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ショーペンハウアー

Arthur Schopenhauer·1788–1860·ドイツ·

この世は、 なぜ苦しみに満ちているのか?

意志と表象の世界を描き、悲観主義と芸術的救済を説いた孤高の人

  • 意志と表象
  • 苦しみ
  • 芸術と諦念

時代の空気

1788年、フランス革命前夜のバルト海港町ダンツィヒ(現グダニスク)に生まれた。父は英国崇拝の自由商人、母ヨハンナはのちにワイマールでゲーテと交わる小説家となる。1809年ゲッティンゲン大学でカントに出会い、1813-14年にはマイアー経由で『ウプネカット』(ウパニシャッドのラテン語重訳)を読む。1819年の主著刊行は売れ残り、1820年ベルリン大学では同時刻のヘーゲル講義に完敗した。1830年代の鉄道・産業革命と1848年三月革命のドイツで、彼はフランクフルトのプードルとともに27年隠棲し、1851年『付録と補遺』で晩年に名声を得た。

01ダンツィヒの豪商の子

1788年2月22日、バルト海に面した港町ダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク)に生まれた。父ハインリヒ・フローリス・ショーペンハウアーは裕福な商人で、英国崇拝者だった。自由を愛し、貴族的な矜持きょうじを持ち、息子をゆくゆくは商人として世界に送り出すつもりでいた。母ヨハンナはのちに小説家として名を馳せる才気走った女性で、社交と文学を好んだ。

幼年時代、アルトゥールは各地を転々とした。父の商用でハンブルク、フランスのル・アーヴルに数年滞在し、英語とフランス語を習得した。ダンツィヒのギムナジウムではなく、ハンブルクの私立商業学校で学ぶ。妹アーデレとは仲がよかったが、大商家の長男として期待を一身に背負う孤独な少年だった。父が望む商家の道と、自分の内側で育ちつつある知への渇望との板挟みに、少年はすでに気づいていた。

02父の不審死、母との決別

1805年、ハインリヒが突然死んだ。ハンブルクの倉庫の窓から転落して運河に落ちた。事故か自殺か、当時も今も定説はないが、長年気鬱きうつに苦しんでいたことを知る者たちは自死を疑った。アルトゥールは17歳だった。

父の遺言は商家の継続だった。アルトゥールは二年間、義理を果たすように商店で丁稚奉公でっちぼうこうをした。しかし心はすでに離れていた。1807年、ようやく母の許しを得て商家修業を放棄し、ゴータのギムナジウムに入学してラテン語とギリシャ語を学び直した。

母ヨハンナはその頃ワイマールに移り、ゲーテや文壇の人々と交流するサロンを開いていた。アルトゥールも時折ワイマールを訪れ、ゲーテと親しく言葉を交わした。しかし母子の関係は年を追うごとに険悪になった。ヨハンナは自由を好む女性で、再婚こそしなかったが恋人を持った。息子の陰鬱な気質と説教好きな態度が、彼女には我慢ならなかった。1814年、ついに決裂の手紙が交わされ、以後、母子は死ぬまで会うことはなかった。

03ゲッティンゲン、ベルリンで学ぶ

1809年、21歳でゲッティンゲン大学に入学した。最初は医学を学んだが、すぐに哲学に転向した。ここで彼はカントの著作に出会う。『純粋理性批判』を読んだとき、何かが根底から変わった、と後に述べている。

ベルリン大学に移り、フィヒテの講義を聴いたが、感銘は受けなかった。1813-14年の冬、ワイマールで東洋学者フリードリヒ・マイアーを通じてウパニシャッドのラテン語訳『ウプネカット』(サンスクリットからペルシア語を経てアンクティル=デュペロンが重訳したもの)を知ったことが、より深い衝撃をもたらした。インドの古典哲学が語る「マーヤー(幻影)」「ブラフマン」「解脱」の思想は、カントの認識論と不思議な共鳴を示した。

1813年、イエナ大学に博士論文を提出し、博士号を取得した。題名は。この論文でショーペンハウアーは、人間の認識が従う四種類の「理由」を分析した。ゲーテはこの論文を高く評価し、ショーペンハウアーを自らの色彩論研究に招いた。二人は短期間ながら共に研究し、深い相互尊敬を抱いた。しかし色彩論での協力はやがて立場の相違で頓挫とんざする。

04『意志と表象としての世界』1819

1818年、30歳。ドレスデンに籠もり、四年間かけて書き上げた主著が完成した。。奥付は1819年(刊行は1818年末)。四部構成の厚い本に、彼の哲学のすべてが詰まっていた。のちに1844年、補巻をなす第二巻を加えた増補版が出され、1859年には第三版が刊行される。

