ペトラルカ
千年前の死者と、 手紙を交わすことはできるか?
キケロに宛てて手紙を書き、古代と現代の間に橋を架けた「人文主義の祖」
- 人文主義
- カンツォニエーレ
- 桂冠詩人
- ラウラ
- アヴィニョン
教皇はローマを離れ、黒死病が町を襲う。古い本は修道院の奥で眠っていた — ひらく
時代の空気
14世紀前半のヨーロッパは二重に揺れていた。教皇庁は1309年以来ローマを離れアヴィニョンに留まり(後に「バビロン捕囚」と呼ばれる)、ダンテは追放先のラヴェンナで没す(1321)。1347年シチリアから入った黒死病は翌夏フィレンツェを襲って人口の半を奪い、その傍らでボッカッチョは『デカメロン』を書き始めた。同じ1347年、ローマではコーラ・ディ・リエンツォが古代共和政の復活を叫ぶ。北イタリアの宮廷(ヴィスコンティ、カッラーラ)が学者を抱え、修道院の奥には誰も読まぬまま眠る古典写本が積もっていた。
01千三百年前の死者へ
1345年、北イタリアのヴェローナ。大聖堂の図書館の奥で、ペトラルカは古い写本(手で書き写した本)の束を引き出した。古代ローマの政治家キケロが、親しい相手に宛てて書いた私的な手紙である。失われたと思われていた、生身の声だった。埃をかぶったその写本を、彼は自分の手で書き写した。
そして、信じがたいことをする。キケロに宛てて、返事を書いたのだ。「マルクス・トゥッリウスよ、汝が1,300年以上前に世を去ったことを私はよく知っている。それでも私は汝に向けて書く」。当時の誰にとっても、驚くべき書き出しだった。
手紙とは、生きている相手に出すものだった。あるいは聖人への祈りだった。千年以上前に死んだ、キリスト教徒ですらない人に、対等な手紙を書く。そんなことを試みた人は、それまで誰もいなかった。
なぜ彼は、返事の来ない手紙を書いたのか。その答えは、彼の人生のはじめにある。時は41年前に戻る。
02追放者の息子
1304年7月20日の明け方、トスカーナ地方の町アレッツォで、男の子が生まれた。父ペトラッコは、フィレンツェの公証人(契約書などを作る役人)だった。だがその2年前、政争に敗れてフィレンツェを追放されていた。詩人ダンテ・アリギエーリと同じ側に立ち、同じ年に追われた仲間である。アレッツォは、追われた人々がしばらく身を寄せる、仮の町にすぎなかった。
本名はフランチェスコ・ペトラッコ。後に古代ラテン語ふうに直し、ペトラルカ(Petrarca)と名乗る。
1311年、一家はフランス南部のアヴィニョンへ移った。ローマ教皇(カトリック教会の最高指導者)が1309年からローマを離れ、この町に留まっていたからである。後に「バビロン捕囚」と呼ばれる時代だ。教皇のいる町には、ヨーロッパ中から聖職者や法律家や文人が集まった。家が足りず、一家は20キロほど東の小さな町カルパントラに住んだ。
少年はそこで、コンヴェネヴォーレ・ダ・プラトという教師についた。ラテン語の文法と、言葉で人を動かす技術(修辞学)を学ぶ。1316年からモンペリエ大学、1320年からボローニャ大学。父の望みどおり、7年間法律を学んだ。父は、息子を法律家にしたかった。
しかし、彼は法律が嫌いだった。こっそり古代ローマの詩人を読みふけった。ある日、父が息子の部屋からウェルギリウスとキケロの本を取り上げ、火にくべようとした。彼は泣いて頼み、一部を救い出した。この話は、彼自身が晩年に書いた自伝の書簡『後代の人々へ』に残っている。
1326年、父が死んだ。彼が22歳になる年だった。法律家への道は、そこで途切れる。弟ゲラルドとアヴィニョンに戻り、有力な枢機卿(教皇を助ける最高位の聖職者)コロンナ家に仕えた。聖職者の下位の職に就いたが、司祭にはならなかった。生涯、そうだった。読書と詩のための時間を守る、慎重な選び方である。
