ピコ・デラ・ミランドラ
人間は、 何にでもなれるのか?
23歳で900の命題を立てローマに集めようとした、人間の尊厳を宣言した伯爵
- 人間の尊厳について
- 900テーゼ
- フィレンツェ
- カバラ
- 人文主義
時代の空気
一五世紀末のフィレンツェだ。ロレンツォ・イル・マニフィコ(1449-92)のもとでクアトロチェントは終局を迎え、フィチーノが主導するプラトン・アカデミーがヘルメス文書・カバラ・新プラトン主義を一つの食卓に並べていた。フラーヴィウス・ミトリダテスの翻訳でカバラ写本がイタリアへ流入し、印刷術と公開討論が知の様相を変えていく。教皇インノケンティウス八世(在位1484-92)からアレクサンデル六世(在位1492-1503)へ、教会は折衷神学への警戒を強めた。一四九四年九月にシャルル八世がイタリアへ侵攻し、メディチ家追放のあとサヴォナローラの神政共和国(1494-98)が始まる。
01ミランドラの伯爵家、早熟の神童
1463年2月24日、モデナ北方のミランドラ城(現エミリア・ロマーニャ州モデナ県ミランドラ)で、の領主ジャン・フランチェスコ1世の次男として生まれた。本名ジョヴァンニ・ピコ。ミランドラ家はフェラーラのエステ家に臣従する小貴族で、父は彼が4歳の1467年に没した。家督は長兄ガレオット1世が継ぎ、母ジュリア・ボイアルダの方針で末弟ジョヴァンニは教皇庁付司祭志望として書物の世界に向けられた。
1477年、14歳でボローニャ大学に入って教会法を学び始める。しかし1478年に母を喪うと法律家の道は離れ、1480年からフェラーラ大学・パドヴァ大学(アリストテレス主義の牙城)で哲学と自由学芸に転じた。パドヴァでは1480-83年の三年間、エリア・デル・メディゴ(ユダヤ系アヴェロエス派哲学者)に師事し、アラビア・ユダヤ哲学とアリストテレスのアラビア語-ヘブライ語経由の伝承に触れた。これが後の東西統合的構想の出発点になる。1483年からはパヴィア大学に移り、スコラ的論理学を補強した。
1484年春、21歳でフィレンツェに上り、メディチ家の知的サークル──ロレンツォ・イル・マニフィコ(豪華王)、マルシリオ・フィチーノ、アンジェロ・ポリツィアーノ(人文主義詩人)──と交わった。フィチーノは既に『プラトン神学』(1482)を完成しプラトン全集のラテン訳を進めていた老師であり、ピコはその新プラトン主義を深く学びつつ、ヘブライ語とカバラという独自の経路を加えていく。1485年から86年初頭にかけてはパリ大学(ソルボンヌ)に身を置き、スコラ神学の最前線を吸収して帰還した。
02四言語の学識──東西統合の構想
ピコの驚異は、当時のヨーロッパで稀な四言語の習熟である。ラテン語(スコラと古典)、ギリシア語(プラトン・アリストテレス原典)、ヘブライ語(聖書とカバラ)、そしてアラビア語(アヴェロエス、アヴィセンナ、アル・ファーラービー)。彼はユダヤ人改宗者フラーヴィウス・ミトリダテスを個人教師として雇い、カバラ文献のラテン訳を大量に依頼した。
彼の構想は単なる文献蒐集ではなかった。プラトンとアリストテレスは究極的には調和すると彼は主張した(『プラトンとアリストテレスの一致について』、未完)。ユダヤのカバラは古代モーセ以来の秘教伝承であり、キリスト教の三位一体論を隠された形で証言すると論じた(カバラのキリスト教化の最初の試み)。ヘルメス・トリスメギストス、オルフェウス、ピタゴラス、ゾロアスター──これらの古代宗教の英知(prisca theologia、古代神学)は同一の真理を別々の言語で語っていると主張した。
この発想は、フィチーノの新プラトン主義を継承しつつ、範囲を決定的に広げた。フィチーノがプラトンとプロティノスを軸に古代神学を語ったのに対し、ピコはヘブライとアラビアまで組み込み、ルネサンス人文主義の知の地図を決定的に拡張した。後世の用語でいえば、これは諸伝統を一つの真理の別相として読む宗教的折衷主義(syncretism)の最も野心的な試みのひとつとなる。
03900の命題──ローマでの公開討論の夢
1486年12月、23歳のピコは『(Conclusiones nongentae)』を自費でローマで刊行した。アリストテレス、プラトン、ヘルメス文書、カバラ、アラビア哲学、スコラ学、教父学、ピコ独自の命題──各分野から選んだ900の提題を、ラテン語の短い定式文で並べた人類全哲学の見取り図である。印刷術がイタリアの知識人の机を変え始めた時代に、青年伯爵が世界中の学者へ討論を呼びかけるという発想自体が、新しい知の様式の宣言だった。
