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知の革新

レイチェル・カーソン

Rachel Carson·1907–1964·アメリカ·

自分も重い病気だったのに、 なぜ彼女はそれを隠して、農薬の害を国の前で語ったのか?

海洋生物学者から出発し、農薬が生態系と人間に及ぼす影響を告発して近代環境運動を始動させた作家

  • 沈黙の春
  • 生態系
  • 環境倫理
戦争が生んだ「魔法の薬」が、田畑にも庭にも空からまかれていた時代 — ひらく

時代の空気

20世紀前半、西ペンシルベニアのアレゲニー川沿いの製鉄町スプリングデール。女性の高等教育がようやく解禁され、カーソンは奨学金でペンシルベニア女子大に入り、ジョンズ・ホプキンス大学院で海洋生物学修士、1936年米魚類局に女性二人目の科学官として就いた。第二次大戦中に軍が開発したDDTは戦後「魔法の薬」として農業・林業・蚊駆除に大量散布され、1945年以降には鳥類大量死が観察される。1958年、友人オルガ・ハッキンスのロングアイランドからの鳥死の書簡が、冷戦下の化学産業政商体制に対峙する『沈黙の春』執筆を始動させる。

01痛みを隠して歩いた朝

1963年6月4日、ワシントン。アメリカの上院で、農薬についての公聴会こうちょうかいが開かれた。公聴会とは、議会が専門家や当事者を呼び、意見を聞く場である。この日呼ばれたのは、五十六歳の女性作家、レイチェル・カーソンだった。

議長のリビコフ上院議員は、冒頭で彼女をこう紹介した。「ミス・カーソン、あなたが本書の起点だ」。本書とは、前の年に出た『』のことである。合成殺虫剤さっちゅうざい、とくにが、鳥や魚、そして人間を静かに傷つけている。その警告を書いた本は、国じゅうを巻き込む論争になっていた。

けれど、その朝の彼女には、誰にも言っていないことがあった。三年前から乳癌(にゅうがん)と闘っていた。癌は進み、放射線治療の副作用が体を痛めつけていた。人前では杖を使わず、痛みをこらえて歩いた。病気のことは、伏せたまま席についた。

毒の害を国に訴える人が、自分の体をむしばむ病を隠す。なぜだろう。答えは、彼女の歩いてきた道の中にある。時は五十六年前、ペンシルベニアの丘に戻る。

02母と歩いた丘

1907年5月27日、レイチェル・カーソンは生まれた。場所はペンシルベニア州スプリングデール。ピッツバーグ近郊、アレゲニー川沿いの製鉄の町である。三人きょうだいの末っ子だった。父ロバートは保険のセールスマン。母マリアは元女学校教師で、ピアノと自然観察を娘に教えた。

家族は六十五エーカーの農地に住んでいた。兄と姉は歳が離れていた。だからレイチェルは、母と二人で丘や川辺を歩く子ども時代を過ごした。母は当時のアメリカで広まっていた「自然学習」の考えに影響を受けていた。子どもを自然の観察に誘う教育である。

レイチェルは四歳で児童雑誌『セント・ニコラス』に作文を送っていた。十一歳のとき、散文で銀メダル、続いて金メダルを取る。彼女が「作家」と呼ばれた最初の瞬間だった。

1925年、地元の高校を出て、ペンシルベニア女子大学に奨学金で入った。今のチャタム大学である。最初は英文学が専攻だった。ところが生物学教員メアリー・スコット・スキンカーの講義に圧倒される。1928年、動物学に専攻を変えた。

家計は苦しかった。父の事業の不振と医療費で、破綻寸前だった。それでもスキンカーの助言で、1929年夏にに滞在した。続いてジョンズ・ホプキンス大学の大学院に進む。1932年、海洋生物学かいようせいぶつがくの修士号を取った。

博士課程に進む道もあった。だが同じ1932年、父が急死する。1937年には姉マリアンも亡くなった。家族を養う責任が、彼女の肩に乗った。研究者として生きる道は、ここで閉じた。残ったのは、書くことだった。

