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ボエティウス

Boethius·480頃–524/525·古代ローマ·

すべてを失った日に、 それでも残る幸せはあるのだろうか?

古代最後のローマ人にして中世最初の哲学者、獄中で書いた慰めの書

  • 哲学の慰め
  • 普遍論争
  • 三位一体
西ローマ帝国が消えたあと、ローマの貴族は異民族の王に仕えながら、祖国の古典を守ろうとした — ひらく

時代の空気

ボエティウスが生まれた480年頃のローマは、476年に西ローマ皇帝が廃された直後で、イタリア半島はアリウス派キリスト教徒の東ゴート王オドアケル・テオドリックの支配下にあった。テオドリック(在位493-526)はラヴェンナを都に古代ローマの元老院と官僚制を残し、ラテン文化を擁護したが、コンスタンティノープルの東ローマ皇帝ユスティノスとの神学・政治対立が深まる。523年皇帝が正統派キリスト教徒の保護に踏み込み、元老院議員アルビヌスの内通疑惑が浮上、その弁護がボエティウスをパヴィア近郊の幽閉に導いた。

01塔の中で、男は書き始めた

523年の終わり、北イタリアの町パヴィアの近くに、一つの塔があった。アゲル・カルウェンティアヌスと呼ばれる土地に建つ塔である。その中に、一人の男が閉じ込められていた。名はボエティウス。43歳ほどだった。

一年前まで、彼はこの国でいちばん高い役人だった。王に仕え、という宮廷の最高の官職にいた。同じ年、二人の息子がそろって執政官になった。父は元老院で祝いの言葉を述べ、「私の生涯で最も誇らしい日」と書き残した。

それが今、反逆の罪で捕らえられている。元老院は王の圧力の下、弁護もなしに有罪を決めた。家族とは引き裂かれ、処刑の日を待つ身になった。公職も、富も、名声も、すべてが失われつつあった。

その塔の中で、彼は一冊の本を書き始める。祈りの本ではなかった。書き出しで泣いている自分の前に、女性の姿をした「哲学」が現れて話しかける。そういう物語の形をとった本である。

なぜ、頂点にいた男は一年で塔に落ちたのか。そしてなぜ、キリスト教徒である彼の慰めの書に、キリストの名が一度も出てこないのか。その答えを探すために、時をおよそ40年前に戻す。

02二つの言葉で育った子

480年ごろ、ローマの名門アニキウス家に男の子が生まれた。正式な名は Anicius Manlius Severinus Boethius。父フラウィウス・マンリウス・ボエティウスは、西ローマ皇帝を退けてイタリアを治めたオドアケルの時代に、執政官を務めた人だった。しかし父は、息子が幼いころに亡くなった。

父を失った少年は、元老院議員のに引き取られた。正式にはクィントゥス・アウレリウス・メンミウス・シンマクス。古典文化を守る人として知られていた。その家で少年は、ギリシア語とラテン語の両方を学んだ。やがてシンマクスの娘ルスティキアナと結婚し、二人の息子が生まれた。

当時のローマは、見た目には秩序が保たれていた。しかし西ローマ帝国は476年に終わっていた。イタリア半島を治めていたのは、東ゴート族である。王テオドリックはというキリスト教の一派を信じる、ローマ人から見れば蛮族ばんぞくの王だった。それでも王は、古代ローマの役人の仕組みと元老院を尊重し、ラテン文化を守った。

ローマの貴族の子にとって、日々の仕事は二つあった。征服者の宮廷に仕えること。そして祖国の古典を守ること。若いボエティウスは、その二つ目のために、途方もない計画を立てる。

03アリストテレスとプラトンを、丸ごと訳す

彼の志は高かった。「アリストテレスとプラトンの全著作をラテン語に翻訳し、注解を付し、両者の本質的一致を示す」。これが彼の立てた大計画である。アリストテレスとプラトンは、古代ギリシアの二人の大哲学者だ。当時の西の世界ではギリシア語が忘れられつつあった。二人の原典を直接読める人は、貴族の一握りしかいなかった。

一生のうちに終えられたのは、計画の一部だけだった。アリストテレスの論理学の本、『範疇論』『命題論』『分析論前書』『トピカ』『詭弁論駁論』を訳した。アリストテレスの入門書を書いた哲学者の『エイサゴーゲー』には、二つの注解を書いた。数学・音楽論の手引書(『算術教程』『音楽教程』『幾何学教程』)も仕上げた。

