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マックス・ホルクハイマー

Max Horkheimer·1895–1973·ドイツ/アメリカ·

世界が賢くなるほど、 なぜ人はひどいことができるのか?

社会研究所を運営しつつ批判理論の綱領を起草、アドルノと『啓蒙の弁証法』を共著し、道具的理性の批判から晩年の神学的転回までを歩んだフランクフルト学派の設計者

  • 批判理論
  • 啓蒙の弁証法
  • 社会研究所
  • フランクフルト学派
  • 道具的理性
ナチスに追われた学者たちが、逃げた先のアメリカで「進歩」の裏側を考えた時代 — ひらく

時代の空気

ヴァイマル期のフランクフルト社会研究所はフェリクス・ヴァイルの資金で1923年に創設、初代カール・グリュンベルクの病後を継いで1930年に二代所長に就いた。世界恐慌とナチ台頭、1933年強制移転(ジュネーヴ→パリ→1934年コロンビア大学)を経て、戦中の太平洋岸亡命圏(アドルノ・マルクーゼ・ブレヒト・トーマス・マン・アイスラー)で『啓蒙の弁証法』(1947年アムステルダム、限定700部)が結ばれた。1949年フランクフルト帰還、1951-53年学長として再建、戦後西ドイツの再武装と冷戦同調が進むなか、1968年学生運動とマルクーゼに対する慎重な距離、ハーバーマスとの緊張のなかで終わる。

01「研究所の名では出せない」

1958年、西ドイツのフランクフルト。の所長マックス・ホルクハイマーは、63歳になっていた。ナチスに追われて国を出てから、25年がたっていた。焼け跡に帰り、研究所を自分の手で建て直してからは、まだ8年だった。

その研究所に、一人の若い助手がいた。である。彼は「公共性の構造転換」という論文の原稿を書き上げていた。人々が集まって話し合う場が、歴史の中でどう変わってきたかを追った研究である。のちに現代の古典と呼ばれる本になる。

ホルクハイマーは、この原稿を止めた。「この原稿を研究所の業績として出すわけにはいかない」。若い助手のマルクス主義への熱を、彼は警戒したのである。ハーバーマスは研究所を去り、マールブルク大学へ移った。論文は1962年、外の出版社から世に出た。

奇妙な話である。この研究所は、社会を批判する学問のために作られた場所だった。「」という名前を与えたのは、ほかならぬホルクハイマー本人である。その男が、若い批判の芽を、自分の手で研究所の外へ出した。

なぜ、批判の設計者が、批判を止める側に回ったのか。答えは、彼が一度すべてを失った日々の中にある。時は63年前、1895年に戻る。

02工場の帳簿と、ひとつの約束

1895年2月14日、ドイツ南部シュトゥットガルトの近く、ツッフェンハウゼンに生まれた。父モーリッツはユダヤ系の繊維工場の経営者だった。皇帝ヴィルヘルム二世から宮廷御用商人の称号を受けるほどの成功者である。父は若いころ、姓をモーゼスからホルクハイマーへ改めていた。ドイツ社会にとけ込もうとするユダヤ系市民の、よくある道筋だった。母バベッテは信心深く、一人息子のマックスは甘やかされて育った。

父は、息子に工場を継がせるつもりだった。16歳のとき、マックスはギムナジウム(中高一貫の学校)から引き上げられ、工場の経営見習いになった。3年間、糸の品質検査、出納帳、労働者の監督と格闘した。近代の工場が、人にどれほどの無理を強いるか。彼はそれを、本ではなく現場で知った。のちのへの批判は、この帳簿の前から始まっている。

息苦しい日々に、もう一つの出口があった。寄宿学校で出会った同い年の少年、フリードリッヒ・ポロックとの友情である。二人は「いつか家業を出て、学問をやろう」と語り合った。1916年、第一次世界大戦で陸軍に徴兵される。ただ健康上の理由で前線には出ず、ミュンヘンでの後方勤務にとどまった。「戦争が終わったら哲学をやる」。二人の約束は、それから50年以上続く共同生活と共同研究の始まりになった。

戦争が終わった1919年、彼はミュンヘン、次いでフランクフルトの大学に入った。哲学、経済学、心理学を学ぶ。父の工場は、継がなかった。ただ、工場で見たものは、彼の中に残り続ける。

