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トマス・アクィナス

Thomas Aquinas·1225頃–1274·中世イタリア·

信仰と理性は、 一つの真理に至るか?

アリストテレスをキリスト教神学に統合、スコラ哲学の頂点

  • 神学大全
  • 自然法
  • 神の存在証明

時代の空気

十三世紀の南イタリアは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と教皇庁が交互に支配を争い、貴族家門は皇帝派と教皇派に引き裂かれていた。フリードリヒ2世が1224年に創設したナポリ大学を入口に、アラビア語経由でアリストテレスの自然学・形而上学・魂論が大量にラテン語訳され、1210・1215年パリで「アリストテレス自然学を教えてはならない」との禁令が出る。新興の托鉢修道会(ドミニコ会・フランシスコ会)が大学に拠点を持ち、パリ大学芸術学部ではシゲール・ド・ブラバンらアヴェロエス主義者が二重真理説と呼ばれる立場で台頭していた。

01アクィノ伯の子、城塞の子ども時代

1225年頃、南イタリア・カンパーニャ地方のロッカセッカ城に生まれた。父ランドルフォはアクィノ伯爵家に連なる貴族で、神聖ローマ皇帝と教皇の双方に臣従しんじゅうする複雑な政治的立場に置かれていた。母テオドーラはナポリ近郊の名家の出。兄姉は多く、トマスは末子のひとりとして育った。

城は断崖の上に立ち、眼下の谷に修道院の鐘の音が届いた。貴族の家では長男が剣を取り、末子が神に捧げられる慣わしがあった。この時代のイタリア南部は皇帝派と教皇派が交互に支配を争い、貴族家門にとって息子を修道院に入れることは魂の救いであると同時に、政治的な安全弁でもあった。この子の行く先は、生まれた日から修道院と決まっていた。

母テオドーラは息子がモンテ・カッシーノ修道院の院長になることを望んだ。カッシーノはベネディクトゥスが529年に建てた伝説の大修道院であり、その院長職は政治的にも宗教的にも高い地位を意味した。息子を神に預けることは、信仰であると同時に家門の名誉だった。ロッカセッカの幼い貴族は、まだ何も知らないまま、山の上の神の家に向かう運命を背負っていた。

後に伝記作家たちは、幼年期のエピソードをひとつ記録している。修道院に入ったばかりの頃、小さなトマスは修道士の袖を引いて同じ問いを繰り返した。「神とは何ですか」。答えがあいまいだと、別の修道士のところへ行って同じ問いを繰り返した。その執拗さは迷惑がられたが、誰も笑わなかった。問いの真剣さが、子供のものではなかったからだ。

02モンテ・カッシーノからナポリ大学、ドミニコ会へ

5歳でモンテ・カッシーノ修道院に入り、ベネディクト会の修道士たちのもとで読み書きとラテン語、聖書の暗唱あんしょうを学んだ。修道院の日課は厳格だった。夜明け前の聖務から始まり、昼は写本しゃほん、夕べは詩篇しへん。少年トマスは無口で、しかし一度学んだ文章を忘れることがなかったと伝わる。「神とは何か」という問いを、彼は幼い頃から修道士たちに繰り返し尋ねたという。

1239年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と教皇グレゴリウス9世の対立が激化した。皇帝軍がカッシーノ山周辺を占拠し、修道士たちは追放された。14歳のトマスも山を下りてナポリへ向かった。

フリードリヒ2世が1224年に創設したナポリ大学は、当時のヨーロッパで最も世俗的な大学のひとつだった。ここでトマスはアリストテレスの自然学・形而上学の著作と、アラビア語経由でヨーロッパに渡ったイブン・ルシュド(アヴェロエス)の注解書に初めて触れた。それまで彼が学んだのはキリスト教の伝統と神学だった。アリストテレスとの出会いは、世界を別の論理で見る目を与えた。

と同時に、托鉢たくはつ修道会として急速に勢力を広げていた(説教者修道会)に惹かれていった。ドミニコ会は清貧と説教を旨とし、大学に拠点を持って神学を学ぶことを奨励していた。財産も安定した地位も捨てて路上で神を語る修道士たちの姿が、貴族の子の心を動かした。

1244年、19歳でドミニコ会への入会を決意した。母テオドーラは激怒した。院長の座ではなく、物乞い同然の托鉢修道士になるというのは家門への裏切りに映った。兄たちがトマスをローマへの旅の途中で拉致らちし、ロッカセッカ城に約一年にわたって留め置いた。家族は何度も説得を試みた。ある夜、兄たちは美しい女性をトマスの部屋に送り込んで誘惑させたとも伝わる。トマスは暖炉から燃えさす木炭を取り出してその女性を追い払い、残った炭で壁に十字架を描いて一晩中祈り続けたという(聖人伝に連なる伝承)。やがて母が折れた。1245年、彼はドミニコ会の白衣と黒マントをまとってナポリを発った。

