ラルフ・ウォルドー・エマソン
借りものの言葉で、 人は本当に生きられるのか?
自己信頼を掲げ、アメリカの精神的独立を説いた超絶主義の中心人物
- 自己信頼
- 超越論
- 自然
独立から半世紀。若い国はまだ、古い教会と旧大陸の学問に頭を下げていた — ひらく
時代の空気
19世紀前半のアメリカは独立からまだ半世紀。ニューイングランドではユニテリアン教会の説教が古い権威として残り、若い知識人は旧大陸の学問への従属に息苦しさを感じていた。鉄道網と印刷文化が広がり、コンコードを中心にライシウム(巡回講演)が庶民の娯楽と啓蒙の場として全米を結んだ。1850年の逃亡奴隷法を境に奴隷制をめぐる対立が深まり、1859年のジョン・ブラウン蜂起で世論は二分された。
01開かれた棺
1832年3月29日。ラルフ・ウォルドー・エマソンは、亡き妻エレンの棺を開けさせた。そして、その中を自分の目で見た。彼は日記にそう書き残している(真偽は本人の日記の記述に基づく)。
エレンが死んだのは、1年あまり前のことだった。結婚から、まだ1年4か月ほどしかたっていなかった。それからエマソンは、毎朝彼女の墓を訪ねた、と日記に記している。彼はボストンの教会に立つ、28歳の若い牧師だった。
その半年後、1832年9月。彼は牧師の仕事を辞めた。聖餐式という教会の大切な儀式を、自分は行えない。それが理由だった。教区の人々は動揺した。しかし彼は揺らがなかった。
人の死をなぐさめる仕事をしていた人が、なぜ棺を開けたのか。なぜ、なぐさめるための儀式を捨てたのか。答えを知るには、この青年がどう育ったかを見る必要がある。時は29年前に戻る。
02牧師の家の子
1803年5月25日、エマソンはボストンで生まれた。父ウィリアムは由緒ある(Unitarian)教会の牧師だった。ユニテリアンは、キリスト教のなかでも理性を重んじる一派である。エマソンには、七人の牧師を祖先にもつ家系の血が流れていた。
父は1811年に死んだ。母ルースは七人の子を抱え、下宿人を置き、親族の助けを受けながら家を保った。貧しさは、エマソンに荒っぽい反抗を教えなかった。むしろ、静かに耐え、読書と日記で自分を保つ習慣を植えた。
もう一人、大きな存在がいた。叔母のメアリー・ムーディ・エマソンである。厳格で、神秘的なものを深く信じる人だった。彼女は若い甥に、制度の中にいても内側の声を失うなと教えた。この叔母は生涯、エマソンの知的な導き手となる。
ボストン・ラテン・スクールを経て、14歳でハーヴァード大学に入った。1821年に卒業し、兄弟と私塾を開いて生計を立てた。やがてハーヴァード神学校に進む。牧師になる道は、この家の歴史そのものだった。
1829年、ボストン第二教会の牧師に任ぜられた。同じ年、若いエレン・タッカーと結婚する。エレンは結核を患っていた。二人の時間は、はじめから長くはないと分かっていた。
03教会を去り、海を渡る
エレンは1831年2月8日、世を去った。結婚から約1年4か月後のことである。エマソンは深く打ちひしがれた。毎朝の墓参りも、翌年の棺のことも、日記に残された。
牧師の仕事は、そのあとも続いていた。だが彼は、説教の言葉が古い形に従うほど、聞く人の魂から遠ざかると感じていた。死者をなぐさめるはずの儀式が、生の中心に届いていない。エレンの死のあと、その思いは強まった。
1832年9月、聖餐式(聖体拝領)を主宰することを拒み、牧師職を辞した。形だけになった儀式が、生きた宗教の経験を窒息させている。そう感じたからだ。信仰を捨てたのではない。信仰を、教会という制度から引き離したのである。
牧師の家の四男にとって、この仕事は職業以上のものだった。会衆との関係を断つ痛みは小さくない。しかしその場所を離れてはじめて、彼は講演者、随筆家、思索者としての不安定な自由を得た。
翌1833年、ヨーロッパへ渡る。フィレンツェで作家ウォルター・サヴェッジ・ランダーに会った。パリの植物園では、自然のかぎりない形の豊かさに打たれた。ロンドン郊外では詩人に、スコットランドのクレイゲンパトックではに会った。カーライルはスコットランド生まれの評論家で、二人の文通は生涯続くことになる。
