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ホルヘ・ルイス・ボルヘス

Jorge Luis Borges·1899–1986·アルゼンチン·

時間・記憶・書物は、 どこで現実と区別がつかなくなるのか?

ブエノスアイレスの書斎とジュネーヴの少年期を往復しながら、盲目の館長として図書館の宇宙論を書き続けた作家

  • 伝奇集
  • バベルの図書館
  • 迷宮
  • 盲目の館長
  • 形而上学的小説

時代の空気

19世紀末ブエノスアイレスは英仏文化に憧れる新興都市で、ボルヘス家は英国系祖父ハスラムとガウチョ系の独立戦争の記憶が同居する家庭だった。1914-21年は第一次大戦下のジュネーヴへ家族で避難、ヨーロッパの前衛と接した世代である。1921年帰国後はFlorida派(美学優位)とBoedo派(社会主義)の論争のさなか、ビクトリア・オカンポ主宰『スール』(1931-)が欧米文学の橋渡し役を担う。1946-55年のペロン政権期は反体制知識人にとって息苦しい時代となり、ボルヘスは図書館員職を「鶏家禽監督官」に降格させられて辞職、1955年のペロン失脚で国立図書館長へ転じる。

01ブエノスアイレス──英語で育った少年

1899年8月24日、アルゼンチン・ブエノスアイレス市パレルモ地区トゥクマン通り840番地の家に、父ホルヘ・ギリェルモ・ボルヘス(弁護士・心理学教師、小説家志望、両親性緑内障りょくないしょうでほぼ盲目)と母レオノール・アセベード(古いクリオーリョ──スペイン系植民者の末裔──の地主家系、英語堪能)の長男として生まれた。家系にはイシドロ・スアレス大佐(1810年代の独立戦争の英雄、フニン会戦の指揮官)らガウチョ系の軍人と、英国系の母方祖父エドワード・ヤング・ハスラム(スタッフォードシャー出身、後に新聞編集者としてブエノスアイレスに渡った)が同居し、以後ボルヘスは短編のあちこちで血筋の剣と書物の影という二重の系譜を主題化することになる。妹ノラ(1901-1998、後に画家・舞台美術家)は生涯の親密な対話相手となった。

父ホルヘ・ギリェルモはほぼ盲目に近い弱視で、法曹の仕事を早めに引退し、家に籠って英語とスペイン語の書物を読み続けた。父の書斎は英語書籍中心の膨大な蔵書を備え、幼いホルヘ=ルイスは5歳からスペイン語と英語をほぼ同時に覚え、同じ歳から英語の小説を読み始めた。母レオノール・アセベードも英語を高水準で話し、家庭の日常言語はスペイン語と英語のバイリンガル状態だった。

少年ホルヘは外で遊ばず、書斎で本を読み続ける内向的な子供だった。8歳の時、父の書斎でセルバンテス『ドン・キホーテ』を英訳(モトー訳)で初めて読み、後にスペイン語原典を読んだ時「翻訳の方が本物に思えた」と回想する。この翻訳先行の読書体験は、以後の「原典と翻訳の同等性」という文学思想の種となる。9歳でオスカー・ワイルド『幸福な王子』をスペイン語訳し、それがブエノスアイレスの新聞『エル・パイス』に掲載された(編集者は訳者を父親だと思って掲載した)。

家系の失明しつめいの遺伝(祖父が晩年に失明、父もほぼ盲目)が、幼いホルヘに「自分もいずれ盲目になるだろう」という早期の予期を植え付けた。幼少期の読書は、この予期と競走する形でなされた──読めるうちに、可能な限り読む。この強迫的な読書量が、後の驚異的な百科全書的記憶の基盤となる。

02ジュネーヴ──ショーペンハウアーとの出会い

1914年、一家は父の眼病治療のためヨーロッパに向かった。第一次大戦が勃発したため、当初の予定(ドイツ)ではなく中立国スイスに留まることになり、ジュネーヴに4年間定住した。15歳から19歳までの決定的な時期を、ボルヘスはジュネーヴのカルヴァン・コレッジ(16世紀宗教改革者ジャン・カルヴァンが1559年に創設したプロテスタント系中等教育機関)で過ごした。

