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ハンナ・アーレント

Hannah Arendt·1906–1975·ドイツ/アメリカ·

人間が集まって何かを始めるとき、 何が起きているのか?

全体主義の起源を突き止め、公的な「活動」の尊厳を回復した20世紀の政治思想家

  • 全体主義
  • 活動
  • 悪の陳腐さ

時代の空気

1906年生まれのアーレントが生きたのは、第一次世界大戦の敗戦からヴァイマル共和国の動揺、ハイパーインフレ、ナチス政権成立(1933年)、ユダヤ人国籍剥奪、強制収容所、第二次世界大戦と冷戦初期へと連続するヨーロッパだった。彼女はベルリンで8日間ゲシュタポに勾留された後パリに亡命、1940年ギュルス収容所に収監され、1941年にニューヨークへ脱出した。1937年の独国籍剥奪から1951年の米国帰化まで14年を無国籍として生き、戦後はマッカーシズムの空気の下で『全体主義の起源』(1951)を書いた。

01ケーニヒスベルクのユダヤ系少女

1906年10月14日、ハノーファー近郊リンデンで、ドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれた。父パウルは技術者、母マルタはロシア系ユダヤ人の社会主義者。一家は1909年、父の故郷ケーニヒスベルクに移った。カントの街で幼少期を過ごしたことは、後年しばしば本人が語る原点となる。

父は神経梅毒を患い、1913年、ハンナが7歳のときに死去した。母は寡婦年金かふねんきんと父の遺産で娘を育て、再婚後も娘の教育に力を注いだ。少女は13歳でカントを読み始め、18歳で大学に進む準備を終えていた。

1924年、18歳でマールブルク大学に入学。哲学・神学・ギリシャ語を学ぶ。ここでマルティン・ハイデガーの講義に衝撃を受ける。『存在と時間』が出版される3年前、ハイデガーはまだ35歳の私講師だったが、その思考の激しさは学生を魅了した。師弟関係は短期間のうちに恋愛関係に発展する(ハンナ18歳、ハイデガー35歳、妻帯者)。1926年、関係のもつれと学問上の必要から、アレントはハイデガーの元を離れ、ハイデルベルク大学でカール・ヤスパースの指導下に移る。

1929年、ヤスパースの指導で博士論文「アウグスティヌスにおける愛の概念」を完成、博士号を取得した。同年、ギュンター・シュテルン(後のギュンター・アンダース)と結婚。

02ナチスから逃れて――フランス、アメリカへ

1933年、ナチスが政権を握った年、アレントはユダヤ人問題に関する研究のため、ベルリンのプロイセン国立図書館で調査していた。ゲシュタポに逮捕され、8日間拘束された後、尋問官じんもんかんの温情で釈放された。すぐドイツを離れ、母とともにプラハ経由でパリへ亡命した。

パリで彼女はユース・アリヤ(ユダヤ人青少年をパレスチナへ逃がす組織)で働いた。この時期、パリの亡命ドイツ系知識人の圏で、ヴァルター・ベンヤミンと深い親交を結んだ。1940年、最初の夫シュテルンとはすでに離婚、ハインリヒ・ブリュッヒャー(元共産主義活動家)と再婚した。

1940年5月、ドイツ軍のフランス侵攻で、アレントは南フランスのギュルス収容所に敵国人として収監しゅうかんされた。脱出に成功、ヴィシー政府下のマルセイユでヴァルター・ベンヤミンに会い、ベンヤミンから原稿「歴史の概念について」を預かった(ベンヤミンはピレネー越えの途上ポルボウで自死する)。1941年5月、夫と母を連れてニューヨークに到着。1937年のドイツ国籍剥奪から1951年の米国帰化まで、足かけ14年に及ぶ無国籍生活を生きることになる。

