ユスティニアヌス1世
千年たまった慣習を、 一冊の書にまとめ直せるか?
イリュリアの農民の甥として生まれ、ビザンツ皇帝としてローマ法大全の編纂・ハギア・ソフィア再建・地中海再征服を推し進めた東ローマ帝国の巨塔
- ローマ法大全
- 学説彙纂
- 勅法彙纂
- 法学提要
- ハギア・ソフィア
- テオドラ
- ニカの乱
時代の空気
六世紀の東ローマ帝国、ユスティニアヌス王朝(518-602)の中核期。キリスト教全面化のなかカルケドン派と単性論派の教義論争が帝国を裂き、東ではササン朝ホスロー1世と「永久平和」(532)を結びつつラジカ戦争へ流れた。西では北アフリカのヴァンダル(533-534)、イタリアの東ゴート(535-554)、南ヒスパニアのヴィジゴートへ将軍ベリサリウスとナルセスを送り出す。首都では532年ニカの乱で三万が斃れ、541-549年のユスティニアヌス疫病が首都人口の四割を奪った。529年『勅法彙纂』、533年『学説彙纂』『法学提要』、537年ハギア・ソフィア、『新勅法』が重なる過密な治世である。
01イリュリアの農民、叔父ユスティヌス
482年、東ローマ帝国西部辺境ダルダニア州の小村タウレシウム(Tauresium、現北マケドニア共和国スコピエ近郊のツァリチン・グラード遺跡に比定される説が有力)で生まれた。父はサッバティウス(Sabbatius)、農民身分、ラテン語とスラヴ以前のイリュリア系方言を家の言葉にしていたと推定される。母ヴィギランティア(Vigilantia)は、のちに皇帝となる叔父ユスティヌスの姉であった。
本名はペトルス・サッバティウス(Petrus Sabbatius)、後に叔父に養子とされたのちフラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌスと改名する。ラテン語名「ユスティニアヌス」は叔父ユスティヌスの名に由来し、「正しき者の」の意。ギリシア語化した名イウスティニアノス(Ἰουστινιανός)が、のちビザンツ世界での彼の通称となる。
叔父ユスティヌスは、若くしてコンスタンティノポリスに出て帝国親衛部隊エクスクビトル(Excubitores)隊の兵士となり、長い軍歴のあと518年にアナスタシウス1世崩御の混乱を収めて66歳で皇帝に担ぎ上げられた人物である。ラテン語中心の軍人帝で、ギリシア語の行政・神学文書には秘書を通す必要があった。この叔父は、甥ペトルスを早くからコンスタンティノポリスに呼び寄せ、ギリシア語、ラテン語、法学、神学、軍事を徹底的に学ばせた。ユスティニアヌスがのちにの編纂を差配できる教養の基礎は、この叔父の周到な投資の産物である。
518年、叔父の即位と同時に、36歳のユスティニアヌスは親衛隊司令官の地位を得、522年に執政官(コンスル)に昇り、事実上の共治者として帝国の統治に深く関与した。叔父は老齢で、しばしば政策決定を甥に任せた。527年4月1日、重病に倒れた叔父はユスティニアヌスを副帝・共同皇帝として戴冠、同年8月1日に没した。45歳のユスティニアヌスはここに単独皇帝となる。
02ニカの乱とテオドラ
皇帝即位の少し前、ユスティニアヌスは一つの重大な結婚をしていた。相手は(Theodora、500年頃生)、父はヒッポドロームの熊使い、母は踊り子という低階層の出身で、女優としてコンスタンティノポリスの劇場に立ち、ミアフィジト(単性論)派キリスト教徒として信仰を持つ女性だった。彼女の前半生に対する現存史料の中心は同時代史家プロコピオスの『秘史(Anecdota)』で、これは公式史書『戦史』の書き手が別に残した敵対的な暴露書として知られる ― ここでの「女優」「娼婦」などの規定は後世そのまま引用されたが、敵対的史料に由来することに注意が要る。幼くして舞台に立ち、アレクサンドリアを含む東地中海を放浪して帰京したのち、ユスティニアヌスの目に留まった。当時のローマ法は元老院議員階級と女優階層の結婚を禁じていた。ユスティニアヌスは叔父ユスティヌスに頼んで法を改正させ、525年前後に身分差婚を解禁したうえで彼女と結ばれた。527年の即位と同時に、テオドラはアウグスタ(皇后)として戴冠した。
