アビラのテレサ
神は心の一番奥にいる、と書いた人がいる。 その人はなぜ、死ぬまで馬車で走り続けたのか?
スペイン神秘思想の頂点に立ち、観想生活の改革と霊魂の解剖を両立させた跣足カルメル会の創立者
- 霊魂の城
- 観想
- 跣足カルメル会
国じゅうが「正しい信仰」を見張っていた。祈りの深さまでが、疑いの目で見られる時代だった。 — ひらく
時代の空気
16世紀スペイン黄金時代(Siglo de Oro)、カール5世とフェリペ2世のハプスブルク世界帝国の中枢。1492年のレコンキスタ完了とユダヤ人追放に続く再カトリック化政策のもと、異端審問は血統純潔(limpieza de sangre)を盾にコンベルソ(改宗ユダヤ人)を監視し続けた。トリエント公会議(1545-63)が始まり対抗改革が進む一方、神秘主義はアルンブラドス嫌疑のもと警戒され、フランシスコ会とドミニコ会の改革派が論争し、世俗化した女子修道院は規律回復を迫られていた。
01帰らなかった旅
1582年の秋、スペイン。67歳の修道女が、旅の途中で倒れた。場所はサラマンカという町の近く、にあるカルメル会の修道院である。新しい修道院の運営をめぐる旅の途中で、彼女はここに立ち寄っていた。
長い旅の疲れに、胃腸の弱りが重なっていた。10月4日、彼女は息を引き取る。名はテレサ。アビラのテレサと呼ばれる人である。
この死には、不思議な後日談がある。翌日、スペインの暦(こよみ)が新しいものに切り替わった。10月5日は、いきなり10月15日になったのである。だから今も、テレサを記念する日は10月15日だ。彼女が死んだ翌日は、暦の上では存在しない。
この人は、神は人の心の一番奥にいる、と書いた人だった。魂を七つの部屋を持つ城にたとえ、神はその最も奥の部屋で待っていると説いた。けれど彼女自身は、47歳で改革を始め、晩年の15年を馬車の上で過ごした。埃(ほこり)の道、凍える道を走り、17の修道院を建てた。そして、旅の途中で死んだ。
心の奥に神がいるなら、なぜ外の道を走り続けたのか。その答えを知るために、時を67年前に戻そう。城壁に囲まれた町、アビラへ。
02隠された祖父の過去
1515年3月28日、テレサはアビラで生まれた。アビラは、スペイン中央部カスティーリャにある、高い城壁に囲まれた町である。父はアロンソ・サンチェス・デ・セペーダ。母はベアトリス・デ・アウマーダで、父の二番目の妻だった。テレサは9人兄弟の一人として育つ。
この家には、口に出せない過去があった。父方の祖父フアン・サンチェス・デ・トレドは、だった。コンベルソとは、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人と、その子孫を指す言葉である。当時のスペインでは、改宗した後も「隠れてユダヤ教を守っているのではないか」と疑われた。
1485年、祖父はトレドの異端審問所で、まさにその疑いをかけられた。異端審問所とは、教会が「正しくない信仰」を調べて罰する裁判所のことだ。祖父は和解に応じ、サンベニートという悔い改めの服を着るよう命じられた。20世紀になって、テオファネス・エヒドらの研究者が古い文書からこの事実を確かめている。
一族はこの過去を隠してアビラに移った。紳士の身分を金で買い、羊毛の商人として成功した。だが、家の血筋を見張る目は、静かに残り続けた。
少女テレサは、活発で本が好きだった。7歳のとき、兄ロドリゴと相談して家を抜け出した。ムーア人(北アフリカから来たイスラム教徒)の土地へ行き、信仰のために首を斬られよう、という計画だった。叔父に見つかり、連れ戻された。この話は、テレサ自身が(Libro de la vida)に書いている。
13歳で母を失った。騎士の物語や、はやりの服に夢中になる時期もあった。16歳のとき、父は娘をアウグスティノ会の女子寄宿学校に入れる。
20歳になったテレサは、父の反対を押し切って修道院に入った。アビラの「受肉の聖母」カルメル会修道院、通称ラ・エンカルナシオンである。2年後、正式に修道女になる誓いを立てた。
ただし当時のスペインのカルメル会は、規律がゆるんでいた。修道女たちは家族や客と社交し、院内に自分の部屋と侍女を持つ人もいた。暇のある貴族のような暮らしである。テレサもこの場所で、20代と30代を過ごすことになる。城壁の町を飛び出そうとした少女は、いつのまにか、ゆるやかな日々の中にいた。
