ピコ・デラ・ミランドラ
人は、自分の形を 自分で決められるのか?
23歳で900の命題を立てローマに集めようとした、人間の尊厳を宣言した伯爵
- 人間の尊厳について
- 900テーゼ
- フィレンツェ
- カバラ
- 人文主義
学問が国境も宗教も越えて広がり始め、教会がそれを警戒した時代 — ひらく
時代の空気
一五世紀末のフィレンツェだ。ロレンツォ・イル・マニフィコ(1449-92)のもとでクアトロチェントは終局を迎え、フィチーノが主導するプラトン・アカデミーがヘルメス文書・カバラ・新プラトン主義を一つの食卓に並べていた。フラーヴィウス・ミトリダテスの翻訳でカバラ写本がイタリアへ流入し、印刷術と公開討論が知の様相を変えていく。教皇インノケンティウス八世(在位1484-92)からアレクサンデル六世(在位1492-1503)へ、教会は折衷神学への警戒を強めた。一四九四年九月にシャルル八世がイタリアへ侵攻し、メディチ家追放のあとサヴォナローラの神政共和国(1494-98)が始まる。
011494年11月17日、フィレンツェ
1494年11月17日、フィレンツェ。ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラは、突然の熱に倒れた。数日のうちに、彼は死んだ。まだ31歳だった。
同じ日、フランス王シャルル8世の軍が、町の城門に着いた。長く町を治めてきたメディチ家は、追われようとしていた。代わりに始まるのは、修道士の町である。ピコは、歴史が向きを変えるその日に世を去った。
彼は遺言に、士の服で葬ってほしいと書いていた。ドミニコ会は、清く貧しく生きることを誓う修道士の集まりである。8年前、この男は「人間は何にでもなれる」と宣言していた。を掲げ、ヨーロッパ中の学者をローマへ呼ぼうとした青年だ。その彼が最後に望んだのは、修道士の服だった。
なぜ、自由を語った男が、修道士の服を望んで死んだのか。そして、なぜ31歳で死んだのか。二つ目の問いには、およそ500年後に思わぬ答えが加わる。時は31年前、モデナの北の小さな城に戻る。
02ミランドラの小さな城
1463年2月24日、ジョヴァンニ・ピコは生まれた。場所はモデナの北、ミランドラの城である。父は領主ジャン・フランチェスコ1世。家はという。フェラーラのエステ家に仕える、小さな貴族だった。
父は、彼が4歳のときに死んだ。家は長兄ガレオット1世が継いだ。母ジュリア・ボイアルダは、末の息子を書物の世界へ向けた。教皇庁に仕える司祭になれ。それが母の方針だった。
14歳でボローニャ大学に入り、教会の法律を学んだ。しかし翌1478年、母を失う。法律家の道は、そこで終わった。1480年、17歳の彼はフェラーラ大学へ、そしてパドヴァ大学へ移る。学ぶのは哲学だった。
パドヴァは、アリストテレスの学問の中心地だった。ここで彼は、という先生に出会う。ユダヤ系の哲学者で、アラビア語で伝わったアリストテレスに詳しかった。ピコは三年間、彼のもとでアラビアとユダヤの哲学を学んだ。1483年にはパヴィア大学へ移り、スコラ学の論理を鍛えた。スコラ学(とも呼ぶ)は、中世の大学で教えられた神学と哲学である。
西のラテン語と、東のアラビア語やヘブライ語。二つの世界の言葉が、20歳の頭の中で並び始めていた。次の行き先は、当時のイタリアで最も学者が集まる町だった。
03四つの言語と、一つの真理
1484年春、21歳のピコはフィレンツェへ上った。町を治めるのは、ロレンツォ・デ・メディチ。「豪華王」と呼ばれた人物である。そのまわりには、当時最高の学者たちが集まっていた。哲学者マルシリオ・フィチーノ、詩人。ピコはこの輪に加わった。
フィチーノは、すでに『』を書き上げていた。プラトンの全著作をラテン語に訳している最中でもあった。、つまりプラトンの思想を神と魂の話へ深めた学問の第一人者である。若いピコは、そこから深く学んだ。だが彼は、老師にはない道を一つ加える。ヘブライ語と、カバラだった。
カバラとは、ユダヤ教に伝わる秘密の教えである。家庭教師に雇ったのは、。ユダヤ教からキリスト教に改宗した学者である。ピコはこの男に、カバラの本を大量にラテン語へ訳させた。1485年からはパリ大学(ソルボンヌ)に身を置き、スコラ神学の最前線を学んで戻った。
こうしてピコは、四つの言語を使えるようになった。ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、アラビア語。当時のヨーロッパでは、めったにいない学者だった。アラビア語では、アヴェロエス、アヴィセンナ、を読んだ。いずれも、イスラム世界の大哲学者である。