火から救い出した本の作者に、彼はやがて手紙を書くことになる。だがその前に、翌年の春、その慎重な男の人生が一日で変わる。
03聖金曜日の出会い
1327年4月6日、聖金曜日(キリストの死を悼む日)。アヴィニョンのサント・クレール教会で、22歳のペトラルカはと呼ばれる女性を見た。一目で恋に落ちた。この日付と場所は、彼が愛用したウェルギリウスの写本の余白に残っている。彼女の死後、自分の手で書き込んだものだ。時刻まで正確に。その写本は現在、ミラノのアンブロジアーナ図書館にある。
ラウラが誰だったのかは、今も分からない。有力な説では、ラウラ・ド・ノヴェスという既婚の女性である(1310-1348、ユーグ・ド・サドの妻)。18世紀にサド神父が家系を調べて以来、この説が支持を集めてきた。しかし彼は詩の中で、彼女の姓も身分もすべて隠した。実在の人か、詩の中だけの人か。どちらの余地も残されている。
以後21年間、彼は報われない恋を、日常のことば(トスカーナ語)の詩で書き続けた。この膨大な詩は後にとしてまとめられる。彼自身の呼び名は「俗語のもろもろの断片」。最終的に366篇のソネットやカンツォーネを含む、長い詩集となった。
この詩集の新しさは、一人の相手を何十年も歌い続ける、個人の詩集だったことにある。恋の始まり、続く日々、ラウラの死、死後の慰め、そして最後の神への回帰。人生の時間の流れそのものが、詩集の形になっている。
おお、若き日の惑いの一部一部を、散り散りの詩によって聴く方々よ、いま私ですらなかった頃の、異なる男の私の声を──私はあなた方に、同情と許しを願うだけである。
序詩は、詩集全体を若い日の過ちへの悔いとして枠づける。一人の人間の一生を、詩で描き出す。その試みは、後の時代に「自分を描く文学」の原型となった。
なお、彼はラウラを歌いながら、二人の子どもの父にもなっている。母の名は伝わらない。1337年生まれの息子ジョヴァンニと、1343年生まれの娘フランチェスカである。後に彼は手続きを取り、二人を正式な子と認めた。詩の中の恋人を聖なる存在に高めながら、生身の家族も正直に持ち続けた。それが俗世に生きる聖職者ペトラルカの実情だった。
恋の詩を書き続けた男が、ある春の日、山の頂でまったく別の本を開く。
04山の上で開いた本
1336年4月26日、31歳のペトラルカは弟ゲラルドと、ヴェントゥー山に登った。ヴォクリューズの北にそびえる、標高1912メートルの山である。山頂で彼は、いつも持ち歩いていた本を取り出した。アウグスティヌス(4世紀のキリスト教の思想家)のである。たまたま開いた第10巻の頁に、こんな言葉があった。
人々は山の高さ、海の巨大な波、川の広い流れ、大洋の周囲、星の運行を驚嘆しに行く。しかし自分自身のことは顧みない
彼は衝撃を受けた。目の前の絶景から、自分の内側へと向き直った。そう彼は、友人フランチェスコ・ディオニジに宛てた手紙に書いている。第4巻第1書、書き上げたのは1352年ごろのことだ。
このには、謎がある。手紙は登山から16年後に書かれた。実際にその日、山に登ったのかどうかさえ、研究者の間で議論がある。だが、山の景色を見るより、自分の心を見つめ直す。その身振りがはっきり書かれたこと自体が、西洋文学における「内面の発見」の象徴となった。
彼の中には、二つの声があった。古代ローマの詩人や政治家(キケロ、ウェルギリウス)の栄光を讃える声。そして、この世の名誉の虚しさを悔いる、キリスト教の声。彼はこの二つの間で、一生書き続けた。
