アヴェロエス(イブン・ルシュド)
信じることと考えることは、 両方とも正しくてよいのか?
アリストテレスの「注釈者」として西欧中世を揺るがしたアンダルスの大哲学者
- アリストテレス注釈
- 理性と信仰
- 決定的論説
三つの宗教が同じ町に暮らし、ギリシアの本がアラビア語で読まれ、北では聖戦の足音が近づいていた — ひらく
時代の空気
1126年生まれのイブン・ルシュドが生きた12世紀のアンダルスは、ムラービト朝からアルモハード朝へと支配が交代する時代だった。コルドバはイスラム・キリスト教・ユダヤ教の三文化が共存する世界的な知的中心地で、アリストテレスらギリシア科学書がアラビア語訳を介して集まり、北のトレド翻訳学派(1160年頃から活発化)を経てラテン世界へ流れ出していた。彼はカリフ・ユースフの宮廷でアリストテレス全注解を委嘱され、セビリア・コルドバのカーディーを兼ねたが、晩年の1195年頃キリスト教諸国との聖戦準備のなか異端嫌疑で追放され、書物は焚書された。
01焼かれた本
1195年ごろ、コルドバ。イブン・ルシュドは69歳になっていた。この町でいちばん高い裁判官、(最高法官)を務めた人である。カリフ(イスラム国家の最高の支配者)のお抱え医者でもあった。そしてアリストテレスの全著作に解説を書くという大仕事を、カリフじきじきに頼まれた学者だった。
その人が、突然すべてを失った。異端、つまり正しい教えから外れた者、という疑いをかけられたのである。送られた先はルセナ。コルドバ近くのユダヤ人の町だった。著書の一部は火にかけられた。焚書である。
理由は、今もはっきりしない。当時、アルモハード朝はキリスト教の国々との聖戦の準備をしていた。そのなかでの政治的な配慮だった、という説がある。保守的なウラマー(法学者や神学者)がカリフをつき上げた、という説もある。一次資料(その時代に書かれた記録)は、答えを教えてくれない。
ひとつ、確かなことがある。焼かれた本を書いた人は、「哲学と宗教は敵ではない」と本に書いた人だった。カリフに頼まれて書いた人が、カリフの国で本を焼かれた。哲学は信仰の味方だと説いた人が、信仰の敵とされた。なぜそんなことが起きたのか。時は69年前、1126年に戻る。
02裁判官の家
1126年、イブン・ルシュドはコルドバに生まれた。コルドバは、当時イスラム教徒が治めていたイベリア半島、アンダルスの中心の町である。長い名前を持っていた。アブー・アル=ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュド。ヨーロッパではこれがなまって、アヴェロエス(Averroes)と呼ばれるようになる。
家は代々、法律の名門だった。イスラム法にはいくつかの流派があり、この家はマリキ派という流派を学んできた。祖父も父も、コルドバのカーディー(裁判官)の最高位、カーディー・アル=ジャマーアを務めた。子どものころから、彼は家の学問を身につけた。コーラン、ハディース(預言者ムハンマドの言葉と行いの記録)、法学、アラビア文学である。
10代の後半、関心は医学と哲学に広がった。師は(1105-1185)。『生ける者、覚醒せし者の子』という哲学小説を書いた、当代きっての学者である。
12世紀のアンダルスは、世界でも珍しい場所だった。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の三つの宗教が、同じ町で暮らしていた。アリストテレス、プラトン、プトレマイオスといったギリシアの学問の本が、アラビア語に訳されてここに集まっていた。北のトレドでは、が動き出していた。を中心に、アラビア語の学術書をラテン語に訳す人々である。ギリシアの知は、アラビア語を通ってヨーロッパへ流れ出そうとしていた。
法律の家に生まれ、哲学に心をひかれた若者。この二つは、彼のなかでどう並んでいくのか。その行き先を決めたのは、一人のカリフとの出会いだった。
