ペトラルカ
千年前の死者と、 手紙を交わすことはできるか?
キケロに宛てて手紙を書き、古代と現代の間に橋を架けた「人文主義の祖」
- 人文主義
- カンツォニエーレ
- 桂冠詩人
- ラウラ
- アヴィニョン
時代の空気
14世紀前半のヨーロッパは二重に揺れていた。教皇庁は1309年以来ローマを離れアヴィニョンに留まり(後に「バビロン捕囚」と呼ばれる)、ダンテは追放先のラヴェンナで没す(1321)。1347年シチリアから入った黒死病は翌夏フィレンツェを襲って人口の半を奪い、その傍らでボッカッチョは『デカメロン』を書き始めた。同じ1347年、ローマではコーラ・ディ・リエンツォが古代共和政の復活を叫ぶ。北イタリアの宮廷(ヴィスコンティ、カッラーラ)が学者を抱え、修道院の奥には誰も読まぬまま眠る古典写本が積もっていた。
01追放の家系、アヴィニョンの少年
1304年7月20日未明、トスカーナのアレッツォで、フィレンツェの公証人ペトラッコ(セル・ペトラッコ)の長男として生まれた。父は1302年1月、ダンテ・アリギエーリと同じ白党(ビアンキ)としてフィレンツェから追放された亡命者で、ダンテと同じ追放仲間だった。アレッツォは亡命者一行が一時身を寄せた仮の地にすぎない。本名フランチェスコ・ペトラッコ、後に古典ラテン語化してペトラルカ(Petrarca)と自称する。
1311年、一家は教皇庁のおかれたフランス・プロヴァンス地方のアヴィニョンに移住した。教皇は1309年からローマを離れてアヴィニョンに留まっており(後に「バビロン捕囚」と呼ばれる)、ヨーロッパ中の聖職者・法曹・文学者がこの人工的な首都に集まっていた。アヴィニョン市内は法律家にとっても住居が確保しにくく、一家は20キロほど東の小都市カルパントラに居を構える。少年ペトラルカはカルパントラでコンヴェネヴォーレ・ダ・プラトのもとラテン語文法と修辞学を学んだ。1316年からモンペリエ大学、1320年からボローニャ大学で7年間法学を修めた。父の希望は息子を法曹にすることだったのである。
しかしペトラルカは法学を嫌い、密かに古代ラテン詩人を読みふける。父が息子の部屋からラテン古典(ウェルギリウスとキケロ)を取り上げて火にくべようとし、ペトラルカが泣いて哀願したため一部救い出した──という有名な挿話が彼自身の自伝的書簡『後代の人々へ』に残る。
1326年、父の死により法律家への道は断たれた。ペトラルカは弟ゲラルドと共にアヴィニョンに戻り、有力枢機卿コロンナ家の庇護を受けて聖職者の下位の職に就く(最後まで司祭には叙階されない)。読書と詩作のための時間を確保する、慎重な選択だった。
02ラウラとの出会い、恋と詩の40年
1327年4月6日聖金曜日、アヴィニョンのサント・クレール教会で、ペトラルカはと呼ばれる女性を一目で恋した。この日付と場所は彼自身が愛書したウェルギリウス写本(現在ミラノ・アンブロジアーナ図書館蔵)の余白に、彼女の死後に自ら正確な時刻まで書き込んだ。ラウラの歴史的身元は今も確定していない。有力説はラウラ・ド・ノヴェス(1310-1348、ユーグ・ド・サドの妻、後のサド侯爵家の祖)で、18世紀のサド神父による系図研究以来支持を集めるが、ペトラルカ自身は詩の中で彼女の素性をすべて隠し、姓も身分も明かさなかった。歴史上の実在人物か、文学的構築物か、どちらにも振れる余地が残る。
以後21年間(1327-1348)、ペトラルカはラウラへの報いられぬ恋を俗語(トスカーナ語)の詩で書き続けた。この膨大な詩群が後に『カンツォニエーレ(Canzoniere)』(当人の呼称は『Rerum vulgarium fragmenta』=「俗語のもろもろの断片」)として編集され、最終的に366篇のソネット・カンツォーネ・セスティーナを含む長大な個人詩集となる。
