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アルフレッド・アドラー

Alfred Adler·1870–1937·オーストリア/アメリカ·

人は「過去のせい」で生きるのか、 それとも「何のために」で生きるのか?

劣等感補償と目的論を軸に、「共同体感覚」を鍵概念として個人心理学を創始したフロイトのもう一人の離反者

  • 個人心理学
  • 劣等感補償
  • 目的論
  • 共同体感覚
  • 勇気
帝国が崩れ、ウィーンが貧しさと新しい社会づくりの間で揺れていた時代 — ひらく

時代の空気

オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンはハプスブルク末期の爛熟と社会主義運動が交差する都市で、フロイトの水曜会が精神分析の母体となっていた。第一次大戦(1914-1918)で帝国は解体、戦後の「赤いウィーン」は社会民主党政権下で大規模な社会改革に着手し、市内に32箇所の児童相談所が設立された。1934年ドルフス政権のオーストリア・ファシズム化がユダヤ系知識人を北米へ追い、アドラー自身も1935年ニューヨークへ本格移住した。

01アバディーンの朝

1937年5月28日の朝。スコットランドの港町アバディーンで、一人の老人が通りを歩いていたという。ユニオン街という通りである。67歳。ウィーンから来た医師、アルフレッド・アドラーだった。この日、アバディーン大学で講演をする予定だった。

パリ、ブリュッセル、アムステルダム、そしてスコットランド。4週間で欧州を回る連続講演の旅だった。67歳の体には過酷な日程である。講演の直前、彼は路上に倒れた。心臓発作だった。救急車の中で、息を引き取った。

なぜ、この年齢の医師が、故郷から遠い町の通りを歩いていたのか。診察室で患者を診ていれば、こんな旅に出る必要はなかったはずだ。しかも話はそこで終わらない。遺体はエディンバラで火葬され、その遺灰いはいは74年ものあいだ、火葬場かそうばに置き忘れられる。仲間とともに生きることを説き続けた男が、長く忘れられたのである。

答えは、この人の生き方の中にある。時は六十年あまり前、ウィーンの町外れに戻る。

02「この子は助からない」

アルフレッド・アドラーは1870年2月7日、ウィーン郊外のルードルフスハイムに生まれた。父レオポルトはハンガリーから来たユダヤ系の穀物商こくもつしょう(穀物を売る商人)である。七人兄弟の次男だった。

幼いアドラーの体は弱かった。くる病(骨が弱くなる病気)で、三歳まで歩けなかった。三歳のとき、隣のベッドで弟が死ぬのを見た。四歳で重い肺炎に倒れる。医者が父に「この子は助からない」と告げるのを、本人が聞いていた。

後年、彼は書いている。医者になろうと決めたのは、このときの死への恐怖と戦う決意からだった、と。もう一つ、心に刻まれたものがある。長兄ジグムントは優秀で、皆に愛されていた。兄と比べられる次男の感覚。それが、のちに一生の研究テーマとなるの出発点だった。

1888年、ウィーン大学の医学部に入る。1895年に医学博士の学位を取り、眼科医として出発した。その後、内科に転じ、ウィーン2区レオポルトシュタットの下町に診療所を開く。患者はプラーター遊園地の見世物芸人みせものげいにん、仕立屋、小さな商人の家族たちだった。

体の病気は、暮らしの条件と切り離せない。彼はそれを机の上ではなく、診察室で学んだ。1898年、最初の本『裁縫業者さいほうぎょうしゃのための健康書』(Gesundheitsbuch für das Schneidergewerbe)を出す。縫い物で働く人たちの職業病を告発する、小さな冊子だった。「医療は政治の一形式である」という感覚は、生涯のものとなる。

1897年、ロシア出身の社会主義者ライサ・エプシュテインと結婚した。ライサはレオン・トロツキー(のちのロシア革命の指導者)とも知り合いだった。家はウィーン社会民主党まわりの議論の場となり、アドラーの社会への関心はそこで鍛えられた。