03黙っていた若者、カリフの注文
1160年代、イブン・トゥファイルの紹介で、彼はアルモハード朝のカリフに会った。アブー・ヤアクーブ・ユースフ(在位1163-1184)である。このカリフは、少し変わっていた。アリストテレスを愛読し、哲学の話を好む知識人だったのである。
伝えられる話では、初めて会ったとき、イブン・ルシュドは緊張して黙っていた。カリフのほうからアリストテレスの本について質問を重ねた。そして相手の学識を見抜くと、大きな注文を出した。「アリストテレスの全著作に注解を書き、わかりやすい形で残せ」。
この一言が、彼の一生の仕事を決めた。以後20年以上、彼はアリストテレスの主な本に注解(本文を一つ一つ説き明かす解説)を書き続けた。論理学、自然学、形而上学(世界のいちばん根っこを考える学問)、霊魂論、倫理学、詩学。本や分野ごとに、三つの長さで書いた。
- 大注解(Tafsīr):原文をそのまま引き、一節ごとにくわしい解説をつける
- 中注解(Talkhīṣ):要約と解釈を織りまぜた、中くらいの長さ
- 小注解(Jawāmiʿ):若いころの要約版。自分の解釈を比較的自由に書いた
すべての本に三種がそろうわけではない。それでも、この量は桁違いだった。
アリストテレスの本は、アラビア語で読めても難しかった。すでにやアヴィケンナ(イブン・シーナー)という大先輩の解釈があった。彼はそれらを一つ一つ吟味し、批判した。そしてアリストテレスそのものに戻ろうとした。
だが、この大仕事は彼の「本業」ではなかった。昼の彼には、まったく別の顔があった。
04昼は法廷、夜はアリストテレス
1169年、43歳でセビリアのカーディーになった。1171年にはコルドバのカーディー。1182年、56歳で祖父と父の職、カーディー・アル=ジャマーアを継いだ。
裁判官の仕事は、朝から法廷に出ることだった。商売のもめごと、相続、結婚、犯罪。土地の慣習が法として認められるかどうかの判断まで。判決は日々、切れ目なく続いた。彼はこの分野でも大著を残している。『(独立的法学者への手引)』。マリキ派の法を、他の流派とくらべながら整理した本で、法学の歴史でも重んじられている。
哲学は、夜の仕事だった。のちに彼自身が本の序文で書いている。家族の病気や職務の困難があっても、中断した日は少なかった、と。1185年に師イブン・トゥファイルが亡くなると、彼はカリフの侍医(そばに仕える医者)も兼ねた。忙しさは頂点に達した。
昼は神の法で人を裁き、夜はギリシアの哲学者を読む。この二つは、彼の中でぶつからなかったのか。実はそのころ、イスラム世界には「哲学は信仰の敵だ」という強い声が広がっていた。
05哲学は敵か、姉妹か
その声の元は、ガザーリー(1058-1111)である。イブン・ルシュドが生まれる前に亡くなった、東方イスラム世界の大神学者だった。ガザーリーは『哲学者たちの自己矛盾』という本で、哲学者を厳しく批判した。以来、哲学は信仰の敵と見なされつつあった。
1179年から80年ごろ、53歳のイブン・ルシュドは一冊の本を書いた。『(Faṣl al-Maqāl)』。副題は「哲学と宗教法のあいだの関係について」である。
答えは大胆だった。哲学は、ただ許されるだけではない。シャリーア(イスラムの宗教法)が、哲学を義務として命じているのだ、と。理由はこうだ。コーランは、神が造ったものをよく考えなさい、と命じている。その「よく考える」ことを、いちばん厳密にやるのが哲学ではないか。
彼はさらに、人々を三つのグループに分けた。
- 論証の徒:哲学者。筋道の立った証明で真理をつかむ
- 弁証の徒:神学者。もっともらしい議論で信仰を守る
- 修辞の徒:ふつうの人々。物語やたとえで真理にふれる
