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風土の知恵

ジェーン・オースティン

Jane Austen·1775–1817·イングランド·

愛とお金、 どちらで結婚を決める?

地方牧師館の小さな机から社会の全体を描いた英文学の大家

  • 高慢と偏見
  • エマ
  • 自由間接話法
革命と戦争の影の下、娘の一生は持参金と結婚相手で決まる時代 — ひらく

時代の空気

ジョージ朝末から摂政時代へ移る転換期だった。フランス革命とナポレオン戦争(一七九三-一八一五)の影で英国は内なる不安を抱え、海軍に入った兄フランクとチャールズが大西洋と地中海で艦上の任にあった。地方ジェントリは限嗣相続と婚資制度に縛られ、教会十分の一税が牧師家の暮らしを支えた。文壇ではウォルター・スコットの歴史小説が時代の画面を広げ、貸本屋と書評誌が読者層を厚くしていた。書簡体小説から自由間接話法への転換が、客間の日常から内面を引き上げる準備をしていた。

01一晩だけの婚約

1802年12月、ハンプシャーの冬。ジェーン・オースティンは、もうすぐ27歳になる。結婚はしていない。もない。その彼女に、求婚の申し出があった。

相手はハリス・ビッグ=ウィザー。仲の良い友人姉妹の弟で、地方の大きな地主の跡取りだった。彼と結婚すれば、暮らしの心配は消える。広い家の女主人にもなれる。当時の独身女性にとって、これ以上ない話だった。

ジェーンは一晩考えた。そして、承諾した。

ところが翌朝、彼女は婚約を取り消した。理由はひとつ。愛のない結婚は受け入れられない、というのだった。

だが、それだけでは分からないことが残る。なぜ一度は「はい」と言ったのか。なぜ一晩で気持ちが変わったのか。彼女はこの夜、何を天秤にかけ、何を捨てたのか。

答えは、彼女がのちに書く小説の中にある。だがその前に、時は27年前に戻る。

多額の財産をもつ独身男性は、妻を必要としているに違いない ― これは普遍的に認められた真理である

— 『高慢と偏見』の書き出し ― ジェーンが生きた世界の、表向きの決まりごと。まずは字義どおりに読んでほしい

02牧師館の五百冊

1775年12月16日、ジェーンはに生まれた。ハンプシャー州の小さな村である。父ジョージ・オースティンは英国国教会の牧師ぼくしだった。オックスフォード大学で学んだ神学者でもある。家の近くの畑を耕し、小さな寄宿学校も開いた。教会に納められる十分の一税じゅうぶんのいちぜい、土地の貸し賃、授業料。この三つで家計を立てていた。

母カサンドラ・リーは、由緒ある聖職者の家の出だった。機知に富む手紙や即興の詩を残している。ジェーンは8人兄弟の7番目で、娘としては二人目だった。姉カサンドラ(1773年生まれ)と、6人の兄がいた。

兄たちの道はさまざまだった。長兄ジェイムズは父と同じ神学の道へ進んだ。次兄ジョージは生涯、後見こうけんを必要とした。三兄エドワードは裕福な親戚ナイト家の養子ようしになった。四兄ヘンリーはのちにロンドンの銀行家ぎんこうかになる。そしてフランクとチャールズは海軍かいぐんに入り、のちに提督まで昇った。

家は質素だったが、愛情と学問に恵まれていた。父の書斎には500冊の本があった。父は娘たちに、それを自由に読ませた。シェイクスピア、スウィフト、フィールディング、リチャードソン。ジョンソン博士、クーパー、ポープ。夜には家族で芝居を上演し、即興の詩や寸劇を回し読みした。

当時、女子の正規の教育は限られていた。1783年、姉カサンドラと共にオックスフォードのコーリー夫人塾に送られた。続いてサウサンプトンへも短期間通った。だが両親が腸チフスに倒れ、連れ戻された。1785年から86年にかけては、バークシャーのレディング修道院学校レディングしゅうどういんがっこうに約一年半通った。それ以外は、父の書斎を頼った独学どくがくだった。

