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アルフレッド・アドラー

Alfred Adler·1870–1937·オーストリア/アメリカ·

人は過去に突き動かされるのか、 それとも目的へ向かって自分を作るのか?

劣等感補償と目的論を軸に、「共同体感覚」を鍵概念として個人心理学を創始したフロイトのもう一人の離反者

  • 個人心理学
  • 劣等感補償
  • 目的論
  • 共同体感覚
  • 勇気

時代の空気

オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンはハプスブルク末期の爛熟と社会主義運動が交差する都市で、フロイトの水曜会が精神分析の母体となっていた。第一次大戦(1914-1918)で帝国は解体、戦後の「赤いウィーン」は社会民主党政権下で大規模な社会改革に着手し、市内に32箇所の児童相談所が設立された。1934年ドルフス政権のオーストリア・ファシズム化がユダヤ系知識人を北米へ追い、アドラー自身も1935年ニューヨークへ本格移住した。

01ルードルフスハイムの下町医師――病弱な次男坊

1870年2月7日、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン郊外ルードルフスハイム(現ウィーン15区ペンツィング)で、ユダヤ系ハンガリー移民の穀物商こくもつしょうレオポルト・アドラーとパウリーネの七人兄弟の次男として生まれた。

幼いアドラーは生命の弱さそのものを体に刻んでいた――くる病で三歳まで歩けず、三歳のとき弟の死を隣のベッドで看取った。四歳で重度の肺炎に倒れ、医者が父に「この子は助からない」と告げたのを聞いた。後年、彼は自分の医者志望はこのときの死への恐怖と戦う決意に発すると書く。優秀で愛されていた長兄ジグムントとの比較は、生涯の研究テーマ「」の個人的母胎となった。

1888年ウィーン大学医学部入学、1895年医学博士号取得。眼科医として出発した後、内科へ転じ、ウィーン2区レオポルトシュタットの下町に診療所を開いた。顧客はプラーター遊園地の見世物芸人みせものげいにん、仕立屋、小商人の家族たち。身体の病が生活条件と不可分であることを、彼は机上ではなく診察室で学んだ。1898年、処女作『裁縫業者さいほうぎょうしゃのための健康書』(Gesundheitsbuch für das Schneidergewerbe)は、縫製労働ほうせいろうどうの職業病を告発する社会医学の小冊子だった。「医療は政治の一形式である」という感覚は生涯のものとなる。

1897年、ロシア出身の社会主義者ライサ・エプシュテインと結婚。ライサはレオン・トロツキーの知己でもあり、ウィーン社会民主党周辺の議論の場となった家庭で、アドラーの社会的関心は鍛えられた。

02水曜会の最古参――そして1911年の離反

1902年11月、32歳のアドラーはフロイトから手紙を受け取る。発足したばかりの水曜心理学会への招待だった。アドラーはフロイトの弟子ではなく最古参メンバーの一人として――シュテーケル、カハネ、ライトラーと並んで――参加する。以後10年、彼はフロイトの協働者でもあり、しばしば批判者でもあった。

1907年の『とその心的』で、アドラーは自身の独自路線の核を既に提示している。身体器官の弱さ(劣等性)は、そのままで病の原因になるのではない。心はそれを補償しようと目的的に働き、時に過剰補償として傑出した能力を生む――デモステネスの吃音きつおん雄弁ゆうべん、ベートーヴェンの難聴と音楽。ここで重要なのは、アドラーが既に性欲ではなく「弱さと補償」を心の駆動装置くどうそうちとして見ていたことである。

1910年、アドラーはウィーン精神分析協会会長に就任。しかし協会内部の論争は激化した。アドラーはフロイトのリビドー=性欲一元論を受け入れず、「神経症は性欲の未解決ではなく、劣等感と優越欲求の誤った解決である」と主張した。1911年2月、4回の論争セッションの末、アドラーは会長を辞任し協会を脱退、シュテーケル、ヴィルヘルム・ヴィッテルスら9人を伴って新組織「自由精神分析協会」(後に「会」に改称)を立ち上げる。フロイトは彼を「偏執狂へんしつきょう的な裏切り者」と書簡で激しくののしった。

離反の対立軸は現代心理学を二つに分けたと言ってよい――過去の性的欲動か現在の目的か、個人の無意識か社会との関係か。

03目的論と劣等感補償――個人心理学の骨格

個人心理学(Individualpsychologie)の「個人」は、「個々ばらばら」の意味ではない。ラテン語 individuum の原義「分けられないもの」である。アドラーは、フロイトのようにエス/自我/超自我に心を分節するのではなく、一貫した一つの全体として人を捉える。その全体を貫く軸が(Lebensstil)であり、その様式の目標が優越性の追求である。

