキュロスの悲劇、プラトンの対話。ギリシャ人の世界観は、福音書の世界観とは根本的に違っていた。運命に立ち向かい、破滅の中で美しくある人間たち。そこには罪も赦しもなかった。
ボン大学、続いてライプツィヒ大学。神学部に入ったが、一学期で辞め、古典文献学に転向した。母は深く悲しんだ。
神を葬るのに、ニーチェは 40 年を要した。しかし最初の一鍬は、シュールプフォルタの夜、ギリシャ人の詩を読んでいたあの少年の手によって打たれていた。
02バーゼル大学、最年少教授
1869年、24 歳のニーチェは博士号も教員資格試験もないまま、バーゼル大学の古典文献学教授に任命された。彼の師リッチュルの異例の推挙だった。ライプツィヒ大学は慌てて博士号を授与した(審査なしで)。
若き教授は、しかし、文献学の狭い世界に収まりきれなかった。同時期、バーゼル近郊トリプシェンに住んでいた作曲家リヒャルト・ワーグナーと出会う。ニーチェ 24 歳、ワーグナー 55 歳。父親のいない青年と、父親のような芸術家の、激しい友情が始まった。
ワーグナーの邸宅で過ごす週末、ニーチェは新しい思想の輪郭を掴んでいった。ギリシャ悲劇が人間の生を肯定する力を持っていたように、現代にも新たな神話が必要だ。ワーグナーのオペラが、それを担うのではないか。
1872年、処女作『』。学術界からは冷笑された ― 文献学の論文にしては文学的すぎ、音楽論にしては学問的すぎた。しかしこの本には、のちのすべてが芽吹いていた。なもの(秩序・形式)となもの(陶酔・生命)。合理主義が見落とした、生の暗く豊かな地層。
大学での講義はしばしば学生数人しか集まらなくなった。ニーチェは気にしなかった。思考は別の場所で育ちつつあった。
03ワーグナーとの蜜月、そして決別
1876年、バイロイト祝祭劇場の柿落としで『指環』四部作が上演された。ニーチェはワーグナー芸術の勝利の日に、体調を崩して逃げるように山に籠もった。
帰還は早かったが、関係は戻らなかった。翌1877年の『パルジファル』の草稿を読んで、ニーチェは絶望した。十字架の足元にひざまずくキリスト教的救済のオペラ。ワーグナーがかつて否定した反動の全てが、晩年の大作に回収されていた。
ニーチェは沈黙を選んだ。1878年の『人間的、あまりに人間的』はヴォルテール流の警句集で、ワーグナーを含む過去の師たちからの訣別の書だった。献呈を受けたワーグナーは、返礼に『パルジファル』の台本を送ってきた。二人は以後、二度と言葉を交わさなかった。
1879年、ニーチェの頭痛と眼痛はもう限界だった。バーゼル大学を辞職。年金は年間 3,000 スイスフラン、年額で当時の労働者一家の食費程度だった。彼は 34 歳。以後は職業を持たず、各地の安宿を転々として生きる。
決別は自由の始まりだった。
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗く。
04山を歩き、書く
シルス=マリア。スイス・アルプスのエンガディン高地、標高 1,800 メートルの村。1881年の夏、ニーチェはこの村のアルピナ荘に宿をとった。以後、10 年の夏を彼はここで過ごす。
1881年8月、湖畔の散歩中にの思想が稲妻のように降りてきた、と後に書く。「同じ人生が、同じ瞬間が、無限に繰り返される。受け入れられるか?」。この思想は『』の背骨になる。
ツァラトゥストラは 10 年山に籠もった後、人間たちに真理を伝えに下りてくる ― そんな架空の預言者を語り手に、ニーチェは書きに書いた。第一部を 10 日で、第二部を 10 日で、第三部も 10 日で書き上げた、と本人は述べる(実際はもう少し時間がかかっている)。口述調の詩的散文。聖書のパロディでもあり、新しい福音の試みでもあった。
しかし出版社は嫌がった。ニーチェは自費出版した。第一部を読んだ読者は 60 人ほど。第四部にいたっては 40 部刷って、ほとんど配布されなかった。孤独の中で書かれた本は、孤独の中で読まれなかった。
