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ボッカッチョ

Giovanni Boccaccio·1313–1375·ルネサンス期イタリア(前期)·

百の物語を書いた人が、 なぜその本を手放そうとしたのか?

ペスト禍のフィレンツェを枠物語に置き、百の物語を俗語で書き並べた『デカメロン』の作者

  • デカメロン
  • 物語叙述
  • ペトラルカとの交友
  • 古典復興
  • ダンテ伝
ペストが街の半分を奪った。学者がラテン語へ帰る横で、ふだんの言葉で物語を書く道が開く。 — ひらく

時代の空気

14世紀前半のフィレンツェは、毛織物と為替で富を築いた商業共和国だった。父の勤め先バルディ商会はナポリのアンジュー家ロベルト王(在位1309-43)の宮廷に出入りし、教皇庁はアヴィニョンに移って百年が経とうとしていた。トスカーナ俗語はダンテ没(1321)後、書く言葉として地位を得つつあった。1347年から始まった黒死病はフィレンツェの人口の半ばを奪い、街の死を生き残った者の机から物語が書かれる時代が来た。古典のラテン語へ帰ろうとするペトラルカの人文主義と並走しつつ、ボッカッチョは俗語散文に賭けた。

01手放そうとした百の物語 ― 1362年

1362年、ボッカッチョは48歳だった。この年、彼は一人の修道士しゅうどうしから警告を受けた。修道士の名はジョアチーノ・チャーニ。「地獄の罰が迫っている」と、彼は告げた。

ボッカッチョは迷った、と伝わる。自分が書いてきた本を、手放そうか。その中にはもあった。ペストで半分が死んだ街の後に、百の物語を並べた本である。書き上げてから、十年近くがたっていた。

この迷いを知った友が、一通の手紙を書いた。友の名はペトラルカ。当時、ヨーロッパで最も名の知れた詩人である。日付は5月28日。「友よ、あなたの才能は神が与えたものである。俗語で書いた書を捨てる必要はない」。

俗語とは、ラテン語ではない、ふだんの言葉のことである。彼はその言葉で、百の物語を書いた。なぜ、それを捨てようとしたのか。答えは、彼の一生の中にある。時は49年前に戻る。

02商人の家の子 ― 父と、名の残らない母

1313年の夏、ジョヴァンニ・ボッカッチョは生まれた。場所はフィレンツェか、近くのチェルタルド村か。史料によって揺れ、本人も両方に触れる書き方を残している。父の名はボッカッチーノ・ディ・ケッリーノ。という、大きな銀行会社で働く商人だった。

バルディ商会は当時、ヨーロッパで最大級の金の流れを持つ会社だった。父はその代理人として、ナポリ、パリ、ロンドンの支店を行き来した。母については、記録がほとんど残っていない。昔の伝記は、パリの貴族の娘だと伝えた。今の研究では、父と、身元のはっきりしない女性との間の子と見る。つまり、正式な結婚の外で生まれた子である。

父はその後、フィレンツェでマルゲリータ・デイ・マルドーリと正式に結婚した。ジョヴァンニは、その家に引き取られた。義母と、腹違いの弟や妹のもとで少年時代を過ごす。法の上では、商家を継ぐ権利は限られていた。それでも父は、息子に商いの教育を受けさせた。

後年、彼は『デカメロン』の中で、一つのことをくり返し書く。生まれの正しさより、人としての品位が値打ちを決める、と。自分の生まれと、この考えは、一生のいろいろな場面で響き合って見える。では、この少年はどこで物語と出会ったのか。

03ナポリの宮廷 ― 賢王と、小さな炎

1327年ごろ、13歳か14歳のボッカッチョは、父と共にナポリへ移った。ナポリの王は。学問を好み、「賢王」と呼ばれた王である。バルディ商会はこの王の宮廷銀行で、父の地位は高かった。

少年はまず商会で見習いを6年ほど務めた。次に父の意向で、教会法(教会の決まりを学ぶ学問)の学生になった。どちらも、本人の望みではなかった。

は、地中海で最も洗練された知の中心の一つだった。王室の司書パオロ・ダ・ペルージャ。ギリシャ語の学者バルラーム。アンドレア・ダ・フィレンツェ。学者たちが王のもとに集まっていた。バルラームからは、後にペトラルカもギリシャ語を学ぼうとした。

