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ホルヘ・ルイス・ボルヘス

Jorge Luis Borges·1899–1986·アルゼンチン·

本で読んだ世界と、自分が生きる世界は、 どこで区別がつかなくなるのか?

ブエノスアイレスの書斎とジュネーヴの少年期を往復しながら、盲目の館長として図書館の宇宙論を書き続けた作家

  • 伝奇集
  • バベルの図書館
  • 迷宮
  • 盲目の館長
  • 形而上学的小説
英仏にあこがれる新しい街に生まれ、二つの大戦と独裁のあいだを、本だけを頼りに生きた時代 — ひらく

時代の空気

19世紀末ブエノスアイレスは英仏文化に憧れる新興都市で、ボルヘス家は英国系祖父ハスラムとガウチョ系の独立戦争の記憶が同居する家庭だった。1914-21年は第一次大戦下のジュネーヴへ家族で避難、ヨーロッパの前衛と接した世代である。1921年帰国後はFlorida派(美学優位)とBoedo派(社会主義)の論争のさなか、ビクトリア・オカンポ主宰『スール』(1931-)が欧米文学の橋渡し役を担う。1946-55年のペロン政権期は反体制知識人にとって息苦しい時代となり、ボルヘスは図書館員職を「鶏家禽監督官」に降格させられて辞職、1955年のペロン失脚で国立図書館長へ転じる。

01書物と夜を、同時に

1955年、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス。9月に軍のクーデターが起き、大統領が国を追われた。新しい政権は、その年のうちに一人の作家を国立図書館の館長に任命した。ホルヘ・ルイス・ボルヘス、56歳。約90万冊の本を預かる、国でいちばん大きな図書館の主となった。

だが、この館長には本が読めなかった。彼はこの頃までに、ほぼ完全に視力を失っていた。祖父は晩年に失明し、父もほとんど見えなかった。目の病が受け継がれる家系だった。本を読むことに人生をかけてきた男が、読めなくなった年に、国じゅうの本を任されたのである。

ふつうなら悲劇と呼ぶだろう。しかし彼は、この出来事を「皮肉」と呼び、しかも「恩恵」と呼んだ。後に書いた詩『恩恵の詩』で、彼はこう歌う──「神の華麗な皮肉、書物と夜とを同時に私に与えたこの皮肉」。詩の題にある「恩恵」とは、贈り物のことである。

なぜ、読めない本の山を、彼は贈り物と呼べたのか。その答えは、一人の少年が父の書斎で本を読みあさった日々にある。時は56年前に戻る。

私はいつも、天国とは図書館のようなものだと想像してきた

— 盲目の国立図書館長となった後、1960年刊行の詩集『創造者』に収められた『恩恵の詩』の一句。後の自伝エッセイでも繰り返された

02父の書斎、読めるうちに

1899年8月24日、ボルヘスはブエノスアイレスのパレルモ地区に生まれた。父ホルヘ・ギリェルモは弁護士で、心理学の教師でもあった。小説家になることを夢見ていたが、受け継いだ目の病でほとんど見えなかった。母レオノール・アセベードは古い地主の家の出で、英語が達者だった。

この家には二つの血が流れていた。一つは、独立戦争の英雄イシドロ・スアレス大佐に代表される軍人の血。草原を馬で駆けた(南米の牧童)の時代の記憶である。もう一つは、イギリスから渡ってきた祖父ハスラムの血。彼は新聞の編集者だった。剣の家系と、本の家系。ボルヘスは後に、この二つの血筋を何度も物語に書くことになる。妹ノラは、生涯の親しい話し相手になった。

父は目が悪く、弁護士の仕事を早めにやめた。家にこもり、英語とスペイン語の本を読み続けた。家の書斎には英語の本がぎっしり並んでいた。ホルヘ少年は5歳でスペイン語と英語をほぼ同時に覚え、同じ年に英語の小説を読み始めた。家の中では二つの言葉が日常的に飛び交っていた。

少年は外で遊ばず、書斎にこもる子供だった。8歳のとき、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を英語の翻訳で読んだ。後にスペイン語の原書を読んだとき、彼は「翻訳の方が本物に思えた」と振り返る。9歳では、オスカー・ワイルドの童話『幸福な王子』をスペイン語に訳した。それは新聞『エル・パイス』に載った。編集者は、訳したのは父親だと思いこんでいた。