カルヴァン・コレッジの正規課程はフランス語・ラテン語・古典ギリシア語・哲学だった。ボルヘスはフランス語を急速に習得し、ユーゴー・フロベール・マラルメ・ランボー・アポリネールを読み漁る一方、ドイツ語を独学で始めた(動機は「ショーペンハウアーを原典で読むため」と後に語る)。19世紀末のドイツ象徴派・表現派、特にカフカ・リルケを発見したのもこの時期。

決定的な出会いはアルトゥル・ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』(1819)だった。ボルヘスは15歳でドイツ語の独学を始め、17歳でこの本を原典で読み通した。ショーペンハウアーの「世界は意志の表象である」「時間は幻影(マーヤー)である」「個性原理は欺瞞である」──これらの形而上学的主張が、ボルヘスの以後の文学的宇宙観の基礎となる。後年の自伝エッセイ『私的な趣味』(1984)で彼は明言する──「もし一人の思想家を選ばねばならなかったら、ショーペンハウアーを選ぶ。私の全作品は彼の注釈である」。

1919年に一家はマドリード、続いてセビーリャへ移り、ボルヘスは(当時のスペイン詩壇のモダニズム運動、ラファエル・カンシーノス=アセンス主宰)に参加、最初のスペイン語詩をスペイン文芸誌『グレシア』に発表した。20歳、詩人としての出発だった。

03帰国とウルトライスモ──詩から散文へ

1921年、22歳で一家はブエノスアイレスに帰国。ボルヘスはアルゼンチンにウルトライスモを移植しようと試み、街角に貼る壁雑誌『プリスマ』を1921年に創刊、マカドニオ・フェルナンデス(独創的なアルゼンチン哲学作家)・レオポルド・ルゴネス(前世代のモデルニスモ詩人)・リカルド・グイラルデス(『ドン・セグンド・ソンブラ』の作者)らと交流しながら、1920年代を詩人として過ごした。

詩集『ブエノスアイレスの熱情』(1923、自費出版)、『前の月』(1925)、『サンマルティンの冊子』(1929)。これらはブエノスアイレスのパレルモ地区の夕暮れ、パンパの地平、ガウチョの時代の軍人伝、といった郷土的モチーフと、ショーペンハウアー的な時間と自我の非実在性の抽象的な主題が並走する、独自の声を確立した。同時期のブエノスアイレス文壇は、美学優位のFlorida派(ボルヘスの所属)と社会主義リアリズムのBoedo派の論争で揺れていた。詩は部数も話題も限定的で、ボルヘスは次第に散文=批評・随筆に移行していく。

1935年、初の散文書『汚辱の世界史(Historia universal de la infamia)』を刊行。世界各地の悪漢・詐欺師・海賊の生涯を史実と虚構を換骨奪胎して再構成した掌編集で、後のボルヘス自身は「散文家としての最初の試み」と振り返る。1920年代後半から、ボルヘスは(1931創刊、ビクトリア・オカンポ主宰、20世紀南米最重要文芸誌)の中核的寄稿者となる。『スール』を通じてアドルフォ・ビオイ=カサーレス(1914-99、後に生涯の盟友・共作者となる小説家)、シルビナ・オカンポ(ビクトリアの妹、後のビオイ夫人、短編作家)と出会う。ボルヘス+ビオイの共作は、ユーモラスな探偵小説『ドン・イシドロ・パロディの6つの問題』(1942、合同ペンネーム「オノリオ・ブストス・ドメック」)として結実する。

