ドゥルーズ
同じであるより、 差異から考え始められるか?
ヘーゲル弁証法を退けて、差異・反復・生成変化をとおして新しい哲学の平面を描こうとしたパリの哲学史家
- 差異と反復
- リゾーム
- アンチ・オイディプス(ガタリ共著)
- 内在平面
- 生成変化
時代の空気
ドゥルーズの生涯はパリ占領下の少年期から戦後フランス哲学の頂点までを貫いた。1940年6月のドイツ占領下で1943-44年に兄ジョルジュがレジスタンスでゲシュタポに逮捕されブーヘンヴァルト移送中に死亡。戦後コジェーヴのヘーゲル受容とサルトル実存主義が支配し、1960年代にはレヴィ=ストロースの構造主義、ラカンの精神分析、アルチュセールのマルクス主義が拮抗した。1962年アルジェリア独立、1968年5月のパリ五月革命、1969年ヴァンセンヌ大学が森の中の実験校として開校。冷戦下の脱植民地化、1981年ミッテラン政権、1989年ベルリンの壁崩壊を経て、晩年は新自由主義とエイズ禍の時代に重なった。
01パリ17区の少年 ― 戦時下の最初の読書
1925年1月18日、パリ17区で生まれた。父ルイ・ドゥルーズはエンジニアで政治的には保守右派、母オディールはカトリック。兄ジョルジュは4歳年上で、ドゥルーズにとって最初の知的対話相手だった。小学校から高校リセ・カルノ、その後リセ・アンリ4世でバカロレアまでの古典的なパリ・ブルジョワの教育を受けた。
1940年、15歳の彼が知的に目覚めたとき、パリはドイツ占領下だった。ドゥルーズは戦後の回想(「私はなぜ書くか」1990年代のインタビューを含む)で、「占領の屈辱のなかで、はじめて文学を本気で読み始めた」と語る。バルザック、ジッド、ボードレール、そして古代ギリシャ哲学を、ノルマンディー海岸の親族宅への疎開期間に集中的に読んだ。
1941年、兄ジョルジュがレジスタンス運動に加わった。1943年、ジョルジュはゲシュタポに逮捕され、ブーヘンヴァルト強制収容所に移送される途中、列車内で亡くなった。ドゥルーズ自身は戦後も兄ジョルジュについて公に語ることは少なかった。この家族の出来事とその後の彼の思想を一本の線で結ぶことは慎重でありたいが、少数派への視線や国家装置への警戒が彼の仕事の中に繰り返し現れることは、のちに読者が気づく事実である。
1944年バカロレア取得。ソルボンヌで哲学の課程に入る。
02ソルボンヌ ― 哲学史家としての修行
1944-48年、ソルボンヌ大学で哲学を学んだ。戦後直後のソルボンヌの教授陣は、ジャン・イポリット(ヘーゲル『精神現象学』の翻訳者・解釈者)、フェルディナン・アルキエ(デカルト研究者)、ジョルジュ・カンギレム(科学史)、モーリス・ド・ガンディヤック(プロティノス研究者)といった、戦前フランス哲学史の代表的な書き手が揃っていた。
ドゥルーズはコジェーヴのヘーゲル・ルネサンスの波の中で育ちつつも、早くからヘーゲル弁証法への違和感を抱いた。「否定を経由した同一性の回復という弁証法の運動そのものが、差異を従属させる操作ではないか**」という疑問が、学生期の彼のノートに残る(『内在性とは何か』で回想)。
1948年、哲学のアグレガシオン(高等教員資格)を取得。以後15年ほど、リセ(高校)の哲学教師として勤務した ― アミアン、オルレアン、ランス、パリ第13区のリセ・ルイ=ル=グランと勤務地を変えながら、自らの研究を並行させた。この時期の著作はひとりの先行哲学者の論考に徹する形で書かれた。
- 『ヒュームの経験論と主体性 ― 人間本性論試論(Empirisme et subjectivité)』(1953)
- 『ニーチェと哲学(Nietzsche et la philosophie)』(1962)
- 『カントの批判哲学(La philosophie critique de Kant)』(1963)
- 『ベルクソニスム(Le Bergsonisme)』(1966)
- 『スピノザと表現の問題(Spinoza et le problème de l'expression)』(副博士論文、1968)
