クリスティーヌ・ド・ピザン
十一年も筆を置いていた老いた作家は、 なぜ最後にもう一度ペンを取ったのか?
中世フランスで職業作家として生計を立て、『女の都』で女性擁護論を体系化した詩人
- 女の都
- 女性擁護
- 宮廷詩人
王は心を病み、国は二つに割れ、女をあざける本が「古典」と呼ばれていた。 — ひらく
時代の空気
14世紀末から15世紀初頭のフランスは、百年戦争(1337-1453)の中盤、黒死病の余波と内戦に揺れていた。シャルル5世(在位1364-80)の建て直しのあと、6世(1380-1422)の発狂期に入り、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦、アジャンクールの敗北(1415)、そしてオルレアン解放(1429)へと推移する。Boccaccioの『名婦列伝』(1361)が仏訳で広まり、Roman de la Rose後半部の女性蔑視は宮廷で「古典」とされ、印刷術前夜の写本文化の中で女性が公に書くことには強い偏見が残っていた。
01十一年の沈黙が破れた日
1429年7月31日。パリ近郊、ポワシーの修道院。65歳の女性が、およそ十一年ぶりに詩を書き上げた。61の節からなる長い詩である。題は。
彼女の名はクリスティーヌ・ド・ピザン。かつてパリの宮廷で、王や公爵に本をささげて暮らした作家だった。だが1418年に都を離れ、娘が修道女として暮らすこの修道院に身を寄せた。それから十一年、彼女は何も書かなかった。
その沈黙を破らせたのは、ひとりの若い女だった。。フランスとイングランドの長い戦い、のさなかに現れた救国の英雄である。この年の5月8日、ジャンヌの働きでオルレアンの町が敵の手から解放された。7月17日には、ランスでシャルル7世が王の冠を受けた。その二週間後に、クリスティーヌはペンを取ったのである。
なぜ、老いた作家はふたたび書いたのか。ジャンヌが生きているあいだに、ジャンヌを主題にした文学作品を残したのは、彼女ただひとりだとされる。その理由を知るには、彼女がこの十一年、何を胸にしまっていたかを知らねばならない。時は65年前、海の向こうの町にさかのぼる。
02ヴェネツィアの娘、パリの王宮へ
1364年ごろ、クリスティーヌは水の都ヴェネツィアで生まれた。父は。ボローニャ大学で学んだ医師で、星の動きから病や運命を読む占星医としても名高かった。「ピザン」という名は、父の故郷の村ピッツァーノをフランス語風に読んだものだ。母はパリ生まれの女性だったと伝わる。
1369年、フランス王シャルル5世が父を宮廷に招いた。王の占星医であり、相談役でもある。家族は数年のうちにパリへ移った。クリスティーヌは4歳前後で海を越え、少女時代を王宮で過ごすことになる。
シャルル5世は「賢王」と呼ばれ、学問を愛した王だった。ルーヴルに王立図書館をつくり、書物を集めていた。その宮廷で、父は娘に、ふつうの貴族の娘にはない教育を与えた。ラテン語、古い時代の書物、神学、自然のしくみ、医学、占星術、そして詩。母は娘の教育に反対だった。だが父はそれを押し切った、とクリスティーヌは後に書いている。
1379年、15歳で結婚した。相手は、25歳。ノルマンディー出身の若い公証人で、国王の秘書官を務めていた。二人の結婚は幸せだったと、クリスティーヌ自身が強調して書き残している。子どもは三人。息子ジャン、娘マリー、そしてもうひとりの息子。末の子は幼くして亡くなった。
娘に与えられた学問が何の役に立つのか。このときはまだ、誰も知らなかった。
03三つの死
1380年、後ろ盾だったシャルル5世が死んだ。次の王はシャルル6世(後に発狂する王)である。父は宮廷での重い役目を失った。1387年ごろ、その父も世を去る。
1389年、さらに大きな喪失が来た。夫エティエンヌが地方に出かけた先で、はやり病(ペスト)にかかり急死したのである。クリスティーヌは25歳で夫を失った。
