ローザ・ルクセンブルク
革命は党の計画から始まるのか、 それとも大衆の自発的な運動から始まるのか?
マルクス主義を帝国主義論と大衆ストライキ論へと拡張し、民主主義なき社会主義を拒絶した革命家
- 資本の蓄積
- 自発性
- 民主主義的社会主義
時代の空気
19世紀末のロシア帝国は、ポーランド分割後の支配下で同化政策を強め、ユダヤ人・カトリック・ポーランド語を周縁に追いやっていた。1893年に同志たちと立ち上げたSDKPiLは「ポーランド独立」を綱領化するPPSと一線を画し、革命を国境ではなく階級の問題として捉え直す試みだった。1898年に渡ったベルリンのSPDは世界最強の労働者政党を自任し、修正主義論争・大衆ストライキ論・帝国主義論が同じ党内で同時並行に走っていた時代の最前線にあたる。
01ザモシチのユダヤ人少女、チューリヒの博士
1871年3月5日、ロシア帝国領ポーランド東部の街ザモシチで、ロザリア・ルクセンブルクはユダヤ人商家の第五子として生まれた。父エリアシュは木材商、母リネは教養ある家庭の出身で、ヘブライ語・ポーランド語・ドイツ語・フランス語を読み、娘にハイネとシラーを読み聞かせた。家庭は世俗化したユダヤ人で、ザモシチのユダヤ人街と外側のポーランド社会、そしてロシア帝国の制度――三つの層をまたいで暮らす日常だった。
幼少期、股関節の病(生まれつきの脱臼とも結核性とも伝わる)のため左足が右より短くなり、生涯軽度の跛行を残した。1873年に家族はワルシャワに移り、ローザは9歳でワルシャワ第二女子ギムナジウムに入学。ポーランド語・イディッシュ禁止の抑圧的環境で、ロシア化政策の下に優等で卒業したが、ユダヤ人・女性であることを理由に金メダルは授与されなかった。
15歳から革命運動に関わり始め、1889年、秘密警察の逮捕を避けるためスイスに亡命、チューリヒ大学に入学した。スイスはロシア領・ドイツ領・オーストリア領の東欧ユダヤ人革命家たちの亡命拠点であり、当時の大学は女性と外国人に開かれた稀少な場だった。ローザはここで(リトアニア生まれの革命家)と出会い、以後二十年近く、生涯の政治的・個人的パートナーとなる(1907年に関係は破綻するが、政治的同志関係は1919年まで続いた)。
1897年、博士論文『ポーランドの工業発展』で経済学博士号(大学の優等賞付き)を取得。指導教官はユリウス・ヴォルフ。論文はポーランドの近代化がロシア帝国経済に構造的に組み込まれていることを論証し、「ポーランド独立」を綱領化するPPS(ポーランド社会党)に対して独立は非現実的と論じ、SDKPiL(ポーランド王国・リトアニア社会民主党、1893年結成)を創設する理論的基礎となった。
02ドイツに渡る――修正主義論争で頭角
1898年、ローザはドイツ国籍取得のため形式的な結婚――旧友の息子グスタフ・リュベックとの政略結婚を経て、ドイツに移住、ドイツ社会民主党(SPD)に入党した。当時のSPDは100万人近い党員と100議席超を擁する世界最強の労働者政党であり、マルクス主義正統派を自任していた。ベルリンに拠点を置き、党の中央機関紙『フォアヴェルツ』に寄稿を始め、入党直後にヘッセンの遊説で名を上げた。
同時期、SPD内部でエドゥアルト・ベルンシュタインが修正主義を提唱していた。資本主義は崩壊せず漸進的に改良可能であり、革命は不要であり、マルクスの階級闘争論は時代遅れである――ベルンシュタイン『社会主義の前提と社会民主主義の任務』(1899)の主張だった。
27歳のローザは『?』(1899初版)で徹底反論した。資本主義の矛盾は消えたのではなく、恐慌、軍事費、帝国主義として新しい形で現れている。改良主義は革命の代替ではなく、革命的目的を持つからこそ改良闘争も意味を持つ。この応答は党左派の理論的旗頭としての地位を確立した。カール・カウツキー(当時の党中央)とも協力関係にあり、ローザは「パルヴスとローザ」として若手理論家の代表格になった。
031905年ロシア革命、そして大衆ストライキ論
1905年、ロシア帝国で第一次ロシア革命が勃発。ペテルブルクの「血の日曜日事件」からゼネストの波がポーランドに波及した。ローザはドイツからワルシャワに潜入し、SDKPiLの地下活動に加わった。1906年3月、逮捕され4ヶ月投獄、健康悪化を理由に保釈金で釈放後、フィンランド経由でドイツに戻った。フィンランドではレーニンと数週間同じ家に滞在し、後の党組織論をめぐる論争に直接の手触りを残している。
帰国後、実体験を踏まえて『大衆ストライキ、党および労働組合』(1906)を発表。西ヨーロッパ社会主義者のあいだに根強い「組織された党の指令による整然たる革命」モデルを批判し、大衆の自発的行動が革命の主要な駆動力であり、党はその表現であって原動力ではない、と論じた。この議論は、1907年ロンドンの第5回ロシア社会民主労働党大会で対話したレーニン『何を為すべきか』(1902)の党規律論と、明確に緊張関係にあった。ローザは後者を「ヤコバン主義」と批判しつつ、帝政ロシアという文脈では一定の正当性を認める、微妙なバランスを保った。
