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アベラール

Peter Abelard·1079–1142·中世フランス·

「正しい答え」が二つあるとき、 人はどうすればいいのか?

「然りと否」の方法で疑いを神学に持ち込み、エロイーズとの恋に身を焼いた論理の天才

  • 普遍論争
  • エロイーズ
  • 然りと否
大学がまだなく、すぐれた先生のもとに若者が集まり、教会の教えと論理が正面からぶつかり始めた時代 — ひらく

時代の空気

十二世紀初頭のフランスは大学成立前夜で、優れた師のもとに学生が集まる「カテドラル・スクール」の時代だった。論理学が新興の知の道具として台頭し、普遍論争が中世哲学最大の争点となる。パリではノートルダム大聖堂付属学校が知の中心となり、1121年ソワソン・1141年サンスの公会議が異端を裁いた。シトー会改革派の指導者ベルナール・ド・クレルヴォーと、ヨーロッパ最大のベネディクト会大修道院クリュニーの院長ペトルス・ウェネラビリスが並び立つ十二世紀ルネサンスの只中だった。

01寝室に押し入った男たち

1118年か1119年の、ある夜のパリ。ピエール・アベラールは、パリでいちばん名の知れた先生だった。名声は頂点にあった。

その夜、数人の男が彼の寝室に押し入った。金で雇われた者たちだった。男たちはアベラールを去勢きょせいした。体の一部を切り取ってしまったのである。

犯人のうち二人は、のちに捕まった。罰として目を抉えぐられ、同じように去勢された。中世の刑罰は、やられたことをそのままやり返す形をとった。

アベラールはのちに、この夜のことを自分の手で書いている。自伝『わが災厄の記(Historia Calamitatum)』である。そこで彼はこう記した。翌朝、人々の前に自分の姿をさらす恥辱ちじょくのほうが、傷の痛みよりも耐えがたかった、と。

なぜパリいちばんの先生が、寝室で襲われなければならなかったのか。そしてなぜこの男は、いちばん隠したいはずの夜を、自分で書き残したのか。時は四十年近く前、1079年に戻る。

02剣より筆を

1079年、フランス西部ブルターニュのル・パレ(いまのナント近く)に生まれた。小さな貴族の家だった。父ベランジェは騎士として戦に出た人だが、息子には学問を許した。

アベラールは「剣より筆を」と心を決めた。長男として受け継ぐはずの財産を、弟たちに譲った。そして師を求めて旅をする、遍歴へんれきの学生になった。

当時のフランスには、まだ大学がなかった。すぐれた先生のもとに学生が集まる「」の時代である。大聖堂に付属する学校が、学びの中心だった。

彼はまずに学んだ。「人間」「動物」のような大きなくくりの言葉は、名前にすぎないと言い切った先生である。次にパリでについた。こちらは、そうした言葉が指すものは一人ひとりの外に実際にある、と教えた。正反対の二人である。

若いアベラールは、公開の討論で師ギヨームを論破ろんぱした。師は自分の立場を取り下げた。この事件はパリじゅうの噂になり、若者の名を一気に押し上げた。

弟子が師を倒す。それは名声の始まりであり、敵を作ることの始まりでもあった。では、このとき彼が争っていた「言葉」の問題とは、何だったのか。

03「人間」という言葉はどこにあるのか

「人間」という言葉を考えてみよう。目の前にいるのは、一人ひとりの具体的な人だ。では「人間」そのものは、どこにあるのか。

これが12世紀のである。中世の哲学で、いちばん大きな争いだった。大きなくくりの言葉、つまり「普遍」は、一人ひとりの外に本当にあるのか。ただの言葉にすぎないのか。それとも、心の中にあるのか。

アベラールの答えは、心の中にある、だった。これをという。本当にあるのは一人ひとりの人だ。私たちは多くの人を見て、共通するところを取り出し、心の中に「人間」という考えを作る。言葉はその考えを指している。

外にある物でもなく、ただの音でもない。二人の師の両極を学んだ人が、その中間に答えを置いた。

やがて彼はこの「疑って、調べる」やり方を、神について考える学問にも持ち込んでいく。だがその前に、人生のほうが先に動いた。三十代半ば、彼はパリの中心、ノートルダム大聖堂付属学校の教師となっていた。名声は頂点にあった。そこに一人の少女が現れる。

04エロイーズ

1115年ごろ、アベラールは一人の少女の家庭教師を引き受けた。聖堂参事会員(大聖堂に仕える聖職者)フュルベールの姪めい、である。17歳から19歳ごろだった。ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を読みこなす、当時でも指折りの才女だった。

二人は先生と生徒から、恋人になった。アベラールはのちに『わが災厄の記』で告白している。「授業は恋の言葉に、授業時間は愛撫に変わった」。エロイーズは妊娠し、男の子を産んだ。名はアストロラビウス。星を測る器具の名前である。

1118年ごろ、二人はパリでひっそりと結婚した。アベラールは大聖堂の学校の教師として、教会の中で出世する道を歩んでいた。結婚が知られれば、名声も出世も傷つきかねない。だから結婚は、できるかぎり隠された。

