キケロ
共和政の美徳は、 弁論のうちに生き残るか?
ラテン世界に哲学を移植し、共和政の最後を声で守った弁論家
- 共和政擁護
- 弁論術
- 義務について
- 懐疑学派
時代の空気
BC1世紀のローマ共和政は終焉に向かう内戦と政争の渦中にあった。スラの独裁(BC82-79年)による粛清、元老院派と平民派の抗争、属州拡大に伴う大土地所有が共和政の社会基盤を蝕んでいた。BC63年カティリナの陰謀、BC60年第一次三頭政治、BC49年カエサルのルビコン渡河、BC48年ファルサルスでポンペイウス敗死、BC44年3月15日カエサル暗殺、BC43年第二次三頭政治の追放令でキケロは斬首された。地中海はローマ支配下に入りつつあったが、アテナイ・ロドスが哲学と修辞学の中心であり続けていた。
01アルピヌムの新参者、ローマへの登攀
BC106年1月3日、ローマの南東約百キロ、山間の町アルピヌムに生まれた。父マルクス・トゥリウス・キケロは騎士階級の地主で、病弱ながら学問を尊び、息子をローマへ送って最高の教育を受けさせた。
キケロは「」だった。祖先に執政官を持たない家柄で、ローマの貴族社会に入り込むには血筋の代わりに弁舌と学問を武器にしなければならなかった。若い頃から法廷で名を上げ、スラ時代の不条理な訴追に抗ってロスキウス弁護を引き受けた(BC80年)のが最初の大きな勝利だった。
ギリシア遊学(BC79-77年)でアテナイとロドスに学び、とりわけラリッサのフィロン門下での懐疑派、そしてロドスのポセイドニオスのもとでストア派の両方から深い影響を受けた。ラテン語はまだ哲学の語彙を持たなかった。彼は後に、ギリシア語の eudaimonia を beatitudo に、ataraxia を tranquillitas animi に移し替える仕事を始める。
BC70年、シチリア総督ガイウス・ウェレスを告発した裁判で、キケロはローマ第一の弁論家として決定的な地位を得た。ウェレスは属州で美術品を奪い、裁判を買収し、住民を搾取したと訴えられていた。被告側には名弁論家ホルテンシウスがいたが、キケロの第一演説だけで弁護側は崩れ、ウェレスは亡命した。属州民の声をローマ法廷へ運んだこの事件は、新参者キケロが貴族社会の腐敗に挑む象徴となった。
彼の上昇は、たんに雄弁の勝利ではない。財産、後援関係、家柄がものをいう共和政末期に、キケロは裁判記録、証人尋問、法知識、文学的引用を一つにまとめ、言葉を政治的資本へ変えた。だからこそ彼の弁論は、後の学校で修辞学の模範となる一方、同時代の政治闘争では危険な武器でもあった。
02執政官、カティリナ弾劾
BC63年、43歳で執政官に就任した。新参者としては例外的な速さの cursus honorum(官職の梯子)の頂点だった。同じ年、貴族出身の没落者ルキウス・セルギウス・カティリナが武装蜂起を企てた。
キケロは元老院で「カティリナよ、いつまで我々の忍耐を弄ぶのか」と始まる四篇の弾劾演説を行い、陰謀を暴いて共和国を救った。元老院は彼に「祖国の父(pater patriae)」の称号を与えた。しかし同時にこの成功は禍根を残した。裁判なしで陰謀者を処刑したという手続きの逸脱を、のちの政敵クロディウスが攻撃材料にする。
BC58年3月20日、クロディウスの扇動でキケロは追放された。財産没収、家屋破壊。テッサロニキで惨めな流浪を過ごし、BC57年9月に元老院決議を経て帰還したが、政治的影響力は以前ほどではなかった。
カティリナ事件の勝利には、共和政の矛盾が含まれていた。陰謀者たちは危険だったが、ローマ市民を裁判なしで処刑したことは、法の手続きから見れば弱点だった。キケロは国家を救ったと信じた。敵は、その救国の行為を専断と呼んだ。この二つはどちらも全くの虚偽ではない。共和政末期の政治は、非常時の安全と市民権の手続きが裂ける場所で崩れていく。
BC60年、カエサル、ポンペイウス、クラッススによる第一次三頭政治が成立すると、キケロは微妙な位置に置かれた。彼はポンペイウスを敬い、カエサルの才を認めながらも、私的同盟が元老院の制度を迂回することに警戒した。三頭政治から協力を求められても完全には加わらず、その曖昧な距離がクロディウスの攻撃を許した。政治家キケロには、原理への忠実さと、権力の組み合わせを読み切れない弱さが同居していた。