中核の思想はこうだ。私たちが目にする世界 ― 物、人、出来事の連鎖 ― はすべて「表象」にすぎない。カントが物自体と現象を分けたように、表象の背後には別の実在がある。しかしそれは理性的なものでも神的なものでもない。ショーペンハウアーはそれを**意志(Wille)**と呼んだ。盲目で目的を持たず、ただ際限なく満足を求めて蠢く衝動。空腹、性欲、権力欲 ― すべてその意志の顕現である。

満足は一瞬で、苦しみは長い。欲望が満たされれば次の欲望が生まれ、欲望がなければ退屈が訪れる。人生は苦しみと退屈のあいだを振り子のように揺れ続ける。

出版の結果は惨憺さんたんたるものだった。売れなかった。書評もほとんどなかった。初版の在庫はブロックハウス社に長く残り、1834年頃までにその多くが古紙価格で処分されたと伝わる。哲学界の誰も、この孤独な天才に耳を傾けなかった。

05ヘーゲルとの講義競合、敗北

1820年、ショーペンハウアーはベルリン大学の私講師資格を取得した。彼は自分の講義時間を、あえてヘーゲルの人気講義と同じ時間帯に設定した。これは売名行為ではなく、真剣な挑戦だった。ヘーゲルの「絶対精神」が世界の本質を理性として語るのに対し、ショーペンハウアーは意志の暗い真実を提示した。どちらが正しいか、学生に選ばせればよい。

結果は惨敗だった。ヘーゲルの教室は満席で廊下まで聴講者が溢れた。ショーペンハウアーの教室は数人、やがてゼロになった。彼は講義を打ち切り、その後も形式上は講師名簿に残りつつ、1822年にはイタリアへ旅立ち、1825年にベルリンで再び開講を試みるも失敗に終わる。1820年代は著作も沈黙し、雌伏しふくの年月が続いた。

この敗北は彼の心に深い傷を刻んだ。ヘーゲルへの憎悪ぞうおは生涯消えなかった。著作のあちこちに「哲学の偽物」「世を欺くペテン師」などという激しい罵倒ばとうが顔を出す。しかし後の世は、ショーペンハウアーの側に傾いた。ヘーゲルが死後数十年で時代の思潮とともに退潮たいちょうしていく一方、ショーペンハウアーの書物はワーグナー、ニーチェ、トルストイ、フロイト、トーマス・マンらを次々と虜にしてゆく。

人生は、苦しみと退屈の間を振り子のように行き来する。

『意志と表象としての世界』第4巻

06フランクフルトの隠遁生活 ― プードル・アトマとの日々

1833年、ショーペンハウアーはフランクフルトに落ち着いた。以後27年、短い外出を除けば、彼はほとんどこの街を離れなかった。

一人暮らしだった。結婚はしなかった。恋愛は何度かしたが、いずれも長続きしなかった。人間との付き合いより、犬との生活を好んだ。プードルを飼い、「アトマ」と名付けた(サンスクリット語で「世界霊魂」の意)。散歩の相手はアトマだった。客が訪ねてくれば、犬を指して「ここに哲学者がいる」と言うこともあった。次に飼ったプードルも「ブッツ」と呼んだが、界隈かいわいの人々は皆「ショーペンハウアー」と呼んだ。

生活は規則正しかった。朝に執筆し、昼はフランクフルトの老舗しにせレストランで食事し、午後に長い散歩をした。ウパニシャッドを毎日読んだ。仏陀の像を書斎に飾った。インド哲学に傾倒したこの孤高の思想家は、東洋思想を自らの体系に本格的に取り込んだ最初期の西洋哲学者の一人だった。サンスクリットやパーリ語を直接読んだわけではなく、当時ヨーロッパで入手できた『ウプネカット』や東洋学の訳業を介しての受容だったが、「苦しみからの解脱げだつ」という仏教の理念とという自らの思想は同じ真実を指している、と彼は確信していた。

07晩年、突然の名声

1851年、63歳。(Parerga und Paralipomena)を刊行した。短い随筆や警句を集めた二巻本で、主著に比べて格段に読みやすかった。これが思わぬ反響を呼ぶ。1853年に英誌『ウェストミンスター・レビュー』に載ったジョン・オクセンフォードの評「ドイツ哲学におけるイコノクラスム」が潮目を変え、ドイツ国内でも広く読まれるようになった。

新聞や雑誌が彼を取り上げ、若い哲学者や芸術家たちが手紙を送ってきた。ワーグナーは主著を読んで感動し、音楽と意志の関係についてショーペンハウアーの理論に深く傾倒した。ライプツィヒの学生だった青年フリードリヒ・ニーチェは古本屋でふと手にした主著に捕らえられ、二週間ほぼ寝食を忘れて読み耽ったと後年に繰り返し述懐している。

