マックス・ホルクハイマー
啓蒙そのものが、 野蛮を産み出すのは何故か?
社会研究所を運営しつつ批判理論の綱領を起草、アドルノと『啓蒙の弁証法』を共著し、道具的理性の批判から晩年の神学的転回までを歩んだフランクフルト学派の設計者
- 批判理論
- 啓蒙の弁証法
- 社会研究所
- フランクフルト学派
- 道具的理性
時代の空気
ヴァイマル期のフランクフルト社会研究所はフェリクス・ヴァイルの資金で1923年に創設、初代カール・グリュンベルクの病後を継いで1930年に二代所長に就いた。世界恐慌とナチ台頭、1933年強制移転(ジュネーヴ→パリ→1934年コロンビア大学)を経て、戦中の太平洋岸亡命圏(アドルノ・マルクーゼ・ブレヒト・トーマス・マン・アイスラー)で『啓蒙の弁証法』(1947年アムステルダム、限定700部)が結ばれた。1949年フランクフルト帰還、1951-53年学長として再建、戦後西ドイツの再武装と冷戦同調が進むなか、1968年学生運動とマルクーゼに対する慎重な距離、ハーバーマスとの緊張のなかで終わる。
01シュトゥットガルトの工場主の息子 — 哲学は家業への静かな離反だった
1895年2月14日、ドイツ南部シュトゥットガルト近郊のツッフェンハウゼンに生まれた。父モーリッツ(モーゼス)・ホルクハイマーはユダヤ系の繊維工場経営者、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世から宮廷御用商人の栄誉称号を受けたほどの成功者で、一家はヴュルテンベルクの裕福なブルジョワ層に属していた。父は若いころ姓をモーゼスからホルクハイマーへ改めており、同化したユダヤ系市民層の典型的な軌跡をたどった人物である。母バベッテは信心深く、マックスは一人息子として甘やかされて育った。
父は息子に家業継承を望み、16歳で彼をギムナジウムから引き上げ工場の経営見習いに入れた。3年間、彼は糸の品質管理・出納帳・労働者の監督と格闘した。この経験は二つのものを残した。ひとつは近代工場の合理化が人間に何を強いるかという直接的観察 — 後年の道具的理性批判はここから出ている。もうひとつは、家業に縛られない学問的自由への渇きだった。
寄宿学校時代に出会った同い年の生徒、フリードリッヒ・ポロックとの友情が、この息苦しさのもう一つの出口になった。ポロックは後の経済学者・国家資本主義論の提唱者だが、十代の彼らはまだ「いつか家業を出て学問をやろう」と語り合うだけの少年たちだった。1916年、第一次大戦で陸軍に徴兵されたが、健康上の理由で前線勤務は免れ、ミュンヘンの後方任務にとどまった。「戦争を終えたら哲学をやる」という二人の誓約は、以後50年以上続く共同生活と共同研究の出発点になった。戦後1919年、ホルクハイマーはミュンヘン、その後フランクフルト大学に入り、哲学・経済学・心理学を学ぶ。父の工場は継がなかった。
02フランクフルト社会研究所への道 — 1930年所長就任、批判理論の綱領宣言
1922年、27歳で『カントの判断力批判における目的論的判断力の二律背反』(Antinomie der teleologischen Urteilskraft)で博士号を取得、指導教官は新カント派の心理学者ハンス・コルネリウスだった。1925年、教授資格論文『カント『判断力批判』における目的論の批判』(Über Kants Kritik der Urteilskraft)で教授資格を取得。フランクフルト大学の社会哲学担当講師となる。
社会研究所(Institut für Sozialforschung)は1923年、裕福な穀物商人フェリクス・ヴァイルの出資で設立された、ドイツ初の独立したマルクス主義研究機関だった。初代所長はカール・グリュンベルク(ウィーン出身の社会主義経済史家)。グリュンベルクの病気引退を受け、1930年、35歳のホルクハイマーは第二代所長に就任した。同年ボン大学からも哲学正教授の招聘があったが、彼は研究所と一体となるフランクフルトの社会哲学正教授職を選んで断っている。学際的な共同作業を制度として担うには、ボンの個人講座よりフランクフルトの所長職が要だ、という判断だった。
