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アンセルムス

Anselm of Canterbury·1033–1109·中世ヨーロッパ(イタリア/英)·

神の存在は、 思考の中から証明できるか?

「知解せんがために信ず」と掲げ、思考のうちから神を導いた中世スコラの礎

  • 神の存在証明
  • 信ずるために知解す
  • プロスロギオン

時代の空気

十一世紀後半のヨーロッパでは、ノルマン征服(1066)でイングランドがノルマンディ公国と接続し、ノルマンディのベック修道院が師ランフランクス(1070-89年カンタベリー大司教)とアンセルムスを輩出する知の拠点となっていた。教皇グレゴリウス7世の改革のもと、司教や修道院長への指輪と杖の授与権をめぐる叙任権闘争が皇帝・諸王と教皇庁を衝突させ、アンセルムスもウィリアム2世・ヘンリー1世と争って1097年と1103-06年に二度ローマへ亡命、1107年ロンドン協約で妥協が成立した(1122年ヴォルムス協約の先駆)。

01アオスタの少年、アルプスを越えて

1033年または1034年、北イタリア・アルプスの谷アオスタ(当時はブルグンド王国領)の貴族の家に生まれた。父グンドゥルフはロンバルド系の騎士、母エルメンベルガはブルグンド系の敬虔けいけんなキリスト教徒だった。

母の影響で幼い頃から強い信仰を抱いたと伝わる。アルプスの村で神は雲の上の城に住むと信じて、山頂の雲に向かってパンを求めたら不思議な力で食べさせてもらった、という少年時代の夢を、自ら後に弟子エードマーに語っている。

15歳で修道士志願を出したが、父の反対と地元修道院長の遠慮で断られた。22歳頃、母が死に、父との関係も悪化して家出同然にアルプスを越えた。三年間ブルグンドとフランスを流浪るろうし、1059年ごろノルマンディ公国のにたどり着いた。そこで彼は、世界を変える師と出会う。

02ランフランクスの弟子、ベック修道院

ベック修道院の副院長は、北イタリア・パヴィア出身のランフランクス(Lanfranc, 1005-1089)だった。彼は当代最高の法学者であり神学者で、ノルマンディ中から優秀な若者を集める学校を運営していた。のちに征服王ウィリアム1世のもとでカンタベリー大司教(1070-1089)となる大物である。

アンセルムスは入門。1060年、27歳でベック修道院に正式入会して修道士となり、3年後には副院長に昇進した。1063年にランフランクスがカンへ去ると、アンセルムスが副院長を引き継ぎ、1078年に院長に選ばれた。

ベック修道院はわずか20-30人規模の共同体だったが、アンセルムスの下で中世最高の知的センターとなった。彼の教育法は厳格な規則ではなく、個々の修道士との対話にあった。「アンセルムスの手紙」数百通が残り、そこでは若い修道士の魂の悩みから神学の難問まで、ひとつひとつ丁寧に答えていく師の姿が見える。弟子エードマーの『アンセルムス伝』は、この温厚おんこうな導き手の肖像を後世に伝えた。

03『モノロギオン』と『プロスロギオン』

副院長在任中の1076年、アンセルムスは『モノロギオン(Monologion)』を書いた。単一の思考者が独白どくはくする形で、聖書の権威に頼らず、純粋な理性のみで至高の存在を導こうとする試みだった。善には程度がある→その最高の基準が存在しなければならない→それが神である、という議論を進める(これはアクィナスの「第四の道」の先駆となる)。

しかし本人は満足しなかった。複数の論証を積み重ねるのでなく、たった一つの議論で神の存在を導けないか――その不可能な目標に彼は取り憑かれとりつかれた。1078年、食事も眠りも忘れた夜々の試行錯誤の末に、突然その論証が心に降りてきたという。

我々が信じる神、それより偉大なものが考えられないような何ものか(id quo nihil maius cogitari possit)、それは存在すると、我々は信ずる。

