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フランツ・ブレンターノ

Franz Brentano·1838–1917·オーストリア/ドイツ·

心はいつも、何かに向いている。 そう言った人は、何に向いていたのか?

元カトリック司祭として教壇に立ち、「志向性」という一語で20世紀哲学の行方を用意したウィーンの静かな師

  • 志向性
  • 経験的心理学
  • アクトと対象
  • 記述心理学
  • フッサールの師
教会が「教皇は間違えない」と決め、科学が心を測り始めた時代 — ひらく

時代の空気

十九世紀後半のドイツ・オーストリア。トレンデレンブルクから広がるアリストテレス復興、ジョン・スチュアート・ミルの経験論、コントの実証主義、ヘルムホルツとフェヒナーの実験生理学が哲学の地平を揺さぶり、1879年ライプツィヒにヴントが心理学実験室を開いた。第一ヴァチカン公会議(1869-70)は教皇不可謬を宣言し、ナポレオン後のカトリック教会内では旧カトリック運動と帝国カトリックの裂け目が深まる。ハプスブルクの帝都ウィーンでは女性高等教育解禁が議論され、医学部の若きフロイトもブレンターノの教室に通った。フッサール『論理学研究』(1900-01)直前、心理学が哲学の中心へ昇りつつあった世紀末である。

011880年、教授の椅子を手放した日

1880年9月16日。フランツ・ブレンターノは42歳で結婚した。相手は。ウィーンのユダヤ系の上流の家に育った女性だった。

ただの結婚ではなかった。ブレンターノは元カトリック司祭である。オーストリア=ハンガリー帝国では、元司祭の結婚は法に触れた。教会法と国法、その両方に抵触ていしょくしたのである。そこで彼は帝国の国籍をいったん離れた。ザクセン王国に短いあいだだけ帰化し、そこで式を挙げた。

ウィーンに戻ると、待っていたのは免職めんしょくだった。結婚は教授職の前提条件に反する、とされた。ウィーン大学の正教授の地位を、彼はこの年に失った。

給与は半分になった。定年までの保障もなくなった。博士論文を指導する権限も限られた。それでも彼は嘆かなかった。むしろ「講義の自由が守られた」と書き残している。

これで二度目だった。七年前の1873年、彼は司祭の職を自分から手放している。地位を二度手放した人は、何を手放さなかったのか。時は42年前、1838年のライン川のほとりに戻る。

02詩人の一族の少年

1838年1月16日、フランツ・ブレンターノはマリエンベルクで生まれた。ライン川のほとり、ボッパルトという町の近くである。今のドイツ、ラインラント=プファルツ州にあたる。文人の一家だった。父クリスティアン・ブレンターノは神学者で作家。伯父はドイツ・ロマン派の詩人。同じロマン派の作家ベッティーナ・フォン・アルニムも一族にいた。ドイツとイタリアの血を引く、信心深いカトリックの家系である。

少年は厳しいカトリックの教育を受けた。アシャッフェンブルクのギムナジウム(大学に進むための学校)を出る。そのあとは大学を渡り歩いた。ミュンヘン、ヴュルツブルク、ベルリン、ミュンスター。学んだのは哲学と神学である。古代ギリシアの哲学者アリストテレスを、10代のころから読み込んだ。その本を彼は生涯手放さなかった。

1862年、24歳で学位論文を出した。『アリストテレスにおける』(Von der mannigfachen Bedeutung des Seienden nach Aristoteles)。「ある」という言葉は、いくつもの意味で使われる。それを読み解いた論文だった。指導教授はベルリンのアリストテレス学者。この論文は後年、若きマルティン・ハイデガーが繰り返し読み返した。『存在と時間』の問いを準備する書物となるのである。

