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宗教的思索

ヒルデガルト

Hildegard of Bingen·1098–1179·中世ドイツ·

80歳の修道院長は、なぜひとつの墓のために 大司教に逆らったのか?

幻視と自然観察を結び、中世ヨーロッパに独自の宇宙論・神学・音楽を残した修道院長

  • 幻視
  • ビリディタス
  • 神秘思想
皇帝と教皇が力を競い、修道院が学びと医療と歌を担った時代。女性が公の場で語ることは、まずなかった。 — ひらく

時代の空気

中世盛期のライン中流域は皇帝・教皇・諸司教の権力が交錯する地帯で、修道院がベネディクト会則のもとで学問と医療と典礼を担っていた。1106年頃、低級貴族の末子は「十分の一税」として封鎖修道院に捧げられ、扉のない石室で生きながら埋葬されるのが慣わしだった。1147–1148年のトリーア公会議で教皇エウゲニウス3世が一修道女の幻視を公認し、クレルヴォーのベルナルドゥスが書簡で後押しすると、彼女は皇帝・教皇・諸司教の助言役へと例外的に昇格する。70代でマインツ・ケルン・トリーア・バンベルクへ説教旅行する女性が、聖務停止処分を音楽の名で押し戻した時代だった。

01歌を止められた修道院

1178年、ライン川を見下ろす丘の上。ルペルツベルクの女子修道院に、ひとつの命令が届いた。差出人はマインツ大司教。修道院の墓地に埋めた男の遺骸いがいを掘り出し、よそへ移せ、という命令だった。

その男は、かつて教会から破門はもんされていた。破門とは、教会の仲間から追い出される重い罰である。だが修道院の側は言った。男は死ぬ前にゆるしを受け、臨終の儀式もすませている、と。

修道院長はヒルデガルト。このとき80歳だった。彼女は命令に従わなかった。すると修道院全体が、(せいむていし)の処分を受けた。インテルディクトとも呼ばれる、祈りの歌を禁じる罰である。

歌を奪われた院長は、大司教に手紙を書いた。音楽は、失われた楽園をまねる賛美さんびである。それを黙らせる者は、自分自身を罰しているのだ、と。

80歳の修道女が、ひとりの死者のために、なぜここまで戦ったのか。なぜ、彼女の答えは音楽だったのか。時は72年前に戻る。

02扉のない石の部屋

1106年ごろ、8歳の少女が、ディジボーデンベルク修道院に連れてこられた。少女の名はヒルデガルト。ライン川の中流、ベルマースハイムという土地の生まれである。父ヒルデベルトと母メヒティルデの、10人兄妹の末っ子だった。

両親は身分の低い貴族だった。当時の貴族には、末の子を神への「十分の一税」として差し出す習わしがあった。収穫の十分の一を教会に納めるように、子どもを納めるのである。ヒルデガルトは、その税だった。

預けられた先は、修道院に付属する封鎖ふうさ修道院だった。一度入れば、生きているあいだは外に出ない。扉のない石造りの小部屋で、「生きながらの埋葬」とも呼ばれた。正式に閉じこめられたのは1112年11月1日、14歳のときとされる。

そこで少女を導いたのが、という修道女である。ユッタは6歳年上で、世を捨てて石室にこもっていた。ヒルデガルトはユッタから、ラテン語の聖歌と詩篇しへんを学んだ。修道生活の決まりであるも、ここで覚えた。

ただ、この少女には人と違うところがあった。目で見る世界とは別に、「内なる光」で世界を見ていたのである。3歳のころ、まぶしい光の幻視げんしを受けた。5歳のころには、まだ生まれていない子牛の毛の色を言い当て、家族を驚かせた。のちに彼女自身が、そう語り残している。

幻視とは、目の前にないものが見えることだ。だが彼女の場合、気を失って倒れるのではなかった。魂が体を抜け出すような、脱魂(だっこん)と呼ばれる状態でもなかった。頭がはっきり目覚めたまま、光が見えた。

この光のことを、彼女は長いあいだ恥として、だれにも話さなかった。話せば、どう思われるか分からない。その秘密は、40年近く続くことになる。

03書き留めよ、という声

1136年、ユッタが亡くなった。ヒルデガルトは38歳。修道女たちの選挙で、新しい院長に選ばれた。それでも、幻視のことはまだ秘密のままだった。

1141年、43歳のとき、決定的な幻視が訪れた。「火のような光が天から降り、頭脳と心と胸に浸透した」。同時に、声が響いた。「これを語れ、書き留めよ、生きているすべての人々のために」。

ヒルデガルトは書き始めた。修道士ヴォルマールと、修道女リヒャルディスが筆記を手伝った。こうして10年をかけ、大著『シヴィアス』ができあがる。ラテン語で「主の道を知れ」という意味の題である。26の幻視を、絵と文章と解釈の三つの層で記した、めずらしい形の本だった。