冬はリヴィエラ海岸、ジェノヴァ、ニース、ラパッロ、ヴェネツィア。夏はシルス=マリア。春と秋はトリノかレッジョで過ごす。独身、食欲不振、視力は極端に弱く、頭痛は日に数時間。それでも彼は書き続けた。『善悪の彼岸』(1886)、『道徳の』(1887)、『偶像の黄昏』(1888)、『ヴァグナー事件』(1888)、『反キリスト者』(1888)、『この人を見よ』(1888)。
1888年の一年だけで、5 冊を書いた。
05価値の逆転 ― ハンマーを持って哲学する
ニーチェの思想の中核は、簡単な言葉では掴めない。しかし彼自身が与えた比喩を使うなら、こう言える ― 彼はハンマーで哲学した。偶像を打ち壊すために。
最大の偶像はキリスト教道徳だった。「謙遜」「憐れみ」「平等」「原罪」「来世」。ニーチェの見立てでは、これらはすべて弱者が強者への恨みから作り上げた毒である。強く誇り高く生きる古代ギリシャ・ローマのに対し、ユダヤ=キリスト教はを持ち込んだ。復讐の代わりに許し、勝利の代わりに謙虚、生の代わりに来世。「神」はこの毒の最終兵器である。
しかし問題は、神がすでに死んでいたことだ。「。われわれが殺した」(『悦ばしき知識』125)。近代科学と啓蒙が、信仰の土台を切り崩した。しかし近代人は、神を失ってなお奴隷道徳を引きずっていた。神なき平等、神なき憐れみ、神なき来世(=社会主義のユートピア)。道徳の根が腐っているのに、枝葉だけ残っている状態。
ニーチェはこれをと呼んだ。最高の価値が無価値化する時代。ここで二つの道がある。
一つは諦め。「どうせ無意味だ」と肩を落とす。 もう一つは創造。価値が無ければ、自ら創り出す。(Übermensch)とは、自分の生の価値を自分で立てる者のことだ。その者は永劫回帰に耐えられる ― 同じ人生を無限に繰り返せと言われて、「然り!」と答えられる者。
「然り」と言うこと。生を肯定すること。それがニーチェの究極の問いだった。
06トリノの馬、そして沈黙
1889年1月3日、トリノのカルロ・アルベルト広場。
ニーチェは馬車の御者が馬を鞭打つのを目撃した。突然、彼は馬に駆け寄り、その首を抱きしめて号泣した。「兄弟よ、すまなかった」とつぶやいたと伝えられる(真偽は不明)。警察が彼を連れ帰った。下宿の主人が、友人のオーヴァーベックに電報を打った。「至急来られたし」。
オーヴァーベックがトリノに着くと、ニーチェは別人になっていた。自分をディオニュソス神と名乗り、ビスマルクに宛てた手紙を書き、踊り、歌っていた。ナポリ経由でバーゼルへ、そしてイエナの精神病院へ運ばれた。診断は「進行麻痺」。現代医学では梅毒第三期の脳梅毒、または遺伝性の進行性麻痺と推測される(父の病と同じ可能性)。
44 歳だった。以後、11 年間の沈黙が続く。
母フランツィスカがイエナから彼を引き取り、故郷ナウムブルクで看病した。ニーチェは椅子に座って庭を眺め、時々ピアノを弾いた。まれに微笑み、客の前でおかしそうに笑ったという。思考はもう戻らなかった。
1897年、母が死んだ。看病は妹エリーザベトに移った。彼女はワーグナー崇拝者と結婚して南米にドイツ人純血国家を作ろうとして失敗、夫の自殺後ドイツに戻っていた。兄の遺稿管理を引き受けると、彼女は兄の断片的なメモを編集し、反ユダヤ主義・ドイツ国粋主義の色付けを加えた『』として出版した。兄の真意とは正反対だった。
しかし当時の世界は、歪められたニーチェを受け取った。ドイツの青年将校、ロシアの知識人、アメリカのボヘミアン、すべてが「自分のニーチェ」を作り上げた。ナチスは彼をゲルマン神話の先駆者として利用した(エリーザベトはヒトラーの葬儀に列席している)。
1900年8月25日、ナウムブルクで 55 歳で死去。死因は肺炎。
死の瞬間、彼はほとんど動けず、言葉も発さなかった。最後の 11 年、この男は「然り」と言うことについて、もう何も語れなかった。しかし彼の書物は、以後 100 年にわたり、読むたびに新しい読者を目覚めさせ続ける。
07主要な出来事と著作
- プロイセンの小村レッケンに誕生
- 父カール・ルートヴィヒ、脳の病で死去(5歳)
- シュールプフォルタ卒業、ボン大学入学(神学→古典文献学に転向)
