キケロ
剣を持たない人は、 言葉で何を守れるのか?
ラテン世界に哲学を移植し、共和政の最後を声で守った弁論家
- 共和政擁護
- 弁論術
- 義務について
- 懐疑学派
共和政ローマが内戦で崩れ、剣を持つ者が言葉を持つ者を追い詰めた時代 — ひらく
時代の空気
BC1世紀のローマ共和政は終焉に向かう内戦と政争の渦中にあった。スラの独裁(BC82-79年)による粛清、元老院派と平民派の抗争、属州拡大に伴う大土地所有が共和政の社会基盤を蝕んでいた。BC63年カティリナの陰謀、BC60年第一次三頭政治、BC49年カエサルのルビコン渡河、BC48年ファルサルスでポンペイウス敗死、BC44年3月15日カエサル暗殺、BC43年第二次三頭政治の追放令でキケロは斬首された。地中海はローマ支配下に入りつつあったが、アテナイ・ロドスが哲学と修辞学の中心であり続けていた。
01輿の中で、首を差し出す
BC43年12月7日。フォルミアエの別荘から、一台の輿が出ていく。輿とは、人が担いで運ぶ乗り物のことだ。中にいるのはキケロ、63歳。ローマで一番の弁論家と呼ばれた男である。
追ってくるのは、政敵アントニウスが送った軍人ヘレンニウスたちだった。輿は逃げきれなかった。追いつかれたとき、キケロは輿から首を出した。そして、斬首を受け入れた。
ここまで来ては、もはや逃げきれまい。追いつかせよ。
首は切り落とされた。右手も切り落とされた。アントニウスを批判する演説を書いた、その右手だ。二つはローマへ送られた。そして広場の演説台(ロストラ)に釘付けにされた。
演説台は、かつてキケロが市民に語りかけた場所だった。彼の声が生まれた場所に、彼の首と手が置かれたのだ。
なぜ、言葉で生きた男は、言葉を書く右手ごと殺されなければならなかったのか。なぜ彼は、最後に逃げるのをやめたのか。時は37年前に戻る。
02新参者、言葉を武器にする
BC80年、ローマの法廷に26歳の若い弁護人が立った。被告はロスキウスという男である。独裁者スラの時代で、不当な訴えに逆らうことは危険だった。若者はその弁護を引き受け、勝った。これが最初の大きな勝利だった。
若者の名は、マルクス・トゥリウス・キケロ。ローマの南東およそ百キロ、山あいの町アルピヌムに生まれた。父は騎士階級の地主だった。体は弱かったが学問を大切にし、息子をローマへ送って最高の教育を受けさせた。
キケロは「」だった。先祖に執政官を持たない家柄、という意味だ。執政官はローマの最高の役職である。血筋のない者が貴族の社会に入るには、弁舌と学問しかなかった。
BC79年から77年まで、キケロはギリシアへ学びに行った。アテナイとロドスで学んだ。ラリッサのフィロンには、懐疑を重んじるの考えを学んだ。プラトンの学園の流れをくむ学派である。ロドスのポセイドニオスには、の考えを学んだ。この二つが、生涯の思考の土台になる。
ラテン語には、まだ哲学の言葉がなかった。キケロはのちに、その言葉を自分で作る仕事を始める。ギリシア語の eudaimonia(幸福)は beatitudo に。ataraxia(心の平静)は tranquillitas animi に移し替えた。
BC70年、36歳のとき、決定的な裁判が来た。相手はシチリア総督ガイウス・ウェレス。属州で美術品を奪い、裁判を買収し、住民を苦しめたと訴えられていた。弁護側には名弁論家ホルテンシウスがいた。だがキケロの最初の演説だけで、弁護側は崩れた。ウェレスは亡命した。
属州の人々の声を、ローマの法廷に運んだ裁判だった。新参者が貴族社会の腐敗に挑む、その象徴になった。キケロはこれで、ローマ第一の弁論家になった。言葉が、政治の力に変わったのだ。だが、言葉で登った男は、言葉で何を守るのか。それを試す年が来る。
03執政官の年、そして追放
BC63年、43歳で執政官になった。新参者としては例外的な速さだった。ローマの役職には登る順番がある。それを cursus honorum(官職の梯子)と呼ぶ。その一番上まで登ったのだ。
同じ年、貴族出身のカティリナという男が武装蜂起を企てた。没落した貴族で、力ずくで政権を奪おうとしていた。キケロは元老院で、四つの演説を行った。元老院とは、ローマの政治を動かす貴族たちの議会である。
