クリスティーヌ・ド・ピザン
女を貶める書物が溢れる宮廷で、 ひとりの女が書物で対抗するとは?
中世フランスで職業作家として生計を立て、『女の都』で女性擁護論を体系化した詩人
- 女の都
- 女性擁護
- 宮廷詩人
時代の空気
14世紀末から15世紀初頭のフランスは、百年戦争(1337-1453)の中盤、黒死病の余波と内戦に揺れていた。シャルル5世(在位1364-80)の建て直しのあと、6世(1380-1422)の発狂期に入り、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦、アジャンクールの敗北(1415)、そしてオルレアン解放(1429)へと推移する。Boccaccioの『名婦列伝』(1361)が仏訳で広まり、Roman de la Rose後半部の女性蔑視は宮廷で「古典」とされ、印刷術前夜の写本文化の中で女性が公に書くことには強い偏見が残っていた。
01ヴェネツィアからパリ宮廷へ
1364年頃、ヴェネツィアで生まれた。父(Tommaso da Pizzano)はボローニャ大学で学んだ著名な占星医・医師で、家名「ピザン(Pizan)」は父の故郷の村ピッツァーノ(ボローニャ近郊)をフランス語風に表記したものに由来する。母はパリ人の女性だったと伝わる。
1369年、シャルル5世(賢王)が父を仏王宮廷占星医・相談役として招聘し、家族は数年内にパリへ合流した。クリスティーヌは4歳前後で海を越え、少女期をフランス王宮で過ごした。シャルル5世は学芸の保護者で、ルーヴルの王立図書館を充実させていた。クリスティーヌは父の特例的な計らいで、当時の貴族女子としては破格の人文教育を受けた——ラテン語、古典、神学、自然哲学、医学、占星術、詩。母は娘の教育に反対だったが父はそれを押し切った、と彼女は後年回想している。
1379年、15歳で公証人・国王秘書官(Etienne du Castel、25歳)と結婚した。エティエンヌはノルマンディー出身の若手公務員で、二人の結婚は幸福だったとクリスティーヌ自身が強調して書く。三人の子を授かった——息子ジャン(1381年)、娘マリー(1383年)、もう一人の息子(1387年、幼くして死去)である。
021389年——三重の喪失、そして「書く」決意
1380年、庇護者シャルル5世が死去した。シャルル6世(後に発狂する王)の治世に入り、父は宮廷の重用を失った。1387年頃、父も世を去る。1389年、夫エティエンヌが地方滞在中に疫病(ペスト流行)で急死、25歳のクリスティーヌは寡婦として残された。
夫が遺した財産は、長引く訴訟と借金の処理の末、ほとんどが消えた。25歳で三人の子、年老いた母、姪を抱え、夫の遺した書物だけが手元に残った。再婚する年齢でもあったが、彼女は再婚せず、文筆で生きることを選んだ。
最初の十数年(1389–1402)はバラード、ロンドー、ヴィルレといった宮廷詩の定型で、亡き夫を悼む追悼詩や恋愛詩を書いた。代表作の一つが約100篇からなる『百のバラード(Cent ballades)』(1402)である。パリの王族・諸侯——オルレアン公ルイ、ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公、王妃イザボー——に作品を献じ、写本を装飾させて贈呈し、謝礼を得るという、中世末期の職業作家のモデルを詩作の現場で実践した。文字を書ける少数の女性が私的書簡で詩作する例はあったが、公然と出版市場に参入し生計を立てた最初期の女性作家として、クリスティーヌは西洋文学史に位置づけられる。
03『薔薇物語論争』——男たちの厭女文学への挑戦
1399年、まず『恋の神への手紙(Epistre au dieu d'amours)』を発表し、当時宮廷の「古典」とされていた『薔薇物語』後半部の女性蔑視を批判した。続く1401年から1403年にかけ、パリ大学総長ジャン・ジェルソン(ソルボンヌの神学者)らと組んで本格的な書簡論争に踏み込む——後に『薔薇物語論争(Querelle de la Rose)』と呼ばれる、西洋最初のフェミニズム論争である。
『薔薇物語』は13世紀フランスの長編寓話詩で、前半はギヨーム・ド・ロリス、後半はジャン・ド・マンが執筆した(1280年頃完成)。ジャン・ド・マンの後半部には女性を「本質的に欺瞞的」と貶める下品な章句が多く含まれ、14世紀末のパリで人文主義者たちの「古典」と崇められていた。
