ユスティニアヌス1世
逃げる船は、もう用意されていた。 なぜ皇帝は、その船に乗らなかったのか?
イリュリアの農民の甥として生まれ、ビザンツ皇帝としてローマ法大全の編纂・ハギア・ソフィア再建・地中海再征服を推し進めた東ローマ帝国の巨塔
- ローマ法大全
- 学説彙纂
- 勅法彙纂
- 法学提要
- ハギア・ソフィア
- テオドラ
- ニカの乱
西のローマは消え、東の都は暴動と疫病に揺れた。それでも法と大聖堂を一代で立て直そうとした時代 — ひらく
時代の空気
六世紀の東ローマ帝国、ユスティニアヌス王朝(518-602)の中核期。キリスト教全面化のなかカルケドン派と単性論派の教義論争が帝国を裂き、東ではササン朝ホスロー1世と「永久平和」(532)を結びつつラジカ戦争へ流れた。西では北アフリカのヴァンダル(533-534)、イタリアの東ゴート(535-554)、南ヒスパニアのヴィジゴートへ将軍ベリサリウスとナルセスを送り出す。首都では532年ニカの乱で三万が斃れ、541-549年のユスティニアヌス疫病が首都人口の四割を奪った。529年『勅法彙纂』、533年『学説彙纂』『法学提要』、537年ハギア・ソフィア、『新勅法』が重なる過密な治世である。
01船を出すか、残るか ― 532年1月
532年1月13日、コンスタンティノポリスが燃えはじめた。東ローマ帝国の首都である。皇帝ユスティニアヌスは、このとき50歳前後だった。
きっかけは、競馬場ヒッポドロームでの処刑の不手際だった。都には青党(ブルー)と緑党(グリーン)という二つの大きな党派がある。ふだんは対立する両党が、この処刑への抗議で手を組んだ。抗議はやがて暴動になった。暴徒は「ニカ(勝利)」と叫び合った。のちにと呼ばれる暴動である。
市街は5日間燃え続けた。両党は先帝アナスタシウスの甥ヒュパティオスを、対立皇帝に担ぎ上げた。暴徒は宮殿に迫った。側近の多くは、船で逃げることを勧めた。伝承によれば、皇帝自身も港から船を出す脱出を決意しかけた。
そのとき、皇后が立ち上がって反対した。同時代の歴史家は『戦史』I.24に、彼女の言葉をこう記す ― 「紫(皇帝の色)は、最も美しい死装束である」(βασιλεία καλὸν ἐντάφιον、ラテン=ギリシア原典からの意訳)。逃げて生き延びるより、皇后として死ぬ方がましだ。そういう宣言である。これで夫の決意が固まった。
将軍と、それにイリュリアから呼び戻したムンドゥスが軍を率いた。帝国軍はヒッポドロームを囲んだ。約3万人の暴徒が殺され、乱は鎮圧された。対立皇帝ヒュパティオスは、翌日処刑された。
都の中心部は焼け落ちていた。元老院の議事堂も、古い大聖堂も灰になった。ところが、この灰のなかから治世最大の二つの事業が立ち上がる。千年分の法をまとめた法典と、前例のない大聖堂である。
船に乗りかけた男は、なぜ逃げなかったのか。焼けた都で、なぜこれほど大きなものを建てようとしたのか。それを知るには、時を50年前に戻さなければならない。
02農民の甥 ― 482年、イリュリア
482年、ユスティニアヌスは帝国の西の辺境で生まれた。ダルダニア州の小さな村タウレシウム(Tauresium)である。今の北マケドニア、スコピエ近郊のツァリチン・グラード遺跡がその場所だとする説が有力だ。父サッバティウス(Sabbatius)は農民だった。家の言葉はラテン語と、スラヴ以前のイリュリア系の方言だったと推定される。
本名はペトルス・サッバティウス(Petrus Sabbatius)という。母ヴィギランティア(Vigilantia)は、のちに皇帝となるユスティヌスの姉だった。この叔父の養子となり、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌスと名を改める。「ユスティニアヌス」は叔父の名から取られ、「正しき者の」という意味を持つ。ギリシア語ではイウスティニアノス(Ἰουστινιανός)。これがビザンツ世界での彼の呼び名になる。