ボッカッチョはここで、二つの世界を貪るむさぼるように読んだ。一つは、ウェルギリウス、オウィディウス、スタティウスのラテン語の古典。もう一つは、プロヴァンス語やフランス語の騎士物語である。望まなかった勉強のかたわらで、彼は読み続けた。

1336年ごろ、彼は宮廷で一人の女性に恋をした。彼はその人を「フィアンメッタ」と呼んだ。「小さな炎」という意味である。正体はロベルト王の娘だと、本人は書き残した。正式な結婚の外で生まれた王の娘である。しかし今の研究では、実在の女性と作り話が混ざったものと見る説が有力である。

フィアンメッタは、彼の若い日の作品に何度も戻ってくる。(1335年ごろ)は、トロイロとクレッシダの恋を歌った長い詩である。八行ずつの詩の形で書かれた。『テセイダ』にも、彼女はいる。そして後に書く(1343年から44年ごろ)。捨てられた女性が、自分の言葉で心の内を語る物語である。女性の視点で心を描いた早い例として、よく挙げられる。

しかし、この宮廷での日々は、突然終わる。きっかけは、海のむこうのイギリスにあった。

04帰郷、そして1348年の黒死病

1340年ごろ、バルディ商会がフィレンツェで危機に陥った。きっかけは、イギリス王エドワード3世への貸し付けだった。戦争の費用として貸した金が、返ってこなかったのである。商会は1345年に完全に倒産する。ボッカッチョは帰国を命じられた。27歳前後だった。

ナポリの宮廷生活は終わった。以後、彼はフィレンツェと、近くのチェルタルドを拠点にする。1341年には、一つのすれ違いがあった。ペトラルカがローマで、の栄誉を受けた。詩人にとって最高の名誉である。その帰り道、二人は近くまで来た。直接会うことはなかった。しかし互いの名と評判は、すでに知っていた。

1346年から48年には、フォルリの領主オルデラッフィ家の客としてすごした。そして1348年の春から夏。が、シチリアから北へ広がり、フィレンツェの街を襲った。『デカメロン』の序文によれば、街の人口はおよそ10万。そのうち半分以上が、数か月で死んだ。今の研究でも、死亡率は50から60パーセントと見られている。

街のはたらきは止まった。死者は一人ずつ葬られることもなく、大きな穴に投げ込まれた。親が子を、夫が妻を、看取らずに離れる光景が日常になった。

この災いの中で、父ボッカッチーノと義母ビーチェが続けて死んだ。1348年から49年の初めの冬と見られる。ボッカッチョは35歳で家長になった。腹違いの弟ヤコポの暮らしと、父の借金の処理を、一人で引き受けた。街の死と、家の死。その両方を通り抜けた男の机から、翌年、一冊の本が書かれ始める。

05『デカメロン』 ― 十日百話の枠物語

1348年から53年にかけて、彼は『デカメロン』を書いた。題名はギリシャ語で「十日の書」の意味である。10人の語り手が、10日間、毎日一つずつ物語を語る。合わせて100の物語になる。

物語は、こんな枠の中で語られる。1348年6月の終わり、火曜日の朝。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会で、7人の若い女性と3人の男性が出会う。女性はパンピネーア、フィアンメッタ、フィロメーナ、エミーリア、ラウレッタ、ネイフィレ、エリーサ。男性はパンフィロ、フィロストラート、ディオネーオ。彼らは恐怖と荒れた街から逃れ、郊外の別荘へ移る。

毎日一人が「王」か「女王」になり、その日の主題を決める。全員が一つずつ物語を語る。雨の日も恋の日も、悲しみの日も笑いの日もある。この形を、と呼ぶ。イタリア語では「コルニーチェ」(額縁)という。