03三日間、死んでいた人
修道院に入って数年後、テレサは重い病にかかった。1538年から39年ごろ、激しい発作で意識を失い、3日間目を覚まさなかった。家族は「死んだ」と考え、墓を用意し、葬式の段取りまで進めた。その後、彼女は目を覚ました。
体の半分は、その後も数年のあいだ麻痺(まひ)したままだった。歩くことがむずかしい日々が続いた。生と死の境目を通ったこの体験が、のちの神秘体験の体の土台になる。神秘体験とは、神と直接ふれ合ったと感じる体験のことだ。
それから20年近く、テレサは祈りと社交の間で揺れ続けた。のちに彼女自身は、この時期を「凡庸な20年」と呼んだ(凡庸は「ぼんよう」、平凡という意味)。『自叙伝』の第七章と第八章に、こう書いている。「祈りの甘さを知りながら世の楽しみを捨てられず、世の満足を得ながら神の近さを求める、どちらにも徹しきれない、中途半端に引き裂かれた魂」。
1554年、39歳のある日。修道院の廊下で、テレサは一つの像の前にひざまずいた。鞭(むち)で打たれ、血を流すキリストの像である。その血と苦しみが、初めて「私のためのもの」として迫ってきた。彼女はこれを「第二の改宗」と呼ぶ。
同じころ読んでいたのが、古代の思想家アウグスティヌスのだった。その第9章の深い自己省察が、この変化を支えた。以後、祈りの質が変わる。幻(まぼろし)を見る。心の中で神と対話する。体が浮いたとも伝えられる。そして(こうこつ)、ラプトとも呼ばれる激しい脱魂の体験。神秘体験が、日常になった。
1556年ごろからは、指導を受ける相手も増えた。フランシスコ・ボルヒア。厳しい苦行で知られたフランシスコ会の。やイエズス会の修道士たち。テレサは自分の体験を、慎重に確かめようとしていた。この時代、祈りの深さは、それだけで疑われる理由になったからである。
04四人で始めた、靴を履かない修道院
1562年8月24日。47歳のテレサは、わずか4人の仲間を連れて、アビラの旧市街に新しい修道院を立てた。サン・ホセ修道院である。所属していたラ・エンカルナシオンとは別の、独立した修道院だった。しかも、人に知られないよう、ひっそりと行われた。
これがの始まりである。「跣足(せんそく)」とは、靴を履かないという意味だ。素足にサンダルだけの姿は、貧しさを選ぶしるしだった。スペイン語ではカルメリータス・デスカルサス(Carmelitas Descalzas)と呼ぶ。
新しい修道院の決まりは厳しかった。人数は13人まで。外の世界とはっきり区切る「囲い込み」(クラウスラ)。食事は簡素にし、個人の財産はすべて手放す。カルメル会が生まれたばかりのころの、厳しい生き方に戻ろうという改革だった。
反対は激しかった。元の修道院ラ・エンカルナシオンは、これを反乱と見た。アビラの市民は裁判を起こした。「なぜ富裕な後援者もいない修道院を新設するのか」というのが、その訴えだった。
この騒ぎのなか、テレサは自分の歩みを書き続けていた。1559年ごろから書き始めた『自叙伝』は、1565年に完成する。子どものころの家出から、三日間の昏睡(こんすい)、そして祈りの変化まで。自分の心に何が起きたのかを、正直に記した本だった。
この本が、やがて異端審問所の手に渡ることになる。
05馬車の上の15年
1567年、テレサはメディナ・デル・カンポという町で、一人の若い修道士に出会う。フアン・デ・サント・マティーア。のちに十字架のフアン()と呼ばれる人である。二人は協力して、男子のための改革修道院も作ることにした。最初の男子修道院は1568年、ドゥルエロという村に生まれた。
ここから15年間、テレサは走り続けた。1567年から1582年まで、女子と男子を合わせて17の修道院を、スペイン各地に建てたのである。移動は馬車と驢馬(ろば)だった。夏は埃と暑さ、冬は凍える道を走った。
ある日、馬車が転んだ。そのときテレサがつぶやいたと伝わる言葉がある。「主よ、あなたがこうして友を扱うから、友が少ないのも無理はありません」。神への皮肉と、神への親しさが、ひとつになった言葉だった。この旅の記録を、テレサは(Libro de las fundaciones)という本に自分で書き残した。1573年から死の年まで書き継がれ、完成はしなかった。
