ルー・アンドレアス=ザロメ
三人の巨大な男(ニーチェ、リルケ、フロイト)が 同じ一人の女性に決定的な刻印を受けたとき、そこに何が起きていたのか?
ニーチェ、リルケ、フロイトと深く交わり、最初の体系的ニーチェ論と独自の心理学的著述を残した越境的知識人
- ニーチェ論
- リルケ
- 精神分析
時代の空気
19世紀末のロシア帝国首都サンクトペテルブルク、ドイツ系将軍家に生まれ、女性高等教育が解禁されたばかりのチューリヒへ留学した。1882年ローマでパウル・レーとニーチェに出会い、知的共同生活「三位一体」を構想したのち、1887年にオリエント学者カール・アンドレアスと形式婚を結んだ。1890年代ベルリン文壇、1897年からのリルケとの恋愛、1911年ワイマール精神分析大会でのフロイトとの邂逅を経て、ゲッティンゲンで分析家として開業。ナチ台頭下、ロシア・ユダヤ系と疑われた最晩年に没した。
01サンクトペテルブルク、将軍の末子
1861年2月12日、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクで、ルイーゼ・グスタフォヴナ・フォン・ザロメ(愛称ルー)が、帝国軍中将グスタフ・フォン・ザロメ(1804-1879、フランス系ユグノー)と母ルイーゼ・ヴィルム(北ドイツ家系)のもとに、5人兄妹の末子(他は全員男)として生まれた。家はロシア皇帝ニコライ1世のツァーリ宮廷に仕えつつ、家庭内では徹底的にドイツ語とドイツ文化を維持した。父はルーが17歳の1879年に逝去している。
少女ルーは父が特別に溺愛し、五人の兄たちに囲まれて育った。後年フロイトに分析の材料として、父殺しの夢を幼少期に何度も見たと語っている。17歳の1878年、オランダ改革派の牧師(43歳、既婚)に哲学・神学・文学の個人教授を受け始めた。ギヨーはカント、スピノザ、キルケゴールを少女に教えたが、やがて彼自身がルーに恋愛感情を抱き、妻と離婚してルーと結婚することを提案した。ルーはこの申し出を拒み、深い傷を残す決別を経てギヨーから離れた。
1880年、19歳でスイスのチューリヒ大学に入学。当時の大学は女性に開放された数少ない機関だった。神学と哲学を学んだが、喀血(結核の徴候)のため療養を要し、1881年、母とともにイタリアへ向かった。ローマで作家マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク(ニーチェの旧友、ワーグナー圏の知識人)の知遇を得たことが、翌年の決定的な出会いへの伏線となる。
021882年ローマ――ニーチェ、レー、そして三位一体の計画
1882年4月、ローマで、21歳のルーは小説家パウル・レー(『道徳感情の起源』の著者)と出会った。レーは彼女を即座に愛した。二人はプラトニックな共同生活を計画し始める。そこにレーの親友フリードリヒ・ニーチェが合流した。
3人は「三位一体」(Dreieinigkeit)と呼ぶ奇妙な共同体構想を抱いた――部屋を共にし、哲学と文学を共有し、互いの結婚ではなく知的共同生活を築く。ニーチェとレーは二度ルーに求婚した。ルーは拒み、知的友情だけを維持した。1882年5月、ルツェルンで撮影された有名な写真――荷車の上にレーとニーチェが四肢を繋がれ、ルーが鞭を持って立つ――は、当時の三人の関係のアイロニカルな自己イメージだった(演出はニーチェ自身が立てた)。同年8月のタウテンブルクでの再会の際にも、ニーチェは結婚の希望を捨てきれずにいたが、ルーは応じなかった。
計画はニーチェの妹エリザベート・フェルスター=ニーチェの激しい嫉妬と中傷で崩壊した。1883年、ニーチェはルーとの決別を決め、大きな精神的危機の中で『ツァラトゥストラはかく語りき』第一部を書き上げる。ニーチェはその後、ルーを「ペテン師」と呼ぶ憤怒の書簡を連発したが、亡くなる1900年まで、ルーに関する言及を彼の書簡は絶えなかった。1885年、ルーは第一作『』(Im Kampf um Gott)を発表。さらに1894年、『フリードリヒ・ニーチェ――その作品より』を刊行する。ニーチェ存命中から彼の哲学を体系的に読み解いた最初期の本格的研究書の一つであり、今もニーチェ研究の古典文献である。