1907年から1914年、ベルリンのSPD党学校の経済学教師として、次世代の労働者指導者を育てた。教え子にはフリードリヒ・エーベルト、ヴィルヘルム・ピーク、後に共にを率いるらがいたが、エーベルトは1919年にローザを殺害させる側に回る。
自由とは、つねに異なる思想を持つ者の自由である。
04『資本の蓄積』――帝国主義の経済理論
1913年、ローザは大著『資本の蓄積』(Die Akkumulation des Kapitals)を刊行した。マルクス『資本論』第二巻の拡大再生産表式に着目し、資本主義は閉じた二部門モデルのままでは剰余価値を実現できないと論じた。剰余価値の完全な実現のためには、資本主義体制の外部(農民社会、植民地、前資本主義経済)が必要であり、外部への絶え間ない浸食こそが帝国主義の経済的本質である。
この帝国主義論は、レーニン『帝国主義論』(1916)やブハーリン『帝国主義と世界経済』(1915)とは異なる経路を描く。レーニンは金融資本と独占に焦点を当てるが、ローザは再生産表式の純粋な論理から帝国主義の必然性を導く。議論の数学的正しさをめぐっては、当時から現代までマルクス経済学内部で論争が続いているが、帝国主義を恐慌の国外輸出として捉える視角は、その後の従属論・世界システム論へと繋がる深い影響を残した。
05戦争、獄中、スパルタクス団
1914年8月4日、第一次大戦勃発。SPDは帝国議会で戦時公債に賛成票を投じ(反対はリープクネヒトら4名のみ)、第二インターナショナルは事実上崩壊した。ローザは衝撃を受け、その夜のうちに自殺を考えたとも伝えられる。翌5日、カール・リープクネヒト、クララ・ツェトキン、フランツ・メーリングらとローザの自宅に集まり「インターナショナル・グループ」を結成、反戦活動に入った。この集団は1916年に「スパルタクス団(スパルタクスブント)」と名を改める。
1915年2月から16年2月、ドイツ当局にベルリン女子刑務所に投獄。獄中で『』(『社会民主主義の危機』1916)を執筆、スイスへ密送した。「社会主義か野蛮か」(Sozialismus oder Barbarei)の有名な対比は、この中に登場する。
1916年7月から1918年11月、ヴロンケ要塞、続いてブレスラウ刑務所と、ほぼ連続して獄中にあった。1917–1918年のブレスラウ期には『資本の蓄積への反批判』(1921刊行)、『』(未完、1918年9月執筆)、多数の植物・鳥類観察日記を書いた。『ロシア革命論』はボリシェヴィキ十月革命を原則的に支持しつつも、憲法制定議会の解散、出版と集会の自由の抑圧、党独裁化を鋭く批判した――「自由とは、つねに異なる思想を持つ者の自由である」。この批判はソ連崩壊後の1990年代に新たに読み直されることになる。
061919年1月――殺害
1918年11月8日、ローザはブレスラウ刑務所から釈放された。翌9日にはベルリンでドイツ革命が起こりウィルヘルム2世退位、ベルリンに戻ったローザはリープクネヒトと日刊紙『(赤旗)』を創刊して論陣を張った。12月30日、スパルタクス団は(KPD)として独立、ローザが起草した綱領『スパルタクス団は何を欲するか』を採択した。
しかし情勢は急展開し、1919年1月5日、SPD政府によるベルリン警視総監解任への抗議から、ベルリン労働者の自発的蜂起(スパルタクス団蜂起)が始まった。ローザとリープクネヒトは党としては時期尚早と判断していたが、いったん始まった運動の先頭に立つことを選んだ。SPD政権のフリードリヒ・エーベルトと国防相グスタフ・ノスケは義勇軍(フライコール、第一次大戦から復員した右翼民兵)を投入、1月12日に蜂起を鎮圧した。
1919年1月15日夕刻、ローザとリープクネヒトは、ベルリン西部ヴィルマースドルフの隠れ家で「近衛騎兵狙撃師団(Garde-Kavallerie-Schützen-Division)」に逮捕され、に連行された。尋問と暴行のあと、車で「刑務所へ移送」と告げて連れ出され、ホテル前でルンゲ二等兵が銃床でローザの頭を殴打、車中で意識を失ったまま側頭部をフォーゲル中尉に拳銃で撃たれ銃殺された。遺体はリヒテンシュタイン橋から近くのランドヴェーア運河に投棄された。同日、リープクネヒトも別地点で「逃亡を試みた」として射殺された。
ローザの遺体は1919年5月31日、運河の水門で発見された。47歳。殺害者たちは軍法会議にかけられたが、主犯フォーゲルは2年4ヶ月の禁錮刑後すぐに脱走、ルンゲは2年で釈放され、ナチス期に「ルクセンブルク殺害の功」で年金を受けた者もいた。フリードリヒスフェルデ中央墓地に埋葬され、毎年1月15日には「リープクネヒト=ルクセンブルク追悼デモ」が今も続いている。
07主要な出来事と残した思索の輪郭
- 3月5日、ロシア領ポーランドのザモシチに誕生
- 18歳、スイスに亡命、チューリヒ大学入学
- SDKPiL(ポーランド王国・リトアニア社会民主党)結成に参加
- 『ポーランドの工業発展』で博士号取得
- 政略結婚でドイツ国籍取得、ベルリンに移りSPD入党
- 『社会改良か革命か?』でベルンシュタイン修正主義に反論
- ワルシャワで革命活動、4ヶ月投獄、フィンランドでレーニンと滞在
- 『大衆ストライキ、党および労働組合』刊行
- RSDLP第5回大会(ロンドン)、SPD党学校教師に着任
- 大著『資本の蓄積』刊行