地味な仕事である。だが、この仕事が後の西ヨーロッパの考え方を決めた。12世紀まで、ヨーロッパが読めるアリストテレスの論理学は Logica Vetus(古論理学)と呼ばれるものだけだった。その中心が、ボエティウスの訳したオルガノン(論理学書群)である。

訳した本が何百年も読まれることを、若い彼はまだ知らない。そのころ王の宮廷は、この若い学者に別の仕事を用意していた。

0430歳の執政官

510年、ボエティウスは30歳で単独の執政官に就いた。執政官はふつう、年をとった人がもらう名誉の役職である。若くして指名されたのは、異例のことだった。

王テオドリックは、この学者の知識に実務を任せた。という役人が残した『書簡集(Variae)』に、その中身が残っている。王の親衛隊の給料を預かる役人が、貨幣の中身をごまかしていないか調べる仕事。ブルグント王グンドバドへの贈り物として、水時計と日時計を作る仕事。フランク王クロヴィスのために、竪琴たてごとの奏者を探す仕事。古典哲学を訳す人が、機械の仕掛けと音楽の世話まで引き受けていた。宮廷の役人としての彼の毎日を伝える、数少ない記録である。

522年、二人の息子シンマクスとボエティウスが、同じ年にそろって執政官になった。これもきわめて異例のことだ。父は元老院で祝いの言葉を述べ、「私の生涯で最も誇らしい日」と書き残した。同じころ、王は彼を政務総監(magister officiorum)に任じた。宮廷の最高の官職で、行政の頂点である。王と元老院の間をつなぐ役でもあった。

坂道はここまで登った。ここから先が、崖だった。

05「もし彼が有罪なら、元老院全体が有罪だ」

523年、元老院のアルビヌスという議員が告発された。東ローマ皇帝ユスティノスと内通ないつうし、テオドリック王を倒そうとした、という疑いである。東ローマは、コンスタンティノープルを都とする、もう一つのローマ帝国だった。

ボエティウスは元老院を守ろうとして、アルビヌスを弁護した。「もし彼が有罪なら、元老院全体が有罪だ」。彼はそう論じた。しかしこの弁護が、王の疑いを彼自身に向けさせた。

523年の終わり、彼は反逆罪と冒涜ぼうとく罪(神をけがした罪)で逮捕された。連れて行かれた先が、パヴィア近くのアゲル・カルウェンティアヌスの塔である。元老院は王の圧力の下、弁護もなしに有罪判決を下した。彼は家族と引き裂かれ、処刑の日を待つ身となった。

ここで、この物語は最初の塔に戻る。塔の中で、彼は自分の一生を点検した。公職、富、名声、家族の幸せ。すべてが失われつつあった。古代ローマ貴族の最後の血筋として、彼は運命に、古典の精神で向き合おうとした。そこで彼が書き始めた本が『(De Consolatione Philosophiae)』である。

死を待つ人は、その本に何を書いたのか。

06女性の姿をした「哲学」

『哲学の慰め』は五巻からなる。散文と韻文いんぶん(詩)を交互に並べる、という特別な形式で書かれた。はじめ、ボエティウスは牢の中で自分の運命を嘆いている。そこへ女性の姿をした『哲学』(ソフィア)が現れる。彼女はまず彼を叱しかり、それから慰める。

なぜあなたは涙で満ちているのか? なぜ目が濡れているのか? 遠くへ行かねば私たちの話せぬことがあるなら、あなたは自分で選んだのではなく、私たちから引き剥がされたのだ。

— 『哲学の慰め』第1巻。牢で泣くボエティウスの前に『哲学』が現れたときの言葉

対話は五つの段階で進む。第1巻は、嘆きと「哲学」の登場。第2巻は、運命(フォルトゥナ)の正体である。運命とは変わること自体がその本質だ、という古くからの考えだ。運命は車輪を回し、上にいた者を下へ送る。それがである。

運命は自らが回す車輪を誇る、そして星が昇り沈むことを喜ぶ

— 『哲学の慰め』第2巻。運命(フォルトゥナ)の本性を語る場面

第3巻で、真の幸福はどこにあるかが問われる。富、権力、名声、快楽、肉体。そうした外側の善にはない。すべての善が一点に集まる「至善(summum bonum)」にある、と『哲学』は答える。第4巻は、なぜ善い人が苦しみ、悪い人が栄えるのか、という問い(神義論)。第5巻は、運命と自由な意志と神の予知は両立するか、という問いである。中世哲学の最大の問題を、一気に展開した本だった。