「カティリナよ、いつまで我々の忍耐を弄ぶのか」。演説はこう始まる。このカティリナ弾劾で陰謀は暴かれ、国は救われた。元老院は彼に「祖国の父(pater patriae)」の称号を与えた。
民の安寧こそ、最高の法であれ(Salus populi suprema lex esto)
だが、この勝利は禍根を残した。陰謀者たちは、裁判なしで処刑されたのだ。ローマ市民には、裁判を受ける権利があった。キケロは国を救ったと信じた。敵は、それを独断と呼んだ。どちらも、まるきり嘘ではなかった。非常時の安全と、市民の権利の手続き。この二つが裂けるところで、共和政は崩れていく。
BC60年、、、クラッススの三人が手を組んだ。第一次三頭政治である。国の制度の外で結ばれた、私的な同盟だった。キケロはポンペイウスを敬い、カエサルの才能も認めていた。だが元老院を飛び越える同盟には警戒した。協力を求められても、完全には加わらなかった。
その曖昧な距離が、敵に隙を与えた。BC58年3月20日、政敵クロディウスの扇動で、キケロは追放された。財産は没収され、家は壊された。テッサロニキで、みじめな流浪の日々を送った。
翌BC57年9月、元老院の決議で帰還が許された。だが、以前の力は戻らなかった。原理に忠実であろうとする心と、権力の組み合わせを読み切れない弱さ。その両方が、この政治家の中に同居していた。そして八年後、ローマは戦場になる。
04内戦のあと、トゥスクルムの机で
BC49年、カエサルがルビコン川を渡った。軍を率いて国境の川を越えることは、国への反逆を意味した。内戦が始まった。キケロは最後までポンペイウス側に立った。だが、自分から戦いに加わることは避けた。
BC48年、ファルサルスの戦いでカエサルが勝った。キケロはブルンディシウムに戻り、カエサルの赦免を受けた。敵だった男に、命を許されたのだ。
BC46年から44年まで、キケロは政治から離れた。トゥスクルムの別荘にこもり、哲学の本を書き続けた。『アカデミカ』『老年について』『友情について』。わずか二年で、哲学の主な分野をラテン語で書き上げた。
哲学なしには、我々が求める雄弁家は作られえない。
この執筆を速めたのは、悲しみだった。BC45年2月、娘トゥリアが死んだ。深い喪の中で、彼は妻テレンティアと離婚した。そして哲学に慰めを求めた。
政治についての主な本は、内戦の前に始まっていた。(De Re Publica)はBC54年ごろから書かれた。スキピオという人物を語り手にして、国とは「人民の事柄(res publica)」だと定めた本だ。『法律論』(De Legibus)はBC52年ごろの、未完の対話篇である。法とは、ただの命令ではない。自然にかなった正しい理性と結びついている。キケロはそう書いた。
もう一人のキケロは、手紙の中にいる。親友に宛てた手紙には、高い理想だけではないものが出てくる。借金、家族の問題、娘への愛、政敵への怒り、揺れる判断。哲学者としてのキケロは格調高い。だが手紙のキケロは、よく不安になり、愚痴を言い、情勢を読み違える。その弱さがあるから、共和政の最後の日々が、生きた声として残った。
そして、BC44年3月15日が来る。
05息子への手紙、『義務について』
BC44年3月15日、カエサルが暗殺された。ローマは混乱の中にあった。その混乱のただなかで、キケロは最後の主著を書いた。『義務について(De Officiis)』である。
宛先は、アテナイで学ぶ息子マルクスだった。長い手紙の形をとっている。下敷きにしたのは、パナイティオスというストア派の人の倫理学だ。それを、ローマ人が実際に使える倫理として作り直した。
論じたのは四つの枢要徳である。知恵、正義、勇気、節制。そして中心に置いたのは、一つの命題だった。「有益さ(utile)と正しさ(honestum)は決して対立しない」。利益のために不正をする者は、長い目で見れば必ず失う。キケロはそう書く。
名誉あることと、得になること。この二つがぶつかって見えるときがある。そのとき人はたいてい、得になるという理由で不正を正しいと言う。キケロは、その判断そのものが見誤りだと言う。仲間の信頼を壊して得た利益は、利益の姿をした損失である。