彼には一つの確信があった。プラトンとアリストテレスは、根っこでは一致する。、オルフェウス、ピタゴラス、ゾロアスター。古代の賢者たちは、同じ真理を別々の言葉で語ったのだ。この考えは prisca theologia(古代神学)と呼ばれる。カバラでさえ、キリスト教の三位一体の教えを隠れた形で語っている、と彼は考えた。ならば、そのすべてを一つの机に並べたら、どうなるか。23歳の伯爵は、それを本当にやろうとした。
04ローマに、世界の学者を呼ぶ
1486年12月、23歳のピコはローマで一冊の本を刊行した。『900の命題(Conclusiones nongentae)』である。アリストテレス、プラトン、ヘルメス文書、カバラ。アラビア哲学、スコラ学、教父の教え、そして彼自身の考え。そこから選んだ900の題を、短いラテン語の文で並べた。世界中の哲学の、見取り図だった。
彼は翌1487年に、この命題を公開で討論するつもりだった。ヨーロッパ中の学者をローマへ招く。旅費は自分が払う、と宣言した。印刷術が学者の机を変え始めた時代である。青年伯爵の呼びかけそのものが、新しい知のやり方だった。討論の冒頭で読み上げる演説も書いた。それが『』である。原題は Oratio de hominis dignitate という。ただしこの題名はピコ自身のものではなく、16世紀の編集者が付けた。
教皇インノケンティウス8世は、討論を禁じた。1487年2月、900のうち13命題を異端と判定した。異端とは、教会の正しい教えに反する、という宣告である。これがである。問題になったのは、自然魔術は神学と両立するという命題。カバラはキリストの神性を証明するという命題。地獄の罰は永遠ではない、という命題などだった。
ピコは急いで『弁明(Apologia)』を書いて反論した。だが逆効果だった。1487年8月、900命題すべてが異端と宣告される。ピコはフランスへ逃げた。1488年初め、リヨンの近くでフランス王シャルル8世の役人に捕まる。ヴァンセンヌの塔に、短いあいだ投獄された。
助けたのは、フィレンツェのロレンツォ・デ・メディチだった。ロレンツォの介入で釈放され、ピコは1488年春にフィレンツェへ戻る。以後、彼は(ひご)のもとで暮らした。教会からの正式な免罪は、1493年6月まで待つことになる。討論は、ついに一度も開かれなかった。では、読み上げられなかったあの演説には、何が書かれていたのか。
05『人間の尊厳について』
『人間の尊厳について』は、短い演説文である。冒頭でピコは、神が人間を創る場面を、聖書とは違う形で書いた。神は人間を世界の真ん中に置き、こう語る。
天上の父なる神は、人間を世界の中央に置き、こう語った。「我は汝を、いかなる定まった場所も、いかなる特有の姿も、いかなる特定の務めも与えず創った。これは汝が、自らの意志と判断により、汝が望む場所・姿・務めを得るためである。他の被造物の自然は、我が定めた法の内に制約されている。しかし汝は、いかなる制約にも縛られず、我が汝を置いた汝自身の自由な裁量者として、自らの自然を自ら定めるのだ」
他の生き物には、生まれつき決まった形と役目がある。鳥は鳥として、獣は獣として生きる。人間だけが、それを持たない。自分の望む場所と姿を、自分の判断で選べる。神の言葉は、さらに続く。
我々は汝を、天のものとも地のものとも、死すべきものとも不死のものともしなかった。それは汝が、自ら選び取る形のうちに、自由かつ誉れある彫塑家として自らを形作るためである
ピコは人間を「カメレオン」にたとえた。下へ降りれば、植物のように、獣のように生きる。上へ昇れば、天使のように、神の知性のように生きる。どちらにもなれる。この位置の不定さこそ人間の尊厳だ、と彼は言う。
ただし、ピコの自由は「何でも好き勝手に」ではない。選べる道は、上も下も、すべて神が用意したものだ。人間は、神の秩序の中で選ぶ。けれど、どれを選ぶかの責任は人間にある。選ぶことで、人は自分を作る。この自己形成の自由が、演説の中心にある。
この演説はピコが生きているあいだ、独立した本にはならなかった。900の命題の付録という扱いだった。ローマの討論が禁じられた以上、読み上げられる場もなかった。人は何にでもなれる。そう書いた本人は、このあと思いもよらない方向へ自分を作りかえていく。
06フィレンツェの晩年、サヴォナローラへの傾倒
フィレンツェに戻ったピコは、フィチーノのプラトン・アカデミーの若い仲間として過ごした。書物も次々に生まれた。1489年の『七重論(Heptaplus)』は、聖書の創世記をカバラで読み解く。つまりである。1492年には『(De ente et uno)』を書いた。ポリツィアーノとの対話から生まれた小さな本だった。占星術を批判する『占星術反駁』も書き始めたが、完成しなかった。