03内戦、カエサルとの距離
BC49年、カエサルがルビコン川を渡り内戦が始まる。キケロは最後までポンペイウス側に立ったが積極的な参戦は避けた。ファルサルスの戦い(BC48年)で決着がつくと、ブルンディシウムに戻ってカエサルの赦免を受けた。
内戦後の数年間(BC46-44年)は政治から離れ、トゥスクルム荘にこもって哲学書の執筆に没頭した。『アカデミカ』『老年について』『友情について』――わずか二年で哲学の主要分野を体系的にラテン語化した。
娘トゥリアの死(BC45年2月)がこの時期の執筆を加速させた。深い喪の中で、彼は妻テレンティアと離婚し、哲学に慰めを求めた。
政治思想の主著は内戦以前に始まっている。(De Re Publica)はBC54年頃から書かれ、スキピオを語り手として、共和政とは「人民の事柄(res publica)」であると定義し、王政・貴族政・民主政を混ぜた混合政体を論じた。『法律論』(De Legibus)はBC52年頃の未完の対話篇で、自然法に基づくローマ法の根を探る。ここでキケロは、法を単なる命令ではなく、自然に適った正しい理性と結びつける。
アッティクス宛書簡は、もう一つのキケロを見せる。現存する書簡群のうち、アッティクス宛は約400通、全書簡では916通と数えられる。そこには高い理想だけでなく、借金、家族問題、娘への愛、政敵への怒り、判断の揺れがそのまま出る。哲学者としてのキケロは格調高いが、書簡のキケロはしばしば不安で、愚痴を言い、情勢を読み誤る。その弱さがあるから、共和政末期の日常が生きた声として残った。
04『義務について』、息子への遺言
BC44年、晩年の最後の主著『義務について(De Officiis)』を息子マルクスに向けて書いた。アテナイで学ぶ息子への長い手紙の形式を取り、パナイティオスのストア派倫理学を下敷きにしつつ、ローマ人の実践倫理として再編した。
四つの枢要徳――知恵、正義、勇気、節制――を論じ、とりわけ「有益さ(utile)と正しさ(honestum)は決して対立しない」という命題を中心に据えた。利益のために不正を為す者は、長い目で見れば必ず失うとキケロは書く。この書は千数百年にわたって西欧倫理学の教科書として読み継がれ、アンブロシウス、アクィナスを経てカント、ルソーにも及んだ。
『義務について』は、カエサル暗殺後の混乱のただなかで書かれた。息子への手紙でありながら、実際にはローマの若い支配層全体への遺言である。名誉あることと有益なことが衝突して見えるとき、人はたいてい有益さの名で不正を正当化する。キケロは、その判断そのものが見誤りだと言う。共同体の信頼を破る利益は、利益の姿をした損失である。
この議論にはストア派の厳しさと、アカデメイア派の慎重さが混じる。キケロは一つの学派に入信する哲学者ではなかった。新アカデメイアの懐疑に従い、確実な知を名乗ることを避け、もっとも蓋然的な判断を選ぶ。だが倫理と政治では、何も決めない懐疑にとどまらない。ストア派から義務、自然、理性の語彙を取り、ローマの公職者が使える形へ翻訳した。この折衷主義こそ、彼の哲学スタイルである。
05ピリッピカ、そして暗殺
BC44年3月15日、カエサルが暗殺された。キケロは共和政復活の最後の機会だと見た。カエサル後継の実権を握ろうとするマルクス・アントニウスに対し、BC44-43年にかけて十四篇の「ピリッピカ演説」を元老院で行い、容赦ない批判を浴びせた。名はデモステネスがピリッポス二世を弾劾した「ピリッピカ」に倣った。
しかし共和政擁護派は力を失っていた。BC43年、オクタウィアヌス(後のアウグストゥス)、アントニウス、レピドゥスが第二次三頭政治を結成すると、彼らは互いに政敵を「追放リスト」に載せて清算した。キケロはアントニウスの筆頭の標的だった。
ここまで来ては、もはや逃げきれまい。追いつかせよ。
BC43年12月7日、フォルミアエの別荘から逃げる輿の中で、キケロはアントニウスが送った軍人ヘレンニウスらの追手に追いつかれた。彼は首を輿から出して斬首を受け入れた。首と、ピリッピカを書いた右手は、ローマに送られてフォルムのロストラ(演説台)に釘付けにされた。ローマの共和政は、その夜、静かに息を引き取った。