この家には、もう一つの影があった。祖父は晩年に失明し、父もほとんど見えない。少年は早くから思っていた。自分もいつか、目が見えなくなるだろう、と。だから読めるうちに、読めるだけ読む。追いかけてくる闇と競走するような読書だった。この量が、後の驚くべき記憶力の土台になる。

1914年、父の目の治療のため、一家はヨーロッパへ向かった。少年は15歳になる年だった。その旅が、思わぬ形で長引くことになる。

03ジュネーヴの四年

ヨーロッパに着いてまもなく、第一次世界大戦が始まった。予定していたドイツには行けない。一家は中立国スイスにとどまり、ジュネーヴで4年を過ごすことになった。15歳から19歳まで。ボルヘスにとって決定的な年月を、彼はこの街で過ごした。

彼が通ったのは、カルヴァン・コレッジという古い学校だった。16世紀の宗教改革者カルヴァンが1559年に作った中等学校である。授業はフランス語、ラテン語、古代ギリシア語、それに哲学。彼はフランス語をたちまち身につけ、ユーゴーやフロベール、マラルメ、ランボー、アポリネールを読みあさった。同じころ、カフカやリルケも見つけた。

そのうえで、彼はドイツ語を独学で始めた。理由は一つ。哲学者ショーペンハウアーを原書で読むためだった。15歳で始めて、17歳で(1819)を読み通した。世界は、意志が心に映し出す表象(像)である。時間は(幻)である。一人一人の「私」という区別も、見せかけにすぎない。この本の考えが、彼の物語の土台になった。

ずっと後、晩年の1984年に書かれた自伝エッセイ『私的な趣味』で、彼ははっきり書いている──「もし一人の思想家を選ばねばならなかったら、ショーペンハウアーを選ぶ。私の全作品は彼の注釈である」。

1919年、一家はスペインのマドリード、次いでセビーリャへ移った。ボルヘスはそこでという詩の運動に加わった。当時のスペインで起きていた、新しい詩をめざす若者たちの運動である。彼は最初のスペイン語の詩を、文芸誌『グレシア』に発表した。20歳、詩人としての出発だった。

だが、この若い詩人は、やがて詩から離れていく。それは、生まれた街に帰ってからの話になる。

04帰国、そして暗い階段

1921年、一家はブエノスアイレスに帰った。ボルヘスはウルトライスモを故郷に持ち込もうとした。街角の壁に貼る雑誌『プリスマ』を作り、年上の作家たちと交わった。哲学的な小説を書くマセドニオ・フェルナンデス、前の世代の大詩人レオポルド・ルゴネス、『ドン・セグンド・ソンブラ』の作者リカルド・グイラルデス。1920年代を、彼は詩人として過ごした。

詩集『ブエノスアイレスの熱情』(1923、自費出版)、『前の月』(1925)、『サンマルティンの冊子』(1929)。パレルモ地区の夕暮れ、広い草原、ガウチョの時代の軍人たち。そうした故郷の風景と、ショーペンハウアーから学んだ「時間も私も本当は存在しない」という考えが、同じ詩の中に並んでいた。ただ、詩は部数も話題も限られていた。彼は少しずつ、評論や随筆へと移っていく。

1935年、最初の散文の本を出した。世界各地の悪党や詐欺師、海賊の生涯を、本当の話と作り話をまぜて書き直した短い物語集である。同じころ、彼はの中心的な書き手になっていた。1931年にビクトリア・オカンポが作った、南米で最も重要な文芸誌である。この雑誌を通じて、生涯の友となる年下の小説家と、その妻となるシルビナ・オカンポに出会った。ビオイとの共作は、ユーモアのある探偵小説『ドン・イシドロ・パロディの6つの問題』(1942)として実を結ぶ。

1937年には、カフカののスペイン語訳を、序文つきで出した。この本は長く、スペイン語圏でカフカを読むための標準版となった。

そして1938年のクリスマス・イヴ。ボルヘスは暗い階段で頭を強く打った。傷から敗血症はいけつしょうを起こし、数週間、生死の境をさまよった。同じ年、父も亡くなっている。回復した彼が、最初の試みとして書いたのが(1939)だった。20世紀に、セルバンテスと一字一句同じ『ドン・キホーテ』を書き直そうとする男の話である。