その葛藤を最もありのままに書いたのがである(1347-53年ごろ執筆)。全3巻、ペトラルカ自身と聖アウグスティヌスが、三日間語り合うという設定だ。真理の女神が審判者として、黙って座っている。アウグスティヌスは彼の名誉欲、ラウラへの執着、作品への虚栄を厳しく叱る。彼は抵抗しながら認める。しかし最後まで、書くことをやめるとは約束しない。この本は生前、机の引き出しに残されたままだった。
山の上で自分の心を見た男は、翌年、町を出る。
05谷の家と月桂冠
1337年、ペトラルカはアヴィニョンの喧噪を離れた。東へ約25キロ、ソルグ川の源流の谷ヴォクリューズに小さな家を借りる。1353年までの十数年、ここが彼の机となった。後に「」と呼ばれる時期である。庭仕事、魚釣り、長い散歩。そのあいだに、ラテン語の長い詩を書き進めた。の英雄スキピオ・アフリカヌスが主人公である。ウェルギリウスの『』にならった叙事詩(英雄の物語を歌う長い詩)だった。
同時に、古代のキケロが書いた、失われた手紙の捜索を始めた。ヨーロッパ各地の修道院の図書館を訪ね、目録を調べる。埃をかぶった写本を引き出し、自分で書き写していく。
1340年9月1日、同じ日に二通の手紙が届いた。パリ大学とローマ元老院の双方からだった。桂冠詩人(poeta laureatus)の称号を授けたい、という申し出である。古代ローマの詩人が月桂樹の冠を受けた、あの儀式の復活だ。彼はローマを選んだ。式の場所には、古代の共和政の象徴カピトリーノの丘を指名した。
1341年4月8日、復活祭の日。36歳のペトラルカは、カピトリーノの元老院議事堂で月桂冠を受けた。冠を授けたのは、ローマ市の元老院議員オルソ・デッラ・ノエーラである。千年以上途絶えていた、詩人への公の戴冠が、この日よみがえった。戴冠の演説(Collatio laureationis)で、彼はウェルギリウスを引用した。詩人の使命を語り、古代の甦り(renovatio)を掲げた。このは、後に「ルネサンス」と呼ばれる運動の、象徴的な出発点の一つとされる。
戴冠の条件として、彼は『アフリカ』をローマ市に献呈すると約束した。しかしこの叙事詩は、生涯完成しなかった。終わらない詩は、彼を一生、自負と自責の両方で苦しめ続ける。
冠を受けた詩人は、修道院めぐりの旅を続けた。4年後、その旅がヴェローナで実を結ぶ。
06返事の来ない手紙
1345年、ヴェローナ大聖堂参事会図書館。彼はキケロの『アッティクス宛書簡(ad Atticum)』『クィントゥス宛書簡(ad Quintum)』『ブルートゥス宛書簡(ad Brutum)』の写本を見つけた。共和政末期のローマの政治家が、私的に書いた手紙である。「」と呼ばれるこの出来事は、古い本を正しく読み直す学問(古典学)の革命の合図となった。
冒頭の手紙は、ここから始まる。彼はその後もキケロに手紙を書き、『家族の手紙』第24巻の最後にまとめて置いた。相手はキケロだけではない。セネカ、ウェルギリウス、ホラーティウス、、そしてホメロスへも書いた。
なぜ、死者に書くのか。それまでのキリスト教の世界では、古代は聖書の物語の中に溶け込んでいた。彼は違った。古代を、過ぎ去った別の時代として、はっきり距離を置いた。遠いからこそ、手紙で話しかける。返事は来ない。だが、遠い相手の声を、本の中に聞くことはできる。
私は二つの民のはざかいに立ち、前とうしろを同時に見渡している
彼は書簡集を、生涯かけて自分で編んだ。『家族の手紙』全24巻350通余。晩年に書き継がれた全17巻128通余。宛先には同時代の人(ボッカッチョ、王侯貴族、ローマ教皇)と、死者が並ぶ。起草も推敲も並べ方も、すべて彼自身が設計した。
死者と並んで、彼が熱く手紙を送った生きた人物がいた。ローマの公証人コーラ・ディ・リエンツォである。1347年5月、コーラは古代ローマの共和政の復興を掲げ、カピトリーノで立ち上がった。自ら「ローマ護民官(tribunus)」を名乗り、ローマ市の支配者となる。ペトラルカは熱狂し、ヴォクリューズから祝福と鼓舞の手紙を送った。『カンツォニエーレ』第53番「精神を高める者よ(Spirto gentil)」も、コーラに(あるいは枢機卿コロンナに)宛てて書いたとされる。