03三十五歳の所長

1922年、27歳で博士号を取った。テーマはカントの『批判』にある目的論の問題だった。指導教官は、新カント派の心理学者ハンス・コルネリウス。1925年には教授資格を得て、フランクフルト大学で社会哲学を教え始める。

フランクフルトには、少し変わった研究機関があった。社会研究所(Institut für Sozialforschung)である。1923年、裕福な穀物商人がお金を出して作った。ドイツで初めての、独立したマルクス主義の研究機関だった。初代所長はカール・グリュンベルク。ウィーン出身の社会主義の経済史家である。

1930年、グリュンベルクが病気で退いた。35歳のホルクハイマーが、二代目の所長に選ばれる。同じ年、ボン大学からも哲学の正教授として招かれていた。彼はボンを断り、研究所と一体になるフランクフルトの教授職を選んだ。一人の教授の講座より、いくつもの学問を束ねる所長の席のほうが、やりたいことに近かったからである。

1931年1月24日、就任講義の日が来た。題は「社会哲学の現状と社会研究所の課題」。彼はここで、批判理論の設計図を宣言した。頭の中だけの歴史哲学も、事実を並べるだけの個別科学も、社会の本当の姿をつかみそこねる。必要なのは、哲学者・経済学者・社会学者・心理学者が、制度として一緒に働くことだ。彼はこれを「学際的唯物論」と呼んだ。翌1932年には機関誌『』(Zeitschrift für Sozialforschung)を作った。ベンヤミン、アドルノ、マルクーゼ、フロムといった名前が、ここに論文を載せていく。

設計図はできた。仲間も集まった。だがこの時、ドイツの街では、ヒトラーの党が急速に力を伸ばしていた。

04ヒトラーより先に動いた男

1933年1月30日、ヒトラーが政権を取った。翌月、研究所は「国家の敵」と指定される。蔵書も文書も建物も、差し押さえが決まった。

だがホルクハイマーは、2年前から動いていた。1931年の時点で、研究所の基金をスイス・ジュネーヴの銀行に移していた。ジュネーヴには支部も開いていた。大学の多くの人が「まさかそこまでは」と思っていたころ、彼はナチスの勝利を計算に入れていたのである。

1933年3月、フランクフルトの建物はゲシュタポ(ナチスの秘密警察)に閉鎖された。彼は家族とポロック、レーヴェンタールを連れて、まずスイスへ移った。パリにも仮の拠点を置いた。1934年、社会学者ロバート・マッキーヴァーとコロンビア大学の招きで、研究所はニューヨークに移る。大学のキャンパスの一角、117丁目429番地に建物を提供された。『社会研究誌』は、そこでもドイツ語のまま出し続けた。逃げてきた者たちの言葉を守る、という意思表示だった。

ニューヨークでの彼は、所長として一切を引き受けた。運営、資金、ビザの手続き、研究の方向づけ。この時期の研究所の仕事は大きい。1936年の『権威と家族に関する研究』。戦後に全5巻となる『偏見研究』への助走。その第1巻が『』である。そして何より、仲間の命を守ったこと。ベンヤミンには月150フランを送り続けた。ポロックはを書き、マルクーゼはアメリカの戦略情報局(OSS)で働いた。これらはすべて、ホルクハイマーが所長として引いた血管の上で回っていた。

1937年、彼は論文「伝統的理論と批判理論」(Traditionelle und kritische Theorie)を書いた。事実をただ外から眺める学問は、中立のつもりで、いまの社会の味方をしている。批判理論は、自分が社会の内側にいることを知ったうえで考える。「もっと理性的な社会」への関心から出発する思考である。こうして批判理論の名前が定まった。ただし、この論文が書かれたとき、彼はもうフランクフルトにはいなかった。

資本主義について語ろうとしない者は、ファシズムについても沈黙するほうがよい。

— 1939年、亡命先ニューヨークで『社会研究誌』に載せた論考「ユダヤ人とヨーロッパ」の一節

ファシズムは、たまたま起きた事故ではない。彼はそう考えていた。では、それを産んだ「進歩」の側には、何があったのか。

05太平洋岸のヴァイマール

1940年、研究所のお金は底をつきかけていた。多くのメンバーは、家賃の安いロサンゼルスへ移った。ホルクハイマーはパロスヴェルデスの、海を見下ろす丘に家を持った。アドルノはパシフィック・パリセーズに住んだ。近くには、、ベルトルト・ブレヒト、ハンス・アイスラー、シェーンベルクがいた。ドイツを追われた芸術家や学者の集落である。人はそれを「太平洋岸のヴァイマール」と呼んだ。