この結婚の重大さは、二人の個人的関係にとどまらない。テオドラは皇后となったあとも帝国政治の中枢で共同統治者として働き、離婚した女性の親権保護、強制売春の禁止、売春宿主の処罰などの立法に強く関与した、と同時代史家プロコピオス(公式史書『戦史』『建築物』と暴露的な『秘史』を書き分けた帝国書記官)は記録している。プロコピオスの『秘史』は彼女を辛辣に攻撃するが、同じ『秘史』が帝国最高の知性と政治判断を持つ女性としての彼女の姿も否応なく伝える。低い階層から皇后の座へ──その距離を正面から引き受け、夫の傍らで政策に手を入れ続けた一人の女性の生涯が、敵対的史料の隙間にも残っている。
532年1月13日、ユスティニアヌスの治世最大の危機、(Nika riots、暴徒が「ニカ(勝利)」と叫び合ったことから名付けられた)が起きた。コンスタンティノポリスの二大党派青党(ブルー)と緑党(グリーン)が、競馬場ヒッポドロームでの処刑の不手際に抗議して暴動化し、さらに両党が一時的に連合してヒュパティオス(先帝アナスタシウスの甥)を対立皇帝に担ぎ上げた。市街は5日間燃え続け、宮殿に迫る暴徒に対し側近の多くは船で逃げることを進言した。
伝承によれば、ユスティニアヌスもまた港から船を出す脱出企図を決意しかけた。そのとき皇后が立ち上がって反対した。プロコピオス『戦史』I.24は彼女の言葉をこう記す ― 「紫(皇帝の色)は、最も美しい死装束である」(βασιλεία καλὸν ἐντάφιον、ラテン=ギリシア原典からの意訳)。逃げて生き延びるくらいなら皇后として死ぬ方がましだ、という宣言である。これで夫の決意が固まった。将軍とナルセス、イリュリアから呼び戻したムンドゥスに率いられた帝国軍がヒッポドロームを包囲し、約3万人の暴徒を虐殺して鎮圧した。対立皇帝ヒュパティオスは翌日処刑された。
は治世最大の危機であったが、その灰のなかから法典との再建という二つの大事業が立ち上がる。暴動で首都の中心部の多くが焼け、元老院議事堂とコンスタンティヌスの旧大聖堂(ハギア・ソフィアの第二期、404年にヨハネス・クリュソストモス追放暴動で一度焼失し再建されたもの)が破壊された。ユスティニアヌスはこのとき焼けた都市そのものを、自分の治世の記念碑として立て直す決意を固めたと、プロコピオス『建築物(De Aedificiis)』は記す。
03ローマ法大全 ― 学説彙纂・勅法彙纂・法学提要
即位の翌528年12月、ユスティニアヌスは勅法集成のための10人委員会を設立した。委員長は編纂家の中心となるトリボニアヌス(Tribonianus、パンフィリア出身の法学者、後述)。委員会の任務は、古代ローマ共和政末期から当時に至るまで1000年以上積み上がった皇帝勅法群(ハドリアヌスの永世告示、テオドシウス法典など)を一本化し、不要・矛盾を整理し、一つの体系にまとめ上げることだった。529年4月7日、(Codex Justinianus)第1版が公布された。534年、さらなる改訂を経た第2版が出る。
この成功のあと、530年12月から、さらに野心的な事業が始まる。(Digesta、ギリシア語 Pandectae)の編纂である。委員会の中心はトリボニアヌス、コンスタンティノポリス法学校のテオフィルス、ベリュトス(現ベイルート)法学校のドロテウス、四人の法学者と十一人の弁護士。対象は共和政末期から帝政前期までの著名な法学者(ガイウス、パウルス、ウルピアヌス、パピニアヌスほか39人)の著作だった。500年間にわたって書かれた法学者の意見と判例を、約1500巻にも及ぶ膨大な原典から引用し、50巻432章・約150万行に再編する、という気の遠くなるような作業である。
