アンセルムス
「神はいる」と、 頭の中だけで証明できるだろうか?
「知解せんがために信ず」と掲げ、思考のうちから神を導いた中世スコラの礎
- 神の存在証明
- 信ずるために知解す
- プロスロギオン
司教を選ぶのは王か、教会か。修道院の静けさの外で、王と教皇の力くらべが始まっていた。 — ひらく
時代の空気
十一世紀後半のヨーロッパでは、ノルマン征服(1066)でイングランドがノルマンディ公国と接続し、ノルマンディのベック修道院が師ランフランクス(1070-89年カンタベリー大司教)とアンセルムスを輩出する知の拠点となっていた。教皇グレゴリウス7世の改革のもと、司教や修道院長への指輪と杖の授与権をめぐる叙任権闘争が皇帝・諸王と教皇庁を衝突させ、アンセルムスもウィリアム2世・ヘンリー1世と争って1097年と1103-06年に二度ローマへ亡命、1107年ロンドン協約で妥協が成立した(1122年ヴォルムス協約の先駆)。
01病床の王と、いやがる修道士
1093年、イングランド。グロスター近くの館で、王ウィリアム2世が重い病に倒れていた。ウィリアム2世は、イングランドを征服した王ウィリアム1世の息子である。死が近いと感じた王は、おそれた。神に悔い改めを示さなければならない。
そこで王が急いで決めたのが、カンタベリー大司教の任命だった。カンタベリー大司教は、イングランドの教会でいちばん高い地位である。前の大司教が亡くなってから、王はその席をわざと空けたままにしていた。大司教の土地から入る収入を、王室のふところに流し込むためである。
呼び出されたのは、たまたまイングランドを訪れていた一人の修道院長だった。海の向こう、ノルマンディのから来たアンセルムス。60歳。彼は王の病床に連れて行かれ、無理やり大司教に任命された。
本人は激しく拒んだと伝わる。王への手紙で、彼はこう書いている。「老いた臆病な羊を若い猛牛とつがわせようとしている」。羊は自分のこと、猛牛は王のことだ。
多くの人が望む、教会の最高の席。なぜ彼はこれほど、それをいやがったのか。その答えを知るには、時を60年前に戻さなければならない。アルプスの谷にいた、一人の少年のところへ。
02アオスタの少年、雲の上の城
1033年か1034年、アンセルムスは北イタリアのアオスタに生まれた。アルプスの山々に囲まれた谷の町で、当時はブルグンド王国という国の一部だった。家は貴族である。父グンドゥルフは騎士、母エルメンベルガは信仰の深いキリスト教徒だった。
母の影響で、幼いころから強い信仰をもったと伝わる。彼は少年時代に見た夢を、のちに弟子に語っている。神は山の上、雲の中の城に住んでいる。そう信じた少年は、山頂の雲に向かってパンを求めた。すると不思議な力で、食べさせてもらったという夢である。
15歳のとき、修道士になりたいと願い出た。修道士とは、世間を離れて神に仕える生き方を選んだ人のことだ。だが父は反対した。地元の修道院長も、父に遠慮して断った。
22歳ごろ、母が死んだ。父との関係も悪くなり、彼は家出も同然にアルプスを越えた。三年のあいだ、ブルグンドとフランスをさまよい歩く。1059年ごろ、ノルマンディ公国のベック修道院にたどり着いた。そこで彼は、生涯を決める師と出会う。
03ベック修道院、対話で教える師
ベック修道院の副院長は、という人物だった。北イタリアのパヴィアの出身で、当時いちばんの法学者であり、神学者だった。神学とは、神について筋道を立てて考える学問である。彼は学校を開き、ノルマンディ中から優秀な若者を集めていた。のちに征服王ウィリアム1世のもとで、カンタベリー大司教となる大物である。
アンセルムスはその門をたたいた。1060年、27歳で正式に修道士となる。三年後には副院長に昇進した。1063年にランフランクスがカンの町へ去ると、アンセルムスがその後を継いだ。そして1078年、院長に選ばれる。
ベック修道院は、わずか20〜30人の小さな共同体だった。だがアンセルムスのもとで、中世でいちばんの知の中心地となる。彼の教え方は、きびしい規則ではなかった。一人ひとりの修道士との対話だった。
「アンセルムスの手紙」は数百通が残っている。若い修道士の心の悩みから、神学の難問まで。一つひとつ丁寧に答えていく師の姿が、そこにある。弟子エードマーは『アンセルムス伝』を書き、この温厚な導き手の姿を後の世に伝えた。
けれど、人をおだやかに導くこの師には、自分だけの問いがあった。まだ誰にも解けていない問いである。
04眠れない夜、ひとつの論証
副院長だった1076年、アンセルムスはを書いた。「モノロギオン」は「ひとりごと」という意味である。一人の考える人が、聖書の権威に頼らず、理性だけで最高の存在を導こうとする本だった。筋道はこうだ。善いものには程度がある。ならば「いちばん善い」という基準がなければならない。それが神である、と。
しかし、本人は満足しなかった。いくつもの理由を積み重ねるのではなく、たった一つの議論で神の存在を導けないか。この無理な目標に、彼は取り憑かれた。1078年、食事も眠りも忘れた夜がつづく。そして突然、その論証が心に降りてきたという。
