ヴァージニア・ウルフ
考えるための自分の部屋を、 あなたは持っているだろうか?
意識の流れで内面を書き、女性の独立を「部屋と年500ポンド」に定義したモダニズム作家
- 意識の流れ
- 自分だけの部屋
- モダニズム
女は大学の図書館にさえ自由に入れない。そんなロンドンに、二つの大きな戦争がやってくる — ひらく
時代の空気
エドワード朝からジョージ五世、二つの大戦をはさむロンドンを生きた。父レズリー・スティーヴンは『英国人名事典』初代編集主幹を務めるヴィクトリア朝後半の文人で、サロンには文壇の重鎮が出入りした。女性は大学の正規学位や多くの職業から閉め出され、図書館にも自由に入れない。女性参政権は1918年に三十歳以上、1928年に成人全員へと段階的に開かれていく。ブルームズベリー界隈で同時代のジョイス、エリオット、マンスフィールドと響き合いながら、1936年のスペイン内戦、甥ジュリアン・ベルの戦死、1940年の空襲を経て第二次大戦下のサセックスへ移る。
01ウーズ川、1941年3月
1941年3月28日の朝。ヴァージニア・ウルフは、サセックスの自宅モンクス・ハウスを出た。59歳だった。向かった先は、家から歩いて十数分の川岸。近くを流れるウーズ川である。
彼女はそのまま、川の中へ歩いて入った。コートのポケットには、石が詰められていた。遺体が見つかったのは、およそ三週間後のことだ。
家には二通の手紙が残されていた。一通は夫へ。もう一通は姉ヴァネッサへ。そこに書かれていたのは、三つのことだった。また「狂気」が来ることへの恐れ。レナードへの、これ以上ない感謝。そして、これ以上あなたの人生を奪えない、という告白。
「あなたがくれたほどの幸せを、私は誰にも与えることができませんでした」(レナード宛)。
不思議に思わないだろうか。この人は、女性が自分の力で生きるとはどういうことかを、はっきり書いた作家だ。夫への感謝を、最後の手紙にまで書いた人でもある。それなのに、なぜ石をポケットに入れて川へ向かったのか。
答えを探すには、彼女の始まりまで戻らなければならない。時は59年前、ロンドンの一軒の家に戻る。
02ハイド・パーク・ゲイトの家
1882年1月25日、ロンドン西部のケンジントン。ハイド・パーク・ゲイト22番地という家で、一人の女の子が生まれた。名はアデライン・ヴァージニア・スティーヴン。父は。名の知れた評論家で、『英国人名事典』という大きな辞典の初代の編集の長を務めた人だ。母ジュリアは若い頃、画家バーン=ジョーンズらの絵や写真のモデルを務め、看護の心得もある人だった。
両親はどちらも再婚だった。だから家族は入り組んでいた。姉ヴァネッサ(のちの画家ヴァネッサ・ベル)、兄ソビー、弟エイドリアン。母の前の夫の子であるジョージ、ジェラルド、ステラ。父の前の妻の娘ローラ。家には父の文人仲間が出入りした。ヘンリー・ジェイムズ、メレディス、ハーディ。ヴィクトリア朝の終わりの、いかにも文学の家だった。
その家に、死が続けてやってくる。1895年、母ジュリアがリウマチ熱で急に亡くなった。49歳だった。ヴァージニアは13歳。ここで彼女は、最初の心の崩れを経験する。1897年には、姉ステラも世を去った。
もう一つ、この家には言えない出来事があった。ヴァージニアと姉ヴァネッサは少女の頃、異父兄のジェラルドとジョージから性的虐待を受けていた。彼女がそれを書き残したのは、ずっと後のことだ。晩年の自伝の草稿(1939)に、抑えた筆で記している。
1904年、父レズリーが亡くなる。ヴァージニアは22歳。二度目の深い崩れが来た。彼女は屋根から飛び降りた。あの川の朝まで続く長い闘いが、ここから始まっている。では、この家を出た彼女は、どこへ行ったのか。
03ブルームズベリーへ
父の死のあと、スティーヴン家の姉弟は引っ越した。行き先はブルームズベリー。ロンドン中心部のゴードン・スクエア46番地だ。堅苦しいケンジントンとは、空気が違った。
