本文へスキップ
φPhiloGlyph
G

ドゥルーズ

Gilles Deleuze·1925–1995·フランス·

「同じ」より先に、 「ちがい」から考え始めることはできるか?

ヘーゲル弁証法を退けて、差異・反復・生成変化をとおして新しい哲学の平面を描こうとしたパリの哲学史家

  • 差異と反復
  • リゾーム
  • アンチ・オイディプス(ガタリ共著)
  • 内在平面
  • 生成変化
占領の屈辱のなかで本を読み始めた少年が、五月革命の熱の中で哲学そのものを書き換えようとした時代 — ひらく

時代の空気

ドゥルーズの生涯はパリ占領下の少年期から戦後フランス哲学の頂点までを貫いた。1940年6月のドイツ占領下で1943-44年に兄ジョルジュがレジスタンスでゲシュタポに逮捕されブーヘンヴァルト移送中に死亡。戦後コジェーヴのヘーゲル受容とサルトル実存主義が支配し、1960年代にはレヴィ=ストロースの構造主義、ラカンの精神分析、アルチュセールのマルクス主義が拮抗した。1962年アルジェリア独立、1968年5月のパリ五月革命、1969年ヴァンセンヌ大学が森の中の実験校として開校。冷戦下の脱植民地化、1981年ミッテラン政権、1989年ベルリンの壁崩壊を経て、晩年は新自由主義とエイズ禍の時代に重なった。

011995年11月4日、パリ17区

1995年11月4日、パリ17区の自宅。ジル・ドゥルーズは70歳だった。肺の病が、末期に来ていた。息を吸うにも、酸素吸入器さんそきゅうにゅうきが要る体だった。

書くこと、話すこと、そして呼吸すること。この三つが、いちどきに難しくなっていた。1993年に最後の本を出してから、新しい原稿は止まっていた。

その日、彼は自宅から身を投げた。生涯を、自分の手で閉じた。

彼は「肯定こうてい」の哲学を書いた人だった。「〜ではない」から始めない。「〜である」と言い切る思考を、半世紀にわたって書き続けた。その人が、なぜ、この終わり方を選んだのか。

近しかった友人たちは、複数の読みを残している。一つの答えには結ばれない。ここでも、結ばないまま置いておく。

時は55年前に戻る。ドイツ軍に占領された、1940年のパリへ。

02占領下のパリ、兄の乗った列車

1940年6月、ドイツ軍がパリに入った。ドゥルーズは15歳だった。1925年にこの17区で生まれ、父は技師、母はカトリックの信者だった。4歳上の兄ジョルジュが、最初の「話し相手」だった。

彼はのちに語る。「占領の屈辱くつじょくのなかで、はじめて文学を本気で読み始めた」。バルザック、ジッド、ボードレール。そして古代ギリシャの哲学。ノルマンディーの海辺にある親族の家に疎開そかいし、そこで集中して読んだ。

1941年、兄ジョルジュがレジスタンス(占領への抵抗運動)に加わった。1943年、ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)に捕まる。ブーヘンヴァルト強制収容所へ送られる列車の中で、兄は亡くなった。

ドゥルーズは戦後も、兄のことをほとんど公に語らなかった。この出来事と彼の思想を、一本の線で結ぶのは慎重でありたい。ただ、少数派への目、国家という装置への警戒。それが彼の仕事に何度も現れることは、のちに読者が気づく。

1944年、バカロレア(大学入学資格)を取る。少年はソルボンヌ大学の哲学科へ向かった。そこで待っていたのは、当時のフランス思想を支配していた一人のドイツ哲学者の影だった。

03ソルボンヌの教室、そして高校教師の15年

1944年から48年、ソルボンヌで哲学を学ぶ。教授陣は豪華だった。ジャン・イポリットは、ヘーゲルの『』をフランス語に訳した人。フェルディナン・アルキエはデカルトの研究者。ジョルジュ・カンギレムは科学の歴史家。モーリス・ド・ガンディヤックは古代のプロティノスを読む人だった。

戦後のパリでは、ヘーゲルが流行の中心にいた。ヘーゲルの考え方の中心は弁証法べんしょうほうである。ある考えを、いちど否定する。その否定をくぐって、もう一段高い「同じもの」に戻ってくる。そういう運動の理論だ。

