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ボッカッチョ

Giovanni Boccaccio·1313–1375·ルネサンス期イタリア(前期)·

ペストで止まった街から、 物語はどこへ届くか?

ペスト禍のフィレンツェを枠物語に置き、百の物語を俗語で書き並べた『デカメロン』の作者

  • デカメロン
  • 物語叙述
  • ペトラルカとの交友
  • 古典復興
  • ダンテ伝

時代の空気

14世紀前半のフィレンツェは、毛織物と為替で富を築いた商業共和国だった。父の勤め先バルディ商会はナポリのアンジュー家ロベルト王(在位1309-43)の宮廷に出入りし、教皇庁はアヴィニョンに移って百年が経とうとしていた。トスカーナ俗語はダンテ没(1321)後、書く言葉として地位を得つつあった。1347年から始まった黒死病はフィレンツェの人口の半ばを奪い、街の死を生き残った者の机から物語が書かれる時代が来た。古典のラテン語へ帰ろうとするペトラルカの人文主義と並走しつつ、ボッカッチョは俗語散文に賭けた。

01フィレンツェ商人の家 ― 父と母のあいだ

1313年6月か7月、トスカーナのフィレンツェ、あるいは近郊のチェルタルド村を本拠とする銀行家系ぎんこうかけいに生まれた(生地は史料により揺れ、本人は両説に触れる書き方を残している)。父ボッカッチーノ・ディ・ケッリーノはフィレンツェのバルディ商社しょうしゃ(銀行兼商業会社、当時ヨーロッパ最大級の金融網を持った)の代理人で、ナポリ・パリ・ロンドンの支店を往還する商人だった。母については記録が乏しく、19世紀以前の伝記ではパリ貴族の娘という伝承が広がったが、20世紀以降の史学では、身元の確かでない女性とボッカッチーノとのあいだに生まれた非嫡出の子と見るのが通説である。

父は後にフィレンツェでマルゲリータ・デイ・マルドーリと正式に結婚し、家族にジョヴァンニを引き取った。義母と異母弟妹のもとで、ボッカッチョは少年期を過ごす。法的には商家の継承権を限定されたが、父は息子に商業教育の機会を与え、やがて自分のナポリ駐在に同行させた。

後年、彼はの枠(10人の語り手の物語世界)で、出生の正統性よりも人としての品位が語り手たちの価値を決めると繰り返し書く。自身の出自と、この価値観の選びは、生涯のいろいろな場面で響き合って見える。

02ナポリのアンジュー家宮廷 ― 青年期の六年

1327年頃、13-14歳のボッカッチョは父に同行してナポリに移った。バルディ商会はナポリ王ロベルト・ダンジュー(在位1309-43、「賢王」と呼ばれた学者王)の宮廷銀行で、父の地位は高かった。少年はここでまず最初の商社しょうしゃ見習いを6年ほど受け、つづいて父の意向で教会法学の学生となるが、どちらも彼の本意ではなかった。

ナポリ宮廷は当時、地中海で最も洗練されたルネサンス前夜の知的中心の一つだった。ロベルト王自身が学者で、パオロ・ダ・ペルージャ(王室司書)、バルラーム(カラブリアのギリシャ語学者、ペトラルカもここでギリシャ語を学ぼうとした)、アンドレア・ダ・フィレンツェらが宮廷に集まっていた。ボッカッチョはこの環境で、ラテン古典(ウェルギリウス、オウィディウス、スタティウス)とプロヴァンス語・フランス語の騎士物語の両方を貪欲に吸収した。