兄ソビーが、ケンブリッジ大学の友人たちを家へ連れてきた。リットン・ストレイチー、のちに経済学者となるジョン・メイナード・ケインズ、小説家E・M・フォースター。姉ヴァネッサと、その夫となるクライヴ・ベル。美術批評家ロジャー・フライ。集まりはやがて、と呼ばれるようになる。何でも自由に話す。恋愛のきまりも問い直す。芸術も経済も哲学も、垣根なく語る。そんな仲間だった。
1905年、ヴァージニアは雑誌『コーンヒル・マガジン』に文章を書き始めた。書いて生きる道が、ここから始まる。
だが、死はまだ終わらない。1906年、ギリシャ旅行の途中で兄ソビーが腸チフスにかかり、亡くなった。26歳だった。1907年には姉ヴァネッサがクライヴ・ベルと結婚して家を出た。ヴァージニアは弟エイドリアンと、別の家で暮らすことになる。
1912年8月、30歳のヴァージニアは結婚した。相手はレナード・ウルフ。兄ソビーのケンブリッジ時代の友人だ。セイロン(今のスリランカ)で植民地の役人をしていたが、辞めて帰ってきたばかりだった。レナードは生涯、彼女の仕事と病を支え続ける。二人は、並んで走る伴走者のような夫婦になっていく。
けれど翌1913年、三度目の大きな崩れが来た。彼女は処方された薬ベロナールを大量に飲んだ。長い入院。そして、ゆっくりとした回復。その回復のなかで、夫妻はある道具を家に迎えることになる。
04手で刷る、手で書く
1915年、第一作『船出』が出た。ヴァージニアは33歳になっていた。
1917年、夫妻は自宅に小さな印刷機を置いた。ロンドン郊外リッチモンドの家、ホガース・ハウスである。ここで始めたのがという出版社だ。はじめは活字を手で組み、手で刷った。自分たちの本を、自分たちの手で作る。
小さな印刷所は、やがて大きな仕事をする。T・S・エリオットの長い詩『荒地』(1923)。フロイトの著作の英語訳。E・M・フォースター、キャサリン・マンスフィールド。そしてヴァージニア自身の本のすべて。同じ頃、ジョイスが『ユリシーズ』を出してほしいと持ちかけてきた。だが設備が小さすぎて、引き受けられなかった。ホガース・プレスは、同じ時代の作家たちと出版者として向き合う場所でもあった。
そして印刷は、ヴァージニアにとって「手でやる仕事」だった。心の釣り合いを保つための、大事な装置でもあった。
1920年代、彼女は自分の文体を見つけていく。『ジェイコブの部屋』(1922)は、戦争で死んだ若者を描く代わりに、その「いない」ことを書いた実験作だった。
ダロウェイ夫人は、花は自分で買いに行くと言った
05ロンドンの一日、灯台、四百年
(1925)。舞台は1923年6月のロンドン、ただ一日である。政治家の妻クラリッサ・ダロウェイが、夜のパーティを開くまでの時間。そこに、もう一人の人物が重なる。第一次大戦から帰り、戦争神経症を病む兵士セプティマス・ウォレン・スミス。彼は自ら命を絶つ。人の頭の中を流れる思いを、そのまま文にする。これがと呼ばれる手法だ。この小説は、その手法の頂点とされる。
(1927)。舞台はヘブリディーズ諸島の、夏の別荘。画家リリー・ブリスコウが、ラムジー夫人を絵に描こうとする。ラムジー夫人は母ジュリアの肖像だ。第二部「時は流れる」では、夫人の死と戦争の歳月が、時間そのものとして通り過ぎていく。父と母への長い応答を、この小説でようやく果たした。ウルフは後年、そう振り返っている。
1928年のは、恋文でもあった。相手は貴族の女性詩人。数年にわたる親しい恋愛を、性別の境を越えて四百年を生きる主人公の伝記に仕立てた。ヴィタの息子ナイジェルは後年、この本を「文学史上もっとも長く美しいラブレター」と呼んだ。
同じ1928年の秋、ウルフはケンブリッジで、女子学生たちの前に立つことになる。