1937年にカフカ『変身』のスペイン語訳(序文付き)を刊行、これが長らくスペイン語圏のカフカ受容の標準版となる(実は本文の一部は既訳の改訳で、ボルヘス自身の翻訳範囲は限定的だったことが近年の書誌学研究で明らかになっている。しかし序文は完全にボルヘスのもので、カフカ論として第一級)。1938年クリスマス・イヴ、暗い階段で頭部を強打して敗血症はいけつしょうを併発、数週間生死の境を彷徨い、回復後の最初の試作として書いた(1939)が、形而上学的短編という新ジャンルの第一作となった。同年、父ホルヘ・ギリェルモが死去している。

04『フィクションズ』と『エル・アレフ』──形而上学的小説の成立

1930年代後半から、ボルヘスは形而上学的短編という独自のジャンルを開拓していく。最初の結実は1939年、ブエノスアイレス市営図書館ミゲル・カネ分館(地味な公務員職)に勤務中に書いた『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』(1940年雑誌掲載)。これは、百科事典の中にだけ存在する架空の国トレーンが、次第に現実世界に侵食していく話で、ボルヘス短編の基本構造(書物が現実を作り出す)が既にここに完成している。

続けて書かれた傑作短編群──『円環の廃墟』(1940、夢の中で別の人を夢見る男)、(1941、可能なすべての書物を含む無限の図書館)、(1941、分岐する時間の迷宮)、『ピエール・メナール、『ドン・キホーテ』の作者』(1939、セルバンテスと一字一句同じ『ドン・キホーテ』を20世紀に書き直す男)──がまとめられて、1941年『八岐の園』(スール社)が、1944年拡張版『フィクションズ(Ficciones)』が刊行された。

続く第二の傑作短編集1949年『エル・アレフ(El Aleph)』。表題作『アレフ』は、宇宙のすべての点を同時に含む一点(カバラの最初の文字アレフに由来)を、ブエノスアイレスのある地下室で発見した男の話。他に『不死の人』(ホメロスと不死の都市)、『ザヒール』(心から離れない一枚のコイン)、『神の書』(アステカの神官が獣の模様の中に神の言葉を読む)、『待望』(暗殺者を待つ男)など、形而上学的短編の多様な可能性が実装される。1944年、ボルヘスはアルゼンチン作家協会大賞を受賞した。

ボルヘス短編の基本的モチーフは──(1)無限の図書館・辞書・地図(書物が世界を包含する)、(2)分岐する時間と可能世界(ライプニッツのモナドロジーと量子力学の先取り)、(3)鏡と迷宮と分身(自我の複数性・非実在性、ショーペンハウアー由来)、(4)偽書と書誌学的遊戯(実在しない本の書評、実在する本の偽の作者帰属)、(5)剣士と剣、ガウチョの暴力(ブエノスアイレス郊外の血筋の記憶)。これらが単純な「幻想小説」「SF」「探偵小説」のジャンル区分を横断しながら、独自の形而上学的リアリズムを形成する。

ボルヘスの著作はしばしば短い(2〜10ページ)。長編小説は生涯書かなかった(「語り尽くせるものを無理に膨らますのは冗長」と彼は主張)。代わりに、存在しない長編の書評という逆説的な形式を発明した──「もしこの本が書かれたとしたら、どんな本だろうか」を書くことで、書かれざる本の思考実験的な存在を提示する。所収『フフィズ・イブン・ハッカン・アル=ボハリ、その迷宮で死す』などがこの系統。

05盲目と図書館長──ペロン時代を経て

ボルヘスは1940年代から徐々に視力を失っていった。両親性遺伝の網膜剥離で、父と同じ経路をたどる(ただしボルヘスの場合は、読書強迫による極度の眼の酷使も加わった可能性が指摘される)。1946-55年のフアン・ペロン大統領期、ペロニズム政権との緊張関係の中で、ボルヘスは市営図書館員の職から「家禽・にわとり監督官」への降格こうかく命令を受けた(1946年)──公然とした反ペロン派への政治的嫌がらせいやがらせと受け止められ、彼は即座に辞職した。