ピリッピカ演説は、キケロの最後の賭けだった。彼は若いオクタウィアヌスを元老院側へ引き込み、アントニウスを共和国の敵として孤立させようとした。第2演説は実際には口頭で読まれず、書面として流布した強烈な人格攻撃である。言葉で政治を動かしてきた人が、最後に言葉で武装勢力を押し返そうとした。しかし軍団を持たない弁論家は、軍団を持つ者たちの取引に敗れた。
第二次三頭政治の追放令では、オクタウィアヌスもキケロを救わなかった。アントニウスは自分を攻撃した声を消し、右手をさらした。これは一人の政敵の処刑であると同時に、共和政の演説空間そのものへの見せしめだった。ロストラは、かつてキケロが市民へ語った場所であり、その場所に彼の首と手が置かれたことは、ローマ政治の言葉が暴力に屈した場面として記憶された。
06ラテン哲学の創始、伝承の厚さ
キケロは独創的哲学者ではないが、哲学史における役割はそれに劣らず大きい。ギリシア哲学をラテン語で読み書きできる語彙にした功績は比類ない。qualitas(質)、essentia(本質)、moralis(道徳)などの術語は彼の造語か定着に負う。
中世のヨーロッパはギリシア語を長く失ったが、キケロのラテン語は残った。アウグスティヌスは青年期に『ホルテンシウス』(現在は散逸)を読んで哲学に回心したと『告白』に記す。ルネサンス期のペトラルカは忘れられていたキケロの書簡集を発見(1345年)し、古典復興の引き金を引いた。『国家論』は1819年にバチカン図書館でアンジェロ・マイが発見した重書写本の下層から本格的に回復され、モンテスキューやジェファソンらはキケロの共和政論を近代政治思想の原型として読み直した。
ローマ法と政治語彙への寄与も大きい。res publica、lex、ius naturale、officium、societas といった語は、キケロを通じて倫理と法の言葉として重みを持った。ギリシア哲学の概念を訳すだけでなく、ローマ人が法廷、元老院、家族、友情、属州統治の場で使える言葉へ作り替えたのである。翻訳は従属的な仕事ではなかった。ラテン語で哲学する可能性そのものを作る仕事だった。
もちろん、キケロは無傷の英雄ではない。自己顕示は強く、政局判断はしばしば揺れ、奴隷制や帝国支配を根本から疑うことはなかった。それでも、共和政が崩れていく時代に、言葉、法、義務、友情を同じ秩序の中で守ろうとした緊張は消えない。彼の著作が長く読まれたのは、勝者の理論ではなく、敗れた制度の最後の自画像だったからである。
07主要な出来事と著作
- アルピヌムに誕生
- アテナイ・ロドスに遊学、ギリシア哲学を学ぶ
- ウェレス裁判で属州総督の腐敗を告発し、第一級の弁論家となる
- 執政官就任。カティリナ弾劾
- 第一次三頭政治成立。私的同盟と元老院政治の緊張が深まる
- クロディウスにより追放、翌年帰還
- 内戦期、ポンペイウス側
- 哲学書の執筆期。『義務について』等
- カエサル暗殺後、アントニウス弾劾『ピリッピカ』
- 12月7日、第二次三頭政治の追放令により暗殺。享年63
残した思想の輪郭
- ラテン哲学の創始 ― ギリシア哲学の術語と構想をラテン語に移し、西欧哲学の言語基盤を作る
- 共和政の理論 ―
res publica(公共の事柄)の語義を掘り下げ、混合政体論を展開 - 自然法思想 ― 真の法は不変・普遍で神から与えられるというの主張は後の自然法論へ
- 義務論の枠組 ―
honestumとutileの一致を説く『義務について』は中世・近世倫理学の範型 - 懐疑学派(アカデメイア派) ― 絶対知を避け蓋然的真理を選ぶ態度が、近世懐疑主義の遠い祖となる
出典と確認メモ
6件- 文脈原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: キケロは元老院で「カティリナよ、いつまで我々の忍耐を弄ぶのか」と始まる四篇の弾劾演説を行い、陰謀を暴いて共和国を救った。元老院は彼に「祖国の父(pater patriae)」の称号を与えた。しかし同時...
