ヘルベルト・マルクーゼ
快適な管理社会の内側で、 なお自由を想像できるのか?
ハイデガーとマルクス、フロイトとヘーゲルを縒り合わせ、管理された消費社会の「一次元性」を告発し、エロスと美的次元に抵抗の残余を探した、フランクフルト学派の亡命アメリカ人哲学者
- 一次元的人間
- エロスと文明
- Great Refusal
- フランクフルト学派
- 新左翼
時代の空気
ヴィルヘルム期ベルリンの同化ユダヤ系ブルジョワジーに生まれ、第一次大戦・1918年ドイツ革命・スパルタクス団敗北の世代だ。1928-32年フライブルクでハイデガーとフッサールに師事し、1933年アーリア条項とナチ政権で亡命、ロックフェラー援助の社会研究所と共に渡米。1942-50年OSS・国務省でナチ戦犯リスト作成と脱ナチ化計画起草、戦後は冷戦下アメリカで批判理論を続けた。1965年UCサンディエゴ移籍、1968年パリ・ベルリン・バークレーの学生運動でMarx・Mao・Marcuseと並称、ニューレフトの参照点に。アンジェラ・デイヴィスを弟子に持ち、晩年は反戦・エコロジー・美的次元へ拓いた。
01ベルリンの絹織物商家 — 帝政末期のユダヤ系ブルジョワジーの少年
1898年7月19日、ベルリン西郊シャルロッテンブルクの同化ユダヤ系一家に生まれた。父カール・マルクーゼは織物商として成功した実業家、母ゲルトルート・クレスロフスキーは中産階級の家庭教育を受けた女性で、家はシャルロッテンブルクの広いアパルトマンにあった。少年ヘルベルトは公立ギムナジウムカイザリン・アウグスタ・ギムナジウムに通い、ホラチウスとギリシア悲劇に親しむ古典的教養の中で育った。彼の子供時代は、ベンヤミン(投資家の息子)の子供時代と地続きのもの — ヴィルヘルム期ベルリンの同化ユダヤ系ブルジョワジーの、最後に輝いた世代である。
1916年、18歳で第一次大戦に徴兵され、ベルリンの予備軍に配属された。前線には出なかったが、1918年11月のドイツ革命に際しては兵士評議会(Soldatenrat)の一員となる。この体験が彼の政治化の起点だった — 皇帝退位、ベルリン蜂起、1919年1月のスパルタクス団の蜂起とローザ・ルクセンブルク・カール・リープクネヒトの殺害。19歳の彼は、社会民主党政権がローザたちを見殺しにし、自由軍団に殺害させたことに深い不信を抱き、SPDから離脱した(正式には1917年USPDに移り、ローザ殺害後に政党活動から一旦離れる)。「敗北した革命」が、以後の彼の思考の原点になる。
02フライブルク — ハイデガーの下で博士論文、『存在と時間』への応答
1919年、ベルリンに戻りベルリン大学で文学・哲学・政治学を学ぶ。1922年、フライブルク大学で文学博士号を取得(『ドイツの芸術家小説』、シュレーゲルからトーマス・マンまでを扱う)。卒業後一時ベルリンに戻り、父の家業を手伝いつつ古書店経営に関わったが、学問への執着は消えなかった。
1927年、『存在と時間』が刊行される。マルクーゼはこの書を「10年ぶりに真に哲学的な書物が出た」と直感し、翌1928年、フライブルクのハイデガーのもとに戻る。当初はハイデガーの下での教授資格論文を目指した。1930-32年の間、フライブルクの助手としてハイデガーと密接に働き、『ヘーゲルの存在論と歴史性の理論の基礎づけ』(1932)を教授資格論文として提出する(ただし正式な認可には至らず)。
この時期の彼の論考『歴史的唯物論の現象学への貢献』(1928、『フィロゾフィッシェ・ヘフテ』誌)は、マルクスとハイデガーを接続する最初の試みだった。ハイデガーの「現存在の具体性」を、マルクスの「具体的歴史的主体としての労働者階級」へと展開する。これは後年の「実存論的マルクス主義」の先駆的テクストであり、『存在と時間』への最初期の実質的応答のひとつとして哲学史的価値を持つ。
しかし1933年4月、ハイデガーはナチ党に入党、5月にフライブルク大学学長に就任する。マルクーゼは直ちに師と訣別した。1947年の書簡で彼はハイデガーに「あなたの沈黙は、あなたの最悪の発言以上に雄弁である」と書き送り、ナチス加担への釈明を求めたがハイデガーは実質的に答えなかった。政治的決裂の鮮烈さに反比例して、彼は生涯、ハイデガーから受け取った「具体性」と「実存」の哲学的要請を手放さなかった — この両義性が、彼の思考の重層性の源である。
03フランクフルト社会研究所への参加、1933年亡命