1955年9月の「解放革命」と呼ばれる軍のクーデターでペロンが失脚、新政権はその年のうちにボルヘスをアルゼンチン国立図書館館長に任命した。約90万冊の蔵書を擁する館の館長職に、視力を失った人が就く──この皮肉を、彼自身が翌1959年詩『恩恵の詩(Poema de los dones)』で歌う──「神の華麗な皮肉、書物と夜とを同時に私に与えたこの皮肉」。同年、ブエノスアイレス大学の英米文学正教授にも就任した。

失明は決定的な生活の変化をもたらした。読書は口述朗読に依存するようになり、執筆は口述筆記に移行した。母レオノール(当時70代後半、1975年99歳で没するまで主たる介添えとなる)、後の弟子、友人のビオイ=カサーレス、アルゼンチン文学の若い弟子たちが、代わる代わる朗読・筆記を担当した。皮肉なことに、この口述方式が、ボルヘスの文体をさらに簡潔で韻律的にした──書き消しができず、記憶で構築する必要があるため、自然と古典的で閉じた詩的な文章になる。1960年代以降、米国の編集者ノーマン・トーマス・ディ・ジョバンニ(Norman Thomas di Giovanni、1933-2017)がボルヘスと共同で英訳作業を行い、英語圏での受容を決定づけた。

1955年以降、ボルヘスは詩への回帰と、アングロサクソン古英語・古ノルド語への深入りを進めた。1950年代後半〜60年代は、エッダ(北欧神話・詩)、ベオウルフ、アングロサクソン詩の研究。死後に墓石に刻まれた古英詩「汝は恐れるな(And ne forhtedon na)」は、マルドンの戦いの戦士の言葉で、ボルヘスが晩年最も愛した古英詩の一節だった。

1961年、ボルヘスはサミュエル・ベケットと並んで第1回フォルメントール国際出版賞(国際出版社協会の文学賞、賞金1万ドル)を共同受賞、これが彼を国際的名声に押し出した。1967-69年にはハーバード大学チャールズ・エリオット・ノートン詩学講座(『詩という仕事について』として後に出版)を担当、コロンビア・テキサス・オックスフォードの各大学でも連続講義を行った。ノーベル文学賞は生涯受賞しなかった(1960年代から候補と噂され続けたが、スウェーデン・アカデミーは最後まで与えなかった)。理由には諸説あり、1976年のチリ・ピノチェト政権訪問・名誉博士号受諾と、同時期のアルゼンチン軍事政権ぐんじせいけんへの一時的な好意発言が、選考で不利に作用したという見方が有力である。

06ビデラの昼食と『行方不明者』への撤回──1976-80

1976年3月、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍を首班とする軍事クーデターがイサベル・ペロンを追放、アルゼンチンは「国家再編成プロセス」と呼ばれる軍政期(1976-83)に入る。同年7月19日、ボルヘスはビクトル・マスエラ大主教ら知識人とともに大統領官邸の昼食会に招待され出席した。ペロニズムからの解放を歓迎する立場から、彼はビデラを「紳士しんし」と評し、これは後年に至るまで彼自身が深く後悔する controversy となる。

しかし1970年代後半、軍政が組織的に行っていた「desaparecidos(行方不明者ゆくえふめいしゃ)」──夜間に拉致され消息を断つ反体制派、最終的に約3万人と推計される──の実態が、母を介した直接の証言を通じてボルヘスに届くようになる。1980年5月、ボルヘスはエルネスト・サバト(『英雄たちと墓』の作者、後の『国家再編成プロセス』報告書編集委員長)・アドルフォ・ペレス・エスキベル(1980年ノーベル平和賞)らと共に、ビデラ宛の公開書簡に署名し、行方不明者の安否確認と公表を強く要求した。1976年の昼食をめぐる立場の事実上の撤回だった。

晩年のインタビューで彼はこう述懐している──「私は政治を理解しない。私は本だけを理解する」。これが弁明として成立するかは判断が分かれるところだが、彼が最終的に独裁の犠牲者の側に立ったこと、そしてその転換を口にすることをはばからなかったことは記録に残しておくべきである。ボルヘスを偉大な作家としてのみ記憶し、20世紀ラテンアメリカの政治的暴力から切り離して読むことは、彼自身が最後に拒んだ姿勢でもあった。