- 24歳、バーゼル大学古典文献学教授に就任。ワーグナーと出会う
- 『悲劇の誕生』刊行 ― アポロン的/ディオニュソス的
- 『人間的、あまりに人間的』。ワーグナーとの訣別
- バーゼル大学辞職、年金生活へ
- シルス=マリアで永劫回帰の思想に触れる
- 『ツァラトゥストラはかく語りき』全四部刊行
- 『善悪の彼岸』刊行
- 『道徳の系譜学』刊行 ― 奴隷道徳の批判
- 一年で5冊を書く ― 『偶像の黄昏』『反キリスト者』『この人を見よ』ほか
- トリノで発狂、以後11年の沈黙
- ナウムブルクにて死去、享年55
残した思想の輪郭
- 神は死んだ ― 近代科学と啓蒙が信仰の土台を切り崩した後の時代診断
- 奴隷道徳への批判 ― キリスト教的「謙遜・憐れみ」は、弱者が強者への恨みから作り上げた価値観
- ニヒリズム ― 最高の価値が無価値化する時代。直面すべきもの、乗り越えるべきもの
- 超人(Übermensch) ― 既成の価値に頼らず、自分の生の価値を自分で立てる者
- 永劫回帰 ― 同じ人生を無限に繰り返すことに「然り」と言えるか、という生の肯定の試金石
- 力への意志 ― 生の根本にある自己超出の衝動
出典と確認メモ
5件- 文脈一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 『善悪の彼岸』(1886)146番の箴言。大学を辞したのち、夏はシルス=マリアの高地、冬はリヴィエラ海岸を往復しながら、頭痛と視力の衰えのなかで書き継がれた一冊に収められる。同じ章句はまず「怪物と戦う...
一次資料を開くJGB §146 ドイツ語原文: 'Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum...
- 抜粋原典で確認済み要旨訳
要旨訳: nietzsche.mdx 本文 PullQuote '深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗く。' (句点付き) は frontmatter pullquote と同一句で、render 用に句点を補...
一次資料を開くJGB §146 後半 'Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch...
- 抜粋原典で確認済み要旨訳
要旨訳: nietzsche.mdx pullquote '深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗く' は『善悪の彼岸 (Jenseits von Gut und Böse)』第4章 警句と間奏 (Sprüche...
一次資料を開くJGB §146 — 'Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeh...
- 出典原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: nietzsche.mdx pullsource '『善悪の彼岸』146' は正確な書誌。Friedrich Nietzsche, Jenseits von Gut und Böse §146 (Le...
一次資料を開くJGB §146 = 第4章 'Sprüche und Zwischenspiele' 中の146番目 aphorism — 'Wer mit Ungeheue...
- 引用原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: quotes.ts nietzsche-2 '人間とは、克服されねばならない何ものかである。君たちは人間を克服するために何をしたか' は『ツァラトゥストラはこう語った』(Also sprach Zar...
一次資料を開くVorrede 第3節 ― 'Ich lehre euch den Übermenschen. Der Mensch ist Etwas, das überwu...