同じころ、彼の心は大きく動いていた。1490年、メディチ家の招きで一人の修道士がフィレンツェに戻ってきた。ジロラモ・サヴォナローラ、ドミニコ会の説教者である。サン・マルコ修道院で、彼は激しい説教を始めた。教会の腐敗を、世の中のぜいたくを、聖書の預言者のように責めた。
ピコは、この説教に深く心を打たれた。1493年ごろには、自分もドミニコ会に入ろうと決めていた。実行には至らなかったが、財産の一部を手放した。豪華な蔵書は弟子たちに分け与え、質素な暮らしに入った。1492年には、庇護者ロレンツォも世を去っていた。
『人間の尊厳について』で自由を歌った青年が、数年後には世の終わりを説く修道士に従った。このをどう見るかは、後の研究者が長く論じる問題になる。だがその前に、彼の「自由」の中身を、もう少し正確に見ておきたい。ピコに残された時間は、あと二年だった。
07分析──ピコの「自由」と、その後の読まれ方
四言語の構想は、フィチーノの新プラトン主義を継承しつつ、範囲を決定的に広げた。フィチーノがプラトンとプロティノスを軸に古代神学を語ったのに対し、ピコはヘブライとアラビアまで組み込み、ルネサンス人文主義の知の地図を決定的に拡張した。プラトンとアリストテレスは究極的には調和するという主張(『プラトンとアリストテレスの一致について』、未完)、ユダヤのカバラを古代モーセ以来の秘教伝承としてキリスト教の三位一体論の隠された証言と読む発想は、キリスト教カバラの最初の体系的試みである。後世の用語でいえば、これは諸伝統を一つの真理の別相として読む宗教的折衷主義(syncretism)の最も野心的な試みのひとつとなる。
『人間の尊厳について』冒頭の創造場面の哲学的意義は大きい。スコラ神学では、すべての被造物には定まった本質(essentia)があり、人間もまた理性的動物という本質に縛られる。ピコはここで、人間にのみ本質の不定さ(indeterminatus)、すなわち位置の不定さを与え、自己を自ら形成する自由を中心に据えた。これは単なる讃美詩ではなく、存在論の一手である。
注意すべきは、ピコの「自由」は近代的な自律(autonomy)ではない点である。人間は神の秩序の中で選択するのであり、下位の生き方も上位の生き方も神によって準備されている。しかし選択の責任は人間に属し、選択によって人間は自らを形成する。この自己形成の自由の哲学が、後のサルトル「」まで、ルネサンスから実存主義への長い弧を描く。
ピコの精神的転回をどう読むかは、ルネサンス研究の長い論点である。『人間の尊厳』で自由を讃えた青年が、数年後に終末論的修道運動に傾倒した──これは変節か、同じ一つの霊的探求の別相か。近年の研究は、彼の中に一貫してあったのは神と直接触れる道の探求であり、カバラもサヴォナローラもその別経路だったとする読みが主流である。占星術を批判した『占星術反駁(Disputationes adversus astrologiam divinatricem)』(未完、死後1496年刊行)も、自由を守るために決定論的占星術を退けるものであり、後のケプラー・ガリレオの科学革命に間接的影響を与えた。
ピコの書は死後、甥ジャン・フランチェスコ2世によって編纂・刊行された(1496年版『ピコ著作集』)。『人間の尊厳について』は生前は序文として独立刊行されず、この遺稿集に900命題の付録として収められたが、世紀を経るごとに独立した宣言文として読まれるようになる。19世紀の『イタリア・ルネサンスの文化』がこれを「ルネサンス精神の最高の証言」と称揚し、以後の近代的ルネサンス像の核となった。20世紀、エルンスト・カッシーラー『個と宇宙──ルネサンス哲学の問題』(1927)は、ピコをルネサンス思想の頂点に位置づけた。エウジェニオ・ガレンのイタリア系ルネサンス研究は、ピコの東西統合的構想を「近代以前のもう一つの知の可能性」として再評価した。今日、ピコはしばしば人間中心主義(humanism)の最初の明確な宣言者として引用される。ただしその「人間」は近代的主体ではなく、神の自由の裡で自らを形成する可能性の存在であった。
08再び、1494年11月17日
1494年11月17日。ピコは熱に倒れ、数日のうちに死んだ。31歳。同じ日、シャルル8世の軍が城門に着いた。メディチ家は追われ、サヴォナローラの町が始まる。
サヴォナローラは、ピコを絶賛する追悼の説教を行った。そして、サン・マルコ修道院への埋葬を許した。ピコは遺言で、ドミニコ会士の死装束を願っていた。
