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マルシリオ・フィチーノ

Marsilio Ficino·1433–1499·ルネサンス期イタリア·

千年だれも読めなかった本を、 一人の手で読める形に戻せるか?

メディチ家の庇護のもと、プラトン全集と新プラトン主義をラテン語へ移したアカデミー復興者

  • 新プラトン主義
  • プラトン・アカデミー
  • 神的狂気
  • ヘルメス文書
  • カレッジ
銀行家の金で、千年眠っていたギリシャの本が目を覚まそうとしていた街 — ひらく

時代の空気

クアトロチェントのフィレンツェだ。コジモ・デ・メディチの庇護のもとで銀行業の富が芸術と学問へ流れ、一四五三年のコンスタンティノープル陥落で東方の写本がイタリアへ移ってきた。一四三八年フェラーラ・フィレンツェ公会議で講じたプレトンのプラトン主義が触媒となり、千年眠っていたギリシャ哲学が呼び戻されようとしていた。ロレンツォとピコ・ポリツィアーノらの「神々の食卓」、ヘルメス文書とカバラと占星医学の併存。一四九二年にプロティノスが訳し終わる年にロレンツォは没し、二年後にはサヴォナローラの焼却が広場を焦がす。一四九二年、海の彼方ではアメリカが「発見」されようとしていた。

01プラトンはあとだ、先にこれを訳せ

1463年、フィレンツェ郊外の丘、カレッジ・ヴェッキオ。マルシリオ・フィチーノは、前の年にこの邸宅ていたくを与えられたばかりだった。与えたのは、この街を動かす銀行家コジモ・デ・メディチである。使命はただ一つ、プラトンの本を全部ラテン語に訳すこと。千年近く、西ヨーロッパの誰も全部は読めなかった本だ。

ところがその年、コジモから命令が届く。プラトンは後回しにし、先に別の写本しゃほんを訳せ、というものだった。届いたのは、コジモの使いレオナルド・ダ・ピストイアがマケドニアから持ち帰ったギリシア語の文書だった。古代エジプトの神の教えとされる、14篇の書き物である。

コジモは自分の死が近いと感じていた。プラトン全集の完成を待つ時間は、もう残っていなかった。フィチーノは言われた通り、プラトンの翻訳を中断した。そして14篇を訳し終え、『』と題して序文を付け、コジモに献呈けんていした。コジモはその翌年に死んだ。

プラトンを甦らせたいと願った男が、死を前にしてプラトンではない本を選んだ。なぜだったのか。答えは、この本が「誰の言葉」だと信じられていたかにある。そしてその信念は、フィチーノの一生を形づくることになる。時は25年前に戻る。

02公会議の客人と、医師の息子

1438年から翌年にかけて、フィレンツェに東方からの客が滞在した。教会の東西を結び直すための、フェラーラ・フィレンツェ公会議である。東方正教会の代表団の中に、ビザンツの哲学者がいた。プレトンはこの街でプラトンの哲学を講じ、コジモに説いた。プラトンをラテン語の世界に戻すべきだ、と。

コジモは心を動かされた。だが問題があった。プラトンの全集をラテン語に訳せる人物が、当時の西ヨーロッパにはいなかったのだ。夢は、訳し手が現れるまで眠ることになる。

その訳し手は、公会議の5年前に生まれていた。1433年10月19日、フィレンツェから南東に30キロほどのフィリーネ・ヴァルダルノ。父ディオティフェーチは医師で、コジモの主治医を務めていた。父はこの子を医者にするつもりで、フィレンツェ大学で医学を学ばせた。少年はラテン語と哲学も学び、最初の師はアリストテレス研究者のニッコロ・ティニョージだった。

しかしコジモは、主治医の息子に哲学の才能を見抜いた。1462年、フィチーノが29歳になる年、コジモは彼にカレッジ・ヴェッキオの邸宅を与えた。ギリシア語の写本と、暮らしの費用も添えて。のもと、フィチーノは以後37年間、この別荘で翻訳と著述を続ける。ただし最初に届けた一冊は、プラトンではなかった。