編纂には委員会が3年を費やした。533年12月30日、『』が完成し公布された(同年11月21日には(Institutiones)が先に公布されている)。序文(Tantaと Deo auctoreの勅法)には、ユスティニアヌス自身の筆による誇らしい言葉が残されている ― 「他の皇帝たちが300年かけても為し得なかったことを、われわれは神の恩寵のもとに3年で為し遂げた」。
『』は、トリボニアヌスの監修下、ドロテウスとテオフィルスの手で編まれた。これはガイウスの2世紀の法学入門書『法学提要』(Institutiones)を下敷きに、当時の学生向けに全4巻で書き直された法学教本である。「人に関する法(人法)」「物に関する法(物法)」「訴訟に関する法(訴訟法)」という三分法で構成され、後世ヨーロッパ大陸法の教科書の範型となる。
序文の冒頭(プロエーミウム、Imperatoriam maiestatem)には、ラテン法学の最も有名な一節の一つが置かれる ― 「皇帝の威光は、武器によってのみ飾られるのではなく、法によっても武装されていなければならない。戦時にも平時にも、正しき君主たりうるよう」。法と剣、この二つが並び立って初めて皇帝であるという宣言である。
これら三部(『』『学説彙纂』『法学提要』)と、さらにユスティニアヌス治世後半の534-565年に発布された(Novellae Constitutiones)を合わせて、(Corpus Iuris Civilis、この呼称自体は1583年のディオニュシウス・ゴトフレドゥス〔ドニ・ゴドフロワ〕による)が形成された。
編纂の中心人物トリボニアヌスは、パンフィリア州シデ(現トルコ南海岸)出身のギリシア系法学者で、ラテン語・ギリシア語双方に通じた稀な人物だった。528年の第1次委員会から565年ユスティニアヌスの崩御までの37年間、法典編纂事業のほとんどに名を連ねた。ニカの乱の際に一時的に失脚し罷免されたが、暴動鎮圧後に復職、以後崩御まで法務大臣(quaestor sacri palatii)を務めた。プロコピオス『秘史』は彼を辛辣に描くが、彼なしにローマ法大全はなかったという事実は揺るがない。
『ローマ法大全』はその後、ビザンツ帝国で部分的に使われ続けつつも、西方ラテン世界ではいったん忘れられた。転換点は11世紀末~12世紀初頭のイタリア、ボローニャである。法学者イルネリウス(Irnerius)が『学説彙纂』の写本を研究し、注釈(グロッサ)を施した。ここからボローニャ法学派(グロッサトーレス)が生まれ、ヨーロッパ全土にローマ法の再発見と大学制度が広がった。中世カノン法、近世民法典(フランス民法典1804、ドイツ民法典1900、日本民法1896-98)に至るまで、大陸法系(シビル・ロー)の根幹に、ユスティニアヌスが533年にコンスタンティノポリスで編ませた法典が流れ続けている。
04ハギア・ソフィア再建 ― 537年12月27日
ニカの乱(532年1月)で焼け落ちたハギア・ソフィア(聖なる知恵の大聖堂、最初の建物は360年コンスタンティウス2世、二度目は415年テオドシウス2世によって建てられた)の跡地に、ユスティニアヌスは直ちに第三代目となるの建設を命じた。前例なき規模と構造を狙った計画である。
建築家に指名されたのは、ミレトスのイシドロス(Isidoros、数学者・幾何学者、アルキメデスの著作の編纂者)とトラレスのアンテミオス(Anthemios、数学者・物理学者、パラボラ鏡の研究者)。二人とも純粋に建築家というより、幾何学者・数学者だった。これは意図的な人選である。ハギア・ソフィアの中心課題は、「正方形の平面の上に円のドームを載せる」という、それまで地中海世界にほぼ前例のない構造問題だったからだ。
