ローザ・ルクセンブルク
革命は、党の計画から始まるのか。 それとも、ふつうの人たちが動き出すところから始まるのか?
マルクス主義を帝国主義論と大衆ストライキ論へと拡張し、民主主義なき社会主義を拒絶した革命家
- 資本の蓄積
- 自発性
- 民主主義的社会主義
労働者の党が世界最強になった時代。だが戦争が来ると、その党は賛成票を投じた。 — ひらく
時代の空気
19世紀末のロシア帝国は、ポーランド分割後の支配下で同化政策を強め、ユダヤ人・カトリック・ポーランド語を周縁に追いやっていた。1893年に同志たちと立ち上げたSDKPiLは「ポーランド独立」を綱領化するPPSと一線を画し、革命を国境ではなく階級の問題として捉え直す試みだった。1898年に渡ったベルリンのSPDは世界最強の労働者政党を自任し、修正主義論争・大衆ストライキ論・帝国主義論が同じ党内で同時並行に走っていた時代の最前線にあたる。
011919年1月15日、エデン・ホテル
1919年1月15日の夕方、ベルリン。ローザ・ルクセンブルクは、西部ヴィルマースドルフの隠れ家で兵士に捕まった。捕らえたのは「近衛騎兵狙撃師団」という軍の部隊だった。連れて行かれた先は、。そこで彼女は尋問と暴行を受けた。
やがて兵士は「刑務所へ移送する」と告げ、彼女を車へ連れ出した。ホテルの前で、ルンゲという二等兵が銃の底で彼女の頭を殴った。意識を失ったまま車に乗せられ、車中でフォーゲル中尉に側頭部を撃たれた。遺体はリヒテンシュタイン橋から、近くのに投げ込まれた。47歳だった。同じ日、同志のも別の場所で「逃亡を試みた」として撃たれた。
彼女の遺体が運河の水門で見つかるのは、四か月半後の5月31日である。
殺したのは、右翼の義勇軍、と呼ばれる兵士たちだった。だが彼らを街に入れたのは、(SPD)の政府である。ローザは二十年近く、その党の一員だった。政府の長フリードリヒ・は、かつて党の学校で彼女に経済学を習った教え子でもあった。
なぜ、かつての同志と教え子が、彼女を殺す側に回ったのか。そしてローザ自身は、なぜ「まだ早い」と考えていた蜂起の先頭に立ったのか。
時は30年前、1889年に戻る。
02足を引きずる少女、スイスへ
1889年、18歳のローザは、ひそかにロシア領ポーランドを出た。秘密警察に捕まるのを避けるためだった。行き先はスイスのチューリヒ。当時のスイスには、東ヨーロッパから逃れてきたユダヤ人の革命家たちが集まっていた。チューリヒ大学は、女性と外国人にも門を開いた数少ない大学だった。
ローザは1871年、ポーランド東部の街ザモシチに生まれた。ユダヤ人の商家の五番目の子で、父エリアシュは木材商だった。母リネはヘブライ語・ポーランド語・ドイツ語・フランス語を読む人だった。娘にハイネやシラーの詩を読み聞かせた。ユダヤ人街、外側のポーランド社会、ロシア帝国の制度。三つの世界をまたいで暮らす家だった。
幼いころ、股関節の病気で左足が右より短くなった。足を引きずる歩き方は生涯残った。1873年に家族はワルシャワに移り、9歳で第二女子ギムナジウム(中学と高校を合わせた学校)に入った。ポーランド語もイディッシュ語も禁止、ロシア語だけの学校である。成績はトップで卒業したが、金メダルはもらえなかった。ユダヤ人で、女性だったからだ。15歳のときには、もう革命運動に足を踏み入れていた。
チューリヒで、ローザはと出会う。リトアニア生まれの革命家だった。以後二十年近く、政治でも私生活でもパートナーになる。二人の関係は1907年に壊れるが、同志としての結びつきは1919年まで続いた。
1897年、経済学の博士号を取った。指導教官はユリウス・ヴォルフ、論文の題は『ポーランドの工業発展』。ポーランドの工業はロシア帝国の経済に深く組み込まれている、という内容だった。だから「ポーランド独立」を掲げるPPS(ポーランド社会党)の道は現実的ではない。彼女はそう論じ、1893年に仲間と作ったSDKPiL(ポーランド王国・リトアニア社会民主党)の理屈の土台を据えた。
しかし彼女の目は、すでにポーランドの外を見ていた。ヨーロッパで最も強い労働者の党が、隣のドイツにあった。
03世界最強の党に入る
