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宗教的思索

アッシジのフランチェスコ

Francis of Assisi·1181/82–1226·イタリア·

すべてを手放した人は、 何を手に入れたのだろう?

富を捨ててアッシジの町を裸足で歩き、被造物すべてを兄弟姉妹と呼んだ聖人

  • 清貧
  • 被造物への愛
  • 托鉢修道会
町が商売で豊かになるほど貧しい人との差が開き、教会は力の頂点にあり、十字軍が海の向こうで戦っていた時代 — ひらく

時代の空気

12世紀末から13世紀のイタリア中部、コムーネと呼ばれる商業都市が王侯から自立を勝ち取り、毛織物を中心とする商業革命が貧富の溝を深めていた時代だ。教皇インノケンティウス3世(在位1198-1216)は権力の絶頂で、1215年の第4ラテラノ公会議が異端審問の手続きを整え、カタリ派やワルド派が清貧を旗印に各地で運動を広げていた。エジプトとシリアでは第4から第6十字軍の影が伸び、商業都市の路上では托鉢で食を乞い説教する新しい修道会が、ドミニコのものと並んで芽吹きつつあった。

01谷間の小さな聖堂で

1226年10月3日の夜。イタリア中部の山の町アッシジから谷へ下りたところに、小さな聖堂があった。という名の、質素な聖堂である。そのそばで、一人の男が死のうとしていた。

男はもう、ほとんど目が見えなかった。体は病にむしばまれ、両手両足と脇腹の傷が痛んだ。年は45歳前後。数か月前には、短いを仲間に口で伝えて書きとらせていた。決まりを一字一句変えずに守ってほしい、と頼む文だった。

その枕もとで、兄弟と呼び合う仲間たちが歌っていた。歌の名は。死にかけている男が、前の年に自分で作った歌である。太陽を兄弟と呼び、月と星を姉妹と呼ぶ歌だった。そして歌の終わりで、こう呼びかける。「姉妹なる、肉体の死」。

男の名はフランチェスコ。かつてはアッシジの派手な宴会の中心にいた、金持ちの商人の息子だった。その男が、何も持たずに死んでいく。しかも、自分の死を姉妹と呼ぶ歌を聞きながら。

なぜ、すべてを手放した男が、死までを姉妹と呼べたのか。時は、およそ45年前に戻る。

02織物商の息子

1181年か1182年、フランチェスコはアッシジに生まれた。父ピエトロ・ディ・ベルナルドーネは、毛織物を商う人だった。商売のためにフランスへ行き、長く家をあけることが多かった。母ジョヴァンナ(通称ピカ)は、夫のいない間に子を産んだ。

生まれた子の洗礼せんれい名は、ジョヴァンニ(ヨハネ)だった。父は帰ってくると、その名を呼び改めた。商売で行き来するフランスの国を愛でて、フランチェスコ(「フランス人」の意)と呼んだ、と伝えられる。本名はジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネである。

一家は裕福だった。当時のアッシジは、神聖ローマ皇帝の支配から町の自治を勝ち取りつつあった商業都市(コムーネ)である。毛織物商の家は、新しく力を持った町の人々の、ほぼ頂点にいた。

若いフランチェスコは、父の商売を手伝った。同時に、町の若者たちの派手な宴会の中心人物になった。目立つ衣装、歌、酒。詩人の心と、商人の父の血が混じり合った。

1202年、アッシジと隣の町ペルージアが戦争を始めた。20歳前後のフランチェスコは、騎士として戦いに出た。しかしポンテ・サン・ジョヴァンニの戦いで負け、捕虜になった。ペルージアの牢獄ろうごくに、およそ1年閉じこめられた。

牢から出たあと、彼は重い病にかかった。回復するころ、かつて楽しんだ宴会と冒険が、突然色あせて見えた。そう伝えるのは、のちに伝記を書いたトマス・ダ・チェラーノ(『第一伝記』1228年頃)である。色あせた景色の先に、彼は何を見ようとしたのか。

03裸の決別

1205年頃、フランチェスコはもう一度、騎士になる夢を追った。南イタリアのプッリャへ向かった。しかし途中のスポレートで、奇妙な夢を見て引き返した。「主と僕しもべ、どちらに仕えるのが望ましいか」と問われる夢だった、と『第一伝記』は伝える。

