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風土の知恵

ダンテ

Dante Alighieri·1265–1321·中世イタリア·

追放された故郷の言葉で、 地獄から天国まで昇れるか?

フィレンツェを追われた亡命詩人が、俗語イタリア語で書いた地獄・煉獄・天国の旅

  • 神曲
  • 地獄篇
  • 帝政論

時代の空気

13世紀末のフィレンツェは、毛織物と為替で富んだ商業共和政の都市だった。市政はグエルフィ(教皇派)とギベリーニ(皇帝派)の長い抗争を経て、勝った教皇派の内部で白派と黒派に裂け始めていた。教皇ボニファティウス8世は世俗権の伸張を図り、フランス王フィリップ4世と衝突しつつトスカーナへ介入する。修道院ではドミニコ会とフランシスコ会が説教と托鉢で町に降り、大学ではアクィナスの神学が読まれ、若い詩人たちはカヴァルカンティを軸に「清新体」で恋愛詩を書いていた。書く言葉はラテン語が正式、俗語は世俗の便宜——その境界がやがて揺らぐ。

01フィレンツェの騎士家系、ベアトリーチェとの出会い

1265年5月下旬から6月頃(正確な日付は不明、天国篇22歌の自伝的示唆から太陽が双子宮にあった時期と推定)、フィレンツェのポポロ・グエルフィ(教皇派きょうこうは)の下級貴族の家に生まれた。本名はドゥランテ・デリ・アリギエーリ、通称ダンテ(Durante の短縮形)。父アリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ(俗にアリギエーロ二世と呼ばれる)は公証人こうしょうにんおよび小規模な金貸しを営み、祖父世代はフィレンツェの騎士階級に連なる家柄だった。母ベッラは彼が幼い頃に世を去り、父は再婚して異母弟妹をもうけた。母の早逝は、ベアトリーチェの早すぎる死と重なるかたちで、後年の彼の喪失感の地下水脈になったと考える伝記作家もいる。

12歳頃、家族同士が約束したジェンマ・ドナーティとの婚約が成立した。ドナーティ家は後の黒派の指導者を出すことになる有力一族で、典型的な政略婚である。20歳前後で結婚し、4人の子(ピエトロ、ヤコポ、アントニア、もう一人については記録が揺れる)をもうけた。

しかし彼の生涯の中心にいた女性は妻ではなかった。9歳(1274年春)のとき、彼はフィレンツェの街角で同じ9歳の少女(1266-1290)を目にし、一目で心を奪われた。9年後の1283年、18歳のダンテはフィレンツェの路上で再会したベアトリーチェと挨拶を交わしたと『新生(Vita Nuova)』(1293頃)に記す。二人の交流はこの挨拶と、遠い街角での偶然の視線だけ——それがベアトリーチェの早すぎる死(1290年、24歳)まで続いた。彼女は銀行家シモーネ・デ・バルディと結婚していたが、ダンテにとってベアトリーチェは現実と神の愛の媒介者であり続けた。

02政治家・知識人としてのフィレンツェ時代

ダンテは若くしてブルネット・ラティーニ(1220-1294、修辞学・政治学の師、自身は『テゾロ』『小テゾロ』の著者)に師事し、修辞学と古典文学を学んだ。師との関係は深く、『神曲』地獄篇第15歌で師を同性愛者の圏にありながら敬愛をもって描いている(理由は長く議論の的だが、中世的な「傲慢の罪」の一形態と解釈する説が有力)。同時期に詩人グイード・カヴァルカンティ(1255頃-1300)と親交を結び、彼を「最初の友」と呼んだ。カヴァルカンティを核とする若い詩人たちの集まりが、後にダンテが『神曲』煉獄篇24歌で名づける「清新体ドルチェ・スティル・ノヴォ」——内面の動きをそのままトスカーナ俗語に書きとろうとする抒情詩運動——である。

1289年6月、24歳のダンテはに騎士として参戦した。フィレンツェ率いるトスカーナのグエルフィ連合軍が、アレッツォを中心とする皇帝派こうていは軍を破った戦いで、最前列の騎兵(フェディトーリ)に名を連ねたと後年の書簡に記す。