夫が残した財産は、長い裁判と借金の後始末のうちに、ほとんど消えた。手元に残ったのは、三人の子と、年老いた母と、姪、そして夫の書物だけだった。25歳は、当時なら再婚する年齢である。だが彼女は再婚しなかった。文筆で生きる、と決めたのだ。
女が書いて暮らす。そんな道は、当時のヨーロッパにほとんど例がなかった。彼女はどうやって、それを現実にしたのか。
04詩で暮らしを立てる
はじめの十数年、クリスティーヌは宮廷向けの詩を書いた。バラード、ロンドー、ヴィルレ。決まった形をもつ短い詩である。亡き夫をいたむ詩、恋の詩。1402年には、およそ100篇を集めた『百のバラード』をまとめた。
詩を書くだけでは、暮らしは立たない。彼女は作品を王族や大貴族にささげた。オルレアン公ルイ、ブルゴーニュ公フィリップ、王妃イザボー。写本に美しい飾りをほどこして贈り、お礼を受け取る。これが中世の終わりごろの職業作家の生き方だった。彼女はそれを、詩を書く現場で実践した。
文字の書ける女性が、手紙のなかで詩を作ることはあった。だが人前に作品を出し、それで家族を養った女性は、ほとんどいない。クリスティーヌは西洋で最初期の職業作家となった女性として、文学史に名を残す。
ただし、その宮廷には、女の存在そのものを笑う書物があった。
05『薔薇物語論争』
『』は、13世紀フランスの長い物語詩である。前半をギヨーム・ド・ロリスが、後半をが書いた。とくに後半には、女は生まれつき人をだますものだ、という下品な言葉があふれている。それでも14世紀末のパリでは、この本は「古典」としてあがめられていた。
1399年、クリスティーヌは『恋の神への手紙』を発表した。『薔薇物語』後半の女性への見下しを、はっきり批判した詩である。
1401年から1403年にかけて、争いは本格的な手紙のやりとりになる。宮廷の書記官ジャン・ドゥ・モントルイユらが、『薔薇物語』をほめたたえる手紙を公開した。クリスティーヌは何通もの手紙を公にして反論した。パリ大学の総長で神学者のも、彼女と組んで筆を執った。このやりとりは後にと呼ばれる。西洋で最初のフェミニズム論争である。
彼女の言い分はこうだ。「女性を一般化して貶める言説は、理性的に支持できない。個々の女性の悪徳を語るなら、個々の名を出せ。女一般を悪と定義することは、あなたたちがキリスト教徒としても知識人としても恥じるべきことだ」。
学者たちは彼女をあざ笑い、反発した。だが彼女は退かなかった。この論争で、「書く女」としての立場を宮廷に刻みつけたのである。
言い返すだけでは足りない。彼女は次に、自分の側の本を建てはじめる。
もし人が小さな娘を息子と同じく学校に通わせるなら、息子と同じように完全に学び、あらゆる技芸の繊細を理解するだろう。
06王の伝記、そして女の都
1404年、ブルゴーニュ公フィリップから注文が来た。亡きシャルル5世の伝記を書いてほしい、という。クリスティーヌは少女のころ間近で見た王の姿をもとに、を書いた。体の強さと武功、心の知恵、そして正しい統治。王の徳を三つに分けて描いた本である。
注文主のフィリップは、その年の4月、完成を見ずに死んだ。彼女は献辞を新しい公ジャンに書き換え、本を仕上げた。女が王の伝記を書く。それだけで、当時としては異例のことだった。
翌1405年、41歳。クリスティーヌはを完成させる。
物語はこう始まる。クリスティーヌ自身をかたどった語り手が、女をおとしめる本を読んで深く落ちこんでいる。そこへ三人の貴婦人が訪ねてくる。理性、正義、公正。三人は語り手に、「女の都」を築くための石を渡す。その石とは、古代から同時代までの、200余の名婦の実例だった。詩人サッポー、魔女キルケー、女王セミラミス、ディード、ユディト、聖女たち、そして彼女に近い時代の有能な女商人たちまで。
同じ年に続編も書いた。王妃から商人の妻、農婦、さらには身を売って暮らす女まで。身分ごとに、女がこの社会で生きるための現実的な手引きを記した本である。