アドラー心理学の三つの主柱:

(1) 劣等感(Minderwertigkeitsgefühl)は病理ではない。すべての人間は、無力な乳児として世界に投げ出される以上、「まだ足りない自分」の感覚から出発する。劣等感はエネルギーの源であり、成長の駆動装置だ。しかし劣等感が処理できず固着したとき、として神経症の土台となる。

(2) 目的論(Teleologie)――人間は原因によって押されるのではなく、目的に向かって引かれる。怒っているから叫ぶのではない、相手を従わせる目的のために怒りを選ぶ。引きこもるのは不安だからではなく、失敗を回避する目的のために不安を使う。これを彼は「見かけの因果 scheinbare Kausalität」と呼ぶ。人は症状の作者である。

(3) (Gemeinschaftsgefühl、社会的関心 soziales Interesse)――健康な人生の目標は、個人の優越ではなく、仲間・社会・人類へと広がる所属の感覚のなかに自己を置くことである。神経症は共同体感覚の欠如、自分ばかりに関心が向いた状態として診断される。アドラー派の治療は、患者を孤立した私秘的分析から引き出し、人とともに生きる勇気を取り戻させることを目指す。

1912年『神経症的性格について』、1920年『個人心理学の実践と理論』で理論の骨格が整う。

意味は状況の中にはない。意味とは、われわれが状況に与えるものである。

『生きる意味を求めて』(1931)

04児童相談所と学校心理学――教育現場での個人心理学

第一次大戦(1914-1918)、アドラーはオーストリア軍の軍医として従軍、戦争神経症の患者を多く扱った。戦後のウィーンは飢餓と社会崩壊の只中にあり、社会民主党政権(赤いウィーン)は大規模な社会改革に着手する。アドラーと個人心理学派はこの改革に深くコミットした。

1921年から10年ほどで、アドラーはウィーン市内に32箇所の児童相談所(Erziehungsberatungsstellen)を設立、学校と連携した無料の心理教育を始める。これは世界初の組織的学校心理学の一つであり、当時の教育改革者オットー・グレッケル(社会民主党ウィーン市教育局長)との協働によって実現した。

アドラーの指導スタイルは特徴的だった。個別分析の密室ではなく、ケースごとに家族・教師・同級生・ケースワーカーを同席させる公開カンファレンス。「問題児」とされた子の振舞いを、家族布置かぞくふちと学校環境のなかで読み解き、その場の参加者全員が共同体として対応策を考える。「問題は個人ではなく関係にある」という姿勢は、後年の家族療法やシステム論的アプローチを先取りするものだった。

この公開カンファレンスは、共同体感覚の理論的主張と教育実践の必然的な結合である。アドラーにとって共同体感覚は単なる倫理的理想ではなく認知発達的事実であった――子どもは仲間や大人との関係のなかで初めて自分を位置づける能力を獲得する。神経症が「共同体感覚の欠如」として診断されるなら、治療の場そのものが共同体的でなければならない。診察室での二者関係は、社会性を回復させる空間として不十分である、というのが彼の確信だった。この実践は、戦後のルドルフ・ドライカースによる民主的教育(democratic education)モデルへ受け継がれ、さらに STEP(Systematic Training for Effective Parenting)など北米の親教育プログラムを経て、現代の学校心理学の基盤のひとつとなる。

1926年から北米への講演旅行を開始、1927年(Menschenkenntnis)米国版が大ベストセラーに。1929年コロンビア大学客員教授、1932年ロングアイランド医科大学(現ダウンステート医療センター)教授に就任。1934年、ドルフス政権のオーストリア・ファシズム化により個人心理学協会が活動困難となり、1935年、アドラー夫妻はニューヨークへ本格移住する。

05アバディーンの路上――連続講演のさなかに

米国でのアドラーは講演家・教育実践家・大衆向け著者としての活動に重点を置いた。『人生の意味の心理学』(1931、原題 What Life Should Mean to You)、『生きる意味を求めて』(ドイツ語版 Der Sinn des Lebens、1933)。市井の読者に語りかける易しい言葉と、治療より予防、診察室より学校と家庭、を重視する姿勢は、アメリカの実用主義と響き合った。

1937年5月、アドラーは4週間の欧州連続講演旅行に出る。パリ、ブリュッセル、アムステルダム、そしてスコットランド・アバディーンへ。67歳の体には過酷な日程だった。5月28日朝、アバディーン大学での講演予定の直前、ユニオン街の路上で心臓発作に倒れた。救急車の中で息を引き取った。