- 『実践の哲学としてのスピノザ(Spinoza, philosophie pratique)』(1970/改訂1981)
これらは「哲学者ドゥルーズの前史」ではなく、すでに「ドゥルーズ独自の仕事」である ― 彼が繰り返し述べたところでは、「哲学史は単なる学史ではなく、過去の哲学者の体内に赤ん坊を孕ませて、新しい子を産ませる」仕事である。ヒューム論、ニーチェ論、ベルクソン論、スピノザ論のそれぞれが、すでにドゥルーズ哲学の一章として機能している。
03『差異と反復』1968 ― 同一性の前の差異
1968年、リヨン大学で主要博士論文『(Différence et répétition)』、副論文『スピノザと表現の問題』を提出した。主論文はミシェル・フーコー、アレクサンドル・コイレ、フェルディナン・アルキエ、モーリス・ド・ガンディヤック、ジャン・ヴァール、ジャン・イポリットらの前で審査され、42歳で博士号取得。
『差異と反復』は、ドゥルーズの体系的主著である。彼はここで、西洋哲学の長い伝統の中にある前提の転倒を試みる ― すなわち、同一性が先にあり、それとの差で「差異」が派生するという伝統的図式(プラトンのイデア、アリストテレスの類と種、ヘーゲルの絶対精神)を、差異こそが先に存在し、「同じものの反復」こそが二次的な効果であるという図式で置き換える。
差異は、同一性の否定としての「〜ではない」ではなく、それ自体で肯定される「〜である」として捉えられる。この積極的な差異を思考する先行者として、ドゥルーズはニーチェ(永劫回帰=差異の肯定的回帰)、ベルクソン(純粋持続=差異のうちの質的変化)、スピノザ(実体の属性=唯一の実体の差異的な表現)を引く。
反復は、同じものの機械的な繰り返しではなく、差異の反復、すなわち「差異を二重化し、差異そのものを生み出す運動」として理解される。キルケゴールとニーチェの反復論が、ここで融合する。
本書は難解である。しかし同時代のフーコーが読み終えて「この世紀はドゥルーズのものとなる」と評した言葉(『哲学の劇場』1970)で、広く知られる。後年ドゥルーズ本人は、この評言を「友人の優しい冗談だ」と笑って否定した。
041969年フェリックス・ガタリとの出会い、『アンチ・オイディプス』1972
1968年5月のパリ五月革命は、ドゥルーズを直接街頭活動へ引き込みはしなかった(彼は当時リヨンの大学職にあり、肺疾患も抱えていた)。しかし思想的な衝撃は深く、「新たな政治的思考が必要だ」という認識を強めた。
1969年夏、フェリックス・ガタリ(1930-92、精神分析家にしてラ・ボルド精神病院の共同運営者、マルクス主義と精神分析を横断する政治活動家)と知り合った。ガタリはラカンの弟子でありながら、ラカンのエディプス中心の精神分析に深い異議を抱いていた。二人は何時間もの対話を重ね、「四つの手で書く」ことを始めた。
1972年、『 ― 資本主義と分裂症(L'Anti-Œdipe)』が刊行された。副題は二人の協働の設計図で、フロイト・ラカンの精神分析を「家族三角形」に閉じ込める装置として批判し、代わりに(machine désirante)、欲望の生産という概念を提示する。欲望は欠如ではなく、社会的生産そのものと同じ地平で働く力である。資本主義は、欲望の流れを捕らえ、コード化し、再領土化する独自の装置として分析される。
本書は即座に大論争を引き起こした。精神分析家サークルから猛烈な批判を受け、同時に若い活動家・芸術家・精神科医からの熱狂的な支持を得た。仏語圏の1970年代思想の一つの中心点となる。
1975年には『カフカ ― のために(Kafka, pour une littérature mineure)』を共著、「マイナー文学(littérature mineure)」の概念(支配的言語の内部からをはかる少数者の文学)を提示し、プラハのユダヤ人ドイツ語作家カフカを新たな解釈枠に置いた。
051980年『千のプラトー』 ― リゾーム、内在平面