03アンドレアス、そしてベルリン・パリの往還
1887年、26歳のルーは東洋学者フリードリヒ・カール・アンドレアス(43歳、ペルシア語・トルコ語の学者)と結婚した。結婚の条件は異例だった――性関係を持たない生涯独身的な形式婚である。アンドレアスは当初この条件に苦しみ、自殺脅迫(伝記によっては自殺未遂とも)によって承諾を引き出したが、やがて受け入れ、二人は40年間、書斎を分けながら同居を続けた。
ルーはベルリン、パリ、ミュンヘンを往還し、作家として成功した。小説『ルート』(1895)、『フェニチカ』(1898)、短編集『人間の子供たち』(1899)など。ベルリンの文学界ではゲルハルト・ハウプトマン、フランク・ヴェデキント、アルトゥル・シュニッツラーらと交流した。
1897年春、ミュンヘンで22歳の若き詩人ライナー・マリア・リルケと出会う。ルーは36歳、リルケは21歳、15歳年下である。二人は急速に恋愛関係に入り、ルーはリルケの筆名を「ライナー」に変えるよう勧めた(元の「ルネ」から)。リルケは彼女のためにロシア語を学び、1899年と1900年、二度ルーと連れ立ってロシア旅行に赴いた。第一回はトルストイを訪問、第二回はヴォルガ川を下り、ロシアの宗教的風景に触れた。この旅はリルケ『時祷詩集』を生む直接の土壌となった。
1901年、ルーはを対等の友情に戻し、ベルリン郊外シュマルゲンドルフの自宅へ戻った。リルケは以後ルーを生涯の相談相手とし、1926年のリルケの死までに260通を超える書簡が往復する。ほぼ同じ時期、ルーは医師とも関係を持ち、1902年に妊娠中絶を経験している。リルケは『ドゥイノの悲歌』完成時(1922)もルーに真っ先に報告した。
友が友を愛するように、たしかに私はおまえを愛している、謎なる生よ。
0450代で精神分析へ――フロイトの弟子として
1911年9月、50歳のルーはワイマールの第3回国際精神分析会議でジークムント・フロイト(1856-1939、5歳年上)と初めて会った。翌1912年秋から1913年春まで、ウィーンに移り、フロイトのサークルの水曜会と本人の訓練分析を半年間受けた。フロイトは最初この「有名な知識人」の闖入に慎重だったが、ルーの真剣な学習姿勢に次第に感銘を受け、最も近い弟子の一人として迎えた。フロイトの女性弟子としては最初期にあたり、生涯にわたって唯一無二の信頼関係を結んだ女性の一人である。
1913年からゲッティンゲンに戻り、精神分析家として独立して活動を開始した。患者の分析、論文執筆、フロイトとの書簡往復(生涯で200通以上が現存)が彼女の仕事となった。フロイトの長女アンナ・フロイトの個人教師役を務めた期間もあり、アンナの児童精神分析の方向性にルーの影響が指摘される。1922年には、フロイトの誕生日に寄せた公開書簡『』(Mein Dank an Freud)を発表し、精神分析が自分の生涯にもたらしたものを率直に綴った。
精神分析論文として『エロス』(1910)、『肛門と性』(1916)、『ナルシシズムについて』(1921)、『内省の覚書』(1931、自伝的省察)などを残した。フロイト『ナルシシズム入門』(1914)との相互影響は、フロイト研究史で繰り返し指摘される。
05晩年、ゲッティンゲンの沈黙
1930年、夫アンドレアスが死去(伝記により1926年とする記述もあり、ここでは新しい校訂に従う)。ルーは75歳近くまで自宅で小さな精神分析実践を続けた。戦後の混乱とインフレで経済的には困窮したが、フロイトが密かに財政援助した。
1933年、ナチス政権の成立とアーリア条項によって精神分析はドイツでの公的活動を急速に失った。ルーは「ロシア生まれ」「フロイトの弟子」という二重の理由で疑いの目を向けられた。夫アンドレアスがユダヤ系と誤って噂されたことも、晩年の彼女の周囲を狭めた。
1937年2月5日、ゲッティンゲンの自宅「ヘルベルク街」で死去、75歳。心臓疾患と腎機能低下が死因。死の直後、ナチス政権の地方文化局が「ユダヤ系の精神分析書庫」を没収するため捜索したと伝えられる(図書館焼却伝説の出所)。ただし詳細は伝記によって幅があり、遺族と秘書エルンスト・ファイファーが事前に重要文献を移していたため、主要資料は守られた。フロイト自身は翌1938年、ナチによってロンドンへ亡命する。