この本の驚くべき点は、キリスト教への言及がひとつもないことである。ボエティウス自身は正統派のカトリック信者だった。処刑を待つキリスト教徒が、慰めを求めてたどり着いたのは、プラトン、アリストテレス、ストア派を混ぜ合わせた哲学的な神の見方だった。後の時代には「彼は信仰を失ったのか」という議論も起きた。現在では、哲学の理性だけで真理にたどり着く稽古として、彼が意図して書き分けた、と解釈されている。

冒頭の二つ目の「なぜ」に、ここで向き合うことになる。彼は信じるものを捨てたのだろうか。それとも、信じるものに頼らずにどこまで立てるかを、塔の中で試したのだろうか。稽古の時間は、終わりに近づいていた。

07処刑、そして千年

524年または525年、ボエティウスは拷問ごうもんを受け処刑された。伝承では、頭に縄を巻きつけて眼が飛び出るまで絞められ、その後打ち首にされたという。44歳ほどだった。

二年後、テオドリック王自身が死去した。王が死の床で苦しんだとき、ボエティウスの顔が幻視に現れたという伝承が中世に流布るふした(シーツァイトンの『カッシオドロス伝』)。やがてボエティウスはローマ教会によって聖セウェリヌスとして殉教者じゅんきょうしゃ列に加えられ、パヴィアの大聖堂に聖遺物が祀まつられた。

ラッタンツィウスの甥カッシオドロスが彼の未完の仕事を受け継ぎ、修道院運動を通じて古典知識を保存した。ボエティウスの論理学書は、中世初期のフランク王国からを経て宮廷学校の教科書となった。アルクィン、ジェルベール・ドーリャック(後の教皇シルウェステル2世)、カンタベリーのアンセルムス、アベラール、そして12世紀の(普遍は実在するか、名のみか)。彼らはまずボエティウスの論理学書で普遍を考える語彙を覚え、その語彙はすべてボエティウスから来た。12世紀ルネサンスまで、ボエティウス訳のオルガノンは、西方世界が古代の論理学に向けて開いた唯一の窓口だった。

ダンテは天国篇第10歌で、ボエティウスを太陽の天のアクィナス(中世最大の神学者トマス・アクィナス)近くに置き、「偽りに満ちた世界を見て取り、彼は永遠の平和に至った」と讃えた。

塔の中の男は、すべてを失ったあとで、なお幸福を語った。あなたが積み上げてきたものが一夜で崩れたとき、車輪の外に残るものは何だろうか。

08主要な出来事と著作

  1. ローマの名門アニキウス家に誕生
  2. シンマクスに引き取られ、その娘ルスティキアナと結婚
  3. アリストテレス論理学書の翻訳・注解、数学・音楽教程の執筆
  4. 単独執政官に就任
  5. 二人の息子が共同執政官に。ローマ元老院で祝辞
  6. 政務総監に昇進
  7. アルビヌス弁護から反逆罪告発へ
  8. パヴィア近郊で投獄。『哲学の慰め』を執筆
  9. 拷問の後に処刑。享年44頃
  10. テオドリック王死去

残した思想の輪郭

  • 『哲学の慰め』 ― 獄中対話の形で運命・幸福・神義論・自由と予知を一書に統合
  • プロシメトロン ― 散文と韻文を交互に配す形式は、中世の神秘主義文学に受け継がれた
  • 普遍論争の語彙 ― ポルフュリオス注解で「類と種は実在するか、思惟の中にのみあるか」を提起
  • 古代哲学の保存者 ― アリストテレス論理学書を西方世界に伝え、12世紀まで唯一の窓口となる
  • 個人の概念 ― 『人格と二性について(De persona et duabus naturis)』で「persona est naturae rationalis individua substantia(人格は理性的本性の個別実体)」と定義、後のスコラ神学の人格論の基礎に
524年または525年、パヴィア近郊で処刑された。44歳ほどだった。処刑法は打ち首とも絞首ともされ、諸説ある。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

ボエティウスの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

ボエティウスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ聖堂墓所

    パヴィーア, イタリア

    524年、獄中で『哲学の慰め』を書いた直後に処刑。地下クリプタの石棺に眠る。ダンテも『神曲 天国篇』で言及

さらに辿るならExternal References

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