彼は祈りながら、あちこちをさまよった。アッシジの町の外に、サン・ダミアーノという半ば崩れた聖堂があった。その礼拝堂で、十字架にかけられたキリストの像から語りかけられる体験をする。「フランチェスコよ、私の家を建て直しなさい」。

彼は父の店から高価な布を持ち出した。それを売り、聖堂を直す費用にあてた。父ピエトロは激しく怒った。息子を家に閉じこめ、裁判に訴えた。

1206年、アッシジの司教グイドーの前で、父と子が向き合った。人々の見ている場だった。24歳前後のフランチェスコは、着ていた服をすべて脱いで捨てた。「今より、父ピエトロ・ディ・ベルナルドーネではなく、天の父のみを父と呼ぶ」。司教は自分のマントで、裸の青年を包んだ。

この裸の決別のあと、彼はハンセン病の人たちの家へ行った。自分の手で、その人たちに接吻せっぷんした。かつていちばん忌み避けていた人たちを、兄弟と呼ぶための一歩だった。

1209年頃、彼はポルツィウンクラのミサで『マタイによる福音書』10章の言葉を聞く。「金や銀をもつな、二枚の下着もはくな」。福音書に書いてあるとおりに、貧しく生きる。この生き方は、のちにと呼ばれる。彼は食を乞い、町から町へ歩いて説教する生活に踏み出した。一人で始めた道に、仲間は来るのだろうか。

04小さき兄弟たち

彼はサン・ダミアーノと、谷間の小さな聖堂ポルツィウンクラ(「小さな区画」の意)を拠点にした。石を運んで聖堂を直し、道ばたで説教し、食を乞って暮らした。1208年頃、その姿を見て仲間が集まり始めた。裕福な商人の息子ベルナルド・ディ・クインタヴァッレ、法律家ピエトロ・カッターニ。それに若い司祭シルヴェストロらである。

1209年頃、フランチェスコは12人の仲間とローマへ向かった。教皇に、自分たちの修道会を認めてほしいと願ったのである。決まりは簡素だった。何も所有しない、食を乞って生きる、各地を巡って説教する。福音書どおりの生き方を、そのまま決まりにしたものだった(原戒律)。

教皇は当初ためらった。しかし夢を見たと伝えられる。倒れかけたラテラノ大聖堂を、小柄な男が支える光景だった。教皇は口頭で認めた。正式な文書での認可は、もっと後になる。1223年11月、教皇ホノリウス3世による(レグラ・ブッラータ)である。これが後のフランシスコ会になる。

彼らは自分たちを「たち」(フラトレス・ミノレス)と名づけた。いちばん低い者、いちばん小さな者として生きる覚悟の表明だった。修道院の中に閉じこもらず、町を歩いて説教し、食を乞う。こうした新しい修道の形を、と呼ぶ。

仲間は男だけではなかった。1212年、復活祭の前の日曜(枝の主日)の夜のことである。アッシジの貴族の娘(クララ、当時18歳)が家を出て、フランチェスコのもとへ走った。サン・ダミアーノを母院として、女子修道会「貧しき婦人会」が生まれた。のちのである。

後年には、家庭を持つ普通の人々(在俗の信徒)のための会も整えられた。後のである。こうして男子・女子・在俗の三層構造が出来上がった。仲間は増えた。だがフランチェスコの目は、イタリアの外へ向いていた。戦争のただ中の、エジプトである。

05スルターンを訪ねる

1219年、キリスト教の国々は第5回十字軍じゅうじぐんを起こしていた。その年の9月、37歳前後のフランチェスコはエジプトへ渡った。ナイル河口の町ダミエッタでは、十字軍が包囲戦を続けていた。

彼はその戦線を越え、サラセン(ムスリム)の軍営に入った。武器は持たず、兄弟イルミナートを一人連れていた。そしてアイユーブ朝のスルターン・(サラディンの甥)と対面した。数日間、問答を交わしたと伝えられる。殺される覚悟があったと、伝記作者は記している。

伝説では、フランチェスコは火の試練を提案したという。火の中を通って、どちらの信仰が本物かを示そう、と。スルターンは感銘を受け、彼を丁重に送り返した、と伝わる。この対話の細かい中身は、史実としては定かでない。

