レフ・トルストイ
人はどう、 生きるべきか?
貴族作家から無政府的キリスト者へ変貌した巨匠
- 戦争と平和
- アンナ・カレーニナ
- キリスト教無政府主義
時代の空気
後期帝政ロシア。クリミア戦争の敗北から農奴解放(一八六一)へ、ニコライ一世の重い反動を経て息子アレクサンドル二世の改革へ──しかし皇帝は一八八一年に革命家の爆弾で殺され、続くアレクサンドル三世は反動と検閲とユダヤ人迫害に再び舵を切る。教会と国家は溶けあって正教を国民統合の道具とし、知識人は「民衆の中へ」と土地を歩き、地下では革命的気運が静かに沸騰していた。プーシキンに始まりドストエフスキー・チェーホフが同時代を生きた、国民文学の黄金期である。
01ヤースナヤ・ポリャーナの孤児
一八二八年九月九日(ユリウス暦八月二十八日)、モスクワから南に約二〇〇キロ、ツーラ県の(「明るい野原」の意)の領地で生まれた。父ニコライ・トルストイ伯爵はナポレオン戦争の退役軍人、母マリアは旧家ヴォルコンスキー公爵家の出身。レフ自身も伯爵位を継ぐ高い貴族の子であり、領地には数百人の農奴が縛りつけられていた。
母は、レフが二歳にならぬ一八三〇年に死去(五人目の出産後の産後病)。九歳のときに父も急死。四人兄弟は叔母に引き取られ、ヤースナヤ・ポリャーナで、農奴に囲まれた裕福な孤児として育った。母の顔の記憶はほとんど残らず、その不在は生涯の影となる。広い白樺林、麦畑、丘──この土地は彼の生涯の拠点となり、最後の墓所ともなる。
一八四四年、十六歳でカザン大学東洋学部(トルコ・アラビア語)に入学。翌年法学部に転部したが、大学の形式主義に嫌気がさし、一八四七年に学位を取らずに退学。領地に戻って農奴改革を試みたが、農民は若い領主の善意を信用せず、失敗した。若いトルストイは自己嫌悪と享楽の間を揺れた──ギャンブル、ジプシー女との情事、重い借金。一八五一年、兄ニコライの勧めで兄の部隊のあるカフカスへ旅立った。
02カフカスとクリミア、作家デビュー
カフカスでの軍隊生活(一八五一-一八五四)は、退屈と緊張と美が混在する日々だった。チェチェン人との小競り合い、コサックの暮らし、山の自然。この期間に彼は最初の小説『幼年時代』を書き、匿名で文芸誌『現代人(ソヴレメンニク)』に投稿した(一八五二)。編集者ネクラーソフは「新しい才能」と見抜き、掲載した。
一八五四年、ドナウ戦線、次いでクリミア戦争の激戦地セヴァストポリに砲兵将校として転属。十一ヶ月の籠城戦、砲撃の下の塹壕、友の死。このなかで執筆された三部作は、戦争のロマンティシズムを解剖し、その虚構と血の実態を同時に捉えた傑作となった。皇帝アレクサンドル二世自身がこれを愛読したと伝わる。従軍した若い作家は、英雄譚ではなく塹壕の臭気と無名の兵の死を書いた。
一八五五年末に除隊、ペテルブルクで文壇の寵児となった。ツルゲーネフ、ネクラーソフ、ゴンチャロフ、のちにドストエフスキーらの文学界。しかし生意気な若い伯爵作家は、多くの作家と衝突した(ツルゲーネフとは一八六一年に決闘寸前まで)。一八五七-一八六一年、彼は西欧(パリ、ドイツ、スイス、ロンドン)を旅行し、ヴィクトル・ユゴー、ハーツェン、プルードンらと交わった。ルソーに心酔し、教育論を深めた。帰郷後ヤースナヤ・ポリャーナで農民学校を開き、子供たちに読み書きを教え、教育雑誌も自ら編集した。
一八六二年、三十四歳のトルストイは十六歳年下の医師の娘ソフィア・ベルス(ソーニャ)と結婚した。ヤースナヤ・ポリャーナに戻り、新妻と共に家庭と執筆の幸せな時期が始まった。結婚直前、トルストイは自分の若い日の放蕩を記した日記をすべてソーニャに読ませた──彼女は生涯これを許さなかったと、晩年の妻の日記は語る。
03『戦争と平和』 ── 一八一二年の叙事詩
一八六三年、トルストイはの執筆を始めた(当初の題は『一八〇五年』)。ナポレオンのロシア侵攻(一八一二年戦役)を背景に、ボルコンスキー、ベズーホフ、ロストフの三つの貴族家の運命を描く五部構成の大作。