1295年、フィレンツェではジャーノ・デッラ・ベッラ主導の人民権限法(Ordinamenti di Giustizia、1293-95)の修正が進み、貴族出身者でも組合に登録すれば公職に就けるようになった。ダンテは医師・薬剤師組合(アルテ・デイ・メディチ・エ・スペツィアーリ)に登録し、政治への扉を開いた——書物は当時、薬剤師の店で扱われた商品の一つで、知識人もこの組合に属するのが慣わしだった。30人会議、100人会議を経て、1300年6月15日から8月15日までの2ヶ月間、彼は6人のプリオーレ(執政官)の一人に選出される。35歳、フィレンツェ市政の最高位の一角だった。

同じ1300年は教皇ボニファティウス8世が定めた最初のローマ聖年で、巡礼者がアルプスを越えてイタリアに殺到した年でもある。フィレンツェ市内では5月1日のカレンディマッジョ祭での若者の乱闘が起き、抗争は決定的な段階に入った。プリオーレとして彼は、争乱を抑えるため両派の指導者数人を追放する決定に加わった——その中には親友グイード・カヴァルカンティもおり、サルツァーナへの追放中に病を得て同年8月に死去した。彼の死は、ダンテの生涯の重荷となる。

031302年——終身追放、家族との別れ

1301年秋、教皇ボニファティウス8世はフランス王フィリップ4世の弟シャルル・ド・ヴァロワをフィレンツェに「平和調停者(paciaro)」として送る策を進めた。実質的には黒派への軍事支援である。ダンテは同年10月、この動きを阻止するためローマの教皇庁へ二人の同僚とともに使節として派遣された。

彼が不在の間、シャルルは1301年11月1日にフィレンツェ入城し、黒派のコルソ・ドナーティが武装亡命者を率いて市内に戻った。白派指導者たちは次々に襲撃され、財産を没収された。ダンテに対しても罪状が並べられた——公金横領、賄賂、教皇とシャルルへの抵抗、フィレンツェの平和への妨害。欠席裁判けっせきさいばんで抗弁の機会は与えられなかった。

1302年1月27日、巨額の罰金と2年間の追放が宣告された。同年3月10日、出頭しなかった彼に対して終身追放と、フィレンツェ市内で見つかれば生きたまま焼殺(igne comburatur sic quod moriatur)という流刑るけい・死刑宣告が下された。

37歳の彼は、ローマからフィレンツェに戻れなくなった。家族(妻と子ら)は黒派からの報復を避けるためフィレンツェに残された。ダンテは二度と妻ジェンマに会わなかった。息子ピエトロとヤコポは成人後ヴェローナで父と再会するが、娘アントニア(後にラヴェンナの修道院でベアトリーチェ・マリアと名乗る尼僧となる)とは長く離れたままだった。1315年、フィレンツェは彼に恩赦の条件を提示する——公衆の前で罪を認め、贖罪の蝋燭を持って洗礼堂に進めば帰還を許すと。ダンテは従兄宛の書簡(Epistola XII、ラテン語)で、その条件を「哲学者に値しない道」として拒絶した。家族との再会よりも、身に覚えのない罪を認めないことを選んだその選択は、流浪19年の芯にある。

04流浪——ヴェローナ、ルニジャーナ、各地の庇護

追放後の19年間、ダンテは北イタリア各地の庇護者を転々とした。最初の数年はフォルリのスカルペッタ・オルデラッフィ、続いてヴェローナのバルトロメオ・デッラ・スカラ(1304年没)、その後ルニジャーナのマラスピーナ家(1306年、書簡を一通預かる外交任務もこなした)、カゼンティーノのグイディ家、ルッカ、パドヴァなどを移った。1312年頃から再びヴェローナに戻りカングランデ・デッラ・スカラ(1291-1329)の宮廷に長く滞在し、1318年か19年に最後の庇護先ラヴェンナのグイード・ノヴェッロ・ダ・ポレンタのもとへ移る。

追放生活の屈辱を彼は天国篇第17歌に刻んだ。

他人のパンがいかに塩辛いか、他人の階段を上り下りすることがいかに辛いか、お前はこれから知るだろう。

『神曲』天国篇第17歌58-60行(祖先カッチャグイーダの予言)