1980年、ガタリとの第二の大著『 ― 資本主義と分裂症 第2巻(Mille plateaux)』を刊行。600ページを超える大作で、15の独立したプラトー(比較的平坦な論述の台地)から構成される。各プラトーは独立に読めるが、全体として一つの(plan d'immanence)を描く。
本書の核心概念は以下である。
- (rhizome) ― 根茎、地下茎。樹木状の階層的秩序(根・幹・枝)ではなく、どの点からでも他のどの点にもつながる網状の組織。哲学、文学、政治運動、生物学のモデルとして導入された。
- 脱領土化(déterritorialisation)と再領土化(reterritorialisation) ― 既存の意味・秩序の枠(領土)から抜け出す運動と、新しい枠に収まり直す運動。資本主義は、脱領土化を最大限に推進しつつ、それを貨幣・抽象労働という新しい領土で再取得する、独自の両義的装置。
- (devenir) ― 「AはBである」ではなく、「AはBに成る」の哲学。動物になる、女性になる、少数派になる、分子になる、知覚不可能になる。固定した同一性からの、関係の質的変化への移行。
- (machine de guerre) ― 国家装置に対抗する遊牧民的組織の原理。国家が空間を線条化(strié)するのに対し、戦争機械は平滑空間(espace lisse)で働く。
本書は体系書ではなく、ガタリ自身が「構成のオープンさを実践する本」と呼んだ。読者はどの章から入ってもよく、時間的線形読解を強制しない形で書かれており、本のかたちそのものをリゾーム論の一つの試作とみる読みもある。
06単著の継続 ― 映画、ベーコン、ライプニッツ、フーコー
ガタリとの協働と並行して、ドゥルーズは単著での哲学史・芸術論を書き続けた。
- 『感覚の論理 ― フランシス・ベーコン論(Francis Bacon, Logique de la sensation)』(1981) ― ベーコンの絵画における「形象(figure)」の哲学。
- 『シネマ1 ― 運動イメージ(Cinéma 1: L'Image-mouvement)』(1983) / 『シネマ2 ― 時間イメージ(Cinéma 2: L'Image-temps)』(1985) ― ベルクソンを下敷きにした映画哲学の二巻。チャップリン、グリフィス、ヒッチコック、オーソン・ウェルズ、ロッセリーニ、アントニオーニ、ゴダール、小津安二郎、溝口健二を論じた。映画を単に「作品集」ではなく、時間と運動の哲学を考えるための装置として読む書き方で、以後の映画研究で広く参照されるようになった。
- 『フーコー(Foucault)』(1986) ― 親友フーコー(1984年6月没)への追悼としての知性的肖像。
- 『襞 ― ライプニッツとバロック(Le Pli: Leibniz et le baroque)』(1988) ― ライプニッツのモナドロジーを「襞(pli)の哲学」として読み、バロック芸術の構造原理と結ぶ。
- 『批評と臨床(Critique et clinique)』(1993) ― 文学(メルヴィル、ロレンス、カフカ、カロル、キャザー)を症候の観点で読む晩年のエッセイ集。
1991年、ガタリとの最後の共著『哲学とは何か(Qu'est-ce que la philosophie?)』を刊行した。本書で彼らは、哲学・科学・芸術を三つの異なる思考の様態として区別する ― 哲学は概念(concept)を創造する営み、科学は関数(fonction)を創る営み、芸術は感覚の合成体(composé de sensations)を創る営み。それぞれが内在平面の上で固有の仕方で働く。ガタリは翌1992年心臓発作で没した。
07ヴァンセンヌからパリ第8、晩年のパリ
1969年から1987年まで、ドゥルーズはヴァンセンヌ大学(のちに移転してパリ第8大学)で教えた。ヴァンセンヌは1968年革命後に、主流大学への対抗校として森の中の仮設校舎で始まった実験的大学で、フーコー、ミシェル・セール、シクスー、ジャン=フランソワ・リオタール、アラン・バディウらが教えた。