100の物語には、人のいとなみのほぼ全てがある。王族から商人まで。僧侶から泥棒まで。気高い愛から、こっけいな間違いまで。ある話では、教会の腐敗を見た男が、かえって信仰を確かめる(第1日第2話)。ある話では、男が恋のために大切な鷹を犠牲にする(第5日第9話)。第9日には農民たちの知恵が、第10日には「寛大さ」が並ぶ。

そしてこの本は、トスカーナのふだんの言葉(俗語)で書かれた。それまでこの言葉は、口で語る物語や、商いの書類にしか使われていなかった。ボッカッチョはそれを、長い物語を書ける芸術の言葉へ引き上げた。

人の本性は、悲しみへ押し流されるままに沈むことなく、悲しみの後ろに来る小さな光を見つけて、なお話しつづけることにある。

— 『デカメロン』序文(1351年ごろ)。街の死を描いた導入で、なぜ語り続けるのかをこう置いた(大意)

序文には、もう一つ大事な言葉がある。「この書は特に、家の中に閉じ込められて外の空気を吸えない女性たちへ捧げる」。7人の女性と3人の男性という比率は、この言葉とつながる。20世紀後半から、『デカメロン』は女性の内面と声を描いた早い作品として読み直されてきた。

この本を書いている最中に、彼は一人の男を街に迎える。九年前、名前と評判だけを知っていた相手である。

06ペトラルカとの友情 ― 手紙と写本の24年

1350年10月、ボッカッチョはフィレンツェでペトラルカを迎えた。二人の最初の出会いである。ペトラルカは46歳。桂冠詩人になって9年、ヨーロッパで最も名高い学者だった。ボッカッチョは37歳。『デカメロン』を書いている途中で、名はまだ広く知られていなかった。それでも数日のうちに、二人は深い友情を結んだ。

以後24年、手紙と写本(手で写した本)の贈り合いが続く。は、彼の後半生を形づくることになる。

1351年、彼はフィレンツェの正式な使節としてパドヴァを訪ねた。ペトラルカをフィレンツェの大学へ招くためだった。招きは実らなかった。しかし二人は共にウェルギリウスを読み、ペトラルカの家の庭で古典の写本を交換した。

1359年の春にはミラノで再会する。ペトラルカはそこで、をラテン語に訳す事業の構想を語った。ナポリの王立図書館に眠る本を訳す計画である。この頃から、ボッカッチョの古典への向き合いは、より大きな体系へ向かう。

1350年代の後半から、彼は次第にラテン語の学術の本へ軸足を移した。は全15巻。ギリシャとローマの神話を体系的に集めた本で、死の直前まで書き直した。中世からルネサンスまで、神話を調べる人の参照書として広く読まれた。(1361年から62年)は、古代から同時代までの106人の女性の短い伝記集である。女性だけを集めた伝記集として、早い例とされる。『山・森・泉・湖・河・沼・海の名前辞典』という、古典地理の事典も書いた。

1360年、ボッカッチョは司祭になった。暮らしを安定させるためでもあり、信仰が深まったためでもあった。ここで時は、冒頭の1362年に追いつく。司祭になって二年後、彼は自分の書いた本を手放そうと考える。

071362年、再び ― 捨てられなかった本

修道士ジョアチーノ・チャーニの警告を、もう一度置いてみよう。「地獄の罰が迫っている」。この言葉を受けた男は、司祭であった。古典を学び、ラテン語で学問の本を書く人でもあった。そして、ふだんの言葉で百の物語を書いた人でもあった。その物語には、教会への皮肉も、恋の話も並んでいる。

信仰の深まりと、若い日の本。その二つが、彼の中でぶつかったのだろう。だから彼は、『デカメロン』を含む自分の本を手放すことを考えた、と伝わる。ペトラルカは1362年5月28日の手紙で、それをいさめた。この手紙は(『老年書簡集』1.5)に収められている。「友よ、あなたの才能は神が与えたものである。俗語で書いた書を捨てる必要はない」。多くの文学史家は、この手紙がその後の執筆を支えた一つの柱だったと受け止めてきた。

人の本性は、悲しみへ押し流されるままに沈むことなく、悲しみの後ろに来る小さな光を見つけて、なお話しつづけることにある。

— 『デカメロン』序文の同じ言葉。1362年、これを書いた本人が本を手放そうとし、友の手紙に引き止められた(大意)