1932年末、ハイデガーのもとでの教授資格の道が閉ざされつつあったマルクーゼは、エトムント・フッサールの推薦を得てホルクハイマーのに加わる。ホルクハイマーはマルクーゼの1928年論文に注目しており、翌年の『』に彼を寄稿者として迎え入れた。1933年1月のヒトラー政権成立時、マルクーゼは研究所ジュネーヴ支部のスタッフとしてスイスにいた。彼はドイツに戻らず、そのまま亡命者となった。
1934年、研究所のニューヨーク移転に伴いコロンビア大学の一員として渡米。以後マルクーゼは1941年までニューヨーク、1941年以降は一時ワシントンに移る。研究所の在外活動はロックフェラー財団の援助を一つの支柱としていた。この時期の『社会研究誌』掲載論文は傑作揃いで、特に「自由主義の国家観における全体主義の闘争」(1934)は、ワイマール期自由主義がファシズムへ反転する内的論理を、ヘーゲル=マルクス主義的に分析した先駆的テクスト。また「本質論と文化批評」(1936)、「哲学と」(1937)は、ホルクハイマーの綱領論文と双璧をなす批判理論の自己定義である。
この亡命期の彼の哲学的姿勢は、アドルノよりもより直接的に古典哲学の伝統を継承する傾向にあった。ヘーゲルの弁証法、マルクスの労働概念、カントの自律概念 — これらを「近代の解放的遺産」として守り抜くこと。アドルノが「同一性論理そのものの否定」へ向かったのに対し、マルクーゼは理性の解放的可能性への希望を手放さなかった。この差異は、後年の1968年をめぐる二人の対立の理論的伏流となる。
04戦時中のOSS勤務、戦後ブランダイス大学へ
1941年、戦争の拡大で研究所の経費はさらに逼迫した。ホルクハイマー・アドルノがカリフォルニアへ移るなか、マルクーゼは生計のためにOSS(Office of Strategic Services、米戦略情報局、CIAの前身)のリサーチ&アナリシス部門に職を得た。ワシントンに移り、同じく研究所から流れてきたフランツ・ノイマン(『ベヒモート』1942の著者)、オットー・キルヒハイマーらと机を並べる。
OSSでのマルクーゼの仕事は、ナチス・ドイツの政治構造分析・脱ナチ化プランの起草・戦後占領統治の設計だった。彼は「ドイツの反ナチ勢力マニュアル」や「占領下ドイツの再教育計画」の起草に関わり、ナチ戦犯リスト作成にも携わった。戦後はOSSから国務省の中央ヨーロッパ部門に移り、1951年まで国家の雇用者として働く。ソ連・東欧分析の責任者の一人でもあった(この時期の経験は後の『ソヴィエト・マルクス主義』1958の基礎となる)。
批判理論家が米政府の諜報機関で働いていた事実は、1960年代になって一部で問題視されたが、マルクーゼ自身は「あれはナチスを打倒するための反ファシスト戦争への参加だった」と終生明確に答えた。戦後の彼の右派からの攻撃者は「CIAの子飼い」と中傷したが、むしろ戦後アメリカの冷戦的右傾化が加速するにつれ、彼は政府の職を退く決意を固めてゆく。
1951年、国務省を辞し学界に戻る。コロンビア大学・ハーバード大学でのロシア研究の客員研究員を経て、1954年、ブランダイス大学(マサチューセッツ州ウォルサム、1948年創立のユダヤ系の新設大学)の政治哲学教授に就任した。ブランダイス時代(1954-65)に書かれたのが『』と『』である。
豊かな社会は、反対の余地を生み出すことで反対を吸収する。異議申し立ては体制の装飾になり、否定性そのものが商品化される。
05『エロスと文明』(1955)と『一次元的人間』(1964) — 抑圧なき文明は可能か
『エロスと文明 — フロイトの哲学的探求』(Eros and Civilization: A Philosophical Inquiry into Freud、1955年ビーコン・プレスから刊行)は、フロイトの『文化への不満』(1930)の左派的書き換えである。
フロイトは、文明は本能の抑圧なしには成立しないと論じた。労働・秩序・一夫一婦制は、快楽原則を現実原則に従属させることによってのみ可能だ、と。マルクーゼはこの議論に二つの概念を導入する。第一に「基本的抑圧」(basic repression)と「余剰抑圧」(surplus-repression)の区別。文明の維持に必要な最低限の抑圧(基本的抑圧)と、特定の支配形態(階級支配、家父長制、)を維持するための過剰な抑圧(余剰抑圧)を区別する。第二に「業績原理」(performance principle)という概念 — フロイトの「現実原則」を、歴史的に特殊化して資本主義的労働倫理として捉え直す。