1898年、27歳のローザはドイツに移った。ドイツ国籍を得るため、旧友の息子グスタフ・リュベックと書類の上だけの結婚をした。政略結婚である。そしてドイツ社会民主党(SPD)に入った。党員は100万人近く、議員は100人を超える。世界最強の労働者政党を自任し、マルクス主義の正統を守る党だった。ローザはベルリンに住み、党の機関紙『フォアヴェルツ』に書き始めた。入党してすぐ、ヘッセン地方の遊説で名を上げた。
同じころ、党の内部で一つの論争が起きていた。エドゥアルト・という古参の理論家が、を唱えたのだ。資本主義は崩れない。少しずつ改良できる。だから革命はいらない。マルクスの論は古い。彼の本『社会主義の前提と社会民主主義の任務』(1899)はそう主張した。
ローザは『?』(1899年初版)で真っ向から反論した。資本主義の矛盾は消えたのではない。恐慌、軍事費、帝国主義という新しい形で現れているだけだ。改良は革命の代わりではない。革命という目的があるからこそ、改良のための闘いにも意味が出る。この一冊で、彼女は党の左派の理論的な旗頭になった。党の中心にいたカール・とも協力し、「パルヴスとローザ」と並び称される若手理論家の代表格になる。
ただし、これらはまだ机の上の議論だった。革命が本当に始まったとき、党は何をするのか。その答えは、1905年に東からやって来る。
041905年、革命の現場へ
1905年、ロシア帝国で第一次ロシア革命が起きた。首都ペテルブルクの「血の日曜日事件」をきっかけに、ゼネスト(全産業の一斉ストライキ)の波がポーランドまで広がった。ローザはドイツからワルシャワに潜入し、SDKPiLの地下活動に加わった。1906年3月に逮捕され、4か月投獄された。健康が悪化したため保釈金で出され、フィンランドを経由してドイツに戻った。フィンランドではと数週間、同じ家に泊まった。後に二人が党のあり方をめぐって争う、その手触りがここで生まれた。
帰国後、ローザは『大衆ストライキ、党および労働組合』(1906)を書いた。現場で見たことをもとにした本である。西ヨーロッパの社会主義者には、「よく組織された党が指令を出し、整然と革命が進む」という考えが根強かった。ローザはそれを批判した。革命を動かす主な力は、ふつうの人々が自分から動くこと、つまり大衆の自発性である。党はその表現であって、原動力ではない。
この考えは、レーニンの『何を為すべきか』(1902)と真っ向からぶつかった。レーニンは規律の固い党を説いていた。1907年、ロンドンで開かれたロシア社会民主労働党の第5回大会で、二人は対話している。ローザはレーニンの党を「ヤコバン主義」(フランス革命期の独裁的な党のやり方)と批判した。しかし帝政ロシアの事情では一定の正しさもある、とも認めた。どちらも切り捨てない、微妙なバランスだった。
1907年から1914年まで、ローザはベルリンのSPD党学校で経済学を教えた。次の世代の労働者指導者を育てる学校である。教え子にはフリードリヒ・エーベルト、ヴィルヘルム・ピーク、そしてカール・リープクネヒトがいた。リープクネヒトは後にを共に率いる。エーベルトは1919年、彼女を殺害させる側に回る。同じ教室で学んだ二人の道は、このときまだ分かれていなかった。
05『資本の蓄積』――外側のない世界
1913年、ローザは大きな本を出した。『資本の蓄積』(Die Akkumulation des Kapitals)である。土台はマルクスの『』第二巻だった。マルクスはそこで、経済が成長し続ける仕組みを表で示していた。ローザはその表に、一つの穴を見つけたと考えた。資本主義は、自分の内側だけでは利益()を全部は売りさばけない。だから外側が要る。農民の社会、植民地、まだ資本主義になっていない土地。そこへ絶えず食い込んでいくことこそが、帝国主義の正体だ。
この本は、社会主義者のあいだでも論争を呼んだ。計算が正しいかどうかは、今もマルクス経済学の内部で議論が続いている。だが「資本主義は外側を食いつぶさずには生きられない」という見方は、後の時代の学者たちに長く引き継がれた(詳しい中身は終盤の章で見る)。
そして翌年、彼女が本で描いた「外側の奪い合い」は、戦争という形で現実になった。
06戦争、獄中、「社会主義か野蛮か」