の革新は、詩が一人の具体的な愛の対象を長期にわたって歌い続ける個人詩集として構成されたことである。中世恋愛詩の型(トルバドゥール、プロヴァンス詩)を踏まえつつ、個人の内的時間──恋の始まり、持続、ラウラの死、死後の慰め、最終的な神への回帰──を詩集の構造そのものにした。1348年4月6日、出会いから21年後の同じ4月6日、ラウラはアヴィニョンで黒死病により死ぬ。ペトラルカはこの符合をウェルギリウス写本の同じ余白に書き加えた。
なお、ペトラルカはラウラへの恋と並行して二人の私生児をもうけている。母の名は伝わらない。1337年生まれの息子ジョヴァンニは1361年に黒死病で先立ち、1343年生まれの娘フランチェスカは1361年フランチェスコリオーロ・ダ・ブロッサーノと結婚し、晩年のペトラルカを世話した。後年彼自身が手続きを取って二人を嫡出子として認知している。詩のラウラを聖化しつつ、生身の家族関係も正直に持ち続けた──それが俗世で生きる聖職者ペトラルカの実情だった。
おお、若き日の惑いの一部一部を、散り散りの詩によって聴く方々よ、いま私ですらなかった頃の、異なる男の私の声を──私はあなた方に、同情と許しを願うだけである。
ソネット1(序詩)は、詩集全体を過去の愚行への悔悟として枠づける。これは一貫性ある個人の人生を詩によって描き出す企てであり、近代的自己の詩的肖像の原型となった。
031341年ローマ、桂冠詩人の戴冠
1337年、33歳のペトラルカはアヴィニョンの喧噪を離れ、東へ約25キロのソルグ川源流の谷ヴォクリューズに小さな家を借りる。1353年までの十数年、ここが彼の隠棲の机となった。庭仕事と魚釣りと長い散歩のあいだに、ラテン語叙事詩『アフリカ(Africa)』(第二次ポエニ戦争のスキピオ・アフリカヌスを主人公とする、ウェルギリウス『アエネーイス』に倣った叙事詩)の構想を立て、書き進めた。同時に、古代キケロの散逸書簡の捜索を始める。ヨーロッパ各地の修道院図書館を訪ね、目録を調べ、埃をかぶった写本を引き出し、自ら書写していった。1345年、ヴェローナ大聖堂参事会図書館でキケロ『アッティクス宛書簡(ad Atticum)』『クィントゥス宛書簡(ad Quintum)』『ブルートゥス宛書簡(ad Brutum)』の写本を発見する。共和政末期のローマ政治家キケロが私的に書いた手紙の生身の声──失われたと思われていたテクストの決定的な再発見であり、古典学(philologia)の革命の合図となった。
1340年9月1日の同じ日、彼のもとにパリ大学とローマ元老院の双方から、桂冠詩人(poeta laureatus)の称号授与を申し入れる手紙が届いた。古代ローマの戴冠式伝統の復活である。彼はローマを選び、儀式の場として古代共和政の象徴であるカピトリーノの丘を指名した。
1341年4月8日復活祭、ペトラルカはカピトリーノの元老院議事堂で、ローマ市の元老院議員オルソ・デッラ・ノエーラから月桂冠を受けた。古代ローマ以来、千年以上途絶えていた詩人への公的な桂冠授与の復活である。戴冠演説(Collatio laureationis)で彼はウェルギリウスを引用しつつ詩人の使命を論じ、古代の甦り(renovatio)を掲げた。この儀式は、後世が「ルネサンス」と呼ぶ運動の象徴的な出発点のひとつとなった。
戴冠の具体的な条件として彼はをローマ市に献呈することを約束したが、この叙事詩は生涯未完のままに終わる。完成しない叙事詩は、彼自身を生涯自負と自責の両方で苛みつづけた。
04ヴェントゥー山登頂と内面の発見
