ジークムント・フロイト
意識は自分の主人ではない―― では、人を動かしているのは何なのか?
無意識を「発見」し、夢・抑圧・エディプスを通じて人間理解を書き換えた精神分析の創始者
- 精神分析
- 無意識
- 夢解釈
- リビドー
- エディプス
時代の空気
19世紀後半から20世紀前半のウィーンは、ハプスブルク帝国の首都として多民族・多言語の知識人が集まり、シャルコーらの神経学、医学、文学、絵画が同時に栄えた都市文化の中心だった。ユダヤ系市民は法的解放を経て中産層を担ったが、反ユダヤ主義の波も繰り返し押し寄せた。第一次世界大戦の戦争神経症、戦後の経済混乱、1933年ベルリンでの焚書、1938年ナチスドイツのオーストリア併合により、フロイト一家はロンドンへ亡命を余儀なくされた。
01フライベルクからウィーンへ――神経学者としての出発
1856年5月6日、オーストリア帝国モラヴィア地方のフライベルク(現チェコ・プシーボル)で、シグムント・シュロモ・フロイトとして生まれた。父ヤーコプは毛織物商、母アマリアは父の三番目の妻で21歳年下。幼い「黄金のジーギ」は母の溺愛のなかで育ち、のちに「母に絶対的に愛された男は生涯、征服者の感情を持ち続ける」と書いた。
1860年、経済的困窮から一家はウィーンへ移り、以後フロイトは1938年の亡命までこの街に住み続ける。ギムナジウムでは首席を通し、1873年17歳でウィーン大学医学部に入学。当初は生理学者エルンスト・ブリュッケの研究室で神経組織学に没頭し、ザリガニの神経細胞を研究した。8年かけて1881年医学博士号取得。経済的理由と、マルタ・ベルナイスとの婚約(1882)により、純粋研究を諦め臨床医に転じる。
1885年秋、パリ留学。サルペトリエール病院のジャン=マルタン・シャルコーの下で、患者への催眠術と症状再現を目の当たりにした。神経の器質性ではなく「心的外傷」が身体症状を生むという発想は、帰国後のフロイトの出発点となった。1886年4月、ウィーンで開業、同年9月にマルタと結婚、六人の子をもうける(末子アンナは後に児童の母となる)。
02『ヒステリー研究』と自由連想――無意識への通路
ウィーンの内科医ヨーゼフ・ブロイアーは1880年代初頭、「アンナ・O」(本名ベルタ・パッペンハイム)の症例で、催眠下の自由な語りが症状を和らげることを発見していた。患者自身が「談話療法(talking cure)」あるいは「煙突掃除(chimney sweeping)」と名づけたこの実践は、ブロイアーを介してフロイトへ手渡された。1895年、二人は共著『ヒステリー研究』を刊行、「ヒステリー患者はもっぱら回想に苦しむ」という有名な命題を打ち出した。
しかしフロイトはまもなく催眠を放棄する。理由は二つ――暗示への依存が治療効果を脆くすること、そして何より「」に切り替えたほうが患者のを迂回できると気づいたことだった。寝椅子(カウチ)に横たわる患者の背後に分析家が座り、検閲を通さずに浮かぶ言葉をすべて話してもらう。この方法の発見が、精神分析を一つの治療技法にしただけでなく、「は方法的にアクセス可能である」という前提を確立した。
同時代、パリのサルペトリエール派にはピエール・ジャネがおり、「潜在意識 subconscient」という競合概念を展開していた。フロイトは後年、無意識論の発見者は誰かをめぐるジャネとの優先権争いに繰り返し言及するが、ジャネが解離(dissociation)を記述の中心にしたのに対し、フロイトは(Verdrängung)を選んだ。同じ地平を巡る二つの別の道が、20世紀心理療法の起点で分岐した。
1896年、父ヤーコプの死の前後、フロイトは自分自身への自己分析を開始する。夢、記憶、失錯行為を素材にした数年がかりの作業は、幼児期の性的欲望と母への愛・父への敵意という発見に至った。同1896年、「Psychoanalyse(精神分析)」の語を初めて論文中に用いた。