03海を書く仕事

1936年、二十九歳のカーソンは米魚類局に採用された。1940年に内務省に統合され、となる役所である。連邦政府で、女性の専任の科学官としては二人目だった。仕事は海洋生物学の研究成果を、一般向けに書き直すこと。ラジオ番組の台本や、市民向けのパンフレットである。「海の底のロマンス」シリーズを五十二回書いた。年次報告や漁業統計の編集も担い、1949年には情報部の主任編集者になった。

1937年、姉マリアンが亡くなり、姪のヴァージニアとマージョリーを引き取った。母マリアと合わせて四人の家計を、一人で支える暮らしが始まる。

そのかたわらで、1941年、最初の本『』を出した。ノースカロライナの海岸と潮溜しおだまりが舞台である。動物の視点から語る、自然の物語だった。出たのは真珠湾攻撃の一ヶ月前。読者の注目を集めきれずに消えた。けれど、生涯の文体はここで固まった。

1951年、大きな転機が来る。『』の刊行である。海の地質の歴史、生き物の歴史、海流、海岸の生態系。それを壮大な時間の尺度で描いた、詩のような大著だった。『ニューヨーカー』誌の連載を経て本になった。ニューヨーク・タイムズのベストセラー上位に、八十六週連続で入った。全米書籍賞、バロウズ賞、アメリカ地理学協会金メダルと、賞も相次いだ。

印税で、暮らしは初めて楽になった。1952年、役所を辞めて専業作家せんぎょうさっかになる。1953年にはメイン州サウスポート島に夏の別荘べっそうを買った。1955年の『』で、海の三部作が完結する。そして、その島の隣の家に、ある夫婦が滞在していた。

04七百五十通の手紙

1953年夏、隣家に滞在していたのは、スタンリーとドロシー・フリーマンの夫婦だった。ドロシー(1898-1978)は主婦で、カーソンより九歳年上である。自然観察と読書を愛する点で、二人は通じ合った。その年の冬から、手紙のやりとりが始まる。以後、カーソンが亡くなる1964年までの十一年間に、約七百五十通の往復書簡が積み上がった。

手紙の中身は、幅広い。鳥、潮、星といった日々の自然。原稿への助言。病気の報告。そして互いへの愛情の、率直な言葉。「あなたが私の人生の中心」「夜あなたを思って眠れない」と書いた。同時に、他人の目に触れたときの世間の醜聞しゅうぶんを恐れ、手紙を焼く取り決めも交わした。

二人の関係に性的なものがあったのか、解釈かいしゃくは分かれる。ただ、生涯独身だったカーソンにとって、最も親密しんみつな心の伴侶(はんりょ)だったことは疑いない。それは1995年にマーサ・フリーマンの編集で公刊されたが示している。

1957年、姪のマージョリーが肺炎で急死した。五歳の息子ロジャー・クリスティが残された。カーソンは独身のまま、五十歳でロジャーを引き取り、養子として養育よういくを始める。翌1958年の末には、母マリアも世を去る。は、こうして彼女の人生に重なっていった。

家族の死が、立て続けに襲う。そのなかで、サウスポート島でロジャーと潮溜まりを歩く時間。ドロシーに手紙を書く時間。それが、カーソンが「自分自身でいられる場所」だった。1958年の1月、一通の手紙が彼女のもとに届く。

05一通の手紙と、鳥の死

1940年代の後半から、カーソンはある問題を追い続けていた。合成殺虫剤、とりわけDDTの無差別な散布さんぷである。DDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)は、第二次世界大戦で軍のために開発された。戦後は「魔法の化学物質」として、農業や林業、蚊かの駆除に大量にまかれた。しかし鳥や魚、昆虫の死、人間への長期の影響を示す研究が、少しずつ積み上がっていた。彼女は論文と野外観察を集め続けていた。

1958年1月、友人のオルガ・オーウェンス・ハッキンスから手紙が届いた。マサチューセッツ州ダックスベリーに住む人である。州が飛行機からDDTをまいた翌朝、自宅の鳥小屋で鳥が次々と死んでいた。そういう報告だった。このが、カーソンに本格的な調査と執筆を決意させた。