流浪期に彼は以下の著作を進めた。

  • 『饗宴(Convivio)』(1304-07年頃、ラテン語ではなく俗語ぞくごで書かれた哲学書、4篇のみで未完):自作の頌詩しょうし(canzone)に逐節注解を施す形式で、貴族性は血統ではなく徳と知に宿ると論じる。アリストテレス、アクィナス、アヴィケンナを下敷きに、知識を学者の独占から市民へ開く意図が宣言されている。
  • 『俗語論(De Vulgari Eloquentia)』(1303-05頃、ラテン語、2巻で未完):イタリア半島の俗語方言を比較分析し、文学に相応しい「輝かしい俗語(vulgare illustre)」を設計する画期的論文。皮肉にも、俗語のために書かれたこの理論書はラテン語で書かれている。
  • 『帝政論(帝政論ていせいろん、De Monarchia)』(1312-13頃、ラテン語、3巻):世俗の皇帝権と教皇権の独立を論じる政治哲学書。神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世のイタリア遠征(1310-13)への期待を背景に書かれた。皇帝が1313年8月に急死すると、帝政論的希望はダンテの中で潰え、その悲嘆は『神曲』の各所に影を落とす。死後の1329年、ボローニャの教皇使節は本書を異端として焚書に処し、後に禁書目録(1559)に載る。

05『神曲』——地獄から天国まで

追放生活の前半から後半にかけて、ダンテは生涯の大著『神曲(La Commedia、後にボッカッチョが「神聖な」を冠して La Divina Commedia と呼ぶ)』を執筆した。14,233行、(terza rima: ABA BCB CDC…の連鎖)、100歌(序歌1+地獄33+煉獄33+天国33)、すべてが3と9(3²)の数に基づく構成である。三という数は三位一体の影で、形式そのものが神学を担う。

地獄篇(Inferno)(1308頃-1314頃執筆、1314頃手写本で流通開始):復活祭前夜(1300年4月7日聖金曜日)から始まる7日間の旅。詩人ダンテ(35歳、人生の半ば)が暗い森で迷い、古代ローマの大詩人ウェルギリウス(ベアトリーチェの遣い)に導かれて地獄を降る。地獄は漏斗形で9圏、罪の重さに応じて罰が比例する(対応罰、欲望に溺れた者は風に吹かれ続ける、等)の原理で構成される。最下層では裏切者ルシファーが氷の中に閉じ込められている。

煉獄篇れんごくへん(Purgatorio)(1314-1319頃):地球の反対側にある煉獄山を登る旅。7つの大罪(傲慢・妬み・憤怒・怠惰・貪欲・暴食・情欲)ごとに階層があり、魂は苦行で浄化されていく。山頂の地上楽園で、ダンテはついにベアトリーチェと再会する。異教徒であるウェルギリウスは天国には入れないため、ここで静かにダンテから去る(煉獄篇第30歌の別れは、西洋文学で最も切ない場面の一つ)。

天国篇てんごくへん(Paradiso)(1316-1321):ベアトリーチェに導かれて、月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星・恒星天・原動天・至高天へと昇る旅。各天で魂たちが幾何学的な配置で神の愛を映す。最高天で、ベアトリーチェはさらに聖ベルナール(中世の神秘家)に役を譲り、最終歌で神の姿——三位一体の光——が直接に見える。そこで歌は終わる。

この叙事詩は、当時の学問的常識(スコラ神学、プトレマイオス天文学、アリストテレス倫理学)を全面的に取り込みながら、同時に俗語詩として書かれた。ラテン語ではなく、トスカーナ方言を基礎とするイタリア俗語で書くことは、大胆な選択だった。ダンテはでこの選択を理論化し、『神曲』で実践した。結果として、トスカーナ方言は「イタリア語の標準」として定着することになる。近代イタリア語の直接の祖は、ダンテの『神曲』の言葉である。