1914年8月4日、第一次世界大戦が始まった。この日、SPDは帝国議会で戦時公債(戦争のための借金)に賛成票を投じた。反対したのはリープクネヒトら4名だけだった。各国の社会主義政党が手を結ぶはずの国際組織、は、事実上ここで崩れた。ローザは強い衝撃を受け、その夜のうちに自殺を考えたとも伝えられる。
翌5日、彼女の自宅に人が集まった。カール・リープクネヒト、、フランツ・メーリングらである。彼らは「インターナショナル・グループ」を作り、反戦活動に入った。この集まりが1916年に「スパルタクス団(スパルタクスブント)」と名を改める。
1915年2月から翌年2月まで、ローザはベルリンの女子刑務所に入れられた。獄中で書いたのが『』(『社会民主主義の危機』1916)である。原稿はスイスへひそかに送られた。「社会主義か野蛮か」(Sozialismus oder Barbarei)。有名なこの対比は、この中に登場する。
社会主義か野蛮か
07牢の中で書いた、もうひとつの批判
1916年7月から1918年11月まで、彼女はほぼ休みなく獄中にいた。ヴロンケの要塞、次いでブレスラウの刑務所。ブレスラウでは『資本の蓄積への反批判』(1921刊行)を書き、植物や鳥を観察する日記を何冊もつけた。
そして1918年9月、『』を書き始めた(未完)。前年、ロシアでレーニンたちボリシェヴィキが十月革命を起こしていた。ローザはその革命を原則として支持した。しかし同時に、鋭く批判した。憲法制定議会を解散したこと。出版と集会の自由を抑えたこと。党が独裁になっていくこと。「自由とは、つねに異なる思想を持つ者の自由である」。この批判は、ソ連が崩れた後の1990年代に、あらためて読み直されることになる。
牢の壁の外では、ドイツそのものが崩れ始めていた。
自由とは、つねに異なる思想を持つ者の自由である。
08秩序が支配する――運河へ
1918年11月8日、ローザはブレスラウ刑務所から釈放された。翌9日、ベルリンでドイツ革命が起き、皇帝ヴィルヘルム2世が退位した。ベルリンに戻った彼女は、リープクネヒトと日刊紙『(赤旗)』を作り、論陣を張った。12月30日、スパルタクス団は(KPD)として独立する。綱領(党の基本方針)『スパルタクス団は何を欲するか』を書いたのはローザだった。
しかし情勢は急に動いた。1919年1月5日、SPD政府がベルリンの警視総監を解任した。それに抗議して、ベルリンの労働者が自分たちから立ち上がった。スパルタクス団蜂起と呼ばれる。ローザとリープクネヒトは、党としては「時期が早すぎる」と判断していた。だが、いったん始まった運動の先頭に立つことを選んだ。人々が自分から動くとき、党はその後ろに隠れない。1906年に書いた自発性の考えを、彼女は自分の身体で貫いた。
SPD政権のフリードリヒ・エーベルトと国防相グスタフ・ノスケは、義勇軍(フライコール)を街に入れた。戦争から戻った右翼の民兵たちである。1月12日、蜂起は鎮圧された。『赤旗』最終号に載った彼女の記事の題は、「ベルリンには秩序が支配する」だった。
エデン・ホテル、銃の底、ランドヴェーア運河。冒頭の場面は、こうして起きた。殺した者たちは軍法会議にかけられた。だが主犯のフォーゲルは2年4か月の禁錮刑を受けた後、すぐに脱走した。ルンゲは2年で釈放された。ナチスの時代には「ルクセンブルク殺害の功」で年金を受けた者もいた。ローザはフリードリヒスフェルデ中央墓地に葬られた。毎年1月15日、「リープクネヒト=ルクセンブルク追悼デモ」が今も続いている。
「異なる思想を持つ者の自由」を説いた人が、それを認めない者たちに殺された。殺す側に立った政府の長は、かつて同じ教室にいた教え子だった。もし、あなたが「まだ早い」と思う運動の先頭に、仲間が立ってしまったら。あなたは、その隣に立つだろうか。
09思想の核心――再生産表式から民主主義論まで
修正主義論争におけるローザの応答は、資本主義の矛盾が消滅したのではなく、恐慌、軍事費、帝国主義として新しい形で現れているという診断に立つ。改良主義は革命の代替ではなく、革命的目的を持つからこそ改良闘争も意味を持つ――『社会改良か革命か?』のこの論理は、ベルンシュタインが時代遅れと断じた階級闘争論を、逆に現実分析の道具として再定義するものだった。