- SPDの戦時公債賛成に抗議、リープクネヒトらと国際主義派結成
- ほぼ連続して獄中、『ユニウス・パンフレット』『ロシア革命論』執筆
- 獄中の同志たちと「スパルタクス団」を名乗る
- 釈放、リープクネヒトと『ディ・ローテ・ファーネ(赤旗)』創刊
- ドイツ共産党(KPD)結成、スパルタクス団綱領起草
- エデン・ホテルからの移送中、フライコールに銃床で殴打・銃殺、ランドヴェーア運河に投棄、47歳
- 運河で遺体発見、フリードリヒスフェルデ中央墓地に埋葬
残した思索の輪郭
- 修正主義批判と革命的改良 ― 改良闘争は革命的目的のなかでのみ意味を持つ
- 大衆の自発性の擁護 ― 党の指令に優先する大衆行動、ヤコバン型党規律への批判
- 『資本の蓄積』の帝国主義論 ― 再生産表式から導く資本主義体制の外部依存
- 「社会主義か野蛮か」 ― 戦争・全体主義の時代を予見した二項の対比
- 『ロシア革命論』の民主主義論 ― ボリシェヴィキ支持と党独裁批判の両立
- 殺された後に残った言葉 ― 『赤旗』最終号「ベルリンには秩序が支配する」、その三日後の射殺、運河の水門に流れ着いた遺体
出典と確認メモ
5件- 解釈一次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1918年秋、ブレスラウの獄中で書き継がれた『ロシア革命論』断章のなかの一節。十月革命を原則として擁護しながらも、ボルシェヴィキによる議会解散と反対派の弾圧に対し、賛成者の自由だけでは自由ではなく、異...
一次資料を開くChapter 6 で 'Freedom only for the supporters of the government, only for the mem...
- 抜粋原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 自由とは、つねに異なる思想を持つ者の自由である
一次資料を開くDie russische Revolution Ch. 4 (英訳版 Ch. 6 'The Problem of Dictatorship') — 'Free...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 自由とは、つねに異なる思想を持つ者の自由である。
一次資料を開くChapter 6 'The Problem of Dictatorship' に 'Freedom only for the supporters of th...
- 出典二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: luxemburg.mdx pullsource '『ロシア革命論』(1918、遺稿)' は Rosa Luxemburg 'Zur russischen Revolution' を指す書誌として正確...
一次資料を開くRosa-Luxemburg-Stiftung 公式: Luxemburg は 1918 年秋 Breslau 獄中で 'Zur russischen Revo...
- 引用原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 社会主義か野蛮か
一次資料を開くJunius-Broschüre (1916) Ch. 1 — 'Sozialismus oder Barbarei' formula。第一次世界大戦下の社会民...
つながり
- マルクス
継承 — 『資本論』の再生産表式を『資本の蓄積』で帝国主義論へ拡張
- ハンナ・アーレント
先駆 — アーレント『暗い時代の人々』(1968)所収「ローザ・ルクセンブルク 1871-1919」でJ.P. ネットル伝記を機にルクセンブルクを論じ、ボルシェヴィキのレーニン主義的組織論に対するルクセンブルクの「大衆のスポンタネイテ(自発性)」への信頼を高く評価。後年の『暴力について』(1970)『革命について』(1963)でも評議会民主主義の系譜として位置づける
さらに読むならFurther Reading
ローザ・ルクセンブルクの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門ローザ・ルクセンブルグ 資本蓄積論 (上)
ローザ・ルクセンブルグ / 訳: 長谷部文雄 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
ローザ・ルクセンブルクが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「ローザ・ルクセンブルク」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Rosa Luxemburg"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Rosa Luxemburg"
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