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マルシリオ・フィチーノ

Marsilio Ficino·1433–1499·ルネサンス期イタリア·

千年沈黙していた哲学を、 翻訳で甦らせることはできるか?

メディチ家の庇護のもと、プラトン全集と新プラトン主義をラテン語へ移したアカデミー復興者

  • 新プラトン主義
  • プラトン・アカデミー
  • 神的狂気
  • ヘルメス文書
  • カレッジ

時代の空気

クアトロチェントのフィレンツェだ。コジモ・デ・メディチの庇護のもとで銀行業の富が芸術と学問へ流れ、一四五三年のコンスタンティノープル陥落で東方の写本がイタリアへ移ってきた。一四三八年フェラーラ・フィレンツェ公会議で講じたプレトンのプラトン主義が触媒となり、千年眠っていたギリシャ哲学が呼び戻されようとしていた。ロレンツォとピコ・ポリツィアーノらの「神々の食卓」、ヘルメス文書とカバラと占星医学の併存。一四九二年にプロティノスが訳し終わる年にロレンツォは没し、二年後にはサヴォナローラの焼却が広場を焦がす。一四九二年、海の彼方ではアメリカが「発見」されようとしていた。

01フィリーネの医師の子、コジモのサークル

1433年10月19日、フィレンツェ南東約30キロのフィリーネ・ヴァルダルノで生まれた。父ディオティフェーチ・ディエルモ(Diotifeci d'Agnolo)は医師で、コジモ・デ・メディチ(1389-1464、「祖国の父」とも呼ばれた政治家・銀行家)の主治医を務めていた。父との縁でメディチ家の知遇を得たことが、後年のすべての出発点となる。父はフィチーノをフィレンツェ大学で医学を学ばせる予定で、実際彼はラテン語、哲学、医学を学んだ。最初の哲学の師はアリストテレス研究者ニッコロ・ティニョージ(Niccolò Tignosi)で、彼の下でフィチーノは学園哲学の素養を身につけた。

しかしコジモはこの少年の哲学的才能を見抜いた。1438-1439年のフェラーラ・フィレンツェ公会議で、東方正教会の代表団がフィレンツェに滞在、ビザンツの哲学者ゲミストス・プレトン(1355頃-1452)がプラトン主義を講じた。プレトンは「プラトンをラテン世界に戻すべきだ」とコジモに説き、コジモは感銘を受けた。しかしプラトン全集のラテン訳者となる人物が、当時の西欧にはいなかった。

1462年、29歳のフィチーノにコジモはフィレンツェ郊外カレッジ・ヴェッキオの邸宅ていたくを与え、ギリシア語写本しゃほんと経済的支援を提供した。コジモの意図は明確だった──フィチーノにプラトン全集のラテン訳を完成させることである。フィチーノは与えられた使命を受け入れ、以後37年間、この別荘を拠点に翻訳事業ほんやくじぎょうと著述に専念する。

彼の気質には、学者としての集中力と、敬虔な信仰が並存していた。1473年12月18日、40歳のときに司祭叙階しさいじょかいを受け、カトリック聖職者として残りの人生を送った。生涯独身を通し、教区司祭としての務めも兼ねた。彼にとってプラトンの復興はキリスト教信仰と対立するものではなく、古代神学(prisca theologia)──モーセ、ヘルメス、オルフェウス、ピタゴラス、プラトンに遡る同一の神的真理──の復活だった。

02ヘルメス文書の翻訳、プラトンの前に

コジモに託されたプラトン全集の仕事は、しかし最初から順序どおりには進まなかった。1463年、フィチーノは予定されていた翻訳を中断して、別の写本しゃほんの翻訳を優先することを命じられた。コジモが死期を感じており、プラトン全集を待つ時間がなかったためである。その写本とは、マケドニアからコジモの使者レオナルド・ダ・ピストイアが入手したヘルメス文書(Corpus Hermeticum)──古代エジプトの神ヘルメス・トリスメギストスに帰される14篇のギリシア語哲学文書群である(実際の成立は紀元後1-3世紀頃、新プラトン主義的・グノーシス的世界観を含む)。