真理は一つである。ただし、それぞれのグループに、それぞれの形で届く。哲学者はコーランをたとえとして読む。ふつうの人々は、書いてある文字どおりに読む。このという考えを、のちにヨーロッパは「」と呼んだ。哲学の真理と宗教の真理が、別々にある、という理解である。だがそれは短絡だった。イブン・ルシュド自身が言ったのは、「同じ一つの真理を、違う言葉で示す」ことだった。
哲学と宗教は同じ真理を異なる仕方で語る、姉妹たるべきもので敵対者ではない
姉妹だと言うだけでは、足りなかった。哲学を敵と呼んだ本そのものに、答えなければならない。
06批判への批判
1181年ごろ、彼はガザーリーへの本格的な反論を書いた。『タハーフト・アル=タハーフト(Tahāfut al-Tahāfut)』。直訳は「哲学者たちへの批判の自己矛盾」、短く言えば「哲学者批判の批判」である。書き方は徹底していた。ガザーリーの『哲学者たちの自己矛盾』を一節ずつそのまま引き、一つずつ反論していく。
争点は三つあった。第一に、世界には始まりがあるのか、それとも永遠か。第二に、原因と結果のつながり(因果性)は本当にあるのか。ガザーリーは、それは神の意志の習慣にすぎない、と言った。第三に、神は一人一人の個別のことまで知っているのか。ガザーリーは、哲学者は「神は普遍(全体に当てはまること)しか知らない」と言っている、と批判した。
イブン・ルシュドは、アリストテレスの因果性を守った。そして神の知については、神の普遍的な知は個別をも含む、と論じた。
哲学者は神が個物を知らないとは主張しない。ただ、人間と同じ仕方ではそれを知らないと主張するのだ
この本は、イスラム世界ではガザーリーの影響力をくつがえせなかった。東方のイスラム圏では、その後、哲学の探究は後退していく。彼の言葉が本当に読まれるのは、別の場所、別の時代である。だがその前に、彼自身の身に、あの事件が起きる。
07焼かれた本、運ばれた棺
1184年、カリフ・ユースフが死んだ。息子のアブー・ユースフ・ヤアクーブ・アル=マンスールが後を継いだ。新しいカリフも、はじめはイブン・ルシュドを手厚く扱った。そして1195年ごろ、冒頭の事件が起きる。異端の疑い、ルセナへの追放、焚書。
理由が確定しないことは、すでに書いた。だがここまで読んだ読者には、いくつかの手がかりがある。アルモハード朝は聖戦の準備をしていた。人々を一つにまとめたいとき、「コーランは哲学者にはたとえとして読まれる」と書いた本は、危うい本に見える。「哲学は宗教法の義務だ」という主張は、保守的な法学者たちの耳には、敵の言葉に聞こえたかもしれない。彼が三階層の読者を分けたのは、真理を守るためだった。だが同じ言葉が、疑いの根拠にもなりえた。史料は、そこまでは語らない。
追放は短かった。彼は赦免され(罪を許され)、マラケシュ(今のモロッコ)に呼び戻された。
1198年12月11日、マラケシュで病死した。72歳だった。遺体は翌年コルドバに運ばれ、祖父と父の眠る墓に葬られた。ある伝えによれば、コルドバで葬列が進むとき、一人の若者が棺に手を置いた。(1165-1240)。のちにイスラム神秘主義の大家となる人である。彼はこう呟いたという。「これは一人の賢者の遺体であり、同時に彼の全著作である」。
焼かれた本は、しかし、そこで終わらなかった。彼の本は北へ運ばれていく。彼の名を知らない人々のところへ。
08「注釈者」、パリ大学の嵐
イブン・ルシュドの哲学著作は、死後まもなくら翻訳者によってラテン語に移された。1230年代以降、パリ大学芸術学部で彼の注解は爆発的に広まった。ラテン世界は彼を、固有名すら要さずに(the Commentator)と呼んだ。アリストテレスの原典と並置して読まれる、唯一の解説者という意味である。
シゲルス・デ・ブラバンティア(1240-1284頃)らを中心に「」が形成された。彼らはアリストテレス哲学を純粋に哲学的真理として守ろうとし、世界の永遠性や個人の魂の不死の否定など信仰と抵触しうる命題を哲学の立場から擁護したと見なされた(当人たちが明示的に「二重真理」を唱えたかは論争が残る)。とりわけ、人間の可能知性は全人類に一つだとするは、急進的命題として受け取られた。