姉カサンドラとは、生涯独身を共にすることになる。手紙と会話で、考えを分かち合った。残された手紙のうち、カサンドラ宛は160通ほど現存する。他の兄弟宛のほとんどは、姉自身の手で焼かれたとされる。なぜ姉は焼いたのか。その話は、最後にもう一度出てくる。

10歳から14歳の頃、ジェーンはもう物語を書いていた。家族を笑わせるための、風刺的な短編である。「若い頃の作品(Juvenilia)」と呼ばれるこれらの文章には、後の鋭い観察力と諧謔かいぎゃく(ユーモア)の種がすべてある。牧師館の娘は、いつ「作家」になろうとしたのか。

03二十歳の恋と、返された原稿

1795年、ジェーンは『エリナーとマリアンヌ』を書き始めた。手紙のやりとりで進む、書簡体の小説である。後に『』となる原型だった。翌1796年から97年には『第一印象』を仕上げる。これが後の『』である。

同じ頃、恋があった。1795年から96年にかけて、20歳のジェーンはと出会う。アイルランド人の若者だった。二人は恋に落ちた。しかしルフロイの家族は反対した。理由は、ジェーンに持参金がないことだった。彼は間もなく去った。後に大物の法律家となり、アイルランド最高裁長官まで昇る。ジェーンはこの失恋を、姉カサンドラ宛の書簡しょかんで軽やかに描いた。だが多くの伝記作家は、この経験が深い痕跡を残したと推測している。

1797年、父ジョージが動いた。『第一印象』の写本を、推薦の手紙と一緒にロンドンの出版業者カデル(Cadell)に送ったのである。娘に代わっての売り込みだった。返事は早かった。原稿に目を通すこともなく、そのまま返送された。名を伏せた独身どくしん女性の長編小説に、商売の見込みなし。それが判断だった。

それでも書いた。1798年から99年には『スーザン』を書いた。後の『』である。1803年、これは出版社クロスビーに10ポンドで売れた。だが刊行されないまま、長く眠ることになる。

持参金がないから恋は去り、無名の女性だから原稿は読まれない。20代のジェーンは、この二つの壁を知った。そして1801年、暮らしそのものが変わる。

04バースの沈黙

1801年、父が引退した。一家は温泉の町バースへ移る。ジェーンはバースとサウサンプトンで、8年を過ごした。この間、彼女はほとんど書かなかった。発表もしなかった。都市は合わなかった。

あの冬の求婚は、この8年の途中の出来事だった。一晩の「はい」と、翌朝の取り消し。その後も、沈黙の日々は続いた。

1805年1月、父がバースで急死した。残されたのは母、姉、ジェーンの三人の女性である。三人は親族の援助に頼って暮らすことになった。結婚を断った女に、自分の収入はない。この暮らしは、いつまで続くのか。

05軋むドアの音

1809年、転機が来た。兄エドワードが、ハンプシャー州チョートンの小さな家を母と姉妹に提供したのである。エドワードは裕福な親戚ナイト家の養子となり、遺産を継いでいた。こので、ジェーンの最も実り多い年月が始まる。

彼女は居間の小さな丸テーブルで書いた。ドアの蝶番ちょうつがいには、わざと油を差さなかった。軋む音で、誰かが近づくのが分かる。その隙に、書いたものを隠すためだった。奉公人にも、下宿客にも、訪問客にも、ジェーンが「文筆家」であることは秘密だった。家事と刺繍と朝の散歩の合間に、彼女は小さな紙切れに文字を埋めた。

成果は一気に出た。『分別と多感』(1811年)は「A Lady」という匿名で出た。『高慢と偏見』(1813年)は『第一印象』を書き直したものである。『』(1814年)、『』(1815年)。四作を5年で刊行した。

『エマ』には小さな事件がある。摂政皇太子こうたいしジョージがジェーンの愛読者だと、司書クラークが知らせてきた。「殿下に献呈けんていしてはいかがか」という打診である。ジェーンは皇太子の素行を快く思っていなかった。それでも渋々応じた。