フィチーノは『(Pimander)』(ヘルメス文書第1巻の標題、実際には全14篇をまとめた翻訳の通称)として1463年にラテン訳を完成、序文『アルグメントゥム』を付してコジモに献呈した。プラトン全集の翻訳事業の方は中断され、ヘルメスの方が先に届けられた──コジモの臨終に間に合わせるためだった。コジモはこの献呈の1年後に死去した。『ピマンデル』は1471年に印刷刊行され、以後16-17世紀を通じてヨーロッパ中で熱狂的に読まれた。

ヘルメス文書の翻訳は、フィチーノの哲学観の出発点を定めた。彼はヘルメスをモーセと同時代の古代エジプトの賢人と信じ(当時の文献学的見解としては珍しくなかった)、ヘルメスが語る一なる神・精神の上昇・世界の霊的生命の教説を、プラトン主義とキリスト教の共通の源流と位置づけた。これが彼の古代神学の理論枠である。

なお、1614年スイスの文献学者イザーク・カゾボンがヘルメス文書を文献学的に分析し、これが古代エジプトの古文書ではなく紀元後数世紀のギリシア語文書であることを実証した。これでルネサンス的ヘルメス主義の歴史的基盤は崩壊するが、16世紀にはまだヘルメスはモーセと同時代の最古の神学者として讃えられていた。

03プラトン全集のラテン訳(1484)

1463年から1469年頃にかけて、フィチーノはプラトン全集ぜんしゅう全対話篇のラテン訳の第一稿を完成した。当時ラテン世界で読めたプラトンの対話篇は、レオナルド・ブルーニら前世代人文主義者が訳出した数篇(『弁明』『クリトン』『パイドン』など)に限られ、全集を通読できる状況は千年近く失われていた。

フィチーノの翻訳は、逐語訳ではなく文脈に沿った意訳の方針を採った。ギリシア語の原語概念(エロース、ロゴス、ヌース、プシュケー)を、ラテン世界で理解可能な語に変換し、注釈と序文(アルグメントゥム=概要)を各対話篇に付した。この注釈と概要は、対話篇本体と並んでルネサンス全体に影響を与えることになる。

1484年、プラトン全集はフィレンツェで印刷刊行された。印刷術の普及と重なった時期であり、この版は短期間でヨーロッパ中の大学と私立書斎に浸透した。ロレンツォ・イル・マニフィコ(コジモの孫)が費用を負担し、献辞はロレンツォに捧げられた。

続いて1484-1492年にかけて、フィチーノはプロティノス『エネアデス(九書集)』の全ラテン訳を完成、1492年に刊行(献辞はロレンツォの死の直前に書かれた)。プロティノスは新プラトン主義の頂点をなす3世紀の哲学者で、『エネアデス』の全訳はそれまで存在しなかった。これでプラトン→プロティノス→プロクロスの新プラトン主義の主要テクスト群が、ラテン世界で直接読めるようになった。

さらに彼はディオニュシオス・アレオパギテース(6世紀の偽作と判明する神秘神学著作、当時は新約聖書時代の作と信じられていた)やヤンブリコス『神秘について』、シュネシオス『夢について』、プロクロスのいくつかの註解を訳出した。一人の人間が生涯に翻訳した古典の量として、ヨーロッパ史上最も多い仕事の一つである。

04『プラトン神学』──18巻の新プラトン主義体系

翻訳の傍ら、フィチーノは自らの哲学的主著『──魂の不滅性について(Theologia Platonica de immortalitate animorum)』全18巻を1482年に刊行した(執筆は1469-1474頃)。タイトルは偽書『ディオニュシオス・アレオパギテースの神学』(当時「神学」という語はそれだけで新プラトン主義的・神秘主義的含意を帯びていた)を踏まえる。

