本文へスキップ
φPhiloGlyph
K

カレン・ホーナイ

Karen Horney·1885–1952·ドイツ/アメリカ·

自分を苦しめているのは、生まれつきのものだろうか。 それとも、まわりの人と社会が作ったものだろうか?

フロイト派を批判し、神経症を文化と対人関係から理解し直した精神分析家

  • 神経症
  • 女性心理学
  • 自己実現
女性が医学を学べるようになった直後の世代。師フロイトの説に、弟子の側から異を唱えた — ひらく

時代の空気

ヴィルヘルム期ドイツ・ハンブルクの市民層家庭。1900年前後、プロイセンで女性医学教育が解禁され、フライブルク・ベルリン大学に最初期の女子医学生世代が現れる。1920年、カール・アブラハム創設のベルリン精神分析研究所がフロイト派の主要訓練機関として稼働、ヴァイマル期の女性主義運動と都市文化が交錯する。1932年フランツ・アレクサンダーの招請でシカゴ精神分析研究所へ、ナチ台頭で米国永住、1934年ニューヨーク移住。亡命知識人が集うニュー・スクールでフロムらと交わり、1941年正統派フロイト派から追放、戦後フェミニスト的再評価を先取る。

01追われた日に、学校を作った

1941年、ニューヨーク。(心の奥を探る治療法)の協会が、ひとつの決定を下した。カレン・ホーナイは「理論的に正統派ではない」。だから、教育分析家の資格を取り上げる。実質的な追放だった。

ホーナイは55歳。20年以上、この世界の中心で働いてきた人だった。ふつうなら、打ちのめされて黙るところだろう。

ところが彼女は、その同じ日に動いた。同志の分析家たち――、、エーリヒ・フロムらと話し合った。そしてという、新しい学校を立ち上げたのである。

なぜ、仲間から追い出された日に、新しい仲間の家を建てられたのか。なぜ、師フロイトの教えから、そこまで離れてしまったのか。答えは、彼女の生まれた家にまでさかのぼる。時は42年前、1899年のハンブルクに戻る。

02「女に勉強は不要」――船長の家の少女

1899年、ドイツの港町ハンブルク。ひとりの少女が、日記にこう書いた。「医学を学ぶ」。カレン・ダニエルセン、後のカレン・ホーナイである。

生まれたのは1885年9月16日、ハンブルク郊外のブランケネーゼ。父ベルントはノルウェー出身の船長で、信心深いルター派(プロテスタントの一派)だった。母クロティルデ(愛称ソニー)はオランダ系で、父より18歳も若かった。父は厳しく、母は自由で、教育を大切にした。

父と母の仲は、悪かった。父は母と娘に、心の圧力をかけ続けた。後年、カレンは日記にそう書いている。父は娘の学問を認めなかった。「女に勉強は不要」。父はそう繰り返した。

4歳上の兄ベルント・ジュニアは、後にルター派の牧師になる。幼いカレンは、この兄に愛と嫉妬を同時に向けた。この気持ちは、後年の仕事に深く流れ込むことになる。

母は、こっそり娘を支えた。女子に大学の門が開いてまもない1906年。カレンはフライブルク大学の医学部に入った。ドイツで最初期の女子医学生のひとりである。その後ゲッティンゲン大学を経て、ベルリン大学へ移った。

1909年、法学博士オスカー・ホーナイと結婚。1911年に長女ブリギッテ(のち女優)、1913年に次女マリアンネ(のち精神分析家)、1916年に三女レナーテが生まれた。1915年にはベルリン大学で医学の学位を得た。論文は、頭のけがと心の症状の関係を調べたものだった。医師になり、母になった。だが本当の学びは、まだ始まったばかりだった。

03ベルリン――師の教えに、ひびが入る

1910年から1913年にかけて、ホーナイはから個人分析を受けた。アブラハムは当時、ドイツで最高のフロイト派の分析家とされた人である。彼は早くからホーナイの頭のよさに驚き、分析家としての訓練に迎え入れた。

1920年、アブラハムやフランツ・アレクサンダーらと共に、ベルリン精神分析研究所を作った。フロイト派の主な訓練機関である。ホーナイはここで12年間、教え、分析し、書き続けた。

1923年、暗い時期が来た。兄ベルント・ジュニアが早くに亡くなり、夫オスカーの事業が破産した。ホーナイは深い抑うつ(気持ちが沈んで動けなくなる状態)に入る。1926年にはオスカーと別居し、1937年に正式に離婚した。

