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ウルストンクラフト

Mary Wollstonecraft·1759–1797·イングランド·

女性が「弱い」のは、生まれつきか、 それとも教え方のせいか?

『女性の権利の擁護』で女性の教育と理性を論じた、近代フェミニズムの出発点

  • 女性の権利の擁護
  • 教育
  • 理性
革命の熱がロンドンに届く一方、娘には教育も財産も回ってこない時代 — ひらく

時代の空気

18世紀後半のロンドンは産業革命と植民地交易で富を集める一方、女性の高等教育や政治参加は閉ざされ、長子相続が娘たちから資産を奪っていた。1789年のフランス革命勃発に急進派知識人は熱狂し、バーク『フランス革命の省察』(1790)を巡る論戦が燃え上がる。ジョセフ・ジョンソンの書店にはブレイク・プリーストリー・フュースリーらディセンター系の知識人が集い、ウルストンクラフトはここを足場に書評と翻訳で生計を立てた。革命下のパリでは恐怖政治が進行していた。

01テムズ川から引き上げられた人

ロンドンを流れるテムズ川に、ひとりの女性が身を投げた。通りかかった人が気づき、川から引き上げた。彼女は助かった。名をメアリー・ウルストンクラフトという。

その数年前、彼女は一冊の本でロンドンの論壇を騒がせていた。『』。女性は男性の飾りではなく、理性を持つ一人の人間だ。そう言い切った本である。書き手は、イギリスで最も有名な女性の論客になっていた。

その彼女が、恋人の裏切りに絶望して死のうとした。女性の自立を説いた人が、なぜ一人の男のために川へ向かったのか。この問いに答えるには、彼女の生まれた家から見ていく必要がある。時は1759年に戻る。

02父の酒、兄の相続、家を出た長女

1759年4月27日、メアリーはロンドン東部のスピタルフィールズに生まれた。家は毛織物けおりもの商だった。祖父は商売で成功した人で、父エドワードはその財産を継いだ。父はロンドン郊外に農地を買い、地主階級の仲間入りをねらった。

だが父は投資に失敗を重ねた。家族はイギリス各地を転々とした。ビバリー、ホックストン、ラフハム、ウェールズ。幼いメアリーは7度の引っ越しを経験した。家は落ちぶれていく一方だった。

父は酒癖が悪く、母ともメアリーとも衝突した。少女は夜ごと、母の寝室の扉の前に横たわった。父の暴力を止めるためである。この姿は、後の伝記でくり返し描かれる場面になった。

兄エドワードは長男だった。相続権も教育費も兄が独り占めした。妹たちには、ほとんど教育が与えられなかった。メアリーは独学で古典や詩や歴史を読んだ。ジェーン・アーデンとファニー・ブラッドという二人の友人の家で、書物への道を見つけた。

19歳のとき、メアリーは家を出た。教育のある女性に開かれた仕事は、当時ほとんどなかった。婦人の話し相手、家庭教師、寄宿学校きしゅくがっこう(生徒が寝泊まりする学校)の運営。彼女はその数少ない道を渡り歩くことになる。その一つひとつが、世の中の仕組みを彼女に教えていく。

03ニューイントン・グリーンの学校と、ジョンソンの本屋

1784年、25歳になる年に、メアリーは友人ファニー・ブラッドと学校を開いた。場所はロンドン北部の。ここにはディセンター(国教会に属さないキリスト教徒)の知識人が集まっていた。メアリーは牧師ぼくしを師として仰いだ。

翌1785年、ファニーがリスボンで亡くなった。難産なんざんと結核だった。メアリーは看取りに駆けつけたが、間に合わなかった。大きな喪失を抱えたまま、1787年にはアイルランドの貴族キングスバラ家の家庭教師になる。だが夫人と折り合わず、1年で解雇された。

同じ1787年、28歳のメアリーは決意する。書くことで食べていく、と。拠点はロンドンの出版人の店だった。この書店には、詩人ウィリアム・ブレイクや化学者ジョゼフ・プリーストリーが出入りした。画家ヘンリー・フュースリー、詩人ウィリアム・コウパーもいた。当時ロンドン屈指の、急進的(社会を根本から変えようとする)知識人のたまり場である。