この一作から、彼にしか書けない新しい種類の物語が始まる。

05図書館員が書いた無限

1939年から、ボルヘスは市営図書館の小さな分館で働いていた。ミゲル・カネ分館、地味な公務員の仕事である。そこで彼は『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』を書いた(1940年に雑誌に載る)。百科事典の中にしかない架空の国トレーンが、少しずつ現実の世界に入りこんでくる話だ。本が現実を作り出す。彼の物語の基本の形が、ここで出来上がった。

短い傑作が続いた。『円環の廃墟』(1940)は、夢の中で別の人間を夢見る男の話。(1941)は、ありうるすべての本を収めた無限の図書館。(1941)は、枝分かれしていく時間の迷路。これらは1941年に『八岐の園』(スール社)、1944年にとしてまとめられた。同じ1944年、彼はアルゼンチン作家協会大賞を受けている。

1949年には第二の短編集が出る。表題作『アレフ』は、宇宙のすべての点を同時に含む一点を、ブエノスアイレスのある地下室で見つける男の話である。他に『不死の人』(と不死の都)、『ザヒール』(心から離れない一枚のコイン)、『神の書』(獣の模様に神の言葉を読む神官)、『待望』(暗殺者を待つ男)などが並ぶ。

彼の物語には、くり返し現れるものがある。無限の図書館、鏡、迷宮、そっくりの分身、存在しない本の書評、そして剣とガウチョの暴力。どれも2〜10ページの短さで、長編小説は生涯書かなかった。「語り尽くせるものを無理に膨らますのは冗長」と彼は主張した。代わりに彼は、存在しない長編の書評を書くという裏返しの方法を発明した。もしこの本が書かれたとしたら、どんな本か──それを書けば、書かれていない本が、いわば存在してしまう。

だが、この無限の本の宇宙を書いている間にも、彼の目は少しずつ暗くなっていた。

書くこととは、導かれた夢にほかならない

— 短編集の序文で、ボルヘスが自分の仕事を一言で言い表した言葉。彼の物語は、夢のように現実の縁をこえていく

06闇の中の館長

1940年代、ボルヘスの視力は少しずつ失われていった。父と同じ道をたどる、受け継いだ目の病だった。子供のころからの、目を酷使する読書も影響した可能性が指摘されている。少年のころに予感した闇が、本当に近づいていた。

1946年、フアン・ペロンが大統領になった。ボルヘスは公然と反ペロンの側に立っていた。政権は彼に、市営図書館員から「家禽・鶏にわとり監督官」への降格こうかくを命じた。政治的な嫌がらせいやがらせと受け止め、彼はすぐに辞めた。

そして1955年。冒頭の場面である。9月の軍のクーデターでペロンが倒れ、新政権はボルヘスをアルゼンチン国立図書館長に任命した。ほぼ完全に失明した男が、90万冊の本の主となった。同じ年、ブエノスアイレス大学の英米文学の教授にもなっている。

なぜ彼は、これを贈り物と呼べたのか。彼の中には、すでに図書館があった。5歳から読み続けた本は、闇の中でも消えない記憶になっていた。本を読む生活は、人に読んでもらう生活に変わった。書くことは口述筆記に変わった。母レオノールが、友人のビオイ=カサーレスが、若い弟子たちが、代わる代わる読み、書きとった。母は1975年に99歳で亡くなるまで、いちばんの支えだった。

口述で書くと、書き消しができない。頭の中で文章を組み立ててから、声に出す。そのため彼の文章は、いっそう短く、詩のようにリズムのあるものになった。1960年代からは、アメリカの編集者ノーマン・トーマス・ディ・ジョバンニと組んで英訳を進め、英語圏に広く読まれるようになった。

失明後の彼は詩に戻り、さらに古い英語と古ノルド語の文学へ深く入っていった。北欧神話のエッダ、、アングロサクソンの詩。1961年には、サミュエル・ベケットと並んで第1回フォルメントール国際出版賞を受け、世界的な名声を得た。1967年から69年にはハーバード大学で詩についての連続講義を行っている。