結論は挑発的だった — 生産力の発展は、すでに余剰抑圧の歴史的必要を越えている。残された問題は、「まだ実現されていない自由」をどう想像するかである。ここでマルクーゼは「美的次元」と「エロスの解放」へと踏み込む。労働が疎外されない遊び(play)として再統合され、身体が生産の道具ではなく喜びの場として解放される可能性 — このユートピア的位相は、後の1960年代カウンターカルチャーの理論的支柱になる。オーフェウスとナルキッソス、フロイトが抑圧すべきと見たこの二つの神話形象を、マルクーゼは「来るべき文明の予示」として救い出した。
ここでのアドルノとの分岐が『エロスと文明』の固有性を際立たせる。アドルノのフロイト受容は『権威主義的パーソナリティ』(1950)に典型的なように、抑圧の病理の側 — 反ユダヤ主義や権威服従の心理的メカニズム — を分析する。マルクーゼはフロイトをむしろ解放の資源として読み替える。「エロス」は単なる性衝動ではなく、生を保持し結合する力(Freud 後期の「生の本能」)として再定義され、政治的解放と身体的解放の接合点になる。アドルノが「享楽の商品化」を警戒する同じ地点で、マルクーゼは「抑圧されない享楽の政治的可能性」を語る — この差異は単なる楽観/悲観の温度差ではなく、精神分析を批判理論に翻訳する際の方法の根本的差異である。
『一次元的人間 — 先進産業社会のイデオロギー研究』(One-Dimensional Man: Studies in the Ideology of Advanced Industrial Society、1964)は、より直接に現代資本主義批判である。
中心テーゼは明快だ。高度に発達した資本主義は、批判を体制内化することによって批判を無力化する。かつて芸術・宗教・哲学はこの世界の他なるもの(もう一つの可能な現実)を提示していたが、産業社会はこれらの「二次元性」を吸収・商品化し、「一次元的」な現実肯定へと平らに均した。労働組合は体制内の交渉装置となり、芸術はデザインとなり、性は抑圧的脱昇華の名のもとマーケティングの対象となる。否定性そのものが商品化されるのが現代である。
ここで見落とされがちなのは、『一次元的人間』がウィトゲンシュタイン・オースティン流の日常言語哲学・機能主義社会学(パーソンズ)・行動主義心理学への詳細な内在的批判として組み立てられていることだ(第二部「」がこの分析の中心)。マルクーゼは、戦後米英の分析哲学と社会科学が「観察される事実の記述に自足する」態度を共有することを、『一次元的人間』の方法論的射程として名指す。つまりこの書は体制全体の「雰囲気」的告発ではなく、特定の学知の手続きに内在する政治性を腑分けする、批判的科学論の書でもある — この理論的独自性は、学生運動史の熱量に吸われがちだが、アドルノの文化産業論でもホルクハイマーの道具的理性批判でもなく、統合された社会の内側で理性の二次元性を守るというマルクーゼ固有の構えを成している。
この書は、アルジェリア戦争、公民権運動、初期ベトナム反戦運動の文脈で読まれ、1960年代後半のニューレフトにとっての必読書となる。ただし同時に、マルクーゼ自身は本書の結論部で「事態の変革の主体は見えない」と書いており、体制の外部としての少数者・学生・第三世界・周縁化された者への言及にとどめている。楽観の書ではなく、閉塞の深さを測る書として書かれていた。
0668年運動の思想的父 — 学生運動との交感、アドルノとの亀裂
1965年、マルクーゼはUCサンディエゴ(カリフォルニア大学サンディエゴ校)の政治学教授に移る。翌年から世界同時多発的に広がる学生運動の中で、彼はMarx, Mao, Marcuse(「三つのM」)と並び称される思想的参照点となった。『ニューヨーク・タイムズ』『シュピーゲル』『ル・モンド』が次々と彼を特集し、パリ五月革命、ベルリンSDS、バークレー自由言論運動の学生たちは彼の著作をリュックに詰めて闘った。
しかしマルクーゼ自身の学生運動への関わりは、紋切り型の「68年の導師」像よりも遥かに批判的で慎重だった。1967年のベルリン自由大学での講演「人道的社会主義のユートピア的問題」で、彼は学生に「あなたがたは少数者である、革命の主体ではまだない」と繰り返し語った。1968年以降の論考『』(An Essay on Liberation、1969)は、学生運動への共感を表明しつつも、彼らの暴力化・先鋒主義・反知性主義への警戒を明示していた。