はじめは雑誌の記事にする予定だった。だがアメリカと欧州の研究者、行政官、農場主に手紙で問い合わせた。図書館で調べ、自分でも野外で観察した。それが重なるにつれ、規模は本へと膨れあがった。

執筆のさなかの1960年4月、カーソン自身が乳癌と診断しんだんされた。乳房の切除と放射線治療を続けながら、彼女は書き続けた。約四年をかけて。

本の題名は『沈黙の春』。詩人の「冷酷な美姫」にある「鳥さえも歌わぬ」の一節から連想した。「鳥が鳴かなくなった春」の不気味な寓話ぐうわを、本の入口に置いた。1962年6月、『ニューヨーカー』誌に三回連載。同年9月27日、ホートン・ミフリン社から刊行された。初版はすぐにニューヨーク・タイムズのベストセラーになった。本の最後の章は、こう始まる。

いま私たちは、二つの道が分かれる地点に立っている ― 選ぶのは結局、私たち自身である

— 『沈黙の春』最終章の書き出し(1962年)

06嵐のなかへ

『沈黙の春』へのは、すさまじかった。ベルシコル・ケミカル社は刊行前に出版社へ、訴訟を予告する手紙を送った。モンサント社は『荒涼たる年』(The Desolate Year)というパロディの冊子を刷った。カーソンの論を裏返してみせる作戦だった。アメリカン・サイアナミッド社、デュポン社も加わる。当時の金額で推定二十五万ドル以上が、彼女の信用を落とすために使われた。今の価値では数百万ドルにあたる。

言葉も飛んだ。「ヒステリックな女性作家」「非科学的」「共産主義者の陰謀いんぼう」。農務省の関係者がこう言った記録すら残る。「結婚していない女性が遺伝学に興味があるのは不思議だ、共産主義者に違いない」。

しかし、ジョン・F・ケネディ大統領は、この本を読んでいた。1962年8月29日の記者会見で、カーソンの書を踏まえて科学諮問委員会に調査を命じたと公言した。1963年4月3日、CBSテレビが一時間の番組「レイチェル・カーソンの沈黙の春」を放映する。このには、化学業界の三社が広告を引き上げる圧力をかけた。CBSは屈しなかった。約一千万人の視聴者に、カーソンと業界の主張を並べて見せた。世論は決定的に動いた。

1963年5月、大統領科学諮問委員会の殺虫剤小委員会が報告書を公表した。カーソンの主張の核心を裏付ける内容だった。そして6月4日、の朝が来る。

人間もまた、生きた世界の一部である。自然への戦争は、必然的に、人間自身への戦争になる

— 『沈黙の春』刊行の三ヶ月あまり前、スクリップス大学の卒業式で語った言葉「人間と時の流れ(Of Man and the Stream of Time)」(1962年6月12日)

07病を隠した理由、残した問い

冒頭の朝に戻る。1963年6月4日、リビコフ上院議員が主宰する政府活動小委員会の公聴会。カーソンは乳癌の進行と放射線治療の副作用を伏せて出席した。そこで、農薬の規制を国のレベルで整えるよう証言しょうげんし、提言した。なぜ病を隠したのか。

彼女は1960年の診断以来、癌の進行と合併症と闘い続けていた。骨への転移。放射線治療による消化器の障害。心臓の病気。関節炎で歩くのも難しかった。それでも病を公表しなかった。もし知られれば、化学業界の中傷攻撃は「ヒステリックな女性の私怨(しえん)」に姿を変える。本の中身ではなく、書いた女性の体が争点にされる。それを避けたのである。だから公の場で杖を使わなかった。CBSレポートに出るときは鬘かつらを着けた。公聴会の朝も、痛みをこらえて歩いた。

この一連の動きは、アメリカの環境政策を大きく変えた。1970年の(EPA)の設立。1972年のDDTの国内民間使用の全面禁止ぜんめんきんし。1973年の絶滅危惧種保護法。その引き金になった。