07ダンテと古英詩──晩年のジュネーヴへの還流

晩年のボルヘスは、ダンテ『神曲』への没入を深めた。既にブエノスアイレス市営図書館勤務時代(1930年代)から、スペイン語訳と並行してイタリア語原典で『神曲』を読み続けていたが、失明後は弟子マリア・コダマがイタリア語原文を朗読するのを聞き続けた。1982年、『神曲九篇(Nueve ensayos dantescos)』を刊行、40年以上の『神曲』読書の凝縮を9つの短いエッセイにまとめた。

ボルヘスのダンテ理解の中心は、『神曲』を百科全書的宇宙として読むことだった。地獄・煉獄・天国の三界が、中世キリスト教の全知識・全倫理・全地理を統合する詩の宇宙論であり、ボルヘス自身の『バベルの図書館』が目指した単一の書物=宇宙の理想形である。ダンテは「書物によって世界を作り直すことは可能だ」という事例を、ボルヘスより700年早く実装していた。

1970年代以降の短編集『ブロディの報告書』(1970)、(1975)は、若年期の凝った迷宮構造から離れ、より平明で寓話的な文体に移行した晩年様式を示す。表題作『砂の本』は、ページが無限に増殖し最終ページに辿り着けない一冊の本を扱い、『バベルの図書館』の主題を一冊の書物に凝縮したものといえる。

第二の中心的な晩年の主題は、アングロサクソン・古ノルド文学への没入だった。マリア・コダマとの共著『ゲルマン民族文学の歴史』(1966、後に拡張版『中世ゲルマン文学』1978)は、英語・ドイツ語・北欧語の古典文学の総合的読解を提示する、非専門家読者向けの稀有な書物となった。ボルヘスは無限の時間と祖先の血筋の両方を、古英詩の質実なリズムの中に見出していた。

私生活では、1967年にエルサ・アステーテ・ミリャン(子供時代の知人で当時未亡人)と結婚するが、3年後の1970年に離婚、母レオノールの家に戻った。母の没後の1975年から、日系アルゼンチン人の英文学研究者マリア・コダマ(1937-2023、1967年からブエノスアイレス大学のボルヘスの学生、後に朗読者・編集助手・旅の同伴者)が公私ともに最も近い存在となる。

1986年、86歳になる直前、ボルヘスは病気治療のためスイス・ジュネーヴに滞在した。この地は71年前の少年期(1914-18)に4年間過ごした場所で、「ジュネーヴで死にたい」という秘かな願いが叶う形となった。1986年4月26日、長年のパートナーだったマリア・コダマと正式に結婚(ボルヘス86歳、コダマ48歳)。6月14日、ジュネーヴの自宅で肝臓癌かんぞうがんにより死去、享年86。

遺言により、故郷ブエノスアイレスではなくジュネーヴ・プレンパレ墓地に埋葬された。この決定はアルゼンチンで論議を呼んだ(国家的作家の墓をなぜ母国に置かないのか、という批判)が、ボルヘス自身の選択だった。墓石には『マルドンの戦い』の古英詩の一節「汝は恐れるな(And ne forhtedon na)」が刻まれている。少年期と最晩年を同じ街で閉じる、ボルヘスらしい閉じられた円環の形となった。

ボルヘスの死後、南米文学における彼の位置は確固たるものとなった。後続のガブリエル・ガルシア=マルケス・カルロス・フエンテス・マリオ・バルガス=ジョサ・フリオ・コルタサルらブーム世代のラテンアメリカ作家たちは、ボルヘスの形而上学的短編を共通の出発点として、魔術的リアリズム・迷宮構造・複数の時空間を各自の長編小説へ展開した。ボルヘス自身は長編を書かなかったが、後続が長編を書くための書物の宇宙観を提示した。