世界が彼を読み始めた。しかしその祖国では、より暗い時代が待っていた。

07紳士と呼んだ将軍

1976年3月、ビデラ将軍が率いる軍のクーデターが起き、イサベル・ペロンが追放された。アルゼンチンは、1983年まで続く軍政の時代に入る。同じ年の7月19日、ボルヘスはビクトル・マスエラ大主教ら知識人と共に、大統領官邸の昼食会に招かれ、出席した。ペロン主義から解放されたことを喜ぶ立場から、彼はビデラを「紳士しんし」と評した。後に「ビデラ昼食会」として知られるこの出来事を、彼は最後まで深く後悔することになる。同じ年、隣国チリの独裁者ピノチェトを訪ね、名誉博士号も受けている。

軍政は、夜のうちに反対派を連れ去り、消息を絶たせていた。「行方不明者ゆくえふめいしゃ(desaparecidos)」と呼ばれた人々は、最終的に約3万人と推計される。その実態は、母を通じた直接の証言によって、ボルヘスの耳にも届くようになった。1980年5月、彼は作家エルネスト・サバト、その年のノーベル平和賞を受けるアドルフォ・ペレス・エスキベルらと共に、ビデラに宛てた公開書簡に署名した。行方不明者の安否を確かめ、公表せよという要求だった。4年前の昼食での立場を、事実上ひっくり返したのである。

晩年のインタビューで、彼はこう語っている──「私は政治を理解しない。私は本だけを理解する」。これが言い訳として通るかは、意見が分かれる。ただ、彼が最後には独裁の犠牲者の側に立ったこと、そして向きを変えたことを隠さなかったことは、記しておくべきだろう。

ノーベル文学賞は、生涯もらえなかった。1960年代から候補と噂され続けたが、スウェーデン・アカデミーは最後まで与えなかった。1976年のピノチェト訪問や、軍政への一時的な好意的発言が不利に働いた、という見方が有力である。

本だけを理解する、と言った男は、最後の年月をどの本と過ごしたのか。

08ジュネーヴへ帰る

晩年のボルヘスは、ダンテのに深く入りこんだ。1930年代の図書館員時代から、スペイン語訳と並べてイタリア語の原文で読み続けてきた本である。失明後は、弟子のが原文を朗読するのを聞き続けた。1982年、40年以上の読書を9つの短いエッセイにまとめた『神曲九篇』を出した。

晩年の短編集『ブロディの報告書』(1970)、(1975)では、若いころの凝った迷路のような作りから離れ、より平明で寓話に近い文体に変わった。表題作『砂の本』は、ページが無限に増え続けて最後のページにたどり着けない一冊の本の話である。『バベルの図書館』の無限が、一冊の本の中に閉じこめられた。

古い英語と北欧の文学への没頭も続いた。コダマとの共著『ゲルマン民族文学の歴史』(1966)は、専門家でない読者に向けて、英語・ドイツ語・北欧語の古い文学を読み解いた、めずらしい本である。

私生活では、1967年に子供時代の知人エルサ・アステーテ・ミリャンと結婚したが、1970年に離婚し、母の家に戻った。母が亡くなった1975年からは、マリア・コダマが公私ともに最も近い人になる。1937年生まれの日系アルゼンチン人で、1967年からブエノスアイレス大学で彼の学生だった英文学の研究者である。

1986年、病気の治療のため、ボルヘスはジュネーヴにいた。およそ70年前、少年時代の4年間を過ごした街である。「ジュネーヴで死にたい」というひそかな願いが、かなう形になった。4月26日、長年のパートナーだったコダマと正式に結婚した。6月14日、ジュネーヴの自宅で肝臓癌かんぞうがんにより死去。86歳だった。

遺言により、故郷ブエノスアイレスではなく、ジュネーヴのプレンパレ墓地に葬られた。国を代表する作家の墓をなぜ母国に置かないのか、とアルゼンチンでは議論になった。それでも、これは彼自身の選択だった。墓石には、古い英語の詩『マルドンの戦い』の一句「汝は恐れるな(And ne forhtedon na)」が刻まれている。戦士の言葉であり、彼が晩年もっとも愛した一節だった。

父の書斎で闇と競走した少年は、闇の中で90万冊の本を預かる館長になった。そして少年の日の街に帰り、そこで眠った。天国とは図書館のようなものだと、彼は想像し続けた。読めなくなった後も、本は彼の中にあった。では、あなたが今日までに読んだ本は、いまどこにあるのだろう。目を閉じたとき、そこに残っているものは何か。