03モーセと同じ時代の賢者

ヘルメス・トリスメギストス。「三倍偉大なヘルメス」という意味の名を持つ、古代エジプトの神である。フィチーノは、この名で伝わる文書を、旧約聖書のモーセと同じ時代の賢人の言葉だと信じた。当時の学者の多くも同じ考えだった。つまりヘルメスは、プラトンよりずっと古い。人類最古の神学者、というわけだ。

だからコジモは、ヘルメスを先に求めたのだと考えられる。プラトンが学んだ源そのものが、そこにあると信じられていたからだ。文書の中身も、その期待にこたえるものだった。ただ一つの神、精神が上へ昇っていくこと、世界に霊の命が流れていること。フィチーノにはそれが、プラトン哲学とキリスト教の共通の源に見えた。

ここから彼の考えの枠組みが生まれる。(prisca theologia)である。モーセ、ヘルメス、オルフェウス、ピタゴラス、プラトン。この賢者たちは、同じ一つの神の真理を、時代を超えて受け渡してきたのだ、と。プラトンを甦らせることは、キリスト教に逆らうことではない。古い真理をもう一度つなぎ直すことだった。

『ピマンデル』は1471年に印刷され、その後200年ものあいだヨーロッパ中で熱心に読まれた。と呼ばれる流れの出発点である。ただし、この文書が本当にいつ書かれたのかは、まだ誰も疑っていなかった。その問いが立てられるのは、フィチーノの死から100年以上あとのことになる。

04千年ぶりのプラトン全集

ヘルメスを届けたあと、フィチーノはようやくプラトンに戻った。1463年から1469年ごろにかけて、全対話篇のラテン語訳の第一稿を仕上げる。それまでラテン語で読めたプラトンは、『弁明』『』『』など数篇だけだった。前の世代の人文主義者レオナルド・ブルーニらが訳したものである。全集を通して読める状態は、千年近く失われていた。

彼の翻訳は、一語ずつ置き換える方法をとらなかった。文脈にそって意味を移す方針である。エロース、ロゴス、、といったギリシア語の考え方を、ラテン語の世界でわかる言葉に変えた。さらに各対話篇に序文と注釈を付けた。この序文と注釈は、本文と並んでルネサンス全体に影響を与えることになる。

翻訳の途中、彼の人生には別の節目もあった。1473年12月18日、40歳で司祭叙階しさいじょかいを受け、カトリックの聖職者になったのである。生涯独身を通し、教区の司祭の務めも果たした。学者の集中力と、深い信仰心が、彼の中では並んで生きていた。

1484年、がフィレンツェで印刷された。印刷術が広まり始めた時期と重なり、この版は短い間にヨーロッパ中の大学と書斎に広がった。費用を出したのは、コジモの孫ロレンツォ・イル・マニフィコである。献辞もロレンツォに捧げられた。祖父が抱いた夢は、孫の代で本になった。

だがフィチーノの手は止まらなかった。1484年から1492年にかけて、プロティノスラテン訳を完成させる。プロティノスは3世紀の哲学者で、の頂点をなす人物だ。全訳はそれまで存在しなかった。献辞はロレンツォの死の直前に書かれた。ほかにもディオニュシオス・アレオパギテース、ヤンブリコス、シュネシオス、プロクロスの著作を訳した。一人の人間が生涯に訳した古典の量として、ヨーロッパ史で最も多い仕事の一つである。では、訳し続けた彼自身は、何を考えていたのか。

05丘の上の宴、愛について

1468年11月7日、カレッジ・ヴェッキオで饗宴きょうえんが開かれた。プラトンの誕生日と推定される日である。翌1469年、フィチーノはこの宴の記録という形で一冊の本を書いた。プラトン『饗宴』の注釈『愛について(De amore)』である。7つの演説から成り、席には若きロレンツォ・イル・マニフィコ、詩人クリストフォロ・ランディーノ、愛弟子ジョヴァンニ・カヴァルカンティらが登場する。

本の主題は、愛の階段だ。美しい身体から美しい魂へ、美しい魂から美そのものへ。プラトンの『饗宴』でディオティマが語る教えを、フィチーノはキリスト教の神への上昇として読み替えた。