書いている途中で、幻視の一部が教皇に伝わった。トリーア公会議は、1147年から翌年にかけて開かれた。その場で教皇は、彼女が書くことと、公に語ることを認めた。当時もっとも名高い神学者にも、彼女は認められた。が、短い手紙で彼女を励ましはげましたのである。

これで立場は決定的に変わった。ライン川のほとりの一修道女が、司教たち、皇帝、教皇の相談相手になった。中世のヨーロッパで、女性がこんな地位に立つことは、ほとんどなかった。

ただ、公認は新しい問題も連れてきた。ヒルデガルトの名が高まるほど、男子修道院との関係がきしみ始める。彼女たちは、その修道院に属する身だった。

04丘の上の修道院と、緑の力

1150年ごろ、52歳のヒルデガルトは幻視の命令に従った。ディジボーデンベルクの男子修道院から、独立したのである。男性院長との軋轢あつれき(争い)を押し切っての独立だった。新しい女子修道院を建てたのは、ライン川を見下ろす丘、ルペルツベルクである。冒頭の墓地がある、あの修道院だ。

ルペルツベルクで、彼女は次々に本を書いた。は、ライン川流域の植物や石や動物、水が、どんな病気に効くかをまとめた本である。は、病気の原因と治し方を書いた。どちらも1150年代の作である。中世ヨーロッパでもっとも早い医学の百科事典に数えられる。

書いたのは本だけではない。歌も作った。聖歌集『啓示の響きの交響曲』には、彼女が作った歌が集められている。『諸徳の秩序』という、歌でつづる劇も作曲した。さらに、自分だけの文字と言葉、まで作った。

これらすべての中心に、ひとつの言葉があった。ビリディタス(viriditas)、「緑なす力」である。もとは古いラテン語の言葉で、緑を意味する。ヒルデガルトはこれを、神と自然と体をつなぐ根本の考えに育て上げた。

木の緑、草の芽吹き、人の体をめぐる血。そのどれにも、神が世界を作る働きが、同じリズムで宿っている。この命のうるおいが、世界を支えている。だから罪とは「乾くこと」であり、救いとは「再びうるおうこと」だった。

体と自然と宇宙と信仰を、ひとつの生きものとして見る。中世ヨーロッパでは、めずらしい考え方だった。60代に入ると、彼女のまなざしは宇宙そのものへ向かっていく。

おお、太陽に根を下ろす最も気高き緑の力よ。

— 聖歌集の一曲、緑の力をたたえる歌より(要旨訳)

05宇宙を描き、教会を叱る

1158年から1163年、60歳から65歳にかけて、を書いた。徳と悪徳が語り合う、劇の形の本である。魂の裁きを、宇宙の大きさで描いた。

1163年からは、さらに10年をかけて最後の大著を仕上げた。『世界と人間の書』とも呼ばれる。十の幻視を通して、宇宙と、人間と、教会の三つの重なりを描く。宇宙は同心円の球として描かれ、その中心に人間が手足を広げて立つ。

70代になっても、ヒルデガルトは旅をやめなかった。マインツ、ケルン、トリーア、バンベルクの大聖堂で、人々の前で語った。中世の女性としては、例のない行動である。しかも語ったのは、教会の腐敗と聖職者の怠け心への、真正面からの叱責しっせきだった。

教皇にも皇帝にも、彼女は手紙で意見を述べた。力のある人を前にしても、ひるまなかった。そして1178年、80歳の院長のもとに、あの命令が届く。

06ふたたび、1178年の丘の上

冒頭の場面に戻ろう。1178年、ルペルツベルクの墓地。大司教は、破門された男の遺骸を掘り出せと命じた。ヒルデガルトは従わなかった。修道院は聖務停止となり、歌を失った。

ここまで読んだ人には、彼女の手紙の意味が見えてくるはずだ。彼女にとって音楽は、ただの飾りではなかった。神の息が響いたものが音楽であり、失われた楽園をまねる賛美だった。それを黙らせることは、修道院を「乾かす」ことに近い。

そして、ゆるしを受けて死んだ男は、彼女の目にはもう乾いた者ではなかったのだろう。再びうるおった者を、土から掘り出せという。80歳の院長がそれを拒んだのは、ただの頑固さではなかったのかもしれない。一生かけて書いてきたことの、帰結だったのかもしれない。

処分は、彼女の死の直前に解かれた。1179年9月17日、ヒルデガルトはルペルツベルクで亡くなった。81歳。その夜、病床の上に虹のような光の十字架が二本現れた、と修道女たちは語り伝えた。

私は一陣の風、小さな羽根、神の息に支えられて漂うもの。

— 晩年、自分自身を語った言葉。『ヒルデガルト伝』に収められた自伝の断片より

07残響――列聖まで833年、そして思想の輪郭

彼女は自分を、神の息に支えられて漂う小さな羽根と呼んだ。だがその羽根は、教皇にも皇帝にも大司教にも屈しなかった。この二面性こそ、ヒルデガルトの思想を読む鍵である。