ドゥルーズの講義は伝説的であった。毎週火曜午前、広い教室は学生だけでなく、哲学者・芸術家・活動家で溢れた。彼は長い机の端に座り、両手を机上に平行に置き(肺疾患のため身体を無駄に動かすことを避ける姿勢)、2時間、考えながら考えていく即興的な言葉を紡いだ。録音テープが出回り、後に『ドゥルーズ講義録』(2006-)として編集される。
1980年代末、肺疾患が悪化した。1987年、一度目の重い発作で片肺摘出を余儀なくされ、1990年代に入って酸素吸入器に常時依存するようになる。書くこと、話すこと、そして呼吸することが同時に困難になった。1993年『批評と臨床』を刊行した後は、新作の執筆は止まった。
1995年11月4日、パリ17区の自宅で70歳で亡くなった。遺体はリムーザン地方サン=レオナール=ド=ノブラ(妻ファニーの家の墓地)に埋葬された。死をめぐる彼の選択については、近しかった友人たちが複数の読みを残している。どの読みも、一つの答えに結ばないままここでは記す。
08主要な出来事と著作
- パリ17区に誕生
- 兄ジョルジュがレジスタンス活動、ゲシュタポに逮捕され移送中に死亡
- ソルボンヌで哲学、イポリット・アルキエ・カンギレムらに学ぶ
- アグレガシオン取得、以後15年リセ教師
- 『ヒュームの経験論と主体性』初の単著
- 『ニーチェと哲学』フランス・ニーチェ受容の転回点
- 『ベルクソニスム』
- 主論文『差異と反復』、副論文『スピノザと表現の問題』で博士号
- フェリックス・ガタリと出会う、ヴァンセンヌ大学に着任
- ガタリと共著『アンチ・オイディプス ― 資本主義と分裂症』
- ガタリと共著『カフカ ― マイナー文学のために』
- クレール・パルネと『対話(ディアローグ)』
- ガタリと共著『千のプラトー』― リゾーム、内在平面
- 『感覚の論理 ― フランシス・ベーコン論』、『実践の哲学としてのスピノザ』改訂版
- 『シネマ1/2』映画哲学二巻
- フーコー没後に『フーコー』刊行
- パリ第8大学退職、片肺摘出
- 『襞 ― ライプニッツとバロック』
- ガタリと最後の共著『哲学とは何か』
- ガタリ死去
- 『批評と臨床』
- パリの自宅で死去、70歳
残した思想の輪郭(★印はガタリとの共著由来の概念)
- 差異の哲学 ― 同一性の前に差異を置く、ヘーゲル弁証法の否定の運動を退けた肯定の思考
- 反復 ― 同じものの機械的繰り返しではなく、差異を再生産する差異の運動
- 内在平面★(plan d'immanence) ― 超越的審級をもたない、概念と実在が同じ地平に並び立つ場
- リゾーム★ ― 樹木ではなく根茎状の、どこからでも接続可能な開かれた網状組織
- 生成変化★(devenir) ― 動物・女性・少数派・分子への生成、固定した同一性からの脱出
- 欲望機械/欲望の生産★ ― 欲望は欠如ではなく社会的生産、精神分析の家族三角形への批判
- 脱領土化/再領土化★ ― 秩序の枠からの離脱と新秩序への再取得、資本主義の両義性分析
- マイナー文学★ ― 支配的言語の内部から脱領土化する少数者の文学、カフカ読解の新しい鍵
- 戦争機械★ ― 国家装置が線条化した空間に対抗して平滑空間で働く、遊牧民的組織の原理
- 映画の時間イメージ ― ベルクソンの持続論を映画史に重ねる戦後映画哲学の原点
- 概念の創造としての哲学★ ― 哲学・科学・芸術の三区別、それぞれが独自の創造の様態
出典と確認メモ
4件- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: ガタリとの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』の間(1977)、教え子で編集者のクレール・パルネとヴァンセンヌ大学の夏の合間に交わした対話集の導入部を、編者が主旨として平語に置き直したもの。直訳で...