愛は魂を被造物から被造物の創造主へ、そして被造物の創造主から被造物へと動かす二重の輪の回転である

— 『愛について(De amore)』第2演説、1469年執筆。1468年11月のプラトン誕生日の宴を記録する形で書かれた

この本は、のちに「プラトニック・ラブ」と呼ばれる考えの源になった。ただしフィチーノ自身の考えでは、精神の愛は身体の愛を否定するものではない。身体を通って、その先へ昇っていくものだ。「身体を含まない愛」という後の俗な使い方は、彼の本意とは必ずしも一致しない。

宴の記録は、フィチーノのまわりの集まりの姿も映している。この集まりは後世、と呼ばれた。だが大学のような組織だったわけではない。実態は、別荘での読書会、宴、手紙のやりとり、一対一の指導の集まりだった。いわば食卓友人圏しょくたくゆうじんけんである。

1484年にはが、1485年ごろからはやナルディが、この輪に加わった。全員フィチーノより若く、彼を先達として敬った。だが同時に、それぞれ別の方向へ歩き出す。ピコはカバラとアラビア哲学へ枠を広げ、ポリツィアーノは厳密な文献学へ向かった。師の輪は広がりながら、少しずつ師から離れていく。

06魂は死なない、と示したい

翻訳のかたわら、フィチーノは自分の哲学を書いていた。1469年から1474年ごろに書き、1482年に刊行した『──魂の不滅性について』全18巻である。「神学」という言葉は当時、それだけで新プラトン主義の神秘的な響きを持っていた。

この本の中心は、魂の不滅性だ。当時の大学ではアリストテレス派が強く、パドヴァのアヴェロエス派は、一人ひとりの魂が死後も残るかを疑っていた。認めるのは、人類に共通する知性が残ることだけである。フィチーノはこれに対して、プラトン、プロティノス、アウグスティヌスを一つに束ねた。一人ひとりの魂は死なず、上へ昇り、神と一つになる。それを筋道立てて示そうとしたのだ。

彼が描く世界は、五つの段になっている。神、天使の知性、世界の魂、人間の理性的な魂、そして身体。人間の魂はその真ん中にいる。上の世界にも下の世界にも関わる、両面を持った存在だ。だからこそ昇ることも、堕ちることもできる。フィチーノは人間の尊さをここに見た。ピコが『』(1486)で語る「位置の不定さ」は、この考えから直接の刺激を受けている。

意志は、それ以上の善を超えて何もない、あの唯一の善によってのみ満たされる ― それ以外のものでありえない、境界を持たない神によってのみ

— 『精神についての五つの問い(Quaestiones quinque de mente)』。人の心は何によって満たされるかを論じた小論の一節

1489年、彼はもっと実用的な本も出した。占星術と医学にもとづく『(De vita libri tres)』である。第3巻「天上的生を得ること」は、学者のための健康法だ。土星の暗い影響を受けやすい学者が、音楽、薬草、食事、光で身体と霊を整える方法を説く。憂うつな気質、メランコリアを抱える学者の自己治療の本として、後の世まで読まれた。デューラーの版画『』(1514)にひそむメランコリア讃美の思想は、この本までさかのぼれる。

しかしこの第3巻が、彼に影を落とすことになる。惑星の音楽や霊を呼び込む記述は、キリスト教の目には怪しく映った。同じ1489年、教皇インノケンティウス8世に弁明書を送り、の疑いによる処分は免れた。だが疑いの影は、死ぬまで消えなかった。

07狂気と、燃える広場

フィチーノの哲学には、もう一つ大きな柱があった。(theia mania)である。プラトン『パイドロス』に出てくる四つの狂気、すなわち予言の狂気、秘儀の狂気、詩の狂気、愛の狂気。理性を一時止めて、神的なものに触れる状態のことだ。フィチーノはこれを、詩人の霊感、神秘家の恍惚こうこつ、恋する者の忘我、哲学者の観想かんそうに当てはめた。芸術家とは霊感に打たれた者だ、というルネサンスの考えは、この枠から育った。

