ジェーン・オースティン
愛と経済は、 どう交差するのか?
地方牧師館の小さな机から社会の全体を描いた英文学の大家
- 高慢と偏見
- エマ
- 自由間接話法
時代の空気
ジョージ朝末から摂政時代へ移る転換期だった。フランス革命とナポレオン戦争(一七九三-一八一五)の影で英国は内なる不安を抱え、海軍に入った兄フランクとチャールズが大西洋と地中海で艦上の任にあった。地方ジェントリは限嗣相続と婚資制度に縛られ、教会十分の一税が牧師家の暮らしを支えた。文壇ではウォルター・スコットの歴史小説が時代の画面を広げ、貸本屋と書評誌が読者層を厚くしていた。書簡体小説から自由間接話法への転換が、客間の日常から内面を引き上げる準備をしていた。
01スティーヴントンの牧師館
1775年12月16日、ハンプシャー州スティーヴントンの牧師館に生まれた。父ジョージ・オースティンは英国国教会の牧師で、オックスフォード大学卒の神学者にして近郊の農地を耕し小さな寄宿学校を営む実務家、教会十分の一税と地代と授業料の三つで家計を立てていた。母カサンドラ・リーは由緒ある聖職者の家系の出で、機知に富む書簡や即興詩を残した。ジェーンは8人兄弟の7番目(娘としては二人目)で、姉カサンドラ(1773生まれ)と兄6人 ── 神学を継いだ長兄ジェイムズ、生涯後見の必要だった次兄ジョージ、裕福な親戚ナイト家の養子となった三兄エドワード、ロンドンの銀行家となる四兄ヘンリー、そして海軍に入り後に提督まで昇るフランクとチャールズ ── に囲まれて育った。
家族は質素だったが、愛情と学問に恵まれていた。父の書斎には500冊の本があり、父は娘たちに本を自由に読ませた。シェイクスピア、スウィフト、フィールディング、リチャードソン、ジョンソン博士、クーパー、ポープ。夜には家族で戯曲を上演し、即興の詩や寸劇を回し読みした。女子の正規教育は限られていた時代である ── 1783年に姉カサンドラと共にオックスフォードのコーリー夫人塾、続いてサウサンプトンへ短期に送られたが、両親が腸チフスに倒れて連れ戻された。1785年から86年にかけてはバークシャーのレディング修道院学校に約一年半通い、それ以外は父の書斎を頼った独学だった。姉カサンドラとは生涯独身を共にし、書簡と会話で思考を共有した ── 残された手紙のうちカサンドラ宛のものが160通ほど現存し、他の兄弟宛のほとんどは姉自身の手で焼却されたとされる。
10-14歳頃、ジェーンは既に家族の娯楽として風刺的短編を書き始めた。「若い頃の作品(Juvenilia)」と呼ばれるこれらの文章には、後の彼女の鋭い観察力と諧謔のすべての種がある。
02愛と、叶わなかった結婚
1795年、ジェーンは書簡体形式の『エリナーとマリアンヌ』(後の『』の原型)を書き始め、翌1796-97年には『第一印象』(後の『』)を仕上げた。1797年、父ジョージはこの『第一印象』の写本を娘に代わってロンドンの出版業者カデル(Cadell)に推薦の手紙とともに送ったが、原稿に目を通すこともなく即座に返送された ── 匿名の独身女性からの長編小説に商業的見込みなしという判断だった。1798-99年には『スーザン』(後の『』)が書かれ、1803年にこれは出版社クロスビーに10ポンドで売却されたものの、刊行されないまま長く塩漬けになる。
1795-1796年、20歳のジェーンはアイルランド人の若者トム・ルフロイと恋に落ちた。しかしルフロイの家族はジェーンに持参金がないことを理由に反対し、彼は間もなく去った(後に大物法律家としてアイルランド最高裁長官に)。ジェーンはこの失恋を姉カサンドラ宛ての書簡で軽快に描いたが、この経験は深い痕跡を残したと多くの伝記作家は推測する。
1802年12月、ハンプシャーの友人姉妹の弟、地方の大地主の跡取りハリス・ビッグ=ウィザーから求婚された。経済的安全と広い家の女主人の地位 ── 27歳の独身女性にとって魅力的な話だった。ジェーンは一晩考え、承諾した。しかし翌朝、彼女は婚約を撤回した。愛なき結婚は受け入れられない、というのが彼女の選択だった。