最初の本は『』(1787)。家庭教師の経験をもとに書いた。女性の教育は、従順な「マナー」を仕込むことではない。理性と、自分の足で立つ力を鍛えることだ。そう論じた。翌1788年には自伝的な小説『メアリー』と、児童向けの物語集『実生活からの原話』を出す。

ジョンソンの月刊誌『アナリティカル・レビュー』では書評を書いた。フランス語・ドイツ語・イタリア語の翻訳もこなした。書評家として腕を磨いていたその頃、海の向こうで歴史が動く。

0428日で書いた反論

1789年7月、フランス革命が起きた。ロンドンの急進派きゅうしんはは熱狂した。プライス牧師は説教で、フランスの新しい政治的自由を祝福した。これに対し、政治家エドマンド・バークが1790年11月に『』を出す。革命を攻撃し、プライスも批判する本だった。

メアリーはすぐに反論に取りかかった。わずか28日で『』を書き上げ、1790年12月に出した。バークへの、最初の公の反論の一つである。初版は名前を伏せた。しかし第二版で著者名を明かした。女性が政治の論争に正面から加わる。当時の論壇には衝撃だった。

の『人間の権利』(1791)より早かったことは、忘れられがちだ。だがそれは、メアリーの筆がどれほど速かったかを物語る。人間の権利を論じた彼女は、次にもっと身近な問いへ向かう。人間の半分を占める女性の権利は、どこにあるのか。

05『女性の権利の擁護』、1792年

1792年1月、『女性の権利の擁護』を出した。32歳だった。主な相手は、ルソーの教育論の第五巻である。そこには、理想の女性ソフィの育て方が書かれていた。「男性の快のために作られた存在」としての女性。メアリーはこの女性観を徹底して批判した。

論の核心はこうだ。徳(正しく生きる力)は理性に根ざす。理性は訓練によって伸びる。女性に理性の訓練を与えず、同時に「徳高くあれ」と命じる。これは論理的な矛盾である。したがって女性の教育改革こそが、女性の徳と自由の前提条件だ。

徳に性別があってはならない。理性は性別に応じて異なるものではないからだ

— 『女性の権利の擁護』(1792)。徳が性別で分かれるという通念を切り捨てた一節

本は具体的な提案を伴っていた。男女共学。体育・科学・政治を含む教育内容。良妻賢母モデルからの離脱。経済的に自立する道。将来の政治参加。「女性を合理的な伴侶はんりょにせよ、愛玩あいがん動物ではなく」。この命題は19世紀を通じてフェミニズム思想の基底となった。

同書は広く読まれ、同時に激しく笑われた。政治評論家ホレス・ウォルポールはメアリーを「ペチコートを履いたハイエナ」と呼んだ。だが論壇には賛否の議論が起きた。メアリーは一躍、イギリスで最も有名な女性論客になった。

女性の精神を強化せよ、そうすれば盲目的服従も息絶えるだろう。

— 『女性の権利の擁護』第二章。教育こそが服従を終わらせる、と論じた場面の言葉

本の中で女性の理性を説いた人は、次に自分の理性を試される場所へ行く。革命のさなかのパリである。

06パリ、イムレイ、そしてテムズ川

1792年12月、33歳のメアリーは単身パリに渡った。革命が進むパリで、(革命の穏健派)のサロンに出入りした。『フランス革命の起源と進展についての歴史的・道徳的見解』(1794)も書き進めた。

パリで、アメリカ人の実業家ギルバート・イムレイと恋に落ちた。結婚はしなかった。だがイムレイは彼女を「妻」としてアメリカ大使館に登録した。革命下で危険になった英国人の彼女を守るためだった。1794年、長女ファニー・イムレイを産んだ。

しかしイムレイは浮気を重ね、メアリーを捨てた。1795年と1796年、メアリーは二度、自ら命を絶とうとした。一度目は阿片あへん。二度目がテムズ川だった。通行人に救助された。冒頭の場面である。

女性の自由を論じた知識人が、恋人の裏切りに絶望して自らの命を絶とうとした。この矛盾は、後の批評家たちにも重くのしかかる伝記的事実となった。本で理性を説いた人が、理性だけで生きられたわけではなかった。ここまでの道のりを知る読者なら、その重さが分かるはずだ。