1336年頃、彼は宮廷でフィアンメッタ(Fiammetta、「小さな炎」の意)と呼ばれる女性と恋に落ちた。正体は長く(ロベルト王の庶女しょじょ、本人の自己申告)と伝えられてきたが、現代史学では実在の女性と文学的虚構の混合と見る説が有力である。いずれにせよフィアンメッタは『フィローストラト(Filostrato)』(1335頃、トロイロとクレッシダの恋を歌った八行詩節の韻文物語)、『テセイダ』、後の『フィレンツェの女神たちへの哀歌(Elegia di Madonna Fiammetta)』(1343-44頃)に至るまで、彼の初期作品の中心人物として戻ってくる。最後の『哀歌』は捨てられた女の一人称による内面告白として、女性の視点による心理描写の早い例にしばしば挙げられる。

03フィレンツェ帰還と1348年 ― 黒死病、父と義母の死

1340年頃、父のバルディ商会がフィレンツェで経営危機に陥り(英国王エドワード3世への戦費貸付の不履行を発端に1345年完全倒産へ向かう)、ボッカッチョは帰国を命じられた。27歳前後。ナポリの宮廷生活は終わり、以後の彼はフィレンツェと郊外チェルタルドを拠点とする。1341年、桂冠詩人の戴冠を受けにローマへ向かうペトラルカと帰路接近する機会があり、これは直接の対面には至らなかったが、書名と評判ではすでに互いを知っていた。1346年から48年にかけてはエミリア地方の領主オルデラッフィ家の客人としてフォルリに滞在し、文学者として宮廷に出入りした。

1348年春から夏、黒死病こくしびょう(ペスト)がシチリアから北上し、フィレンツェの街を襲った。ボッカッチョ『デカメロン』序文の描写によれば、当時のフィレンツェの人口約10万のうち、数か月で過半が死亡した(現代の推定でもフィレンツェ全市民の50-60%の死亡率)。街の機能は崩壊し、死者は個別の埋葬を受けられずに集団の穴に投げ込まれた。親が子を、夫が妻を看取らずに離れる光景が日常となった。

この災禍の中で、父ボッカッチーノと義母ビーチェが続けて死去した(1348年から49年初頭の冬と推定)。ボッカッチョは家長となり、異母弟ヤコポの生活と父の負債の処理を一人で引き受けた。『デカメロン』序文がペスト描写から始まることは、彼自身がこの夏から翌年にかけて経験した喪失と切り離して読むのは難しい。

04『デカメロン』 ― 10人の語り手、10日の物語

1348-53年にかけて、ボッカッチョは『デカメロン(Decameron)』を執筆した。題名はギリシャ語 Δεκάμερον「十日の書」の意、10人の語り手×10日×10話=100篇の短編集である。

物語の枠(コルニーチェ)はこうだ ― 1348年6月下旬の火曜日の朝、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会で、7人の若い女性(パンピネーア、フィアンメッタ、フィロメーナ、エミーリア、ラウレッタ、ネイフィレ、エリーサ)と3人の男性(パンフィロ、フィロストラート、ディオネーオ)が偶然出会う。街の恐怖と荒廃から逃れるため、彼らは郊外の別荘へ移り、10日間、毎日一人が「王(女王)」となって主題を決め、全員が一篇ずつ物語を語る。雨の日も恋の日も、悲しみの日も笑いの日もある。

100篇の物語は、王族から商人、僧侶から泥棒、高貴な愛から滑稽な間違い、賢婦から狡猾な隠者まで、人間の営みのほぼ全域を扱う。宗教権威への皮肉(第1日第2話、改宗させようとした父がローマ教皇庁の腐敗を見てかえって確信する話)、恋愛の機微(第5日第9話、鷹を犠牲にする男の話、後にキーツが詩化)、庶民の知恵(第9日の農民たちの応答)、そして慎ましい徳(第10日全体は「寛大さ」が主題)。ボッカッチョは俗語ぞくご散文(トスカーナ語)を、それまで口頭の物語や事務文書にしか用いられてこなかった水準から、長編の芸術言語へと引き上げた。

人の本性は、悲しみへ押し流されるままに沈むことなく、悲しみの後ろに来る小さな光を見つけて、なお話しつづけることにある。

『デカメロン』第1日序文(1351年頃)