1931年1月24日の就任講義「社会哲学の現状と社会研究所の課題」(Die gegenwärtige Lage der Sozialphilosophie und die Aufgaben eines Instituts für Sozialforschung)で、彼は批判理論の綱領を宣言した。思弁的な歴史哲学も、没価値的な個別科学も、どちらも社会の現実を捉え損なう。必要なのは哲学者・経済学者・社会学者・心理学者の制度化された共同作業であり、研究所はこの「学際的物質主義」(interdisziplinärer Materialismus、学際的唯物論)の実験場であるべきだ、と。1932年には機関誌『』(Zeitschrift für Sozialforschung)を創刊、1941年の刊行停止までベンヤミン・アドルノ・マルクーゼ・フロム・レーヴェンタールの論考を載せてゆく。
1937年の論考「伝統的理論と」(Traditionelle und kritische Theorie)は、批判理論の自己理解を最も鋭く定式化した文書である。伝統的理論は観察対象と観察者を分離し、事実を中立的に記述しようとするが、この「中立性」自体が既存の社会秩序の再生産に加担する。批判理論は理論家自身が社会の内側にいることを自覚し、「より理性的な社会組織への関心」から出発する思考である。マックス・ヴェーバーの価値自由テーゼへの、この世代からの最も根本的な応答だった。ただし、この論考が書かれた時点でホルクハイマーはもはやフランクフルトにはいなかった。
03ナチスと亡命 — コロンビア大学へ、研究所を制度ごと運び出した男
1933年1月30日、ヒトラー政権成立。その翌月、研究所はナチスに「国家の敵」と指定され、蔵書・文書・建物の差し押さえが決まった。しかしホルクハイマーは1931年の段階ですでに亡命準備に着手していた — 研究所の基金をスイス・ジュネーヴの銀行に移し、ジュネーヴに支部(Société internationale de Recherches sociales)を開設していた。アカデミアの多くが「まさかそこまでは」と油断するなかで、彼はナチスの勝利をすでに織り込んでいた。
1933年3月、研究所はゲシュタポによってフランクフルトの建物を閉鎖される。彼は家族とポロック、レーヴェンタールを連れてまずスイスに移り、パリにも臨時拠点を置いた。1934年、アメリカ社会学の巨頭ロバート・マッキーヴァーとコロンビア大学の招きで、研究所はニューヨーク、コロンビア大学モーニングサイド・キャンパスの一角(117丁目429番地)に建物の提供を受けて移転した。『社会研究誌』は引き続きドイツ語で刊行された — 亡命者の言語を守る意思表示でもあった。ホルクハイマーはここで所長として運営・資金・ビザ手続き・研究の方向付けの一切を担う。
研究所がこの時期に達成した仕事は大きい。『権威と家族に関する研究』(Studien über Autorität und Familie、1936、アドルノ・フロム・マルクーゼらとの共編)、戦後アメリカ・ユダヤ人協会の助成で展開する全5巻シリーズ『偏見研究』(Studies in Prejudice、1949-50、第1巻が『』)への助走、そして何より研究所メンバーの生存。ベンヤミンへの月150フランの送金、ポロックの国家資本主義論、マルクーゼのアメリカ合衆国戦略情報局(OSS)勤務 — これらはすべて、ホルクハイマーが所長として引いた血脈の上で回っていた。「を制度として維持した男」としての彼の功績は、理論史の外側にありながら理論そのものを支えていた。
04Pollock・Adorno との共同研究 — 『啓蒙の弁証法』(1947)
1940年、研究所の財政は逼迫し、多くのメンバーはニューヨークからより家賃の安いロサンゼルスへ移動した。ホルクハイマーはパロスヴェルデスの海を見下ろす丘陵地に家を持ち、アドルノはパシフィック・パリセーズに住み、トーマス・マン、ベルトルト・ブレヒト、ハンス・アイスラー、シェーンベルクら亡命ドイツ知識人の集落「太平洋岸のヴァイマール」の内側に入った。