真理から最初にほんの少しずれる者は、その後どこまでも遠ざかり、千倍もの誤りへと導かれる

— ブレンターノに帰される言葉(伝承)。10代からアリストテレスを読み込んだ彼が、その古い格言を受け継いだとされる

1864年8月6日、26歳でカトリックの司祭になった(叙階じょかい)。場所はヴュルツブルクである。ヴュルツブルク大学で教える資格を取り、1866年に私講師になった。私講師とは、給料の少ない非常勤の講師のことだ。翌1867年には教授資格論文を出した。『アリストテレスの心理学、特にヌース・ポイエティコスの教説』である。ヌース・ポイエティコスとは「ものを作り出す知性」のことだ。

黒い司祭服を着た学者。祭壇と教壇のあいだを行き来する、慎ましい暮らしが始まった。中世の教会の学問(スコラ学)と、アリストテレス。その二つが彼の足場だった。だが数年後、その足場の片方が揺れ始める。

03教皇は間違えない、と決められた日

1869年から70年にかけて、ローマで第一ヴァチカン公会議が開かれた。カトリック教会の最高会議である。会議は教皇ピウス9世のもとで、一つの教義を正式に宣言した。(Papstinfallibilität、教皇無謬性とも)である。教皇が信仰と道徳について下す決定には誤りがない。そう定めたのだ。

ブレンターノはこれを受け入れられなかった。アリストテレスから中世の神学者トマス・アクィナスへ続く、理性で考える神学。その伝統とこの教義は両立しない、と彼は判断した。当時、公会議の決定に反対して教会と別れる人たちがいた。旧カトリック運動と呼ばれる。だが彼はそこにも加わらなかった。もっと個人的で、静かな決断を選んだ。

1873年、35歳で司祭の職を辞し、還俗げんぞくした。還俗とは、聖職者をやめてふつうの人に戻ることだ。信心深い家に生まれた人である。ヴュルツブルク大学の員外教授(定員外の教授)にもなっていた。公の仕事と信仰の中心を、同時に手放す決断だった。プロイセン政府と教会が争っていた時期(文化闘争)である。辞任はドイツのカトリック社会に小さな波紋を広げた。だが彼は声明も論争も避けた。ただ黙って教壇を降り、ヴュルツブルクを去った。

翌1874年、36歳のとき、思いがけない道が開けた。哲学者ロッツェの推薦で、ウィーン大学の正教授に招かれたのだ。同じ年、主著『』(Psychologie vom empirischen Standpunkt)の第一巻を出した。序文で彼は宣言する。心理学は神学でも形而上学(世界の根本を考える学問)でもない。経験にもとづく厳密な科学であるべきだ、と。

司祭をやめた男が、心の科学を語り始めた。その本には、何が書いてあったのか。

04心はいつも、何かに向いている

『経験的立場からの心理学』の第二巻、その第一章。ブレンターノはここで、一つの短い言葉を打ち出した。

あらゆる心的現象は、それが何ものかについてのものであることによって特徴づけられる

— 『経験的立場からの心理学』第二巻・第一章「心的現象と物理的現象の区別について」(1874)。ウィーン大学に着任した年、心と物を分ける一線を引いた定式

心的現象とは、心の中で起きること全部である。見る、信じる、愛する、思い出す。ブレンターノによれば、それらには共通点が一つある。いつも「何かについて」のものだ、ということだ。見るときは何かを見ている。信じるときは何かを信じている。愛するときは何かを愛している。

石や机はそうではない。石は、何かについての石ではない。だが心は、いつも何かに向いている。この「向いている」という性質を、彼は(Intentionalität)と呼んだ。志向性とは、心が対象へ向かう方向づけのことである。

相手が実在するかどうかは関係ない。空を飛ぶ馬ペガサスを思い浮かべてみる。ペガサスはいない。それでも「ペガサスを思い浮かべる」という心の働きは、ちゃんとペガサスに向いている。対象があってもなくても、方向づけそのものは消えない。これが、心と物とを分ける決定的な一線だった。

彼はさらに、心の働きを三つに分けた。何かを思い浮かべる「表象」。それがあるかないかを決める「判断」。愛する・憎む・欲する「情動」。この三つの分け方は、後の哲学の骨組みになっていく。