『デカメロン』はまた、女性の語り手を中心に据えた初期ルネサンス文学の特徴的作品である。7人の女性と3人の男性という比率は、ボッカッチョ自身が序文で「この書は特に、家の中に閉じ込められて外の空気を吸えない女性たちへ捧げる」と明記したこととつながる。20世紀後半以降、『デカメロン』は女性の内面と声を積極的に扱った初期俗語文学として再読されてきた。

05ペトラルカとの友情 ― 1350年秋からの24年

1350年10月、ボッカッチョはフィレンツェでペトラルカを迎えた。二人の最初の出会いだった。ペトラルカは46歳、ローマで桂冠詩人に戴冠して9年、すでにヨーロッパで最も著名な人文主義者だった。ボッカッチョは37歳、『デカメロン』の執筆中で、まだ国際的な名声はなかった。それでも両者は数日で深い友情を結び、以後24年間、書簡と写本の贈与を続けた。

1351年、ボッカッチョはフィレンツェ共和国の公式外交使節がいこうしせつとしてパドヴァを訪ね、ペトラルカをフィレンツェ大学へ招聘しようとした。招聘は実現しなかったが、二人はパドヴァで再会し、共にウェルギリウスを読み、ペトラルカの家の庭で古典の写本を交換した。1359年春、ミラノでの再会では、ペトラルカからナポリ王立図書館に眠るホメロスのラテン訳事業の構想を受け、ボッカッチョの古典への向き合いはさらに体系へと向かう。

この影響のもと、ボッカッチョは1350年代後半から次第にラテン語の学術著作へ軸足を移す。『異教の神々の系譜(Genealogia deorum gentilium)』(15巻、1350-60年代執筆、死の直前まで改訂)は、ギリシャ・ローマ神話を体系的に集成した中世・ルネサンス神話学しんわがくの参照書として広く流通した。『名婦列伝(De mulieribus claris)』(1361-62)は、古代から同時代までの106人の女性の短伝記集で、古典古代からの女性伝記の系譜を、女性のみを対象に束ねた早い例とされる。『山・森・泉・湖・河・沼・海の名前辞典』(De montibus…)は古典地理事典。

1360年、ボッカッチョは司祭しさい叙階じょかいされた。生計の安定のためでもあり、信仰の深まりのためでもあった。1362年、彼は信仰面での動揺を経験する。修道士ジョアチーノ・チャーニから「地獄の罰が迫っている」という警告を受け、『デカメロン』を含む自らの著作を手放すことを考えたと伝わる。ペトラルカが1362年5月28日の書簡(『老年書簡集』1.5)でこれを諫め、「友よ、あなたの才能は神が与えたものである。俗語で書いた書を捨てる必要はない」と返した、と書簡集は記す。この書簡が以後の執筆継続の一つの支えになったと受け止めてきた文学史家は多い。

06ダンテ伝と『神曲』公開講義 ― 1373年フィレンツェ

ボッカッチョのもう一つの大きな仕事は、ダンテの読みを次の世代に引き渡すことだった。彼は1351年から1363年にかけて『ダンテ伝(Trattatello in laude di Dante)』(『ダンテを称える小論』)をイタリア語で執筆し、改訂を重ねた。同時代人の聞き書きと文書を集めた、ダンテ最初期の伝記の一つである。

1373年8月、フィレンツェ共和国政府は市民の請願を受けて、ダンテ『神曲』の公開講義こうぎを市立教会で行うことを決めた。講義者としてボッカッチョが指名された(当時60歳、病身だった)。10月23日、サント・ステファノ・イン・バディーア教会で最初の講義が開かれた。『神曲』地獄篇を一歌ずつ、字句の解釈と哲学的・神学的背景を交えて逐次解説する連続講義である。