この本は息子への手紙だった。だが本当の宛先は、ローマの若い支配層すべてだった。つまり、遺言である。この本は千年以上のあいだ、西欧の倫理学の教科書として読み継がれた。アンブロシウス、アクィナスを経て、カント、ルソーにも届いた。
そしてキケロは、書斎から元老院へ戻った。剣を持たない男が、剣を持つ男に挑む。最後の賭けだった。
06ピリッピカ、そして輿の中へ
キケロは、カエサルの死を、共和政を取り戻す最後の機会だと見た。カエサルの後を継いで実権を握ろうとしたのは、だった。キケロはBC44年から43年にかけて、元老院で十四篇の演説を行った。容赦ない批判だった。
この演説は「ピリッピカ演説」と呼ばれる。名前は、ギリシアの弁論家に由来する。彼はかつて、マケドニア王ピリッポス二世を弾劾する演説を「ピリッピカ」と呼んだ。キケロはその名に倣った。
第2演説は、実際には口に出して読まれなかった。書面として広まった、強烈な人格攻撃である。キケロの狙いはこうだった。若い(後のアウグストゥス)を元老院側に引き込む。そしてアントニウスを、国の敵として孤立させる。
だが、共和政を擁護する側は、すでに力を失っていた。BC43年、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスの三人が手を組んだ。第二次三頭政治である。三人は互いの政敵を「追放リスト」に載せ、清算した。アントニウスにとって、キケロは筆頭の標的だった。オクタウィアヌスも、彼を救わなかった。
こうして、BC43年12月7日の輿に戻る。
キケロは、若いころから言葉で政治を動かしてきた。最後にも、言葉で武装勢力を押し返そうとした。だが軍団を持たない弁論家は、軍団を持つ者たちの取引に敗れた。
首と右手が演説台にさらされた意味も、ここではっきりする。アントニウスは、自分を攻撃した声を消した。右手をさらしたのは、それがピリッピカを書いた手だからだ。一人の政敵を殺しただけではない。演説台という、共和政の言葉の空間そのものへの見せしめだった。ローマの共和政は、その夜、静かに息を引き取った。
では、負けた男の言葉は、なぜ二千年も残ったのか。
07ラテン哲学の創始、伝承の厚さ
キケロは独創的哲学者ではないが、哲学史における役割はそれに劣らず大きい。ギリシア哲学をラテン語で読み書きできる語彙にした功績は比類ない。qualitas(質)、essentia(本質)、moralis(道徳)などの術語は彼の造語か定着に負う。eudaimonia を beatitudo に、ataraxia を tranquillitas animi に移し替えた仕事も、この語彙創出の一部である。
その哲学的立場には、ストア派の厳しさと、アカデメイア派の慎重さが混じる。キケロは一つの学派に入信する哲学者ではなかった。新アカデメイアの懐疑に従い、確実な知を名乗ることを避け、もっとも蓋然的な判断を選ぶ。だが倫理と政治では、何も決めない懐疑にとどまらない。ストア派から義務、自然、理性の語彙を取り、ローマの公職者が使える形へ翻訳した。この折衷主義こそ、彼の哲学スタイルである。
政治思想では、『国家論』がスキピオを語り手として共和政を「人民の事柄(res publica)」と定義し、王政・貴族政・民主政を混ぜた混合政体を論じた。『法律論』は自然法に基づくローマ法の根を探り、法を単なる命令ではなく、自然に適った正しい理性と結びつけた。res publica、lex、ius naturale、officium、societas といった語は、キケロを通じて倫理と法の言葉として重みを持った。ギリシア哲学の概念を訳すだけでなく、ローマ人が法廷、元老院、家族、友情、属州統治の場で使える言葉へ作り替えたのである。翻訳は従属的な仕事ではなかった。ラテン語で哲学する可能性そのものを作る仕事だった。
弁論の上昇もまた、たんに雄弁の勝利ではない。財産、後援関係、家柄がものをいう共和政末期に、キケロは裁判記録、証人尋問、法知識、文学的引用を一つにまとめ、言葉を政治的資本へ変えた。だからこそ彼の弁論は、後の学校で修辞学の模範となる一方、同時代の政治闘争では危険な武器でもあった。