同じ時期に、彼女は三つの論文を書いた。『女性のマゾヒズムの問題』『女性のペニス羨望』『去勢コンプレックスの起源について』。どれも、フロイトの「ペニス羨望」理論に真っ向から向き合う仕事だった。フロイトは、女性の心の核心はそこにあると主張していた。

ホーナイの言い分はこうだ。フロイトが見た「女性が男性の体をうらやむ」現象。あれは生まれつきのものではない。男性が上に立つ社会で育った女性の、不満の形なのだ。逆に男性の側にも「(しきゅうせんぼう)」がある。子を産む力への、うらやみである。

フロイトは、この反論を無視した。後には「ホーナイ的修正主義」と切り捨てた。だが彼女のは、精神分析の内側でじわじわ広がった。1930年代には、クララ・トンプソンら女性の分析家たちの拠り所になっていく。師の教えに入ったひびは、もう戻らない。あとは、どこで裂けるかだった。

04アメリカへ――文化が人を作るのを見た

1932年、ホーナイはドイツを離れた。ナチスが力を伸ばし、経済は悪化し、夫との仲も冷えていた。フランツ・アレクサンダーに招かれ、シカゴ精神分析研究所の副所長になる。次女マリアンネはすでに医学を学んでおり、後に母の道を継ぐ。

シカゴでの出会いが、彼女を変えた。文化人類学者(世界の暮らしと考え方を比べる学者)のや、マーガレット・ミードである。文化が違えば、人の性格の育ち方も違う。それを目の前で見たことが、理論の大きな転回点になった。

1934年、ニューヨークへ。亡命した知識人が集まるニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで講義を始めた。ここで出会ったのが、の周辺から亡命してきた若い分析家、エーリヒ・フロムである。

フロムは当時、分析家フリーダ・フロム=ライヒマンと結婚していたが、すでに別居していた。ホーナイとフロムは数年間、分析の関係と恋愛の関係を同時に生きた。と呼ばれる理論は、二人の濃い対話の中で形を取った。それが新フロイト派の核になる。1943年ごろの決裂は学界に波紋を呼んだが、二人は別の道を歩みながら、同じ系譜に並び立った。

1937年、『』を出した。神経症を「人間なら誰もが持つ内側の構造」とは見ない。特定の時代と文化が生む、典型的な歪みとして見る。続く1939年の『』は、フロイトの論、、死の欲動を順に検討し直し、別の理論を示した。この本が、精神分析の世界に決定的な裂け目を作った。1941年は、もう目の前だった。

051941年、ふたたび――独立の学派

こうして、あの日に戻る。1941年、ニューヨーク精神分析協会はホーナイの資格を取り上げた。だが彼女は、ひとりではなかった。ベルリン以来のペニス羨望批判、シカゴで見た文化の力、ニューヨークでのフロムとの対話。これらが、すでに仲間を集めていた。

同じ日、ホーナイはクララ・トンプソン、ハリー・スタック・サリヴァン、フロムらと協議し、アメリカ精神分析研究所を作った。研究所は『アメリカン・ジャーナル・オブ・サイコアナリシス』という雑誌を出し、正統派とは別の教育と訓練の場になった。新フロイト派の組織的な拠点である。フロム、サリヴァン、トンプソンは後にそれぞれ自分の道へ分かれたが、ホーナイはこの研究所の中心に留まり続けた。

1942年、『』を書いた。患者が自分を観察し、記録する方法を説いた本で、精神分析の個人的な実践書の古典になった。1945年には『』で、自分の人格理論をまとめた。人には三つの基本傾向がある。他者に近づく(服従的)、他者に逆らう(攻撃的)、他者から離れる(退避的)。どれか一つに偏って固まったとき、神経症的な葛藤(かっとう)が生まれる、と論じた。

人は、なるべき自分ではなく、なろうと強いられている自分に苦しむ。

— 『私たちの内なる葛藤』(1945) ― 協会から追われた4年後、独立した研究所で書いた言葉

06『神経症と人間の成長』――自己実現という概念

1950年、ホーナイの主著『』(Neurosis and Human Growth)刊行。副題は「自己実現をめぐる闘争」(The Struggle Toward Self-Realization)。