エマソンは、ドイツ観念論(カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル)を、コールリッジとカーライルを通して吸収した。目に見える世界の奥に、精神の法則がある。その考え方が、彼の中で育っていく。
1833年10月、帰国。翌1834年、マサチューセッツ州のコンコードという小さな町へ移った。1835年にはリディアン・ジャクソンと再婚し、「オールド・マンス」近くの家に腰を据える。この家が、以後の彼の思索と交友の拠点になる。
リディアンは彼の思想の聞き手だった。家を訪れる若い思想家たちを迎える人でもあった。ただ、この時期にもエマソンは人を失っている。1834年に弟エドワードを、1836年に弟チャールズを。そして1836年、一冊の薄い本が世に出る。
04『自然』と「アメリカの学者」
1836年9月、作者の名を伏せた薄い本が出版された。(Nature)である。95ページの、詩のような小さな本だった。だがそれは、(ちょうぜつしゅぎ)と呼ばれる運動の旗印となった。
超絶主義とは、人が理屈や伝統を通さず、直接に真理に触れられるとする考え方である。自然は象徴であり、世界の背後には一つの大きな精神が流れている。人は自然を通して、その精神に触れることができる。エマソンはこれを、のちに「」(Over-Soul)と呼ぶ。
彼が求めたのは、ヨーロッパの立派な体系をそのまま輸入することではなかった。ニューイングランドの森、畑、霜、星。そこから精神の法則を、自分の言葉で読み直すことだった。
同じ1836年9月、ケンブリッジで「超絶クラブ」が生まれた。フレデリック・ヘンリー・ヘッジ、エマソン、ジョージ・リプリー、ジョージ・パットナムらが集まった。やがて、、ヘンリー・デイヴィッド・ソローら若い知識人が加わる。フラーは鋭い批評家、オルコットは教育者、ソローはのちに森で暮らす作家である。
1837年8月31日、ハーヴァードのファイ・ベータ・カッパ協会で講演した。題は(The American Scholar)。書物や伝統ではなく、自分の経験から考えよ。作家オリヴァー・ウェンデル・ホームズは、これを「アメリカの知的独立宣言」と呼んだ。独立から半世紀ほどのアメリカで、この言葉は借りものの学問へのいらだちに響いた。
1838年7月には、ハーヴァード神学校の卒業式講演(「神学校講演」)に立った。イエスを歴史上の奇跡としてではなく、人の内にある神性のもっとも鮮やかな表れとして語った。保守派は冷笑した。ハーヴァードで再び公に講演するまで、およそ30年かかることになる。
教会からも、母校からも、彼は締め出された。残されたのは、自分の声だけだった。次に彼が書いたのは、その声を信じよという一冊である。
自分自身を信頼せよ ― 一本一本の心の絃は、その響きに共鳴している
05『自己信頼』と失われた子
1841年、『エッセイ第一集』が出た。その中心が(Self-Reliance)である。「愚かな一貫性は小さな精神のお化けだ」「偉大であることは誤解されることだ」。短い警句(鋭く短い言葉)が次々に放たれ、若者に自分の声で立てと迫った。この本はのちにドイツの哲学者ニーチェに読まれ、インドのガンディーにも影響したと言われる。
彼が嫌ったのは、世間の評判に合わせて、昨日の自分を守る態度だった。内側の直観に従えば、今日の言葉は昨日と食い違うかもしれない。それを恐れるな。今の真実を述べよ。それが彼の生き方の指針だった。
1842年、長男ウォルドーを猩紅熱で失う。5歳だった。詩『哀歌』(Threnody)は、その悲しみを言葉にしたものである。大霊を信じる人にとって、幼い子の死は、自分の考えを試す出来事でもあった。