この言葉を、彼はどんな教室で語ったのか。手がかりは、彼のもとに集まった学生たちの中にある。

05私講師の教室

ウィーンに来てすぐの1874年から76年にかけて、教室に一人の医学生がいた。ジークムント・フロイト。医学部の若きユダヤ人学生である。フロイトはウィーン大学でブレンターノの哲学講義を四講座にわたり聴講した。アリストテレス論と心理学の初歩を、ここで学んだのである。フロイトの受講記録と1875年の書簡に、その事実が残っている。

そして1880年、冒頭の結婚と免職が起きる。以後約15年間、ブレンターノはウィーン大学私講師(Privatdozent)として講義を続けた。正教授の肩書はもうない。だが教室はあった。私講師の席から、彼は当時ウィーンに集まっていた優秀な学生たちを育てていく。

受講生の名簿は輝かしい。エドムント・フッサール(1884年から86年に受講。数学から哲学へ転じ、後に現象学を開く)。アレクシウス・(存在しないものも研究の対象にする「対象論」の創始者)。クリスティアン・フォン・エーレンフェルス(全体は部分の足し算ではないと考える、の先駆)。カジミェシュ・(後にポーランドでを開く)。(後のチェコスロヴァキア初代大統領)。アントン・マルティ(言語の哲学)。カール・(実験心理学。初期の弟子)。

世紀末のウィーンでは、新しい考えが次々に生まれていた。その隠れた中心に、この元司祭の静かな講義があった。教授でなくても、教室があれば人は育つ。彼はそれを身をもって示していた。

だが弟子たちは、やがて師とは別の道を歩き始める。

06別れてゆく弟子たち

最愛の弟子フッサールは、ブレンターノの記述心理学から出発した。記述心理学とは、心の体験を分解せず、あるがままに書き写す方法である。だがフッサールは1913年の『』で先へ進んだ。超越論的還元(。日常の思い込みをいったん止める方法)を経て、純粋な意識の次元に踏み込んだのだ。ブレンターノは最後までこの転回を認めなかった。「現象学はもはや記述心理学ではない」と嘆いた。師弟の往復書簡には、互いへの深い敬意がある。そして、道が分かれたことへの静かな悲しみもにじんでいる。

マイノングは対象論を進め、存在しないものにも固有の「存立」を認めた。ブレンターノは最後まで違和感を示した。それでもマイノングは師を敬愛しつつ、自分の道を歩んだ。トヴァルドフスキーはポーランドへ帰り、論理学の黄金期を準備した。マサリクは独立運動を率いて、新しい国の大統領になった。

誰一人として完全な継承者はいなかった。だが皆が、彼の志向性の水脈から自分の川を引いていた。ブレンターノは、その歩みを遠くから見守った。

弟子たちが遠くへ歩き出したころ、ブレンターノ自身の暮らしも大きく変わり始める。

07暗くなる目、口述の声

1894年、妻イーダが亡くなった。深い喪失だった。翌1895年、57歳でウィーン大学を辞し、イタリアのフィレンツェへ移った。以後約20年をこの街で過ごす。

1896年ごろから目が見えにくくなり、やがて完全失明に至った。1897年に再婚したエミリー・フォン・ルプレヒトと弟子たちが、交替で本を読み上げた。口述筆記も務めた。晩年の主要な著作は、彼の口から直接生まれた。

1915年、第一次世界大戦でイタリアがオーストリアの敵国側で参戦した。ブレンターノはスイスのチューリヒに移る。1917年3月17日、同地で静かに息を引き取った。79歳。遺灰はチューリヒのフルンテルン墓地に埋葬された。葬儀は華やかではなく、生涯を貫いた静けさがそこにあった。