病と老いのため講義は第17歌で中断した(1374年1月)。この講義ノートが『神曲地獄篇注解(Esposizioni sopra la Comedia di Dante)』として残り、以後のフィレンツェ大学、ボローニャ、パドヴァと続く『神曲』注解の系譜に連なる。地獄篇第1歌の「暗い森」、第5歌のパオロとフランチェスカ、第33歌のウゴリーノなど、後世のダンテの読みの型の少なからぬ部分が、ボッカッチョの注解を経由して流通している。

晩年のボッカッチョには、もう一つの面が見える。1355年頃に書かれたとされる『コルバッチョ(Corbaccio)』は、未亡人への報われぬ恋に憤った話者が女性一般を激しく罵倒する寓意の小品で、若いころ女性を語り手の中心に据え、またで女性の徳を讃えた同じ著者の反女性はんじょせい論である。同一人物のなかにこの両極が共存していたことを読み手は引き受けて読むほかない。研究史では、若き日のフィアンメッタへの恋の挫折、晩年の孤独、聖職者としての禁欲の影など複数の要因が論じられてきたが、決定的な解答はまだない。

1374年7月、盟友ペトラルカがパドヴァ近郊アルクアで没した。ボッカッチョは深く悼み、翌年1375年12月21日、チェルタルドの生家で没した。享年62。トレ・コローネ(ダンテ1321、ペトラルカ1374、ボッカッチョ1375)の三人は、半世紀のうちに相次いで世を去った。

07遺産 ― 俗語散文、女性の声、古典の継承

ボッカッチョの遺産は三つの層にわたる。

俗語散文の広がり。『デカメロン』は長いイタリア俗語散文の初期の作品として、15-16世紀の印刷本時代を通じてベンボの俗語論で規範化された。以後のチョーサー『カンタベリー物語』(題材の重複)、セルバンテス『模範小説集』、ラブレー『ガルガンチュア』、シェイクスピア(『尺には尺を』『シンベリン』『終わりよければすべてよし』が『デカメロン』題材)、キーツ『イザベラ、あるいはバジルの鉢』、パゾリーニの1971年映画『デカメロン』まで、さまざまな時代・ジャンルの読み手がそれぞれのやり方で『デカメロン』の枠を受けとり直している。

女性の声と伝記の伝統。『名婦列伝』はクリスティーヌ・ド・ピザン『女の都の書』(1405)が直接に応答する先行著作であり、近代初期の女性伝記やフェミニスト文学論にしばしば参照される。『デカメロン』の女性語り手の声は、20世紀後半以降、中世末期における女性の内的生活の一つの記録として読み直されてきた。

古典の継承者・ダンテの注解者。『山・森・泉の名前』などの学術著作は、ルネサンス人文主義のための最初の参照文献群となった。『ダンテ伝』と『神曲地獄篇注解』は、ダンテという前世代の巨人を、次世代にとって読める言葉に翻訳する仕事だった。ペトラルカの学術的人文主義に対し、ボッカッチョの人文主義は常に物語と継承の方へ傾いていた。

08主要な出来事と著作

  1. フィレンツェまたはチェルタルドに誕生、父は銀行代理人の商人
  2. 父に同行してナポリへ、バルディ商会で商業見習い(以後6年ほど)
  3. 『フィローストラト』(トロイロとクレッシダの恋、八行詩節の韻文物語)
  4. ナポリ宮廷でフィアンメッタ(マリア・ダキーノとされる女性)と出会う
  5. バルディ商会の経営危機でフィレンツェへ帰国
  6. 桂冠戴冠へ向かうペトラルカと帰路接近、書名と評判では既に互いを知る
  7. 『フィレンツェの女神たちへの哀歌(Elegia di Madonna Fiammetta)』
  8. フォルリのオルデラッフィ家に客人として滞在
  9. 黒死病がフィレンツェを襲う、父と義母ビーチェを続けて失う
  10. 『デカメロン』執筆
  11. フィレンツェで初めてペトラルカに会う、終生の友情の始まり
  12. 使節としてパドヴァ訪問、『ダンテ伝』第一稿
  13. 『コルバッチョ(Corbaccio)』反女性論の寓意小品
  14. ミラノでペトラルカと再会、ホメロスのラテン訳事業の構想を共有
  15. 『異教の神々の系譜』15巻(ラテン語、死まで改訂)
  16. 司祭に叙階
  17. 『名婦列伝(De mulieribus claris)』古代・同時代106人の女性伝記集
  18. 信仰面の危機、ペトラルカの書簡で『デカメロン』を破棄せず留まる
  19. フィレンツェ・サント・ステファノ教会で『神曲』公開講義開始
  20. 地獄篇第17歌まで進んで病で講義中断
  21. ペトラルカ死去、深く悼む
  22. チェルタルドの生家で死去、62歳