1490年代、フィレンツェの空気が変わる。の修道士ジロラモ・の説教が、街を揺さぶり始めたのだ。世の終わりを告げる、激しい説教だった。1494年、フランス王シャルル8世がイタリアに攻め込み、メディチ家は追放される。サヴォナローラは、神の掟で街を治める共和国を一時打ち立てた。1497年には「虚飾の焼却」が行われ、広場で贅沢品が燃やされた。

フィチーノの若い友人たちは、この修道士に深く傾いた。ピコも、ポリツィアーノもそうだった。フィチーノ自身も当初は賛同する側に立ち、説教を聴き、支持する手紙を残している。だがピコは1494年、31歳で急死した。ピコが生まれたのは、フィチーノがヘルメスを訳していたあの1463年である。30歳ほど年下の弟子を、老いた師が弔うとむらうことになった。追悼の手紙には、深い哀惜あいせきが残る。

1498年5月、サヴォナローラは火あぶりにされた。その後フィチーノは、教皇アレクサンデル6世に手紙を送る。そこで彼はサヴォナローラを偽の預言者として激しく批判した。かつて公然と支持した相手を、処刑のあとで切り捨てたのである。この手紙は近年、フィチーノの弱さの証言として批判的に読まれる。街の政治の振れ幅に、老学者が追いつけなかった、と読むこともできる。彼はどんな思いで、この手紙を書いたのだろう。

08新プラトン主義復興の系譜──ピコ・ブルーノへ

フィチーノの直接の後継はピコ・デッラ・ミランドラ(1463-1494)である。ピコはフィチーノの新プラトン主義を受け継ぎつつ、ヘブライ・カバラとアラビア哲学を統合対象に加えて枠を広げた。『人間の尊厳について』の人間論──存在の階層秩序のどこにも固定されない「位置の不定さ」──は、『プラトン神学』における魂の中間項論を、自由意志の礼賛へと転回したものと読める。

次世代ではジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)が、フィチーノのヘルメス主義を継承しつつ、との方向に急進化し、1600年にローマで火刑となった。ブルーノはフィチーノを直接引用するが、彼の無限は、フィチーノが保っていた有限の階層秩序を突破する。

フランシス・イェイツ(20世紀の英文化史家)は『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』(1964)で、フィチーノ-ピコ-ブルーノの系譜をルネサンス・ヘルメス主義として再構成し、これが科学革命の地下水脈として機能したと主張した。この解釈は論争を呼んだが、フィチーノの重要性を20世紀に再発見させる触媒となった。

制度史の面でも留保が要る。フィレンツェ・プラトン・アカデミーが制度化された大学のような存在だったかは、近年の研究で否定的に読まれている。実態はフィチーノのサークル──郊外の別荘での読書会、饗宴、書簡交換、個別指導の集合体──である。しかし後世のイタリア・フランスのアカデミア運動(16-17世紀のリンチェイ、クルスカ、フランス・アカデミー)は、これを制度化の範型として意識した。同様に『プラトン神学』の表題は偽書『ディオニュシオス・アレオパギテースの神学』を踏まえるが、当時「神学」という語はそれだけで新プラトン主義的・神秘主義的含意を帯びていた。そのディオニュシオス自身、当時は新約聖書時代の作と信じられ、後に6世紀の偽作と判明する神秘神学著作である。フィチーノの翻訳事業の年代観は、こうした誤認を複数抱えていた。

受容の広がりは3世紀に及ぶ。フランス・ルネサンス(マルグリット・ド・ナヴァール、モンテーニュ)、英国ルネサンス(スペンサー、シェイクスピア)、ドイツ神秘思想(ベーメ)、ケンブリッジ・プラトン学派(17世紀英)まで、フィチーノの『プラトン全集ラテン訳』はヨーロッパ知識人のプラトン読解の標準テクストであり続けた。ギリシア語原典からの新訳が普及するのは18-19世紀のことである。

09もう一度、1463年へ

もう一度、1463年のカレッジ・ヴェッキオに戻ろう。死を前にしたコジモが、プラトンより先に求めた本。それはヘルメス・トリスメギストスの言葉、つまり人類最古の神学者の言葉だと信じられていた。プラトンより古く、モーセと同じ時代の源。だから先に、だった。フィチーノはその信念を受け取り、古代神学という一本の糸で、ヘルメスからプラトン、そしてキリスト教までをつないだ。彼の一生の翻訳は、この糸をたどる旅だった。