日記には、二重の痛みが記されている。悲しみがあるのに、その悲しみを十分に感じられない。すべてを貫く精神への信頼は、一人の子どもの不在をすぐには埋めなかった。1844年の『エッセイ第二集』には「経験」「政治」「詩人」が加わり、思索はより暗く、現実的になる。
1840年代から1850年代、エマソンは(巡回講演)で全米を回った。ライシウムとは、町から町へ講師が回る、当時の講演会の仕組みである。鉄道と印刷の広がりを背景に、講演は人々の楽しみであり、学びの場だった。(1850)、『イギリス人気質』(1856)、『生の振る舞い』(1860)は、この旅から生まれた。
旅の途中、彼の言葉は次第に、ある一つの制度へ向かっていく。人が人を所有する、奴隷制である。
自分の心の内に閃くかすかな光を見逃すな――それはいつか、世界の向こう側から戻ってくる。
06森の友と、奴隷制
コンコードの家は、多くの人を引き寄せた。マーガレット・フラーは『ダイアル』という雑誌を通じて、運動に批評の強さを与えた。ブロンソン・オルコットやジョージ・リプリーは、教育と共同生活の実験へ進んだ。この集まりは、コンコード・サークルと呼ばれる。エマソンは中心にいたが、支配者ではなかった。
中でもソローとの友情は、エマソンの人生の軸だった。1845年、ソローはエマソンが持つウォールデン池のほとりの土地に、小屋を建てて暮らし始めた。二人はしばしば意見を違えたが、互いを必要としていた。その暮らしから、1854年、ソローのが生まれる。
はじめ、エマソンは政治から距離を置いていた。だが1850年、が成立する。北部に逃げた奴隷を、持ち主のもとへ送り返すことを義務づける法律だった。エマソンの態度は硬くなった。政治家ダニエル・ウェブスターを公然と批判し、各地で奴隷制廃止の演説を行った。
1859年、ジョン・ブラウンが奴隷解放のために武器を取り、蜂起した。エマソンはブラウンを道徳的な英雄として讃えた。世論は二つに割れた。
南北戦争が始まると、彼の自由についての考えは、奴隷制廃止という具体的な判断に結びついた。1862年1月、ワシントンで講演し、翌日には上院議員チャールズ・サムナーの案内でリンカン大統領に会った。リンカンへの評価は一様ではなかった。だが奴隷解放が文明の要求であるという点で、彼の声は次第にはっきりしていった。
同じ1862年、ソローが44歳で病没した。エマソンは葬儀で弔辞を読んだ。掘り下げればどこからでも当人そのものが立ち現れるような、稀有な誠実さ(sincerity itself)。彼はそう友を讃えた。友を見送った人に、やがて別の別れが待っていた。今度は、自分自身の記憶との別れである。
07思想の骨組み――自然・学者・自己信頼
エマソンの思想を読み解く鍵は、自然を象徴として読む視点にある。『自然』の有名な「透明な眼球」の比喩は、自己を世界に溶かす恍惚の表現として読まれてきた。ただし、彼の自然は牧歌的な慰めだけではない。自然は人間の精神を映す文字であり、物は思想の象徴である。旧大陸の権威ある体系をそのまま輸入するのではなく、ニューイングランドの森、畑、霜、星を通して、精神の法則を自分の言葉で読み直す。『自然』はその方法の宣言であった。
「アメリカの学者」で彼は、学者を単に「考える人」としてではなく、自然・書物・行動の三者に鍛えられる存在として描いた。書物は必要だが、書物だけに仕える者は書庫の番人に落ちる。行動なき思索は血を失う。独立から半世紀ほどのアメリカで、この言葉は文化的従属への苛立ちに響いたが、エマソンは国粋主義の旗を振ったのではない。借りものの声で話し続ける知識人に、まず自分の土地と経験を信じよと促したのである。
自己信頼は、社会的責任からの逃避ではない。彼が嫌ったのは、世間の評判に合わせて昨日の自分を守る態度であった。内なる直観に従えば、今日の言葉は昨日と食い違うかもしれない。その不一致を恐れず、現在の真実を述べよというのが彼の倫理である。この倫理の根は、幼い頃の父の死と家内の緊張にある。のちの「自己信頼」は、孤立を気取る標語ではなく、早い喪失のなかで育った自立の作法であった。牧師職の辞任もまた、信仰を捨てたというより、信仰を教会制度から引き離す決断として理解できる。そして逃亡奴隷法以後、自己信頼は孤高の美学にとどまらず、他者を所有する制度を拒むところまで行かなければならなかった。