一次資料を開くFlammarion 1977 第 1 版 177 頁。Anti-Œdipe (1972) と Mille Plateaux (1980) の間期執筆。Vinc...
- 出典二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 『対話(ディアローグ)』クレール・パルネとの対談(1977)序文の趣旨(大意)
一次資料を開くBnF カタログで Flammarion 1977 初版を書誌確認。序章 'Un entretien, qu'est-ce que c'est?' = pref...
- 引用二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 重要なのは、考えることが楽しい営みだということを取り戻すことである。そして、考えることはいつでも、すでに誰かと、あるいは何かと、一緒に行われている
一次資料を開く序章 'Un entretien, qu'est-ce que c'est?' (前半数頁)。'Je est un autre' (Rimbaud) を引きつつ...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 恐れることも希望することもない。ただ新しい武器を探さねばならない
一次資料を開くSection 1「Historique」末尾。原文 « Il n'y a pas lieu de craindre ou d'espérer, mais de...
つながり
- ヘーゲル
反発 — ドゥルーズは生涯を通じてヘーゲル弁証法を「否定を媒介とする同一性の回復」として退けた。『ニーチェと哲学』(1962)では「ニーチェの仕事は反ヘーゲル主義である」と冒頭で宣言、『差異と反復』(1968)序論はヘーゲルの否定性をベルクソンの差異論・ニーチェの差異論・スピノザの表現論で置き換える試みとして構想された。フランス思想におけるコジェーヴ系ヘーゲル・ルネサンスに対する最も体系的な離脱
- ニーチェ
継承 — 『ニーチェと哲学』(1962)はフランスにおけるニーチェ解釈の転回点で、永劫回帰を「同じものの回帰」ではなく「差異の肯定的回帰」として読み替え、力への意志を「他の力との関係における差異の生産」として再定式化した。以後『ニーチェ』(1965)、クロソウスキー・フーコーとの1972ロワイヨモン会議企画まで、ニーチェはドゥルーズ哲学の一貫した補助線であり続けた。文献学的なコリ=モンティナーリ版ニーチェ全集(フランス語版ガリマール)の企画にも関与
- スピノザ
継承 — 主要博士論文『スピノザと表現の問題』(1968、ミニュイ社)と後年の普及版『スピノザ ― 実践の哲学』(1970/81)で、スピノザを「内在の哲学者」として再発見、『エチカ』の属性・様態を「表現」概念で読み解いた。ドゥルーズ自身が「私が『哲学者の哲学者』と呼ぶ者があるとしたらスピノザだ」と語るほどの主参照系で、後の『千のプラトー』(ガタリ共著、1980)の「内在平面」概念の源泉をなす
- ミシェル・フーコー
伴走 — 1962年出会って以来の親友であり、1970年代には共同で監獄情報グループ(GIP)を運営し、書簡・対談・相互批評を重ねた。フーコー『知の意志』(1976)後の沈黙期に、ドゥルーズはフーコーへ私信的批評「欲望と快楽」(1977執筆、没後1994公刊)を送り、両者の理論的立場の微妙な差(権力/欲望)を刻む。フーコー死後の1986年、ドゥルーズは追悼の書『フーコー』を上梓、「私にとってフーコーは、最高の意味での同時代人であり続けた」と記す
さらに読むならFurther Reading
ドゥルーズの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門差異と反復(上・下)
ジル・ドゥルーズ / 訳: 財津理 / 河出文庫
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宇野邦一 / 講談社学術文庫
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生きた跡を辿るPlaces
ドゥルーズが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- サン=レオナール=ド=ノブラ墓地墓所
サン=レオナール=ド=ノブラ(オート=ヴィエンヌ県), フランス
1995年没。妻ファニーの別荘があり夏を過ごした村の墓地。グランジュアン=ルヴェック家の墓所に眠る
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
ドゥルーズを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ジル・ドゥルーズ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Gilles Deleuze"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Gilles Deleuze"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Gilles Deleuze (1925–1995)"
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