03パリ、ケルン ― アルベルトゥス・マグヌスの弟子

1245年、トマスはパリへ向かい、ドミニコ会が誇る当代最大の碩学せきがくアルベルトゥス・マグヌスの講義に加わった。アルベルトゥスは神学者でありながら自然科学にも通じ、アリストテレスの全著作をキリスト教の文脈で読み直すという、前人未踏の壮大な試みに取り組んでいた。彼はトマスより約20歳年長で、「偉大なるアルベルトゥス」の名はすでにヨーロッパ中に轟いていた。

トマスは無口だった。体格は大きく、どっしりと落ち着いており、動作も言葉も鈍かった。同学の修道士たちは彼を陰で「沈黙の雄牛(Dumb ox)」と呼んだ。しかしアルベルトゥスはその沈黙の深さを見抜いていた。ある授業でトマスが書き取ったノートを見た師は言った。「この牡牛の吠え声は、やがて全世界に響きわたるだろう」。軽い嘲りへの静かな反論であり、予言でもあった。

1248年、アルベルトゥスがケルンに新たな修道院学院(Studium generale)を設立すると、トマスもともにライン川を渡った。ケルンの四年間は師弟の絆を深め、トマスはアリストテレス哲学の論理学・自然学・形而上学・倫理学を体系的に学んだ。1252年、師の強い推挙によりトマスはパリ大学に戻り、神学を教える準備に入った。師弟関係は終生続いた。晩年、トマスがフォッサノーヴァで死の床にあることを知ったアルベルトゥスは、深く嘆き悲しんだと伝わる。

04パリ大学神学教授 ― 論争の只中へ

パリ大学は13世紀ヨーロッパ最大の知的闘技場だった。神学部では、ドミニコ会・フランシスコ会の托鉢修道士出身の教師と、世俗の聖職者教授たちが大学の権限と学生をめぐって激しく対立していた。修道会は大学の秩序を乱す存在だと見る者もいた。1256年、30歳でトマスは神学教授資格(マギステル)を取得し、正式に聖書と「命題集」の講義を担った。

論争は思想の次元でも激化していた。パリ大学の芸術学部ではシゲールス・デ・ブラバンティアらアヴェロエス主義者たちが台頭し、「哲学的真理と神学的真理は別物でありえる」という立場が彼らに帰せられ、のちにと呼ばれた(シゲール自身が明示的に唱えたかは論争が残る)。理性の世界と信仰の世界を切り離すことで、アリストテレスの危険な命題――世界の永遠性、個人の魂の不死の否定――をそのまま哲学として維持しようとした流れだった。信仰と哲学が衝突するなら、それぞれの領域でそれぞれが正しければよい、という論理である。

トマスはこれに真っ向から反駁はんばくした。理性と信仰は矛盾しない。理性で自力に到達できる真理(神の存在など)と、啓示によってはじめて与えられる真理(三位一体・受肉・秘跡)は範囲を異にしつつも、同じ神に源を持つ二つの光だ。矛盾が生じるとすれば、どちらかの論証に誤りがある。彼は異教の哲学者・イスラムの知識人たちに向けて論陣を張った『』(Summa contra Gentiles)の執筆を続けた。それは聖書の権威に訴えることなく、純粋に理性の論証だけで信仰の真理を弁護しようとする試みだった。並行して、修道士への神学教育のためのより体系的な書の構想も熟しつつあった。

05『神学大全』 ― 未完の大著

1265年、ローマに戻ったトマスはドミニコ会の修道院学院で新たな神学書の執筆を開始した。『』(Summa Theologiae)である。序文でトマスは読者をこう定めた。「神学を学ぶ初学者のために」。しかしその「入門書」は、やがて中世キリスト教思想の最大の集成となった。

構成は三部からなる。第一部は神そのもの、三位一体、創造、天使と人間を扱う。第二部は人間の行為・倫理・徳を扱い、前半で道徳の原理を、後半で個々の徳と罪を論じる。第三部はキリストの受肉じゅにく、十字架、秘跡ひせきを扱う。各問いは「異論(Objectio)」「反論(Sed contra)」「本論(Respondeo)」「各異論への答え」という精密な問答形式で進む。全体で512問、2,669条を数える。