ウォルドーの死は、エマソンの文体から一部の透明さを奪った。日記には、悲しみがあるのに、その悲しみを十分に感じられないという二重の痛みが記される。普遍精神への信頼は、個別の子の不在をただちに埋めなかった。『エッセイ第二集』(1844)の「経験」「政治」「詩人」に見られる、より暗く現実的な思索は、この経験と切り離せない。
彼の思想は、書斎ではなく講演の往復のなかで鍛えられた。鉄道網と新しい印刷文化を背景に、ライシウムの知的講演は庶民の娯楽にして啓蒙の場だった。彼の講演は旅の宿で口ずさまれ、翌日のエッセイの草稿となり、また次の講演へと循環した。コンコードもまた、都会から退く場所であると同時に、手紙、講演、来客が交差する小さな公共圏となった。
コンコード・サークルの人間関係も、一枚岩ではなかった。ソローの『ウォールデン』は、エマソンの思想から離れて生まれた独立した書物である。しかし、その助走にはコンコードの家、貸された土地、日々の会話があった。エマソンは彼らの中心にいたが、支配者ではなかった。人を集め、刺激し、時に冷たく距離を取り、また必要な時に助ける。コンコード・サークルは、その不完全な人間関係の上に成り立っていた。
08消えていく記憶、そして棺の前へ
1863年、幼い頃から彼を導いた叔母メアリー・ムーディ・エマソンが世を去った。妻、二人の弟、幼い息子、そして叔母。明るい警句の背後には、家族を次々に見送った人の沈黙がある。
1872年7月、コンコードの自宅が火災にあった。記憶の衰えと、言葉が出にくくなる症状は、その前年ごろから指摘されていた。晩年の彼は、自分の書いた本の題さえ思い出せなくなっていく。
1882年3月、詩人ロングフェローの葬儀に出た。棺の人物を美しい魂だったと認めながら、その名を思い出せなかった、という逸話が伝わる。言葉の自立を説いた人が、言葉を失いつつあった。同じ年、ハーヴァードのメモリアル・ホールの式典に姿を見せた。彼はもはや演説する人ではなく、時代が最後に見送りに来た聴講者だった。
1882年4月27日、肺炎により死去。78歳だった。スリーピー・ホロウ墓地の、ソローとホーソーンの隣に葬られた。ホーソーンは『緋文字』を書いた、コンコードの作家である。
ここで、1832年3月の墓地に戻ろう。28歳の牧師は、なぜ棺を開けたのか。この記述は、彼が教会の制度と決裂することの予告だった、と読まれてきた。人から与えられた言葉だけでは、妻の死を受け止められない。自分の目で見る。半年後に聖餐式を拒んだのも、同じ一本の線の上にある。形が残り、中身が届かない言葉を、彼は口にできなかった。
『自然』も、「アメリカの学者」も、『自己信頼』も、この線の延長にある。借りものの言葉ではなく、自分の経験から考えよ。それは、ただの強がりではなかった。妻の棺の前で始まり、家族を見送るたびに試され、最後は自分の記憶さえ失う中で終わった。一人の人間の、生き方の作法だった。
あなたが今、信じている言葉のうち、自分の目で確かめたものはどれだけあるだろうか。そして、確かめていないものを信じることは、いつも間違いなのだろうか。
09主要な出来事と著作
- ボストンに誕生。父はユニテリアン牧師
- ボストン第二教会牧師に就任、エレン・タッカーと結婚
- 妻エレン、結核で死去(19歳)
- 聖餐式を拒否して牧師職を辞任
- ヨーロッパ訪問、カーライルと出会い生涯の文通始まる
- リディアンと再婚、コンコードに定住
- 『自然』刊行、超絶主義運動の綱領となる
- 「アメリカの学者」講演――アメリカの知的独立宣言
- 神学校講演で保守神学と決裂
- 『エッセイ第一集』(『自己信頼』収録)刊行
- 長男ウォルドー、5歳で猩紅熱により死去
- 『エッセイ第二集』刊行。「経験」「詩人」「政治」などで超絶主義の陰影を深める
