エディット・シュタイン
人の痛みを自分のことのように感じることは、できるのか。 その問いの先に、彼女は何を見たのか?
現象学から出発し、トマス主義を経てカルメル会修道女となり、アウシュヴィッツで殉教した哲学者
- 現象学
- 共感論
- カルメル会殉教
女性が大学に入れるようになった矢先、生まれが命を決める時代が来た — ひらく
時代の空気
19世紀末、プロイセン領シレジアのブレスラウ(現ヴロツワフ)はユダヤ系商工市民の文化が厚く、女性の高等教育がようやく解禁されつつあった。ゲッティンゲンとフライブルクではフッサールが現象学派を率い、若い知性が「事象そのものへ」と集った。第一次大戦は学生の友人たちを戦場に奪い、戦間期にはアーリア条項が大学から職を奪う。オランダの隠れ家にも、占領下の司牧書回状への報復は届いた。
011942年8月2日、修道院の扉
1942年8月2日、オランダの小さな町エヒト。カルメル会の修道院に、ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)が来た。連れて行かれたのは、修道女のひとりと、その姉だった。修道女の名は。もとの名はエディット・シュタイン。ドイツ生まれのユダヤ人で、かつては哲学者だった。
一週間前、オランダの司教たちがナチスのユダヤ人迫害を非難する手紙を、全教会で読み上げていた。その仕返しとして、カトリックに改宗したユダヤ人が一斉に捕まった。彼女はその一人だった。
修道院を出るとき、彼女は姉に言った。「ローザ、一緒に民のために行こう」。修道女たちがそう書き残している。書きかけの原稿が残された。最後の章の途中だった。
彼女はカトリックの修道女だった。ユダヤ教の祈りは、少女のころに手放していた。それなのに、なぜ「民のために」と言ったのか。その民とは、だれのことだったのか。答えを探すには、時を51年前に戻さなくてはならない。
02祈るのをやめた少女
1891年10月12日、エディットはブレスラウで生まれた。今のポーランドの町ヴロツワフで、当時はプロイセン(ドイツ)の領土だった。父ジークフリートは木材商、母アウグステはユダヤ教を固く守る人だった。生まれた日はと重なった。ユダヤ教で一年で最も大切な、罪を悔いる日である。母は末娘を特別な子と見た。
父はエディットが2歳のとき急に亡くなった。母は一人で木材の商売を継ぎ、家族を養った。エディットは11人兄妹の末っ子だった。
母は家の柱を二つ決めていた。(ユダヤ教の礼拝所)に通うこと。安息日を守ること。しかし14歳ごろ、エディットは祈りに違和感を覚えるようになる。「意識的に祈るのを止めた」と、のちに本人が書いている。信仰の家で信仰を持たない少女は、心の中で一人だった。
勉強はよくできた。1911年からブレスラウ大学で心理学、哲学、歴史、ドイツ文学を学ぶ。やがてに引きつけられる。現象学とは、ものごとが心にどう現れるかを、先入観なしに調べる学問だ。その中心にいたのがエトムント・フッサール。彼の『』を読んで衝撃を受け、1913年、21歳でゲッティンゲン大学に移った。
祈ることをやめた少女が、「ものごとをありのままに見る」学問を選んだ。この選択がどこへ続くのか、本人もまだ知らなかった。
03他人の痛みは分かるのか――フッサールの助手
ゲッティンゲンには、フッサールを慕う若い学者たちが集まっていた。その中でエディットは、マックス・シェーラーとに出会う。シェーラーはカトリックの信仰について彼女と語った。ラインアッハは考え方が厳密で、人としてもあたたかい。エディットに強い印象を残した。
1916年、フッサールはフライブルク大学に移る。エディットは同行し、フッサール最初の個人助手となった。仕事は『』の第二巻と第三巻の原稿を整え、タイプし、編集を助けること。同じ年、博士論文『』で博士号を最優等で取得した。24歳だった。
論文の問いはひとつ。他人の体験を、自分はどうやって感じ取るのか。相手の痛みは、自分の痛みではない。それでも私たちは、相手の痛みを「そこにある」ものとして受け取る。エディットはこの仕組みを、細かく描き出した。
1917年、ラインアッハが第一次世界大戦で戦死する。彼はプロテスタントに改宗していた。葬儀に立ち会ったエディットは、妻のアンナが取り乱さずに夫の死を受けとめる姿に衝撃を受けた。「キリスト者の死の希望」。その事実が、彼女の内側に深く沈んでいく。
一方、フッサールは彼女の独立した仕事を認めなかった。、つまり大学で教える資格の取得に、推薦を渋った。1918年、エディットは助手を辞める。当時のドイツで、女性、しかもユダヤ系に教授の道はほぼ閉ざされていた。彼女の力の問題ではなく、制度の問題だった。同じ門下のポーランド人、とは、生涯にわたって手紙を交わす友となる。
他人の痛みを感じ取る仕組みを書いた博士が、大学から締め出された。考える場所を失った彼女に、一冊の本が待っていた。
04一晩の読書