1336年4月26日、32歳のペトラルカは弟ゲラルドとともにヴォクリューズの北にそびえるヴェントゥー山(プロヴァンス・アルプス、標高1912m)に登った。山頂で彼はいつも携えていたアウグスティヌス『告白』を取り出し、第10巻の一節──「人々は高山を讃え、海の広がりを讃えるが、自分自身には目もくれぬ」──をたまたま開いた頁で読んだ。この瞬間彼は衝撃を受け、外の絶景から自分の内面に向き直ったと、友人フランチェスコ・ディオニジ宛書簡第4巻第1書(1352年頃に書き上げた)で彼は書いた。
この書簡はペトラルカ自身の文学的演出の色が濃く、実際に1336年に登山があったかすら論争がある(1352年の執筆時に遡及的に構成された可能性も指摘される)。しかし重要なのは、山頂で風景を見るより自分の内面を問い直すという身振りが、西洋文学における内面の発見の象徴として書かれたことである。風景美学の萌芽と、内省としての主体の誕生が、この一通の書簡に同居している。
ペトラルカにおいて、古代ラテン異教文化(キケロ、ウェルギリウス)とキリスト教文化(アウグスティヌス、聖書)は内的葛藤として同居する。彼は一方で古代の栄光を讃え、他方で世俗的栄光の虚しさを悔い、この二つの声の間で書き続けた。
最も赤裸々な作品が『私の秘密(Secretum meum)』(1347-53年頃執筆、生前未公刊)である。全3巻、ペトラルカ自身と聖アウグスティヌスが対話する三日間という設定で、真理の女神が審判者として黙って座る。アウグスティヌスはペトラルカの名誉欲、ラウラへの執着、著作への虚栄を厳しく叱る。ペトラルカは抵抗しつつ認める──しかし最後まで、書くことそのものをやめるとは約束しない。この書は自己の分裂を隠さない内面の告白として書かれ、生前公刊されなかったまま机の引き出しに残された自伝的自己分析文学の先駆となった。
05死者への手紙──キケロ・セネカ・ホメロス
ペトラルカは生涯にわたり膨大な書簡集を自ら編纂した。『家族の手紙(Familiarium rerum libri)』全24巻350通余、晩年に書き継がれた『老年の手紙(Seniles)』全17巻128通余。宛先の中には同時代人(ボッカッチョ、王侯貴族、ローマ教皇)とともに、死者への手紙が混じる。彼自身が起草・推敲・配列まで設計したこの書簡集は、近代的な意味での個人の自伝としても読める。
1345年の発見以後、彼はしばしばキケロ宛の手紙を書き、『家族の手紙』第24巻の最後にまとめて置いた。「マルクス・トゥッリウスよ、汝が1,300年以上前に世を去ったことを私はよく知っている。それでも私は汝に向けて書く」──この書き出しは驚くべきものだった。中世の書簡は同時代人への実用的通信か、聖人への祈願であり、遠い過去の非キリスト教徒の異教人作家へ等身大の手紙を書くことは誰も試みていなかった。
ペトラルカはセネカ、ウェルギリウス、ホラーティウス、リウィウス、ホメロス(彼はギリシア語を終生満足に習得できなかった)へも手紙を書いた。これは単なる修辞的遊戯ではなく、歴史的距離を越えて古代と直接対話するという人文主義の核心姿勢の宣言である。中世キリスト教が聖書の物語的現在のうちに古代を溶かし込んでいたのに対し、ペトラルカは古代を過ぎ去った別の時代として距離を置き、だからこそ書簡で話しかける。この歴史意識の転回がルネサンスの根幹をなす。
死者と並んで彼が熱烈に手紙を書いた現役の人物が、ローマの公証人コーラ・ディ・リエンツォだった。1347年5月、コーラは古代ローマ共和政の復興を掲げてカピトリーノで蜂起し、自ら「ローマ護民官(tribunus)」を名乗ってローマ市の支配者となる。この革命にペトラルカは熱狂し、ヴォクリューズから祝福と鼓舞の書簡を送り、頌歌『カンツォニエーレ』第53番「精神を高める者よ(Spirto gentil)」をコーラに(あるいは枢機卿コロンナに)宛てて書いたとされる。コーラの政権は同年12月に崩壊し、1354年に民衆により殺されるが、ペトラルカは古代の理念が現代に立ち上がりうるという信念を、しばらくの間この一人の僭主に賭けた。死者への手紙と、生身の人間への政治的期待は、彼の中で同じ古典復興の二つの面だった。