英語圏での影響はさらに広範に及ぶ。ジョン・バース・ウンベルト・エーコ・イタロ・カルヴィーノ・トーマス・ピンチョン・ジョルジュ・ペレック・W. G. ゼーバルト──これらの作家のメタフィクション・記号論的小説・書誌学的遊戯は、ほぼすべてボルヘスの影響下にある。エーコ『薔薇の名前』(1980)の盲目の老僧ホルヘ(修道士名ホルヘ・デ・ブルゴス)は、ボルヘスへのあからさまなオマージュ。

哲学史的には、ボルヘスはショーペンハウアー経由のドイツ観念論と、アングロサクソン経験論と、カバラ・イスラム神秘主義の多層的な混成で、既存の哲学/文学の境界を消した作家として記憶される。『円環の廃墟』『八岐の園』はニーチェの永劫回帰を、『トレーン』はバークリーの観念論を、『アレフ』はライプニッツのモナドロジーを、それぞれ数ページの物語として実装する。小説という形式で哲学する試みとして、20世紀で最も徹底した事例を残した。

08主要な出来事と著作

  1. ブエノスアイレスに誕生、英語とスペイン語のバイリンガル家庭
  2. 英訳『ドン・キホーテ』を父の書斎で読む、ワイルド訳で新聞デビュー
  3. 一家でジュネーヴに、独学ドイツ語でショーペンハウアー・カフカを読む
  4. マドリード・セビーリャでウルトライスモ運動に参加、最初の詩
  5. 帰国、壁雑誌『プリスマ』創刊、ブエノスアイレスのウルトライスモを主導
  6. 詩集『ブエノスアイレスの熱情』自費出版
  7. 雑誌『スール』の中核寄稿者、ビオイ・シルビナ・オカンポと出会う
  8. 『汚辱の世界史』、散文家としての第一作
  9. カフカ『変身』スペイン語訳と序文、カフカをスペイン語圏に紹介
  10. 頭部負傷から敗血症、父ホルヘ・ギリェルモ死去
  11. 『ピエール・メナール、『ドン・キホーテ』の作者』、形而上学的短編の第一作
  12. 『円環の廃墟』『バベルの図書館』『八岐の園』
  13. 『フィクションズ(Ficciones)』、アルゼンチン作家協会大賞
  14. ペロン政権下で家禽・鶏監督官への降格、辞職
  15. 『エル・アレフ』刊行
  16. 『カフカと彼の先駆者たち』
  17. ほぼ完全に失明、アルゼンチン国立図書館長およびブエノスアイレス大学英米文学教授に就任
  18. ベケットと並んで第1回フォルメントール国際出版賞、国際的名声
  19. ハーバード大学ノートン詩学講座、エルサ・アステーテと結婚(70年離婚)
  20. 短編集『ブロディの報告書』
  21. 短編集『砂の本』、母レオノール没(享年99)
  22. ビデラ将軍と昼食(後の controversy)、ピノチェトに名誉博士号受諾
  23. サバトらと共にビデラへ行方不明者公開書簡、立場を撤回
  24. 『神曲九篇』、ダンテ研究の凝縮
  25. 4月マリア・コダマと結婚、6月14日ジュネーヴで肝臓癌により86歳で死去、プレンパレ墓地に埋葬