『デカメロン』の序文に、彼はこう書いていた。悲しみの後ろに来る小さな光を見つけて、なお話しつづける。1362年に彼を引き止めたのは、友の手紙だった。しかしその手紙は、彼自身が序文に書いた言葉と同じ方を向いている。手放されなかった本は、その後も書き写され、読まれ続けた。そして彼には、まだ一つ大きな仕事が残っていた。

08『神曲』を語る ― 病の身で立った教会

ボッカッチョのもう一つの大きな仕事は、ダンテを次の世代へ手渡すことだった。ダンテはを書いた詩人で、1321年に死んでいる。ボッカッチョは1351年から63年にかけて『ダンテ伝』をイタリア語で書き、何度も書き直した。同じ時代を知る人の話と、文書を集めた本である。ダンテの最も早い伝記の一つになった。

1373年8月、フィレンツェの政府は市民の願いを受けて、一つのことを決めた。『神曲』を、市の教会で公開の講義として読み解くこと。講義する人に、ボッカッチョが選ばれた。60歳、病の身だった。10月23日、サント・ステファノ・イン・バディーア教会で、最初の講義が開かれた。『神曲』の地獄篇を一歌ずつ、言葉の意味と、哲学や神学の背景を交えて読み進める。

は、第17歌で止まった。1374年1月、病と老いのためである。しかし講義の記録は『神曲地獄篇注解』として残った。以後、フィレンツェ大学、ボローニャ、パドヴァへと続く『神曲』注解の流れの、はじめに位置する。第1歌の「暗い森」、第5歌のパオロとフランチェスカ。後の世のダンテの読み方の少なからぬ部分が、この注解を通って広まった。

晩年の彼には、もう一つの顔が見える。1355年ごろに書かれたとされるである。ある未亡人に恋をして報われなかった語り手が、女性全体を激しくののしる。若い日に女性の語り手を中心に置き、『名婦列伝』で女性の徳をたたえた同じ人の本である。同じ一人の中に、この両極があった。読み手はそれを引き受けて読むほかない。研究では、若い日のフィアンメッタへの恋の挫折ざせつ、晩年の孤独、司祭としての禁欲きんよくの影など、いくつもの理由が論じられてきた。決定的な答えは、まだない。

1374年7月、ペトラルカがパドヴァの近くのアルクアで死んだ。ボッカッチョは深く悼んだいたんだ。翌1375年12月21日、彼もチェルタルドの生家で死んだ。62歳。ダンテ(1321年)、ペトラルカ(1374年)、ボッカッチョ(1375年)。、つまり「三つの冠」と呼ばれる三人は、半世紀のうちに相次いで世を去った。

ペストで止まった街の後に、彼は百の物語を書いた。そして一度は、それを手放そうとした。それでも本は残り、彼は病の身で、もう一人の詩人を語りに立った。悲しみの後ろに来る小さな光を、なお語り続けること。それは、誰のためのことだったのだろうか。

09遺産 ― 俗語散文、女性の声、古典の継承

ボッカッチョの遺産は三つの層にわたる。

俗語散文の広がり。『デカメロン』は長いイタリア俗語散文の初期の作品として、15-16世紀の印刷本時代を通じてベンボの俗語論で規範化された。以後の『カンタベリー物語』(題材の重複)、セルバンテス『模範小説集』、ラブレー『ガルガンチュア』、シェイクスピア(『尺には尺を』『シンベリン』『終わりよければすべてよし』が『デカメロン』題材)、キーツ『イザベラ、あるいはバジルの鉢』、パゾリーニの1971年映画『デカメロン』まで、さまざまな時代・ジャンルの読み手がそれぞれのやり方で『デカメロン』の枠を受けとり直している。

女性の声と伝記の伝統。『名婦列伝』はクリスティーヌ・ド・ピザン『女の都の書』(1405)が直接に応答する先行著作であり、近代初期の女性伝記やフェミニスト文学論にしばしば参照される。『デカメロン』の女性語り手の声は、20世紀後半以降、中世末期における女性の内的生活の一つの記録として読み直されてきた。