七年をかけた執筆は、ソーニャの献身的協力なくして不可能だった。彼女は彼の難読な走り書きを少なくとも六回、全体を清書したと伝わる(数字には伝承の誇張があるかも知れないが、膨大な労力だったのは確か)。一八六九年、全六巻が完成した。アンドレイ公爵の負傷時の「オーステルリッツの空」体験、ピエールのフリーメーソン経験から捕虜体験までの精神的遍歴、ナターシャ・ロストワの少女から妻への成熟──これらは十九世紀小説の最高峰として今も君臨する。
ナポレオン戦争の叙述は、歴史哲学を伴っていた。トルストイは「偉大な英雄が歴史を動かす」という英雄史観を否定し、無数の小さな個人の行為の総和が歴史の動きを作ると主張した。書の後半の長大な歴史哲学論は、小説の物語から離れて独自の思想書となる。
04『アンナ・カレーニナ』 ── 破滅の愛と救済の探求
一八七三-一八七七年、執筆。冒頭の名高い一節で始まるこの八部の小説は、不倫の末に自殺するアンナと、信仰と農業と結婚に救いを探すリョーヴィン(トルストイの分身)の二重の軸で展開する。
アンナが列車に飛び込むクライマックス(第七部)は、近代文学の最も衝撃的な場面の一つとなった。アンナの心理過程──愛されなくなる恐怖、社交界からの排除、モルヒネへの依存、最後の苛立った意識の流れ──は、内面描写の前例のない精密さだった。
しかしトルストイの真のテーマは、リョーヴィンにあった。富裕な地主、懐疑的な知識人、理想的な妻を得ながら、なぜ自分は幸福になれないのか。小説の終わりで、リョーヴィンは農民の「神を信じて善く生きるため」という素朴な信仰の言葉に出会い、静かな転換を経験する。これは以後のトルストイの生涯を決定した問いだった──「人はどう生きるべきか」。
05一八八〇年代の危機と回心
一八七九年頃、五十歳のトルストイは深い精神的危機に陥った。名声、財産、美しい妻、生涯では十三人授かった子(うち八人が成長)、健康な身体──世俗的な基準ですべてを持ちながら、彼は「なぜ生きるのか」という問いに答えられなくなった。自殺願望に苦しみ、縄を家から隠した(自分で首を吊らないために)。
この危機を経て、彼は(一八八二)、『教義神学批判』『四福音書の要約とハーモニー』と続く神学的著作群を執筆した。国家教会、儀式、聖職者階級、秘跡──これらすべてを拒否し、イエスの「山上の垂訓」を文字通り実行する原始キリスト教回帰を説いた。「汝らの敵を愛せよ」「悪に手向かうな(非暴力・非抵抗)」「誓いを立てるな」「私有財産を捨てよ」。福音書の四つの記録を一つに編み直し、奇跡や教義的な層を削ぎ落として倫理的核だけを残す試みでもあった。一九〇一年二月、ロシア正教会の最高機関シノドは彼を破門した(正式には「教会の交わりからの排除宣告」)。
個人生活にもこの回心は激震をもたらした。菜食主義、肉体労働(靴作り、畑仕事、農民服を着ること)、酒と煙草の放棄、贅沢の拒否。彼は土地と全著作権を家族から教会へ放棄しようとした(一八八一年以降の作品に限定されるという妥協に落ち着いた)。ソーニャと子どもたちの大部分は、この急進的転換に反対し、家庭は長年の緊張に引き裂かれた。ソーニャは経済的基盤を守るために戦い、トルストイは貧しい者として死ぬことを理想とした。一八九一-一八九二年のヴォルガ流域の飢饉では、彼自身が現地に赴いて炊き出し所を組織し、世界に救援を訴えた。
私は、ついに問いを避けえなくなった ── 「私が今日したこと、明日することに、そして生涯にわたってしたであろうことに、どのような意味があるのか? なぜ私は生きるのか? なぜ何かを願うのか? なぜ何かを為すのか?」
06世界の師、そして家庭の断絶
一八九〇-一九〇〇年代、トルストイは世界的な精神的指導者となった。ヤースナヤ・ポリャーナには各国から巡礼者が訪れた──物書き、革命家、宗教家、農民、狂信者。彼は手紙に毎日応答した。書簡は五〇,〇〇〇通を超える。特に一九〇九年から始まるガンディーとの往復書簡(六通)は、非暴力思想の伝達の要となった。ガンディーは後に「彼は私の師だった」と語る。