解法はペンデンティブ(pendentive、球面三角形の重力伝達構造)である。四つの巨大な支柱の間を結ぶアーチの上に、球面三角形を張って、その上に直径31.24メートル、高さ床から55.6メートルのドームを載せる。ドームの基部には40個の窓が環状に並び、ドームが光の輪の上に浮かぶように見える仕掛けだった。後世プロコピオスは『建築物』でこう書いた ― 「ドームは鎖で天から吊るされているかのごとくである」。
建設は5年10か月で成った。1万人の工人、数千トンの切り石(シリアから輸送された暗色大理石、エフェソスからの緑石柱、エジプトからの斑岩)、数百の石工の組。ローマ帝国が500年にわたって各地から集めてきた古い大理石柱とモザイクが、この建物に集約的に再利用された(エフェソスのアルテミス神殿の緑石柱が八本、現在も南廊と北廊に立つ)。
537年12月27日、献堂式が行われた。皇帝と皇后は馬車で到着し、皇帝は聖堂内に歩み入ったとき、「ソロモンよ、わたしは汝に勝ちたり」(νενίκηκά σε Σολομών)と呟いた、と後世の伝承は記す。これは『旧約聖書』のソロモン神殿(エルサレム)を超えたという自負である。この言葉の一次史料としての確定は難しい ― 同時代人プロコピオスの『建築物』(Buildings、550年代執筆、ハギア・ソフィアに一巻を割く)にはこの句は見えず、10世紀前後に編まれた『パトリア・コンスタンティノポレオス』(Patria of Constantinople、帝都の建築伝承集)系の中世ビザンツ叙述で定着した。ただし、この建物がソロモン神殿を意識して構想されたことは、床の赤と緑の大理石の波状パターン(ニュー・エルサレムの海を示唆)など、多くの細部の象徴から推定される。
ハギア・ソフィアのドームは558年の地震で部分崩壊した。ユスティニアヌスはイシドロスの甥小イシドロスにドームの再設計を命じ、6メートル高くして(今の高さ55.6m)、曲率を緩やかに取り直した。562年12月24日、再建ドームが完成した。このドームが、以後1462年にわたって、二つの宗教(15世紀オスマン征服後はモスク、現代は再びモスクと博物館の位相を往復する)の礼拝空間を覆い続けている。
05ヴァンダル・東ゴート征服と疫病
ユスティニアヌスのもう一つの大仕事は、「旧ローマ帝国西半の再征服」だった。5世紀、西ローマ帝国は蛮族諸王国(ヴァンダル王国=北アフリカ、東ゴート王国=イタリア、ヴィジゴート王国=ヒスパニア、フランク王国=ガリア)に分裂して消滅していた。ユスティニアヌスはこれを取り返そうとした。
第一の戦線は北アフリカ、だった。533年6月、将軍(Belisarius、トラキア出身、当時30代前半、ユスティニアヌスの最も信頼した将軍)が1万8千の軍勢でカルタゴ近郊に上陸、デキムムの戦い(533年9月13日)とトリカマルムの戦い(533年12月)でヴァンダル王ゲリメルを破り、533年末から翌534年にかけてヴァンダル王国を壊滅させた。わずか半年の戦役で、アウグスティヌスの生地ヒッポ・レギウス、カルタゴ、サルディニア、コルシカ、バレアレス諸島を含む西地中海が帝国に返った。