06ラヴェンナでの最期

1318年か1319年、ダンテはラヴェンナの領主グイード・ノヴェッロ・ダ・ポレンタの保護下に入った。ラヴェンナは5世紀の西ローマ帝国の最終首都であり、6世紀ビザンツ皇帝ユスティニアヌス治下のモザイクとサン・ヴィターレ聖堂が残る古都だった。ここでダンテは『神曲』天国篇を書き上げ、息子ピエトロとヤコポを呼び寄せ、修道女となった娘アントニアとも近くに暮らしたと伝わる。生計はポレンタの援助のほか、地元の修道院での詩学講義によっても支えられた。

1321年8月、外交使節としてヴェネツィアへ派遣された。ヴェネツィアとラヴェンナの艦船をめぐる紛争を調停するための任務だったとされる。往路、ポー川河口の沼沢地(コマッキオ周辺)を通過する際にマラリアを得たと伝わる。帰途のラヴェンナで発熱し、9月13日から14日にかけての夜に没した。56歳。完成したばかりの天国篇最終歌の手稿は一時行方不明になったが、息子ヤコポが父の夢に従って壁の隠し場所から発見したと、ボッカッチョの『ダンテ伝』(1357頃)に伝わる(この逸話は伝説の域を出ない)。

遺体はサン・フランチェスコ教会(当時はサン・ピエル・マッジョーレ)に埋葬された。ここはフィレンツェの管理下になく、フランシスコ会の管轄だった。フィレンツェ市民は後にダンテの名声を認識し、遺骨の返還を繰り返し要請したが、ラヴェンナは一度も譲らなかった。ラヴェンナ市民はダンテの骨を何度か隠した——1519年の教皇レオ10世による返還命令のときにはフランシスコ会修道士が壁の中に骨を隠し、1677年まで行方不明にした。

現在もダンテの墓はラヴェンナにある。フィレンツェは市内のサンタ・クローチェ教会(ガリレオ、ミケランジェロ、マキャヴェッリの墓がある)に、空の墓碑を建てて彼を悼んでいる。1865年、ダンテ生誕600年にフィレンツェはついに追放令を正式に解除した。554年遅れの赦免だった。

07遺産——イタリア語、西欧文学、神学の詩

ダンテの『神曲』はイタリア文学のみならず、西欧文学全体の中核に位置する。ペトラルカとボッカッチョが直接にダンテの継承者となり(トレ・コローネ、三つの冠、すなわちイタリア文学の三大聖人)、ルネサンスの詩人・作家たちはみなダンテを意識した。

近代以降、彼の影響力はより遠く届く。T・S・エリオットは「ダンテとシェイクスピアで西欧の想像力が二分される」と書いた(1929)。エズラ・パウンドの『カントス』、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、プリーモ・レーヴィの『これが人間か』(アウシュヴィッツ体験記でダンテを引用)、ボルヘスの短編群、C・S・ルイスの『銀の椅子』、デレク・ウォルコットの『オメロス』——20世紀文学は何度もダンテを読み直してきた。

神学的にも、『神曲』はスコラ神学の詩的結晶として読まれる。トマス・アクィナスは天国篇の太陽天で登場し、その神学が讃えられる。『神曲』は学術的に「哲学的詩の頂点」として、近代のジルソン、ド・リューバック、モルテマンらスコラ哲学者に真剣に読まれた。

日本では森鷗外が『即興詩人』(アンデルセンの翻訳)に続いて『神曲』の影響を受け、川端康成、谷崎潤一郎、大岡信らが訳や評論を残した。山川丙三郎訳(1914-22、岩波)、寿岳文章訳(1976、集英社)、平川祐弘訳(1966-2009、河出書房)、原基晶訳(2014-)と、数世代にわたる日本語訳の蓄積がある。