伝承の厚さは書簡にも及ぶ。現存する書簡群のうち、アッティクス宛は約400通、全書簡では916通と数えられる。中世のヨーロッパはギリシア語を長く失ったが、キケロのラテン語は残った。アウグスティヌスは青年期に『ホルテンシウス』(現在は散逸)を読んで哲学に回心したとに記す。ルネサンス期のペトラルカは忘れられていたキケロの書簡集を発見(1345年)し、古典復興の引き金を引いた。『国家論』は1819年にバチカン図書館でアンジェロ・マイが発見した重書写本の下層から本格的に回復され、モンテスキューやジェファソンらはキケロの共和政論を近代政治思想の原型として読み直した。
もちろん、キケロは無傷の英雄ではない。自己顕示は強く、政局判断はしばしば揺れ、奴隷制や帝国支配を根本から疑うことはなかった。それでも、共和政が崩れていく時代に、言葉、法、義務、友情を同じ秩序の中で守ろうとした緊張は消えない。彼の著作が長く読まれたのは、勝者の理論ではなく、敗れた制度の最後の自画像だったからである。
演説台に釘付けにされた右手は、もう何も書けない。だがその手が書いた言葉は、二千年後の机の上にまだ開かれている。剣に負けた言葉と、剣より長く残った言葉は、同じものなのだろうか。
08主要な出来事と著作
- アルピヌムに誕生
- アテナイ・ロドスに遊学、ギリシア哲学を学ぶ
- ウェレス裁判で属州総督の腐敗を告発し、第一級の弁論家となる
- 執政官就任。カティリナ弾劾
- 第一次三頭政治成立。私的同盟と元老院政治の緊張が深まる
- クロディウスにより追放、翌年帰還
- 内戦期、ポンペイウス側
- 哲学書の執筆期。『義務について』等
- カエサル暗殺後、アントニウス弾劾『ピリッピカ』
- 12月7日、第二次三頭政治の追放令により暗殺。享年63
残した思想の輪郭
- ラテン哲学の創始 ― ギリシア哲学の術語と構想をラテン語に移し、西欧哲学の言語基盤を作る
- 共和政の理論 ―
res publica(公共の事柄)の語義を掘り下げ、混合政体論を展開 - 自然法思想 ― 真の法は不変・普遍で神から与えられるというの主張は後の自然法論へ
- 義務論の枠組 ―
honestumとutileの一致を説く『義務について』は中世・近世倫理学の範型 - 懐疑学派(アカデメイア派) ― 絶対知を避け蓋然的真理を選ぶ態度が、近世懐疑主義の遠い祖となる
つながり
- アリストテレス
先駆 — キケロがラテン語に移した倫理学の骨格は、リュケイオンの講義に始まる。
- アウグスティヌス
継承 — 失われた『ホルテンシウス』を読み「空しい希望が色あせた」と告白した十九歳が、後の教父になる。
- ユスティニアヌス1世
継承 — 共和政末期の法思想は、六百年後の帝国の大法典に流れ込んだ。編ませた皇帝がいる。
- 大スキピオ
共鳴 — 『スキピオの夢』で孫の夢枕に立ち、共和政の徳を説く役を与えられた将軍。
さらに読むならFurther Reading
キケロの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門キケロー 義務について
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生きた跡を辿るPlaces
キケロが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
キケロを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「マルクス・トゥッリウス・キケロ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Cicero"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Cicero"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Cicero (106—43 B.C.E.)"
Project GutenbergEnglishTusculan Disputations(C. D. Yonge 英訳)— Project Gutenberg
『トゥスクルム荘対談集』英訳