若いドゥルーズは、このに早くから違和感を抱いた。学生時代のノートに、こんな疑問が残る。「否定を経由した同一性の回復という弁証法の運動そのものが、差異を従属させる操作ではないか」(のちに『内在性とは何か』で回想)。「同じもの」に戻るために、「ちがい」が下働きをさせられていないか、という問いである。

1948年、23歳で哲学の(高等教員資格)に合格した。それから15年ほど、高校(リセ)の哲学教師として働く。アミアン、オルレアン、ランス、そしてパリのリセ・ルイ=ル=グラン。勤め先を変えながら、自分の研究を続けた。

この時期の本は、一人の先人だけを相手に書かれた。ヒュームの『』を読む『ヒュームの経験論と主体性』(1953)。『ニーチェと哲学』(1962)。カントのを扱う『カントの批判哲学』(1963)。『ベルクソニスム』(1966)。そしてスピノザ論。

彼はこれらを「前史」だとは考えなかった。「哲学史は単なる学史ではなく、過去の哲学者の体内に赤ん坊を孕ませて、新しい子を産ませる」仕事だと、繰り返し語った。ヒューム論もニーチェ論も、すでに彼自身の哲学の一章だった。では、その「自分の哲学」は、いつ一冊にまとまるのか。

041968年、『差異と反復』

1968年、リヨン大学。ドゥルーズは博士論文を提出した。主論文『』と、副論文ふくろんぶん『スピノザと表現の問題』。審査の席には、恩師のアルキエやガンディヤックらが並んだ。こうして博士になった。

『差異と反復』は、彼の考えを一冊にまとめた主著である。ここで彼は、西洋哲学の長い前提を裏返そうとした。

ふつう、私たちはこう考える。まず「同じもの」がある。そこからのずれとして「ちがい」が生まれる。プラトンのイデア(ものの本当の形)、アリストテレスの類と種、ヘーゲルの。どれも「同じもの」を先に置く考え方だ。

ドゥルーズはこれを逆にする。先にあるのは「ちがい」だ。「同じものの繰り返し」は、あとから生まれる効果にすぎない。ちがいは「〜ではない」という否定ではない。それ自体で「〜である」と言えるものだ、と。

味方として、三人の先人を呼ぶ。ニーチェの永劫回帰えいごうかいき。ベルクソンの純粋持続。スピノザのと。それぞれが「ちがい」を肯定して考えた先人だと、彼は読んだ。

「反復(くりかえし)」も、機械のように同じことをなぞることではない。ちがいを生み出す運動として、繰り返しを読み直した。

本は難しかった。だが友人フーコーが読み終えて、こう書いた。「この世紀はドゥルーズのものとなる」(『哲学の劇場』1970)。この一言で本は広く知られる。ドゥルーズ本人は「友人の優しい冗談だ」と笑って否定した。

同じ1968年の5月、パリの街は学生たちの声で揺れていた。

05五月革命のあと ― フェリックス・ガタリと「四つの手」

1968年5月のパリ。ドゥルーズは街頭には出なかった。当時はリヨンの大学に勤め、肺の病も抱えていた。だが受けた衝撃は深く、「新しい政治の考え方が要る」という思いを強くした。

1969年、に着任する。パリ郊外の森の中に、仮設の校舎で始まった実験の大学だ。同じ年の夏、と出会う。ガタリは家で、ラ・ボルド精神病院を共同で運営していた。マルクス主義と精神分析の両方に足を置く、政治活動家でもあった。

ガタリは、精神分析の大御所の弟子だった。だが、ラカンの「エディプス(親と子の三角形)中心」の考えに、深い疑いを持っていた。二人は何時間も話し込み、「四つの手で書く」ことを始めた。

重要なのは、考えることが楽しい営みだということを取り戻すことである。そして、考えることはいつでも、すでに誰かと、あるいは何かと、一緒に行われている

— 1977年、クレール・パルネとの対談『対話(ディアローグ)』序文の趣旨(大意)。ガタリとの共同執筆が軌道に乗っていた時期の言葉

1972年、『 ― 資本主義と分裂症』が出た。フロイトとラカンの精神分析を、二人は批判する。人の欲望を「家族の三角形」に閉じ込める装置だ、と。代わりに置いたのが「」という言葉だった。欲望は「足りないもの」ではない。社会を動かす生産の力そのものだ、と。