この書の核心主題は魂の不滅性である。アリストテレス主義では個別魂の不滅性は論争的で、パドヴァのアヴェロエス派は集合的知性による不滅のみを認め、個別魂の死後存続を疑っていた。フィチーノはこれに対し、プラトン、プロティノス、アウグスティヌスを統合して、個別魂の不滅・上昇・神との合一を論証しようとした。

18巻の構成は、存在の階層秩序──神、天使的知性、世界霊魂、理性的魂、身体の五段階──を設定し、魂がこの階層の中間項として位置づけられることから始まる。魂は上位(知性界)と下位(物質界)の両方に関わる両義的存在であり、この両義性ゆえに上昇も堕落も可能である。彼は人間魂の尊厳をここに見出した。ピコ『人間の尊厳について』(1486)の「位置の不定さ」の議論は、このフィチーノの階層論から直接の刺激を受けている。

1489年、フィチーノは占星術せんせいじゅつ的・医学的な実用書『(De vita libri tres)』を刊行、同時代の読者層を大きく広げた。第3巻「天上的生を得ること」は、土星の陰鬱な影響を持つ学者が天上的音楽・薬草・食事・光によって身体と霊を整えるための実践論で、メランコリア気質の学者への自己治療法として後世に読まれた。デューラーの版画『メランコリアI』(1514)の背景にあるメランコリア讃美の思想源は、このフィチーノの書にまで辿れる。

05『愛について』──プラトン・アカデミーの共同体

1469年、フィチーノはプラトン『饗宴』の注釈『愛について(De amore)』を執筆した。この書は7つの演説から成り、愛の神聖な階梯を描く。美しい身体から美しい魂へ、美しい魂から美そのものへ──プラトン『饗宴』のディオティマの教説を、キリスト教的な神への上昇として読み替えた。

『愛について』は後世「プラトニック・ラブ」という概念の源流となった。身体を介さない精神的愛──ただしフィチーノ自身のテクストでは、精神的愛は身体的愛を否定するのではなく、経由して昇華するものである。後代の俗流化で「身体を含まない愛=プラトニック」となったのは、フィチーノの本意とは必ずしも一致しない。

この書はまた、フィチーノ周辺の知的共同体の実態も映す。1468年11月7日、プラトンの生誕日(と推定される日)のカレッジ・ヴェッキオでの饗宴きょうえんの模様を記録する形式で書かれており、ロレンツォ・イル・マニフィコ、詩人クリストフォロ・ランディーノ、ジョヴァンニ・カヴァルカンティ(フィチーノの愛弟子で理論的対話相手)らが登場する。

このが制度化された大学のような存在だったかは、近年の研究で否定的に読まれている。実態はフィチーノのサークル──郊外の別荘での読書会、饗宴、書簡交換、個別指導の集合体──、いわば食卓友人圏しょくたくゆうじんけんである。しかし後世のイタリア・フランスのアカデミア運動(16-17世紀のリンチェイ、クルスカ、フランス・アカデミー)はこれを制度化の範型として意識した。

1484年にはピコが、1485年頃からはポリツィアーノ、ナルディらがフィチーノのサークルに参入する。彼らは全員フィチーノより若く、彼を先達として尊敬したが、同時に独自の方向へ拡張した。ピコはカバラとアラビア哲学で枠を広げ、ポリツィアーノは厳密な文献学へ向かい、フィチーノの合一的神秘主義とは少しずつ異なる道を歩んだ。

06神的狂気・サヴォナローラ・晩年の動揺

プラトン『パイドロス』で論じられる神的狂気(theia mania)──予言的狂気、秘儀的狂気、詩的狂気、愛の狂気の四種──を、フィチーノは自らの哲学の中核概念の一つとして展開した。理性を超える魂の上昇の状態であり、通常の理性的思考を一時中断して神的なものに触れる経験を指す。