03『全体主義の起源』――1951

ニューヨークで、アレントは英語を一から学び、ユダヤ系月刊誌『アウフバウ』に書き、雑誌編集の仕事で生計を立てた。同時に膨大な歴史研究を進め、1951年、『』(The Origins of Totalitarianism)を英語で刊行する。45歳。

三部構成――反ユダヤ主義、帝国主義、――の大著は、ナチズムとスターリニズムを同じ20世紀的現象の二つの顔として分析した。全体主義は古典的な独裁や専制とは本質的に異なる。それは群衆の原子化、イデオロギーによる現実の代替、恐怖による絶え間ない動員、強制収容所を中核装置とする実験場を特徴とする。人間を余剰よじょうな存在にし、すべての法的・道徳的・人間的なきずなを破壊することが、全体主義の目的だった。

同書は刊行と同時に知的衝撃を与えた。1951年、アレントはアメリカ市民権を取得した――無国籍の終わり。翌1952年、グッゲンハイム・フェローシップを得て、思想の次の段階に進んだ。

悪の恐ろしさは、恐ろしい者によって行われるのではなく、思考しない者によって行われるところにある。

『精神の生活』思考編・序

04『人間の条件』――労働・仕事・活動

1958年、『』(The Human Condition)刊行。アレント52歳。彼女の政治理論の中心著作である。

人間の(vita activa)は三層に区別される。労働(labor)は生命維持のための循環的努力、仕事(work)は耐久的な物を作る製作、そして活動(action)は複数の人々の間で言葉と行為で始まりをもたらす公的な営みである。古代ギリシャのポリスは、自由な市民たちが活動するだった。近代はこの序列を転倒させ、労働を最上位に置き、政治を経済的管理に還元してしまった、とアレントは診断する。

「人間は、人間である限り、新しい始まりを始める力を持つ」(natality、)。これが同書の核心だった。、不可逆性、予見不可能性――行為の三つの特徴は、赦しと約束という政治的実践によってのみ担われうる。

05アイヒマン裁判――「悪の陳腐さ」

1961年、アレントは『ニューヨーカー』誌特派員として、エルサレムで行われたアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴ぼうちょうした。ナチスのユダヤ人移送の主要責任者が、イスラエル諜報部ちょうほうぶによりアルゼンチンで拉致らちされ、裁かれていた。

記事は1963年に連載、同年『――についての報告』として書籍化された。アレントが見たのは、怪物的な悪魔ではなく、凡庸ぼんような官僚だった。アイヒマンは反ユダヤ主義の情熱に燃えた怪物ではなく、思考しない、常套句じょうとうくでしか喋らない、昇進しょうしんと職務遂行に自己を縛り付けた平凡な男だった。大量殺戮を可能にしたのは、強い悪の意志ではなく、思考の欠如だったのではないか。

「悪の陳腐さ」(banality of evil)――この表現は激しい論争を呼んだ。ユダヤ人コミュニティの一部は、アレントがアイヒマンを擁護し、ユダヤ人協議会(ユダヤ人代表機関)の協力を批判した、として激しく非難した。旧友ゲルショム・ショーレムとの往復書簡おうふくしょかんは永遠の決裂けつれつに終わった。アレント自身は死ぬまで、この報告を撤回しなかった。

06晩年、『精神の生活』未完

1963年、シカゴ大学「社会思想委員会」の教授に就任。1967年、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの教授となる。『革命について』(1963)ではフランス革命とアメリカ革命を対比し、後者の「公的自由の創設」を高く評価した。『過去と未来の間』(1961、拡張1968)、『暗い時代の人々』(1968、ベンヤミン、ヤスパース、ブレヒト等の人物評)、『暴力について』(1970)。

1970年、夫ハインリヒ・ブリュッヒャーが死去。深い悲嘆ひたんに沈んだアレントは、政治ではなく精神そのものを問う最後の大作に取りかかった。『』――思考、意志、判断の三部構成を計画した。思考篇、意志篇は完成したが、判断篇は書かれないまま残される。