エロイーズはむしろ、結婚を望んでいなかった。のちの手紙でそう告白している。「妻と呼ばれるより愛人と呼ばれたい」。義務でつながるより、まったく自分から選んだ愛のほうが強い、と。

叔父おじフュルベールは二人のことを知り、激しく怒った。彼としては、二人をきちんと結婚させ、安全に収めたかった。だがアベラールは自分の評判を守ろうとした。エロイーズをアルジャントゥイユの修道院にかくまったのである。フュルベールの目には、それは姪を捨てたように見えた。

そして、あの夜が来る。

05修道院と、疑いの書

去勢のあと、アベラールは人前に出ることに耐えられなくなった。教会での出世を目の前にして、体の完全さを失った身である。彼は打ちのめされたまま、パリ近くのサン=ドニ修道院に入り、修道士となった。

エロイーズもアルジャントゥイユで修道誓願せいがんを立てた。神に生涯を捧げる約束である。二人の関係は、体のうえでは終わった。だが言葉のやりとりは、生涯続くことになる。

修道院に入っても、彼の舌は止まらなかった。1121年、ソワソン公会議で、彼の神についての説が異端と宣告された。異端とは、教会の正しい教えに反する考えのことである。著書『至高善の神学(Theologia Summi Boni)』は火にかけられた。焚書ふんしょである。神を論理で分析しすぎる、というのが理由だった。

追われ、居場所を変え続けた。そして1122年、シャンパーニュ地方の荒れ地に小さな礼拝堂を建てた。名はパラクレ(Paraclet、慰め主の意)。弟子たちが集まり、学校と修道院のあいだのような場所になった。

同じころ、彼は一冊の本を書いた。『然りと否(Sic et Non)』である。信仰についての大きな問題を、次々に立てた。そのひとつひとつについて、聖書や教会の先人が「然り(はい)」と答えた箇所を書き出す。そのすぐ隣に、「否(いいえ)」と答えた箇所を書き出す。矛盾を隠さない。矛盾こそ調べることの出発点だ、と序文で宣言した。

疑うことで探求へ、探求することで真理を見出す

— 『然りと否(Sic et Non)』序文(1122年頃)。ソワソンで自著を焼かれた直後の時期に書かれたとされる、方法の宣言

本を焼かれた男が、そのすぐあとに「疑え」と書いた。彼はのちに、エロイーズをこのパラクレの女子修道院長に迎える。二人がふたたび向き合うのは、手紙の中でだった。

06手紙、そしてふたたびパリへ

の院長となったエロイーズは、アベラールに手紙を書いた。叔父の家で過ごした愛の日々を、修道院の中でも忘れられないと訴えた。祈りの場にいながら、思い出は消えない。彼女はそれを隠さずに書いた。

こうして二人の往復書簡が生まれた。愛と学問を、同じ手紙の中で語り合う手紙である。中世の女性が残した思索として、最高のものと言われる。

1135年ごろ、アベラールはパリに戻り、ふたたび教壇に立った。このころ『倫理学(スキト・テ・イプスム、汝自身を知れ)』を書く。罪とは何か、を問う本だった。彼の答えは、行いそのものではなく、心の中にある、というものだった。

いけないと知りながら、あえて「それでもいい」とうなずく心の動き。罪はそこで成立する。彼はそう考えた。この考えは、また新しい敵を呼ぶことになる。

07サンス、そしてクリュニー

ベルナール・ド・クレルヴォーという人がいた。教会を内側から立て直そうとするシトー会の、いちばんの指導者である。彼はアベラールの本から19の命題を抜き出し、危険な考えだと訴えた。

1141年(一説に1140年)、サンス公会議で、アベラールはふたたび異端と告発された。同じ年の7月、教皇イノケンティウス2世が、それらの命題を正式に断罪した。教会の最高権威が、彼の考えを否定したのである。

アベラールは教皇に直接控訴こうそしようと、旅に出た。だが途中で、クリュニー修道院長に迎えられ、保護を受けた。クリュニーはヨーロッパでもっとも力のある修道院だった。院長は教皇にも並ぶ影響力を持っていた。

ペトルスは仲介の名人だった。アベラールとベルナールの和解を取り持った。破門はもん(教会から締め出す処分)は解かれた。アベラールは修道士として、クリュニーに属する修道院で静かに日々を過ごした。

1142年4月21日、シャロン=シュル=ソーヌ近くの修道院で、63歳で息を引き取った。

ペトルスはエロイーズに弔意ちょういの手紙を書き、遺体をパラクレに送った。エロイーズは22年後の1164年(一説に1163年)5月に亡くなった。二人は同じ墓に合葬がっそうされた。19世紀、遺骨はパリのペール・ラシェーズ墓地に移された。今も訪れる人が絶えない。