遺体はエディンバラで火葬されたが、世界大戦の混乱でその遺灰いはいは74年間エディンバラのワリストン火葬場かそうばに忘れ去られ、2007年、アドラー伝記を執筆していたエドワード・ホフマンが偶然発見する。2011年、遺灰はウィーンに返還され、ウィーン中央墓地(Zentralfriedhof)の名誉墓地区に安置された。

先に亡命していた次女アレクサンドラ、後に米国で個人心理学を継ぐルドルフ・ドライカースらを通じて、アドラーの思想は戦後アメリカの臨床心理学・家族療法・教育に広く浸透した。しかし皮肉にも、20世紀後半の日本において彼は最も熱心な読者群に出会うことになる。岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』(2013)の世界的ベストセラー化は、アドラー没後76年、個人心理学協会日本支部の半世紀の地道な紹介活動の遺産の上に実現した、静かだが決定的な再発見であった。

06主要な出来事と残した思索の輪郭

  1. 2月7日、ウィーン郊外ルードルフスハイムで誕生、次男
  2. ウィーン大学医学博士号取得、眼科医として出発
  3. 社会主義者ライサ・エプシュテインと結婚
  4. 『裁縫業者のための健康書』で社会医学を宣言
  5. フロイトの水曜会に最古参メンバーとして参加
  6. 『器官劣等性とその心的補償』で独自路線を提示
  7. ウィーン精神分析協会会長就任
  8. リビドー論を拒否、協会を脱退、個人心理学会を創設
  9. 『神経症的性格について』で理論骨格
  10. 第一次大戦に軍医として従軍
  11. ウィーン市に32の児童相談所設立、学校心理学の先駆
  12. 『人間知の心理学』米国版ベストセラー化
  13. コロンビア大学客員教授
  14. ニューヨークへ本格移住、ロングアイランド医大教授
  15. 5月28日、アバディーンの路上で心臓発作、67歳
  16. 74年ぶりに遺灰がウィーン中央墓地へ返還
  17. 岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』で日本的再発見

残した思索の輪郭

  • 劣等感補償 ― 弱さを成長のエネルギーへと読み替える発達論
  • 目的論 ― 原因から引き剥がし、人間を「何のために」で捉える倫理的視座
  • 生活様式(Lebensstil) ― 幼少期に形成される一貫したパターンとしての自己
  • 共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl) ― 所属と貢献の勇気、健康の指標としての社会的関心
  • 公開カンファレンス ― 家族・教師・仲間を含む関係の場での治療、家族療法の先駆
  • 予防と教育 ― 診察室より学校と家庭、児童相談所網の組織化
  • 「嫌われる勇気」 ― 承認欲求から離れ、課題を分離して自分の人生を選ぶ倫理
1937年5月28日、英国スコットランド・アバディーンでの連続講演中、路上で心臓発作により死去、67歳。遺灰は2011年エディンバラの火葬場からウィーン中央墓地の名誉墓地に返還された。
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  • 文脈原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 1931年、渡米する直前のアドラーが一般読者に向けて書いた『生きる意味を求めて(What Life Should Mean to You)』の基調をなす一節。出来事に固有の意味が埋まっていて、それを発...

    一次資料を開く1931年初版 'What Life Should Mean to You' Internet Archive 全文。'No experience is a c...

  • 引用二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 人間であるとは、自分を劣っていると感じることである

  • 引用一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 意味は状況の中にはない。意味とは、われわれが状況に与えるものである

    一次資料を開くChapter I 'The Meaning of Life', p. 14: 'Meanings are not determined by situatio...

  • 抜粋二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: adler.mdx pullsource '『生きる意味を求めて』(1933)' は Alfred Adler 'Der Sinn des Lebens' (Wien-Leipzig: Rolf Pa...

    一次資料を開くVandenhoeck & Ruprecht Studienausgabe Bd. 6 (2010, ISBN 978-3-525-40554-3)。Adler...

  • 出典二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: adler.mdx pullsource は Alfred Adler『Der Sinn des Lebens』を指す書誌として、年表記を1931年ではなく1933年に直せば公開可能。推奨表示は『生き...

    一次資料を開くVandenhoeck & Ruprecht 学術校訂 Studienausgabe Bd. 6。Der Sinn des Lebens の初版年 1933 を...

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生きた跡を辿るPlaces

アルフレッド・アドラーが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • アドラーの生家生誕

    ウィーン, オーストリア

    マリアヒルファー通り208番地、1870年にアルフレッド・アドラーが生まれた建物。正面に記念プレートが掲げられている

    地図で見る →確認 2026-04-19
  • ウィーン中央墓地墓所

    ウィーン, オーストリア

    2011年、遺骨が故郷ウィーンへ帰還し名誉墓地に再埋葬された

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