我々が信じる神、それより偉大なものが考えられないような何ものか(id quo nihil maius cogitari possit)、それは存在すると、我々は信ずる。
これがであり、のちにと呼ばれる議論である。中身を、できるだけかんたんに言ってみよう。
まず頭の中に、「それより偉大なものが考えられない何か」を思い浮かべる。もしそれが頭の中にしかなく、現実にはないとしたら、どうか。現実にもあるもののほうが、頭の中だけのものより「偉大」だ。すると、「それより偉大なものが考えられない何か」より、もっと偉大なものが考えられてしまう。これは最初の決めごとに反する。だから、その「何か」は現実にも存在しなければならない。それが神だ、と。
信じているのに、なぜ証明するのか。彼の答えは、この本の第1章にある。「知解」とは、理解することだ。
我は信ぜんがために知解せんと欲するのではなく、知解せんがために信ずるのだ
信じているからこそ、もっと理解したい。fides quaerens intellectum(理解を求める信仰)。「」と訳される、この言葉が彼のモットーになった。
反論はすぐに来た。マルムーティエ修道院の修道士ガウニロである。同じ論法を使えば、「最も完全な島」だって存在させられてしまうではないか。に、アンセルムス自身が応答を書いた。ここから、千年つづく論争が始まる。
だが、この静かな論争から15年後。考える修道士は突然、修道院の外へ引き出されることになる。
05大司教の杖、王との15年
1089年、師ランフランクスがカンタベリー大司教のまま亡くなった。冒頭の病床の場面で、王がわざと空けていた席。それは、この師の席だったのである。
1093年、病に倒れた王は、60歳のアンセルムスを病床に呼び、無理やり大司教にした。ここから、大司教としての15年が始まる。それは王との闘いの15年だった。
ウィリアム2世とは、教会の土地の支配権をめぐって衝突した。1097年、アンセルムスは追放され、ローマへ亡命する。亡命とは、身の危険をさけて国の外へ逃れることだ。1100年、ヘンリー1世が王になると帰国した。
だが今度は、が始まる。司教や修道院長に、聖なる指輪と杖を授ける権利は誰にあるのか。王か、それとも教皇か。これは、教皇グレゴリウス7世が進めたの中心にある問題だった。
アンセルムスは教皇の側に立ち、ヘンリー1世と対立した。1103年から1106年まで、二度目の追放。1107年、ようやくロンドン協約で妥協が成立する。司教を選ぶのは教会。王は、土地についての世俗の権利だけを授ける。この取り決めは、1122年のの先取りとなった。
追放の旅の途中でも、彼は一冊の本を書き継いでいた。その本が問うのは、キリスト教の中心にある謎だった。
06なぜ神は人となったのか
闘いの中でも、書物の仕事は止まらなかった。1095年ごろから書き始め、1097年からの亡命先イタリアで書き継いだ本がある。。「神はなぜ人となったのか」という意味で、1098年に完成した。
弟子ボソとの対話の形をとる。問いはこうだ。神はなぜ人間となり、十字架で苦しまなければならなかったのか。キリスト教では、これを人間の罪を償うための出来事と考える。その謎を、彼は論理で解こうとした。
答えは、のちに(じゅうそくろんてきしょくざいせつ)と呼ばれる。人間の罪は、限りのない神に対する、限りのない侮辱である。だから、限りある人間には償えない。しかし、償うのは罪を犯した者でなければならない。ならば、人間でありかつ神であるもの、つまりキリストが十字架で自分を捧げるほかに道はない。世界の秩序は、それ以外には回復できない、と。
信じることの中心にある謎にさえ、彼は「なぜ」と問い、筋道で答えようとした。病床で杖を押しつけられた老人は、亡命の地でもなお、考えることをやめなかった。
07最後の日々、そして病床の答え
王との闘いのあと、晩年は比較的おだやかだった。『調和について』(1107-08)を書き継ぐ。神があらかじめ知り、定めていること、神の(おんちょう、神からの恵み)と、人のはどう両立するのか。それを論じた本である。にも発言した。「人間」や「善」のような一般的な言葉は本当に実在するのか、ただの名前にすぎないのか、という論争だ。
1109年4月21日、復活祭の前の週の水曜日。カンタベリーの大司教の館で、彼は息を引き取った。76歳。枕元で弟子に「霊魂の起源について、もう少し考える時間があれば」と呟いたと伝わる。
死の間際まで、考えたかった。ここで、冒頭の場面を思い返してみたい。1093年、王の病床。なぜ彼はカンタベリー大司教の席を、あれほど激しく拒んだのか。
彼が守りたかったのは、おそらくベック修道院にあったものだ。一人ひとりとの対話。眠れぬ夜の論証。「知解せんがために信ずる」ための時間。王との闘いは、そのすべてを奪うものだった。それでも、彼は逃げなかった。15年間、教会が教会であるために、王と争いつづけた。
14世紀、ダンテはの天国篇に彼を置いた。1720年、教皇クレメンス11世は彼を「教会博士」(Doctor Magnificus)と認めた。信じ、そして考える。彼のモットー fides quaerens intellectum(理解を求める信仰)は、その後も生きつづけた。中世スコラから近世哲学まで、信と知のあいだで揺れる神学の基調音として。