核心概念は「本当の自己(real self)」と「理想化された自己(idealized self)」の対比である。すべての人間は、自己の潜在的な可能性を伸長させる方向へと自然に向かう「本当の自己」の動きを持つ。しかし幼少期の「」――無力な子どもが敵意を感じる世界で、孤独に置かれる恐怖――に対応して、人は「理想化された自己」を作り上げる。完璧で、絶対的で、他人を支配できる自分。神経症的人格はこの理想像と、現実に生きている自己との間の裂け目に、永続的な苦しみを抱え込む。

治療の目的は、ペニス羨望の解消でも欲動の昇華でもない。本当の自己を回復し、成長の動きを再開させることである。この図式は、カール・ロジャーズの人間性心理学に直接の影響を与え、「自己実現(self-actualization)」という語彙を20世紀後半の心理学と社会思想に送り出した。

07禅と、早すぎる死

1950年代のはじめ、ホーナイは鈴木大拙(すずき・だいせつ、禅を世界に伝えた仏教学者)の講義を聞いた。禅の考え方に、深い関心を持った。1952年の夏、彼女は鈴木とともに日本を旅した。京都と鎌倉を、二ヶ月かけて回った。円覚寺や大徳寺を訪ね、禅の「無我」が自分の「本当の自己」と通じるかどうかを探った。

帰国したホーナイは、新しい本を構想していた。しかし時間は残されていなかった。1952年12月4日、ニューヨーク市で胆嚢癌たんのうがんにより死去。67歳だった。病気が分かってから死まで、わずか数ヶ月。最後まで研究所の教育と臨床を続けた。遺稿の一部は『ニューヨーク精神分析講義』(1987)として死後に出版された。

人は、なるべき自分ではなく、なろうと強いられている自分に苦しむ

— 『私たちの内なる葛藤』(1945) ― 死の7年前、読者に向けて残した言葉

08いま、残るもの

精神分析の内側では、ホーナイの影響は限られた形で残った。だが一般の読者のあいだでは、20世紀後半から現代まで広く読まれ続けている。自助の本、カウンセリングの心理学、文化の心理学、フェミニズムの精神分析。そのすべての領域に、彼女の名は生きている。

追われた日に学校を作った人は、「なろうと強いられている自分」ではなく、「なるべき自分」の側に立った。では、あなたを今日動かしているのは、どちらの自分だろうか。

09主要な出来事と残した思索の輪郭

  1. 9月16日、ハンブルクで誕生、船長の娘
  2. フライブルク大学医学部入学、最初期の女子学生世代
  3. 法学博士オスカー・ホーナイと結婚
  4. カール・アブラハムから個人分析を受ける
  5. ベルリン大学医学博士号取得
  6. ベルリン精神分析研究所創設メンバー
  7. フロイトのペニス羨望論を批判する女性心理学論文群
  8. アメリカに移住、シカゴ精神分析研究所副所長
  9. ニューヨーク移住、ニュー・スクールで講義、フロムと出会う
  10. 『現代の神経症的人格』刊行
  11. 『精神分析の新しい道』刊行
  12. ニューヨーク精神分析協会から追放、アメリカ精神分析研究所を創設
  13. 『私たちの内なる葛藤』で三つの基本傾向を論じる
  14. 主著『神経症と人間の成長』刊行
  15. 鈴木大拙と日本旅行、12月4日、胆嚢癌により死去、67歳

残した思索の輪郭

  • フロイトのペニス羨望批判 ― 生物学的決定論から文化的構造の分析へ
  • 神経症の文化的理解 ― 時代と社会が生む典型的な人格の歪みとして捉える
  • ― 二重の自己像の裂け目としての神経症
  • 三つの基本傾向 ― 他者へ近づく・逆らう・離れる、その偏りとしての病理
  • 自己実現の概念 ― 人間性心理学への出発点、禅への関心に至る探究
1952年12月4日、ニューヨーク市で胆嚢癌により死去、67歳。死の直前まで精神分析協会の指導を続けた。

つながり

全体のつながりを見る →

さらに読むならFurther Reading

カレン・ホーナイの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

  • 入門ホーナイ全集 第6巻 神経症と人間の成長

    カレン・ホーナイ / 訳: 榎本譲、丹治竜郎 / 誠信書房

    Amazonでこの版を探す →

※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。

さらに辿るならExternal References

カレン・ホーナイを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。