列聖れっせいの請願・手続きは1227年以降の13世紀から起こされたが、公式の列聖は長く遅れた。2012年5月10日、ベネディクト16世が全教会での崇敬を承認する同等列聖の形で列聖を完結させ、続いて同年10月7日、彼女を教会博士(Doctor of the Church)に宣言した。聖人の列に加えられたのは死の833年後である。これはカトリック教会における教会博士として4人目の女性であり、中世盛期の学問的女性の再評価の象徴的出来事となった。

思想の中心にあるビリディタス(緑なす力)は、語自体は古典ラテン語に由来するが、ヒルデガルトはこれを神学・自然・身体論を貫く根源概念として独自に練り上げた。『自然学』(Physica)『病因と治療』(Causae et Curae)が扱う植物・鉱物・動物・水の医療効用と、『シヴィアス』(Scivias)が扱う救済史とは、この一語で同じ地平に置かれる。身体と自然と宇宙とキリスト教信仰を単一の有機体として捉える、中世ヨーロッパでは稀な総合ビジョンである。

その総合が最も壮大な形を取ったのが『神の業の書』(Liber Divinorum Operum)である。コスモス(宇宙)、ミクロコスモス(人間)、エクレシア(教会)の三重構造を十の幻視で描き、同心円状の球体の中心に手足を広げて立つ人間像は、後世のウィトルウィウス的人体図としばしば比較される。先立つ『生命の功徳の書』(Liber Vitae Meritorum)は徳と悪徳の対話劇として中世的モラリテの原型をなし、典礼劇『諸徳の秩序』(Ordo Virtutum)は作者と音楽が特定できる現存最古級のモラリテ劇とされる。

幻視の性質についても注意が要る。彼女の幻視は卒倒そっとうやではなく、覚醒した知的明晰さの中で生じる、聴覚・視覚・身体感覚の三重の現象として記述された。だからこそそれは図像・テクスト・解釈の三層に書き分けることが可能であり、教皇の公認とクレルヴォーのベルナルドゥスの書簡という制度的な承認を得て、一修道女を皇帝・教皇・諸司教の助言役へと押し上げた。

現代、ヒルデガルトの音楽はの枠を超えた独自の旋律性で再発見され、自然医学・環境思想・フェミニスト神学・芸術実践の複数領域で読み直されている。聖務停止処分に対する抗弁もまた、音楽を神の息の響きとみなす思想の、最も実践的な表明として読むことができる。

支えられて漂うことと、自分の足で立って抗うこと。彼女にとってこの二つは、同じひとつのことだったのだろうか。

08主要な出来事と著作

  1. ベルマースハイムに誕生、貴族の10人兄妹の末子
  2. 8歳でディジボーデンベルクのユッタに預けられる(正式封鎖は1112)
  3. ユッタ死去、修道女たちの院長に選出(38歳)
  4. 決定的な幻視、『シヴィアス』執筆を開始(43歳)
  5. トリーア公会議で幻視が公認される
  6. ルペルツベルクに独立、女子修道院を設立
  7. 『自然学』『病因と治療』、聖歌集、『諸徳の秩序』
  8. 『神の業の書』完成、コスモスとミクロコスモスの総合
  9. ドイツ諸都市で説教旅行、70代の破格の行動
  10. 赦免済みと主張する元破門者の埋葬で聖務停止処分を受ける
  11. 9月17日、ルペルツベルクで死去、81歳
  12. 5月同等列聖、10月ベネディクト16世が教会博士宣言

残した思索の輪郭

  • ビリディタス(緑なす力) ― 神の創造の働きが自然と身体と宇宙を貫く一つの潤い
  • 幻視の知的明晰性 ― 卒倒や恍惚ではなく覚醒した内なる光、記述可能な現象
  • 医療・音楽・詩を統合する知 ― 中世女性が自然科学と芸術を横断した稀有な事例
  • 政治的発言の修道女 ― 教皇・皇帝・諸司教への書簡、教会腐敗への叱責
  • 音楽は神の息 ― 聖務停止処分への抗弁、音楽を奪う者は楽園の記憶を奪う
1179年9月17日、ルペルツベルクの修道院で死去、81歳。死の床の上に「光の十字架」が現れたと修道女たちが証言した。

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

ヒルデガルトが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • アイビンゲン修道院所属

    リューデスハイム・アム・ライン, ドイツ

    ヒルデガルトが1165年に創設した女子修道院の系譜を継ぐベネディクト会修道院

  • ビンゲン・ヒルデガルト・フォーラム記念館

    ビンゲン・アム・ライン, ドイツ

    ライン河畔の市立博物館、ヒルデガルト常設展示を擁する

さらに辿るならExternal References

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