生前、彼女の名は小説の表紙に現れなかった。だがロンドンの文壇と読書界は、徐々に著者を知っていく。サー・ウォルター・スコットは、当時の文壇で最高の作家だった。彼は『エマ』の書評しょひょうを1815年の Quarterly Review に匿名で寄せた。「日々の出来事や人物や情感を、平凡な人生のありふれた水準で正確に描き出す才能」を認めたのである。同時代の最高の文壇人による、最初の本格的な評価だった。

「平凡な人生のありふれた水準」。スコットが褒めたそのことこそ、ジェーンが客間の中で発明した新しさだった。何が新しかったのか。

06客間の中の発明 ― 自由間接話法と、愛と経済

1813年刊行の『高慢と偏見』は、20年近く前に『第一印象(First Impressions)』という題で書かれた草稿を大幅に改稿したものだった。ベネット家の五姉妹の婚活物語 ― と一行で要約できるこの小説は、実のところ英語文学の形式を書き換える仕事だった。

核心は(free indirect discourse / style indirect libre)の使いこなしだった。語り手の客観的描写と登場人物の内面思考を、三人称のまま不意に重ね合わせる手法。「ダーシー氏は彼女を見下していた。なんと高慢な男だろう!」 ― 後半がエリザベスの内心なのか語り手の断定なのか、文法上は区別できない。読者はエリザベスの視点にいつの間にか入り込んでしまう。

この技法はオースティン以前にも萌芽はあったが、彼女は六作すべてに通底する主調として成熟させた。以後のフローベール、ジェイムズ、ジョイス、ウルフ、現代小説の三人称の内面描写の多くは、オースティンの仕事の延長線上にある。

また、ダーシーとエリザベスの「高慢」と「偏見」が相互に転倒する構成は、道徳的判断の危うさを階級の日常の中で見せる。その微細なアイロニーこそ、彼女の倫理学だった。

多額の財産を持つ独身男性は、妻を必要としているに違いない ― これは普遍的に認められた真理である。

— 同じ一文を、もう一度 ― 『高慢と偏見』冒頭。初読では世間の常識、再読では皮肉に変わる

オースティンの六作は、どれも結婚を軸にすえる。しかしそれはロマンス小説ではない。登場人物の多くは持参金・遺産・(entail)を含む相続順位・年収の具体的数字に縛られている ― ミスター・ダーシーの年収一万ポンド(当時の貴族的富裕層)、ベネット夫人が焦る「五人の娘をどう嫁に出すか」の切実さ、エマの「自分には持参金が多いから結婚せずに済む」という贅沢。

オースティンは、女性が経済的自立を持たない時代に、結婚が女性の唯一の経済戦略であることを冷徹に直視した。だがそれを嘆くだけでなく、登場人物たちに愛と経済を同時に計算させながら、道徳的判断を下させた。シャーロット・ルーカスは愛なきコリンズとの結婚を選ぶ ― 結婚は生活の手段なのだと彼女は冷静に語る。エリザベスはその選択を理解しつつも、違う道を取る。

リディアの軽率な駆け落ち、メアリアンの情熱に身を任せる失敗、マンスフィールドの安定の揺らぎ ― オースティンはロマン派の激情にも、功利的計算にも冷笑を向け、「分別と愛情の両方」を保つ難しさを描き続けた。

07二十七歳のアン

1816年頃から、ジェーンは体の不調を覚え始めた。疲労、背中の痛み、肌の変色。当時は診断名がなかった。近代の医師はアディソン病(副腎の働きが落ちる病気)と推測する。近年はホジキン・リンパ腫や結核けっかく性の病気も議論されている。

病身の中で、彼女は『』(Persuasion)を書いた。主人公アン・エリオットは27歳。かつて周囲の説得で、恋人ウェントワース大佐を諦めた女性である。8年後、二人は再会する。中年の女性の悔いと、静かな希望。この小説は、他のオースティン作品より深い悲しみと柔らかさを帯びている。

27歳。ジェーンが一晩だけの婚約をしたのも、27歳になる冬だった。ただし向きは逆である。アンは愛を諦めて後悔した。ジェーンは安全を断り、愛のない結婚を拒んだ。自分の選んだ道を、彼女はどう見ていたのか。それは書かれていない。だが物語の中で、アンはもう一度選び直す。