だが十字軍のただ中で、武器を持たずに敵のスルターンと会った。そのこと自体が、当時も後の世も衝撃的な記憶となった。このは、中世ヨーロッパで対話によって信仰を伝えようとした、早い例とされる。エジプトの強い日差しと悪い衛生環境は、彼の目を痛めた。のちに彼を苦しめる眼病(トラコーマと推定される)の始まりだった。

主よ、私を平和の道具にしてください――憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに赦しを。

— 「聖フランチェスコの平和の祈り」(伝承、20世紀編集)。彼自身の言葉ではなく、後の時代の人々が、武器を持たずにスルターンに会ったこの男の名に託した祈り

帰国すると、会は急速に大きくなっていた。決まりの厳しさを緩めたい人たちと、最初の純粋さを守ろうとする人たちの間に、緊張が生じた。フランチェスコは組織を動かす立場から一歩退いた。黙想と祈りへ傾いていった。

1223年12月25日、ラツィオ州グレッチョの森で、彼は牛と驢馬ろばと飼葉桶かいばおけを並べた。キリスト降誕の場面を、その場で再現させたと伝えられる。このは、後の西方教会のクリスマスの馬小屋飾り(プレゼピオ)の起源とされる。目を病んだ男は、翌年、さらに高い山へ向かう。

06山の傷と、太陽の歌

1224年9月14日の前後。トスカーナ山中の隠れた修行の場、ラ・ヴェルナで、フランチェスコは40日の断食と祈りを行っていた。その最中、彼の両手両足と脇腹に傷が現れたと伝えられる。十字架にかけられたキリストと同じ場所の傷である。これを(せいこん、スティグマタ)と呼ぶ。42歳前後のことだった。

複数の証人を伴って記録された聖痕は、キリスト教の歴史でこれが初めてである。本人は晩年まで、この傷を仲間に見せようとしなかった。死後に確認された、と伝記は記す。

翌1225年の春。彼はサン・ダミアーノの簡素な小屋で、病に伏していた。目はほとんど見えなくなっていた。その小屋で、彼は『被造物の讃歌』(Cantico delle Creature、別名『太陽の賛歌』)を口で唱え、書きとらせた。

至高にして全能なる善き主よ ― 讃え、栄光、誉れ、あらゆる祝福はあなたのもの

— 『被造物の讃歌』冒頭(1225年、サン・ダミアーノ)。視力をほぼ失って病に伏した小屋で口述された、歌の始まりの言葉

「兄弟太陽」「姉妹月と星」「兄弟風」「姉妹水」「兄弟火」「母なる姉妹地」。歌は、神が造ったものすべてに、兄弟姉妹として呼びかける。そして最後に、こう呼びかける。「姉妹なる、肉体の死」。目の見えない男が、太陽を歌った。この歌と、この男について、後の人々は何を書き残したのか。

07讃歌と伝記をどう読むか

『被造物の讃歌』は古イタリア語(ウンブリア方言)で書かれており、ダンテ以前の俗語文学の最初期作の一つである。ラテン語ではなく民衆の日常語で霊性を歌った点で、イタリア文学史の起点に位置づけられる。

「兄弟太陽」から「姉妹なる、肉体の死」まで、被造物すべてに兄弟姉妹として呼びかけ、それぞれの性格を讃える構成は、人間中心的世界観の外側に、万物を同じ神の創造のきょうだいとして配置する視点を示す。この視点は20世紀のエコロジー運動にも繰り返し引用され、1979年、教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を生態学の守護聖人と宣言した。

有名な「小鳥への説教」や「グッビオの狼を諭すさとす」の逸話いつわは、主に『(聖フランチェスコの小さき花)』(14世紀初頭編纂)や『完徳の鏡』などの後代伝承に属する。史実の最も古い層は、1228年頃のトマス・ダ・チェラーノ『第一伝記(ヴィタ・プリマ)』、後の『第二伝記』、聖ボナヴェントゥラ『大伝記(レゲンダ・マイオル)』(1263)に記録されている。教皇インノケンティウス3世の夢や、ダミエッタでの火の試練の提案のように、伝記の層によって語られ方の異なる出来事も少なくない。