(一八九三)は、国家と正教会の強制を拒否し、非暴力と抵抗なき愛の実践を説いた無政府的キリスト教のマニフェストとなった。『芸術とは何か』(一八九七)は、芸術が感情の直接的伝達であるべきだと主張し、自身の『アンナ・カレーニナ』すら「複雑すぎて民衆に届かない」と却下した。(一八九九)は、晩年の小説としては意外な大作で、若き日に女中カチューシャを誘惑して捨てた貴族ネフリュードフが、流刑判決を受けた彼女を追ってシベリアまで同行する物語である。司法、教会儀礼、性的搾取への鋭い告発を含み、破門宣告の直接の引き金の一つとなった。
家庭の亀裂は深まった。妻ソーニャは著作権を手放すことに最後まで反対した(家族の生計を心配する当然の母親の反応だった)。彼女と最年少の娘アレクサンドラ、そして弟子のチェルトコフ(トルストイの思想的後継者として財産を放棄させようとした)の三者の争いは、老トルストイを精神的に引き裂いた。誰が悪役だったとも単純には言えない──妻には妻の正義が、チェルトコフには運動の正義があり、トルストイ自身は両者の引き裂きの中で書斎を施錠し、夜中に妻が引き出しを漁る音を日記に書きとめている。
07アスタポヴォ駅の死
一九一〇年十月二十八日夜(ユリウス暦)、八十二歳のトルストイはついにヤースナヤ・ポリャーナを出奔した。妻ソーニャの許しを得ず、娘アレクサンドラと医師を連れて。「残りの日々を一人の苦行者として過ごすために」──出発の書き置きにあった。
列車での旅は過酷だった。老体に寒さと疲労がこたえ、十一月初旬、リャザン=ウラル鉄道のアスタポヴォ駅(現在のレフ・トルストイ駅と改名)で体調を崩して下車。駅長イヴァン・オゾーリンの官舎の一室に運び込まれた。肺炎だった。
世界中の新聞がこの小さな駅に殺到した。警察、弟子、家族、撮影機材──人類史上、一人の死がこれほどメディアの焦点となった最初期の例だった。妻ソーニャも駆けつけたが、弟子チェルトコフは彼女を病床に近づけさせなかった。窓越しに夫の最期を見るしかなかった妻の姿は、写真に残っている。
十一月七日(グレゴリオ暦十一月二十日)午前六時五分、トルストイは息を引き取った。八十二歳。最期の言葉として「真理を──私は愛している──いかに我らが…」が伝わる(娘アレクサンドラの記録)。教会葬は破門ゆえ拒否され、家族葬のみで、帝国当局・教会の妨害下に密葬された。遺体はヤースナヤ・ポリャーナに運ばれ、子供の頃に兄と「世界を良くする緑の棒」を埋めたとされる森の窪地に、墓碑も十字架もなく埋葬された(彼の希望)。今もその墓は、土の上に緑の草が盛り上がっているだけの、世界一有名な「名もなき墓」である。
08主要な出来事と著作
- ツーラ県ヤースナヤ・ポリャーナに誕生。貴族家系
- 二歳で母、九歳で父を失う
- カザン大学、学位取らず退学
- カフカスで軍隊生活
- 『幼年時代』デビュー作
- クリミア戦争、セヴァストポリ籠城
- 『セヴァストポリ物語』三部作
- ソフィア・ベルスと結婚
- 『戦争と平和』執筆
- 『アンナ・カレーニナ』執筆
- 精神的危機、『懺悔録』執筆
- 原始キリスト教回帰、非暴力・非抵抗主義を説く
- ヴォルガ流域大飢饉、救済運動を組織
- 『神の国は汝らの内にあり』
- 『復活』
- ロシア正教会から破門(シノド決議)
- ガンディーとの往復書簡開始
- 十月出奔、十一月七日アスタポヴォ駅で死去。享年八十二
残した思想の輪郭
- 非暴力と非抵抗主義 ── 山上の垂訓を文字通り実行し、悪に対して力で抵抗するなという倫理
- 原始キリスト教への回帰 ── 教会制度・聖職者階級・儀式を拒否しイエスの教えを直接生きる
- 所有と労働の倫理 ── 他者の労働の上に生きることへの拒否、自ら手を動かすべしという倫理
- 「人はどう生きるべきか」 ── 抽象哲学を拒否し、具体的な日常の倫理的実践の問いを優先する
- 芸術の普遍的感染性 ── 芸術は作者の感情を万人に直接伝える行為であるべきという素朴主義
出典と確認メモ
5件- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 『戦争と平和』を書き終えた40代半ばのトルストイが、近所の寡婦が列車に身を投げた出来事や、知人のもとで耳にした不倫の逸話などを素材に、4年をかけて綴った小説の一文目。不倫の果てに列車に身を投げるアンナ...