クリスティーヌは宮廷書記官ジャン・ドゥ・モントルイユらが『薔薇物語』を褒め称えた書簡を公開したことに対し、複数の手紙を公刊して反論した——「女性を一般化して貶める言説は、理性的に支持できない。個々の女性の悪徳を語るなら、個々の名を出せ。女一般を悪と定義することは、あなたたちがキリスト教徒としても知識人としても恥じるべきことだ」。
反論は当時の知的エリートから嘲笑と反発を受けたが、彼女は退かなかった。論争を通じて、書く女性としての立場を宮廷に刻みつけ、以降の著作への道を拓いた。
もし人が小さな娘を息子と同じく学校に通わせるなら、息子と同じように完全に学び、あらゆる技芸の繊細を理解するだろう。
04『シャルル5世王伝記』——王の徳を綴る
1404年、ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公の注文を受け、クリスティーヌは『シャルル5世賢王の事業と善徳の書(Le livre des fais et bonnes meurs du sage roy Charles V)』を執筆した。少女期に間近で見た庇護者の像を、王権の徳論として再構築した三部構成の伝記である。第一部「身体の徳・武勲」、第二部「魂の徳・知恵」、第三部「統治の徳・正義」——古典古代の徳論の枠組みを借りつつ、シャルル5世の宮廷文化、図書館事業、立法を具体的に記録した、現代の歴史家にとっても貴重な一次資料となっている。
注文主の豪胆公は完成を見ずに死去(1404年4月)したが、クリスティーヌは献辞を新公ジャン無怖公に書き換え、書を完成させた。女性が王伝を書くという事実そのものが、当時としては異例だった。
05『女の都』『三つの徳の書』——女性擁護論の体系
1405年、クリスティーヌは『女の都(Le livre de la cité des dames)』を完成させた。41歳。
書物は寓話形式を取る。クリスティーヌ自身を化身とする語り手が厭女論に触れて深く落ち込んでいるとき、理性(Raison)、正義(Droiture)、公正(Justice)という三人の貴婦人が訪ねてくる。彼女たちは「女の都」を築くための石材を与える——それは古代から同時代までの、200余の名婦の実例である。サッポー、キルケー、セミラミス、ディード、ユディト、聖女たち、そして近現代の有能な女性商人たちまで。
書物は三部構成。第一部は理性が、女性の理性的能力を証明する歴史的実例を積み上げる。第二部は正義が、女性の道徳的美徳と実践的知恵を例証する。第三部は公正が、殉教者・聖女たちを祀る「塔」を建てる。城塞都市を築く石の寓意が、書物全体を貫く構造となる。下敷きの一つはボッカッチョ『名婦列伝(De claris mulieribus)』(1361)の仏訳だが、クリスティーヌはそれを部分的に応用しながら、女性の徳を「例外」ではなく原理として論じる方向に書き換えた。
同年、続編として『三つの徳の書(Le livre des trois vertus、別題『女の都の宝』)』を執筆。王妃から商人の妻、農婦、売春婦まで、女性の階層ごとの実践倫理を指南する書物で、当時の社会構造の中で女性が生きるための現実的な手引きとなった。15世紀から16世紀を通じてヨーロッパ各地で写し取られ、印刷もされ、ブルゴーニュ宮廷で長く読まれ続けた。
06政治書・ジャンヌ・ダルク——激動のフランスで
クリスティーヌは女性擁護論だけの人ではなかった。百年戦争が激化するなか、『王子の書』(1407)、『政体の書』(1407)、『武勇と騎士道の書』(1410)、『平和の書』(1412–13)と、政治書・倫理書を次々発表した。フランス王国の分裂、内戦、敵国との交渉が続くなかで、為政者の徳と平和の条件を論じた。
1418年、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の内戦の中で、イングランド軍と結んだブルゴーニュ派がパリに入城し、市内では大量の流血があった。アルマニャック派寄りの王太子(後のシャルル7世)に近かったクリスティーヌは、54歳でパリを離れ、娘マリーがドミニコ会修女として暮らすポワシーの王立修道院へ避難した。そこでおよそ十一年、彼女は黙した。
1429年7月31日、65歳のクリスティーヌは最後の作品『ジャンヌ・ダルク賛歌(Ditié de Jeanne d'Arc)』61節を書いた。オルレアン解放(5月8日)から二か月余り、ランスでのシャルル7世戴冠(7月17日)の直後である。フランスの女性のなかから救国の英雄が現れた事実を、自分自身の女性擁護論の現実化として言祝ぐ詩であり、ジャンヌの存命中に彼女を主題にした唯一の同時代文学作品とされる。