08主要な出来事と著作

  1. フィレンツェに誕生(5-6月、母ベッラ・父アリギエーロ二世)
  2. 9歳でベアトリーチェ・ポルティナリに初めて出会う
  3. 18歳でベアトリーチェと路上で再会、挨拶を交わす
  4. ジェンマ・ドナーティと結婚(政略婚)
  5. 6月11日カンパルディーノの戦いに騎士として参戦
  6. ベアトリーチェ死去(24歳)
  7. 『新生(Vita Nuova)』執筆
  8. 医師・薬剤師組合に登録、フィレンツェ公職への扉が開く
  9. 6-8月プリオーレ就任、ローマ聖年、白派・黒派分裂、カヴァルカンティ追放決定
  10. 10月ローマへ使節、不在中の11月にシャルル・ド・ヴァロワ入城・黒派クーデター
  11. 1月27日と3月10日に欠席裁判で罰金・終身追放・焼殺判決
  12. 『俗語論(De Vulgari Eloquentia)』(ラテン語、未完)
  13. 『饗宴(Convivio)』(俗語、未完)
  14. 『神曲』地獄篇執筆開始
  15. ハインリヒ7世のイタリア遠征。期待と幻滅、皇帝1313年急死
  16. 『帝政論(De Monarchia)』(ラテン語)
  17. 地獄篇刊行(手写本で流通開始)
  18. フィレンツェからの恩赦提案を「哲学者に値しない道」として拒否
  19. ラヴェンナのグイード・ノヴェッロ・ダ・ポレンタ家に身を寄せる
  20. 8月ヴェネツィア使節、帰途マラリア発症、9月13-14日没。享年56
  21. フィレンツェが追放令を正式解除、生誕600年

残した思想の輪郭

  • 『神曲』の宇宙論 ― スコラ神学と中世天文学を詩として総合、地獄・煉獄・天国の三界を設計
  • イタリア俗語の文学化 ― トスカーナ方言を基礎に「輝かしい俗語」を標準化、近代イタリア語の祖
  • 三韻句法(terza rima) ― 3行連句ABA BCB…の連鎖、神学の三位一体を形式に埋め込む
  • コントラパッソ ― 罪と罰の対応原理、地獄篇の構造的原理
  • ベアトリーチェの媒介 ― 地上の愛から神の愛への階段、中世スコラ的象徴論の詩的頂点
  • の政教分離 ― 皇帝権と教皇権の独立、ダンテ政治思想の核心
  • 追放文学 ― 故郷を失った詩人が故郷の言葉で書いた叙事詩、近現代亡命文学の遠い祖
1321年9月14日、ラヴェンナで熱病(マラリアと推定)により56歳で死去。遺体はラヴェンナのサン・フランチェスコ教会に埋葬され、後のフィレンツェからの返還要請は今も全て拒否されている。
5
  • 文脈原典で確認済み要旨訳

    要旨訳: dante-1.context: 1302 年に欠席裁判で終身追放を宣告され (1 月 27 日初判決 + 3 月 10 日二次判決で火刑死刑)、市内で捕われれば火刑に処すと言い渡された詩人が、各地を...

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 他人のパンがいかに塩辛いか、他人の階段を上り下りすることがいかに辛いか、お前はこれから知るだろう。

    一次資料を開くParadiso Canto XVII, vv. 58-60 (philoglyph mdx pullsource では 58-60 行と表記、Wikisour...

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: われらの生の道なかば、正しい道を失って暗い森の中にいた

    一次資料を開くInferno Canto I, vv. 1-3: 'Nel mezzo del cammin di nostra vita / mi ritrovai per...

  • 出典原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 『神曲』地獄篇第1歌1-3行(1308年頃)

    一次資料を開くInferno Canto I 全文 = 136 行。philoglyph pullquote text の対応箇所は vv.1-3 ('Nel mezzo d...

  • 引用原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: この門をくぐる者、いっさいの希望を棄てよ(Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate)

    一次資料を開くInferno Canto III, verso 9: 'Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate' を verbatim ...

つながり

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さらに読むならFurther Reading

ダンテの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

ダンテが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ダンテの墓(ラヴェンナ)墓所

    ラヴェンナ, イタリア

    1321年没。サン・フランチェスコ聖堂の隣、1781年カミッロ・モリージャが設計した新古典主義の小堂に眠る

  • サンタ・クローチェ聖堂 ダンテ記念碑ゆかり

    フィレンツェ, イタリア

    1829年造営の記念碑(遺骨はラヴェンナ)。故郷フィレンツェが詩人を取り戻そうとしてきた因縁を伝える

さらに辿るならExternal References

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