09思想の位置──小説という形式で哲学する

ボルヘス短編の基本的モチーフは──(1)無限の図書館・辞書・地図(書物が世界を包含する)、(2)分岐する時間と(ライプニッツのと量子力学の先取り)、(3)鏡と迷宮と分身(自我の複数性・非実在性、ショーペンハウアー由来)、(4)偽書と書誌学的遊戯(実在しない本の書評、実在する本の偽の作者帰属)、(5)剣士と剣、ガウチョの暴力(ブエノスアイレス郊外の血筋の記憶)。これらが単純な「幻想小説」「SF」「探偵小説」のジャンル区分を横断しながら、独自の形而上学的リアリズムを形成する。『アレフ』の一点はカバラの最初の文字アレフに由来し、書かれざる本の思考実験的な存在を提示する系統には『フィクションズ』所収『フフィズ・イブン・ハッカン・アル=ボハリ、その迷宮で死す』などがある。

8歳の『ドン・キホーテ』英訳先行の読書体験は、以後の「原典と翻訳の同等性」という文学思想の種となった。1937年のカフカ『変身』スペイン語訳は長らくスペイン語圏のカフカ受容の標準版となったが、実は本文の一部は既訳の改訳で、ボルヘス自身の翻訳範囲は限定的だったことが近年の書誌学研究で明らかになっている。しかし序文は完全にボルヘスのもので、カフカ論として第一級である。

ボルヘスのダンテ理解の中心は、『神曲』を百科全書的宇宙として読むことだった。地獄・煉獄・天国の三界が、中世キリスト教の全知識・全倫理・全地理を統合する詩の宇宙論であり、ボルヘス自身の『エル・アレフ』『バベルの図書館』が目指した単一の書物=宇宙の理想形である。ダンテは「書物によって世界を作り直すことは可能だ」という事例を、ボルヘスより700年早く実装していた。晩年のアングロサクソン・古ノルド文学への没入も同じ軸上にあり、マリア・コダマとの共著『ゲルマン民族文学の歴史』(1966、後に拡張版『中世ゲルマン文学』1978)は英語・ドイツ語・北欧語の古典文学の総合的読解を提示する。ボルヘスは無限の時間と祖先の血筋の両方を、古英詩の質実なリズムの中に見出していた。

ボルヘスの死後、南米文学における彼の位置は確固たるものとなった。後続のガブリエル・ガルシア=マルケス・カルロス・フエンテス・マリオ・バルガス=ジョサ・フリオ・コルタサルらブーム世代のラテンアメリカ作家たちは、ボルヘスの形而上学的短編を共通の出発点として、・迷宮構造・複数の時空間を各自の長編小説へ展開した。ボルヘス自身は長編を書かなかったが、後続が長編を書くための書物の宇宙観を提示した。

英語圏での影響はさらに広範に及ぶ。ジョン・バース・ウンベルト・エーコ・イタロ・カルヴィーノ・トーマス・ピンチョン・ジョルジュ・ペレック・W. G. ゼーバルト──これらの作家のメタフィクション・記号論的小説・書誌学的遊戯は、ほぼすべてボルヘスの影響下にある。エーコ『薔薇の名前』(1980)の盲目の老僧ホルヘ(修道士名ホルヘ・デ・ブルゴス)は、ボルヘスへのあからさまなオマージュ。

哲学史的には、ボルヘスはショーペンハウアー経由のドイツ観念論と、アングロサクソンと、カバラ・イスラム神秘主義の多層的な混成で、既存の哲学/文学の境界を消した作家として記憶される。『円環の廃墟』『八岐の園』はニーチェのを、『トレーン』はバークリーの観念論を、『アレフ』はライプニッツのモナドロジーを、それぞれ数ページの物語として実装する。小説という形式で哲学する試みとして、20世紀で最も徹底した事例を残した。