彼はこれを公開討論に付すため、翌一四八七年にヨーロッパ中の学者をローマへ招待し、旅費を自ら負担すると宣言した。討論の冒頭演説として書いたのが『(Oratio de hominis dignitate)』──ただし「de dignitate hominis」というタイトルはピコ自身によるものではなく、16世紀の編者の命名である。
教皇インノケンティウス8世は討論を禁止し、九〇〇命題のうち13命題を異端判定した(1487年2月)。問題になったのは、自然魔術(magia naturalis)が神学と両立し得るという命題、カバラはキリストの神性を証明するという命題、地獄の罰は永続的ではないという命題などである。
ピコは『弁明(Apologia)』(1487年5月)を急いで書いて反論したが、かえって全九〇〇命題が異端と宣告され(1487年8月)、ピコは仏国へ逃れた。一四八八年初頭にリヨン近郊でフランス王シャルル八世の役人に逮捕され、ヴァンセンヌの塔に短期投獄される。フィレンツェのロレンツォ・デ・メディチが外交的介入を行い、ピコは釈放されて一四八八年春にフィレンツェへ戻り、ロレンツォの庇護下に入った。一四九三年六月、新教皇アレクサンデル六世はピコに正式な免罪状を発する。
04『人間の尊厳について』──自己形成の自由の宣言
『人間の尊厳について』は短い演説文だが、ルネサンス人文主義の独立宣言として後世読まれ続けている。冒頭、神が人間を創造する場面をピコは独自に書き換える。
天上の父なる神は、人間を世界の中央に置き、こう語った。「我は汝を、いかなる定まった場所も、いかなる特有の姿も、いかなる特定の務めも与えず創った。これは汝が、自らの意志と判断により、汝が望む場所・姿・務めを得るためである。他の被造物の自然は、我が定めた法の内に制約されている。しかし汝は、いかなる制約にも縛られず、我が汝を置いた汝自身の自由な裁量者として、自らの自然を自ら定めるのだ」
この場面の哲学的意義は大きい。スコラ神学では、すべての被造物には定まった本質(essentia)があり、人間もまた理性的動物という本質に縛られる。ピコはここで、人間にのみ本質の不定さ(indeterminatus)を与え、自己を自ら形成する自由を中心に据えた。これは単なる讃美詩ではなく、存在論の一手である。
「カメレオン」の比喩が直後に続く。人間は下に降りれば植物のように生き、獣のように生き、上に昇れば天使のように、神的知性のように生きる。位置が可変であることこそ人間の尊厳である、と。
注意すべきは、ピコの「自由」は近代的な自律(autonomy)ではない点である。人間は神の秩序の中で選択するのであり、下位の生き方も上位の生き方も神によって準備されている。しかし選択の責任は人間に属し、選択によって人間は自らを形成する。この自己形成の哲学が、後のサルトル「実存は本質に先立つ」まで、ルネサンスから実存主義への長い弧を描く。
この書はピコの生前は序文として独立刊行されず、死後1496年に甥ジャン・フランチェスコ2世が遺稿集として刊行した。19世紀のヤーコプ・ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』がこれを「ルネサンス精神の最高の証言」と称揚し、以後の近代的ルネサンス像の核となった。
05フィレンツェの晩年、サヴォナローラへの傾倒
フィレンツェでのピコは、フィチーノのプラトン・アカデミーの年少の盟友として過ごした。フィチーノの新プラトン主義をカバラで拡張する『七重論(Heptaplus)』(1489)、すべての存在の一性を論じる『一と有について(De ente et uno)』(1492、ポリツィアーノとの対話から生まれた小著)を書く。占星術を批判した『占星術反駁(Disputationes adversus astrologiam divinatricem)』(未完、死後1496年刊行)は、後のケプラー・ガリレオの科学革命に間接的影響を与えた。
同時に、彼の精神生活は大きく変化する。メディチ家の招きで一四九〇年からフィレンツェに復帰したドミニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)が、サン・マルコ修道院で激しい説教を始めていた。サヴォナローラは教会の腐敗と世俗文化の退廃を激烈に糾弾し、聖書的預言者として振る舞った。ピコはこの説教に深く感化され、一四九三年頃には自らもドミニコ会に入会する意志を固めていた(未履行)。財産の一部を処分して清貧の生活に入り、豪奢な蔵書を弟子たちに分け与えた。
