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宗教的思索

アッシジのフランチェスコ

Francis of Assisi·1181/82–1226·イタリア·

何も所有しないことが、 最も豊かな生き方になりうるか?

富を捨ててアッシジの町を裸足で歩き、被造物すべてを兄弟姉妹と呼んだ聖人

  • 清貧
  • 被造物への愛
  • 托鉢修道会

時代の空気

12世紀末から13世紀のイタリア中部、コムーネと呼ばれる商業都市が王侯から自立を勝ち取り、毛織物を中心とする商業革命が貧富の溝を深めていた時代だ。教皇インノケンティウス3世(在位1198-1216)は権力の絶頂で、1215年の第4ラテラノ公会議が異端審問の手続きを整え、カタリ派やワルド派が清貧を旗印に各地で運動を広げていた。エジプトとシリアでは第4から第6十字軍の影が伸び、商業都市の路上では托鉢で食を乞い説教する新しい修道会が、ドミニコのものと並んで芽吹きつつあった。

01アッシジの織物商の家

1181年ないし1182年、イタリア中部ウンブリア地方の山の町アッシジで生まれた。父ピエトロ・ディ・ベルナルドーネは毛織物商で、フランスとの商売のために長期出張中だった。母ジョヴァンナ(通称ピカ、プロヴァンス出身とも伝えられる)が出産の時期を単独で迎えた。出生時の洗礼せんれい名はジョヴァンニ(ヨハネ)だったが、父が帰国後、商売で行き来するフランスの国を愛でてフランチェスコ(「フランス人」の意)と呼び改めた、と伝えられる。本名はジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ。

一家は裕福だった。13世紀初頭のアッシジは、神聖ローマ皇帝の支配から自治を勝ち取りつつあった商業しょうぎょう都市(コムーネ)で、毛織物商の家は新興市民層の頂点近くに位置した。若きフランチェスコは父の商売に携わりながら、アッシジの青年たちの享楽的な宴会の中心人物になった。派手な衣装いしょう、歌、酒。詩人の心と商人の父の血が混じり合った。

1202年、アッシジとペルージアの市民間戦争が勃発。20歳前後のフランチェスコは騎士として参戦、ポンテ・サン・ジョヴァンニの戦いに敗れて捕虜となり、ペルージアの牢獄ろうごくに約1年拘禁された。解放後、重い病を患った。回復期、かつて楽しんだ宴会と冒険が突然色褪せて見えたと、後の伝記作者トマス・ダ・チェラーノ(『第一伝記』1228頃)が記す。

02回心――父との訣別

1205年頃、フランチェスコは騎士きし見習いの夢を抱き、南イタリアのプッリャに向かう途上、スポレートで奇妙な夢を見て引き返した。「主としもべ、どちらに仕えるのが望ましいか」と問われる夢だったと『第一伝記』は伝える。祈りながら放浪するうちに、アッシジ郊外サン・ダミアーノ聖堂の半ば崩れた礼拝堂で、磔刑たっけい像から語りかけられる体験をする――「フランチェスコよ、私の家を建て直しなさい」。

彼は父の店から高価な布を取り、売り払って修復しゅうふく費用に充てた。父ピエトロは激怒し、息子を監禁かんきん、裁判に訴えた。1206年、アッシジの司教グイドーの前で公開の対決が開かれた。フランチェスコは父の前で、着ていた衣服いふくをすべて脱ぎ捨てた。「今より、父ピエトロ・ディ・ベルナルドーネではなく、天の父のみを父と呼ぶ」。司教は自分のマントで裸の青年を包んだ。

この裸の決別のあと、フランチェスコは癩者らいしゃ(ハンセン病患者)の家に自らの手で接吻に行く。かつて最も忌み避けていた存在を、兄弟と呼ぶための儀礼的な跳躍だった。1209年頃、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂のミサで読まれた『マタイによる福音書』10章「金や銀をもつな、二枚の下着もはくな」を聞いて、托鉢と巡回説教の生活に踏み出す。

03『小さき兄弟たち』――托鉢修道会の創設

サン・ダミアーノ、そしてアッシジの谷間の小さな聖堂(「小さな区画」の意)を拠点に、フランチェスコは石を運んで教会を修復し、路傍で説教し、食を乞うて暮らした。1208年頃、彼のもとに最初の同志たちが集まり始めた――裕福な商人の息子ベルナルド・ディ・クインタヴァッレ、法律家ピエトロ・カッターニ、若い司祭シルヴェストロら。

1209年頃、フランチェスコは12人の仲間を連れてローマに赴きおもむき教皇きょうこうインノケンティウス3世に修道会の認可を求めた。福音書に従い「何も所有しない、托鉢で生きる、各地を巡って説教する」という簡素な規則(プロト・レグラ、原戒律)。教皇は当初ためらったが、夢で倒れかけたラテラノ大聖堂を小柄な男が支える光景を見たと伝えられ、口頭で認可した。公式の文書による認可は1223年11月、ホノリウス3世による(レグラ・ブッラータ)を待つことになる。これが後のフランシスコ会(会)である。