そして1902年11月、32歳のアドラーのもとに一通の手紙が届く。差出人は、ジークムント・フロイトだった。

03水曜会、そして出ていった日

手紙は、発足したばかりの水曜心理学会への招待だった。のちにと呼ばれる、の生まれた場所である。アドラーはフロイトの弟子として入ったのではない。シュテーケル、カハネ、ライトラーと並ぶ、最古参のメンバーの一人だった。以後10年、彼はフロイトの協力者であり、同時にしばしば批判者でもあった。

彼の独自の考えは、早くから形になっていた。体のどこかが弱い。その弱さは、そのまま病気の原因になるのではない。心はその弱さを(おぎない、埋め合わせること)しようと、目的をもって働く。ときには補償が行き過ぎて、ずば抜けた能力を生む。

古代ギリシアの弁論家は、吃音きつおん(言葉がつかえること)に悩んだ。それでも雄弁ゆうべんで名を残した。ベートーヴェンは難聴の中で音楽を作った。この考えを、1907年『とその心的補償』という本にまとめる。器官劣等性とは、体の器官の生まれつきの弱さのことだ。大事なのはこの時点で、彼が性欲ではなく「弱さと補償」を心の駆動装置くどうそうちと見ていたことだ。

1910年、アドラーはウィーン精神分析協会の会長になる。しかし協会の中の論争は激しくなっていた。フロイトは心を動かす力の中心を、つまり性のに置いた。アドラーはこれを受け入れない。神経症(心の不調)は性欲の未解決ではなく、劣等感と優越欲求の誤った解決である、と主張した。

1911年2月、4回の論争の会合の末、アドラーは会長を辞め、協会を出た。シュテーケル、ヴィルヘルム・ヴィッテルスら9人がついてきた。新しい組織「自由精神分析協会」は、のちに「会」と名を変える。フロイトは手紙の中で、彼を「偏執狂へんしつきょう的な裏切り者」と激しく罵ののしった。

会長がみずから協会を出ていく。その決断の裏で、彼は人間の何を見ていたのか。

04弱さから始める

新しい学問に、アドラーは個人心理学という名を与えた。この「個人」は、ばらばらの一人ひとり、という意味ではない。もとのラテン語 individuum は「分けられないもの」を指す。フロイトは心を・・という三つの部分に分けて考えた。アドラーは分けない。人を、一つのまとまった全体として見る。

出発点は、幼い日の自分と同じ場所にある。人は誰でも、何もできない赤ん坊として世界に生まれてくる。だから誰もが「まだ足りない自分」という感覚から出発する。この劣等感は病気ではない。むしろ成長のエネルギーの源である。ただし、乗り越えられずに固まってしまうと話は別だ。となって、心の不調の土台になる。

では、人は何に動かされているのか。アドラーの答えは「原因」ではなく「目的」だった。怒っているから叫ぶのではない。相手を従わせる目的のために、怒りを選んでいる。引きこもるのは不安だからではない。失敗を避ける目的のために、不安を使っている。彼はこれを「見かけの因果」と呼んだ。人は、自分の症状の作者なのだ。

そして人の目標は、一人で上に立つことではない。仲間、社会、人類へと広がる「自分はここに属している」という感覚の中に、自分を置くこと。これを彼はと呼んだ。心を病むとは、この感覚を失い、自分のことばかりに関心が向いた状態である。だから治療の目標は、人とともに生きる勇気を取り戻すことになる。

1912年『神経症的性格について』、1920年『個人心理学の実践と理論』で、理論の骨組みは整った。だがその間に、世界は戦争に突入していた。

人間であるとは、自分を劣っていると感じることである

— 劣等感についての言葉。すべての人が「まだ足りない自分」から出発する、という個人心理学の出発点をひとことで言い表したもの(要旨訳)

05赤いウィーンの子どもたち

第一次大戦(1914-1918)、アドラーはオーストリア軍の軍医として従軍した。戦争で心を壊した兵士を、数多く診た。戦後のウィーンは飢えと社会の崩壊のただ中にあった。社会民主党の政権、いわゆるは、大がかりな社会改革に乗り出す。アドラーと個人心理学の仲間たちは、この改革に深く関わった。

1921年から10年ほどで、アドラーはウィーン市内に32箇所の児童相談所を作った。学校と手を組んだ、無料の心理教育である。世界で最初の組織的な学校心理学の一つだった。ウィーン市の教育局長オットー・グレッケルとの協働で実現した。