長いあいだ、死因は熱病とされてきた。だが毒殺の噂は、当時から残っていた。1990年代から2000年代にかけて、遺骨が調べられた。砒素(ひそ)中毒の痕跡が確認されたのである。同じ時期に急死した詩人ポリツィアーノの骨からも、砒素が出た。誰がやったのかは、わかっていない。秘書クリストフォロ・ディ・カザルマッジョーレらの関与が疑われた。背景には、ロレンツォの跡継ぎピエロの陣営との対立があった、とも言われる。確かな証拠はない。。これが、冒頭の二つ目の問いに加わった、思わぬ答えである。
では、一つ目の問いはどうか。なぜ、自由を語った男が、修道士の服を望んで死んだのか。ここまで読んだあなたには、もう自分の答えがあるかもしれない。彼が神の口を借りて書いた言葉を、もう一度だけ読んでみる。
我は汝を、汝自身の自由な裁量者として、汝自身の尊厳の鍛冶師として置いた
上へ昇る道を選ぶことも、彼の言う自由に含まれていた。それを思い出せば、答えは一つではない。
では、あなたはどうだろう。決まった形も、役目も持たずに生まれたとしたら。あなたは自分を、何の形に作るだろうか。
09主要な出来事と著作
- 2月24日、ミランドラ城のコンティ・デッラ・ミランドラ家に次男として誕生
- 父ジャン・フランチェスコ1世死去(4歳)、教皇庁付司祭志望として育てられる
- 14歳、ボローニャ大学で教会法を学ぶ
- フェラーラ・パドヴァ大学。エリア・デル・メディゴに師事しアラビア・ユダヤ哲学を吸収
- パヴィア大学に移りスコラ的論理学を補強
- フィレンツェへ、ロレンツォ・フィチーノ・ポリツィアーノのサークルに参入
- パリ大学(ソルボンヌ)でスコラ神学の最前線を学ぶ
- ローマで『900の命題』自費刊行、序文として『人間の尊厳について』執筆
- インノケンティウス8世が13命題を異端判定、ローマでの討論禁止
- 『弁明』刊行後、全900命題が異端と宣告される
- リヨン近郊で逮捕・短期投獄、ロレンツォの介入で釈放、フィレンツェへ
- 『創世記注解(Heptaplus)』刊行
- 『存在と一について(De ente et uno)』
- ロレンツォ・イル・マニフィコ死去、サヴォナローラの説教に深く感化
- 新教皇アレクサンデル6世による正式な免罪
- シャルル8世イタリア侵攻、メディチ家追放の動乱が始まる
- フィレンツェで急死、31歳。サン・マルコ修道院に埋葬
- 甥ジャン・フランチェスコ2世による著作集刊行(『占星術反駁』含む)
- 遺骨のDNA・元素分析で砒素中毒が裏付けられる
残した思想の輪郭
- 人間の位置の不定さ ─ 本質を持たず自ら形成する存在、ルネサンス人文主義の独立宣言
- 四言語の横断 ─ ラテン・ギリシア・ヘブライ・アラビアで東西の思想を一つの机に並べる
- 古代神学(prisca theologia) ─ ヘルメス・オルフェウス・ゾロアスター・モーセを同一真理の複数の言語として読む
- キリスト教カバラ ─ ユダヤ秘教伝承をキリスト教神学に統合する最初の体系的試み
- 自己形成の自由 ─ カメレオン的存在としての人間、サルトルの実存主義まで弧を描く主題
- 占星術批判 ─ 自由を守るため決定論的占星術を退ける、科学革命への間接的先駆
- 31歳での未完 ─ 統合体系は書かれず、断片と演説文だけが残された
つながり
- マルシリオ・フィチーノ
伴走 — プラトン・アカデミーの周辺で交わった年長の師兄 — ヘルメス思想を共に分かち合った人。
- トマス・アクィナス
先駆 — 900のテーゼに引き受けられたスコラ神学の諸命題 — 「トマス主義」にその名を残す神学者。
- モンテーニュ
共鳴 — 人間の可変性と自己形成 — 同じ主題が『エセー』の内省と遠く響き合う、後代の随想家。
さらに読むならFurther Reading
ピコ・デラ・ミランドラの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門人間の尊厳について
ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ / 訳: 大出哲・阿部包・伊藤博明 / 国文社
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生きた跡を辿るPlaces
ピコ・デラ・ミランドラが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- サン・マルコ修道院(フィレンツェ)墓所
フィレンツェ, イタリア
ピコ・デッラ・ミランドラが 31 歳で急逝し葬られたドミニコ会修道院
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