マイスター・エックハルト
神を「誰か」のように呼ぶとき、 その神は少し小さくなってしまわないか?
魂の根底で神そのものと出会うことを説き、死後に命題を断罪された中世神秘思想家
- 神秘主義
- 魂の根底
- 離脱
教皇がローマを離れて教会が揺れるなか、ラテン語を読めない女たちが神の言葉に飢えていた時代 — ひらく
時代の空気
13世紀末から14世紀初頭の西欧は教皇権と俗権の対立が激化していた。1309年に教皇庁はアヴィニョンに移り(アヴィニョン捕囚)、1326年エックハルトを審問するケルン大司教の権力もこの再編のうちにあった。ラインラントには女子修道院とベギン会(誓願なき敬虔な女性共同体)が広がり、ラテン語を読めぬ女性たちの霊的渇望が彼のドイツ語説教を求めた。1310年マルグリット・ポレートが自由霊派として処刑され、その嫌疑がエックハルトにも及ぶ。1327年アヴィニョン上告中に没し、1329年教皇ヨハネス22世が勅書「主の畑にて」で命題28カ条を断罪した。
01教皇庁で、自分の言葉を弁明する老人
1327年、南フランスのアヴィニョン。この町に、教皇庁があった。教皇がローマを離れ、ここに住んでいた時代である。人々はのちに、この時代を「」と呼ぶ。
その教皇庁に、ひとりの老いた修道士が出頭した。名はエックハルト。67歳ほどになっていた。彼は長く、ドイツ語で説教をしてきた。その説教の中身が、異端(教会の正しい教えに反する考え)ではないかと疑われていた。
彼はの学者である。パリ大学で二度も教授をつとめた。それは会の中でも、例外中の例外といえる名誉だった。その人が人生の終わりに、自分の言葉を弁明していた。場所は、教皇ヨハネス22世のもとの教皇庁である。
弁明は続いた。だが、結論は出なかった。1328年頃、エックハルトは審問の途中で死んだ。正確な日付も、場所もわかっていない。墓がどこにあるのかも、今日まで不明である。
その翌年の1329年、教皇は勅書(教皇が出す公式の文書)を出す。彼の説教から取り出した28の命題のうち、17を異端、11を異端の疑いありと断じた。本人はその結論を知らないまま、この世を去っていた。
なぜ、教会で最高の学位を持つ人が、自分の言葉を疑われたのか。彼はいったい、何を語ったのか。時は、67年ほど前に戻る。
02騎士の家に生まれた少年
1260年頃、ドイツ中部のチューリンゲン地方に生まれた。家は騎士の階級だった。生まれた場所は、ゴータという町の近くのホッハイムとする説が有力である。ただし、確かなことはわからない。本名はエックハルト・フォン・ホッハイムとも呼ばれる。「マイスター」は、のちに得た学位からついた呼び名である。
子どものころの様子は伝わっていない。ただ、若いうちにドミニコ会に入った。ドミニコ会は1215年にできた修道会である。学問と説教を使命とし、財産を持たず、人々の施しで暮らす托鉢修道会だった。
エアフルトの修道院で、修道士としての訓練を受けた。その後、ケルンの学院(スタディウム・ゲネラーレ)で学んだ。ケルンは、という大学者が教えた土地である。その弟子トマス・アクィナスの流れをくむ人々が、ここで学問を伝えていた。
エックハルトは、アルベルトゥスの弟子ディートリヒ・フォン・フライベルクらの学問を受け継いだ。ドイツのドミニコ会に育った神学(神について考える学問)である。古代ギリシアのプラトンと、その流れを深めたの色が濃かった。頭で神を考えぬく、知的な神秘思想の土台が、ここで作られた。
のちに疑われることになる言葉の種は、正統な学問の真ん中で育っていた。その芽は、まずパリで伸びる。
03パリで二度、「マイスター」と呼ばれる
1280年代の半ば、パリ大学の神学部に送られた。26歳ほどである。パリ大学は当時、ヨーロッパ最高の学問の場だった。1293年から94年には、聖書を講義する学士として教えた。
1302年、神学のマギステル(Magister)の学位を得た。42歳頃のことである。マギステルは「師」を意味する。ドイツ語では「マイスター」。「マイスター・エックハルト」という名は、ここから定着した。
1311年から13年、彼はパリ大学にもう一度呼ばれ、二度目の教授職についた。二度のマギステル職は、トマス・アクィナスと並ぶ、ドミニコ会では例外的な名誉だった。
だが、彼の名を後の時代まで運んだのは、パリの講義ではなかった。ラテン語ではなく、ふるさとの言葉で語った説教だった。
04ラインラントの女たちへ、ドイツ語で
1303年、ドミニコ会ザクセン管区の初代管区長になった。管区長とは、広い地域の修道院をまとめる責任者である。ザクセン管区は北ドイツの全域をふくむ。多くの修道院、女子修道院、の共同体を束ねる重い役目だった。43歳頃である。
彼は精力的に各地を回った。ストラスブール、フランクフルト、ケルンで説教を重ねた。とくに大切にしたのが、女子修道院とベギン会の女性たちの心の世話である。ベギン会とは、一生の誓いを立てずに集まって暮らす、信心深い女性たちの集まりだった。