これはアクィナスの徹底的反駁を引き起こした。『』『』はアヴェロエス主義の挑戦に対する応答として書かれた側面が大きい。1277年、パリ司教エチエンヌ・タンピエは219命題を断罪し、ラテン・アヴェロエス主義は公的には禁じられた。
しかしパドヴァ大学などでは16世紀まで存続し、ルネサンス期のポンポナッツィ、スピノザの先駆として静かに流れ続けた。
アンダルスで焼かれ、パリで断罪された。イスラムとキリスト教、二つの世界が、同じ人の本を危険だと判断した。彼は最後まで、真理は一つだと言い続けた。哲学する者と信じる者は、同じものを違う言葉で語っているだけだ、と。
あなたのなかにも、二つの言葉があるかもしれない。頭で考えたことと、心で信じていること。それが食い違ったとき、どちらかを捨てなければならないのか。それとも、二つは姉妹なのか。
09主要な出来事と著作
- アンダルス・コルドバの法学者家系に誕生
- マラケシュに滞在、天文学研究
- セビリアのカーディーに
- アリストテレス大・中・小注解の執筆開始
- コルドバのカーディー
- 『決定的論説』執筆
- 『タハーフト・アル=タハーフト』(ガザーリー反駁)
- カーディー・アル=ジャマーア就任、カリフ侍医兼務
- 異端嫌疑でルセナへ追放、書物焚書
- 赦免、マラケシュへ召喚
- マラケシュで死去。享年72
- ミヒャエル・スコトゥスによるラテン語翻訳、西欧への伝播
- パリ司教タンピエによる219命題の断罪
残した思想の輪郭
- アリストテレス大注解 ― 三段階の注解で原典を再構築、中世ラテン世界の哲学教科書に
- 二重真理説(ラテン的解釈) ― 哲学と宗教は同じ真理を異なる言語で、と主張したが西欧で誤解
- 知性単一説 ― 人間の可能知性は全人類に一つ、という急進的命題(アクィナスが激しく反駁)
- 決定的論説 ― 哲学は宗教法で義務づけられる、三階層の読者に応じた真理の提示
- 比較法学 ― 『ビダーヤト・アル=ムジュタヒド』でマリキ派と他派を比較、法学史の古典
- ラテン・アヴェロエス主義 ― パリ大学を揺らし、近世への哲学的自律の先駆
つながり
- トマス・アクィナス
継承 — その注解を標準的権威として読み込み、「注釈者」の敬称で呼んだスコラの巨人。
- トマス・アクィナス
批判的継承 — 「知性は万人にひとつ」──その読みの継承者たちに、反駁の書を投じた人。
- アヴィセンナ(イブン・スィーナー)
先駆 — ガザーリーに攻められ、百年後の西方から弁護と批判を同時に受けた東の巨人。
- ガザーリー
反発 — 『矛盾の矛盾』が一点ずつ再反論を挑んだ相手 — 哲学者たちを「矛盾」と断じた神学者。
さらに読むならFurther Reading
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生きた跡を辿るPlaces
アヴェロエス(イブン・ルシュド)が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- アヴェロエス像(コルドバ)ゆかり
コルドバ, スペイン
旧市街の城壁沿い、カイルアン通り。生誕地コルドバが誇る12世紀の大哲学者イブン・ルシュドを讃える座像
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WikipediaWikipedia 日本語版「イブン・ルシュド」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Averroes"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Ibn Rushd [Averroes]"