叔父ユスティヌスは、若くして首都コンスタンティノポリスに出た人物である。帝国の親衛部隊エクスクビトル(Excubitores)隊の兵士になった。長い軍歴の末、518年に先帝アナスタシウス1世の死後の混乱を収めた。そして66歳で皇帝に担ぎ上げられた。ラテン語中心の軍人皇帝で、ギリシア語の行政文書や神学の文書は秘書を通す必要があった。
この叔父は、甥ペトルスを早くから首都に呼び寄せた。そしてギリシア語、ラテン語、法学、神学、軍事を徹底的に学ばせた。のちに彼がの編纂を差配できたのは、この叔父の周到な投資があったからである。
518年、叔父の即位と同時に、36歳のユスティニアヌスは親衛隊の司令官になった。522年には執政官(コンスル)に昇る。叔父は老齢で、政策の決定をしばしば甥に任せた。事実上の共同統治者だった。527年4月1日、重病に倒れた叔父は彼を副帝・共同皇帝として戴冠させた。同年8月1日、叔父が没する。45歳のユスティニアヌスは、ここに単独皇帝となった。
ただし、この即位の少し前に、彼は一つの結婚をしていた。当時の法が禁じていた相手との結婚である。
03法が禁じた結婚、そして灰の中の決意
相手は(Theodora)、500年頃の生まれである。父はヒッポドロームの熊使い、母は踊り子だった。低い階層の出身で、女優としてコンスタンティノポリスの劇場に立っていた。信仰はミアフィジト(単性論)派のキリスト教徒である。
彼女の前半生を伝える史料の中心は、同時代の歴史家プロコピオスの(Anecdota)である。プロコピオスは公式の歴史書『戦史』の書き手だ。だが別に、敵意に満ちた暴露書を残した。それがである。「女優」「娼婦」といった呼び方は後世そのまま引用された。だが敵対的な史料に由来することに注意が要る。
テオドラは幼くして舞台に立った。アレクサンドリアを含む東地中海を放浪し、帰京したのちユスティニアヌスの目に留まった。当時のローマ法は、元老院議員の階級と女優の階層の結婚を禁じていた。ユスティニアヌスは叔父に頼んで法を改正させた。525年前後に身分差婚を解禁したうえで、彼女と結ばれたのである。527年、即位と同時にテオドラはアウグスタ(皇后)として戴冠した。
この結婚の重さは、二人の関係だけにとどまらない。皇后となったあとも、テオドラは帝国政治の中枢で共同統治者として働いた。離婚した女性の親権の保護、強制売春の禁止、売春宿の主の処罰。こうした立法に強く関わったと、プロコピオスは記録している。『秘史』は彼女を辛辣に攻撃する。だが同じ『秘史』が、帝国最高の知性と政治判断を持つ女性の姿も、否応なく伝えている。
の夜、船を出しかけた夫を引き止めたのは、この女性だった。
乱のあと、都の中心部の多くは焼けていた。元老院の議事堂が失われた。コンスタンティヌスの旧大聖堂も破壊された。の二代目の建物で、404年に一度焼け、再建されたものである。ユスティニアヌスは、この焼けた都そのものを自分の治世の記念碑として立て直す決意を固めた。プロコピオスは『建築物(De Aedificiis)』にそう記す。
だが実は、乱より前に始まっていた事業が一つあった。法である。
04千年の法を、一つの体系に
即位の翌年、528年12月。ユスティニアヌスは勅法を集めるための10人委員会を作った。勅法とは、歴代の皇帝が出した法令のことである。委員長は法学者(Tribonianus)。パンフィリア州シデ(現トルコ南海岸)出身のギリシア系である。ラテン語とギリシア語の両方に通じた稀な人物だった。