やり方が独特だった。密室での一対一の分析ではない。「問題児」とされた子の話を、家族、教師、同級生、ケースワーカーが同席する公開の場で聞く。子どもの振舞いを、家族の中での位置と学校の環境から読み解く。そしてその場の全員で、対応を考える。問題は個人ではなく関係にある、という姿勢だった。

1926年から、北米への講演旅行が始まる。1927年、(Menschenkenntnis)の米国版が大ベストセラーになった。1929年コロンビア大学客員教授、1932年ロングアイランド医科大学教授。一方、1934年、ドルフス政権のもとでオーストリアはファシズムへ傾く。個人心理学協会は活動が難しくなった。1935年、アドラー夫妻はニューヨークへ本格的に移り住んだ。

米国での彼は、講演家、教育の実践家、大衆向けの著者として活動した。『人生の意味の心理学』(1931)、『生きる意味を求めて』(ドイツ語版 Der Sinn des Lebens、1933)。市井の読者に語りかける易しい言葉。治療より予防、診察室より学校と家庭。その姿勢は、アメリカの実用主義と響き合った。

1937年5月、67歳のアドラーは、4週間の欧州連続講演の旅に出る。

意味は状況の中にはない。意味とは、われわれが状況に与えるものである。

— 『生きる意味を求めて』(1933)。米国移住の前後、大衆に向けて語りかけていた晩年の著作から

06個人心理学の骨格――考証

個人心理学(Individualpsychologie)の「個人」は、「個々ばらばら」の意味ではない。ラテン語 individuum の原義「分けられないもの」である。アドラーは、フロイトのようにエス/自我/超自我に心を分節するのではなく、一貫した一つの全体として人を捉える。その全体を貫く軸が(Lebensstil)であり、その様式の目標が優越性の追求である。

アドラー心理学の三つの主柱:

(1) 劣等感(Minderwertigkeitsgefühl)は病理ではない。すべての人間は、無力な乳児として世界に投げ出される以上、「まだ足りない自分」の感覚から出発する。劣等感はエネルギーの源であり、成長の駆動装置だ。しかし劣等感が処理できず固着したとき、劣等コンプレックスとして神経症の土台となる。

(2) 目的論(Teleologie)――人間は原因によって押されるのではなく、目的に向かって引かれる。怒っているから叫ぶのではない、相手を従わせる目的のために怒りを選ぶ。引きこもるのは不安だからではなく、失敗を回避する目的のために不安を使う。これを彼は「見かけの因果 scheinbare Kausalität」と呼ぶ。人は症状の作者である。

(3) 共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl、社会的関心 soziales Interesse)――健康な人生の目標は、個人の優越ではなく、仲間・社会・人類へと広がる所属の感覚のなかに自己を置くことである。神経症は共同体感覚の欠如、自分ばかりに関心が向いた状態として診断される。アドラー派の治療は、患者を孤立した私秘的分析から引き出し、人とともに生きる勇気を取り戻させることを目指す。

1911年の離反の対立軸は現代心理学を二つに分けたと言ってよい――過去の性的欲動か現在の目的か、個人のか社会との関係か。

ウィーンの公開カンファレンスは、共同体感覚の理論的主張と教育実践の必然的な結合である。アドラーにとって共同体感覚は単なる倫理的理想ではなく認知発達的事実であった――子どもは仲間や大人との関係のなかで初めて自分を位置づける能力を獲得する。神経症が「共同体感覚の欠如」として診断されるなら、治療の場そのものが共同体的でなければならない。診察室での二者関係は、社会性を回復させる空間として不十分である、というのが彼の確信だった。「問題は個人ではなく関係にある」というこの姿勢は、後年の家族療法やシステム論的アプローチを先取りするものであり、戦後のによる民主的教育(democratic education)モデルへ受け継がれ、さらに STEP(Systematic Training for Effective Parenting)など北米の親教育プログラムを経て、現代の学校心理学の基盤のひとつとなる。