このピコの精神的転回をどう読むかは、ルネサンス研究の長い論点である。『人間の尊厳』で自由を讃えた青年が、数年後に終末論的修道運動に傾倒した──これは変節か、同じ一つの霊的探求の別相か。近年の研究は、彼の中に一貫してあったのは神と直接触れる道の探求であり、カバラもサヴォナローラもその別経路だったとする読みが主流である。
0631歳での急死、ルネサンス宣言の長い余韻
1494年11月17日、フィレンツェでピコは突然の発熱に倒れ、数日のうちに死去した。31歳。同日、シャルル八世のフランス軍がフィレンツェ城門に到達し、メディチ家追放とサヴォナローラ神政共和国の開幕が始まる。ピコは歴史のこの転換点の日に世を去った。
長らく死因は熱病とされてきたが、毒殺説は同時代から残されていた。一九九〇年代から二〇〇〇年代の遺骨調査(主として一九九九年と二〇〇七年のDNA・元素分析)で砒素中毒の痕跡が確認され、同時期に急死した詩人ポリツィアーノの遺骨からも砒素が検出されている。下手人の特定には至っていないが、ピコの秘書クリストフォロ・ディ・カザルマッジョーレらの関与説が浮上した。ロレンツォ・デ・メディチの息子ピエロ(豪華王の跡継ぎ)の陣営との政治的確執が背景とされるが確証はない。
サヴォナローラはピコを絶賛する追悼説教を行い、サン・マルコ修道院への埋葬を許した。ピコは遺言でドミニコ会士としての死装束を願っていた。
彼の書は死後、甥ジャン・フランチェスコ2世によって編纂・刊行された(1496年版『ピコ著作集』)。『人間の尊厳について』は序文として収められ、当初は900命題の付録扱いだったが、世紀を経るごとに独立した宣言文として読まれるようになる。
20世紀、エルンスト・カッシーラー『個と宇宙──ルネサンス哲学の問題』(1927)は、ピコをルネサンス思想の頂点に位置づけた。エウジェニオ・ガレンのイタリア系ルネサンス研究は、ピコの東西統合的構想を「近代以前のもう一つの知の可能性」として再評価した。今日、ピコはしばしば人間中心主義(humanism)の最初の明確な宣言者として引用される。ただしその「人間」は近代的主体ではなく、神の自由の裡で自らを形成する可能性の存在であった。
07主要な出来事と著作
- 2月24日、ミランドラ城のコンティ・デッラ・ミランドラ家に次男として誕生
- 父ジャン・フランチェスコ1世死去(4歳)、教皇庁付司祭志望として育てられる
- 14歳、ボローニャ大学で教会法を学ぶ
- フェラーラ・パドヴァ大学。エリア・デル・メディゴに師事しアラビア・ユダヤ哲学を吸収
- パヴィア大学に移りスコラ的論理学を補強
- フィレンツェへ、ロレンツォ・フィチーノ・ポリツィアーノのサークルに参入
- パリ大学(ソルボンヌ)でスコラ神学の最前線を学ぶ
- ローマで『900の命題』自費刊行、序文として『人間の尊厳について』執筆
- インノケンティウス8世が13命題を異端判定、ローマでの討論禁止
- 『弁明』刊行後、全900命題が異端と宣告される
- リヨン近郊で逮捕・短期投獄、ロレンツォの介入で釈放、フィレンツェへ
- 『創世記注解(Heptaplus)』刊行
- 『存在と一について(De ente et uno)』
- ロレンツォ・イル・マニフィコ死去、サヴォナローラの説教に深く感化
- 新教皇アレクサンデル6世による正式な免罪
- シャルル8世イタリア侵攻、メディチ家追放の動乱が始まる
- フィレンツェで急死、31歳。サン・マルコ修道院に埋葬
- 甥ジャン・フランチェスコ2世による著作集刊行(『占星術反駁』含む)
- 遺骨のDNA・元素分析で砒素中毒が裏付けられる
残した思想の輪郭
- 人間の位置の不定さ ─ 本質を持たず自ら形成する存在、ルネサンス人文主義の独立宣言
- 四言語の横断 ─ ラテン・ギリシア・ヘブライ・アラビアで東西の思想を一つの机に並べる
- 古代神学(prisca theologia) ─ ヘルメス・オルフェウス・ゾロアスター・モーセを同一真理の複数の言語として読む
- キリスト教カバラ ─ ユダヤ秘教伝承をキリスト教神学に統合する最初の体系的試み
- 自己形成の自由 ─ カメレオン的存在としての人間、サルトルの実存主義まで弧を描く主題
- 占星術批判 ─ 自由を守るため決定論的占星術を退ける、科学革命への間接的先駆
- 31歳での未完 ─ 統合体系は書かれず、断片と演説文だけが残された
出典と確認メモ