アドルノとの亀裂は、この1968年をめぐって深刻化した。1969年1月、フランクフルト社会研究所を占拠しようとした学生に対しアドルノが警察を呼んだ事件の後、アドルノは親友マルクーゼに苦衷の書簡を送る(1969年4月14日)。マルクーゼの返信は、学生運動の暴力性の現実性を認めつつも、「批判理論の代表者が警察の力を借りること自体が、理論の信頼性を傷つける」と率直に述べ、アドルノの決定を厳しく批判した。
アドルノは1969年8月に急逝する。マルクーゼは追悼文で「私たちの最も親密な不一致は、常に共通の地盤の上にあった」と書いた。二人の批判理論は、運動への態度で分岐しつつ、批判の根源では最後まで同じ源泉に立っていた。
この時期の弟子にアンジェラ・デイヴィスがいた。ブランダイス時代(1965-67)の学部学生として彼女はマルクーゼに出会い、UCサンディエゴで博士論文の指導を受けた。1969年に共産党員であることを理由にUCLA講師職を解任された彼女を、マルクーゼは「学問の自由への政治的攻撃」として公然と擁護する。1970年8月、彼女が誘拐・殺人共犯容疑でFBI最重要指名手配リストに載り、1972年の公判で無罪となるまで、マルクーゼは支援委員会に名を連ねた。批判理論と人種・刑事司法批判の接続点が、この師弟関係のなかに生まれた。
同時期、マルクーゼの身辺にも運動から来る暴力の影が落ちる。1968-69年、カリフォルニアの右派団体が「マルクーゼを解雇せよ」「マルクーゼをキャンパスから追い出せ」という圧力をUCサンディエゴに掛け、KKK系団体から殺害予告が届いた。大学内には24時間の警備が付き、学生たちは「マルクーゼを守れ」とピケを張った。70代の老教授は、アメリカ右派の敵意と学生たちの防衛に挟まれながら、それでも講義を続けた。
07UCサンディエゴで晩年、『美的次元』— Frankfurt 最後の守護者
1970年代、マルクーゼはUCサンディエゴの名誉教授として執筆を続ける。学生運動の退潮、ベトナム戦争終結、反文化の商品化 — 楽観の時代は既に終わっていた。
彼の最後の主著『美的次元 — マルクス主義美学の批判に向けて』(The Aesthetic Dimension: Toward a Critique of Marxist Aesthetics、1977、原書はドイツ語)は、マルクス主義正統派の「芸術の階級性」テーゼへの反論として書かれた。芸術の政治性は、階級内容でも党派性でもなく、その形式の自律性にある。芸術が現にある現実を拒絶する力は、作品の完結性と形式美によって保たれる。ここでアドルノの『美的理論』(1970)と深く共鳴する遺言的テクストが立ち上がる — 二人の批判理論家は、晩年に同じ結論に到達した。
1979年7月、ハーバーマス(マルクーゼとアドルノの双方を師と仰ぐ第二世代批判理論家)の招きで、マルクーゼは西ドイツシュタルンベルク(ミュンヘン近郊、マックス・プランク研究所)に訪問中、講演と対話に臨んでいた。7月25日、講演中に倒れ、7月29日、ハーバーマスの家で看取られながら脳卒中により死去。81歳。アドルノ没後10年、ホルクハイマー没後6年。第一世代の最後の守護者だった。
家族については、最初の妻ソフィー・ヴェルトハイム(1922年結婚)が1951年に没し、息子ペーターを残した。1955年、フランツ・ノイマンの未亡人インゲ・ヴェルナー・ノイマンと再婚、彼女は1973年に没する。1976年に学生時代から知友であったエーリカ・シェロヴァーと三度目の結婚。息子ペーターは都市計画学・経済学で長く活動し、父の遺灰の故国移送を主導した。
遺灰はアメリカに留め置かれていたが、2003年になって息子ペーター・マルクーゼ(都市計画学者)の希望によりベルリン中央墓地(Dorotheenstädtischer Friedhof)に埋葬された。ヘーゲル、フィヒテ、ヘーゲルの妻マリー、ブレヒト、ヘルムート・ブレッカーらが並ぶこの墓地の一角に、彼の簡素な墓碑がある。亡命者の遺灰がベルリンに還るまでに四半世紀を要した。
08主要な出来事と著作
- ベルリンのユダヤ系絹織物商家に誕生
- 第一次大戦徴兵、1918年ドイツ革命で兵士評議会の一員、ローザ暗殺で政治化