彼はこの概念を、詩人の霊感(ムーサの狂気)、神秘家の恍惚こうこつ、恋する者の忘我、哲学者の観想かんそうに適用した。ルネサンス芸術論の芸術家=霊感に打たれた者という観念(後のロマン派芸術家観への遠い先駆)は、この枠組みから育った。

1490年代、フィレンツェにジロラモ・サヴォナローラ(ドミニコ会修道士、1452-1498)の黙示録的説教が吹き荒れた。虚飾の焼却(1497)、メディチ家の追放(1494)、フランス王シャルル8世のイタリア侵入(1494)に乗じた神政しんせい共和国の一時成立──この激動の中で、ピコはサヴォナローラに深く傾倒し、ピコの親友ポリツィアーノも同様だった。フィチーノもまた当初は彼に賛同する側に立ち、説教を聴き、修道士を支持する書簡を残している。

しかし1498年5月にサヴォナローラが火刑となった後、フィチーノは教皇アレクサンデル6世宛の書簡で、サヴォナローラを偽預言者として激しく批判した。この書簡は近年、フィチーノの弱さの証言として批判的に読まれる。公然と支持していた時期があった彼が、処刑後は距離を置いたことは、恩寵の薄い転回として記録される。年齢65の老学者が、フィレンツェの政治の振れ幅に追いつけなかった、と読むこともできる。

晩年、フィチーノは占星術・自然魔術しぜんまじゅつの疑いで教皇庁から調査を受けた。『人生三書』第3巻の惑星音楽・霊的呼び込みの記述が、キリスト教的には疑わしいとされた。1489年に教皇インノケンティウス8世に弁明書を送り、公式の処分は免れたが、最晩年まで彼はこの疑惑の影の下で書き続けた。

07新プラトン主義復興の系譜──ピコ・ブルーノへ

フィチーノの直接の後継は(1463-1494)である。ピコはフィチーノの新プラトン主義を受け継ぎつつ、ヘブライ・カバラとアラビア哲学を統合対象に加えて枠を広げた。ピコは1494年に31歳で急死したため、フィチーノが31歳年上のピコを弔うとむらうかたちとなった。フィチーノのピコ追悼書簡には、年長者の深い哀惜あいせきが残る。

フィチーノの影響は次世代さらに広がった。ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)は、フィチーノのヘルメス主義を継承しつつ、無限宇宙論と汎神論の方向に急進化し、1600年にローマで火刑となった。ブルーノはフィチーノを直接引用するが、彼の無限は、フィチーノが保っていた有限の階層秩序を突破する。

フランシス・イェイツ(20世紀の英文化史家)は『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』(1964)で、フィチーノ-ピコ-ブルーノの系譜をルネサンス・ヘルメス主義として再構成し、これが科学革命の地下水脈として機能したと主張した。この解釈は論争を呼んだが、フィチーノの重要性を20世紀に再発見させる触媒となった。

フランス・ルネサンス(マルグリット・ド・ナヴァール、モンテーニュ)、英国ルネサンス(スペンサー、シェイクスピア)、ドイツ神秘思想(ベーメ)、ケンブリッジ・プラトン学派(17世紀英)まで、フィチーノの『』は3世紀にわたってヨーロッパ知識人のプラトン読解の標準テクストであり続けた。ギリシア語原典からの新訳が普及するのは18-19世紀のことである。

1499年10月1日、66歳のフィチーノはカレッジ・ヴェッキオの自宅で静かに死去した。フィレンツェ大聖堂(ドゥオモ)に埋葬され、17世紀に胸像が建てられ、今も見ることができる。