この時期の理論的転回として決定的だったのが、誘惑理論(Verführungstheorie)の放棄である。当初フロイトはヒステリー症状の原因を現実の幼児期性的外傷と見ていたが、1897年9月21日、フリースへの手紙で「もはや私の「neurotica」を信じない」と告白する。以後、現実の外傷ではなく幻想(Phantasie)と欲望を中心に理論を組み直した。この転回は後年しばしば「フロイトは被害者の告発を封じた」と批判されるが、無意識的幻想と欲動を中核に据える精神分析の基本骨格は、ここで確立された。
また、分析の進行で繰り返し現れる転移(Übertragung)――患者が分析家に、幼少期の対象(典型的には親)への感情を再現する現象――を、フロイトは1905年の『ドーラ症例』で治療の妨げではなく治療の不可欠な媒体として再定位した。治療関係そのものが分析の素材になる、という発見である。
03『夢判断』――1900年、世紀の変わり目に
1899年11月(奥付は1900年)、『』(Die Traumdeutung)刊行。扉にはウェルギリウス『アエネーイス』からの句――「上を動かし得ずば、下を揺さぶらん(Flectere si nequeo superos, Acheronta movebo)」――が掲げられた。天上の神々を動かせないなら、黄泉の川を逆流させよう。無意識という地下水脈への宣言である。
主著の核は単純にして深い。夢は願望の(変装した)充足である。検閲を逃れるために、夢は圧縮・置き換え・視覚化・二次加工によって潜在内容を顕在内容へ変形する。分析家の仕事は、自由連想によってこの変装を逆方向に解くこと。夢は「無意識への王道」となった。
初版600部は売れるのに8年かかった。しかしこの本を軸に、1902年水曜心理学会(後のウィーン精神分析協会)が開かれ、アルフレッド・アドラー、ヴィルヘルム・シュテーケル、マックス・カハネ、ルドルフ・ライトラーの4人から始まる運動体が形成される。1906年にカール・グスタフ・ユングが参加、1908年ザルツブルクで第1回国際精神分析学会、1910年国際精神分析協会創設、ユングを初代会長に据えた。「息子」と呼びたい後継者が現れていた。
『夢判断』と並行して、『日常生活の精神病理学』(1901、論)、『性理論三篇』(1905、幼児性欲と発達)、『ドーラ症例』(1905、の発見)、『機知とその無意識との関係』(1905、笑いのメカニズム)が矢継ぎ早に出版される。10年で精神分析は一つの思想になった。
は自分の家の主人ではない。
04離反と構造論――エス・自我・超自我
しかし精神分析運動は内部対立を免れなかった。1911年、アドラーが劣等感と社会的関心を掲げてウィーン協会を離脱、個人心理学を創始。1913年、ユングがリビドーの性欲一元論を拒絶し『変容の象徴』を出版、フロイトと決定的に決裂した。「父殺し」のテーマは、理論だけでなく運動の現実そのものに宿った。
第一次世界大戦はフロイトの理論を暗い方向に押した。戦争神経症(現・PTSD)を目の当たりにし、1920年の『快感原則の彼岸』で、彼は死の(後に「」とも呼ばれる)をと並ぶ第二の根源として導入する。
1923年、『自我と』(Das Ich und das Es)で構造論的転回。心を意識/無意識の層ではなく、エス(無意識的欲動のタンク)、自我(現実と欲動とを媒介する調停者)、(内面化された両親・社会の禁令)の三項で記述する体系へ移行した。自我は三つの主人――エス、超自我、外的現実――に仕える窮屈な下僕である。「自我は自分の家の主人ではない」という告知は、デカルトの「我思う」に対する20世紀の返答となった。
同1923年、口蓋に癌が発見される。以後16年、33回の外科手術を受けながら、フロイトは執筆と臨床を止めなかった。
05文明への不満――そして亡命、『モーセと一神教』
後期フロイトは個人の心から文明そのものの診断へと移行する。『トーテムとタブー』(1913)は原父殺しの神話的想定から宗教と社会の起源を論じ、『集団心理学と自我分析』(1921)はリーダーへの同一化として集団を説明、『ある幻想の未来』(1927)は宗教を神経症的幻想と呼んだ。
1930年の『文明への不満』(Das Unbehagen in der Kultur)は晩年の到達点である。人間は幸福を求めるが、文明は欲動の断念と罪悪感を強いる。エロスとタナトスの闘争は、個人の心だけでなく文化の歴史そのものの原動力だ――戦間期ヨーロッパのただ中で書かれた診断は、ナチスの台頭と共鳴した。1930年、ゲーテ賞受賞。1933年、ベルリン・オペラ広場でフロイトの著作が焚書される。