この時期、イムレイの事業のためにスカンジナビアへ一人で旅もしている。帰国後に『スウェーデン、ノルウェー、デンマーク短期滞在中の書簡』(1796)を出した。叙情的じょじょうてきな旅行記で、コウルリッジやワーズワースらロマン派の詩人に影響を与えた。ロンドンに戻った彼女は、ジョンソンの店で、かつて論敵と見ていた男と再会する。

07ゴドウィン、出産、そして『回想録』

その男はといった。(1793)を書いた哲学者で、国家そのものを疑うアナーキスト(無政府主義者)だった。二人は最初、互いを論敵と見ていた。だが急速に近づいた。

メアリーは結婚という制度を、理屈の上では批判していた。それでも1797年3月、ひそかに結婚する。生まれてくる子を、正式な夫婦の子として守るためだった。この結婚で、「イムレイ夫人」が作り話だったことが公になった。スキャンダルになった。

1797年8月30日、次女メアリーが生まれた。後の、『フランケンシュタイン』の作者である。出産のあと胎盤たいばんが完全に出ず、医師が手で取り除こうとした。そこから感染症の産褥熱さんじょくねつが起きた。9月10日、メアリー・ウルストンクラフトは死んだ。38歳だった。

翌1798年、ゴドウィンは『「女性の権利の擁護」著者回想録』を出した。深い愛からの本だった。そこには自殺未遂も、結婚せずに子を産んだことも、イムレイとの関係も、率直に書かれていた。テムズ川の出来事を世に知らせたのは、夫の愛だったのである。

これが災いした。19世紀の大半、イギリス社会はメアリーを「堕落した女」として忘れた。思想ではなく、生き方が裁かれたのだ。1850年代以降、作家ジョージ・エリオットらが著作を読み直し始める。19世紀末から20世紀にかけて、彼女はフェミニズム思想の出発点として復権した。

徳も知性も理性も、性別ではなく訓練の結果である。そう言い切った人の人生は、理性だけでは説明がつかなかった。では、思想を残した人の弱さは、その思想の値打ちを下げるのだろうか。それとも、弱さごと引き受けた人にしか書けない言葉があるのだろうか。

08主要な出来事と残した思索の輪郭

  1. 4月27日、ロンドン・スピタルフィールズに誕生
  2. 19歳、家を出てレディース・コンパニオンに
  3. ニューイントン・グリーンで寄宿学校運営、プライス牧師に師事
  4. 『娘たちの教育についての思索』、ジョンソンの店を拠点に執筆生活開始
  5. 『人間の権利の擁護』、バーク『省察』への反論(28日で執筆)
  6. 『女性の権利の擁護』刊行、パリに渡る
  7. 長女ファニー・イムレイを出産
  8. 二度の自殺未遂、スカンジナビア旅行
  9. 3月、ウィリアム・ゴドウィンと結婚
  10. 8月30日、次女メアリー(後のシェリー)を出産
  11. 9月10日、産褥熱により死去、38歳
  12. ゴドウィン『回想録』刊行、スキャンダル化で半世紀の忘却

残した思索の輪郭

  • 徳は訓練された理性の所産 ― 性別に関わらず、教育なしに徳なし
  • 男女共学・科学・政治を含む教育改革 ― 18世紀末としては急進的なカリキュラム論
  • 「合理的伴侶」としての妻 ― 愛玩動物モデルの批判、夫婦関係の対等化
  • 論壇への女性の公然参入 ― バーク反論を足場に英国ジャーナリズムへの闖入
  • 思想と生涯の矛盾の引き受け ― 自殺未遂と啓蒙哲学の共存、後世の批評家が向き合う難題
1797年9月10日、ロンドンで次女メアリー(後のシェリー)を出産した11日後、産褥熱により死去、38歳。夫ウィリアム・ゴドウィンが翌年『回想録』を出版、スキャンダル扱いされ評価は半世紀遅れた。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

ウルストンクラフトの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

ウルストンクラフトが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ニューイントン・グリーン教会ゆかり

    ロンドン, イギリス

    ウルストンクラフトが交流した非国教会の拠点。近年「女性の母」と刻む記念像が近隣に建立

  • セント・パンクラス旧教会墓地墓所

    ロンドン, イギリス

    ウルストンクラフトがかつて葬られた場所。遺骸は後にボーンマスの娘の墓へ改葬

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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