ルーの遺稿・書簡は膨大だが、ニーチェ・リルケ・フロイトに集中した20世紀の読解を長く支配し、ルー自身の思想としての独立性は1970年代以降のフェミニスト・伝記研究まで軽視されがちだった。現在では、彼女のナルシシズム論、女性の性と創造性の心理学、宗教体験と死への向き合い方に関する諸論文が、精神分析史・文学批評の独自の古典として読み直されている。
06主要な出来事と残した思索の輪郭
- 2月12日、サンクトペテルブルクで誕生、ロシア軍中将の末娘
- 17歳、牧師ヘンドリク・ギヨーに哲学を学ぶが求婚を拒み決別
- 19歳、チューリヒ大学に入学、神学・哲学を学ぶ
- 4月ローマでレー・ニーチェと出会い「三位一体」を構想、5月ルツェルンで三人写真
- 第一作『神の為に戦って』(Im Kampf um Gott)を匿名で刊行
- 東洋学者カール・フリードリヒ・アンドレアスと形式婚
- 『フリードリヒ・ニーチェ――その作品より』刊行
- ミュンヘンでリルケと出会い、3年に及ぶ恋愛関係に入る
- リルケと二度のロシア旅行、トルストイ訪問とヴォルガ川
- リルケと別離、以後生涯の友としての書簡往復が続く
- 医師フリードリヒ・ピネレスとの関係、妊娠中絶を経験
- 50歳、ワイマール第3回国際精神分析会議でフロイトと初対面
- ウィーンでフロイトの訓練分析を半年間受ける
- ゲッティンゲンに戻り、精神分析家として開業(以後1937年まで)
- 『ナルシシズムについて』
- 公開書簡『フロイトへの感謝』(Mein Dank an Freud)発表、リルケ『ドゥイノの悲歌』完成報告を最初に受ける
- 2月5日、ゲッティンゲンで死去、75歳
残した思索の輪郭
- 最初期の体系的ニーチェ論 ― ニーチェ存命中に書かれた最初期の研究書の一つ
- 形式婚と知的自立 ― 性関係を含まない40年の結婚という珍しい共同生活の形
- リルケの詩学への影響 ― ロシア旅行と名前の変更、『時祷詩集』の土壌
- ナルシシズム論 ― フロイト理論との往復関係、女性の心理の独自視角
- 関わりの過密と独立の両立 ― 三人の巨人との関わりのなかで自分の声を失わなかった稀有な例
つながり
- ニーチェ
伴走 — 1882年の三位一体の計画と決裂、最初の体系的ニーチェ論を書いた人物
- ハンナ・アーレント
先駆 — ドイツ女性知識人の系譜、文学と思想の越境的書き手として
- カレン・ホーナイ
先駆 — ドイツ語圏の女性心理学者の系譜、精神分析の女性像を再構成
- ジークムント・フロイト
伴走 — 1911年ワイマール精神分析大会を機に親交、ウィーンでフロイトの講義に参加、往復書簡25年に及ぶ
さらに読むならFurther Reading
ルー・アンドレアス=ザロメの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門ルー・ザロメ回想録
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生きた跡を辿るPlaces
ルー・アンドレアス=ザロメが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ゲッティンゲン市営墓地墓所
ゲッティンゲン, ドイツ
1937年没、夫アンドレアスの墓に遺灰が納められた。ニーチェ・リルケ・フロイトと交流した人生の終着点
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
ルー・アンドレアス=ザロメを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ルー・ザロメ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Lou Andreas-Salomé"
WikipediaDeutschWikipedia Deutsch — "Lou Andreas-Salomé"
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