この亡命の底で、ホルクハイマーとアドルノは一冊の本を書き始めた。『』(Dialektik der Aufklärung)である。1944年にまず謄写版(ガリ版刷り)で配られた。1947年、アムステルダムのクヴェリード社から、700部だけ正式に出た。副題は「哲学的断章」。広く読まれるのは1969年の再刊を待つ、長く日陰の本だった。

本の主張は過激である。啓蒙(理性で迷信を追い払う進歩)と神話は、反対のものではない。啓蒙はすでに神話であり、神話も啓蒙の最初の形だった。迷信からの解放を掲げた啓蒙は、自然を支配する道具理性に変わる。やがて人間自身を、計算できる対象へと変えてしまう。の『オデュッセイア』の主人公オデュッセウスは、その最初の姿だった。自然の声に耳をふさぎ、生きのびることだけを達成する、最初の近代人である。ド・サドはその暗い面、(ラジオとハリウッド)はその大衆的な結末。ファシズムと「進歩的な」アメリカ資本主義は地続きだ、と二人は書いた。

啓蒙は、それが関わるすべてを自己保存の計算へと還元する。そして最後には、自分自身をも一つの対象として換算してしまう

— 『啓蒙の弁証法』序論(1944/47)。亡命の底、パロスヴェルデスとパシフィック・パリセーズの間で書かれた

この本は、アドルノの本と読まれがちである。だが実際の書き方は、口述と相互批判による対話だった。ホルクハイマーが全体の方向と論理の骨組みを語る。アドルノが音楽論・文学論・細かな分析を加える。アドルノの妻グレーテルが口述筆記した原稿を、二人で直す。「どの段落がどちらのものか言えない」と、グレーテルは後に語った。

そのすぐ隣で、経済学者のポロックは国家資本主義論を書いていた(1941年)。ナチス・ドイツ、のアメリカ、スターリンのソ連。一見ばらばらの体制が、市場を計画で統制するという同じ論理を持つ、という指摘である。『啓蒙の弁証法』の文化産業論と対になる、同じ時代の診断だった。

啓蒙は、なぜ自分自身を食ってしまうのか。ホルクハイマーはこの問いを、次は英語で、もっとまっすぐに書こうとする。

06手段だけが賢くなる

1944年、コロンビア大学の招きで、彼は連続講義を行った。その原稿を練り直し、1947年に『』(Eclipse of Reason)として出版する。英語で書き、オックスフォード大学出版局から出した。日本語では『理性の腐蝕』とも訳される。『啓蒙の弁証法』の姉妹作であり、英語圏の読者に向けた、より入門的な批判理論の提示でもあった。

中心の言葉は「道具的理性」である。「主観的理性」とも言う。昔の理性は、目的そのものを考えることを含んでいた。「何がよく生きることか」「何が正義か」という問いと切り離せなかった。近代の理性は、この問いを手放し、手段の効率を計算することに特化した。目的は、人が勝手に欲しがる「ただそこにあるもの」として、理性の外に置かれる。その結果、最大の残虐が、最大の合理性によって実行される。20世紀の逆説である。

理性が手段の完璧さへと純化されるほど、目的そのものを問うことは「非合理」と呼ばれ、沈黙させられてゆく。

— 『理性の腐蝕』第一章「手段と目的」(1947)。工場の帳簿を知る男が、亡命先で英語圏に向けて書いた

この時期、彼はUCLAでも講義しながら、次の段階を考えていた。ドイツへ帰れるか、である。1948年、帰還の道を探るための短い訪問で、フランクフルトに戻った。焼け跡の中で、彼は決めた。「研究所は帰る、ただし所長として私が帰る」。