1938年3月、ナチスドイツのオーストリア併合。ゲシュタポの尋問を受け、娘アンナが一日連行される事件を経て、国際精神分析協会とマリー・ボナパルト王女の奔走によりフロイト一家はロンドンへ亡命。82歳。出国時、ゲシュタポに提出を求められた「扱いに不満なし」の宣言書に、フロイトは「ゲシュタポはすべての人に推薦できる」と皮肉を書き添えたと伝えられる。姉妹四人はアウシュヴィッツ等で没した。
ロンドン北郊ハムステッド20 Maresfield Gardens(現・フロイト博物館)で、彼は最後の書『モーセと一神教』(1939)を完成させる。モーセをエジプト人として読み直し、ユダヤ教そのものの起源を原父殺しの反復と見るこの書は、亡命知識人の自己と民族への問いの極北だった。
1939年9月23日、主治医マックス・シュールに以前から合意していたモルヒネの最終投与を求め、フロイトは亡くなった。83歳。遺言のとおり、書斎の古代美術品コレクションと寝椅子はロンドンに残され、博物館として今も来訪者を迎える。
06主要な出来事と残した思索の輪郭
- 5月6日、モラヴィア・フライベルクで誕生
- 一家でウィーンへ移住、以後1938年まで住み続ける
- ウィーン大学医学博士号取得
- パリ留学、シャルコーのもとでヒステリーを学ぶ
- ウィーンで神経科医として開業、マルタと結婚
- ブロイアーと『ヒステリー研究』共著、談話療法の原点
- 『夢判断』刊行(奥付1900)、無意識への王道
- 水曜心理学会発足、アドラー・シュテーケルら参加
- 『性理論三篇』でリビドーと幼児性欲を理論化
- 第1回国際学会ザルツブルク、国際精神分析協会創設、ユング初代会長
- アドラー離脱、個人心理学創始
- ユング決裂、『トーテムとタブー』で原父殺し仮説
- 『快感原則の彼岸』で死の欲動(後にタナトスとも呼称)を導入
- 『自我とエス』で構造論、口蓋癌と診断、以後33回手術
- 『文明への不満』刊行、ゲーテ賞受賞
- ナチス併合、ロンドンへ亡命、『モーセと一神教』執筆
- 9月23日、モルヒネ投与により死去、83歳
残した思索の輪郭
- 無意識の方法的定位 ― 自由連想と夢解釈で意識の外を読む技法化
- 幼児性欲と ― 大人の心を子どもの生へ繋ぎ直す歴史的視座
- 転移と抵抗 ― 治療関係そのものが分析の素材になるという発見
- エス/自我/超自我 ― 心の地形図、自我を家の主人から下僕へ
- エロスとタナトス ― 生と死の欲動で文化全体を診断する射程
- 文明批評 ― 宗教・集団・戦争を精神分析の言語で読む試み、20世紀人文学への遺産
出典と確認メモ
6件- 文脈一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 1917年、『精神分析入門』とほぼ同時期に発表された小論「精神分析への困難(Eine Schwierigkeit der Psychoanalyse)」の一節。フロイトはここで、人類は三度の自己愛的打...
一次資料を開くFreud 1917 年原典全文。Imago Bd. V, 1917 初出。三度の Kränkung (kosmologisch / biologisch / ...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 自我は自分の家の主人ではない
一次資料を開くProject Gutenberg DE 公開 Freud 'Eine Schwierigkeit der Psychoanalyse' (Imago, 191...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 自我は自分の家の主人ではない。
一次資料を開くProject Gutenberg DE 公開 'Eine Schwierigkeit der Psychoanalyse' German 全文。'Das Ic...