5件- 文脈二次資料で確認済み研究上論争あり
研究上論争あり: quotes.ts pico-1.context (1486 年、23 歳の Pico della Mirandola が『九百論題』(Conclusiones DCCCC) の公開討論のためにローマ...
- 抜粋原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 我は汝を、汝自身の自由な裁量者として、汝自身の尊厳の鍛冶師として置いた
一次資料を開くOratio Latin 全文。'Tu, nullis angustis coercitus, pro tuo arbitrio, in cuius manu ...
- 抜粋原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 天上の父なる神は、人間を世界の中央に置き、こう語った。「我は汝を、いかなる定まった場所も、いかなる特有の姿も、いかなる特定の務めも与えず創った。これは汝が、自らの意志と判断により、汝が望む場所・姿・務...
一次資料を開くOratio 神の Adam への語り全文。'Nec certam sedem, nec propriam faciem, nec munus ullum pe...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: pico.mdx pullsource '『人間の尊厳について(De hominis dignitate)』、1486年' は基本的に正確 (起草年 1486 = Roma 900 論題弁護用演説原稿...
- 引用原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 我々は汝を、天のものとも地のものとも、死すべきものとも不死のものともしなかった。それは汝が、自ら選び取る形のうちに、自由かつ誉れある彫塑家として自らを形作るためである
一次資料を開くOratio de hominis dignitate 全文 Latin canonical (公有版 Garin 校訂底本)。'Nec certam sede...
つながり
- マルシリオ・フィチーノ
伴走 — カレッジ(フィレンツェ近郊カレッジ・ヴェッキオ)のプラトン・アカデミー周辺で年長の師兄として交流、新プラトン主義とヘルメス思想を共有しつつピコは独自にカバラへ拡張
- トマス・アクィナス
批判的継承 — 900テーゼ(1486)でスコラ神学の諸命題を引き受けつつ、ヘブライ・カバラ・アラビア哲学と並置して独自の総合を企てた。トマス主義の枠を人文主義側から開いた試み
- モンテーニュ
共鳴 — 人間の可変性と自己形成という主題の並行(ピコ『人間の尊厳について』1486、モンテーニュ『エセー』特に第2巻第12章・第3巻第13章)。直接引用・書簡関係の史料的確証はなく、ルネサンス人間論の系譜内での間接的連なりとして読む
さらに読むならFurther Reading
ピコ・デラ・ミランドラの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門人間の尊厳について
ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ / 訳: 大出哲・阿部包・伊藤博明 / 国文社
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生きた跡を辿るPlaces
ピコ・デラ・ミランドラが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- サン・マルコ修道院(フィレンツェ)墓所
フィレンツェ, イタリア
ピコ・デッラ・ミランドラが 31 歳で急逝し葬られたドミニコ会修道院
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「ピコ・デラ・ミランドラ」項
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Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Giovanni Pico della Mirandola"
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