ペトラルカは終生、ギリシア語を習得する努力を続けたが、満足には至らなかった。彼はカラブリア出身のバルラアム(ビザンツ修道士)から手ほどきを受けた。ホメロスとプラトンの写本を所蔵したが、ラテン訳がないため読み通せなかった。この未達成は、次世代マヌエル・クリュソロラスのフィレンツェ招聘(1397)と、フィチーノのプラトン全集ラテン訳(1484)への道を準備する。
06ダンテ・ボッカチオと「三冠」、そして俗語の地位
イタリア文学史はペトラルカを、ダンテ(1265-1321)・ボッカチオ(1313-1375)と並ぶ三冠(tre corone)と位置づける。三人はトスカーナ語による俗語文学を確立し、後のイタリア語の標準を形成した。
ペトラルカはダンテより39歳年下で、ダンテが死んだとき(1321)17歳だった。父はダンテと同じ亡命の身であり、面識はあったと推定されるが、ペトラルカ自身はダンテをほとんど表立って論じない。これは同時代の意識的距離と読まれる。1359年、ボッカッチョが送った『神曲』の写本に対し、ペトラルカは「ダンテについて」というボッカッチョ宛書簡で、ダンテを大詩人と認めつつ、自分はダンテに影響を受けていないと主張した(この主張自体、影響への意識的抵抗と読まれる)。
ボッカッチョとは生涯の親友だった。1350年フィレンツェで初対面、以後書簡の交換と面会を続け、ボッカッチョはペトラルカを「師父」と呼んだ。二人はギリシア語学習を共に試み、プラウトゥス・テレンティウス・ホメロスの写本の交換と注釈を重ねた。ボッカッチョの『デカメロン』(1353)は俗語短編小説の金字塔、ペトラルカはその最終話グリゼルディスの物語をラテン語に訳出し、ヨーロッパ中に広めた。
ペトラルカ自身は俗語詩『カンツォニエーレ』を生涯「小物」と自評し、ラテン語叙事詩『アフリカ』こそ自分の永遠の名声を担う本体と考えていた。しかし歴史はその評価を逆転させた。『アフリカ』は今日ほとんど読まれず、『カンツォニエーレ』はヨーロッパ詩の規範としてペトラルキズムを生み、16世紀のスペイン・フランス・イギリス詩(ロンサール、シェイクスピアのソネット)にまで連鎖する。
07人文主義の発明と晩年のアルクア
ペトラルカは「studia humanitatis」(人間の学)という用語をキケロから借りて、古典学・修辞学・詩学・歴史・倫理学を包括する知の領域を指示するために使った。これが近代語の「ヒューマニズム(人文主義)」の語源である。
彼の人文主義の具体的要素は三つある。(1) 古代写本の発見と校訂──キケロ書簡の発見、リウィウスの写本の統合(二つの部分写本を合わせて読める本文を復元)、ホラーティウスの全詩の校訂。(2) 古代語(純正ラテン語)の復興──中世の教会ラテン語・スコラ用語を排し、キケロ・ウェルギリウスの古典ラテン語に戻す。(3) 歴史意識──古代・中世・現代の三時代区分と、古代を復興すべき失われた時代として意識する視点。
晩年に書き続けた俗語の長詩『凱旋(Trionfi)』(未完)は、愛・貞潔・死・名声・時間・永遠という六つの寓意の連続的勝利として、ダンテ『神曲』の構造を引き継ぎつつラウラと自身の死を見届けようとした作で、生前最後まで推敲が続けられた。
1353年、教皇庁の腐敗とアヴィニョン生活への嫌悪から、ペトラルカはイタリアへ戻る。1353-61年はミラノのヴィスコンティ家、1362-67年はヴェネツィア共和国、1368年以後はパドヴァのカッラーラ家と、後援者を転々としつつ、各地で写本蒐集と執筆を続けた。北イタリア宮廷を渡り歩く老学者の姿は、後に印刷術を待たぬまま手稿で広がる人文主義者の典型像となる。