06五百ポンドと自分の部屋
1928年10月、ケンブリッジ大学。女子のためのニューナム・カレッジとガートン・カレッジで、ウルフは「女性と小説」と題して二度、講演をした。翌年、それを長いエッセイにまとめて出す。(1929)である。
小説を書こうとするなら、女性は金と自分だけの部屋を持たなければならない。
中心にあるのは、はっきりした要求だった。「女性が小説を書こうとするなら、年500ポンドと自分だけの部屋を持たねばならない」。つまり、お金と場所である。女性が歴史の中で本を残せなかったのは、才能がなかったからではない。台所と家の切り盛りと出産に縛られ、自分の書斎を持てなかったからだ。
エッセイの入り口には、その日の体験が書かれている。男性の研究者なら自由に入れる大学の図書館に、女性は紹介状がないと入れなかった。そしてウルフは、一人の架空の人物を作る。「シェイクスピアの妹ジュディス」。兄と同じ才能があっても、妹は同じ道を歩めない。そう示してみせた。
この本は、今のフェミニズム批評の古典になった。1938年には続きにあたるを出す。そこでは、ファシズムと家の中の父権制を、根が同じものだと論じた。戦争を生む仕組みと、女性を押さえつける仕組み。その二つは、つながっている。
小説も止まらない。(1931)は六人の心の声だけで編んだ、詩のような長編だ。『歳月』(1937)が続く。だが1930年代、ヨーロッパには別の影が伸びていた。その話の前に、ここまでの作品を読み解く手がかりを、一度まとめておこう。
07読み解く——意識の流れ、時間、部屋
意識の流れ(stream of consciousness)は、もともと心理学者ウィリアム・ジェイムズの用語である。ウルフはこれを文学の技法へ転換した。外的出来事を筋として並べるのではなく、内面の非連続な流れそのものを小説の主題に据える。『ダロウェイ夫人』では、クラリッサとセプティマスという直接には交わらない二つの意識が、ロンドンの一日という時間の器の中で並走し、パーティと自死が交錯する構造をとる。
時間の叙述もウルフの核心である。『灯台へ』第二部「時は流れる」は、ラムジー夫人の死と戦争の歳月を、人物の視点を離れた抽象化された時間として通過させる。『ジェイコブの部屋』が戦没した若者の不在そのものを描いたのと同じく、書けないものをいかに書くかという探求だった。『波』の六人の内的独白による長篇詩的小説も、この形式実験の延長線上にある。
『自分ひとりの部屋』の命題————は、女性の創作には経済的独立と私的空間が必要だという論である。文学史の空白を才能ではなく条件の問題として読み直す視点は、現代フェミニズム批評の出発点になった。『三ギニー』のはこれを戦間期の政治へ拡張し、ファシズムと家父長制を同根の暴力として告発する。戦争体制と女性抑圧を一つの構造として見る、戦間期の視座である。
そしてブルームズベリー・グループ。芸術・経済・哲学・性を横断する20世紀前半の知的共同体であり、ホガース・プレスはその出版の器だった。自由な議論、性的慣習の刷新、分野の横断。ウルフの実験は、この共同体と、手で刷る仕事に支えられていた。
08ふたたび、ウーズ川へ
1930年代、ヨーロッパにファシズムの影が伸びた。ウルフ夫妻はともに、戦争とファシズムに反対する立場をはっきりさせた。レナードは労働党の政策の相談役を務めた。レナード自身がユダヤ人だった。ナチスの迫害が強まるなか、危険は身に迫るものとして感じられていた。
1937年7月、姉ヴァネッサの長男ジュリアン・ベルが、スペイン内戦で戦死した。共和派の側で、衛生兵として従軍していた。29歳だった。甥を失った姉への手紙。そして戦争を生む文化への怒り。それが翌年の『三ギニー』の核に流れ込んだ。