1430年頃、ポワシーで死去、66歳前後。ジャンヌがブルゴーニュ派に捕らえられ(1430年5月)、1431年5月にルーアンで火刑に処されるよりも、僅かに早い死だった。
07主要な出来事と残した思索の輪郭
- ヴェネツィアに誕生、父はボローニャ大学占星医トマソ・ダ・ピッツァーノ
- 父がシャルル5世仏王宮廷に招聘、家族はパリへ
- 15歳で公証人・国王秘書官エティエンヌ・ドゥ・カステルと結婚
- 庇護者シャルル5世死去、シャルル6世の治世へ
- 父トマソ死去
- 夫エティエンヌが疫病(ペスト)で急死、25歳で寡婦に
- 『恋の神への手紙』で『薔薇物語』後半部の女性蔑視を批判
- 『薔薇物語論争』、ジャン・ジェルソンと組み筆を交える
- 『百のバラード』
- ブルゴーニュ公注文で『シャルル5世賢王の事業と善徳の書』
- 『女の都』『三つの徳の書』完成
- 『王子の書』『政体の書』、内戦激化
- 『武勇と騎士道の書』『平和の書』
- ブルゴーニュ派パリ入城、ポワシー王立修道院へ避難・沈黙
- 『ジャンヌ・ダルク賛歌』、ジャンヌの存命中唯一の同時代詩
- ポワシーで死去、66歳前後
残した思索の輪郭
- 職業作家としての女性の先例 ― 公然と市場に参入し生計を立てた西洋最初期の女性
- の寓意構造 ― 理性・正義・公正の三貴婦人と、200余の名婦という石材
- 厭女論への理性的反駁 ― で人文主義者たちの論法を逆手に取る、西洋最初のフェミニズム論争
- 階層を貫く実践倫理 ― が王妃から農婦・売春婦まで視野に入れる
- 政治書と王伝 ― 『シャルル5世賢王の書』『平和の書』など、女性擁護と国家論を単一の筆者が横断する中世末期の知性のかたち
- 同時代史の証言 ― ジャンヌ・ダルクを存命中に詩にした唯一の文学者として、写本約200種が現存する
出典と確認メモ
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要旨訳: quotes.ts pizan-1.context (1405 年、フランス王宮秘書官の父を持ち夫を早くに喪った Christine de Pizan が女性貶論への反駁として書いた『女性たちの都』第...
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原典確認済み: もし人が小さな娘を息子と同じく学校に通わせるなら、息子と同じように完全に学び、あらゆる技芸の繊細を理解するだろう。
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原典確認済み: もし人が小さな娘を息子と同じく学校に通わせるなら、息子と同じように完全に学び、あらゆる技芸の繊細を理解するだろう
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定本確認済み: pizan.mdx pullsource『Le Livre de la Cité des Dames(女の都)』第一部 I.27 は、少女教育論の locator として正確。該当箇所は Lady R...
つながり
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クリスティーヌ・ド・ピザンの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門女の都
クリスティーヌ・ド・ピザン / 訳: 沓掛良彦・横山安由美 / 法政大学出版局
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生きた跡を辿るPlaces
クリスティーヌ・ド・ピザンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ポワシー王立修道院跡ゆかり
ポワシー, フランス
クリスティーヌが娘を預けた修道院、晩年自身も身を寄せて『ジャンヌ・ダルクの歌』を書いた
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WikipediaWikipedia 日本語版「クリスティーヌ・ド・ピザン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Christine de Pizan"
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