1801年、父が引退しバースに移住。ジェーンはバースとサウサンプトンで8年間過ごした。この時期、彼女はほとんど執筆しなかった(発表もしなかった)。都市は合わなかった。父は1805年1月にバースで急死した。残された母、姉、ジェーンの三女性は親族の援助に頼って暮らすことになる。
03チョートン ― 執筆の花開き
1809年、兄エドワードがハンプシャー州チョートンの小さな家を母と姉妹に提供した(エドワードは裕福な親戚ナイト家の養子となり遺産相続)。この「」で、ジェーンの最も生産的な年月が始まった。
彼女は居間の小さな丸テーブルで書いた。ドアの蝶番が軋むようにわざと油を差さなかった ― 誰かが近づく音で、書いたものを隠すためだった。奉公人、下宿客、訪問客にはジェーンが「文筆家」であることは秘密だった。家事と刺繍と朝の散歩の合間に、彼女は小さな紙切れに文字を埋めた。
『分別と多感』(1811、匿名「A Lady」名義)、『高慢と偏見』(1813、『第一印象』を改稿)、『』(1814)、『』(1815) ── 四作を5年で刊行した。『エマ』は摂政皇太子ジョージの愛読を知った司書クラークから「殿下に献呈してはいかがか」と打診され、皇太子の素行を快く思っていなかったジェーンが渋々応じた経緯を持つ。生前、彼女の名は小説の表紙に現れなかったが、ロンドンの文壇と読書界は徐々に著者を認識していった。サー・ウォルター・スコットは『エマ』の書評を1815年の Quarterly Review に匿名で寄せ、「日々の出来事や人物や情感を、平凡な人生のありふれた水準で正確に描き出す才能」を認めた ── 同時代の最高の文壇人による、最初の本格的な評価だった。
04『高慢と偏見』 ― 自由間接話法の成熟
1813年刊行の『高慢と偏見』は、20年近く前に『第一印象(First Impressions)』という題で書かれた草稿を大幅に改稿したものだった。ベネット家の五姉妹の婚活物語 ― と一行で要約できるこの小説は、実のところ英語文学の形式を書き換える仕事だった。
核心は(free indirect discourse / style indirect libre)の使いこなしだった。語り手の客観的描写と登場人物の内面思考を、三人称のまま不意に重ね合わせる手法。「ダーシー氏は彼女を見下していた。なんと高慢な男だろう!」 ― 後半がエリザベスの内心なのか語り手の断定なのか、文法上は区別できない。読者はエリザベスの視点にいつの間にか入り込んでしまう。
この技法はオースティン以前にも萌芽はあったが、彼女は六作すべてに通底する主調として成熟させた。以後のフローベール、ジェイムズ、ジョイス、ウルフ、現代小説の三人称の内面描写の多くは、オースティンの仕事の延長線上にある。
また、ダーシーとエリザベスの「高慢」と「偏見」が相互に転倒する構成は、道徳的判断の危うさをジェントリ階級の日常の中で見せる。その微細なアイロニーこそ、彼女の倫理学だった。
多額の財産を持つ独身男性は、妻を必要としているに違いない ― これは普遍的に認められた真理である。
05愛と経済の交差
オースティンの六作は、どれも結婚を軸にすえる。しかしそれはロマンス小説ではない。登場人物の多くは持参金・遺産・相続順位・年収の具体的数字に縛られている ― ミスター・ダーシーの年収一万ポンド(当時の貴族的富裕層)、ベネット夫人が焦る「五人の娘をどう嫁に出すか」の切実さ、エマの「自分には持参金が多いから結婚せずに済む」という贅沢。
オースティンは、女性が経済的自立を持たない時代に、結婚が女性の唯一の経済戦略であることを冷徹に直視した。だがそれを嘆くだけでなく、登場人物たちに愛と経済を同時に計算させながら、道徳的判断を下させた。シャーロット・ルーカスは愛なきコリンズとの結婚を選ぶ ― 結婚は生活の手段なのだと彼女は冷静に語る。エリザベスはその選択を理解しつつも、違う道を取る。