旅の途中、異端審問所が動いた。1574年から76年にかけて、『自叙伝』の写本が押収され、審査にかけられたのである。疑われたのは、との関係だった。アルンブラドスとは「光を受けた者たち」という意味で、当時のスペインで異端の疑いをかけられた神秘主義の人々である。結局、教えに問題なしとされ、写本は返された。だが女性が書くことへの警戒と、血筋の「純潔」を求める圧力を、テレサは直接受けた。
改革は、元のカルメル会との対立も深めた。改革に反対する側は「履靴(りか)会派」、つまり靴を履く側と呼ばれた。1577年から78年にかけて、十字架のフアンは旧会派に捕らえられ、9か月間投獄された。それでも1581年、教皇グレゴリウス13世の認可が下りる。教皇ピウス5世のころから続いた介入を経て、スペインの跣足カルメル会は独立した管区として認められた。改革は、公式のものになった。
走りながら、テレサはもう一つのことを続けていた。書くことである。
何ごとも汝を乱すな、何ごとも汝を驚かすな。すべては過ぎ去る。神は変わりたまわず。忍耐はすべてを成す。神を持つ者は何も欠けぬ。神のみにて足る
06『自叙伝』『完徳の道』『霊魂の城』――魂の内的地理学
テレサの主著は三つある。
『自叙伝』(Libro de la vida、1565年完成)――40歳までの霊的遍歴と祈りの四段階(水の比喩、桶水を汲む初歩から天の雨の最終段階まで)を描いた自己分析。1559年頃から書き始められ、1565年に最終稿。異端審問所の押収・審査を経て最終的に公認され、後世の霊的修養文学の古典となった。
(Camino de perfección、1566年頃)――サン・ホセ修道院の修道女たちへの実践的な指南書。共同生活、祈り、徳の三つを核に、観想生活を誰もが歩める道として提示した。完全版は彼女の死後1583年エボラで初刊された。
『霊魂の城』/(Castillo interior / Las Moradas、1577年)――テレサの最高傑作。同年6月から11月にかけてトレドとアビラで6か月で書き上げ、告解師ヘロニモ・グラシアンの依頼によるものだった。魂を七つの住居(モラーダ)を持つ水晶の城として描き、外側の第一住居(自己知の始まり)から、祈りの進展に応じて内側へ進み、第七住居(三位一体の神との、matrimonio espiritual)へ至る道を体系化した。単なる修徳指南ではなく、神秘体験の現象学的記述として、後世ウィリアム・ジェイムズ、エディット・シュタインらが繰り返し参照する書物となった。
執筆時のテレサは疲労と健康不良のなかで、女子修道院長としての行政職務と、記憶に頼る執筆を並行して進めた。テレサの書き物には、推敲の痕跡がほとんどなく、語り口のリズムと精確な神学が同時に成立する、スペイン語散文の独自の声となっている。
神秘体験の記述については、知性的観想(アクト)、恍惚(rapto)、霊体離脱の自己報告という三層をテレサ自身が冷静に区別して書き残している。後世のジャン=ロレンツォ・作『聖テレサの法悦』(1647-52、ローマ・サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア聖堂)は、その記述の一場面を世俗の彫刻言語に翻案した解釈である。
あなた自身の内に家を建てよ。神は、あなたの思う以上に近くにいる。
07アルバ・デ・トルメスへ、ふたたび
そして、1582年の秋に戻る。9月の末、テレサは新しい修道院の運営をめぐる旅の途中で、アルバ・デ・トルメスのカルメル会修道院に立ち寄った。長い旅の疲れに胃腸の衰弱が重なり、10月4日に死去。67歳だった。
翌日からスペインはグレゴリオ暦に切り替わり、10月5日は10月15日となった。今もカトリック教会は、10月15日を彼女の記念日としている。遺体と、心臓・腕の聖遺物は、今もアルバ・デ・トルメスのカルメル会教会に納められている。
死後、教会は彼女を少しずつ高く位置づけていく。1614年、列福(れっぷく)。聖人の一つ手前、「福者」として認められることだ。1622年3月12日、教皇グレゴリウス15世によって列聖、つまり聖人として認められた。同じ日に、イエズス会を創立した、フランシスコ・ザビエル、フィリッポ・ネリ、農夫イシドロも聖人となっている。