13世紀後半のラインラント(ライン川ぞいの地域)には、ラテン語を読めない女性たちがたくさんいた。彼女たちは、神について深く知りたいと渇いていた。エックハルトは、その人たちにドイツ語で説教した。学問のラテン語で厳密に考えたことを、日常の言葉で語ったのである。これが彼を、西洋の神秘思想の歴史で特別な場所に置いた。
ただし、その語り方は激しかった。一見、正反対のことを言っているような表現が多い。「神よ、神から解放してください」「神の外側にすら出ていくべきだ」「魂の中の離脱した場所(Seelengrund)で神と一つになる」「そこでは神も(Gottheit)もない」。
禅の(答えのない問いで頭を揺さぶる修行の問題)に似た、切れ味のある言葉だった。聞く人の、いつもの神のイメージが揺さぶられた。神から解放してくれと、神に祈る。この言葉は、いったい何を言おうとしていたのか。
神よ、神から解放してください。
05魂の根底――言葉の奥にあったもの
エックハルトの著作には、二つの系統がある。ひとつはラテン語で書いた学問の書である。『三部作』(Opus Tripartitum)と呼ばれ、『命題の書』『問題の書』『註解の書』からなる大きな計画だった。創世記、出エジプト記、知恵の書、ヨハネ福音書について、細かく厳密な注解を含む。学者としての厳しさは、ここでも揺るがない。
もうひとつが、ドイツ語の説教と論考である。約100の説教が残り、『』として読まれてきた。論考には『』『高貴なる人について』『離脱について(Von Abegescheidenheit)』などがある。エックハルトの名声を後の時代まで運んだのは、こちらだった。彼は日常のドイツ語で、神、魂、離脱、無(Nichts)、地(Grund)、誕生を語った。
その中心にあるのが「」(Seelengrund)である。「魂の火花」(Scintilla animae)とも呼ばれる。魂のいちばん奥の点のことだ。そこで神の内的誕生が起こる。神が、魂の中に生まれる。そしてそこでは「被造物(神に造られたもの)と神」「私と神」という区別さえ消える。
人はどうすればそこに届くのか。彼の答えは離脱(Abgeschiedenheit)だった。自分へのこだわり、持ち物、思いはかり。それらをすべて手放すことである。そのとき、名づけようのない深みが開く。彼はそれを神性(Gottheit)と呼んだ。人の姿で思い描かれる神を超えた、奥の奥である。
「神よ、神から解放してください」は、こう読める。私が思い描く小さな神から、私を自由にしてほしい。その先で、神そのものと一つになりたい。だが「私と神の区別が消える」という言葉は、聞く人によっては危ない響きを持った。ケルンで、その響きを危険だと考える人々が動きはじめる。
私が神を見る眼は、神が私を見る眼と同じ一つの眼である
06ケルンの告発、アヴィニョンへの道
1323年頃、エックハルトはケルンで神学の教師をしていた。63歳頃である。このころケルンでは、ベギン会の女性たちの一部が「自由霊派」と呼ばれ、異端として告発されていた。教会の枠を離れて神と一つになれると考えた、とされる人々である。1310年には、マルグリット・ポレートという女性が、この疑いで処刑されていた。
エックハルトのドイツ語説教は、その運動と近いのではないかと疑われた。1326年、ケルン大司教ハインリヒ2世の指示で、異端審問が始まった。66歳頃のことである。
エックハルトは、黙って裁かれることを選ばなかった。ドミニコ会総会の支持を得て、大司教にこの審問をする権限があるのかを争った。そして教皇庁への上告を選んだ。上告とは、より上の裁きの場に判断を求めることである。
こうして1327年、彼はアヴィニョンに出頭した。冒頭の場面である。教皇はヨハネス22世。彼は弁明を続けた。だが1328年頃、結論が出る前に死去した。68歳前後。日付も場所も、墓の場所も、わかっていない。
1329年3月27日、教皇ヨハネス22世は勅書「」(In agro dominico)を発した。命題28カ条のうち、17を異端、11を異端の疑い・不用意な表現として断罪した。ただし勅書は、ある一点をはっきり書いていた。エックハルトは生前、誤りがあれば撤回する意思を示していた、と。つまり彼個人が異端者として断罪されたわけではなかった。
なぜ、最高の学位を持つ人が、自分の言葉を疑われたのか。彼はラテン語の学問を、女たちの日常語に開いた。「私と神の区別が消える」とまで言った。その言葉は、疑う側の耳には、教会の外へ出る運動の言葉と重なって聞こえた。彼はそれを、逃げずに弁明しようとした。
弟子たちは、師を守りながら生き残った。(1300頃-1361)、ハインリヒ・ゾイゼ(1295頃-1366)である。彼らは慎重な言葉を選び、同じ霊性を継いだ。師の名は、やがて表から消えていく。