1916年から1922年、エディットは学問の道を探して、いくつもの大学を回った。どこでも、女性でユダヤ人だという理由で、ハビリタチオンの道は閉ざされた。仕方なくギムナジウム(中学と高校を合わせた学校)の教師として生活を立てる。それでも、精密な学術論文を書き続けた。
1921年8月、友人の哲学者夫妻を訪ねた。ベルクツァーベルンの田舎の家だった。書棚に一冊の本があった。16世紀スペインの修道女が、自分の祈りの体験を書いた本である。エディットはアビラのテレサを一晩で読み通した。朝、本を閉じて彼女はつぶやいたと伝えられる。「これが真理だ」。
翌日、カトリックの教理問答書を買った。翌1922年1月1日、ベルクツァーベルンの教会で洗礼を受け、2月に堅信を受けた。30歳だった。
家族、とくに母アウグステは深い悲しみに沈んだ。ユダヤ教を固く守る母には、末娘の改宗は裏切りに映った。しかし母と娘の絆は切れなかった。エディットは毎週、シナゴーグに母と付き添って座り続けた。カトリックになっても、彼女はユダヤ人であることを手放さなかった。「私はキリストを信じるユダヤ人です」。
母の隣に座るカトリックの娘。冒頭の「民」という言葉は、すでにここで芽を出している。
真理を求める者は、本人が気づいていようといまいと、神を求めている。
05教える八年、そして修道院の扉
1923年から1931年、エディットはシュパイアーの学校で教えた。の修道女が運営する女子校、ザンクト・マグダレナである。この間、彼女は中世の神学者トマス・アクィナスの研究に打ち込んだ。彼の『真理について』をドイツ語に訳し、1931年から翌年にかけて完成させる。
1932年、ミュンスターの研究所で講師になった。女性の教育、家庭と仕事、国と女性の関係について、各地で講演する。男性のまねでもなく、家事に閉じこめるのでもない。女性には女性の「形」がある、と彼女は説いた。
1933年4月、ナチス政権がを定めた。ユダヤ系の人は公の仕事につけない、という決まりである。エディットは職を失った。
同じ年の10月14日、42歳のエディットはケルン・リンデンタールの修道院に入った。跣足カルメル会(せんそくカルメルかい)は、アビラのテレサが改革した修道会である。入会名は「十字架のテレジア・ベネディクタ」。テレサの娘として、そして十字架を通してユダヤ人の同胞とつながる者として。彼女はその願いを、新しい名前に込めた。
世間から見れば、ユダヤ人が修道院に逃げ込んだ形だった。だが彼女の名前には「十字架」の三文字があった。それが何を意味するかは、9年後に分かる。
06壁の内側の大著、水晶の夜
1936年から1937年、修道院の壁の内側で、エディットは大きな本を書いた。『』。限りある人間の存在と、限りない神の存在を、ひとつの問いとして考え抜いた本である。1938年4月21日、終生誓願を立てる。一生を修道女として生きる、という誓いだ。
本の出版は決まりかけていた。だが出版社は断った。ナチス政権の下で、著者がユダヤ系だからという理由だった。この本が印刷されたのは彼女の死後、1950年のことになる。
1938年、ドイツ各地でユダヤ人の店や礼拝所が襲われた。(クリスタルナハト)と呼ばれる事件である。その直後の12月31日、修道会は彼女の身を案じ、オランダのエヒトのカルメル修道女会へ移した。姉のローザも1936年に改宗しており、のちにエヒトで合流する。
エヒトでも執筆は続いた。『十字架の学問』。という16世紀スペインの修道士について書いた本だ。1941年から翌年にかけて書き進めたが、最後の章の途中で筆は止まる。中断の理由は、外から来た。
071942年8月――民のために
1942年7月26日、オランダのカトリック司教団は、ナチスのユダヤ人迫害を非難する司牧書回状を全教会で朗読した。SS(ナチスの親衛隊)は仕返しとして、8月2日、カトリックに改宗したユダヤ人をオランダ全土で一斉に逮捕した。
ここで、物語は冒頭に戻る。エヒトの修道院にも手は伸びた。エディットと姉ローザはゲシュタポに連行された。修道院を出るとき、彼女は言った。「ローザ、一緒に民のために行こう」。
ヴェステルボルク通過収容所を経て、8月9日、姉妹はアウシュヴィッツ・ビルケナウ第二収容所に着いた。同じ日、ガス室で殺された。エディットは50歳だった。遺体は焼かれ、灰は周りの土地にまかれたと推定される。師のフッサールは、1938年にすでに世を去っていた。
「民のために」。冒頭の問いに、もう一度立ってみよう。彼女は少女のころ祈りをやめ、30歳でカトリックになり、42歳で修道女になった。それでも母の隣でシナゴーグに座り続け、「キリストを信じるユダヤ人」と名乗った。修道名には「十字架」を入れた。捕まった理由は、カトリックに改宗したユダヤ人だから、だった。彼女はその両方を、最後まで手放さなかった。