『プロスロギオン』第2章

これが有名な(ontological argument)である。思考のうちに「それより偉大なものが考えられない何か」がある。もしそれが思考のうちにだけ存在して現実には存在しないとすると、現実にも存在するもののほうが「偉大」であり、もっと偉大なものが考えられてしまう――これは定義に反する。ゆえに「それより偉大なものが考えられない何か」は、思考のうちにも現実にも存在しなければならない。これが神だ、と。

この議論はすぐに同時代人マルムーティエ修道士ガウニロから反論を受けた(「最も完全な島」を同じ論法で存在させられるという反例)。アンセルムス自身が応答を書き、以後千年の哲学の議論が続く。デカルト、ライプニッツ、ヘーゲル、ゲーデルがこれを再構成し、ヒュームとカントが批判ひはんした。

04カンタベリー大司教、王との闘い

1089年、師ランフランクスがカンタベリー大司教として没した。イングランド王ウィリアム2世ルーファスは空席の大司教職を意図的に空けたまま、大司教領の収入を王室に流し込んだ。

1093年、王が重病となり、死を恐れて改悛かいしゅんのために新大司教を急ぎ任命することを決めた。当時イングランドを訪問中だったベック院長アンセルムスは、王の病床(グロスター近郊)に呼び出され、無理矢理カンタベリー大司教に叙任された。60歳、本人は激しく拒んだと伝わる。「老いた臆病おくびょうな羊を若い猛牛とつがわせようとしている」と王への手紙で書いている。

大司教としての15年は王との闘争だった。ウィリアム2世とは教会領の支配権をめぐって衝突し、1097年に追放されてローマへ亡命。1100年にヘンリー1世即位で帰国したが、(Investiture Controversy)が始まる。司教や修道院長に聖なる指輪と杖を授ける権利は王にあるか教皇にあるか。グレゴリウス改革の中心問題である。

アンセルムスは教皇の権威を擁護ようごしてヘンリー1世と対立し、再び1103-1106年に追放。最終的に1107年、ロンドン協約で司教選挙は教会で行い、王は封土ほうどとしての世俗権のみを授けるという妥協が成立した。これは1122年のヴォルムス協約の先駆となった。

05『クール・デウス・ホモ』――なぜ神は人となったのか

この闘争の中でも書物の仕事は続いた。1095年頃から書き始め、1097年からの亡命先イタリアで書き継がれた『クール・デウス・ホモ(Cur Deus Homo)』は、1098年に完成する。弟子ボソとの対話形式で、「神はなぜ人となり、十字架で苦しんだのか」という贖罪しょくざいの謎を論理で解こうとした。

アンセルムスの答えは(satisfaction theory)である。人間の罪は無限の神に対する無限の侮辱ぶじょくであり、有限な人間には償えない。だが罪を償うつぐなうのは罪を犯した者でなければならない。ゆえに、人間でありかつ神であるもの(=神人キリスト)が十字架で自己を捧げる以外に、世界の秩序は回復できない――と。

この論理的必然性による贖罪論は、それまで「贖罪は神の慈悲の一面」と見ていた初期教会の伝統から大きく離れた。封建社会の「領主への侮辱は領主の価値に応じた補償ほしょうを要する」という法観念を神学に持ち込んだと批判もされるが、ラテン神学の贖罪論の主流として13世紀以降定着した。

06最後の日々、「信仰と理性」の遺産

アンセルムスは王との闘争の後、晩年は比較的平穏な日々を過ごした。神の予知・予定・恩寵と人の自由意志の両立を論じる『調和について(De concordia)』(1107-08)などを書き継ぎ、普遍論争(普遍は実在するか名にすぎないか)にも発言した。

1109年四月二十一日(復活祭前週の聖水曜日)、カンタベリー大司教邸で息を引き取った。76歳。枕元で弟子に「霊魂の起源について、もう少し考える時間があれば」と呟いたと伝わる。