ここで、冒頭の夜に戻ろう。彼はなぜ、いちばん隠したい夜を自分で書いたのか。師を論破し、本を焼かれ、それでも「然り」と「否」を並べて書き続けた男である。

疑うことで探求へ、探求することで真理を見出す

— 同じ言葉を、彼自身の人生の側から読み直すとき——『然りと否(Sic et Non)』序文(1122年頃)

矛盾を隠さず、そのまま並べる。彼はそれを、他人の書物にだけでなく、自分の人生にも向けたのだろうか。

08思想の骨格——概念論・『然りと否』・意図主義倫理

12世紀の普遍論争は、中世哲学の最大の論争だった。「類(例:動物)」「種(例:人間)」のような普遍的概念は、個物の外に実在するのか(実在論)、個物を指す言葉にすぎないのか(唯名論)、それとも心の中の概念なのか(概念論)。ロスケリヌスは普遍は名のみと主張する極端な唯名論、ギヨーム・ド・シャンポーは普遍は個物の外に実在すると主張する実在論の立場に立ち、アベラールはその両極を学んだ末に第三の道を取った。

アベラールの答えは概念論(conceptualism)だった。普遍は個物の外に物として存在するのでも、ただの発声された音でもない。それは心の中の概念であり、複数の個物から共通の性質を抽象して形成される。個物は実在する。普遍は個物のうちにある共通性を、言葉が指示する仕方で捉えたものだ。

『然りと否(Sic et Non)』(1122年頃)は、普遍論そのものを論じる書ではなく、神学的権威どうしの矛盾を学生に突きつける方法論的著作である。アベラールは信仰の主要な158の問題について、教父や聖書が「然り」と答える箇所と「否」と答える箇所を並記した。矛盾を糊塗せず、むしろ矛盾こそが探求の出発点だと序文で宣言したのである。これは後のスコラ学の基本メソッド(異論→反論→本論)の原型となる。

ソワソン公会議(1121)で焚書となった『至高善の神学(Theologia Summi Boni)』の問題は、三位一体を論理学的範疇で分析しすぎた点にあった。父=力・子=知恵・聖霊=善性と三位格を対応づける議論は、神を「合理化」しすぎると同時代の伝統主義者を刺激した。

サンス公会議(1141、一説に1140)でベルナール・ド・クレルヴォー(シトー会改革派の最大の指導者)が告発の材料としたのは、『テオロギア・スコラリウム』(の改訂最終形)や『倫理学(スキト・テ・イプスム、汝自身を知れ)』、『ローマ人への手紙注解』などから抽出した19の命題である。中心は三位一体論とだった。罪は外的行為ではなく、神の意志に反すると知りつつあえて同意(consensus)する心の働きにおいて成立するというアベラールの倫理観は、保守派には相対主義と映ったのである。告発の命題は同年七月、教皇イノケンティウス2世によって正式に断罪された。

論理学を神学に全面的に適用したこの姿勢は、大学神学の礎となり、の知的風土を作った。師の答えを暗唱するのではなく、権威どうしの食い違いを書き出すところから始める。その方法は、彼の生涯そのものを貫いている。あなたが今かかえている問いにも「然り」と「否」の両方の答えがあるとしたら、どちらから書き始めるだろうか。

09主要な出来事と著作

  1. ブルターニュ・ル・パレに誕生
  2. パリでロスケリヌス、次いでギヨーム・ド・シャンポーに学ぶ
  3. ノートルダム付属学校の教師として名声を得る
  4. エロイーズの家庭教師となり恋に落ちる。息子アストロラビウス誕生
  5. パリで秘密結婚
  6. フュルベールの刺客により去勢。サン=ドニ修道院へ
  7. ソワソン公会議で三位一体論が異端宣告。『至高善の神学』焚書
  8. パラクレ礼拝堂を建てる。『然りと否』執筆
  9. パリに戻り再び教壇へ。『倫理学』執筆
  10. サンス公会議(一説に1140)。教皇イノケンティウス2世が命題を断罪
  11. ペトルス・ウェネラビリスの保護下で和解。クリュニー付属修道院へ
  12. シャロン=シュル=ソーヌ近郊で死去。享年63
  13. エロイーズ没(一説に1163年)。パラクレで合葬

残した思想の輪郭

  • 概念論 ― 普遍は個物の外の実在でも単なる音でもなく、抽象によって得られる心の概念
  • ― 神学権威間の矛盾を並記し、疑いを探求の出発点とするスコラ方法の原型
  • 意図主義倫理 ― 罪は外的行為でなく、神の意志に反すると知りつつあえて同意する心の働きに成立する、近代倫理学の遠い先駆
  • 大学神学の礎 ― 論理学を神学に全面的に適用、12世紀ルネサンスの知的風土を作る
  • エロイーズ書簡 ― 愛と知の両立を追った往復書簡、中世の女性の思索の最高峰
1142年4月21日、クリュニー修道院長ペトルス・ウェネラビリスの保護下、シャロン=シュル=ソーヌ近郊のクリュニー系サン=マルセル修道院で63歳で死去。

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  • 入門アベラールとエロイーズ ― 愛と修道の手紙

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  • エロイーズとアベラールの墓墓所

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