「小さき兄弟たち」(フラトレス・ミノレス、Fratres Minores)という名は、自ら最も低い者・最も小さな者として生きる覚悟の表明だった。男子修道会だけではない。1212年の枝の主日の夜、アッシジの貴族の娘キアラ(クララ、当時18歳)が家を出てフランチェスコのもとに走り、サン・ダミアーノを母院として女子修道会「貧しき婦人会()」が生まれた。後年、家族を持つ俗人のための在俗ざいぞく信徒会しんとかい(後の)も整えられ、男子・女子・在俗の三層構造が出来上がる。

主よ、私を平和の道具にしてください――憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに赦しを。

聖フランチェスコの平和の祈り(伝承、20世紀編集)

04スルターンを訪ねる――1219年

第5回十字軍じゅうじぐんの最中の1219年9月、フランチェスコはエジプトへ渡り、ナイル河口のダミエッタ包囲戦の戦線を越えて、サラセン(ムスリム)の軍営に入った。アイユーブ朝のスルターン・アル=カーミル(サラディンの甥)と対面、数日間の問答を交わしたと伝えられる。武装せず、兄弟イルミナートを伴った訪問。殉教じゅんきょうの覚悟があったと伝記作者ボナヴェントゥラは記している。

伝説では、フランチェスコは火の試練を提案し(聖書と預言の双方が通らない火の試練で、どちらの信仰が真かを示そう、と)、スルターンは感銘を受けて彼を丁重に送り返した、と伝わる。史実としてこの対話の詳細は定かでないが、十字軍のただ中で、非武装で異教のスルターンと会談した出来事自体が、当時も後世も衝撃的な記憶となった。中世ヨーロッパにおける対話的宣教の早い先駆とされる。エジプト滞在中の強い日差しと衛生環境の悪さは、後年彼を苦しめる眼病(トラコーマとらこーまと推定される)の発端ともなった。

帰国後、会は急速に大きくなり、規則の厳格さを緩める派と、原初の純粋さを守ろうとする派の緊張が生じた。フランチェスコは組織運営から一歩退き、黙想と祈りに傾斜した。1223年12月25日、ラツィオ州グレッチョぐれっちょの森で、フランチェスコは牛と驢馬と飼葉桶かいばおけを並べて降誕の場面を再現させたと伝えられる。後の西方教会のクリスマスの馬小屋うまごや飾り(プレゼピオ)の起源とされる夜だった。

05ラ・ヴェルナの聖痕、『被造物の讃歌』

1224年9月14日(十字架称揚祭)前後、トスカーナ山中の隠修所いんしゅうじょラ・ヴェルナで40日の断食と祈りの最中、フランチェスコは聖痕せいこん(スティグマタ)――磔刑のキリストと同じ傷――を両手両足と脇腹に受けたと伝えられる。複数の証人を伴ってキリスト教史上初めて記録された現象である。本人は晩年までこの傷を兄弟たちに見せようとせず、死後に確認されたと伝記は記す。

翌1225年の春、視力をほぼ失い病に伏したサン・ダミアーノの簡素な小屋で、(Cantico delle Creature、別名『太陽の賛歌』)を口述した。古イタリア語(ウンブリア方言)で書かれたこの讃歌は、ダンテ以前の俗語文学の最初期作の一つである。

「兄弟太陽」「姉妹月と星」「兄弟風」「姉妹水」「兄弟火」「母なる姉妹地」、そして最後に「姉妹なる、肉体の死」――被造物すべてに兄弟姉妹として呼びかけ、それぞれの性格を讃える。人間中心的世界観の外側に、万物を同じ神の創造のきょうだいとして配置するこの視点は、20世紀のエコロジー運動にも繰り返し引用される。

有名な「小鳥への説教」や「グッビオの狼を諭すさとす」の逸話いつわは、主に『フィオレッティ(聖フランチェスコの小さき花)』(14世紀初頭編纂)や『完徳の鏡』などの後代伝承に属する。史実の最も古い層は、1228年頃のトマス・ダ・チェラーノ『第一伝記(ヴィタ・プリマ)』、後の『第二伝記』、聖ボナヴェントゥラ『大伝記(レゲンダ・マイオル)』(1263)に記録されている。

06死、列聖

晩年のフランチェスコは、病と聖痕の痛みと視力の喪失に苦しみながら、祈りを続けた。1226年秋、アッシジのポルツィウンクラ聖堂(現在はサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ大聖堂の内部に保存)で死期を迎えた。死の数か月前、戒律を一字一句加減せず守るよう懇願する短い(テスタメント)を口述している。兄弟たちの歌う『被造物の讃歌』を聞きながら、1226年10月3日の夜、45歳前後で息を引き取った。