1975年12月4日、ニューヨーク・リヴァーサイド・ドライヴ130番地のアパートで、夕食客を前に心臓発作で倒れ、その夜のうちに死去。69歳。タイプライターには『判断』篇の最初のページだけが挿入されており、題名と二つの引用(カトーと詩人ルーカン)だけが打たれていた。

07主要な出来事と著作

  1. ハノーファー近郊に誕生、ケーニヒスベルクで育つ
  2. マールブルク大学入学、ハイデガーに学ぶ
  3. ヤスパースの指導で博士号取得(アウグスティヌス論)
  4. ゲシュタポに8日間拘束、パリへ亡命
  5. ギュルス収容所に収監、脱出
  6. ニューヨークに到着。1937年の独国籍剥奪から51年帰化まで14年の無国籍
  7. 『全体主義の起源』刊行、アメリカ市民権取得
  8. 『人間の条件』刊行
  9. エルサレムのアイヒマン裁判傍聴、『エルサレムのアイヒマン』刊行
  10. 『革命について』刊行
  11. 夫ハインリヒ・ブリュッヒャー死去
  12. 12月4日、ニューヨークで心臓発作により死去、69歳
  13. 没後『精神の生活』思考・意志篇刊行(判断篇は未完)

残した思想の輪郭

  • 全体主義の本質 ― 古典的独裁と異なる20世紀特有の統治形態、強制収容所を核とする実験
  • ― 人間の活動的生の三層構造、近代による活動の衰退への診断
  • 出生性(natality) ― 人間は新しい始まりを始める力を持つ、という政治の存在論
  • 悪の陳腐さ ― 思考の欠如が巨大な悪の媒体となる、アイヒマンに見た20世紀の病
  • 公共空間の擁護 ― 複数の人々が言葉と行為で現れる公的な場としてのポリス再興
1975年12月、ニューヨークの自宅で心臓発作により死去、69歳。執筆中だった原稿が机に残されていた。
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  • 引用一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 行為する者は、自分が何をしているのかを決して十分には知らない

    一次資料を開くChapter V 'Action' §33 'Irreversibility and the Power to Forgive'。'the predicame...

  • 文脈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: arendt-1.context: 1961 年アイヒマン裁判傍聴を経て Arendt が名づけた「悪の陳腐さ (banality of evil)」 を、晩年未完の主著『精神の生活 (The Lif...

  • 文脈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 1961 年アイヒマン裁判傍聴を経て Arendt が名づけた「悪の陳腐さ (banality of evil)」 を、晩年の未完の主著『精神の生活 (The Life of the Mind)』思考...

  • 文脈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 1961年のアイヒマン裁判傍聴を経て名づけた「悪の陳腐さ」を、アーレントは晩年の未完の主著『精神の生活』思考編・序で改めて手に取った。モンスターとして悪を描くのではない。自分の行為を言葉で反省すること...

  • 引用一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 悪の恐ろしさは、恐ろしい者によって行われるのではなく、思考しない者によって行われるところにある

  • 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: arendt.mdx pullsource '『精神の生活』思考編・序' は Hannah Arendt, The Life of the Mind, Vol. I 'Thinking' (Harco...

    一次資料を開くVol. I 'Thinking', Introduction §1。'absence of thought is not stupidity; it can ...

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生きた跡を辿るPlaces

ハンナ・アーレントが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • バード・カレッジ墓地墓所

    アナンデール=オン=ハドソン(ニューヨーク州), アメリカ

    1975年没、夫ハインリッヒ・ブリュッヒャーの隣に眠る。毎年、ハンナ・アーレント・センターの会員らがユダヤの習わしに従い石を置く

  • ハンナ・アーレント・センター(バード・カレッジ)所属

    アナンデール=オン=ハドソン(ニューヨーク州), アメリカ

    蔵書・文書・フェローシップ・年次会議を運営するアーレント研究の中心拠点

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