晩年のショーペンハウアーはフランクフルトの有名人になった。見物客が窓の外から覗き、弟子たちが教えを乞いに訪ねてきた。長年の黙殺もくさつの後に訪れた名声を、彼はある種の諦念ていねんとともに受け取った。「今頃か」という感が、日々の言葉の節々に滲んだ。

08主要な出来事と著作

  1. ダンツィヒ(現グダニスク)に誕生。父ハインリヒ・フローリス、母ヨハンナ(のちに小説家)
  2. 父ハインリヒ、運河に転落して死去(自死説・事故説があり確定せず)。17歳
  3. ゲッティンゲン大学入学。医学から哲学へ転向。カントとプラトンに出会う
  4. 博士論文『充足理由律の四つの根について』提出。ゲーテとワイマールで交流
  5. ワイマールで東洋学者マイアーを通じ『ウプネカット』を知る
  6. 母ヨハンナと絶縁。以後、死ぬまで会わず
  7. 主著『意志と表象としての世界』刊行(奥付、実刊は1818年末)。ほぼ黙殺される
  8. ベルリン大学でヘーゲルと同時刻に講義を設定。完敗。1820年代は雌伏期
  9. フランクフルトに定住。プードル・アトマとの規則正しい隠遁生活
  10. 『意志と表象としての世界』第二版、第2巻を補巻として追加
  11. 『付録と補遺』刊行。晩年にして名声を得る端緒となる
  12. 英誌『ウェストミンスター・レビュー』オクセンフォード評で注目広まる
  13. 『意志と表象としての世界』第三版
  14. フランクフルトの朝食中に息を引き取る。享年72

残した思想の輪郭

  • 意志と表象 ― 世界は私たちの「表象」であり、その背後にある本質は盲目的な「意志」である
  • 悲観主義 ― 意志は決して満足せず、人生は苦しみと退屈の反復にすぎない
  • 芸術による救済 ― 音楽・絵画・詩に没入するとき、意志から一時的に解放される
  • 意志の否定 ― 禁欲と同情によって意志を否定することが、最高の解脱へ至る道
  • 仏教・ウパニシャッドとの接続 ― 東洋思想を自らの体系に本格的に取り込んだ最初期の西洋哲学者の一人(『ウプネカット』等の重訳を経由)
  • 同情の倫理 ― 他者の苦しみを自分の苦しみとして感じる「同情(Mitleid)」が道徳の根拠
1860年9月21日、フランクフルトの朝食の椅子で息を引き取る。72歳。
5
  • 思想二次資料で確認済み研究上論争あり

    研究上論争あり: 1818年初版の『意志と表象としての世界』第4巻、意志の肯定と否定を論じる章で示された人生観。ショーペンハウアーは生を、欠乏からの苦しみと、充足のあとに来る退屈との間の往復として描いた。厭世の気分では...

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 人生は、苦しみと退屈の間を振り子のように行き来する。

    一次資料を開くErster Band §57 Pendel 比喩 'Sein Leben schwingt also, gleich einem Pendel...zwisc...

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 人生は、苦しみと退屈の間を振り子のように行き来する

    一次資料を開くErster Band 第IV書 §57: 'Sein Leben schwingt also, gleich einem Pendel, hin und he...

  • 出典原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: schopenhauer.mdx pullsource 「『意志と表象としての世界』第4巻」は、Die Welt als Wille und Vorstellung Erster Band 内の Vi...

    一次資料を開くErster Band は Erstes Buch (§§1-16, 認識論) / Zweites Buch (§§17-29, 意志論) / Drittes ...

  • 引用原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 世界は私の表象である

    一次資料を開く§1 第I書 開幕: 'Die Welt ist meine Vorstellung: – dies ist die Wahrheit, welche in B...

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ショーペンハウアーの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

  • 入門意志と表象としての世界 (I)

    アルトゥル・ショーペンハウアー / 訳: 西尾幹二 / 中公クラシックス

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  • 副読読書について 他二篇

    アルトゥル・ショーペンハウアー / 訳: 斎藤忍随 / 岩波文庫

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  • 原著 / 英訳The World as Will and Representation, Volume 1

    Arthur Schopenhauer / 訳: Judith Norman, Alistair Welchman, Christopher Janaway / Cambridge University Press

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  • ショーペンハウアー・アルヒーフ記念館

    フランクフルト, ドイツ

    フランクフルト大学図書館内。蔵書・草稿・家具を保管する研究資料館

  • ショーペンハウアーの墓(フランクフルト中央墓地)墓所

    フランクフルト, ドイツ

    1860 年に埋葬、刻銘ただ「Arthur Schopenhauer」のみの簡素な墓

    地図で見る →確認 2026-04-19

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