1964年4月14日、メリーランド州シルバースプリングの自宅で、カーソンは亡くなった。乳癌と心筋梗塞(しんきんこうそく)の合併で、五十六歳。『沈黙の春』刊行から一年半後だった。葬儀には甥のロジャーとドロシー・フリーマンが寄り添った。遺骨の一部は、サウスポート島の岩場から、ドロシーの手で海に撒(ま)かれた。

死後しごの1965年、遺作『』が刊行された。甥ロジャーとメイン州の海岸を散歩した経験をもとにした、短いエッセイである。自然と子どもの関係について、詩のように書かれている。「センス・オブ・ワンダー」(驚異の感覚)という言葉は、ここから広く環境教育の言葉になった。1980年、ジミー・カーター大統領は大統領自由勲章を死後十六年で授与した。1981年には記念切手が発行された。

彼女の仕事を思想史の側から見ると、輪郭は三層に分かれる。第一に、海洋生物学の厳密さと詩的散文を同じ机の上で両立させた書法。第二に、食物連鎖・・複合汚染といった生態学の概念を、行政文書でも専門誌でもなく市民の語彙へ翻訳した回路。第三に、その翻訳が化学産業の反証キャンペーンと連邦政府の政策転換を同時に呼び起こし、環境問題を「産業と公衆の争点」として制度化した点である。彼女の名は、環境倫理学、エコクリティシズム、科学コミュニケーション論の古典として、二十一世紀も読まれ続けている。

彼女は、自分の体ではなく本の中身が争点であるように、最後まで振る舞った。では、あなたの春から鳥の声が消えたとき、最初にそれに気づくのは誰だろうか。

08主要な出来事と残した思索の輪郭

  1. 5月27日、ペンシルベニア州スプリングデールに誕生
  2. ペンシルベニア女子大学で英文学から動物学へ専攻変更
  3. ジョンズ・ホプキンス大学で海洋生物学修士号取得、父急死
  4. 米国魚類局の科学ライターとして採用、女性二人目の科学官
  5. 姉マリアン死去、姪二人を引き取り扶養開始
  6. デビュー作『潮風の下で』刊行(真珠湾直前)
  7. 『われらをめぐる海』で86週連続ベストセラー、全米書籍賞
  8. 魚類野生生物局を退職、専業作家となる
  9. メイン州サウスポート島に別荘購入、ドロシー・フリーマンと出会う
  10. 『海辺』で海洋三部作が完結
  11. 姪マージョリー死去、五歳の甥ロジャーを引き取る
  12. オルガ・ハッキンス書簡を受け、殺虫剤調査を開始
  13. 4月、乳癌と診断、執筆と並行して放射線治療
  14. 9月、『沈黙の春』刊行、化学業界の中傷攻撃と大統領の関心
  15. 4月CBSレポート、5月大統領科学諮問委員会報告、6月上院公聴会証言
  16. 4月14日、シルバースプリングで死去、56歳
  17. 遺作『センス・オブ・ワンダー』刊行
  18. 米国環境保護庁(EPA)設立
  19. DDT国内民間使用全面禁止
  20. 大統領自由勲章を死後授与

残した思索の輪郭

  • 科学と文学の統合 ― 海洋生物学の厳密さと詩的散文の両立という独自の書き方
  • 生態系の概念の一般化 ― 食物連鎖・生物濃縮・複合汚染を市民の語彙に翻訳
  • 『沈黙の春』の警鐘 ― 合成殺虫剤の無差別散布を産業と公衆の争点に
  • 「センス・オブ・ワンダー」 ― 自然への驚異感覚を子どもと共有する環境教育の原理
  • 近代環境運動の発火点 ― EPA、DDT禁止、環境政策への連邦介入の出発点
1964年4月14日、メリーランド州シルバースプリングの自宅で乳癌と心臓疾患により死去、56歳。『沈黙の春』刊行から十八ヶ月後、彼女はすでに長い闘病と並行して本を書いていた。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

レイチェル・カーソンの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

レイチェル・カーソンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • レイチェル・カーソン・ホームステッド生誕

    スプリングデール(ペンシルベニア州), アメリカ

    1907年誕生・少女期を過ごした家。1975年に保存協会が取得、1976年国家歴史登録財。自然観察家としての原点

さらに辿るならExternal References

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