委員会の任務は途方もない。ローマ共和政の末期から当時まで、1000年以上のあいだに積み上がった皇帝勅法群を一本化する。ハドリアヌスの永世告示、テオドシウス法典などである。不要なもの、矛盾するものを整理し、一つの体系にまとめ上げる。529年4月7日、(Codex Justinianus)の第1版が公布された。534年には改訂を経た第2版が出る。
この成功のあと、530年12月からさらに野心的な事業が始まる。(Digesta、ギリシア語 Pandectae)の編纂である。今度は皇帝の法令ではなく、法学者たちの意見と判例をまとめる。中心はトリボニアヌス、コンスタンティノポリス法学校のテオフィルス、ベリュトス(現ベイルート)法学校のドロテウス。四人の法学者と十一人の弁護士が加わった。
対象は、ガイウス、パウルス、ウルピアヌス、パピニアヌスほか39人の著名な法学者の著作である。500年間にわたって書かれた原典は約1500巻にのぼった。そこから引用し、50巻432章、約150万行に組み直す。気の遠くなるような作業だった。
編纂には3年かかった。533年12月30日、『』が完成し公布された。序文(Tantaと Deo auctoreの勅法)には、ユスティニアヌス自身の筆による誇らしい言葉が残る ― 「他の皇帝たちが300年かけても為し得なかったことを、われわれは神の恩寵のもとに3年で為し遂げた」。
同じ年の11月21日には、(Institutiones)が先に公布されていた。トリボニアヌスの監修のもと、ドロテウスとテオフィルスが編んだ学生向けの教科書である。下敷きは、2世紀の法学者ガイウスの入門書『』だった。全4巻を「人に関する法(人法)」「物に関する法(物法)」「訴訟に関する法(訴訟法)」の三つに分ける。この三分法は、のちにヨーロッパ大陸法の教科書の型となった。
序文の冒頭(プロエーミウム、Imperatoriam maiestatem)には、ラテン法学で最も有名な一節の一つが置かれている ― 「皇帝の威光は、武器によってのみ飾られるのではなく、法によっても武装されていなければならない。戦時にも平時にも、正しき君主たりうるよう」。法と剣。この二つが並び立って、初めて皇帝であるという宣言だった。
治世の後半、534年から565年にかけて出された法令は(Novellae Constitutiones)と呼ばれる。三部にこれを合わせた全体が、(Corpus Iuris Civilis)である。ただしこの呼び名そのものは1583年、ディオニュシウス・ゴトフレドゥス(ドニ・ゴドフロワ)がつけたものだ。
トリボニアヌスは、528年の第1次委員会から565年の皇帝の死まで37年間、法典事業のほとんどに名を連ねた。ニカの乱では一時失脚し罷免された。だが鎮圧後に復職し、以後は法務大臣(quaestor sacri palatii)を務めた。『秘史』は彼を辛辣に描く。だが彼なしに『ローマ法大全』はなかった。この事実は揺るがない。
法典が形になりつつあるころ、焼け跡では別の難問が持ち上がっていた。正方形の建物の上に、どうやって丸い屋根を載せるか、である。
05正方形の上に、円を ― ハギア・ソフィア
ニカの乱で焼け落ちたハギア・ソフィアは、二代目の建物だった。「聖なる知恵」を意味する大聖堂である。最初の建物は360年にコンスタンティウス2世が、二度目は415年にテオドシウス2世が建てた。その跡地に、ユスティニアヌスは直ちに三代目のの建設を命じた。前例のない規模と構造を狙った計画である。