10主要な出来事と著作

  1. ブエノスアイレスに誕生、英語とスペイン語のバイリンガル家庭
  2. 英訳『ドン・キホーテ』を父の書斎で読む、ワイルド訳で新聞デビュー
  3. 一家でジュネーヴに、独学ドイツ語でショーペンハウアー・カフカを読む
  4. マドリード・セビーリャでウルトライスモ運動に参加、最初の詩
  5. 帰国、壁雑誌『プリスマ』創刊、ブエノスアイレスのウルトライスモを主導
  6. 詩集『ブエノスアイレスの熱情』自費出版
  7. 雑誌『スール』の中核寄稿者、ビオイ・シルビナ・オカンポと出会う
  8. 『汚辱の世界史』、散文家としての第一作
  9. カフカ『変身』スペイン語訳と序文、カフカをスペイン語圏に紹介
  10. 頭部負傷から敗血症、父ホルヘ・ギリェルモ死去
  11. 『ピエール・メナール、『ドン・キホーテ』の作者』、形而上学的短編の第一作
  12. 『円環の廃墟』『バベルの図書館』『八岐の園』
  13. 『フィクションズ(Ficciones)』、アルゼンチン作家協会大賞
  14. ペロン政権下で家禽・鶏監督官への降格、辞職
  15. 『エル・アレフ』刊行
  16. 『カフカと彼の先駆者たち』
  17. ほぼ完全に失明、アルゼンチン国立図書館長およびブエノスアイレス大学英米文学教授に就任
  18. ベケットと並んで第1回フォルメントール国際出版賞、国際的名声
  19. ハーバード大学ノートン詩学講座、エルサ・アステーテと結婚(70年離婚)
  20. 短編集『ブロディの報告書』
  21. 短編集『砂の本』、母レオノール没(享年99)
  22. ビデラ将軍と昼食(後の controversy)、ピノチェトに名誉博士号受諾
  23. サバトらと共にビデラへ行方不明者公開書簡、立場を撤回
  24. 『神曲九篇』、ダンテ研究の凝縮
  25. 4月マリア・コダマと結婚、6月14日ジュネーヴで肝臓癌により86歳で死去、プレンパレ墓地に埋葬

残した思想の輪郭

  • 形而上学的短編という独自ジャンル ─ 小説という形式で哲学する、『フィクションズ』『エル・アレフ』の基本様式
  • 無限の図書館と書物の宇宙論 ─ 『バベルの図書館』『エル・アレフ』、書物が世界を包含する形而上学
  • 分岐する時間と可能世界 ─ 『八岐の園』、ライプニッツのモナドロジーと量子多世界解釈の文学的先取り
  • 偽書と書誌学的遊戯 ─ 『ピエール・メナール』『フフィズ・イブン・ハッカン』、書かれざる本の逆説的存在
  • ショーペンハウアーの注釈としての全作品 ─ 意志と表象、マーヤー(時間の幻影)、個性原理の欺瞞
  • ダンテ『神曲』の40年の読書 ─ 『神曲九篇』(1982)、百科全書的詩の宇宙論
  • カフカを先駆として遡及させる時間論 ─ 『カフカと彼の先駆者たち』(1951)、文学史の因果律の転倒
  • 盲目の図書館長 ─ 1955年の皮肉、『恩恵の詩』「書物と夜とを同時に私に与えた」
  • 古英詩・古ノルド文学への晩年の没入 ─ マルドンの戦い、ベオウルフ、エッダ、墓石の「汝は恐れるな」
  • ラテンアメリカ・ブーム世代の共通の出発点 ─ ガルシア=マルケス以下への書物の宇宙観の贈与
  • 軍政期の controversy ─ 1976年ビデラ昼食、1980年行方不明者公開書簡、最後に独裁犠牲者の側に立った曲折
  • 長編を書かなかったという選択 ─ 語り尽くせるものを膨らまさない、2〜10ページ内での密度の最大化
1986年6月14日、スイス・ジュネーヴの自宅で<Ruby base="肝臓癌" rt="かんぞうがん" />により86歳で死去。第二の妻マリア・コダマに看取られた。遺言により、ブエノスアイレスではなくジュネーヴのプレンパレ<Ruby base="墓地" rt="ぼち" />(少年期に父と眺めたレマン湖を望む場所)に埋葬された。墓石にはアングロサクソン古詩の一句**「**汝は恐れるな**」**(And ne forhtedon na)が刻まれている。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

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生きた跡を辿るPlaces

ホルヘ・ルイス・ボルヘスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 諸王の墓地(シミティエール・デ・ロワ)墓所

    ジュネーヴ, スイス

    1986年6月、イチイの木の下に葬られた。石碑にはヴァイキング船のレリーフと「Lúthien」「Beren」の名が刻まれる

さらに辿るならExternal References

ホルヘ・ルイス・ボルヘスを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。