古典の継承者・ダンテの注解者。『異教の神々の系譜』『山・森・泉の名前』などの学術著作は、ルネサンス人文主義のための最初の参照文献群となった。『ダンテ伝』と『神曲地獄篇注解』は、ダンテという前世代の巨人を、次世代にとって読める言葉に翻訳する仕事だった。ペトラルカの学術的人文主義に対し、ボッカッチョの人文主義は常に物語と継承の方へ傾いていた。

10主要な出来事と著作

  1. フィレンツェまたはチェルタルドに誕生、父は銀行代理人の商人
  2. 父に同行してナポリへ、バルディ商会で商業見習い(以後6年ほど)
  3. 『フィローストラト』(トロイロとクレッシダの恋、八行詩節の韻文物語)
  4. ナポリ宮廷でフィアンメッタ(マリア・ダキーノとされる女性)と出会う
  5. バルディ商会の経営危機でフィレンツェへ帰国
  6. 桂冠戴冠へ向かうペトラルカと帰路接近、書名と評判では既に互いを知る
  7. 『フィレンツェの女神たちへの哀歌(Elegia di Madonna Fiammetta)』
  8. フォルリのオルデラッフィ家に客人として滞在
  9. 黒死病がフィレンツェを襲う、父と義母ビーチェを続けて失う
  10. 『デカメロン』執筆
  11. フィレンツェで初めてペトラルカに会う、終生の友情の始まり
  12. 使節としてパドヴァ訪問、『ダンテ伝』第一稿
  13. 『コルバッチョ(Corbaccio)』反女性論の寓意小品
  14. ミラノでペトラルカと再会、ホメロスのラテン訳事業の構想を共有
  15. 『異教の神々の系譜』15巻(ラテン語、死まで改訂)
  16. 司祭に叙階
  17. 『名婦列伝(De mulieribus claris)』古代・同時代106人の女性伝記集
  18. 信仰面の危機、ペトラルカの書簡で『デカメロン』を破棄せず留まる
  19. フィレンツェ・サント・ステファノ教会で『神曲』公開講義開始
  20. 地獄篇第17歌まで進んで病で講義中断
  21. ペトラルカ死去、深く悼む
  22. チェルタルドの生家で死去、62歳

残した仕事の輪郭

  • 『デカメロン』(1348-53) ― トスカーナ俗語の散文で書かれた100篇の短編集、ペストの枠物語の中に人の多様な姿を並べた
  • 枠物語(コルニーチェ)の構造 ― 10人×10日で物語群を束ねる形式。同時代から後代まで、枠物語の一つの参照として読まれてきた
  • 女性の声への注意 ― 序文で「家の中に閉じ込められて外の空気を吸えない女性たち」へ捧げると明記、『名婦列伝』で古代から同時代までの106人の女性短伝記を並べた
  • 古典復興の学術著作 ― 『異教の神々の系譜』15巻、『山・森・泉の名前』など、ルネサンス人文主義の参照文献として流通した
  • ダンテ受容の媒介 ― 『ダンテ伝』と1373年フィレンツェでの『神曲』公開講義、以後の注解の系譜に連なる仕事
  • ペトラルカとの書簡と写本交換 ― 1350年から1374年まで24年の往復、トレ・コローネの一人として古典の継承を支えた
1375年12月21日、フィレンツェ郊外チェルタルドの生家で病没。62歳。遺言により遺体はチェルタルドのサン・ミケーレ・エ・ヤコポ教会に埋葬された。16世紀に墓の詳細は失われたが、1950年代の発掘で棺の一部が確認され、現在は生家向かいの教会に記念碑が立つ。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

ボッカッチョが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ボッカッチョの家記念館

    チェルタルド, イタリア

    トスカーナの丘の町チェルタルドにある詩人の家。ボッカッチョ協会運営の博物館兼専門図書館

  • サンティ・ヤコポ・エ・フィリッポ教会墓所

    チェルタルド, イタリア

    1375年没。1949年の調査で墓が再同定され、マリオ・モスキの大理石墓碑が置かれた

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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