1228年7月16日、死後わずか2年で教皇グレゴリウス9世により列聖。破格の迅速さである。翌1228年、アッシジに聖フランチェスコ大聖堂の建設が開始され、1230年5月25日に遺骸が下層聖堂へ遷座せんざされた。上下二層の聖堂は後にジョット、チマブーエらによるフレスコ画で飾られ、中世絵画の重要な舞台となった。

20世紀、教皇ピウス12世は1939年にフランチェスコをイタリアの守護聖人、1979年、教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を生態学の守護聖人と宣言した。2013年、ベルゴリオ枢機卿は教皇位に就く際、中世以来の歴代教皇で初めて「フランチェスコ」の名を取り、彼の遺産への敬意を示した。

07主要な出来事と著作

  1. アッシジに誕生、洗礼名ジョヴァンニ、後にフランチェスコ
  2. ペルージア戦争で捕虜、1年間拘禁
  3. サン・ダミアーノ聖堂で磔刑像からの呼びかけを受ける
  4. 司教の前で裸となり父と決別
  5. 教皇インノケンティウス3世から修道会の口頭認可
  6. キアラ(クララ)がクララ会を創始
  7. 第5回十字軍中、エジプトでスルターン・アル=カーミルと対面
  8. 教皇ホノリウス3世が『正則戒律』を勅書認可、12月25日グレッチョで生きた降誕場面
  9. 9月14日前後、ラ・ヴェルナで聖痕を受ける
  10. サン・ダミアーノで『被造物の讃歌』を口述、視力を失う
  11. 10月3日、ポルツィウンクラ近くで死去、45歳前後。臨終前に『遺書』を口述
  12. 教皇グレゴリウス9世により列聖、聖フランチェスコ大聖堂の建設開始
  13. アッシジ大聖堂下層へ遺骸の遷座
  14. 教皇ヨハネ・パウロ2世が生態学の守護聖人と宣言

残した思想の輪郭

  • 清貧(paupertas) ― 所有を捨てることが真の豊かさであるという実践的覚悟
  • 托鉢修道会 ― 修道院の封閉から出て、世間を歩いて説教し食を乞う新しい修道形態
  • 万物の兄弟姉妹性 ― 太陽・月・水・火・死までを兄弟姉妹と呼ぶ世界観
  • 非武装の対話 ― 十字軍の最中にスルターンと問答を交わした中世の稀有な先例
  • 俗語文学の先駆 ― 古イタリア語による『被造物の讃歌』、ダンテ以前の民衆語の霊性
1226年10月3日、アッシジ郊外ポルツィウンクラの聖堂のそばで、45歳前後の生涯を閉じた。
7
  • 文脈伝承として記録伝承

    伝承: 伝説では、フランチェスコは火の試練を提案し(聖書と預言の双方が通らない火の試練で、どちらの信仰が真かを示そう、と)、スルターンは感銘を受けて彼を丁重に送り返した、と伝わる。史実としてこの対話の詳細は定...

    一次資料を開くBonaventura Legenda Maior IX.7-8 (1263) で火の試練 (ordeal by fire) 提案を詳述。Bonaventura...

  • 文脈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: アッシジの富裕な織物商の家を捨て、十字軍の時代にスルタンの前へ素手で歩み出し、小鳥と太陽に兄弟姉妹の名で呼びかけたフランチェスコ(1181/82-1226)の精神を、第一次大戦下の 1912 年フラン...

  • 文脈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: アッシジの富裕な織物商の家を捨て、十字軍の時代にスルタンの前へ素手で歩み出し、小鳥と太陽に兄弟姉妹の名で呼びかけたフランチェスコ (1181/82-1226) の精神を、第一次大戦前夜の 1912 年...

  • 出典伝承として記録伝承

    伝承: 聖フランチェスコの平和の祈り(伝承、20世紀編集)

  • 抜粋伝承として記録伝承

    伝承: 主よ、私を平和の道具にしてください――憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに赦しを

  • 抜粋伝承として記録伝承

    伝承: 主よ、私を平和の道具にしてください――憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに赦しを。

  • 引用原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 至高にして全能なる善き主よ ― 讃え、栄光、誉れ、あらゆる祝福はあなたのもの

    一次資料を開くPope Francis Laudato Si' (2015) 冒頭で Cantico delle Creature を引用。Vatican.va 公式 att...

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生きた跡を辿るPlaces

アッシジのフランチェスコが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 聖フランチェスコ大聖堂(アッシジ)墓所

    アッシジ, イタリア

    1228年の列聖直後に着工。下堂クリプタの石棺に聖フランチェスコが眠り、フィリアス(レオ・マッセオ・アンジェロ・ルフィーノ)の墓が側を囲む

さらに辿るならExternal References

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