第二、より困難だったのはイタリア、だった。535年、ベリサリウスはまずシチリアを取り、翌536年ネアポリス(ナポリ)、同年ローマに入った。東ゴート王ウィティギスの反撃によるローマ包囲(537-538、374日間、ハドリアヌス霊廟を要塞化したベリサリウスの籠城戦)、540年ラヴェンナ占領、そしての長期化(535-554、20年戦争)。549-550年にはユスティニアヌスとの軋轢でベリサリウスが一時罷免と復帰を経験する。最終的に将軍ナルセス(Narses、アルメニア系の宦官、70代で将軍、戦略の冴えでベリサリウスを超えた)が552年タギナエの戦いで東ゴート王トティラを破り、554年モンス・ラクタリウスの戦いで最後の王テイアを討って、イタリア再征服は公式には完了した。同年、ユスティニアヌスは(Pragmatica Sanctio)を発し、回復したイタリアに帝国法を施行した。とはいえ568年にはイタリア北部はランゴバルド人の侵入を許すことになる(ユスティニアヌス死後3年)。さらに552年以降、南ヒスパニアではヴィジゴート王国の内紛に乗じてスパニア州を獲得し、地中海はかろうじて再び一つの内海となった。
東方では、ササン朝ペルシアのホスロー1世(Khosrow I)と532年に「永久平和」を結んだものの、540年ホスローはアンティオキア攻略で再戦の口火を切り、ラジカ戦争(、552-561、現グルジア西部をめぐる代理戦争)を経て、561年に「50年和平」が結ばれる。東西の二正面を抱え続けた治世だった。
しかし、この再征服の代償は、ほぼ帝国を破産させるほどだった。20年の戦費、イタリアの荒廃、そして何よりも541年にエジプトからコンスタンティノポリスに到達した腺ペストの大流行 ―(Plague of Justinian)が帝国を襲った。
疫病は541年夏、エジプトのペルシオン(現ポート・サイド近郊)から地中海に広がり、542年春にコンスタンティノポリスに達した。プロコピオス『戦史』II.22-23の記述は、古代の疫病報告のなかでも最も詳細な部類に入る ― 「毎日5000人、やがて1万人の死者が街に積み重なり、城壁の外に深い溝が掘られた」。現代の古病理学研究によれば、当時の首都人口の40%、東地中海全体で人口の25-50%がこの第一波(541-549)とその後200年にわたる再来で失われたと推定される(2014年 Wagner ほか『The Lancet Infectious Diseases』、2019年 Keller ほかの古代DNA研究で病原体がペスト菌 Yersinia pestis の系統と確定)。ユスティニアヌス自身も542年にペストに罹患したが、奇跡的に回復した。罹患後の彼の治世後半には、同時代人が「皇帝の精彩を欠いた」と書き残すような変調が見える。
そしてもう一つの大きな喪失が、548年6月28日の皇后テオドラの死(癌と推定)である。ユスティニアヌスは以後17年間再婚せず、国政の重要な相談役を欠いたまま治世の後半を生きた。
この疫病と戦費の打撃により、再征服した西方領土を長く維持することはできなかった。568年ランゴバルド人がイタリア北部を侵し、7世紀にはアラブ征服で北アフリカとシリア・エジプトが失われる。ユスティニアヌスの再統一された地中海の構想は、彼自身の生涯の最後の十年でほぼ幻と化した。
それでもなお、法典と大聖堂は残った。軍事的再征服は失われたが、ローマ法大全は12世紀ボローニャで蘇って以後のヨーロッパ法の根幹となり、ハギア・ソフィアは1453年オスマン征服で大モスクとなり、20世紀に博物館となり、21世紀に再びモスクとなって、1500年以上の間、同じドームを掲げ続けている。
ソロモンよ、わたしは汝に勝ちたり。
06主要な出来事と遺産
- ダルダニア州タウレシウム(現北マケドニア・スコピエ近郊)で農民の子として生まれる。本名ペトルス・サッバティウス
- 叔父ユスティヌス1世の即位、コンスタンティノポリスで親衛部隊エクスクビトル隊司令官として宮廷に入る
- 執政官(コンスル)就任、叔父のもとで事実上の共同統治者に
- 身分差婚を解禁する法改正を経て、女優階層出身のテオドラと結婚
- 重病の叔父により副帝・共同皇帝として戴冠、テオドラもアウグスタに