- ソロー『ウォールデン』刊行。エマソンの土地での生活が書物の背景となる
- ライシウム講演で全米を回る。奴隷制廃止運動に関与
- 叔母メアリー・ムーディ・エマソン死去。幼少期からの知的導師を失う
- コンコードの自宅が火災。晩年は記憶衰退が進む
- 3月、ロングフェロー葬儀とハーヴァードのメモリアル・ホール式典に出席。記憶の衰えは深い
- 4月27日、コンコードで肺炎により死去、78歳
残した思想の輪郭
- 自己信頼(Self-Reliance) ― 他人の声と伝統の圧を振りほどき、内なる直観から生きること
- 大霊(Over-Soul) ― 個々の魂を貫き流れる普遍的精神、自然と人間を結ぶ神性
- 自然は象徴 ― 自然界の事物は精神的真理の象形文字、両者は照応している
- 超絶主義 ― カント的観念論をアメリカ土壌で詩と倫理の運動へ
- アメリカの知的独立 ― 旧大陸の学問的権威から離れ、自らの経験から思考する精神
- 講演者の思想 ― ライシウム、鉄道、雑誌文化の時代に、話された言葉をエッセイへ鍛え直す実践
- 反奴隷制 ― 1850年逃亡奴隷法以後、自己信頼を政治的自由の問題として語り直した晩年の責任
つながり
- カント
先駆 — 「超絶主義」の名の出どころ。実践理性の自律を説いた哲学者。
- ヘンリー・D・ソロー
伴走 — エマソン家に住み込み、庭仕事で対価を払った14歳下の青年は、借りた森での暮らしを『ウォールデン』に残した。
- ウォルト・ホイットマン
継承 — エマソンの「アメリカ詩人」の呼びかけに応え、自立的詩人像を具現した直弟子がいた。
- ニーチェ
継承 — 17歳でエマソンの独訳に傾倒し、生涯「最も多くを負う」と書き送った哲学者が、遠いドイツにいた。
- レイチェル・カーソン
継承 — 超絶主義から始まった、自然を書く系譜。それはやがて環境科学へと流れ込む。
さらに読むならFurther Reading
ラルフ・ウォルドー・エマソンの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門エマソン論文集(上・下)
ラルフ・ウォルドー・エマソン / 訳: 酒本雅之 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
ラルフ・ウォルドー・エマソンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ラルフ・ウォルドー・エマソン邸住居
コンコード(マサチューセッツ州), アメリカ
1835年から没年1882年まで居住し『自然』『自己信頼』等を執筆した家。国家歴史建造物
- スリーピー・ホロー墓地「作家の丘」墓所
コンコード(マサチューセッツ州), アメリカ
薔薇色の大きな岩石が墓標。ソロー、ホーソン、オルコット家と並ぶ「作家の丘」の中心
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さらに辿るならExternal References
ラルフ・ウォルドー・エマソンを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ラルフ・ワルド・エマーソン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Ralph Waldo Emerson"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Ralph Waldo Emerson"
Project GutenbergEnglishEssays — First Series — Project Gutenberg
「自己信頼」を収録する第一随想集
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「経験」「詩人」などを収録する第二随想集