リディアの軽率な駆け落ち、メアリアンの情熱に身を任せる失敗、マンスフィールドの安定の揺らぎ ― オースティンはロマン派の激情にも、功利的計算にも冷笑を向け、「分別と愛情の両方」を保つ難しさを描き続けた。
06晩年の病、『説得』
1816年頃から、ジェーンは体の不調を覚え始めた。疲労、背中の痛み、肌の変色。近代の医師の推測ではアディソン病(副腎機能不全)か、近年はホジキン・リンパ腫、結核性疾患などが議論されている。当時は診断名がなかった。
病身の中で彼女は『』(Persuasion)を書いた。27歳のアン・エリオットが、かつて周囲の説得で諦めた恋人ウェントワース大佐と、8年後に再会する ― 中年の女性の悔悟と静かな希望を描いたこの小説は、他のオースティン作品より深い悲しみと柔らかさを帯びている。『ノーザンガー・アビー』(若い頃のゴシック小説パロディ)と共に、死後1818年に兄ヘンリーが著者名を明かして刊行した。
1817年5月、ジェーンはウィンチェスターの医師の治療を受けるために姉カサンドラと下宿に移った。7月18日午前4時半、カサンドラに抱かれるようにして息を引き取った。41歳。遺言は短く、わずかな遺産を姉と母に残した。ウィンチェスター大聖堂の北身廊に埋葬された。墓碑には「娘としての愛情深さ、気質の優しさ」は刻まれたが、作家としての業績は記されなかった。国民的作家として再評価されるのは19世紀後半以降のことである。
死後しばらくして、姉カサンドラは妹の書簡の大半を炉に投じた ── 残せば家族や親しい人を傷つけかねない辛口の人物評や私事への言及がある、というのが理由だったとされる。残された160通ほどの手紙は、その姉の選別を経て届いた静かな声である。沈黙させられたものの量を思いつつ、いま読める範囲のジェーンを聴くしかない。
07主要な出来事と著作
- 12月16日、ハンプシャー州スティーヴントン牧師館に誕生。8人兄弟の7番目
- 姉カサンドラとレディング修道院学校に通う。以後は父の書斎で独学
- 少女期の短編群(Juvenilia)執筆
- 『エリナーとマリアンヌ』(後の『分別と多感』の原型)執筆開始
- トム・ルフロイとの短い恋
- 『第一印象』(後の『高慢と偏見』)執筆
- 父が出版業者カデルに『第一印象』を売り込むが即座に却下
- 『スーザン』(後の『ノーサンガー・アビー』)執筆
- 父の引退、一家でバースへ移住
- 12月、ハリス・ビッグ=ウィザーの求婚を一晩で撤回
- 『スーザン』を出版社クロスビーに10ポンドで売却(刊行されず)
- 父ジョージ死去、家族は親戚の援助で暮らす
- 兄エドワードの提供でチョートン・コテージに移住、執筆再開
- 『分別と多感』匿名刊行(A Lady名義)
- 『高慢と偏見』刊行
- 『マンスフィールド・パーク』刊行
- 『エマ』刊行、摂政皇太子に献呈。スコットが Quarterly Review に書評
- 体調悪化が顕著に。『説得』『サンディトン』(未完)を執筆
- 5月ウィンチェスターへ転居。7月18日死去、享年41。大聖堂北身廊に埋葬
- 兄ヘンリーにより『ノーサンガー・アビー』『説得』が名前入りで遺作刊行
残した思想の輪郭
- 自由間接話法の成熟 ― 三人称の語りに登場人物の内面を不意に重ねる手法の洗練
- 愛と経済の同時計算 ― 結婚を感情と生活手段の交差点として直視する倫理
- 皮肉という道徳 ― 優越でも拒絶でもなく、世界を見つめ続けるための距離としての諧謔
- ジェントリ階級の内側からの観察 ― 小さな家庭と舞踏会から社会全体の論理を引き出す
- 「二度読み」の構造 ― 初読で印象を作り、再読で偏見を修正させる人物造形の設計
出典と確認メモ
6件- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1813年匿名刊の『高慢と偏見』、その第一章第一文。ハンプシャー州チョートンの小さな丸テーブルで、女性に経済的自立の道が閉ざされた時代を前に、オースティンは「普遍的に認められた真理」という大仰な構文の...