一次資料を開くIn Catilinam I 冒頭「Quo usque tandem abutere, Catilina, patientia nostra?」原文。philo...
- 文脈原典で確認済み要旨訳
要旨訳: cicero-1.context: 愛娘 Tullia を出産後の病で失った直後 (45 BC 2 月)、公的活動からも遠ざけられた Cicero が、Tusculum 別荘に籠もって書き継いだ五日間...
一次資料を開くTusculanae Disputationes 全 5 巻 Latin canonical text + 英訳 link 集成。philoglyph 「五日間...
- 引用本文伝承として記録伝承
伝承: 輿を止め、首を差し出して殺害者を見据えたというプルタルコスの場面描写にもとづく編者再構成。キケロ本人の逐語的な台詞ではない。
一次資料を開くPenelope Thayer (uchicago.edu) Plutarch's Lives Bernadotte Perrin 英訳。Cicero 死の場面...
- 抜粋一次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 哲学なしには、我々が求める雄弁家は作られえない。
一次資料を開くProject Gutenberg Tusculanae Disputationes 英訳 (Yonge 訳)。'principles and rules of...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: cicero.mdx pullsource '『トゥスクルム荘対談集』(BC45年)' は Cicero 'Tusculanae Disputationes' (BC45年頃) を指す書誌として ac...
一次資料を開くThe Latin Library Tusculanae Disputationes liber tertius primary text。書名 'Tuscul...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 民の安寧こそ、最高の法であれ(Salus populi suprema lex esto)
一次資料を開くThe Latin Library De Legibus liber tertius テクスト。section [8] 'Ollis salus populi ...
つながり
- アリストテレス
先駆 — キケロはアカデメイア・リュケイオンの両方に学んだローマの哲学者として、『善悪の究極について(De finibus)』『トゥスクルム荘対談集』『義務について(De officiis)』でアリストテレス倫理学・ストア派・エピクロス派をラテン語の哲学用語で紹介。「honestum」「virtus」「officium」等のラテン術語を定め、中世以降の西方哲学語彙の源流となる
- アウグスティヌス
先駆 — 『告白』第3巻4章で19歳のときキケロ『ホルテンシウス(哲学の勧め)』(現存せず)を読み「突如すべての空しい希望は色あせて、不滅の知恵への驚くべき愛が燃え上がった」と記す。回心の最初の精神的転回点。『神の国』(413-426)でもキケロ『国家について』を繰り返し引用、キケロのラテン文体はアウグスティヌス散文の範型
- ユスティニアヌス1世
継承 — キケロ『法律について』『国家について』の自然法と市民法の区別、『義務について』の正義論は、帝政前期の古典ローマ法学者(ガイウス、ウルピアヌス、パウルス、パピニアヌスら)を経由して、『学説彙纂』(533年、トリボニアヌス主宰)に大量に引用・編入された。『学説彙纂』第1巻冒頭のウルピアヌスによる「正義とは各人に彼の権利を帰属させる恒常不断の意志である」(Iustitia est constans et perpetua voluntas ius suum cuique tribuendi)は、キケロ『国家について』の正義論と自然法論を下敷きにした定式。共和政末期の法思想が600年を超えて帝国法典編纂に流れ込む継承の主要経路
- 大スキピオ
共鳴 — キケロ『国家論(De re publica)』(BC54-51)は大スキピオの孫スキピオ・アエミリアヌスを主たる対話者に据え、第6巻「スキピオの夢(Somnium Scipionis)」で大スキピオ(祖父)が孫の夢に現れて共和政の徳と天界の秩序を説く構成をとる。マクロビウス『スキピオの夢注解』(5世紀)を経て中世思想へ伝えられ、ローマの公共徳の典型としてキケロがスキピオの記憶を意図的に再構築した。ただしキケロは大スキピオ本人の著作に依拠するのではなく、ポリュビオス『歴史』のスキピオ像を母胎に再演した点は注意を要する
さらに読むならFurther Reading
キケロの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門キケロー 義務について
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生きた跡を辿るPlaces
キケロが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
キケロを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「マルクス・トゥッリウス・キケロ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Cicero"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Cicero"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Cicero (106—43 B.C.E.)"
Project GutenbergEnglishTusculan Disputations(C. D. Yonge 英訳)— Project Gutenberg
『トゥスクルム荘対談集』英訳
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