建築家に指名されたのは二人。ミレトスのイシドロス(Isidoros)は数学者・幾何学者で、アルキメデスの著作の編纂者だった。トラレスのアンテミオス(Anthemios)は数学者・物理学者で、パラボラ鏡を研究していた。どちらも建築家というより、幾何学者・数学者である。これは意図した人選だった。中心の課題が「正方形の平面の上に円のドームを載せる」ことだったからだ。地中海世界にほぼ前例のない構造の問題である。
答えは(pendentive)だった。球面三角形で重さを下に伝える構造である。四つの巨大な支柱をアーチで結び、その上に球面三角形を張る。さらにその上に、直径31.24メートルのドームを載せた。ドームの根元には40個の窓が輪になって並ぶ。ドームが光の輪の上に浮かんで見える仕掛けだった。プロコピオスは『建築物』にこう書いた ― 「ドームは鎖で天から吊るされているかのごとくである」。
建設は5年10か月で成った。1万人の工人と、数百の石工の組。数千トンの切り石が運ばれた。シリアの暗色大理石、エフェソスの緑石柱、エジプトの斑岩である。ローマ帝国が500年かけて各地から集めた古い大理石柱とモザイクが、この一つの建物に再利用された。エフェソスのアルテミス神殿の緑石柱八本は、今も南廊と北廊に立っている。
537年12月27日、献堂式が行われた。皇帝と皇后は馬車で到着した。聖堂内に歩み入ったとき、皇帝は「ソロモンよ、わたしは汝に勝ちたり」(νενίκηκά σε Σολομών)と呟いた、と後世の伝承は記す。『旧約聖書』のソロモン王がエルサレムに建てた神殿を超えた、という自負である。
ソロモンよ、わたしは汝に勝ちたり。
ただし、この言葉が本当に発せられたかは確定できない。同時代人プロコピオスの『建築物』(550年代執筆、ハギア・ソフィアに一巻を割く)には、この句が見えないのだ。定着したのは10世紀前後、『パトリア・コンスタンティノポレオス』(帝都の建築伝承集)系の叙述においてである。それでも、この建物がソロモン神殿を意識して構想されたことは、多くの細部から推定される。床の赤と緑の大理石の波状の模様は、「新しいエルサレム」の海を示唆するとされる。
このドームは、しかし、21年後に崩れることになる。
06海の向こうの、失われたローマ
法典と大聖堂と並ぶ、もう一つの大仕事があった。「旧ローマ帝国の西半分の再征服」である。5世紀、西ローマ帝国は消滅していた。北アフリカにはヴァンダル王国、イタリアには東ゴート王国。ヒスパニアにはヴィジゴート王国、ガリアにはフランク王国。いくつもの王国に分かれていた。ユスティニアヌスは、これを取り返そうとした。
第一の戦線は北アフリカ、だった。533年6月、将軍(Belisarius)が1万8千の軍勢でカルタゴ近郊に上陸した。トラキア出身、当時30代前半、皇帝が最も信頼した将軍である。デキムムの戦い(533年9月13日)とトリカマルムの戦い(533年12月)でヴァンダル王ゲリメルを破った。534年にかけて、ヴァンダル王国は壊滅する。わずか半年の戦いだった。アウグスティヌスの生地ヒッポ・レギウス、カルタゴ、サルディニア、コルシカ、バレアレス諸島。西地中海が帝国に返った。
第二の、より困難な戦線はイタリアのだった。535年、ベリサリウスはまずシチリアを取った。翌536年にはネアポリス(ナポリ)、同年ローマに入る。東ゴート王ウィティギスが反撃し、ローマは537年から538年まで374日間包囲された。ベリサリウスはハドリアヌス霊廟を要塞にして籠城戦を戦った。540年、ラヴェンナを占領する。だが戦争は長引いた。535年から554年まで、20年戦争である。
549年から550年には、皇帝との軋轢でベリサリウスが一時罷免され、また復帰した。決着をつけたのは将軍ナルセス(Narses)である。アルメニア系の宦官で、70代で将軍になった。戦略の冴えでベリサリウスを超えたと評される。552年、タギナエの戦いで東ゴート王トティラを破る。554年、モンス・ラクタリウスの戦いで最後の王テイアを討った。イタリア再征服は、公式にはここで完了した。