執筆は7年以上にわたり、トマスは口述こうじゅつし、複数の書記が筆を取った。毎朝ミサの後に執筆し、問いを立て、反論を列挙し、本論を展開した。それは対話の形を取りながら、内側では独白のように厳密だった。同時代の人々は、彼が複数のテーマについて同時に口述できたと驚きをもって伝えている。書記が入れ替わり立ち替わり部屋に入る中で、トマスはそれぞれに別の問いの続きを語り、あたかも頭の中に完成した文章が既にあるかのように淀みなく言葉を紡いだという。

私が書いたすべては藁に思える。私が見たもの、そして啓示されたものに比べれば。

ドミニコ会修道士レジナルドへの言葉(1273年12月)

1273年12月6日、ナポリのドミニコ会修道院サン・ドメニコ・マッジョーレ内、聖ニコラオ礼拝堂でミサを捧げている最中に、トマスは深い神秘的体験を受けた。その後、筆を置いた。以後、死まで3か月、彼は一行も書かなかった。側近の修道士レジナルドが何度も執筆再開を促すと、彼は静かに答えた。「私が書いたすべては藁に思える。私が見たもの、そして啓示されたものに比べれば」。『神学大全』第三部は、秘跡の箇所を残したまま未完に終わった。

06アリストテレスとキリスト教の統合

12世紀後半から13世紀にかけて、イスラム世界とビザンツ経由でアリストテレスの著作群が大量にラテン語に翻訳された。それまでヨーロッパのキリスト教神学はアウグスティヌスとプラトン哲学の伝統に依って立っていた。アリストテレスは論理学の一部だけが知られていたにすぎない。しかし13世紀初頭、彼の自然学・形而上学・魂論・倫理学が一気に流れ込んだ。

なかでもイブン・ルシュド(アヴェロエス)の詳細な注解書はヨーロッパの知識人を震撼させた。アリストテレスの宇宙論は世界の永遠を説き、彼の魂論は個人の不死を否定するように読めた。パリ大学の芸術学部では、これを哲学的真理として受け入れる動きが広がった。教会にとって、これは危険な異物だった。1210年と1215年、パリで「アリストテレスの自然学を教えてはならない」という禁令が出た。

トマスの革命は、その異物を敵として排除するのでも、禁令きんれいに従って封印するのでもなく、内側から変容させた点にある。彼は「存在(esse)」と「本質(essentia)」の区別を徹底し、神だけが「自存する存在そのもの(ipsum esse subsistens)」であるという形而上学を構築した。すべての被造物ひぞうぶつが合成されており、神の自由な創造によってのみ存在を与えられる。アリストテレスの概念装置は保たれながら、その中心に創造神が据えられた。

理性は信仰の敵ではない。理性は神が人間に与えた能力であり、信仰と同じ真理の源泉へと向かう。ただし理性だけでは到達できない真理がある。三位一体、受肉、秘跡 ― これらは啓示によって与えられ、理性はその後から理解を深める役割を担う。「信仰が先、理解が後(credo ut intelligam)」というアウグスティヌスの言葉を、トマスはアリストテレスの論理学で補強し、より精密な哲学的基盤の上に乗せた。哲学は神学を攻撃する武器ではなく、神学の城壁を補強する石材だった。

07神の存在証明 ― 五つの道

『神学大全』第一部問題2第3項で、トマスは神の存在を証明する(Quinque viae)を提示した。いずれもアリストテレスの自然学から出発し、経験的な観察から論理の連鎖を辿って、その始点に神を置く論証である。存在論的証明(アンセルムス)のように概念だけから神を導くのではなく、現実の世界から出発する点がトマスの特徴だった。

第一の道は運動から。動かされるものは必ず何かによって動かされる。しかしその因果連鎖を無限に遡ることはできない。ゆえに自らは動かされず、他を動かす「(primum movens)」が存在しなければならない。これが神だ。第二の道は作用因から。すべての結果には作用原因がある。しかし原因の連鎖も無限に遡れない。ゆえに何も前提とせず他のすべてを引き起こす「第一原因」がある。

第三の道は可能と必然から。偶然に存在するものは、かつて存在しなかったはずだ。もしすべての存在が偶然的なら、かつて何も存在しなかった時代があったことになる。しかしそこから何かが生まれるためには、必然的に存在するもの(ens necessarium)が必要だ。第四の道は完全さの段階から。善さや真理や気高さには程度の差がある。程度の差があるとき、最も真・最も善・最も高貴なる基準が存在し、それが他のすべての完全性の原因でなければならない。これが、善や存在の源である神だ。