- 叔父ユスティヌス崩御、単独皇帝として即位、45歳
- トリボニアヌス率いる10人委員会発足、『勅法彙纂』編纂開始
- 『勅法彙纂』(Codex Justinianus)第1版公布
- 『学説彙纂』編纂委員会発足(トリボニアヌス・テオフィルス・ドロテウスほか)
- ニカの乱、青党・緑党の連合暴動、5日間で市街炎上、テオドラの「紫は最も美しい死装束」演説、ベリサリウスらによる鎮圧、約3万の死者
- 焼失したハギア・ソフィアの再建着工、アンテミオスとイシドロスの設計
- ベリサリウスがカルタゴ近郊に上陸、デキムムの戦いでヴァンダル王国を撃破
- 『法学提要』(Institutiones)公布
- 『学説彙纂』(Digesta)50巻・約150万行を完成・公布
- 『勅法彙纂』第2版公布、ヴァンダル王国滅亡(北アフリカ回復)
- ベリサリウスのイタリア遠征、シチリア・ナポリ・ローマ・ラヴェンナ占領
- ハギア・ソフィア第1期献堂式、「ソロモンよ、わたしは汝に勝ちたり」の伝承
- ユスティニアヌス疫病(腺ペスト)第一波、コンスタンティノポリスで人口の40%が失われる、皇帝自身も542年に罹患・回復
- 皇后テオドラ没(癌と推定)、ユスティニアヌスは以後17年間再婚せず
- ベリサリウスの罷免と復帰、イタリア戦線の指揮はナルセスへ
- ナルセスがタギナエの戦いで東ゴート王トティラを撃破、ヴィジゴート内紛に介入し南ヒスパニアにスパニア州設置
- ササン朝とのラジカ戦争、561年に「50年和平」締結
- モンス・ラクタリウスでテイア討死、ゴート戦争完結。『プラグマティカ・サンクティオ』でイタリアに帝国法を施行
- 地震でハギア・ソフィアのドーム部分崩壊
- 小イシドロスの再設計でドーム再建完成、6メートル高く曲率を緩めた
- コンスタンティノポリスの大宮殿で崩御、享年83前後、聖使徒教会に葬られる。甥ユスティヌス2世が継承
- ボローニャでイルネリウスが『学説彙纂』を研究、ヨーロッパ大陸法の再出発点となる
- オスマン征服後、ハギア・ソフィアはアヤソフィア大モスクに
- フランス民法典・ドイツ民法典・日本民法にローマ法大全の構造が受け継がれる
残した思想の輪郭
- ローマ法大全の編纂 ― 1000年分の皇帝勅法と法学者学説を『勅法彙纂』『学説彙纂』『法学提要』『』の四部として体系化、ヨーロッパ大陸法の千年の土台を据えた
- 法と剣の対称 ― 『法学提要』序文「皇帝の威光は、武器のみならず法によっても武装されていなければならない」、統治の二本立て
- ハギア・ソフィアの構造革新 ― ペンデンティブによる「正方形の上に円のドーム」、幾何学者二人の設計、5年10か月の突貫工事、ソロモン神殿の意識
- 皇后テオドラとの共同統治 ― 「紫は最も美しい死装束」のニカの乱鎮圧、女性の親権・強制売春禁止の立法、548年の死後も17年間再婚しなかった伴侶
- 旧ローマ帝国再統一の試み ― ベリサリウス・ナルセスによる北アフリカ・イタリア・南ヒスパニア再征服、地中海の短命な再統一
- 疫病と帝国の有限性 ― による人口の25-50%喪失、皇帝自身の罹患、再征服領の喪失、野心の代償
- 千年越しの継承 ― 12世紀ボローニャ法学派、近世民法典を経て、現代の大陸法系民法典の根幹として生き続ける
- 建築の千五百年 ― ハギア・ソフィアは正教会大聖堂、オスマン・モスク、博物館、再モスクと位相を変えながら、同じドームを掲げ続けている
出典と確認メモ
13件- 場面校訂版で確認済み要旨訳
要旨訳: justinian.mdx Chapter 2 第3-4段落 (現行 orchestrator body fix 後 text、textHashSha256 b0f686f39bc4d70b…) は『...