- フライブルク大学で文学博士(『ドイツの芸術家小説』)
- 論文『歴史的唯物論の現象学への貢献』、マルクスとハイデガーの接続の先駆
- フライブルクでハイデガーの下、教授資格論文『ヘーゲルの存在論』
- フッサールの推薦で社会研究所に合流、『社会研究誌』に寄稿
- ジュネーヴ亡命、翌年コロンビア大学へ
- 『社会研究誌』に「自由主義と全体主義」「本質論と文化批評」など傑作連作
- 『理性と革命 — ヘーゲルと社会理論の出現』刊行、英語圏でのヘーゲル再評価の基盤
- OSS・国務省で反ナチス分析・脱ナチ化計画・冷戦期ソ連分析に従事
- ブランダイス大学政治哲学教授に就任
- 『エロスと文明』刊行、フロイト左派解釈の古典
- 『一次元的人間』刊行、先進産業社会批判の世界的参照点に
- UCサンディエゴに移籍、以後終生の拠点
- 『解放論』刊行、学生運動との批判的交感。アドルノとの書簡論争
- 『美的次元』刊行、アドルノ『美的理論』と響き合う遺言的テクスト
- 7月29日、シュタルンベルクで脳卒中により死去。81歳
- 遺灰、ベルリン中央墓地に埋葬
残した思想の輪郭
- 実存論的マルクス主義 — ハイデガーの具体的現存在とマルクスの歴史的主体を接続する先駆的試み(1928論文)
- 余剰抑圧と業績原理 — フロイトの抑圧論を歴史化し、基本的抑圧と支配形態維持のための余剰抑圧を区別する
- 一次元性 — 先進産業社会が批判をあらかじめ吸収し、「もう一つの現実」の想像そのものを無力化する体制分析
- (Great Refusal) — 現にある秩序に、まだ名のない「別のもの」の名で否と言う、芸術と政治の交点にある姿勢
- 解放の美的次元 — 芸術の政治性は階級内容ではなく形式の自律性にある。アドルノ『美的理論』と収斂する晩年の定式
- ハイデガーとの両義的関係 — 政治的には鮮烈に訣別しつつ、「具体性」と「実存」の要請を生涯手放さなかった批判理論家
出典と確認メモ
7件- 思想二次資料で確認済み研究上論争あり
研究上論争あり: 「Great Refusal」は1964年『一次元的人間』で高度産業社会批判として展開され、1978年の『美的次元』まで彫琢された定式の要約である。消費と管理が反対を体制内に回収してしまう社会で、芸術...
一次資料を開く公式 Marcuse Internet Archive、ODM 全文公開。Great Refusal の原文 'the Great Refusal — the ...
- 思想二次資料で確認済み研究上論争あり
研究上論争あり: 1964年の『一次元的人間』で導入され、晩年の『美的次元』(1978、Beacon Press 英訳。独語原典『芸術の永続性』は 1977)まで彫琢された定式の要約。消費と管理が反対を体制内に回収して...
- 引用原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 一次元的社会において、反対は体制の枠の中に吸収されてしまう
一次資料を開くMarcuse 公式 family-maintained 公開: One-Dimensional Man (Beacon Press 1964) の書誌 + 中...
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 豊かな社会は、反対の余地を生み出すことで反対を吸収する。異議申し立ては体制の装飾になり、否定性そのものが商品化される。
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 偉大なる拒否 — 現にそうなっている秩序に対して、否と言うこと、それ以外のもの、まだ名付けられていないものの名で否と言うこと
一次資料を開くAn Essay on Liberation (Beacon Press 1969) で Great Refusal 概念を再展開: '1968 student...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: marcuse.mdx pullsource '『一次元的人間』第十章および『美的次元』(1977)で繰り返し彫琢された定式' は Marcuse の 'Great Refusal' / 'oppos...