目が見えなくなっても、彼の心は最後まで何かに向いていた。何に向いていたのか。それを考える前に、彼が残した思想の位置を確かめておこう。

08志向性の水脈 — 思想史のなかの位置

『経験的立場からの心理学』第二巻・第一章の定式を、原文に近い形で確かめておく。あらゆる心的現象は、中世スコラ学者が「対象の志向的(あるいは心的)内在」と呼んだものによって特徴づけられる。またそれ以外の呼び方ではやや曖昧になるが、内容への関係、対象への方向、あるいは内在的対象性と呼んでもよい。あらゆる心的現象は、何ものかをそれ自身のうちに対象として含む、しかし各々その固有の仕方で。──この(intentionale Inexistenz)の規定こそ、20世紀哲学の水源となる志向性概念の古典的定式である。

この定式の思想史的深さは測りがたい。中世スコラ学のトマス・アクィナス、さらに遡ってアリストテレスの『霊魂論』の伝統から救い出したintentio(志向)の概念を、経験的心理学の中心概念として蘇らせた。神学の言葉が科学の言葉に翻訳される瞬間だった。そこから派生する三つの基本的心的類型──表象(Vorstellung、何かを思い浮かべる)、判断(Urteil、その存在を肯定・否定する)、情動(Gemütsbewegung、愛する・憎む・欲する)──の分類は、以後の現象学・価値論・倫理学の骨格となってゆく。

倫理学では「愛されるに値するもの(das Liebenswerte)」を中心概念に据え、価値は主観的感情ではなく志向的正当性の問題であるとする立場(後の現象学的価値論の源流)を打ち立てた。主要な著作は次の通りで、失明後のものは口述から生まれている。『道徳的認識の起源について』(Vom Ursprung sittlicher Erkenntnis、1889)、『心的現象の分類について』(Von der Klassifikation der psychischen Phänomene、1911)、『判断の分類について』(Die Lehre vom richtigen Urteil、1956刊)。

弟子たちへの水脈は多岐にわたる。フロイトとの関係は間接的である。志向性概念がそのままの「の心的作用」に継承されるわけではないが、「心的現象を経験的に観察する」という方法論的態度は、1874-76年の講義室で芽吹いていた。ウィーン学派の経験主義は、精神分析の隠れた養分の一つとなる。マイノングは独自の対象論(Gegenstandstheorie)を展開し、存在しない対象(金の山、丸い四角)にも固有の「存立」を認める大胆な存在論に進んだ。トヴァルドフスキーはリヴフ=ワルシャワ学派を創設し、ルカシェヴィチ・コタルビンスキ・タルスキらのポーランド論理学黄金期を準備する。マサリクはチェコスロヴァキア独立運動を主導し、哲学者=政治家として新国家の初代大統領となる。フッサールの『イデーン』における超越論的転回は、師の記述心理学からの離脱として、往復書簡に静かな悲しみを残した。

遺稿の整理は弟子たちに引き継がれ、オスカー・クラウスがプラハから始めた大量の遺稿校訂作業は、戦間期の亡命と戦後のインフレを越えて、今日までブレンターノ遺稿集として刊行が続いている。書簡・講義録・断章を合わせて、生前公刊された著作の数倍にのぼる仕事が、今なお発掘中である。

091880年、ふたたび — 手放さなかったもの

ここで、冒頭の場面に戻ろう。1880年、ウィーン。42歳のブレンターノは結婚のために国籍をいったん離れた。戻ると、正教授の地位を失った。給与は半分。保障もない。それでも彼は「講義の自由が守られた」と書いた。

思い出してほしい。その七年前、彼は司祭の職を手放している。理性と両立しない教義を、受け入れなかったからだ。声明も論争もなく、ただ黙って教壇を降りた。そして翌年、ウィーンで心の科学を語り始めた。

その科学の中心には、一つの言葉があった。心はいつも、何かに向いている。地位があってもなくても、目が見えても見えなくても、向かう先があるかぎり心は働く。彼は教室でそう教えた。私講師の席で15年、フィレンツェの闇の中で20年、それを続けた。