1370年、66歳のペトラルカはパドヴァ近郊のアルクア(現アルクア・ペトラルカ)の丘の村に小さな家を求め、晩年の隠棲の地と定めた。カッラーラ家領内の静かな丘陵地で、彼は自ら設計した書斎と書庫を構えた。1361年に黒死病で長男ジョヴァンニを失った彼を、認知した娘フランチェスカと夫フランチェスコリオーロ・ダ・ブロッサーノ、そして孫娘エレッタが生活面で支えた──私生児として生まれた子と孫が、最も近い家族として晩年の机を見守った。
1374年7月19日の夜、ペトラルカは書斎でウェルギリウスの写本に頭を伏せて死んでいるのを発見された。翌日が彼の70歳の誕生日だった。読みながら、あるいは書きながら、死者のラテン詩の行の上で静かに息を引き取った──古典と生涯を共にした詩人にふさわしい終わり方だった。彼の希望どおりアルクアの教会に埋葬され、今も同じ場所に石棺と書斎が巡礼地として保存されている。
彼の蔵書──古代ラテン写本、キケロ書簡集の自筆稿、ウェルギリウスの余白に自筆で書き込まれたラウラ記念の詩──の一部はヴェネツィア共和国に遺贈され、マルチャーナ図書館(後の国立図書館)の核となった。一部はパドヴァ・ミラノの図書館へ散った。残された手稿はその後百年のあいだに、彼が始めた写本の蒐集と校訂の運動を、フィレンツェ・ヴェネツィア・ローマへと伝播させていった。
08主要な出来事と著作
- 7月20日、アレッツォに亡命フィレンツェ人公証人ペトラッコ(ダンテと同じ追放者)の長男として誕生
- 一家でアヴィニョン近郊カルパントラに移住
- モンペリエ大学で法学修学を始める
- ボローニャ大学に移る
- 父死去。法学を放棄、コロンナ家庇護下で聖職者の下位職に就きアヴィニョンへ戻る
- 4月6日聖金曜日、サント・クレール教会でラウラに出会う
- 4月26日、弟ゲラルドとヴェントゥー山に登頂(書簡は1352頃に文学化)
- アヴィニョン東のヴォクリューズに隠棲。私生児ジョヴァンニ生まれる
- 4月8日復活祭、ローマ・カピトリーノで桂冠詩人の戴冠
- 私生児フランチェスカ生まれる
- ヴェローナ大聖堂参事会図書館でキケロ書簡集(ad Atticum 他)を発見
- コーラ・ディ・リエンツォのローマ革命を支持、書簡で激励
- 『私の秘密(Secretum)』執筆(生前未公刊)
- 4月6日、出会いから21年後の同日、ラウラがアヴィニョンで黒死病死。死後の詩群の執筆開始
- 10月フィレンツェでボッカッチョと初対面、生涯の友情が始まる
- アヴィニョン教皇庁を離れミラノのヴィスコンティ家に身を寄せる
- 長男ジョヴァンニが黒死病死。フランチェスカが結婚し晩年の世話をする
- ヴェネツィア共和国に身を寄せ、自蔵書をマルチャーナ図書館に遺贈する旨を約束
- パドヴァのカッラーラ家のもとへ移る
- パドヴァ近郊アルクアの丘の家に隠棲、書斎を構える
- 7月19日夜、アルクアの書斎でウェルギリウス写本に頭を伏せて死去。享年70(誕生日前日)
残した思想の輪郭
- 人文主義(studia humanitatis) ─ キケロから借りた語を近代的知の領域名として確立
- 古代写本の発見と校訂 ─ キケロ書簡・リウィウス・ホラーティウスの再発見、科学的文献学の先駆
- 桂冠詩人 ─ 1341年ローマでの戴冠、古代ローマ文化復興(renovatio)の象徴的起点
- カンツォニエーレ ─ 個人の内的時間を追う俗語詩集、ヨーロッパ近代詩の規範(ペトラルキズム)
- 死者への書簡 ─ キケロ・セネカ・ホメロスへの手紙、歴史意識の転回としての対話
- 内面の発見 ─ ヴェントゥー山登頂と『秘密』、アウグスティヌス的内省とキケロ的理性の葛藤