残した思想の輪郭

  • 形而上学的短編という独自ジャンル ─ 小説という形式で哲学する、『フィクションズ』『エル・アレフ』の基本様式
  • 無限の図書館と書物の宇宙論 ─ 『バベルの図書館』『エル・アレフ』、書物が世界を包含する形而上学
  • 分岐する時間と可能世界 ─ 『八岐の園』、ライプニッツのモナドロジーと量子多世界解釈の文学的先取り
  • 偽書と書誌学的遊戯 ─ 『ピエール・メナール』『フフィズ・イブン・ハッカン』、書かれざる本の逆説的存在
  • ショーペンハウアーの注釈としての全作品 ─ 意志と表象、マーヤー(時間の幻影)、個性原理の欺瞞
  • ダンテ『神曲』の40年の読書 ─ 『神曲九篇』(1982)、百科全書的詩の宇宙論
  • カフカを先駆として遡及させる時間論 ─ 『カフカと彼の先駆者たち』(1951)、文学史の因果律の転倒
  • 盲目の図書館長 ─ 1955年の皮肉、『恩恵の詩』「書物と夜とを同時に私に与えた」
  • 古英詩・古ノルド文学への晩年の没入 ─ マルドンの戦い、ベオウルフ、エッダ、墓石の「汝は恐れるな」
  • ラテンアメリカ・ブーム世代の共通の出発点 ─ ガルシア=マルケス以下への書物の宇宙観の贈与
  • 軍政期の controversy ─ 1976年ビデラ昼食、1980年行方不明者公開書簡、最後に独裁犠牲者の側に立った曲折
  • 長編を書かなかったという選択 ─ 語り尽くせるものを膨らまさない、2〜10ページ内での密度の最大化
1986年6月14日、スイス・ジュネーヴの自宅で<Ruby base="肝臓癌" rt="かんぞうがん" />により86歳で死去。第二の妻マリア・コダマに看取られた。遺言により、ブエノスアイレスではなくジュネーヴのプレンパレ<Ruby base="墓地" rt="ぼち" />(少年期に父と眺めたレマン湖を望む場所)に埋葬された。墓石にはアングロサクソン古詩の一句**「**汝は恐れるな**」**(And ne forhtedon na)が刻まれている。
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  • 文脈原典で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 晩年のボルヘスは、ダンテ『神曲』への没入を深めた。既にブエノスアイレス市営図書館勤務時代(1930年代)から、スペイン語訳と並行してイタリア語原典で『神曲』を読み続けていたが、失明後は弟子マリア・コダ...

    一次資料を開くBorges, Nueve ensayos dantescos (Madrid: Espasa-Calpe, 1982) 初版書誌。1982 年刊行を Worl...

  • 文脈原典で確認済み要旨訳

    要旨訳: borges-1.context: 1955 年、ペロン失脚後の Aramburu 暫定政権によってアルゼンチン国立図書館長に就任した同年、遺伝性の網膜疾患で Borges (1899-1986) は...

  • 文脈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 1955 年、ペロン失脚後の新政権によって 50 万冊を擁するアルゼンチン国立図書館長に就任した同じ年、遺伝性の網膜疾患で Borges はほぼ完全に視力を失った、という editorial fram...

  • 文脈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 1955年、ペロン失脚後の新政権によって50万冊を擁するアルゼンチン国立図書館長に就任した同じ年、遺伝性の網膜疾患でボルヘスはほぼ完全に視力を失った。書物と夜を同時に与えられた皮肉を、彼は1960年の...

  • 出典二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 詩「贈与の詩(Poema de los dones)」(1960年詩集『造物主(El hacedor)』所収)の一節を邦語意訳。作者自身が後年の自伝エッセイや朗読で繰り返し引いた有名句として流通する

    一次資料を開くBorges が 1955 年に Biblioteca Nacional 館長就任した同年に視力をほぼ完全に失った歴史的事実、および 1960 年詩集 El h...

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 私はいつも、天国とは図書館のようなものだと想像してきた

  • 出典原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: borges.mdx pullsource '「Poema de los dones(贈与の詩)」1960年刊行詩集『El hacedor(創造者)』所収、後の自伝エッセイでも繰り返された' は書誌と...

  • 引用二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 書くこととは、導かれた夢にほかならない

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生きた跡を辿るPlaces

ホルヘ・ルイス・ボルヘスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 諸王の墓地(シミティエール・デ・ロワ)墓所

    ジュネーヴ, スイス

    1986年6月、イチイの木の下に葬られた。石碑にはヴァイキング船のレリーフと「Lúthien」「Beren」の名が刻まれる

さらに辿るならExternal References

ホルヘ・ルイス・ボルヘスを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。

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