この亡命の底辺で、ホルクハイマーとアドルノは『啓蒙の弁証法』(Dialektik der Aufklärung)を書き始めた。1944年謄写版、1947年アムステルダムのクヴェリード(Querido)社から限定700部で正式刊行。副題は「哲学的断章」(philosophische Fragmente)。本格的な再刊は1969年を待つことになる、長く半地下の書物だった。
この書物の基本命題は過激である。啓蒙と神話は反対物ではない — 啓蒙はすでに神話であり、神話もまた啓蒙の最初の形だった。呪術からの解放を掲げた啓蒙は、自然支配の道具理性に転じ、やがて人間自身を計算可能な対象へ還元する。ホメロス『オデュッセイア』のオデュッセウス像は啓蒙的主体の原型であり、自然の声に耳を閉ざすことで自己保存を達成する最初の近代人だ。ド・サドはその暗黒面、文化産業(ラジオとハリウッド)はその大衆的帰結。ファシズムと「進歩的な」アメリカ資本主義の連続性を指摘するこの書は、戦時中に書かれた近代批判の古典となる。
アドルノ名義の本、アドルノの独創と読まれがちだが、実際の執筆過程は口述と相互批判による対話である。ホルクハイマーが語る全体の方向と論理構造、アドルノが加える音楽論・文学論・精密な分析。グレーテル・アドルノ(アドルノ夫人)が口述筆記した原稿を二人で推敲する。「どの段落がどちらのものか言えない」とグレーテルは後年証言した。『』はアドルノ哲学ではなく、ホルクハイマー=アドルノの共作として読まれるべき書物である。
この共同作業の隣で、経済学者のフリードリッヒ・ポロックは国家資本主義論(1941年論考「国家資本主義 — その可能性と限界」)を提示していた。ナチス・ドイツとニューディール・アメリカ、ソ連スターリン主義 — これら一見対立する体制が、市場の計画的統制という共通の論理を共有しているという指摘は、『啓蒙の弁証法』の文化産業論と対になる同時代診断だった。ホルクハイマーの仕事は、常にこうした複数の思考の合流点として立ち現れる。
理性が手段の完璧さへと純化されるほど、目的そのものを問うことは「非合理」と呼ばれ、沈黙させられてゆく。
05パロスヴェルデス時代と「道具的理性の批判」(1947)
1944年、ホルクハイマーはコロンビア大学のラテン・アメリカ・プログラムからの招きで連続講義を行う。原稿を練り直し、1947年に『理性の蝕』(Eclipse of Reason、英語で執筆・刊行)としてオックスフォード大学出版局から出版した。この本は『啓蒙の弁証法』の姉妹作であり、同時に英語圏の読者に向けたより入門的な批判理論の提示でもある。
中心概念は「」(instrumental reason)、あるいは「主観的理性」(subjective reason)である。古典的理性(objective reason、プラトン・アリストテレス・スコラ神学のロゴス)は、目的そのものの吟味を含んでいた — 「何がよく生きることか」「何が正義か」という問いと不可分だった。近代の理性は、この問いを放棄して手段の効率計算に特化した。目的は主観の欲望として「ただそこにあるもの」として扱われ、理性の吟味対象から外される。結果、最大の残虐行為が、最大の合理性によって遂行されるという20世紀の逆説が生まれた。
この診断は、現代テクノロジー批判・行政国家論・AI倫理の今日的議論の骨格をなすものだ。ウェーバーの「目的合理性」、ハイデガーの「ゲシュテル(総駆立て)」と響き合いつつ、ホルクハイマーの定式は社会的再生産と権力の経済学的分析を基盤に持つ点でより唯物論的である。『啓蒙の弁証法』が文学的・神話学的だったのに対し、『理性の腐蝕』はより直線的に、英語圏の社会科学への批判として書かれている。