本はすぐに大論争を呼んだ。精神分析家たちは猛烈に批判した。若い活動家、芸術家、精神科医は熱狂して支持した。1970年代フランス思想の、一つの中心になる。

1975年には『カフカ ― のために』を共著した。マイナー文学とは、支配的な言語の内側から、少数者が抜け出そうとする文学のこと。プラハでドイツ語を書いたユダヤ人作家カフカを、新しい枠で読み直した。

二人の共作は、まだ終わらない。次の本は、読む順番さえ読者に任せる、奇妙な形をとることになる。

06火曜午前の教室、そして『千のプラトー』

ヴァンセンヌ大学での講義は、伝説になった。毎週火曜の午前。広い教室に、学生だけでなく哲学者、芸術家、活動家が詰めかけた。同じ大学には、フーコー、ミシェル・セール、シクスー、リオタール、バディウらも教えていた。

彼は長い机の端に座る。両手を机の上に平行に置く。肺の病のため、体を無駄に動かさないための姿勢だった。そのまま2時間、考えながら考えていく即興そっきょうの言葉を紡いだ。録音テープが出回り、のちに『ドゥルーズ講義録』(2006-)として編まれた。

1980年、ガタリとの第二の大著『 ― 資本主義と分裂症 第2巻』が出た。600ページを超える。15の「プラトー(高原のような、平らな台地)」からなり、どの章からでも読める。全体で一つのを描く。上から見下ろす神のような視点を置かず、すべてが同じ高さに並ぶ場のことだ。

本の中心には、いくつかの新しい言葉がある。

は「根茎こんけい」、つまり地下の茎のこと。根・幹・枝と上下に分かれる木ではない。どの点からでも別のどの点にもつながる、網のような組織だ。哲学にも文学にも政治運動にも当てはまる形として持ち込まれた。

(だつりょうどか)と再領土化。いまある意味や秩序の枠から抜け出す動きと、新しい枠に収まり直す動きのことだ。

(devenir)は、「AはBである」ではなく「AはBに成る」の哲学。動物になる、女性になる、少数派になる。固定した「私は私だ」から、関係の変化へ。

は、国家という装置に対抗する、遊牧民のような組織の原理のこと。

ガタリはこれを「構成のオープンさを実践する本」と呼んだ。読者はどこから入ってもいい。本の形そのものが、リゾームの試作品だという読みもある。

二人で書く合間に、ドゥルーズは一人でも書き続けていた。相手は哲学者だけではなかった。

07一人で書く ― 映画、絵、そして呼吸

1981年、『感覚の論理 ― フランシス・ベーコン論』。画家ベーコンの絵にある「形象(フィギュール)」を考えた。

1983年と85年、『シネマ1 ― 運動イメージ』『シネマ2 ― 時間イメージ』。ベルクソンを土台にした、映画の哲学だ。チャップリン、ヒッチコック、オーソン・ウェルズ、ゴダール、小津安二郎、溝口健二。映画を、時間と運動を考えるための装置として読んだ。

1984年6月、親友フーコーが亡くなった。1986年、追悼の書『フーコー』を出す。1988年には『襞ひだ ― ライプニッツとバロック』。ライプニッツの(世界は無数の小さな単位からなる、という考え)を「襞の哲学」として読んだ。そしてバロック芸術と結んだ。

その間に、体は限界に近づいていた。1987年、ヴァンセンヌから移ったパリ第8大学を退職する。同じ年、重い発作で片方の肺を摘出てきしゅつした。

1991年、ガタリとの最後の共著『哲学とは何か』。哲学は概念(コンセプト)を創る営み、科学は関数を創る営み、芸術は感覚の合成体を創る営み。三つを分けて描いた。翌1992年、ガタリが心臓発作で亡くなった。

その少し前、1990年。彼は短い文章に、こんな言葉を書いていた。

恐れることも希望することもない。ただ新しい武器を探さねばならない

— 1990年、『記号と事件(Pourparlers)』所収「追伸 ― 管理社会について」より。片肺摘出の3年後、ガタリの死の2年前

1993年、『批評と臨床』。メルヴィル、ロレンス、カフカを、病の症状を診るように読むエッセイ集だった。これが最後の本になる。酸素吸入器に常時頼る体になり、書くこと、話すこと、呼吸することが同時に難しくなっていた。