残した仕事の輪郭

  • 『デカメロン』(1348-53) ― トスカーナ俗語の散文で書かれた100篇の短編集、ペストの枠物語の中に人の多様な姿を並べた
  • 枠物語(コルニーチェ)の構造 ― 10人×10日で物語群を束ねる形式。同時代から後代まで、枠物語の一つの参照として読まれてきた
  • 女性の声への注意 ― 序文で「家の中に閉じ込められて外の空気を吸えない女性たち」へ捧げると明記、『名婦列伝』で古代から同時代までの106人の女性短伝記を並べた
  • 古典復興の学術著作 ― 『異教の神々の系譜』15巻、『山・森・泉の名前』など、ルネサンス人文主義の参照文献として流通した
  • ダンテ受容の媒介 ― 『ダンテ伝』と1373年フィレンツェでの『神曲』公開講義、以後の注解の系譜に連なる仕事
  • ペトラルカとの書簡と写本交換 ― 1350年から1374年まで24年の往復、トレ・コローネの一人として古典の継承を支えた
1375年12月21日、フィレンツェ郊外チェルタルドの生家で病没。62歳。遺言により遺体はチェルタルドのサン・ミケーレ・エ・ヤコポ教会に埋葬された。16世紀に墓の詳細は失われたが、1950年代の発掘で棺の一部が確認され、現在は生家向かいの教会に記念碑が立つ。
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  • 解釈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 1348年夏、フィレンツェ人口の半ばが黒死病で失われ、ボッカッチョ自身も父と義母を続けて亡くした翌年から書き継がれた枠物語の序文。7人の若い女性と3人の男性が郊外の別荘へ逃れ、10日間・100篇の物語...

    一次資料を開くDecameron Giornata Prima Introduzione 冒頭: 'Dico adunque che già erano gli anni d...

  • 出典二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 『デカメロン』序文(1351年頃、ペスト禍のフィレンツェを描く枠物語の導入、大意)

    一次資料を開くBerlin Staatsbibliothek デジタル化された Boccaccio 自筆 Decameron 写本 (Hamilton 90)。Branca ...

  • 抜粋解釈として提示要旨訳

    要旨訳: 人の本性は、悲しみへ押し流されるままに沈むことなく、悲しみの後ろに来る小さな光を見つけて、なお話しつづけることにある。

    一次資料を開くDecameron Proemio 冒頭。『Umana cosa è l'avere compassione degli afflitti』(苦しむ者に共感を抱...

  • 出典二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 『デカメロン(Decameron)』第1日序文(1348-53年執筆)冒頭、ペスト禍下のフィレンツェを語る導入の趣旨の邦語意訳

    一次資料を開くDecameron Giornata Prima (第 1 日) は Proemio (序文) + Introduzione (序章) で構成。philogly...

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

ボッカッチョが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ボッカッチョの家記念館

    チェルタルド, イタリア

    トスカーナの丘の町チェルタルドにある詩人の家。ボッカッチョ協会運営の博物館兼専門図書館

  • サンティ・ヤコポ・エ・フィリッポ教会墓所

    チェルタルド, イタリア

    1375年没。1949年の調査で墓が再同定され、マリオ・モスキの大理石墓碑が置かれた

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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