第五の道は目的論(統治)から。知性を持たない自然物も、一定の目的に向かって秩序よく働く。矢は弓師の意図で的に飛ぶように、宇宙の秩序も知性ある存在が方向を定めているからだ。これが万物を統治する神の知性である。

五つの道の論証は、後の哲学者たちに繰り返し挑戦された。ヒュームは因果の連鎖に懐疑を向け、カントは「経験を超えた存在への論証は成立しない」と断じた。しかしカトリック神学における神の理解の基本枠組みは、1274年以降もこの五つの道の上に立ち続けている。論証の妥当性をめぐる議論は今も続く。しかし「なぜ神について、理性の言葉で語れるのか」という問いそのものを立てたことが、トマスの最大の功績だった。

08主要な出来事と著作

  1. 南イタリア・ロッカセッカ城に誕生。父ランドルフォ(アクィノ伯)、母テオドーラ
  2. 5歳頃、モンテ・カッシーノ修道院に入る
  3. 皇帝と教皇の対立によりカッシーノを離れ、ナポリ大学へ。アリストテレスと出会う
  4. ドミニコ会への入会を決意。兄たちに拉致・ロッカセッカ城に監禁される
  5. パリへ。アルベルトゥス・マグヌスに師事
  6. 師とともにケルンへ。修道院学院でアリストテレス研究を深める
  7. パリ大学神学教授資格(マギステル)取得。講義・著述を開始
  8. 『対異教徒大全』(Summa contra Gentiles)完成
  9. ローマ帰還。『神学大全』(Summa Theologiae)執筆開始
  10. 12月6日、ナポリでの神秘体験後に執筆を停止。「すべては藁に思える」
  11. リヨン公会議へ向かう途中、フォッサノーヴァ修道院にて死去。享年49
  12. 教皇ヨハネス22世により列聖
  13. 教皇ピウス5世により「教会博士(Doctor Ecclesiae)」に認定

残した思想の輪郭

  • ― 理性は啓示の真理と矛盾しない。同じ神から与えられた二つの光
  • 五つの道(Quinque viae) ― 運動・因果・可能と必然・完全さの段階・目的論による神の存在証明
  • 存在論的区別 ― 被造物は「本質(essentia)」と「存在(esse)」の合成、神のみが「存在そのもの」
  • (lex naturalis) ― 理性的被造物が永遠法(lex aeterna)に参与する道徳の原理。後のカトリック倫理学と自然権思想の基盤
  • の完成 ― アリストテレスの論理学・形而上学をキリスト教神学の体系に統合した頂点
1274年、リヨン公会議に向かう旅の途中、フォッサノーヴァ修道院で49歳で死去。
6
  • 解釈伝承として記録伝承

    伝承: 13世紀のパリ大学、アリストテレス哲学がアラビア経由で流入し、信仰と理性の関係が神学部を揺らしていた。「哲学は神学の侍女」はラテン中世を通じて流布していた定式で、「しかし侍女を粗略に扱ってはならない」...

    一次資料を開くSumma Theologiae I, q.1, a.5 ad 2: 'haec scientia accipere potest aliquid a phil...

  • 場面伝承として記録伝承

    伝承: トマス・アクィナスは晩年、神秘体験ののち著述を中断したと伝えられる。

  • 引用二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 私が書いたすべてのものは、私に啓示されたものに比べれば藁屑のように思われる

    一次資料を開くSumma Theologiae 第三部 (Tertia Pars) は Quaestio 90 で中断、未完。philograph context の '未完...

  • 引用伝承として記録伝承

    伝承: 哲学は神学の侍女である。しかし侍女は不当に扱われてはならない

    一次資料を開くI, q.1, a.5, ad 2: 神学が他の学を 'as handmaidens (ancillis)' 用いる比喩。Sed Contra で Wisdom...

  • 抜粋二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 私が書いたすべては藁に思える。私が見たもの、そして啓示されたものに比べれば。

  • 出典伝承として記録伝承

    伝承: 伝承(『神学大全』と中世教父の言葉を経て)

    一次資料を開くI, q.1, a.5, ad 2: 神学が他の学を 'as handmaidens (ancillis)' 用いる比喩。Sed Contra で Wisdom...

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生きた跡を辿るPlaces

トマス・アクィナスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ジャコバン修道院教会墓所

    トゥールーズ, フランス

    1369年、教皇ウルバヌス5世の命でドミニコ会の母教会に遺骨が移された。ゴシックの柱を支柱に祭壇脇の金の聖遺物櫃に眠る

さらに辿るならExternal References

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