自分が信じているものを、あなたは「なぜ」と問い直せるだろうか。そして問い直したあとも、それを信じていられるだろうか。
08千年つづく論証 ― 思想の位置づけ
『モノロギオン』(1076)の議論は、善には程度がある→その最高の基準が存在しなければならない→それが神である、という段階論証であり、アクィナスの「第四の道」の先駆となった。これに対し『プロスロギオン』(1078)は、複数の論証の積み重ねを退け、単一の論証で神の存在を導こうとする。思考のうちに「それより偉大なものが考えられない何か」がある。もしそれが思考のうちにだけ存在して現実には存在しないとすると、現実にも存在するもののほうが「偉大」であり、もっと偉大なものが考えられてしまう――これは定義に反する。ゆえに「それより偉大なものが考えられない何か」は、思考のうちにも現実にも存在しなければならない。これが存在論的証明(ontological argument)の骨格である。
この議論はすぐに同時代人マルムーティエ修道士ガウニロから反論を受けた(「最も完全な島」を同じ論法で存在させられるという反例)。アンセルムス自身が応答を書き、以後千年の哲学の議論が続く。デカルト、ライプニッツ、ヘーゲル、ゲーデルがこれを再構成し、ヒュームとカントが批判した。
『クール・デウス・ホモ』の充足論的贖罪説(satisfaction theory)は、論理的必然性によって贖罪を説く点で、それまで「贖罪は神の慈悲の一面」と見ていた初期教会の伝統から大きく離れた。封建社会の「領主への侮辱は領主の価値に応じた補償を要する」という法観念を神学に持ち込んだと批判もされるが、ラテン神学の贖罪論の主流として13世紀以降定着した。
晩年の『調和について』(De concordia)は、神の予知・予定・恩寵と人の自由意志の両立を論じ、普遍論争(普遍は実在するか名にすぎないか)への発言は、次世代アベラールの議論の土台を用意した。師弟対話と問題提起の定式化は、のちの大学神学、すなわちスコラ方法の原型となる。
09主要な出来事と著作
- 北イタリア・アオスタに誕生
- ノルマンディ・ベック修道院でランフランクスに師事
- 修道士として正式に入会、三年後に副院長
- 『モノロギオン』完成
- 『プロスロギオン』(存在論的証明)
- ベック修道院長に選出
- カンタベリー大司教に叙任
- ウィリアム2世との対立で追放、ローマ亡命
- 亡命中に『クール・デウス・ホモ』完成
- ヘンリー1世との叙任権闘争で再び追放
- 和解しイングランドへ帰国
- ロンドン協約で妥協成立
- カンタベリーで死去。享年76
- 教皇クレメンス11世により教会博士に認定
残した思想の輪郭
- 存在論的証明 ― 「それより偉大なものが考えられない何か」から神の存在を思考のみで導く
- fides quaerens intellectum ― 信仰は理解を追求する、信を前提として理性を使う姿勢
- 充足論的贖罪説 ― 罪は無限、償いも無限、ゆえに神人キリストが必要、という論理的必然性
- 普遍論争の準備 ― 普遍の実在性をめぐる論点を整理、次世代アベラールの議論の土台に
- スコラ方法の成立 ― 師弟対話と問題提起の定式化、大学神学の形式の原型
つながり
- トマス・アクィナス
批判的継承 — その証明を「神の存在は自明ではない」と斥けながら、問いは引き継いだ後継者。
- アベラール
同時代 — 同じ問いに「声(vox)」から答え、『然りと否』でスコラの方法を開いた論客。
- ヒルデガルト
同時代 — 同じ頃ビンゲンでは、神学・医学・音楽を横断する修道院長が書き続けていた。
さらに読むならFurther Reading
アンセルムスの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門プロスロギオン
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生きた跡を辿るPlaces
アンセルムスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- カンタベリー大聖堂 聖アンセルム礼拝堂墓所
カンタベリー, イギリス
1109年没。大聖堂南翼の礼拝堂が聖アンセルムの名を冠し、遺骨を祀る。神学者・カンタベリー大司教としての歩みの終着点
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「カンタベリーのアンセルムス」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Anselm of Canterbury"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Anselm of Canterbury"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Anselm of Canterbury (1033—1109)"