08思想の骨格 ― 差異の哲学、内在平面、概念の創造

『差異と反復』は、ドゥルーズの体系的主著である。彼はここで、西洋哲学の長い伝統の中にある前提の転倒を試みる ― すなわち、同一性が先にあり、それとの差で「差異」が派生するという伝統的図式(プラトンのイデア、アリストテレスの類と種、ヘーゲルの絶対精神)を、差異こそが先に存在し、「同じものの反復」こそが二次的な効果であるという図式で置き換える。

差異は、同一性の否定としての「〜ではない」ではなく、それ自体で肯定される「〜である」として捉えられる。この積極的な差異を思考する先行者として、ドゥルーズはニーチェ(=差異の肯定的回帰)、ベルクソン(純粋持続=差異のうちの質的変化)、スピノザ(実体の属性=唯一の実体の差異的な表現)を引く。

反復は、同じものの機械的な繰り返しではなく、差異の反復、すなわち「差異を二重化し、差異そのものを生み出す運動」として理解される。キルケゴールとニーチェの反復論が、ここで融合する。

『アンチ・オイディプス』の副題「資本主義と分裂症」は二人の協働の設計図で、フロイト・ラカンの精神分析を「家族三角形」に閉じ込める装置として批判し、代わりに欲望機械(machine désirante)、欲望の生産という概念を提示する。欲望は欠如ではなく、社会的生産そのものと同じ地平で働く力である。資本主義は、欲望の流れを捕らえ、コード化し、再領土化する独自の装置として分析される。『カフカ ― マイナー文学のために』の「マイナー文学(littérature mineure)」は、支配的言語の内部から脱領土化をはかる少数者の文学の概念である。

『千のプラトー』は15の独立したプラトー(比較的平坦な論述の台地)から構成され、各プラトーは独立に読めるが、全体として一つの内在平面(plan d'immanence)を描く。核心概念は以下である。

  • リゾーム(rhizome) ― 根茎、地下茎。樹木状の階層的秩序かいそうてきちつじょ(根・幹・枝)ではなく、どの点からでも他のどの点にもつながる網状の組織。哲学、文学、政治運動、生物学のモデルとして導入された。
  • 脱領土化(déterritorialisation)と再領土化(reterritorialisation) ― 既存の意味・秩序の枠(領土)から抜け出す運動と、新しい枠に収まり直す運動。資本主義は、脱領土化を最大限に推進しつつ、それを貨幣・抽象労働という新しい領土で再取得する、独自の両義的りょうぎてき装置。
  • 生成変化(devenir) ― 「AはBである」ではなく、「AはBに成る」の哲学。動物になる、女性になる、少数派になる、分子になる、知覚不可能になる。固定した同一性からの、関係の質的変化への移行。
  • 戦争機械(machine de guerre) ― 国家装置に対抗する遊牧民的組織の原理。国家が空間を線条化せんじょうか(strié)するのに対し、戦争機械は平滑空間へいかつくうかん(espace lisse)で働く。

本書は体系書ではなく、読者はどの章から入ってもよく、時間的線形読解を強制しない形で書かれており、本のかたちそのものをリゾーム論の一つの試作とみる読みもある。

『シネマ1/2』は、映画を単に「作品集」ではなく、時間と運動の哲学を考えるための装置として読む書き方で、以後の映画研究で広く参照されるようになった。『襞』は、ライプニッツのモナドロジーを「襞(pli)の哲学」として読み、バロック芸術の構造原理と結ぶ。

『哲学とは何か』で二人は、哲学・科学・芸術を三つの異なる思考の様態として区別する ― 哲学は概念(concept)を創造する営み、科学は関数(fonction)を創る営み、芸術は感覚の合成体(composé de sensations)を創る営み。それぞれが内在平面の上で固有の仕方で働く。

09ふたたび、1995年11月4日

ここで、冒頭の日に戻る。1995年11月4日、パリ17区。

彼は生涯、「〜ではない」から始めない思考を書いた。ちがいを肯定し、「成る」ことを肯定した。そして、考えることはいつも誰かと、何かと一緒に行われている、と書いた。火曜の教室で両手を机に置いた姿勢も、ガタリとの「四つの手」も、その実践だった。