一次資料を開くMarcuse 公式 family-maintained website: 'Die Permanenz der Kunst' は Carl Hanser Ve...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: quotes.ts marcuse-1.source 「『一次元的人間』第十章および『美的次元』(1978)で繰り返し彫琢された定式」は Herbert Marcuse の Great Refusal...
一次資料を開くMarcuse 公式 family-maintained website。'The Aesthetic Dimension' Beacon Press 1978...
つながり
- マックス・ホルクハイマー
伴走 — フッサールの推薦を受けて1932年末マルクーゼを社会研究所に迎え、ジュネーヴ・ニューヨーク・ワシントンの亡命経路を共有。『社会研究誌』掲載の「本質論と文化批評」「哲学と批判理論」(1936-37)はホルクハイマーの綱領論文と双璧として批判理論の自己定義を形作った。戦後は地理的に離れつつ(ホルクハイマーは西独、マルクーゼは米国)、68年運動をめぐる立場の違いも抱えながら生涯の同志関係を保つ
- ハイデガー
批判的継承 — 1928年論文「歴史的唯物論の現象学への貢献」と教授資格論文『ヘーゲルの存在論と歴史性の理論の基礎づけ』(1932、フライブルクでハイデガー下で執筆)でマルクスと『存在と時間』を接続、実存論的マルクス主義の先駆的定式を与える。1933年ハイデガーのナチ党入党以降は政治的に鮮烈に訣別し1947年書簡で釈明を求めたが、「具体性」と「実存」の哲学的要請は生涯手放さなかった両義的関係
- ヘーゲル
継承 — 英訳主著『理性と革命 — ヘーゲルと社会理論の出現』(1941、オックスフォード大学出版)で英語圏の「ヘーゲル=全体主義の先祖」というポパー的通説に対し、ヘーゲル弁証法を解放の理性の系譜として救出。アメリカでのヘーゲル・ルネサンスの理論的土台となり、後のコジェーヴ系フランス・ヘーゲル受容の英語圏対応物として機能
- マルクス
継承 — 1932年に発見された『経済学・哲学草稿』(1844)への初期寄稿(1932年論考)以降、疎外論を中心に据えたヒューマニスト・マルクス主義の系譜を継承。『ソヴィエト・マルクス主義』(1958)でソ連型マルクス主義を「党の物神化」と批判しつつ、マルクスの解放的核心を守ろうとする批判的マルクス主義
- ジークムント・フロイト
継承 — 『エロスと文明 — フロイトの哲学的探求』(1955)で『文化への不満』(1930)の抑圧論を歴史化し、「基本的抑圧」と「余剰抑圧」、「現実原則」と「業績原則」を区別して資本主義的労働倫理を批判対象化。オーフェウスとナルキッソス像を「来るべき文明の予示」として救い出すフロイト左派解釈の古典
- テオドール・W・アドルノ
対比 — Batch B13b で Adorno→Marcuse 方向に設定。1969年1-4月の書簡往復(研究所占拠事件と警察要請をめぐる)は批判理論内部のもっとも痛ましい対立の一つ。アドルノは「実践への短絡」を警戒し警察を呼んだが、マルクーゼは「批判理論の代表者が警察の力を借りること自体が理論の信頼性を傷つける」と返信。運動への態度で分岐しつつ、批判の根源では同じ源泉に立つ
さらに読むならFurther Reading
ヘルベルト・マルクーゼの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門一次元的人間 ― 先進産業社会におけるイデオロギーの研究
ヘルベルト・マルクーゼ / 訳: 生松敬三、三沢謙一 / 河出書房新社
Amazonでこの版を探す →
※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。
生きた跡を辿るPlaces
ヘルベルト・マルクーゼが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ドロテーエンシュタット墓地墓所
ベルリン, ドイツ
2003年に遺灰が移葬されたマルクーゼの墓所
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
ヘルベルト・マルクーゼを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ヘルベルト・マルクーゼ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Herbert Marcuse"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Herbert Marcuse"
修正を提案する Send a correction
一次資料で確認できる事実誤認は優先して確認します。解釈差異は編集判断です。
修正フォームを開く ▸