一次資料を開くNLS 蔵 P&P 1813年初版第1巻第1ページのデジタル画像。第1章第1文の primary 確認
- 文脈原典で確認済み要旨訳
要旨訳: austen-1.context: 1813 年匿名刊『高慢と偏見 (Pride and Prejudice)』第一章第一文の文脈解説。ハンプシャー州チョートン (Chawton) の小さな丸テーブル...
- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1813 年匿名刊の『高慢と偏見』第一章第一文の文脈解説。ハンプシャー州チョートンの小さな丸テーブルで、女性に経済的自立の道が閉ざされた時代を前に、Austen は「普遍的に認められた真理」という大仰...
- 引用二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 世界の半分は、もう半分の楽しみを理解できない。出典は『エマ』第1巻第9章、HartfieldでMr. Woodhouseが孫たちの遊びを訝しみ、Emmaが応じる場面。Box Hill文脈ではない。
一次資料を開くWikiquote Emma entry。'One half of the world cannot understand the pleasures of t...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 多額の財産をもつ独身男性は、妻を必要としているに違いない ― これは普遍的に認められた真理である
一次資料を開くChapter I 第1文: 'It is a truth universally acknowledged, that a single man in pos...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: austen-1.source 表記『『高慢と偏見(Pride and Prejudice)』第1章冒頭(1813年刊、原型『第一印象』は1796-97年)』は完全に正確。Jane Austen が ...
つながり
- ウルストンクラフト
同時代 — ウルストンクラフト『女性の権利の擁護』(1792)とオースティンの作家活動期(1795頃-1817)は世代として連続するが、オースティンは自身の書簡や小説でウルストンクラフトを直接引用していない。ただし『マンスフィールド・パーク』(1814)のメアリー・クロフォード批判や『説得』(1818)のアン・エリオットの自立志向は、ウルストンクラフトが提起した女性教育・経済的独立の論題と暗黙に共鳴する。直接継承ではなく摂政期英国の女性思考の同時代的並走として位置づける
- ヴァージニア・ウルフ
継承 — ウルフ『自分ひとりの部屋』(1929)第4章でオースティンを「妨げのない手で書いた最初の女性作家」と評価し、自由間接話法の達成を意識の流れの先駆として論じた。『普通の読者』(1925)所収の「ジェイン・オースティン」論でも、客間の沈黙のなかに社会の総体を写し取る技法を自身のモダニズム手法の系譜上に置く。直接的な文体継承ではないが、女性作家史と内面描写の方法論の双方で系譜を引き取った
さらに読むならFurther Reading
ジェーン・オースティンの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門高慢と偏見(新装版)
ジェイン・オースティン / 訳: 阿部知二 / 河出文庫
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生きた跡を辿るPlaces
ジェーン・オースティンが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ジェイン・オースティンズ・ハウス記念館
チョートン(ハンプシャー), イギリス
1809-1817年に住んだコテージ。『高慢と偏見』『エマ』など6編を執筆・改稿した現場
- ウィンチェスター大聖堂墓所
ウィンチェスター, イギリス
1817年死去、大聖堂北側廊の黒い石碑に眠る。後に作家としての功績を刻んだ銘板が隣に加えられた
さらに辿るならExternal References
ジェーン・オースティンを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ジェイン・オースティン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Jane Austen"
Project GutenbergEnglishPride and Prejudice(1813)— Project Gutenberg
『高慢と偏見』原著
Project GutenbergEnglishEmma(1815)— Project Gutenberg
『エマ』原著
Project GutenbergEnglishLady Susan(1871)— Project Gutenberg
書簡体中篇『レディ・スーザン』原著
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