ここでアドルノとの相違が固有の相として立ち上がることにも留意すべきだ。アドルノが向かうのは同一性論理の内側からの否定弁証法 — 概念そのものが対象を取り逃がすその裂け目を、体系の外へ出ずに追跡する。ホルクハイマーの『理性の腐蝕』は逆に、理性の二類型の歴史的取り違えを前面化する。客観的理性(目的への問い)と主観的理性(手段の計算)という区分は、アドルノが原理的に忌避する「古き良き理性の残余への憧れ」を、ホルクハイマーは躊躇なく保存する。この「まだ救えるロゴスがある」という微かな古典主義への傾きは、晩年のショーペンハウアー再読と神学的転回への隠れた導火線でもある。
この時期、ホルクハイマーはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)でも講義しつつ、研究所の次の段階 — ドイツ帰還の可能性 — を検討していた。1948年、帰還の道を探るための短期訪問でフランクフルトに戻り、戦後ドイツの知識状況を視察する。焼け跡の中で、彼は「研究所は帰る、ただし所長として私が帰る」と決意した。
06戦後ドイツ帰還、研究所再建、1950年代の学生への講義
翌1949年、54歳でホルクハイマーは単身、一足先にフランクフルトへ帰還した。1950年、社会研究所が再建され、彼は初代の再建所長に就任する。1951年、フランクフルト大学の学長(Rektor)にも選出された — 敗戦後ドイツで、ユダヤ系亡命者の学長選出は象徴的事件だった。在任は1951-53年、その後も研究所の所長を続けた。
戦後の彼の仕事は三つの顔を持つ。第一に研究所の物理的再建 — 旧校舎はナチスによって破壊されていたが、1951年に戦後復興予算で新校舎が建てられた。第二に戦後ドイツの公共的知性としての役割 — ラジオ講演、新聞寄稿、大学改革、ナチスの過去との対峙(「Aufarbeitung der Vergangenheit」)。アデナウアー政権下の再武装と冷戦同調を彼は黙認に近い形で受け入れ、若いマルクス主義者からは「日和見」と評されたが、研究所を二度と失わないための制度的慎重さでもあった。第三に若い世代への継承 — アドルノと共に、戦後第一世代のドイツ学生に批判理論を手渡す教師としての仕事である。
1950年代の聴講生に、後の第二世代フランクフルト学派の中心となるユルゲン・ハーバーマス、アレクサンダー・クルーゲ、オスカー・ネクトらがいた。若きハーバーマスは1956年から研究所助手を務めたが、1958年の論文「公共性の構造転換」の原稿をめぐりホルクハイマーと衝突する。ホルクハイマーはハーバーマスの初期マルクス主義的熱情を警戒し、「この原稿を研究所の業績として出すわけにはいかない」と論文拒否を決定した。ハーバーマスはマールブルク大学へ移り、同論文は1962年に外部で刊行され現代公共圏論の古典となる。ホルクハイマーの慎重さを「日和見」と批判する声は後年まで続いたが、彼の側の論理は「研究所はまだ再建の途上である、運動的マルクス主義と見なされる余地を残してはならない」という、亡命時代に身体化した制度的慎重さだった。
1958年、ホルクハイマーはアドルノに所長職を譲り、セミフォーマルな名誉所長となる。以後、講義は続けつつも、徐々にスイス・モンタニョーラの別荘での執筆生活へ重心を移してゆく。1968年、パリ五月革命とフランクフルト大学の学生占拠の波が研究所にも及び、若い世代はマルクーゼを精神的指導者と仰いだ。ホルクハイマーは公開書簡でマルクーゼと距離を取り、暴力的直接行動への懐疑を表明した — かつての盟友との別れは、亡命世代と新左翼世代の世代差を象徴する事件として記憶される。
07晩年モンタニョーラ — 神学的転回と遺稿『望郷』
1960年代以降、ホルクハイマーはスイス・ティチーノ州のモンタニョーラ(ヘルマン・ヘッセが晩年を過ごした村)の山荘で過ごすことが多くなった。妻マイドン(Rose Riekher)との二人暮らし。彼はここで短い断章の形式で書き続けた — 雑誌論文でも書物でもなく、日記風の哲学的覚え書きである。これらは死後、『薄暮』(Dämmerung、初版は1934年、拡張版1974)、『哲学的断章』(Notizen)、そして最終的に『望郷 — 全く他なるものへの憧憬』(Die Sehnsucht nach dem ganz Anderen、1970)として編まれる。同じ時期、若年期に距離を置いていたショーペンハウアーを再読し、苦と憐れみの倫理を批判理論の隠れた支柱として再評価していった。