07ふたたびアバディーン

冒頭の朝に戻ろう。なぜ67歳の医師が、故郷から遠いスコットランドの通りを歩いていたのか。もう答えは見えているはずだ。彼にとって仕事の場は、診察室ではなかった。治療より予防、診察室より学校と家庭。教師と親と、市井の人々に語りかけること。それ自体が、共同体感覚を説く人間の仕事だった。だから彼は、67歳で4週間の旅に出た。

1937年5月28日、アバディーンのユニオン街で、彼は心臓発作に倒れ、救急車の中で息を引き取った。遺体はエディンバラで火葬された。しかし世界大戦の混乱の中で、遺灰は74年間、エディンバラのワリストン火葬場に忘れ去られる。2007年、アドラーの伝記を書いていたエドワード・ホフマンが、それを偶然見つけた。2011年、遺灰はウィーンに返され、ウィーン中央墓地(Zentralfriedhof)の名誉墓地区に安置された。

思想のほうは、忘れられなかった。先に亡命していた次女アレクサンドラ、そして米国で個人心理学を継いだルドルフ・ドライカース。彼らを通じて、アドラーの考えは戦後アメリカの臨床心理学、家族療法、教育に広く広まった。だが最も熱心な読者に出会ったのは、意外にも20世紀後半以降の日本だった。岸見一郎・古賀史健『』(2013)は世界的なベストセラーになった。アドラーの死から76年。個人心理学協会日本支部が半世紀、地道に紹介を続けていた。その上に起きた、静かだが決定的な再発見だった。

四歳の病床で「この子は助からない」と聞いた少年は、自分の弱さから出発した。そして最後まで、人の中に立ち続けた。あなたが今日、腹を立てたり、引っ込んだりしたとき。それは何の「せい」だろうか。それとも、何の「ため」だろうか。

08主要な出来事と残した思索の輪郭

  1. 2月7日、ウィーン郊外ルードルフスハイムで誕生、次男
  2. ウィーン大学医学博士号取得、眼科医として出発
  3. 社会主義者ライサ・エプシュテインと結婚
  4. 『裁縫業者のための健康書』で社会医学を宣言
  5. フロイトの水曜会に最古参メンバーとして参加
  6. 『器官劣等性とその心的補償』で独自路線を提示
  7. ウィーン精神分析協会会長就任
  8. リビドー論を拒否、協会を脱退、個人心理学会を創設
  9. 『神経症的性格について』で理論骨格
  10. 第一次大戦に軍医として従軍
  11. ウィーン市に32の児童相談所設立、学校心理学の先駆
  12. 『人間知の心理学』米国版ベストセラー化
  13. コロンビア大学客員教授
  14. ニューヨークへ本格移住、ロングアイランド医大教授
  15. 5月28日、アバディーンの路上で心臓発作、67歳
  16. 74年ぶりに遺灰がウィーン中央墓地へ返還
  17. 岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』で日本的再発見

残した思索の輪郭

  • 劣等感補償 ― 弱さを成長のエネルギーへと読み替える発達論
  • 目的論 ― 原因から引き剥がし、人間を「何のために」で捉える倫理的視座
  • 生活様式(Lebensstil) ― 幼少期に形成される一貫したパターンとしての自己
  • 共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl) ― 所属と貢献の勇気、健康の指標としての社会的関心
  • 公開カンファレンス ― 家族・教師・仲間を含む関係の場での治療、家族療法の先駆
  • 予防と教育 ― 診察室より学校と家庭、児童相談所網の組織化
  • 「嫌われる勇気」 ― 承認欲求から離れ、課題を分離して自分の人生を選ぶ倫理
1937年5月28日、英国スコットランド・アバディーンでの連続講演中、路上で心臓発作により死去、67歳。遺灰は2011年エディンバラの火葬場からウィーン中央墓地の名誉墓地に返還された。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

アルフレッド・アドラーの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

アルフレッド・アドラーが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • アドラーの生家生誕

    ウィーン, オーストリア

    マリアヒルファー通り208番地、1870年にアルフレッド・アドラーが生まれた建物。正面に記念プレートが掲げられている

    地図で見る →確認 2026-04-19
  • ウィーン中央墓地墓所

    ウィーン, オーストリア

    2011年、遺骨が故郷ウィーンへ帰還し名誉墓地に再埋葬された

さらに辿るならExternal References

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