14世紀、ダンテは『神曲』で彼を天国篇に置いた。1720年、教皇クレメンス11世が彼を「教会博士」(Doctor Magnificus) に認定した。彼の「fides quaerens intellectum(理解を求める信仰)」というモットーは、中世スコラから近世哲学まで、信と知のあいだで揺れる神学の基調音であり続けた。

07主要な出来事と著作

  1. 北イタリア・アオスタに誕生
  2. ノルマンディ・ベック修道院でランフランクスに師事
  3. 修道士として正式に入会、三年後に副院長
  4. 『モノロギオン』完成
  5. 『プロスロギオン』(存在論的証明)
  6. ベック修道院長に選出
  7. カンタベリー大司教に叙任
  8. ウィリアム2世との対立で追放、ローマ亡命
  9. 亡命中に『クール・デウス・ホモ』完成
  10. ヘンリー1世との叙任権闘争で再び追放
  11. 和解しイングランドへ帰国
  12. ロンドン協約で妥協成立
  13. カンタベリーで死去。享年76
  14. 教皇クレメンス11世により教会博士に認定

残した思想の輪郭

  • 存在論的証明 ― 「それより偉大なものが考えられない何か」から神の存在を思考のみで導く
  • fides quaerens intellectum ― 信仰は理解を追求する、信を前提として理性を使う姿勢
  • 充足論的贖罪説 ― 罪は無限、償いも無限、ゆえに神人キリストが必要、という論理的必然性
  • 普遍論争の準備 ― 普遍の実在性をめぐる論点を整理、次世代アベラールの議論の土台に
  • スコラ方法の成立 ― 師弟対話と問題提起の定式化、大学神学の形式の原型
1109年4月21日、カンタベリーで76歳で死去。復活祭前週(聖水曜日)、枕元で霊魂の起源について「もう一度じっくり考える時間があれば」と呟いたと伝わる。
6
  • 文脈二次資料で確認済み研究上論争あり

    研究上論争あり: ノルマンディのベック修道院長だった40代半ばのアンセルムスが、食事も眠りも忘れた夜々の果てに、たった一つの論証で神の存在を導く方法を授かったと自ら記す『プロスロギオン』冒頭の祈り。信じることは思考を手...

  • 引用一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 我は信ぜんがために知解せんと欲するのではなく、知解せんがために信ずるのだ

    一次資料を開くProslogion, cap. 1 (= Proemium 末尾): 'Neque enim quaero intelligere ut credam, se...

  • 引用原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 神とは、それよりも偉大なものを考えることのできないものである(id quo maius cogitari non potest)

    一次資料を開くProslogion Caput II verbatim Latin: 'aliquid quo nihil maius cogitari possit' (A...

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 我々が信じる神、それより偉大なものが考えられないような何ものか(id quo nihil maius cogitari possit)、それは存在すると、我々は信ずる。

    一次資料を開くProslogion Caput II 'Quod vere sit Deus' verbatim Latin: 'Et quidem credimus te ...

  • 出典原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: anselm.mdx pullsource '『プロスロギオン』第1章' の書誌は Anselmus Cantuariensis 'Proslogion' Caput II 'Quod vere si...

    一次資料を開くThe Latin Library は canonical Latin texts 集積、Schmitt edition ベース。Anselm Proslogi...

  • 出典原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: anselm-1.source 表記『『プロスロギオン』第1章(1077-78年頃)』は完全に正確。Proslogion 執筆年 1077-1078年 (ベック修道院期) は学術 consensus ...

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生きた跡を辿るPlaces

アンセルムスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • カンタベリー大聖堂 聖アンセルム礼拝堂墓所

    カンタベリー, イギリス

    1109年没。大聖堂南翼の礼拝堂が聖アンセルムの名を冠し、遺骨を祀る。神学者・カンタベリー大司教としての歩みの終着点

さらに辿るならExternal References

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