晩年の中心概念は「全く他なるもの(das ganz Andere)への憧憬」である。これは神学者カール・バルトの神概念からの借用だが、ホルクハイマーはそれを否定神学として再機能化する。世界内部の何ものも究極の正義ではない — だからこそ、この世界を超えた「全く他なるもの」への憧れが、抑圧された者の記憶と希望を保持する。神の存在を主張するのではなく、神なき世界の不正義を名指すために、神の名を失わないこと。この位置取りは、弟子のハーバーマスからは「神学化」と批判される一方、ベンヤミンの「救済の閃光」の系譜に自然に連なるものでもあった。
1969年8月、共同研究の伴走者だったアドルノがスイス・ヴィスプで急逝する。ホルクハイマーは公的な追悼を最小限にとどめ、以後ほとんど沈黙のまま断章を書き継いだ。1973年7月7日、西ドイツ・ニュルンベルクの病院で死去。78歳。アドルノの没後4年、マルクーゼに先立つこと6年。「フランクフルト学派の設計者」として始まり、「否定神学者」として終わった生涯だった。ベルンの墓地に埋葬され、モンタニョーラの家にはマイドンの墓と並んで彼の名が刻まれている。
08主要な出来事と著作
- シュトゥットガルト近郊でユダヤ系工場主の息子として誕生
- 父の工場で経営見習い、近代工場の合理化を身体で学ぶ。寄宿学校でポロックと出会う
- ミュンヘン・フランクフルト大学で哲学・経済学・心理学を学ぶ
- 博士論文『カントの目的論的判断力の二律背反』、指導教官コルネリウス
- 教授資格論文『カント『判断力批判』における目的論の批判』
- 社会研究所第二代所長に就任、ボン招聘を断りフランクフルトに留まる
- 就任講義「社会哲学の現状と社会研究所の課題」で批判理論の綱領を宣言
- 機関誌『社会研究誌』を編集、亡命後もドイツ語で継続
- ナチス政権成立、研究所をジュネーヴ・パリ経由でニューヨークへ移設
- 論考『伝統的理論と批判理論』、批判理論の自己理解を定式化
- パロスヴェルデス/パシフィック・パリセーズ亡命期、アドルノと『啓蒙の弁証法』執筆
- 『啓蒙の弁証法』(謄写版44年・クヴェリード社47年限定700部)、『理性の腐蝕』刊
- フランクフルトに帰還、社会研究所再建、『偏見研究』全5巻刊行開始
- フランクフルト大学学長を務め、戦後西ドイツ学術復興の象徴となる
- 所長職をアドルノに譲り、名誉所長に。以後モンタニョーラの山荘へ重心を移す
- 学生運動とマルクーゼに対し公開書簡で慎重な距離を取る
- 8月、アドルノ急逝。以後ほとんど沈黙のまま断章を書き継ぐ
- 『望郷 — 全く他なるものへの憧憬』刊行、神学的転回の結晶
- 7月7日、西ドイツ・ニュルンベルクで死去。78歳
残した思想の輪郭
- 批判理論の綱領宣言 — 1931年就任講義と1937年論考「伝統的理論と批判理論」で、としての批判理論の自己理解を定式化した設計者
- 社会研究所の制度的維持 — 亡命・帰還・再建の三段階を所長として主導し、フランクフルト学派という知的共同体を半世紀以上維持した
- 啓蒙の弁証法 — 呪術からの解放を目指した啓蒙が、道具理性として全体主義に反転する逆説。アドルノとの共作として執筆・推敲
- 道具的理性の批判 — 『理性の腐蝕』(1947)で、古典的・客観的理性から、手段の効率計算に純化された主観的理性への歴史的転落を記述
- 神学的転回 — 晩年の「全く他なるものへの憧憬」、否定神学として読まれる批判理論のもう一つの極、バルトとベンヤミンの間
- 公共的知性としての戦後ドイツ — ラジオ講演と大学改革、1950年代若手(ハーバーマス世代)への教師としての継承
出典と確認メモ
7件- 思想二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 晩年の中心概念は「全く他なるもの(das ganz Andere)への憧憬」である。これは神学者カール・バルトの神概念からの借用だが、ホルクハイマーはそれを否定神学として再機能化する。世界内部の何もの...
- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1944年、ロサンゼルス亡命中のホルクハイマーとアドルノが同僚の少数に配るために謄写刷で綴じ、戦後1947年に刊行した『啓蒙の弁証法』序論の趣旨を平語にしたもの。神話から近代科学へ進んだはずの啓蒙が、...
- 引用原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 資本主義について語ろうとしない者は、ファシズムについても沈黙するほうがよい。
一次資料を開くZeitschrift für Sozialforschung Band 8 (1939/40) S. 115-137 掲載原典。冒頭 S. 115 が問題の文...
- 引用原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 資本主義について語ろうとしない者は、ファシズムについても沈黙するほうがよい
一次資料を開くZeitschrift für Sozialforschung Band 8 (1939/40) S. 115-137 掲載原典。冒頭 S. 115 が問題の文...
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 啓蒙は、それが関わるすべてを自己保存の計算へと還元する。そして最後には、自分自身をも一つの対象として換算してしまう
一次資料を開くDialektik der Aufklärung 全文 PDF。Vorrede + 第1論考『Begriff der Aufklärung』に Aufkläru...
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 理性が手段の完璧さへと純化されるほど、目的そのものを問うことは「非合理」と呼ばれ、沈黙させられてゆく。
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: horkheimer.mdx pullsource『『啓蒙の弁証法』序論(1944/47、アドルノとの共著)』は学術上正確な書誌記述。Max Horkheimer / Theodor W. Adorn...
一次資料を開くFischer Verlag 公式書誌レコード。著者 Max Horkheimer + Theodor W. Adorno、初刊 1947 (Querido) ...
つながり
- マルクス
継承 — 1931年社会研究所所長就任講義「社会哲学の現状と社会研究所の課題」および1937年論考「伝統的理論と批判理論」で、マルクスのイデオロギー批判と商品分析を「学際的唯物論」として再構成。ただし正統派マルクス主義の経済決定論は退け、フロイトの精神分析と結合させた批判理論の綱領を起草
- ヘーゲル
批判的継承 — 教授資格論文『カント『判断力批判』における目的論の批判』(1925)以来カント・ヘーゲルを批判的に継承、『啓蒙の弁証法』(1947)では弁証法を「同一性による自然支配」へ反転させる道具理性の運動として読み替え。ヘーゲル左派の系譜でありつつ、総合と絶対精神の観念論を斥ける
- テオドール・W・アドルノ
伴走 — 1931年頃フランクフルトで研究所所長と若手ハビリタント兼寄稿者として出会って以来、亡命・共著・帰還・所長継承まで38年にわたる伴走。『啓蒙の弁証法』(1944謄写版/47クヴェリード社)はグレーテル・アドルノの口述筆記のもと二人の対話と相互推敲で執筆され、「どの段落がどちらのものか言えない」共作として成立。1958年アドルノへの所長職引き継ぎで批判理論は第二段階へ
- ヘルベルト・マルクーゼ
伴走 — フッサールの推薦を受けて1932年末マルクーゼを社会研究所に迎え、ジュネーヴ・ニューヨーク・ワシントンの亡命経路を共有。『社会研究誌』掲載の「本質論と文化批評」「哲学と批判理論」(1936-37)はホルクハイマーの綱領論文と双璧として批判理論の自己定義を形作った。戦後は地理的に離れつつ(ホルクハイマーは西独、マルクーゼは米国)、68年運動をめぐる立場の違いも抱えながら生涯の同志関係を保つ
さらに読むならFurther Reading
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入門啓蒙の弁証法 ― 哲学的断想
マックス・ホルクハイマー、テオドール・W・アドルノ / 訳: 徳永恂 / 岩波文庫
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