1970年9月27日、教皇パウロ6世はテレサを「教会博士」に宣言した。教会博士とは、その教えが教会全体の手本になると認められた、ごく少数の人に与えられる称号である。女性がこの称号を受けたのは、史上初めてだった。1週間後の10月4日、シエナのカタリナが二人目の女性教会博士となる。1997年にはリジューのテレーズ、2012年にはヒルデガルトが続いた。中世や近世の女性神秘家を、ふつうの神学者と同じ重さで見直す長い流れ。その始まりに、教会はアビラのテレサを置いたのである。
冒頭の問いに戻ろう。神は心の一番奥にいると書いた人が、なぜ道の上で死んだのか。テレサは、七つの部屋を持つ城を、静かな書斎で考えたのではなかった。馬車の上で、訴訟と審問のあいだで、疲れた体で書いた。城の一番奥へ向かう道と、カスティーリャの埃の道。彼女にとって、その二つがどう結びついていたのか。答えは、彼女が走りながら書いた本の中にある。
あなたは今、自分という城の、どの部屋にいるだろうか。そしてその部屋から一歩奥へ進むとき、あなたの足は、外の世界のどこへ向かうだろうか。
08主要な出来事と残した思索の輪郭
- 3月28日、アビラで誕生。父アロンソ・サンチェス・デ・セペーダ、母ベアトリス・デ・アウマーダ。改宗ユダヤ人系祖父を持つ
- 16歳、アウグスティノ会付属の女子寄宿学校に入る
- 20歳、父の反対を押してアビラのカルメル会受肉の聖母修道院(ラ・エンカルナシオン)に入会
- 重病、3日間の昏睡で「死亡」と見なされ家族が墓を準備、覚醒後も半身麻痺
- 鞭打たれたキリスト像の前で「第二の改宗」、アウグスティヌス『告白』の影響
- 8月24日、アビラにサン・ホセ修道院を隠密設立、跣足カルメル会開始
- 『自叙伝』完成、異端審問所による審査と返却
- 『完徳の道』執筆
- メディナ・デル・カンポで十字架のフアンに出会う
- ドゥルエロに最初の男子改革修道院、十字架のフアンと協働
- 異端審問所による『自伝』写本の押収・審査
- 『霊魂の城』(『内なる城』)を6か月で執筆、十字架のフアンが旧会派に投獄(–1578年)
- 跣足カルメル会、独立管区として公式認可
- 10月4日、アルバ・デ・トルメスで死去、67歳。翌日からのグレゴリオ暦切り替えで10月15日が記念日
- 列福(パウロ5世)
- 3月12日、列聖(グレゴリウス15世、イグナチオ・ロヨラらと同日)
- 9月27日、パウロ6世により史上初の女性教会博士に宣言
残した思索の輪郭
- 霊魂の七住居の地図 ― 魂を水晶の城として描く内的地理学、第七住居の霊的婚姻まで
- 祈りの四段階(水の比喩) ― 桶から天の雨へ、観想の深まりを農夫の庭づくりに重ねる
- 跣足改革 ― 清貧・小規模共同体・囲い込みへの回帰と17の新修道院設立
- 神秘体験の現象学的記述 ― 知性的観想・恍惚(ラプト)・霊体離脱を冷静に区別して言語化する稀有な文体
- 行動と観想の両立 ― 書斎の思索家ではなく、馬車で走り続ける修道院長としての神学者
つながり
- マイスター・エックハルト
共鳴 — 魂の深みと神の内在。テレサの観想に遠く響き合うドイツ神秘思想の声。
- シエナのカタリナ
先駆 — 教皇のアヴィニョン幽囚解除に働きかけた女性がいた。テレサに先立つ「教会博士」。
さらに読むならFurther Reading
アビラのテレサの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門霊魂の城
アビラの聖テレサ / 訳: 東京女子カルメル会 / ドン・ボスコ社
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生きた跡を辿るPlaces
アビラのテレサが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
アビラのテレサを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「アビラのテレサ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Teresa of Ávila"
Project GutenbergEnglishThe Life of St. Teresa of Jesus, of the Order of Our Lady of Carmel(David Lewis 英訳)— Project Gutenberg
『イエズスの聖テレサ自伝』英訳