同じ554年、ユスティニアヌスは(Pragmatica Sanctio)を発した。取り戻したイタリアに帝国法を施行する命令である。552年以降には、ヴィジゴート王国の内紛に乗じて南ヒスパニアにスパニア州も得た。地中海は、かろうじて再び一つの内海になった。
東方も静かではなかった。ササン朝ペルシアのホスロー1世(Khosrow I)とは、532年に「永久平和」を結んだ。だが540年、ホスローはアンティオキアを攻略し、再戦の口火を切る。(552-561、現グルジア西部をめぐる代理戦争)を経て、561年に「50年和平」が結ばれた。東西の二正面を、治世のあいだ抱え続けたのである。
ただし、再征服の代償はあまりに大きかった。20年分の戦費、荒れ果てたイタリア。そして何よりも、541年にエジプトから来た、目に見えない敵である。
07疫病、喪失、崩れたドーム
541年夏、疫病がエジプトのペルシオン(現ポート・サイド近郊)から地中海に広がった。腺ペストである。542年春、コンスタンティノポリスに達した。(Plague of Justinian)と呼ばれる大流行だ。プロコピオス『戦史』II.22-23の記述は、古代の疫病報告のなかで最も詳しい部類に入る ― 「毎日5000人、やがて1万人の死者が街に積み重なり、城壁の外に深い溝が掘られた」。
首都の人口の40%が失われた。東地中海全体では、この第一波(541-549)とその後200年の再来で、人口の25%から50%が失われたと推定される。ユスティニアヌス自身も、542年にペストに罹患した。奇跡的に回復した。だが60歳の皇帝は、もとには戻らなかった。治世の後半には、同時代人が「皇帝の精彩を欠いた」と書き残すような変調が見える。
そしてもう一つの喪失が来る。548年6月28日、皇后テオドラが死んだ。癌と推定される。ニカの乱の夜に夫を引き止めた妻は、48歳前後だった。ユスティニアヌスは以後17年間再婚しなかった。国政の最も重要な相談役を欠いたまま、彼は治世の後半を生きることになる。
558年、地震がハギア・ソフィアのドームを部分的に崩した。ユスティニアヌスはイシドロスの甥、小イシドロスにドームの再設計を命じた。6メートル高くして(今の高さ55.6m)、曲線をゆるやかに取り直す。562年12月24日、再建されたドームが完成した。皇帝は80歳になっていた。
疫病と戦費の打撃で、再征服した西方の領土は長くは保てなかった。568年、ランゴバルド人がイタリア北部に侵入する。皇帝の死の3年後である。7世紀にはアラブの征服で、北アフリカとシリア、エジプトが失われた。再び一つになった地中海という構想は、彼の生涯の最後の十年で、ほぼ幻と化した。
565年11月14日、ユスティニアヌスはコンスタンティノポリスの大宮殿で没した。83歳前後。後継は甥のユスティヌス2世だった。
失われたものを数えれば、この治世は敗北に見える。では、残ったものは何だったのか。
08残ったもの、そして船に乗らなかった理由
軍事的な再征服は失われた。しかし法典と大聖堂は残った。
『ローマ法大全』は、ビザンツ帝国では部分的に使われ続けたが、西方ラテン世界ではいったん忘れられた。転換点は11世紀末から12世紀初頭のイタリア、ボローニャである。法学者(Irnerius)が『学説彙纂』の写本を研究し、注釈(グロッサ)を施した。ここからボローニャ法学派(グロッサトーレス)が生まれ、ローマ法の再発見と大学制度がヨーロッパ全土に広がった。中世カノン法、近世民法典 ― フランス民法典(1804)、ドイツ民法典(1900)、日本民法(1896-98) ― に至るまで、大陸法系(シビル・ロー)の根幹には、533年にコンスタンティノポリスで編まれた法典が流れ続けている。