だがこの本は、古代エジプトのものではなかった。1614年、スイスの文献学者イザーク・カゾボンが文書を言葉づかいから調べ、ヘルメス文書が紀元後数世紀のギリシア語文書であることを示した。ルネサンスのヘルメス主義は、歴史の土台を失う。フィチーノもコジモも、そのことを知らずに死んだ。

1499年10月1日、フィチーノはカレッジ・ヴェッキオの自宅で静かに死去した。フィレンツェ大聖堂(ドゥオモ)に埋葬され、17世紀には胸像が建てられ、今も見ることができる。彼が訳したプラトンは、その後300年、ヨーロッパの標準の本であり続けた。

土台の年代は間違っていた。だが、その間違いを信じた人の手で、千年眠っていたプラトンは目を覚ました。もし最初から正しい年代を知っていたら、コジモはこの若者に別荘を与えただろうか。間違った信念から生まれた本物の仕事を、私たちはどう呼べばいいのだろう。

10主要な出来事と著作

  1. 10月19日、フィレンツェ郊外フィリーネ・ヴァルダルノに医師ディオティフェーチの子として誕生
  2. コジモ・デ・メディチからカレッジ・ヴェッキオの邸宅とギリシャ語写本を与えられプラトン翻訳事業に着手
  3. 『ピマンデル(ヘルメス文書)』ラテン訳完成、序文を付してコジモに献呈
  4. コジモ・デ・メディチ死去、ロレンツォ・イル・マニフィコによる継承
  5. プラトン全集ラテン訳第一稿完成、『愛について(De amore)』執筆
  6. 『プラトン神学』全18巻執筆
  7. 12月18日、40歳で司祭叙階
  8. 『プラトン神学』刊行
  9. 『プラトン全集』ラテン訳印刷刊行(フィレンツェ)
  10. 『人生三書』刊行、占星術と自然魔術の疑いで教皇インノケンティウス8世に弁明書
  11. プロティノス『エンネアデス』ラテン訳刊行、ロレンツォ・イル・マニフィコ死去
  12. シャルル8世のイタリア侵入、メディチ家追放、サヴォナローラ神政共和国
  13. サヴォナローラ火刑、フィチーノは批判書簡を教皇庁に送る
  14. 10月1日、カレッジ・ヴェッキオで死去、享年66

残した思想の輪郭

  • プラトン全集ラテン訳(1484) ─ 千年ぶりの西欧への本格的プラトン全集、3世紀にわたる標準テクスト
  • プロティノス『エネアデス』ラテン訳 ─ 新プラトン主義の源流を西欧に開く
  • ヘルメス文書『ピマンデル』 ─ 古代神学(prisca theologia)の構想の出発点
  • プラトン神学 ─ 魂の不滅性論、存在の階層秩序、ピコの人間論への刺激
  • 愛の形而上学 ─ 『饗宴』注釈、愛を神への上昇の経路とする階梯
  • 神的狂気(theia mania) ─ 理性を超える魂の上昇、ルネサンス芸術家論の基盤
  • プラトン・アカデミー ─ 制度化された大学ではなくサークル、後世アカデミア運動の象徴的範型
  • メランコリア論 ─ 『人生三書』の土星的学者論、デューラーの版画まで到達する地下水脈
1499年10月1日、フィレンツェ近郊カレッジ・ヴェッキオの自宅で66歳で死去。最期まで教皇庁からの文書と格闘していたと伝わる。遺体はフィレンツェ大聖堂(ドゥオモ)に埋葬された。

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

マルシリオ・フィチーノが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • フィレンツェ大聖堂 フィチーノ記念碑ゆかり

    フィレンツェ, イタリア

    1499年カレッジ(Careggi)で没、大聖堂の聖職者として記念碑が1521年アンドレア・フェッルッチにより制作。白大理石の肖像胸像が残る

さらに辿るならExternal References

マルシリオ・フィチーノを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。