だが彼女が紙の上に都を建てているあいだに、現実のフランスは壊れはじめていた。
07燃えるパリから、沈黙へ
クリスティーヌは女の味方をするだけの作家ではなかった。百年戦争の火がふたたび強まるなか、彼女は政治の本を次々に書いた。『王子の書』(1407)、『政体の書』(1407)、『武勇と騎士道の書』(1410)、『平和の書』(1412-13)。王国は割れ、内戦が続き、敵国との交渉が重なる。そのなかで、国を治める者の徳と、平和の条件を論じた。
1418年、内戦は最悪の局面を迎えた。ブルゴーニュ派とアルマニャック派という二つの党派が争い、イングランド軍と手を結んだブルゴーニュ派がパリに入城した。市内では大量の血が流れた。
クリスティーヌは、アルマニャック派に近い王太子(のちのシャルル7世)と結びつきがあった。54歳の彼女はパリを離れ、娘マリーがの修道女として暮らすポワシー王立修道院へ避難した。
そして、そこで筆を置いた。およそ十一年。宮廷で誰よりも書き続けた女が、何も書かなくなった。
08ふたたび、1429年7月31日
物語は、はじめの場面に戻る。
1429年5月8日、オルレアンが解放された。7月17日、ランスでシャルル7世が王の冠を受けた。その中心にいたのは、フランスの女、ジャンヌ・ダルクだった。
その二週間後、65歳のクリスティーヌは『ジャンヌ・ダルク賛歌』61節を書いた。これが最後の作品になる。
思い出してほしい。彼女は『薔薇物語論争』で、女一般を悪と定義することは恥じるべきことだ、と言い返した。『女の都』では、200余の名婦の実例を石として積み上げた。理性と正義と公正が女にも備わることを、示すためである。そして今、フランスの女のなかから、国を救う英雄が現れた。自分が一生かけて主張してきたことが、目の前で現実になったのだ。彼女はそれを言祝ぐ詩を書いた。ジャンヌが生きているあいだに、ジャンヌを主題にした文学作品はこれひとつしかないとされる。
1430年ごろ、クリスティーヌはポワシーで世を去った。66歳前後。ジャンヌがブルゴーニュ派に捕らえられたのは1430年5月、ルーアンで火あぶりにされたのは翌1431年5月である。クリスティーヌの死は、そのわずかに前だった。
彼女は、都の最後の石が置かれるのを見届けて、筆を置いたのだろうか。あなたのまわりにも、「一般化して貶める言葉」は今もあるだろうか。あるとして、それに石を積んで答える人は、誰だろうか。
09三つの書物の構造——読み解きの手がかり
『薔薇物語』は1280年頃に完成した長編寓話詩で、ジャン・ド・マンの後半部には女性を「本質的に欺瞞的」と貶める章句が多く含まれる。14世紀末のパリでは人文主義者たちの「古典」と崇められており、クリスティーヌが『恋の神への手紙(Epistre au dieu d'amours)』(1399)で批判の口火を切り、『薔薇物語論争(Querelle de la Rose)』で人文主義者たちの論法を逆手に取ったことは、以降の著作への道を拓く出来事でもあった。
『シャルル5世賢王の事業と善徳の書(Le livre des fais et bonnes meurs du sage roy Charles V)』(1404)は三部構成をとる。第一部「身体の徳・武勲」、第二部「魂の徳・知恵」、第三部「統治の徳・正義」——古典古代の徳論の枠組みを借りつつ、シャルル5世の宮廷文化、図書館事業、立法を具体的に記録しており、現代の歴史家にとっても貴重な一次資料となっている。