1940年9月、ドイツ軍の空襲でブルームズベリーの家と、ロンドン郊外の家が大きく壊れた。夫妻はサセックスのロドメル村、モンクス・ハウスにいた。ここでウルフは最後の作品を書き上げる。だが、長年の病がまた戻ってくる気配は濃かった。後の伝記作者たちは、彼女の病を今でいう双極性障害にあてはめている。
そして1941年3月28日の朝が来る。私たちはもう、その朝を知っている。二通の手紙。また狂気が来ることへの恐れ。夫への最大の感謝。これ以上あなたの人生を奪えない、という言葉。
彼女は13歳で母を失ってから、三度の大きな崩れを生きてきた。屋根から飛び、薬を飲み、それでも回復し、そのたびに本を書いた。手で活字を組み、自分の部屋を持ち、部屋を持てない女性たちのために書いた。夫は生涯の伴走者だった。それでも、また来る「狂気」の前で、彼女は川を選んだ。
遺灰は、モンクス・ハウスの庭の楡の木の下に埋められた。入水の岸辺は、家から歩いて十数分の場所だった。
冒頭の「なぜ」に、あなたはもう自分の答えを持っているかもしれない。だが、もう一つだけ考えてみてほしい。彼女は「自分の部屋」を手に入れた。書くための金も、場所も、支える人もあった。それでも守りきれなかったものは、何だったのだろう。そしてあなたの部屋には、それがあるだろうか。
09主要な出来事と著作
- ロンドン・ハイド・パーク・ゲイトに誕生。父は批評家レズリー・スティーヴン
- 母ジュリア急逝、最初の精神的破綻
- 父レズリー死去、二度目の破綻
- 『コーンヒル・マガジン』に寄稿開始、ブルームズベリーへ移住
- ブルームズベリー・グループ形成、兄ソビー死去
- レナード・ウルフと結婚
- 三度目の精神的崩壊、ベロナール大量服用
- 第一作『船出』刊行
- ホガース・プレス創業
- 『ジェイコブの部屋』刊行
- 『ダロウェイ夫人』刊行
- 『灯台へ』刊行
- 『オーランドー』刊行(ヴィタ・サックヴィル=ウェストへ捧ぐ)
- 『自分ひとりの部屋』刊行
- 『波』刊行
- 甥ジュリアン・ベル、スペイン内戦で戦死
- 『三ギニー』刊行
- ロンドンの自宅が空襲で被災
- 3月28日、ウーズ川で入水自殺、59歳。『幕間』没後刊
残した思想の輪郭
- 意識の流れ ― 外的出来事ではなく、内面の非連続な流れを小説の主題に据える技法
- 『自分ひとりの部屋』 ― 女性の創作には経済的独立と私的空間が必要だという論
- ブルームズベリー・グループ ― 芸術・経済・哲学・性を横断する20世紀前半の知的共同体
- 時間の叙述 ― 『灯台へ』の「時は流れる」に代表される、時間の抽象化された描写
- ファシズムと家父長制 ― 『三ギニー』で両者を同根の暴力として告発した戦間期の視座
つながり
- ジェーン・オースティン
先駆 — ウルフが「妨げのない手で書いた最初の女性作家」と呼んだ人。客間の沈黙に、社会の総体が写っている。
- ウルストンクラフト
先駆 — 「年500ポンドと自分の部屋」——その独立論の出発点にウルフが置いた、女性教育論の最初の重要な書の著者。
- ジークムント・フロイト
同時代 — ウルフ夫妻の出版社が英訳全集を引き受けた人。晩年のロンドンで、ウルフは水仙を持って訪ねている。
さらに読むならFurther Reading
ヴァージニア・ウルフの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門ダロウェイ夫人
ヴァージニア・ウルフ / 訳: 土屋政雄 / 光文社古典新訳文庫
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生きた跡を辿るPlaces
ヴァージニア・ウルフが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
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