一次資料を開くProcopius Wars I.24.32-37 (532年1月ニカの乱、テオドラ演説)。I.24.37: 'For my part, I approve a...
- 文脈校訂版で確認済み要旨訳
要旨訳: justinian.mdx Chapter 2: 『将…がヒッポドロームを包囲し、約3万人の暴徒を虐殺して鎮圧した。対立皇帝ヒュパティオスは翌日処刑された』 — 532年1月18日 Nika 蜂起鎮圧...
一次資料を開くProcopius De Bellis I.24.53-58 (Loeb Dewing tr.): Belisarius と Mundus が Hippodro...
- 場面校訂版で確認済み要旨訳
要旨訳: justinian.mdx Chapter 2 の段落『伝承によれば、ユスティニアヌスもまた港から船を出す脱出企図を決意しかけた。…プロコピオス『戦史』I.24は彼女の言葉をこう記す ― 「紫(皇帝の...
一次資料を開くProcopius, Wars I.24.32-37 (532年ニカの乱, テオドラ演説)。I.24.37 'For my part, I approve a ...
- 文脈原典で確認済み要旨訳
要旨訳: justinian.mdx Chapter 2 のテオドラ演説を含む段落 (re-flagged after orchestrator body fix)。プロコピオス『戦史』I.24 に記録されたテ...
一次資料を開くProcopius, Wars I.24 (Dewing 訳 Loeb 1914 ベース)。'For as for myself, I approve a ce...
- 場面原典で確認済み要旨訳
要旨訳: justinian.mdx Chapter 2 paragraph 「伝承によれば、ユスティニアヌスもまた港から船を出す脱出企図を決意しかけた。そのとき皇后テオドラが立ち上がって反対した。プロコピオス...
一次資料を開くWars I.24.32-37 Theodora 演説 (Nika riot)。section 24.37: 'For as for myself, I app...
- 場面原典で確認済み要旨訳
要旨訳: justinian.mdx Chapter 2 paragraph 「伝承によれば、ユスティニアヌスもまた港から船を出す脱出企図を決意しかけた。そのとき皇后テオドラが立ち上がって反対した。プロコピオス...
一次資料を開くWars I.24.32-37 Theodora 演説 (Nika riot)。section 24.37: 'For as for myself, I app...
- 場面校訂版で確認済み要旨訳
要旨訳: justinian.mdx Chapter 2 のテオドラ演説場面: 『伝承によれば、ユスティニアヌスもまた港から船を出す脱出企図を決意しかけた。そのとき皇后テオドラが立ち上がって反対した。プロコピオ...
一次資料を開くProcopius De Bellis I.24 (Loeb tr. by Dewing) 全文。Theodora 演説 I.24.32-37: 'May I ...
- 場面原典で確認済み要旨訳
要旨訳: justinian.mdx Chapter 2 — ニカの乱(532年1月)時のテオドラ演説。プロコピオス『戦史』I.24.33-37 にて記される。テオドラの言葉「βασιλεία καλὸν ἐν...
一次資料を開くWars I.24.33-37 (Theodora speech) + I.24.54 (約3万人死亡)。Loeb Dewing 訳 'royalty is a...
- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 532年1月のニカの乱で焼失した大聖堂の跡地に、ユスティニアヌスはミレトスのイシドロスとトラレスのアンテミオスという二人の幾何学者を建築家に指名し、5年10か月で第三代目ハギア・ソフィアを建てた。直径...
一次資料を開くProcopius (Caesarea 出身、Belisarius 同行歴史家) De Aedificiis (Περὶ κτισμάτων, c.554-55...