コーラの政権は同年12月に崩れた。彼自身は1354年に民衆に殺された。このは、古代の理念が今の世に立ち上がるという信念を、一人の男に賭けた行動だった。死者への手紙と、生きた人への政治的期待。それは彼の中で、同じ古典復興の二つの顔だった。
1348年4月6日。出会いからちょうど21年後の同じ日に、ラウラはアヴィニョンで黒死病により死んだ。彼はこの符合を、ウェルギリウス写本の同じ余白に書き加えた。
古代への手紙には、届かない相手がもう一人いた。ホメロスである。ギリシア語を、彼は終生満足に習得できなかった。カラブリア出身のビザンツ修道士バルラアムに手ほどきを受けた。ホメロスとプラトンの写本も持っていた。しかしラテン語訳がなく、読み通せなかった。この未達成が、次の世代への宿題となる。1397年、がフィレンツェに招聘され、1484年にはフィチーノのが完成する。
古代の死者と語り合う男に、生きた親友が現れる。
07三冠、そして日常のことばの勝利
1350年10月、フィレンツェ。46歳のペトラルカは、ボッカッチョと初めて会った。以後、手紙と面会を重ね、ボッカッチョは彼を「師父」と呼んだ。二人はギリシア語の学習を共に試みた。プラウトゥスやテレンティウスやホメロスの写本を交換し、注釈を重ねた。ボッカッチョの(1353)は、日常のことばで書かれた短編小説の金字塔である。ペトラルカはその最後の話、グリゼルディスの物語をラテン語に訳し、ヨーロッパ中に広めた。
イタリア文学史は、ダンテ(1265-1321)、ペトラルカ、ボッカッチョ(1313-1375)を(tre corone)と呼ぶ。三人はトスカーナ語の文学を打ち立て、後のイタリア語の標準を作った。
ダンテとの関係は、少し違う。ペトラルカはダンテより39歳年下で、ダンテが死んだとき17歳だった。父はダンテと同じ追放の身で、面識はあったと推定される。だが彼はダンテを表立ってほとんど論じない。1359年、ボッカッチョがの写本を送った。彼は「ダンテについて」という返事の手紙で、ダンテを大詩人と認めた。そのうえで、自分はダンテに影響を受けていないと主張した。この主張そのものが、影響への意識的な抵抗と読まれている。
彼自身は『カンツォニエーレ』を生涯「小物」と呼んだ。永遠の名声は、ラテン語の『アフリカ』が担うと信じていた。しかし歴史はその評価を逆にした。『アフリカ』は今日ほとんど読まれない。『カンツォニエーレ』はヨーロッパの詩の手本となり、と呼ばれる流れを生んだ。16世紀のスペイン、フランス、イギリスの詩、ロンサールやシェイクスピアのソネットにまでつながっていく。
彼が古代から持ち帰ったものは、詩だけではなかった。
08人文主義の発明
ペトラルカは「studia humanitatis」(人間の学)という用語をキケロから借りて、古典学・修辞学・詩学・歴史・倫理学を包括する知の領域を指示するために使った。これが近代語の「ヒューマニズム(人文主義)」の語源である。
彼の人文主義の具体的要素は三つある。(1) 古代写本の発見と校訂──キケロ書簡の発見、リウィウスの写本の統合(二つの部分写本を合わせて読める本文を復元)、ホラーティウスの全詩の校訂。(2) 古代語(純正ラテン語)の復興──中世の教会ラテン語・スコラ用語を排し、キケロ・ウェルギリウスの古典ラテン語に戻す。(3) 歴史意識──古代・中世・現代の三時代区分と、古代を復興すべき失われた時代として意識する視点。