呼吸と、話すことと、書くこと。彼にとって、それは考えることそのものではなかったか。その三つが、同時に奪われていった。「恐れることも希望することもない」と書いた人は、そのとき何を「新しい武器」と考えたのか。

近しい友人たちの読みは、一つに結ばれない。私たちも、結ばないままにしておく。

遺体は、リムーザン地方サン=レオナール=ド=ノブラの、妻ファニーの家の墓地に埋葬まいそうされた。

「同じ」より先に、「ちがい」から考え始める。彼はそう書いた。あなたが今日、誰かと、あるいは何かと一緒に考え始めるとしたら。その始まりに置くのは「同じ」だろうか、「ちがい」だろうか。

10主要な出来事と著作

  1. パリ17区に誕生
  2. 兄ジョルジュがレジスタンス活動、ゲシュタポに逮捕され移送中に死亡
  3. ソルボンヌで哲学、イポリット・アルキエ・カンギレムらに学ぶ
  4. アグレガシオン取得、以後15年リセ教師
  5. 『ヒュームの経験論と主体性』初の単著
  6. 『ニーチェと哲学』フランス・ニーチェ受容の転回点
  7. 『ベルクソニスム』
  8. 主論文『差異と反復』、副論文『スピノザと表現の問題』で博士号
  9. フェリックス・ガタリと出会う、ヴァンセンヌ大学に着任
  10. ガタリと共著『アンチ・オイディプス ― 資本主義と分裂症』
  11. ガタリと共著『カフカ ― マイナー文学のために』
  12. クレール・パルネと『対話(ディアローグ)』
  13. ガタリと共著『千のプラトー』― リゾーム、内在平面
  14. 『感覚の論理 ― フランシス・ベーコン論』、『実践の哲学としてのスピノザ』改訂版
  15. 『シネマ1/2』映画哲学二巻
  16. フーコー没後に『フーコー』刊行
  17. パリ第8大学退職、片肺摘出
  18. 『襞 ― ライプニッツとバロック』
  19. ガタリと最後の共著『哲学とは何か』
  20. ガタリ死去
  21. 『批評と臨床』
  22. パリの自宅で死去、70歳

残した思想の輪郭(★印はガタリとの共著由来の概念)

  • 差異の哲学 ― 同一性の前に差異を置く、ヘーゲル弁証法の否定の運動を退けた肯定の思考
  • 反復 ― 同じものの機械的繰り返しではなく、差異を再生産する差異の運動
  • 内在平面★(plan d'immanence) ― 超越的審級をもたない、概念と実在が同じ地平に並び立つ場
  • リゾーム★ ― 樹木ではなく根茎状の、どこからでも接続可能な開かれた網状組織
  • 生成変化★(devenir) ― 動物・女性・少数派・分子への生成、固定した同一性からの脱出
  • 欲望機械/欲望の生産★ ― 欲望は欠如ではなく社会的生産、精神分析の家族三角形への批判
  • 脱領土化/再領土化★ ― 秩序の枠からの離脱と新秩序への再取得、資本主義の両義性分析
  • マイナー文学★ ― 支配的言語の内部から脱領土化する少数者の文学、カフカ読解の新しい鍵
  • 戦争機械★ ― 国家装置が線条化した空間に対抗して平滑空間で働く、遊牧民的組織の原理
  • 映画の時間イメージ ― ベルクソンの持続論を映画史に重ねる戦後映画哲学の原点
  • 概念の創造としての哲学★ ― 哲学・科学・芸術の三区別、それぞれが独自の創造の様態
1995年11月4日、パリの自宅で70歳で没した。1968年頃からの肺疾患が末期に至り、晩年は酸素吸入に依存して執筆が困難になっていた。遺体はリムーザン地方サン=レオナール=ド=ノブラ(妻ファニーの家の墓地)に埋葬された。

つながり

全体のつながりを見る →

さらに読むならFurther Reading

ドゥルーズの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。

生きた跡を辿るPlaces

ドゥルーズが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • サン=レオナール=ド=ノブラ墓地墓所

    サン=レオナール=ド=ノブラ(オート=ヴィエンヌ県), フランス

    1995年没。妻ファニーの別荘があり夏を過ごした村の墓地。グランジュアン=ルヴェック家の墓所に眠る

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

ドゥルーズを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。