07焼け跡に帰る

翌1949年、54歳のホルクハイマーは、一人で先にフランクフルトへ帰った。1950年、社会研究所が再建される。1951年にはフランクフルト大学の学長(Rektor)に選ばれた。敗戦後のドイツで、ユダヤ系の亡命者が学長になる。それ自体が象徴的な出来事だった。学長の在任は1951年から53年まで。その後も研究所の所長を続けた。

戦後の彼の仕事には、三つの顔があった。第一に、研究所の建物の再建。旧校舎はナチスに壊されていたが、1951年、戦後復興の予算で新校舎が建った。第二に、戦後ドイツの公共的な知性としての役割。ラジオ講演、新聞への寄稿、大学改革、そしてナチスの過去と向き合うこと。ただし、アデナウアー政権の再軍備と冷戦への同調を、彼は黙認に近い形で受け入れた。若いマルクス主義者たちは、これを「日和見」と呼んだ。第三に、次の世代への継承。アドルノと共に、戦後最初のドイツの学生たちに、批判理論を手渡す教師となった。

1950年代の教室には、後にの第二世代の中心となる若者たちがいた。ユルゲン・ハーバーマス、アレクサンダー・クルーゲ、オスカー・ネクト。ハーバーマスは1956年から研究所の助手を務めた。

そして1958年。冒頭の場面である。ホルクハイマーは、助手の原稿を研究所の名で出すことを拒んだ。「日和見」という批判は、後々まで続いた。だが彼の側の論理は、はっきりしていた。研究所はまだ再建の途中である。運動的なマルクス主義と見なされる余地を、一つも残してはならない。それは、亡命の日々に体で覚えた、制度を守るための慎重さだった。

啓蒙は、それが関わるすべてを自己保存の計算へと還元する。そして最後には、自分自身をも一つの対象として換算してしまう

— 同じ言葉を、彼自身の戦後の側から読み直すとき——『啓蒙の弁証法』序論(1944/47)

一度すべてを失った男は、研究所を二度と失わないために、計算した。自己保存の計算が人を痩せさせる、と書いた本人が、である。彼はそれに気づいていなかったのか。それとも、気づいたうえで引き受けたのか。

同じ1958年、彼は所長の席をアドルノに譲り、名誉所長となった。講義は続けながら、スイス・モンタニョーラの別荘での執筆へ、少しずつ重心を移していく。1968年、パリの五月革命とフランクフルト大学の学生占拠の波が、研究所にも届いた。若い世代は、かつての同志マルクーゼを精神的な指導者と仰いだ。ホルクハイマーは公開書簡でマルクーゼと距離を取り、暴力的な直接行動への疑いを表明した。亡命世代と新左翼世代の別れを、この手紙は象徴している。

08全く他なるものへの憧れ

1960年代から、彼はスイス・ティチーノ州のモンタニョーラで過ごすことが多くなった。作家ヘルマン・ヘッセが晩年を過ごした村である。妻マイドン(ローゼ・リーカー)との二人暮らしだった。彼はここで、短い断章の形で書き続けた。雑誌の論文でも本でもない、日記のような哲学の覚え書きである。これらは後に、『薄暮』の拡張版(1974)、『哲学的断章』として編まれた。そして『望郷 — 全く他なるものへの憧憬』(1970)がある。同じころ、若いときには遠ざけていたショーペンハウアーを読み直した。苦しみと憐れみの倫理を、批判理論の隠れた支えとして見直していったのである。

晩年の中心にあった言葉は「全く他なるもの(das ganz Andere)への憧憬」だった。もとは神学者の神の概念である。ホルクハイマーはそれを、否定神学として作り直した。神を「〜ではない」の形でしか語らない神学のことである。この世界の中の何ものも、最後の正義ではない。だからこそ、この世界を超えた「全く他なるもの」への憧れが、抑えつけられた人々の記憶と希望を保つ。神がいると主張するのではない。神のいない世界の不正義を名指すために、神の名を捨てない。弟子のハーバーマスは、これを「神学化」と批判した。

1969年8月、共同研究の伴走者だったアドルノが、スイスのヴィスプで急死した。ホルクハイマーは公の追悼を最小限にとどめ、以後ほとんど沈黙のまま断章を書き継いだ。1973年7月7日、西ドイツ・ニュルンベルクの病院で死去。78歳。アドルノの死から4年後、マルクーゼより6年早かった。ベルンの墓地に葬られ、モンタニョーラの家には、マイドンの墓と並んで彼の名が刻まれている。