ハギア・ソフィアのドームは、1453年のオスマン征服で大モスクの屋根となった。20世紀には博物館となり、21世紀に再びモスクとなった。562年の再建以来1460年余りにわたって、二つの宗教の礼拝空間を覆い続けているのは、小イシドロスの緩やかなドームである。
史料についても、一言しておかなければならない。この治世を伝える最大の史料は、帝国書記官プロコピオス(Procopius of Caesarea)の三部作である。公式の『戦史』、皇帝の建築を讃える『建築物』、そして暴露的な『秘史』。同じ書き手が、公の顔と裏の顔を書き分けた。テオドラの出自も、トリボニアヌスの人物像も、『秘史』の敵意を通して伝わっている。「ソロモンよ、わたしは汝に勝ちたり」の一句は逆に、プロコピオスにはなく、10世紀前後の『パトリア・コンスタンティノポレオス』で定着した伝承である。この治世の記憶は、讃美と敵意と後世の伝承の三層でできている。
疫病については、現代の古病理学研究がプロコピオスの記述を裏づけつつある。首都人口の40%、東地中海全体で25-50%という推定は、2014年 Wagner ほか(『The Lancet Infectious Diseases』)、2019年 Keller ほかの古代DNA研究に基づく。病原体は、ペスト菌 Yersinia pestis の系統と確定した。
ここで、532年1月の港に戻ろう。
側近たちは船を勧めた。皇帝は乗りかけた。皇后が立ち、「紫は最も美しい死装束である」と言った。そして皇帝は残り、3万人を殺して都を取り戻した。その灰の上に、彼は千年分の法を一つの体系にまとめ、正方形の上に円を載せた。
皇帝自身の胸の内を、史料は語らない。プロコピオスはテオドラの言葉を記すだけである。だが治世の全体を見渡すと、一つのことが見えてくる。法典も、大聖堂も、再征服も、どれも「一人の生涯では終わらないはずのもの」だった。1000年分の勅法を3年で。前例のないドームを5年10か月で。500年前に失われた西方を20年で。逃げる船に乗らなかった男は、そのあと一貫して、時間そのものに勝とうとしたように見える。ソロモンに勝った、と伝わる一句は、そのままこの治世の要約でもある。
ソロモンよ、わたしは汝に勝ったり
あの夜、船に乗らなかった代償として3万人が死んだ。その灰の上に、千年残る法典と、千五百年残るドームが立った。残ったものと失われたものを、同じ秤に載せるとき、この治世を何と呼ぶべきだろうか。
09主要な出来事と遺産
- ダルダニア州タウレシウム(現北マケドニア・スコピエ近郊)で農民の子として生まれる。本名ペトルス・サッバティウス
- 叔父ユスティヌス1世の即位、コンスタンティノポリスで親衛部隊エクスクビトル隊司令官として宮廷に入る
- 執政官(コンスル)就任、叔父のもとで事実上の共同統治者に
- 身分差婚を解禁する法改正を経て、女優階層出身のテオドラと結婚
- 重病の叔父により副帝・共同皇帝として戴冠、テオドラもアウグスタに
- 叔父ユスティヌス崩御、単独皇帝として即位、45歳
- トリボニアヌス率いる10人委員会発足、『勅法彙纂』編纂開始
- 『勅法彙纂』(Codex Justinianus)第1版公布
- 『学説彙纂』編纂委員会発足(トリボニアヌス・テオフィルス・ドロテウスほか)
- ニカの乱、青党・緑党の連合暴動、5日間で市街炎上、テオドラの「紫は最も美しい死装束」演説、ベリサリウスらによる鎮圧、約3万の死者
- 焼失したハギア・ソフィアの再建着工、アンテミオスとイシドロスの設計
- ベリサリウスがカルタゴ近郊に上陸、デキムムの戦いでヴァンダル王国を撃破