『ノーサンガー・アビー』(若い頃のゴシック小説パロディ)と『説得』は、死後の1818年、兄ヘンリーが著者名を明かして刊行した。

1817年5月、ジェーンはウィンチェスターの医師の治療を受けるため、姉カサンドラと下宿に移った。7月18日午前4時半、カサンドラに抱かれるようにして息を引き取った。41歳。遺言は短く、わずかな遺産を姉と母に残した。ウィンチェスター大聖堂の北身廊に葬られた。墓碑には「娘としての愛情深さ、気質の優しさ」は刻まれた。だが作家としての業績は記されなかった。国民的作家として見直されるのは、19世紀後半以降のことである。

死後しばらくして、姉カサンドラは妹の手紙の大半を炉に投じた。残せば家族や親しい人を傷つけかねない、辛口の人物評や私事への言及がある。それが理由だったとされる。残された160通ほどの手紙は、姉の選別を経て届いた静かな声である。沈黙させられたものの量を思いつつ、いま読める範囲のジェーンを聴くしかない。

あの朝、婚約を取り消した27歳を目前にした女性は、何を守ったのか。手紙は焼かれ、本人の説明は残っていない。残っているのは六つの小説だけである。では、あなたなら。暮らしの安全と、愛のない毎日。その二つを、一晩で天秤にかけられるだろうか。

08主要な出来事と著作

  1. 12月16日、ハンプシャー州スティーヴントン牧師館に誕生。8人兄弟の7番目
  2. 姉カサンドラとレディング修道院学校に通う。以後は父の書斎で独学
  3. 少女期の短編群(Juvenilia)執筆
  4. 『エリナーとマリアンヌ』(後の『分別と多感』の原型)執筆開始
  5. トム・ルフロイとの短い恋
  6. 『第一印象』(後の『高慢と偏見』)執筆
  7. 父が出版業者カデルに『第一印象』を売り込むが即座に却下
  8. 『スーザン』(後の『ノーサンガー・アビー』)執筆
  9. 父の引退、一家でバースへ移住
  10. 12月、ハリス・ビッグ=ウィザーの求婚を一晩で撤回
  11. 『スーザン』を出版社クロスビーに10ポンドで売却(刊行されず)
  12. 父ジョージ死去、家族は親戚の援助で暮らす
  13. 兄エドワードの提供でチョートン・コテージに移住、執筆再開
  14. 『分別と多感』匿名刊行(A Lady名義)
  15. 『高慢と偏見』刊行
  16. 『マンスフィールド・パーク』刊行
  17. 『エマ』刊行、摂政皇太子に献呈。スコットが Quarterly Review に書評
  18. 体調悪化が顕著に。『説得』『サンディトン』(未完)を執筆
  19. 5月ウィンチェスターへ転居。7月18日死去、享年41。大聖堂北身廊に埋葬
  20. 兄ヘンリーにより『ノーサンガー・アビー』『説得』が名前入りで遺作刊行

残した思想の輪郭

  • 自由間接話法の成熟 ― 三人称の語りに登場人物の内面を不意に重ねる手法の洗練
  • 愛と経済の同時計算 ― 結婚を感情と生活手段の交差点として直視する倫理
  • 皮肉という道徳 ― 優越でも拒絶でもなく、世界を見つめ続けるための距離としての諧謔
  • ジェントリ階級の内側からの観察 ― 小さな家庭と舞踏会から社会全体の論理を引き出す
  • 「二度読み」の構造 ― 初読で印象を作り、再読で偏見を修正させる人物造形の設計
1817年7月18日、ウィンチェスターの下宿で死去。41歳。姉カサンドラに看取られ、アディソン病と推測される長い衰弱の末だった。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

ジェーン・オースティンの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

ジェーン・オースティンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ジェイン・オースティンズ・ハウス記念館

    チョートン(ハンプシャー), イギリス

    1809-1817年に住んだコテージ。『高慢と偏見』『エマ』など6編を執筆・改稿した現場

  • ウィンチェスター大聖堂墓所

    ウィンチェスター, イギリス

    1817年死去、大聖堂北側廊の黒い石碑に眠る。後に作家としての功績を刻んだ銘板が隣に加えられた

さらに辿るならExternal References

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