つながり
- カント
反発 — 『善悪の彼岸』(1886)第11節でカントの「綜合判断」の循環論法を揶揄、『道徳の系譜学』(1887)では定言命法を「禁欲的司祭のもっともスペシャルな道具」として分析。カントの物自体・超越論的主観は「バックワールド」の典型として退けられるが、批判の身振りそのものはニーチェに引き継がれる
- ウィトゲンシュタイン
共鳴 — 『論理哲学論考』(1921)末尾「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」は、ニーチェの「神の死」後の哲学の沈黙と響き合う。後期『哲学探究』(1953)の言語ゲーム論は、ニーチェ『道徳外の意味における真理と虚偽』(1873)の「真理とは比喩の軍隊」論と問題系を共有。直接の影響関係ではなく言語批判の並行
- ショーペンハウアー
継承 — 1865年ライプツィヒ古書店で『意志と表象としての世界』を発見して心酔、初期『悲劇の誕生』(1872)はショーペンハウアー的な意志の形而上学とワーグナー美学の合流として書かれる。『反時代的考察』第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」(1874)で師として讃えるが、後期には「否定」から「肯定」へ、厭世から力への意志へと決定的に転回
- ハイデガー
批判的継承 — 1936-40年フライブルク講義『ニーチェ』(1961全二巻として刊行)でニーチェを「西洋形而上学の最後の思想家」として読み、力への意志と永劫回帰を形而上学の完成=主体性の極致と位置づける。克服の道を「存在の思索」に求め、ニーチェを超えて「別の始まり」を探る後期思想の跳躍板に
- ラルフ・ウォルドー・エマソン
先駆 — 17歳でエマソン『エッセイ』のドイツ語訳(ファビオ・フィッシャー訳、1858)を入手して傾倒、書き込みを施した個人蔵書が現存。『ツァラトゥストラ』(1883-85)の「高山の空気」の比喩や『この人を見よ』での自伝的自己肯定には、エマソン『自己信頼』『補償』『英雄主義』の語彙が見える。「私は生涯エマソンに最も多くを負う」との書簡(1881)も残る
- ミシェル・フーコー
継承 — フーコー『ニーチェ、系譜学、歴史』(1971)で『道徳の系譜学』(1887)の歴史記述の方法論を主題化、起源(Ursprung)ではなく由来(Herkunft)・発生(Entstehung)を追跡する系譜学を『監獄の誕生』(1975)『性の歴史』(1976-84)の方法的基礎とする。ニーチェの系譜学を知と権力の歴史的構成の記述へ展開
- ウィリアム・シェイクスピア
先駆 — 『悲劇の誕生』(1872)『この人を見よ』『偶像の黄昏』でシェイクスピア特に『ハムレット』『ジュリアス・シーザー』『マクベス』を繰り返し引用。『ツァラトゥストラ』のブルータス像・『悲劇の誕生』のディオニュソス悲劇論はシェイクスピア悲劇の受容なしには成立しない。ハムレット的懐疑は神の死後のニヒリズムの前史
- フョードル・ドストエフスキー
先駆 — 1887年2月ニース書店でドストエフスキー『地下室の手記』仏語訳を発見、書簡でブランデス・オーフェルベック宛に「血の同類(Blutsverwandten)」と繰り返し書く。『善悪の彼岸』後の遺稿にも『悪霊』『カラマーゾフ』への言及が頻出、特に『カラマーゾフ』イワン「もし神がなければ全てが許される」は『道徳の系譜学』の神の死の前夜として読まれる
- フィンセント・ファン・ゴッホ
共鳴 — ニーチェ(1844-1900)とゴッホ(1853-90)はほぼ同時代人で、両者とも最晩年に精神的病で倒れる(1889年初頭にトリノでニーチェ倒れ、1890年7月ゴッホ自殺)。直接の影響関係はないが、ヤスパース『ストリンドベリとゴッホ』(1922)以降、この二人は「創造と狂気」「苦悩と肯定」の20世紀的範型として並置される
- ルー・アンドレアス=ザロメ
伴走 — 1882年の三位一体の計画と決裂、最初の体系的ニーチェ論を書いた人物
- カレン・ホーナイ
共鳴 — 自己実現と内的分裂の心理学、ルサンチマン論のフロイト批判的受容
- ジークムント・フロイト
先駆 — 『道徳の系譜学』のルサンチマン・良心の解剖がエス/超自我の心理学化を準備
- カール・グスタフ・ユング
先駆 — ディオニュソスと超人のイメージが元型論・個性化の原型、『ツァラトゥストラ』講義は10年に及ぶ
- アルベール・カミュ
継承 — 神の死ののち、ニヒリズムに屈せず「不条理を生きる」ことへ ― 『シーシュポスの神話』はニーチェの永劫回帰を南の太陽のもとで書き直す
- マルティン・ブーバー