- 抜粋原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 幸せな家庭はどれも似ている。不幸な家庭はそれぞれに不幸である
一次資料を開くAnna Karenina 第 1 部第 1 章 canonical 公開テキスト (Constance Garnett 英訳)。冒頭文 'Happy fami...
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 私は、ついに問いを避けえなくなった ── 「私が今日したこと、明日することに、そして生涯にわたってしたであろうことに、どのような意味があるのか? なぜ私は生きるのか? なぜ何かを願うのか? なぜ何かを...
一次資料を開くA Confession Chapter 9 canonical 英訳 (Aylmer Maude 訳 public domain)。'What is the ...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: tolstoy.mdx pullsource 「『アンナ・カレーニナ』冒頭」 は Anna Karenina 第 1 部第 1 章冒頭文を指す書誌として正確。邦題 「アンナ・カレーニナ」 は標準訳 (...
一次資料を開くAnna Karenina 第 1 部第 1 章 canonical 公開テキスト。philoglyph pullsource 「冒頭」 = 第 1 部第 1 ...
- 引用原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 神の国は外に見えるかたちで来るのではない。神の国は、あなたがたの内にある
一次資料を開くAnarchist Library canonical 全文 (英訳: Constance Garnett)。Luke 17:21 タイトル / 巻頭への引用、...
つながり
- マハトマ・ガンディー
継承 — ガンジーは南アフリカ時代にトルストイ『神の国は汝らの内にあり』(1894)を読み「世界観を変えた三冊」の一つとして挙げる。1909-10年にトルストイと3回の書簡往復、トルストイはガンジー宛最晩年の長文書簡(1910年9月7日、死の2ヶ月前)で非暴力(ahimsa)と無抵抗(non-resistance)の哲学を肯定。ガンジーはヨハネスブルク近郊のコロニーを「トルストイ農場」(1910)と命名
- ショーペンハウアー
継承 — 1869年『戦争と平和』執筆期にショーペンハウアー『意志と表象としての世界』を読み、フェト宛書簡(1869年8月30日)で「ショーペンハウアーはいま私にとってもっとも偉大な思想家」と書く。『アンナ・カレーニナ』(1877)のレーヴィンの死への思索、後の『イワン・イリッチの死』(1886)『人生論』(1887)の救済論にはショーペンハウアー的な意志の否定の主題が響く
- フョードル・ドストエフスキー
対比 — ドストエフスキー(1821-81)とトルストイ(1828-1910)は帝政ロシア文学の二巨星。直接面会の記録はないがストラーホフら共通の知人を介して相互に読み合い、ドストエフスキー『作家の日記』でトルストイを評価し、トルストイは『復活』(1899)で『罪と罰』的な贖罪を別の角度から展開。ロシア正教の狂熱的煩悶と、農民主義的倫理の探求として後世対比される
さらに読むならFurther Reading
レフ・トルストイの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門イワン・イリイチの死
レフ・トルストイ / 訳: 米川正夫 / 岩波文庫
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レフ・トルストイ / 訳: 原久一郎 / 新潮文庫
Amazonでこの版を探す →原著 / 英訳The Death of Ivan Ilyich and Other Stories
Leo Tolstoy / 訳: Richard Pevear and Larissa Volokhonsky / Vintage Classics
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生きた跡を辿るPlaces
レフ・トルストイが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
レフ・トルストイを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「レフ・トルストイ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Leo Tolstoy"
Project GutenbergEnglishWar and Peace(Aylmer & Louise Maude 英訳)— Project Gutenberg
『戦争と平和』英訳
Project GutenbergEnglishAnna Karenina — Project Gutenberg
『アンナ・カレーニナ』英訳
Project GutenbergEnglishFather Sergius — Project Gutenberg
『神父セルギイ』英訳
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