08主要な出来事と著作

  1. 10月19日、フィレンツェ郊外フィリーネ・ヴァルダルノに医師ディオティフェーチの子として誕生
  2. コジモ・デ・メディチからカレッジ・ヴェッキオの邸宅とギリシャ語写本を与えられプラトン翻訳事業に着手
  3. 『ピマンデル(ヘルメス文書)』ラテン訳完成、序文を付してコジモに献呈
  4. コジモ・デ・メディチ死去、ロレンツォ・イル・マニフィコによる継承
  5. プラトン全集ラテン訳第一稿完成、『愛について(De amore)』執筆
  6. 『プラトン神学』全18巻執筆
  7. 12月18日、40歳で司祭叙階
  8. 『プラトン神学』刊行
  9. 『プラトン全集』ラテン訳印刷刊行(フィレンツェ)
  10. 『人生三書』刊行、占星術と自然魔術の疑いで教皇インノケンティウス8世に弁明書
  11. プロティノス『エンネアデス』ラテン訳刊行、ロレンツォ・イル・マニフィコ死去
  12. シャルル8世のイタリア侵入、メディチ家追放、サヴォナローラ神政共和国
  13. サヴォナローラ火刑、フィチーノは批判書簡を教皇庁に送る
  14. 10月1日、カレッジ・ヴェッキオで死去、享年66

残した思想の輪郭

  • プラトン全集ラテン訳(1484) ─ 千年ぶりの西欧への本格的プラトン全集、3世紀にわたる標準テクスト
  • プロティノス『エネアデス』ラテン訳 ─ 新プラトン主義の源流を西欧に開く
  • ヘルメス文書『ピマンデル』 ─ 古代神学(prisca theologia)の構想の出発点
  • プラトン神学 ─ 魂の不滅性論、存在の階層秩序、ピコの人間論への刺激
  • 愛の形而上学 ─ 『饗宴』注釈、愛を神への上昇の経路とする階梯
  • 神的狂気(theia mania) ─ 理性を超える魂の上昇、ルネサンス芸術家論の基盤
  • プラトン・アカデミー ─ 制度化された大学ではなくサークル、後世アカデミア運動の象徴的範型
  • メランコリア論 ─ 『人生三書』の土星的学者論、デューラーの版画まで到達する地下水脈
1499年10月1日、フィレンツェ近郊カレッジ・ヴェッキオの自宅で66歳で死去。最期まで教皇庁からの文書と格闘していたと伝わる。遺体はフィレンツェ大聖堂(ドゥオモ)に埋葬された。
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  • 文脈二次資料で確認済み研究上論争あり

    研究上論争あり: しかし1498年5月にサヴォナローラが火刑となった後、フィチーノは教皇アレクサンデル6世宛の書簡で、サヴォナローラを偽預言者として激しく批判した。この書簡は近年、フィチーノの弱さの証言として批判的に読...

  • 文脈原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: ficino-1 context は、Marsilio Ficino『De amore』(Commentarium in Convivium Platonis de amore、1469 年成、148...

    一次資料を開くOxford Cabinet 学術資料。1469 年成立、1484 年印刷、Plato 全集ラテン訳と同年刊行を canonical 確認

  • 解釈原典で確認済み要旨訳

    要旨訳: ficino-2 context は、Marsilio Ficino『Quaestiones quinque de mente』(心の哲学小著、1476 年頃成、後に Theologia Platon...

    一次資料を開くI Tatti Renaissance Library critical edition (Allen/Hankins, 2001-2006, 6 vols)。...

  • 抜粋二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 愛は魂を被造物から被造物の創造主へ、そして被造物の創造主から被造物へと動かす二重の輪の回転である

  • 出典二次資料で確認済み研究上論争あり

    研究上論争あり: ficino.mdx pullsource '『愛について(De amore)』第2演説、1469年執筆、1484年刊行' の attribution 評価。Marsilio Ficino, Comm...

  • 引用二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 意志は、それ以上の善を超えて何もない、あの唯一の善によってのみ満たされる ― それ以外のものでありえない、境界を持たない神によってのみ

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

マルシリオ・フィチーノが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • フィレンツェ大聖堂 フィチーノ記念碑ゆかり

    フィレンツェ, イタリア

    1499年カレッジ(Careggi)で没、大聖堂の聖職者として記念碑が1521年アンドレア・フェッルッチにより制作。白大理石の肖像胸像が残る

さらに辿るならExternal References

マルシリオ・フィチーノを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。

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