「フランクフルト学派の設計者」として始まり、「否定神学者」として終わった生涯である。理性を計算の道具にしてはならない、と書いた男が、最後に頼ったのは理性ではなかった。この世にないものへの憧れだった。研究所を守るために計算し、若い批判を止めた男が、その計算の外に何かを残そうとしたのだとしたら。あなたが守るために計算しているものの、その外側には、何があるだろうか。

09思想の骨格 — 批判理論の綱領・道具的理性・神学的転回

1931年の就任講義「社会哲学の現状と社会研究所の課題」(Die gegenwärtige Lage der Sozialphilosophie und die Aufgaben eines Instituts für Sozialforschung)が宣言した綱領は、思弁的な歴史哲学も、没価値的な個別科学も、どちらも社会の現実を捉え損なうという診断から出発する。必要なのは哲学者・経済学者・社会学者・心理学者の制度化された共同作業であり、研究所はこの「」(interdisziplinärer Materialismus、学際的唯物論)の実験場であるべきだ、と。1932年創刊の『社会研究誌』は、1941年の刊行停止までベンヤミン・アドルノ・マルクーゼ・フロム・レーヴェンタールの論考を載せ、この綱領の発信回路となった。

1937年の論考「伝統的理論と批判理論」は、批判理論の自己理解を最も鋭く定式化した文書である。伝統的理論は観察対象と観察者を分離し、事実を中立的に記述しようとするが、この「中立性」自体が既存の社会秩序の再生産に加担する。批判理論は理論家自身が社会の内側にいることを自覚し、「より理性的な社会組織への関心」から出発する思考である。マックス・ヴェーバーの価値自由テーゼへの、この世代からの最も根本的な応答だった。

『啓蒙の弁証法』の基本命題 — 啓蒙と神話は反対物ではなく、啓蒙はすでに神話であり、神話もまた啓蒙の最初の形だった — は、呪術からの解放を掲げた啓蒙が自然支配の道具理性に転じ、やがて人間自身を計算可能な対象へ還元し、に反転する逆説を描く。ファシズムと「進歩的な」アメリカ資本主義の連続性を指摘するこの書は、ポロックの国家資本主義論(ナチス・ドイツ、ニューディール・アメリカ、ソ連スターリン主義が市場の計画的統制という共通の論理を共有するという診断)と対をなす同時代診断であり、ホルクハイマーの仕事は常にこうした複数の思考の合流点として立ち現れる。執筆過程が口述と相互批判による対話であった以上、『啓蒙の弁証法』はアドルノ哲学ではなく、ホルクハイマー=アドルノの共作として読まれるべき書物である。

『理性の腐蝕』の中心概念「道具的理性」(instrumental reason)、あるいは「主観的理性」(subjective reason)は、古典的理性(objective reason、プラトン・アリストテレス・スコラ神学のロゴス)との対比で定式化される。古典的理性は目的そのものの吟味を含んでいたが、近代の理性はこの問いを放棄して手段の効率計算に特化し、目的は主観の欲望として理性の吟味対象から外される。この診断は、現代テクノロジー批判・行政国家論・AI倫理の今日的議論の骨格をなすものだ。ウェーバーの「目的合理性」、ハイデガーの「ゲシュテル(総駆立て)」と響き合いつつ、ホルクハイマーの定式は社会的再生産と権力の経済学的分析を基盤に持つ点でより唯物論的である。『啓蒙の弁証法』が文学的・神話学的だったのに対し、『理性の腐蝕』はより直線的に、英語圏の社会科学への批判として書かれている。

ここでアドルノとの相違が固有の相として立ち上がることにも留意すべきだ。アドルノが向かうのは同一性論理の内側からの — 概念そのものが対象を取り逃がすその裂け目を、体系の外へ出ずに追跡する。ホルクハイマーの『理性の腐蝕』は逆に、理性の二類型の歴史的取り違えを前面化する。客観的理性(目的への問い)と主観的理性(手段の計算)という区分は、アドルノが原理的に忌避する「古き良き理性の残余への憧れ」を、ホルクハイマーは躊躇なく保存する。この「まだ救えるロゴスがある」という微かな古典主義への傾きは、晩年のショーペンハウアー再読と神学的転回への隠れた導火線でもある。