司祭の職と、教授の椅子。二度手放したあとに残ったものは何だったのか。彼の言葉を借りれば、それは「何ものかについて」のものだったはずだ。

では、あなたの心は今、何に向いているだろうか。

10主要な出来事と著作

  1. 1月16日、ライン河畔マリエンベルクで独伊系ロマン派文人一家に生まれる
  2. ベルリンでトレンデレンブルク指導下、学位論文『アリストテレスにおける存在者の多義性について』
  3. 8月6日、ヴュルツブルクでカトリック司祭に叙階(26歳)
  4. 教授資格論文『アリストテレスの心理学』、ヴュルツブルク大学私講師
  5. 第一ヴァチカン公会議で教皇不可謬の教義が宣言される
  6. 教皇不可謬宣言を受け司祭職を辞し還俗、ヴュルツブルク大学免職(35歳)
  7. ロッツェ推薦でウィーン大学正教授、主著『経験的立場からの心理学』第一巻刊行
  8. 医学部生フロイトがブレンターノ講義を四講座にわたり聴講
  9. 9月16日イーダ・フォン・リーベンと結婚、ザクセン短期帰化を経て正教授職を失職、以後私講師
  10. フッサールが受講、数学から哲学への転回を決定づける
  11. 『道徳的認識の起源について』、志向性倫理学の定式
  12. 妻イーダの死、ウィーン大学を辞しイタリア・フィレンツェへ移住
  13. 完全失明、以後すべての著作は口述筆記で生まれる
  14. 『心的現象の分類について』刊行、志向性概念の再定式化
  15. 第一次大戦でイタリアがオーストリアの敵国側に参戦、チューリヒへ移住
  16. 3月17日、チューリヒで死去。79歳

残した思想の輪郭

  • 志向性 — 心的現象を特徴づける「何ものかについてのものであること」、スコラ的 intentio を経験的心理学の中心概念として再生
  • 記述心理学 — 生きた心的体験を忠実に記述する方法、説明的心理学からの区別、現象学の方法的土台
  • 経験的立場 — 神学でも形而上学でもなく、意識の直接経験を厳密に観察する科学としての心理学
  • 表象・判断・情動の三分類 — 心的現象の基本類型、後のフッサール現象学・マイノング対象論・シェーラー価値論の共通骨格
  • アリストテレス復権 — 19世紀後半ドイツでのアリストテレス精読の中心、ハイデガーの「存在の問い」への遠い起点
  • 愛されるに値するもの — 倫理学の中心概念、価値を志向的正当性の問題として立て直す
  • 私講師としての二十年 — ウィーン世紀末の知的中心を教授資格なしで支えた稀有な師としての姿勢
  • 弟子たちの多様な分岐 — フッサール現象学、マイノング対象論、トヴァルドフスキー論理学派、マサリク政治哲学、フロイト精神分析への隠れた水源
  • 失明と口述の晩年 — フィレンツェでの沈黙の中で続いた仕事、遺稿集刊行が現在も進行中
1917年3月17日、第一次大戦の戦火を避けて移り住んだスイス・チューリヒで盲目のまま静かに息を引き取った。79歳。遺灰はチューリヒの**フルンテルン墓地**に埋葬され、後年、弟子たちが編んだ遺稿集が三つの大陸で刊行を続けている。

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さらに読むならFurther Reading

フランツ・ブレンターノの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

  • 原著 / 英訳Psychology from an Empirical Standpoint

    Franz Brentano / 訳: Antos C. Rancurello, D. B. Terrell, and Linda L. McAlister / Routledge

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生きた跡を辿るPlaces

フランツ・ブレンターノが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ヴィスマール市営墓地墓所

    ヴィスマール, ドイツ

    1925年チューリヒで没。故郷ヴィスマールの墓地に両親と並んで埋葬された。シンプルな鉄の十字架が目印

    地図で見る →確認 2026-04-19

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