- 抜粋伝承として記録伝承
伝承: ソロモンよ、わたしは汝に勝ちたり。
- 抜粋伝承として記録伝承
伝承: ソロモンよ、わたしは汝に勝ったり
- 出典伝承として記録伝承
伝承: ハギア・ソフィア完成(537年12月27日献堂式)の際にユスティニアヌスが発したと伝わる言葉。同時代人プロコピオスの『建築物』には当該句は見えず、10世紀前後に編まれた『パトリア・コンスタンティノポレ...
- 出典伝承として記録伝承
伝承: quotes.ts justinian-1 source 表記『ハギア・ソフィア献堂式(537年12月27日)に際してユスティニアヌス1世が発したと伝わる言葉。同時代人プロコピオスの『建築論』(550...
つながり
- キケロ
継承 — キケロ『法律について』『国家について』の自然法と市民法の区別、『義務について』の正義論は、帝政前期の古典ローマ法学者(ガイウス、ウルピアヌス、パウルス、パピニアヌスら)を経由して、『学説彙纂』(533年、トリボニアヌス主宰)に大量に引用・編入された。『学説彙纂』第1巻冒頭のウルピアヌスによる「正義とは各人に彼の権利を帰属させる恒常不断の意志である」(Iustitia est constans et perpetua voluntas ius suum cuique tribuendi)は、キケロ『国家について』の正義論と自然法論を下敷きにした定式。共和政末期の法思想が600年を超えて帝国法典編纂に流れ込む継承の主要経路
- トマス・アクィナス
先駆 — ユスティニアヌス『ローマ法大全』は12世紀初頭ボローニャのイルネリウス以降「註釈学派(グロッサトーレス)」により中世ヨーロッパに蘇り、13世紀トマス・アクィナスの『神学大全』第二部(法論)における自然法(lex naturalis)・人定法(lex humana)・神法(lex divina)・永久法(lex aeterna)の四法区分の直接的前提となる。アクィナスは『神学大全』I-II, q.90-108 で『学説彙纂』冒頭の法の定義(ウルピアヌス・パウルス)を繰り返し参照し、キリスト教的文脈で再解釈した。ローマ法=スコラ自然法の接続線の決定的接続点
- ミマール・スィナン
先駆 — 537年にユスティニアヌスが建立したハギア・ソフィアのドーム(直径31m級、ミレトスのイシドロスとトラレスのアンテミオスによるペンデンティブ構造)は、1453年オスマン征服後に帝都イスタンブルのモスクとして生き続け、オスマン建築家たちの参照点となり続けた。スィナンはセリミエ・モスク(1574/75、エディルネ)で同クラスの直径のドームを、半ドームを手放した八柱支持の別の構造原理で組み上げ、『建築家の書』で「キリスト教徒たちが『ムスリムにはあれに匹敵するドームを建てる力がない』と言い続けてきたが、私はセリミエでそれに答えた」と記録させた。1200年を跨ぐ建築的応答、ビザンツとオスマンのそれぞれの構造解の並置
- プラトン
反発 — 529年、ユスティニアヌスは勅令によってアテナイのプラトン・アカデメイア(プラトン設立の学園の後継、新プラトン主義の拠点)の「異教徒による哲学・法学教育」を禁じ、事実上閉鎖した。学頭ダマスキオス以下の新プラトン主義者7人はササン朝ペルシアのホスロー1世のもとへ亡命したと伝わる(アガティアス『歴史』II.30-31)。同年『勅法彙纂』第1版が公布されたことは偶然ではなく、ユスティニアヌスは「キリスト教帝国」を法と教義の双方で定義する作業を同時並行で進めた。プラトン学園の千年(BC387-AD529)が閉じられた年が、ローマ法大全編纂の年と一致する。異教哲学の否定と、キリスト教ローマ法の総体化の、同一の政策的意志による結節点
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WikipediaWikipedia 日本語版「ユスティニアヌス1世」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Justinian I"
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