- 出典原典で確認済み要旨訳
要旨訳: freud.mdx pullsource '『精神分析入門』(1917)' の attribution 評価。Sigmund Freud, Vorlesungen zur Einführung in ...
- 引用原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 夢の解釈こそ、無意識の活動を知るための王道である
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: freud-1 source 表記『精神分析への困難』(1917) は書誌として正確。Sigmund Freud, 'Eine Schwierigkeit der Psychoanalyse' (19...
一次資料を開く1917 年 Imago 初出版本のドイツ語原文全文。三段階 Kränkungen (Kopernikus / Darwin / Freud) の構造を can...
つながり
- ショーペンハウアー
先駆 — 意志と表象の哲学が無意識論の遠い源流、抑圧の発見を予告した観念論の暗部
- ニーチェ
先駆 — 『道徳の系譜学』のルサンチマン・良心の解剖がエス/超自我の心理学化を準備
- カール・グスタフ・ユング
批判的継承 — 1907-1913年の「父と子」協働、リビドーの性欲一元論をめぐる決裂、集合的無意識へ
- アルフレッド・アドラー
反発 — 1902年水曜会に最古参として参加、1911年劣等感・社会的関心を掲げて離脱、個人心理学を創設
- ルー・アンドレアス=ザロメ
伴走 — 1911年ワイマール精神分析大会を機に親交、ウィーンでフロイトの講義に参加、往復書簡25年に及ぶ
- カレン・ホーナイ
批判的継承 — ベルリン精神分析研究所での訓練、女性心理学とペニス羨望論批判で組織的決別へ
- フッサール
同時代 — モラヴィア出身のユダヤ系思想家として並走、意識の記述と無意識の解読という20世紀初頭の二つの道
- テオドール・W・アドルノ
継承 — 『権威主義的パーソナリティ』(1950)で精神分析を社会調査に接続、『啓蒙の弁証法』では抑圧の論理として文明論化
- ヘルベルト・マルクーゼ
継承 — 『エロスと文明 — フロイトの哲学的探求』(1955)で『文化への不満』(1930)の抑圧論を歴史化し、「基本的抑圧」と「余剰抑圧」、「現実原則」と「業績原則」を区別して資本主義的労働倫理を批判対象化。オーフェウスとナルキッソス像を「来るべき文明の予示」として救い出すフロイト左派解釈の古典
- フランツ・ブレンターノ
同時代 — 1874-76年にフロイトはウィーン大学でブレンターノの哲学講義を履修し、アリストテレス論・心理学論の初歩をここで学んだ(フロイトの受講記録と書簡に明記)。精神分析の「無意識の心的作用」の発想はブレンターノの「心的現象の志向性」から直接派生するわけではないが、ウィーン学派的な経験的心理学の空気を共有する同時代の近接として位置づける
- ヴァージニア・ウルフ
同時代 — 1924年ウルフ夫妻のホガース・プレスがフロイト英訳全集(ストレイチー編、24巻、1953完結)の刊行を引き受け、ヴァージニア・ウルフ自身は1939年1月29日ロンドンのフロイト宅を訪問し水仙を贈った(ウルフ日記、1939-01-29)。直接の理論的影響は限定的だが、無意識・夢・性をめぐる言語をモダニズム文学に流入させた英語圏の媒介としてホガース・プレスが決定的な役割を果たした
さらに読むならFurther Reading
ジークムント・フロイトの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門精神分析入門(上・下)
フロイト / 訳: 高橋義孝/下坂幸三 / 新潮文庫
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生きた跡を辿るPlaces
ジークムント・フロイトが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ジークムント・フロイト博物館(ウィーン)記念館
ウィーン, オーストリア
ベルクガッセ19番地、1891-1938年に家族とここに住み『夢判断』等を執筆した住居。1971年博物館化
- フロイト博物館(ロンドン)記念館
ロンドン, イギリス
1938年の亡命後、没年までの最後の1年を暮らした家。有名な長椅子とコレクションが当時のまま残る
さらに辿るならExternal References
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