晩年の「全く他なるもの(das ganz Andere)への憧憬」は、神学者カール・バルトの神概念からの借用だが、ホルクハイマーはそれを否定神学として再機能化する。世界内部の何ものも究極の正義ではない — だからこそ、この世界を超えた「全く他なるもの」への憧れが、抑圧された者の記憶と希望を保持する。神の存在を主張するのではなく、神なき世界の不正義を名指すために、神の名を失わないこと。この位置取りは、弟子のハーバーマスからは「神学化」と批判される一方、ベンヤミンの「救済の閃光」の系譜に自然に連なるものでもあった。フランクフルト学派の設計者は、批判理論の一方の極を道具的理性批判に、もう一方の極を否定神学に置いて、その生涯を閉じたのである。

10主要な出来事と著作

  1. シュトゥットガルト近郊でユダヤ系工場主の息子として誕生
  2. 父の工場で経営見習い、近代工場の合理化を身体で学ぶ。寄宿学校でポロックと出会う
  3. ミュンヘン・フランクフルト大学で哲学・経済学・心理学を学ぶ
  4. 博士論文『カントの目的論的判断力の二律背反』、指導教官コルネリウス
  5. 教授資格論文『カント『判断力批判』における目的論の批判』
  6. 社会研究所第二代所長に就任、ボン招聘を断りフランクフルトに留まる
  7. 就任講義「社会哲学の現状と社会研究所の課題」で批判理論の綱領を宣言
  8. 機関誌『社会研究誌』を編集、亡命後もドイツ語で継続
  9. ナチス政権成立、研究所をジュネーヴ・パリ経由でニューヨークへ移設
  10. 論考『伝統的理論と批判理論』、批判理論の自己理解を定式化
  11. パロスヴェルデス/パシフィック・パリセーズ亡命期、アドルノと『啓蒙の弁証法』執筆
  12. 『啓蒙の弁証法』(謄写版44年・クヴェリード社47年限定700部)、『理性の腐蝕』刊
  13. フランクフルトに帰還、社会研究所再建、『偏見研究』全5巻刊行開始
  14. フランクフルト大学学長を務め、戦後西ドイツ学術復興の象徴となる
  15. 所長職をアドルノに譲り、名誉所長に。以後モンタニョーラの山荘へ重心を移す
  16. 学生運動とマルクーゼに対し公開書簡で慎重な距離を取る
  17. 8月、アドルノ急逝。以後ほとんど沈黙のまま断章を書き継ぐ
  18. 『望郷 — 全く他なるものへの憧憬』刊行、神学的転回の結晶
  19. 7月7日、西ドイツ・ニュルンベルクで死去。78歳

残した思想の輪郭

  • 批判理論の綱領宣言 — 1931年就任講義と1937年論考「伝統的理論と批判理論」で、学際的物質主義としての批判理論の自己理解を定式化した設計者
  • 社会研究所の制度的維持 — 亡命・帰還・再建の三段階を所長として主導し、フランクフルト学派という知的共同体を半世紀以上維持した
  • 啓蒙の弁証法 — 呪術からの解放を目指した啓蒙が、道具理性として全体主義に反転する逆説。アドルノとの共作として執筆・推敲
  • 道具的理性の批判 — 『理性の腐蝕』(1947)で、古典的・客観的理性から、手段の効率計算に純化された主観的理性への歴史的転落を記述
  • 神学的転回 — 晩年の「全く他なるものへの憧憬」、否定神学として読まれる批判理論のもう一つの極、バルトとベンヤミンの間
  • 公共的知性としての戦後ドイツ — ラジオ講演と大学改革、1950年代若手(ハーバーマス世代)への教師としての継承
1973年7月7日、西ドイツ・ニュルンベルクの病院で死去。78歳。遺言によりベルンの墓地に埋葬された。晩年を過ごしたスイス・ティチーノ州モンタニョーラの家には、妻マイドンの墓碑と並んで彼の名が刻まれている。

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さらに読むならFurther Reading

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  • 入門啓蒙の弁証法 ― 哲学的断想

    マックス・ホルクハイマー、テオドール・W・アドルノ / 訳: 徳永恂 / 岩波文庫

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  • 副読フランクフルト学派 ― ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ

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