- 『法学提要』(Institutiones)公布
- 『学説彙纂』(Digesta)50巻・約150万行を完成・公布
- 『勅法彙纂』第2版公布、ヴァンダル王国滅亡(北アフリカ回復)
- ベリサリウスのイタリア遠征、シチリア・ナポリ・ローマ・ラヴェンナ占領
- ハギア・ソフィア第1期献堂式、「ソロモンよ、わたしは汝に勝ちたり」の伝承
- ユスティニアヌス疫病(腺ペスト)第一波、コンスタンティノポリスで人口の40%が失われる、皇帝自身も542年に罹患・回復
- 皇后テオドラ没(癌と推定)、ユスティニアヌスは以後17年間再婚せず
- ベリサリウスの罷免と復帰、イタリア戦線の指揮はナルセスへ
- ナルセスがタギナエの戦いで東ゴート王トティラを撃破、ヴィジゴート内紛に介入し南ヒスパニアにスパニア州設置
- ササン朝とのラジカ戦争、561年に「50年和平」締結
- モンス・ラクタリウスでテイア討死、ゴート戦争完結。『プラグマティカ・サンクティオ』でイタリアに帝国法を施行
- 地震でハギア・ソフィアのドーム部分崩壊
- 小イシドロスの再設計でドーム再建完成、6メートル高く曲率を緩めた
- コンスタンティノポリスの大宮殿で崩御、享年83前後、聖使徒教会に葬られる。甥ユスティヌス2世が継承
- ボローニャでイルネリウスが『学説彙纂』を研究、ヨーロッパ大陸法の再出発点となる
- オスマン征服後、ハギア・ソフィアはアヤソフィア大モスクに
- フランス民法典・ドイツ民法典・日本民法にローマ法大全の構造が受け継がれる
残した思想の輪郭
- ローマ法大全の編纂 ― 1000年分の皇帝勅法と法学者学説を『』『学説彙纂』『法学提要』『』の四部として体系化、ヨーロッパ大陸法の千年の土台を据えた
- 法と剣の対称 ― 『法学提要』序文「皇帝の威光は、武器のみならず法によっても武装されていなければならない」、統治の二本立て
- ハギア・ソフィアの構造革新 ― ペンデンティブによる「正方形の上に円のドーム」、幾何学者二人の設計、5年10か月の突貫工事、ソロモン神殿の意識
- 皇后テオドラとの共同統治 ― 「紫は最も美しい死装束」のニカの乱鎮圧、女性の親権・強制売春禁止の立法、548年の死後も17年間再婚しなかった伴侶
- 旧ローマ帝国再統一の試み ― ベリサリウス・ナルセスによる北アフリカ・イタリア・南ヒスパニア再征服、地中海の短命な再統一
- 疫病と帝国の有限性 ― による人口の25-50%喪失、皇帝自身の罹患、再征服領の喪失、野心の代償
- 千年越しの継承 ― 12世紀ボローニャ法学派、近世民法典を経て、現代の大陸法系民法典の根幹として生き続ける
- 建築の千五百年 ― ハギア・ソフィアは正教会大聖堂、オスマン・モスク、博物館、再モスクと位相を変えながら、同じドームを掲げ続けている
つながり
- キケロ
先駆 — 『学説彙纂』冒頭の正義の定式、その下敷きは六百年前の共和政の弁論家にあった。
- トマス・アクィナス
継承 — ボローニャで蘇ったローマ法大全を、キリスト教の四法区分へ組み替えた神学者。
- ミマール・スィナン
批判的継承 — 『あれに匹敵するドームは建てられまい』という声に、千年後セリミエで答えた建築家。
- プラトン
反発 — 529年に閉じられた学園の千年は、この人が開いた紀元前387年に始まる。
さらに辿るならExternal References
ユスティニアヌス1世を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ユスティニアヌス1世」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Justinian I"