対比 — 神の死の後に残る「超人」ではなく「汝」との対話を置く、『我と汝』(1923)はニーチェ的孤独への応答として読める(ブーバー自身、青年期にニーチェに深く傾倒しのちに距離を取った)
- 魯迅
共鳴 — 日本留学中(1902-09)にニーチェを読み、『狂人日記』(1918)『摩羅詩力説』(1907)に「超人」「偶像破壊」の響きが色濃い。ただし中国の文脈では西洋近代の超克というよりは、封建的儒教道徳(「礼教、人を食う」)を告発する武器として再機能化
- ヤスパース
先駆 — ヤスパース『ニーチェ ― その哲学する営みの理解への入門』(1936)は、ニーチェを体系的哲学者としてではなく「真理の限界において哲学する人」として読む解釈を確立した。キルケゴールと並んでニーチェを「例外者」として位置づけ、二人を自らの実存哲学の双極と見なす。ナチ期のニーチェ「党派的占有」への学的反駁としての意味も持ち、戦後ハイデガーの『ニーチェ』講義(1936-40)とは対照的な穏健な解釈として継承された
- ドゥルーズ
継承 — 『ニーチェと哲学』(1962)はフランスにおけるニーチェ解釈の転回点で、永劫回帰を「同じものの回帰」ではなく「差異の肯定的回帰」として読み替え、力への意志を「他の力との関係における差異の生産」として再定式化した。以後『ニーチェ』(1965)、クロソウスキー・フーコーとの1972ロワイヨモン会議企画まで、ニーチェはドゥルーズ哲学の一貫した補助線であり続けた。文献学的なコリ=モンティナーリ版ニーチェ全集(フランス語版ガリマール)の企画にも関与
さらに読むならFurther Reading
ニーチェの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門ツァラトゥストラはこう言った (上)
フリードリヒ・ニーチェ / 訳: 氷上英廣 / 岩波文庫
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竹田青嗣 / ちくま新書
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Friedrich Nietzsche / 訳: Graham Parkes / Oxford World’s Classics
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生きた跡を辿るPlaces
ニーチェが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ニーチェ・ハウス記念館
ジルス・マリア, スイス — Nietzsche-Haus
永劫回帰の着想を得た夏の住居。書斎と散策路がそのまま残る
- ニーチェ文書館 (ヴァイマル)記念館
ヴァイマル, ドイツ — Nietzsche-Archiv
最晩年を過ごした家。遺稿と妹エリーザベトによる編纂の歴史的現場
- レッケン生家 (ニーチェ・ドクメンテーションセンター)生誕
レッケン, ドイツ — Nietzsche-Gedenkstätte Röcken
1844 年に生まれた牧師館。両親と並ぶ墓所も同じ敷地内
さらに辿るならExternal References
ニーチェを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「フリードリヒ・ニーチェ」項
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Friedrich Nietzsche"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Friedrich Nietzsche (1844—1900)"
Project GutenbergEnglishThus Spake Zarathustra(Thomas Common 英訳)— Project Gutenberg
『ツァラトゥストラはかく語りき』英訳
Project GutenbergEnglishBeyond Good and Evil(Helen Zimmern 英訳)— Project Gutenberg
『善悪の彼岸』英訳
Project GutenbergEnglishThe Genealogy of Morals(Horace B. Samuel 英訳)— Project Gutenberg
『道徳の系譜』英訳
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