『大衆ストライキ、党および労働組合』(1906)は、西ヨーロッパ社会主義者のあいだに根強い「組織された党の指令による整然たる革命」モデルを批判し、大衆の自発的行動が革命の主要な駆動力であり、党はその表現であって原動力ではない、と論じた。この議論は、1907年ロンドンの第5回ロシア社会民主労働党大会で対話したレーニン『何を為すべきか』(1902)の党規律論と、明確に緊張関係にあった。ローザは後者を「ヤコバン主義」と批判しつつ、帝政ロシアという文脈では一定の正当性を認める、微妙なバランスを保った。
『資本の蓄積』(1913)は、マルクス『資本論』第二巻の拡大再生産表式に着目し、資本主義は閉じた二部門モデルのままでは剰余価値を実現できないと論じた。剰余価値の完全な実現のためには、資本主義体制の外部(農民社会、植民地、前資本主義経済)が必要であり、外部への絶え間ない浸食こそが帝国主義の経済的本質である。この帝国主義論は、レーニン『帝国主義論』(1916)やブハーリン『帝国主義と世界経済』(1915)とは異なる経路を描く。レーニンは金融資本と独占に焦点を当てるが、ローザは再生産表式の純粋な論理から帝国主義の必然性を導く。議論の数学的正しさをめぐっては、当時から現代までマルクス経済学内部で論争が続いているが、帝国主義を恐慌の国外輸出として捉える視角は、その後の従属論・世界システム論へと繋がる深い影響を残した。
『ユニウス・パンフレット』の「社会主義か野蛮か」は、戦争との時代を予見した二項の対比として読み継がれてきた。そして『ロシア革命論』は、ボリシェヴィキ十月革命を原則的に支持しつつも、憲法制定議会の解散、出版と集会の自由の抑圧、党独裁化を鋭く批判する。党の規律と大衆の自発性、革命の速度と民主主義の手続き――そのどちらも切り捨てない思考は、効率の名で異論の沈黙を求める制度への問いとして、今も読み直されている。
10主要な出来事と残した思索の輪郭
- 3月5日、ロシア領ポーランドのザモシチに誕生
- 18歳、スイスに亡命、チューリヒ大学入学
- SDKPiL(ポーランド王国・リトアニア社会民主党)結成に参加
- 『ポーランドの工業発展』で博士号取得
- 政略結婚でドイツ国籍取得、ベルリンに移りSPD入党
- 『社会改良か革命か?』でベルンシュタイン修正主義に反論
- ワルシャワで革命活動、4ヶ月投獄、フィンランドでレーニンと滞在
- 『大衆ストライキ、党および労働組合』刊行
- RSDLP第5回大会(ロンドン)、SPD党学校教師に着任
- 大著『資本の蓄積』刊行
- SPDの戦時公債賛成に抗議、リープクネヒトらと国際主義派結成
- ほぼ連続して獄中、『ユニウス・パンフレット』『ロシア革命論』執筆
- 獄中の同志たちと「スパルタクス団」を名乗る
- 釈放、リープクネヒトと『ディ・ローテ・ファーネ(赤旗)』創刊
- ドイツ共産党(KPD)結成、スパルタクス団綱領起草
- エデン・ホテルからの移送中、フライコールに銃床で殴打・銃殺、ランドヴェーア運河に投棄、47歳
- 運河で遺体発見、フリードリヒスフェルデ中央墓地に埋葬
残した思索の輪郭
- 修正主義批判と革命的改良 ― 改良闘争は革命的目的のなかでのみ意味を持つ
- 大衆の自発性の擁護 ― 党の指令に優先する大衆行動、ヤコバン型党規律への批判
- 『資本の蓄積』の帝国主義論 ― 再生産表式から導く資本主義体制の外部依存
- 「社会主義か野蛮か」 ― 戦争・全体主義の時代を予見した二項の対比
- 『ロシア革命論』の民主主義論 ― ボリシェヴィキ支持と党独裁批判の両立
- 殺された後に残った言葉 ― 『赤旗』最終号「ベルリンには秩序が支配する」、その三日後の射殺、運河の水門に流れ着いた遺体
つながり
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ローザ・ルクセンブルクが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
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