1962年、ケルンの教区で列福の調査が始まった。1987年5月1日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世により列福。1998年10月11日、バチカンで列聖された。ユダヤ系のカトリック聖人としては、史上二人目である。1999年10月1日、シエナのカタリナ、スウェーデンのビルギッタとともに、ヨーロッパの共同守護聖人に指定された。1957年にはインガルデンが彼女との書簡集を発表した。近年はユダヤ系の人々からも、彼女が「ユダヤ人としての死」を引き受けた側面が見直されつつある。
若い日の博士論文の問いは、他人の体験を自分がどう感じ取るか、だった。その26年あと、彼女は感じ取るだけでなく、その人々と同じ場所へ行った。他人の痛みを、どこまで自分のものにできるのか。その線を、あなたならどこに引くだろうか。
08思索の輪郭――共感からトマス主義、存在論へ
博士論文『共感の問題について』(Zum Problem der Einfühlung)は、フッサール現象学の枠内で、他者の体験を自らの意識のなかに「現前化」させるという共感の構造を分析し、シェーラーの共感論と対話しつつ独自の位置を占めた。の仕事は『イデーンII』『イデーンIII』の原稿整理、タイピング、編集補助が主で、その膨大な労働は後のフッサール研究史に計り知れない貢献を残した。1928年、フッサールの後任にはマルティン・ハイデガーが招かれた。ハビリタチオンを阻まれた時期にも、『心理学の哲学・精神科学の哲学への貢献』(1922)など精緻な学術論文を書き続けている。
シュパイアー時代にはトマス・アクィナスの研究に集中し、『真理について』(De Veritate)のドイツ語訳を完成(1931–1932)。現象学とトマス主義の架橋という、20世紀カトリック哲学の独自の課題を背負うことになる。ミュンスター期の講演をまとめた『女性の使命と教育』では、男性モデルへの同化でも家事への閉じ込めでもない、女性固有の「形」(Gestalt)に即した教育論を展開した。
ケルン・カルメル修道院の囲い込みの内側で執筆された『有限なる存在と永遠なる存在』(Endliches und ewiges Sein)は、現象学、トマス主義、アウグスティヌスの時間論、中世のジョン・ドゥンス・スコトゥスまでを総合し、存在論的・神学的な存在論を書き上げた大著である。刊行はナチス政権下で拒否され、死後の1950年に初めて印刷された(遺作)。エヒトで書き継がれた『十字架の学問』(フアン・デ・ラ・クルス=十字架のヨハネ論、1941–1942)は、逮捕により最終章の途上で中断した。カルメル修道女として、同時にユダヤ民族のひとりとして殉教したという二重性は、列聖後もユダヤ系コミュニティとの対話の焦点であり続けている。
09主要な出来事と残した思索の輪郭
- 10月12日、ブレスラウ(ヨム・キプル当日)で誕生、11人兄妹の末子
- ゲッティンゲン大学でフッサールのセミナーに参加
- 『共感の問題について』で博士号取得、フライブルクでフッサール最初の助手に
- アドルフ・ラインアッハ戦死、葬儀で「キリスト者の死の希望」に触れる
- フッサールの助手を辞す。教授資格取得は性別とユダヤ系の二重の障壁で阻まれる
- コンラート=マルティウス家でアビラのテレサ『自叙伝』を一晩で読了
- 1月1日、ベルクツァーベルンでカトリック洗礼、2月に堅信
- シュパイアーのドミニコ会立ザンクト・マグダレナ学校で教師
- ミュンスター教育科学研究所講師、女性教育論を講演
- アーリア条項で公職追放、10月14日ケルン・リンデンタールのカルメル会に入会
- 『有限なる存在と永遠なる存在』執筆(刊行は拒否、1950年遺作刊)
- 終生誓願。水晶の夜後、オランダのエヒト修道院へ移送
- オランダ司教団の司牧書回状への報復で姉ローザとともにゲシュタポに連行
- アウシュヴィッツ・ビルケナウのガス室で殺害、50歳
- ヨハネ・パウロ2世により列福
- 10月11日、列聖
- 10月1日、ヨーロッパの共同守護聖人に指定
残した思索の輪郭
- 『共感の問題について』 ― 他者の経験の現前化を厳密に分析した現象学的研究
- 現象学とトマス主義の架橋 ― 20世紀カトリック哲学の独自の課題を引き受けた
- 女性の使命と教育論 ― 男性モデルへの同化でも家事限定でもない「形」の教育学
- 『有限なる存在と永遠なる存在』 ― 存在論と神学を総合する大著(遺作)
- ユダヤ人としての死の引き受け ― カルメル修道女として、ユダヤ民族のひとりとして殉教
つながり
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エディット・シュタインが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
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WikipediaEnglishWikipedia English — "Edith Stein"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Edith Stein"