伝記が幾重にも積み重なる前の、ただ一つの夜に戻ろう。

08ふたたび、谷間の聖堂で

1226年の秋。フランチェスコは、病と聖痕の痛みと視力の喪失に苦しみながら、祈りを続けていた。死の数か月前、彼は短い『遺書』(テスタメント)を口述した。仲間たちに、戒律を一字一句加減せず守ってほしいと懇願する文だった。会が大きくなり、決まりを緩めようとする声が強まる中での、最後の願いである。

そして10月3日の夜。ポルツィウンクラ聖堂のそばで、彼は死期を迎えた。この聖堂は現在、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ大聖堂の内部に保存されている。仲間たちは『被造物の讃歌』を歌った。前の年、目の見えない彼が小屋で作った歌である。その歌を聞きながら、45歳前後で息を引き取った。

死の2年後の1228年、教皇グレゴリウス9世は彼を聖人の列に加えた。破格の速さである。同じ年、アッシジに聖フランチェスコ大聖堂の建設が始まった。1230年、遺骸が大聖堂の下層へ移された。上下二層の聖堂は、のちにジョット、チマブーエらのフレスコ画で飾られ、中世絵画の重要な舞台となった。

彼の名は、その後も呼び続けられた。1939年、教皇ピウス12世は彼をイタリアの守護聖人とした。2013年、ベルゴリオ枢機卿が教皇に選ばれた。彼は中世以来の歴代教皇で初めて「フランチェスコ」の名を取った。彼の残したものへの敬意を示すためだった。

派手な宴会の中心にいた商人の息子は、服を脱ぎ、家を出て、何も持たずに歩いた。ハンセン病の人を兄弟と呼び、敵のスルターンに武器なしで会い、太陽と死とを兄弟姉妹と呼んだ。そして最後の夜、自分の歌を聞きながら死んだ。

すべてを手放した人は、何を手に入れたのだろう。持たないことは、ただ欠けていることなのだろうか。『被造物の讃歌』は、その問いを八百年のあいだ、読む人にゆだねてきた。

09主要な出来事と著作

  1. アッシジに誕生、洗礼名ジョヴァンニ、後にフランチェスコ
  2. ペルージア戦争で捕虜、1年間拘禁
  3. サン・ダミアーノ聖堂で磔刑像からの呼びかけを受ける
  4. 司教の前で裸となり父と決別
  5. 教皇インノケンティウス3世から修道会の口頭認可
  6. キアラ(クララ)がクララ会を創始
  7. 第5回十字軍中、エジプトでスルターン・アル=カーミルと対面
  8. 教皇ホノリウス3世が『正則戒律』を勅書認可、12月25日グレッチョで生きた降誕場面
  9. 9月14日前後、ラ・ヴェルナで聖痕を受ける
  10. サン・ダミアーノで『被造物の讃歌』を口述、視力を失う
  11. 10月3日、ポルツィウンクラ近くで死去、45歳前後。臨終前に『遺書』を口述
  12. 教皇グレゴリウス9世により列聖、聖フランチェスコ大聖堂の建設開始
  13. アッシジ大聖堂下層へ遺骸の遷座
  14. 教皇ヨハネ・パウロ2世が生態学の守護聖人と宣言

残した思想の輪郭

  • 清貧(paupertas) ― 所有を捨てることが真の豊かさであるという実践的覚悟
  • 托鉢修道会 ― 修道院の封閉から出て、世間を歩いて説教し食を乞う新しい修道形態
  • 万物の兄弟姉妹性 ― 太陽・月・水・火・死までを兄弟姉妹と呼ぶ世界観
  • 非武装の対話 ― 十字軍の最中にスルターンと問答を交わした中世の稀有な先例
  • 俗語文学の先駆 ― 古イタリア語による『被造物の讃歌』、ダンテ以前の民衆語の霊性
1226年10月3日、アッシジ郊外ポルツィウンクラの聖堂のそばで、45歳前後の生涯を閉じた。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

アッシジのフランチェスコが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 聖フランチェスコ大聖堂(アッシジ)墓所

    アッシジ, イタリア

    1228年の列聖直後に着工。下堂クリプタの石棺に聖フランチェスコが眠り、フィリアス(レオ・マッセオ・アンジェロ・ルフィーノ)の墓が側を囲む

さらに辿るならExternal References

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