『女の都(Le livre de la cité des dames)』(1405)もまた三部構成である。第一部は理性が、女性の理性的能力を証明する歴史的実例を積み上げる。第二部は正義が、女性の道徳的美徳と実践的知恵を例証する。第三部は公正が、殉教者・聖女たちを祀る「塔」を建てる。城塞都市を築く石の寓意が、書物全体を貫く構造となる。下敷きの一つはボッカッチョ『(De claris mulieribus)』(1361)の仏訳だが、クリスティーヌはそれを部分的に応用しながら、女性の徳を「例外」ではなく原理として論じる方向に書き換えた。
続編『三つの徳の書(Le livre des trois vertus、別題『女の都の宝』)』は、女性の階層ごとの実践倫理を指南する書物として、15世紀から16世紀を通じてヨーロッパ各地で写し取られ、印刷もされ、ブルゴーニュ宮廷で長く読まれ続けた。そして最後の『ジャンヌ・ダルク賛歌(Ditié de Jeanne d'Arc)』(1429)は、フランスの女性のなかから救国の英雄が現れた事実を、自分自身の女性擁護論の現実化として言祝ぐ詩であり、ジャンヌの存命中に彼女を主題にした唯一の同時代文学作品とされる。
10主要な出来事と残した思索の輪郭
- ヴェネツィアに誕生、父はボローニャ大学占星医トマソ・ダ・ピッツァーノ
- 父がシャルル5世仏王宮廷に招聘、家族はパリへ
- 15歳で公証人・国王秘書官エティエンヌ・ドゥ・カステルと結婚
- 庇護者シャルル5世死去、シャルル6世の治世へ
- 父トマソ死去
- 夫エティエンヌが疫病(ペスト)で急死、25歳で寡婦に
- 『恋の神への手紙』で『薔薇物語』後半部の女性蔑視を批判
- 『薔薇物語論争』、ジャン・ジェルソンと組み筆を交える
- 『百のバラード』
- ブルゴーニュ公注文で『シャルル5世賢王の事業と善徳の書』
- 『女の都』『三つの徳の書』完成
- 『王子の書』『政体の書』、内戦激化
- 『武勇と騎士道の書』『平和の書』
- ブルゴーニュ派パリ入城、ポワシー王立修道院へ避難・沈黙
- 『ジャンヌ・ダルク賛歌』、ジャンヌの存命中唯一の同時代詩
- ポワシーで死去、66歳前後
残した思索の輪郭
- 職業作家としての女性の先例 ― 公然と市場に参入し生計を立てた西洋最初期の女性
- 『女の都』の寓意構造 ― 理性・正義・公正の三貴婦人と、200余の名婦という石材
- 厭女論への理性的反駁 ― 『薔薇物語論争』で人文主義者たちの論法を逆手に取る、西洋最初のフェミニズム論争
- 階層を貫く実践倫理 ― 『三つの徳の書』が王妃から農婦・売春婦まで視野に入れる
- 政治書と王伝 ― 『シャルル5世賢王の書』『平和の書』など、女性擁護と国家論を単一の筆者が横断する中世末期の知性のかたち
- 同時代史の証言 ― ジャンヌ・ダルクを存命中に詩にした唯一の文学者として、写本約200種が現存する
つながり
- ダンテ
先駆 — ピザンの都市寓話が受け継いだ寓意の技法。その本家『神曲』の詩人。
- ウルストンクラフト
継承 — 『女の都』が開いた道の先で、『女性の権利の擁護』を書いた後継者。
- トレゲネ・ハトン
共鳴 — ピザンが筆で説いた「夫の死後に権力の空白を引き受ける女性」を、理論なしに生きた摂政。
さらに読むならFurther Reading
クリスティーヌ・ド・ピザンの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門女の都
クリスティーヌ・ド・ピザン / 訳: 沓掛良彦・横山安由美 / 法政大学出版局
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生きた跡を辿るPlaces
クリスティーヌ・ド・ピザンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ポワシー王立修道院跡ゆかり
ポワシー, フランス
クリスティーヌが娘を預けた修道院、晩年自身も身を寄せて『ジャンヌ・ダルクの歌』を書いた
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