死者への手紙は、この第三の要素の実践である。中世キリスト教が聖書の物語的現在のうちに古代を溶かし込んでいたのに対し、ペトラルカは古代を過ぎ去った別の時代として距離を置き、だからこそ書簡で話しかける。それは単なる修辞的遊戯ではなく、歴史的距離を越えて古代と直接対話するという人文主義の核心姿勢の宣言であり、この歴史意識の転回がルネサンスの根幹をなす。彼自身が起草・推敲・配列まで設計した書簡集は、近代的な意味での個人の自伝としても読める。
内面の発見もまた、同じ机で進んだ。ヴェントゥー山の書簡はペトラルカ自身の文学的演出の色が濃く、1352年の執筆時に遡及的に構成された可能性も指摘される。しかし重要なのは、山頂で風景を見るより自分の内面を問い直すという身振りが、西洋文学における内面の発見の象徴として書かれたことである。風景美学の萌芽と、内省としての主体の誕生が、この一通の書簡に同居している。『私の秘密』は自己の分裂を隠さない内面の告白として書かれ、生前公刊されなかったまま机の引き出しに残された自伝的自己分析文学の先駆となった。『カンツォニエーレ』のソネット1もまた、一貫性ある個人の人生を詩によって描き出す企てであり、近代的自己の詩的肖像の原型となった。
ペトラルカにおいて、古代ラテン異教文化(キケロ、ウェルギリウス)とキリスト教文化(アウグスティヌス、聖書)は内的葛藤として同居する。彼は一方で古代の栄光を讃え、他方で世俗的栄光の虚しさを悔い、この二つの声の間で書き続けた。俗語とラテン語の二言語戦略もこの分裂の延長にある。不滅の名声はラテン語の『アフリカ』に、感情はトスカーナ語の詩に託された。その評価を後世が逆転させたことは、前章で見たとおりである。
その学問を抱えて、老いた詩人は故郷の半島へ戻る。
09アルクアの書斎
1353年、彼はイタリアへ戻った。教皇庁の腐敗と、アヴィニョンの暮らしへの嫌悪からだった。1353-61年はミラノのヴィスコンティ家。1362-67年はヴェネツィア共和国。1368年以後はパドヴァのカッラーラ家。後援者を転々としながら、各地で写本を集め、書き続けた。北イタリアの宮廷を渡り歩く老学者の姿は、印刷術を待たぬまま手書きの本で広がる人文主義者の典型となった。
晩年も、彼は日常のことばの長い詩(Trionfi)を書き続けた。愛・貞潔・死・名声・時間・永遠という六つの寓意(たとえの姿)が、順に勝利していく。『神曲』の構造を引き継ぎつつ、ラウラと自分の死を見届けようとした作である。最後まで推敲が続き、未完に終わった。
1370年、パドヴァ近郊のアルクア(現アルクア・ペトラルカ)の丘の村に、小さな家を求めた。カッラーラ家の領内の静かな丘で、自ら設計した書斎と書庫を構える。1361年、長男ジョヴァンニを黒死病で失っていた。娘フランチェスカと夫フランチェスコリオーロ・ダ・ブロッサーノ、そして孫娘エレッタが、生活を支えた。正式な結婚の外に生まれた子と孫が、最も近い家族として晩年の机を見守った。
1374年7月19日の夜。彼は書斎で、ウェルギリウスの写本に頭を伏せて死んでいるのを発見された。翌日が70歳の誕生日だった。読みながら、あるいは書きながら、千年以上前の詩人の行の上で静かに息を引き取った。希望どおりアルクアの教会に葬られた。今も同じ場所に、石棺と書斎が巡礼地として残る。
蔵書の一部は、ヴェネツィア共和国に遺贈された。古代ラテン写本、キケロ書簡集の自筆稿、ラウラの記念を余白に書き込んだウェルギリウス。それらはマルチャーナ図書館(後の国立図書館)の核となった。一部はパドヴァ・ミラノの図書館へ散った。残された手稿はその後百年のあいだに、彼が始めた写本の蒐集と校訂の運動を、フィレンツェ・ヴェネツィア・ローマへと伝えていった。