07忘却と復活――19世紀以降
14世紀以降、エックハルトの名は公然と語られなくなったが、説教集は匿名の形で写本が流通した。『テオロギア・ゲルマニカ』(14世紀末、匿名の神秘論考)は彼の系譜にあり、マルティン・ルターが1516・1518年に刊行して広く読まれた。エックハルト直接の影響か、後代ライン神秘家全体の影響かは議論の余地があるが、ルター自身はエックハルトを知らなかった可能性が高いものの、ライン神秘主義の水脈は宗教改革の霊性に流れ込んだ。
19世紀、フランツ・フォン・バーダー、ヘーゲルがエックハルトを再発見した。ヘーゲルはベルリン大学講義で「この修道士においてわれわれはわれわれ自身を見いだす」と語ったと伝えられる。20世紀に入ると、オットー(『聖なるもの』)、ハイデガー、鈴木大拙(禅と神秘主義の比較)、ティク・ナット・ハンがエックハルトを重要な対話相手として扱った。
20世紀後半以降、ドミニコ会内部を中心に名誉回復への請願が重ねられ、エックハルトの主要命題は学術的には正統的文脈で読み直せるとする解釈が広がった。ただし1329年の断罪勅書は公式に撤回されておらず、復権は学術的・内部的再評価の水準にとどまっている。
墓の場所はわからないままである。断罪も、取り消されてはいない。それでも彼の言葉は、七百年を越えて読まれ続けている。「神よ、神から解放してください」。この祈りを、あなたなら何に向けて口にするだろうか。そして、手放したあとに残るものを、あなたは何と呼ぶだろうか。
08主要な出来事と著作
- チューリンゲン地方に誕生
- エアフルトでドミニコ会に入会、ケルンで学ぶ
- パリ大学神学部に派遣
- パリ大学で聖書学士として講義
- パリ大学神学のマギステル(Magister)取得、一度目の教授職
- ドミニコ会ザクセン管区の初代管区長に任命、エルフルトに拠点
- パリ大学で二度目の教授職(ドミニコ会で異例の再任)
- ストラスブール・ケルン周辺で説教を重ね、ドイツ神秘主義の指導者となる
- ケルンで神学の教師に、ベギン会女性たちの「自由霊派」擁護の疑い
- ケルン大司教による異端審問開始
- アヴィニョン教皇庁へ上告、自ら弁明
- 審問の結論が出る前に死去、68歳前後(結論は本人の死後に確定)
- 教皇ヨハネス22世が勅書「主の畑にて」で28命題中17を異端・11を異端の疑いとして断罪
- ドミニコ会を中心とした学術的・内部的再評価(正式な勅書撤回はなし)
残した思想の輪郭
- 魂の根底(Seelengrund) ― 被造物と神の区別すら消える魂の最奥、神の内的誕生の場所
- 離脱(Abgeschiedenheit) ― 自己・所有・意図からの徹底した脱却が神への道
- 神性(Gottheit) ― 人格神を超えた深みとしての根源、名づけ得ない無
- ドイツ語による思弁 ― ラテン語の学問神学を民衆語で開放し、後の宗教改革の霊性に流入
- 死後異端宣告と再評価 ― 1329年に命題28カ条断罪、近現代に禅・ハイデガーと響き合う
つながり
- トマス・アクィナス
先駆 — エックハルトの神秘思想の足場には、この人の『神学大全』があった。同じドミニコ会の本流。
- ヒルデガルト
先駆 — 「無底」のはるか手前、神の内なる生命をビリディタスと名づけた人がいた。
- ノリッジのジュリアン
共鳴 — エックハルトの「離脱」に響き合う言葉、「すべては善くあるべし」を残した人。
- アビラのテレサ
共鳴 — 魂の深みと神の内在をめぐる観想の伝統は、遠くスペインの修道女に響き合う。
さらに読むならFurther Reading
マイスター・エックハルトの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門エックハルト説教集
マイスター・エックハルト / 訳: 田島照久 編訳 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
マイスター・エックハルトが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- エアフルト説教者教会ゆかり
エアフルト, ドイツ
1294年頃ドミニコ会の院長として説教した教会。1999年、彫刻家ジークフリート・クレップ作の青銅の記念扉が設置された
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「マイスター・エックハルト」項
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Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Meister Eckhart"