- 俗語とラテン語の二言語戦略 ─ 不滅の名声はラテン語『アフリカ』に、感情はトスカーナ語詩に(評価は後世逆転)
出典と確認メモ
4件- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1343年頃から着手され未完に終わった『記憶すべきこと』序文の論旨を凝縮した一節。ペトラルカは古代ローマの著作を渉猟するなかで、同時代のイタリアが古典の記憶を失ったまま明日を描けずにいることに気づいた...
- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: この書簡はペトラルカ自身の文学的演出の色が濃く、実際に1336年に登山があったかすら論争がある(1352年の執筆時に遡及的に構成された可能性も指摘される)。しかし重要なのは、山頂で風景を見るより自分の...
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: おお、若き日の惑いの一部一部を、散り散りの詩によって聴く方々よ、いま私ですらなかった頃の、異なる男の私の声を──私はあなた方に、同情と許しを願うだけである。
一次資料を開くPetrarca Canzoniere RVF 1 全文 Italian canonical edition。'Voi ch'ascoltate in rime...
- 引用原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 人々は山の高さ、海の巨大な波、川の広い流れ、大洋の周囲、星の運行を驚嘆しに行く。しかし自分自身のことは顧みない
一次資料を開くPetrarca Familiares IV.1 (Mont Ventoux 登頂記、1336年4月26日)。山頂で Augustine Confessione...
つながり
- ダンテ
批判的継承 — 『家族書簡集』『勝利』で先輩詩人ダンテの俗語選択と古典主義を高く評価しつつ、自身はラテン古典復興により深く傾き、俗語詩『カンツォニエーレ』を対置した
- プラトン
継承 — ギリシア語を最後まで修得できなかったが、バルラアムから手ほどきを受けプラトン写本を蔵書に加えた。『無知について』で古典ギリシアへの憧憬を書き残し、後のフィチーノによる全訳の動機を準備
- ボッカッチョ
伴走 — 1350年10月フィレンツェで初めて会って以来、1374年ペトラルカ没までの24年間、書簡を交わし写本を贈りあった終生の友。ボッカッチョは1351年パドヴァを訪ねペトラルカを説得してフィレンツェへ招聘しようとし(実現せず)、ペトラルカはボッカッチョに自らの蔵書と『カンツォニエーレ』完成稿の清書を委ねた。ペトラルカ死去の報を受けたボッカッチョは翌年のうちに没する。『ラテン書簡集』に往復書簡が収録
さらに読むならFurther Reading
ペトラルカの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門わが秘密
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生きた跡を辿るPlaces
ペトラルカが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
ペトラルカを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「フランチェスコ・ペトラルカ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Petrarch"
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