冒頭に戻ろう。返事の来ない手紙を、彼はなぜ書いたのか。千年以上前に死んだ相手に手紙を書いた男は、千年以上前に死んだ詩人の頁の上で死んだ。彼にとって死者は、沈黙ではなかった。本を開けば、まだ聞こえる声だった。そして彼自身の手紙もまた、六百年以上たった今、こうして届いている。
千年後、あなたの言葉を開く誰かに、あなたは何を書き残すだろうか。
10主要な出来事と著作
- 7月20日、アレッツォに亡命フィレンツェ人公証人ペトラッコ(ダンテと同じ追放者)の長男として誕生
- 一家でアヴィニョン近郊カルパントラに移住
- モンペリエ大学で法学修学を始める
- ボローニャ大学に移る
- 父死去。法学を放棄、コロンナ家庇護下で聖職者の下位職に就きアヴィニョンへ戻る
- 4月6日聖金曜日、サント・クレール教会でラウラに出会う
- 4月26日、弟ゲラルドとヴェントゥー山に登頂(書簡は1352頃に文学化)
- アヴィニョン東のヴォクリューズに隠棲。私生児ジョヴァンニ生まれる
- 4月8日復活祭、ローマ・カピトリーノで桂冠詩人の戴冠
- 私生児フランチェスカ生まれる
- ヴェローナ大聖堂参事会図書館でキケロ書簡集(ad Atticum 他)を発見
- コーラ・ディ・リエンツォのローマ革命を支持、書簡で激励
- 『私の秘密(Secretum)』執筆(生前未公刊)
- 4月6日、出会いから21年後の同日、ラウラがアヴィニョンで黒死病死。死後の詩群の執筆開始
- 10月フィレンツェでボッカッチョと初対面、生涯の友情が始まる
- アヴィニョン教皇庁を離れミラノのヴィスコンティ家に身を寄せる
- 長男ジョヴァンニが黒死病死。フランチェスカが結婚し晩年の世話をする
- ヴェネツィア共和国に身を寄せ、自蔵書をマルチャーナ図書館に遺贈する旨を約束
- パドヴァのカッラーラ家のもとへ移る
- パドヴァ近郊アルクアの丘の家に隠棲、書斎を構える
- 7月19日夜、アルクアの書斎でウェルギリウス写本に頭を伏せて死去。享年70(誕生日前日)
残した思想の輪郭
- 人文主義(studia humanitatis) ─ キケロから借りた語を近代的知の領域名として確立
- 古代写本の発見と校訂 ─ キケロ書簡・リウィウス・ホラーティウスの再発見、科学的文献学の先駆
- 桂冠詩人 ─ 1341年ローマでの戴冠、古代ローマ文化復興(renovatio)の象徴的起点
- カンツォニエーレ ─ 個人の内的時間を追う俗語詩集、ヨーロッパ近代詩の規範(ペトラルキズム)
- 死者への書簡 ─ キケロ・セネカ・ホメロスへの手紙、歴史意識の転回としての対話
- 内面の発見 ─ ヴェントゥー山登頂と『秘密』、アウグスティヌス的内省とキケロ的理性の葛藤
- 俗語とラテン語の二言語戦略 ─ 不滅の名声はラテン語『アフリカ』に、感情はトスカーナ語詩に(評価は後世逆転)
つながり
- ダンテ
先駆 — 『家族書簡集』『勝利』で高く評価した先輩詩人 — 俗語で書くという選択を先に示した人。
- プラトン
先駆 — 読めないギリシア語のまま蔵書に加えられた写本 — 『無知について』に憧憬を書き残させた哲学者。
- ボッカッチョ
伴走 — 二十四年間、書簡と写本を贈りあった終生の友。一方の死の翌年、他方も世を去った。
さらに読むならFurther Reading
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生きた跡を辿るPlaces
ペトラルカが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「フランチェスコ・ペトラルカ」項
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