サルトル
自由とは、 重荷ではないか?
実存主義を旗印に、行動と思想を結びつけた哲学者
- 実存は本質に先立つ
- アンガジュマン
- 対自・即自
時代の空気
ベル・エポック末年の1905年パリに生まれた。エコール・ノルマルでアグレガシオン首席を取った1929年は世界恐慌の年、1933年のベルリン留学はヒトラー首相就任直後でフッサール現象学に触れる。1940年6月の独軍侵攻でアルザスのパドゥーに捕虜となり、トリエのシュタラーク12D収容所を経て1941年にパリへ戻る。占領下のカフェ・ド・フロールで『存在と無』(1943)を書いた。戦後はサン=ジェルマン=デ=プレで実存主義が流行、1956年ハンガリー侵攻でPCFと距離を置き、1964年ノーベル賞辞退、1968年五月革命に参加した。
01パリの少年、シュヴァイツァー家
1905年6月21日、パリ15区に生まれた。父ジャン=バティスト・サルトルは海軍士官で、ジャン=ポールが生後15か月のとき腸チフスで世を去った。幼年期の記憶に父はない。母アンヌ=マリーは実家に戻り、息子を祖父母の家で育てた。
祖父はアルザス出身の語学教師、シャルル・シュヴァイツァー。哲学者・医師・音楽家のアルベール・シュヴァイツァーは、その甥にあたる。この屋敷は本に満ちていた。サルトルは9歳になるまでほとんど学校に通わず、祖父の書斎で読みふけった。フローベール、ヴィクトル・ユゴー、そしてデカルト。文章を書くことが遊びだった少年は、「将来は作家になる」と幼い頃から公言した。
右目の外斜視はこの時期からあった。のちに失明の原因のひとつにもなる。しかし容貌について、サルトルは生涯あっけらかんとしていた。「醜いとわかっていれば、逆に自由だ」。小柄で、外見に頓着せず、どこにでも座り込んで本を読む少年だった。
02エコール・ノルマル、ボーヴォワールとの出会い
パリのリセを経て、1924年にエコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)に入学した。フランスの知的エリートが集まるこの学校で、サルトルは哲学を専攻した。同期にはレイモン・アロンがいた。
1929年のアグレガシオン(国家教員資格試験)で、サルトルは首席を獲得した。次席はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。試験官たちが議論したのはどちらを首席にするかという点で、最終的に「より哲学者らしい」サルトルが選ばれたという。ボーヴォワールは21歳で、史上最年少の合格者だった。
二人の関係は試験の前後から始まっていた。サルトルはボーヴォワールに「二年間の契約」を提案した。婚姻ではなく、対等な二人の哲学者としての同盟。「私たちは本質的な愛を持つが、それぞれの偶発的な恋愛を妨げない」。この契約的関係は、以後50年以上続いた。二人は同じアパートに住むことも、互いの日記を読むことも拒否しなかった。世間はスキャンダルと見たが、二人にとっては哲学の実践だった。
03『嘔吐』とフッサール現象学
アグレガシオンの後、サルトルはル・アーヴルの高等中学校の哲学教師となった。地方の港町での生活は、内面の不安を増幅させた。カフェや広場でひとりノートに向かい、存在の奇妙な重さを書きつけた。
1933年、サルトルはベルリンへ留学した。フランス学術院の奨学金で、エドムント・フッサールの現象学を学ぶためだった。パリのカフェでアロンがアプリコット・カクテルを指さしながら言ったという。「ねえ、これを哲学できるとしたら?」。この問いがサルトルの方向を決定的に変えた。フッサールは物そのものへ、意識の志向性へと哲学を引き戻していた。サルトルはそこに、人間存在の記述の可能性を見た。
ベルリン留学中に構想が生まれ、帰国後に書き続けた小説が、1938年に刊行された『嘔吐』である。主人公ロカンタンは、ある朝、石ころを手にした瞬間、存在の「ぬめり」に恐怖する。物が物として迫ってくる、説明不可能な過剰さ。意味が剥落した世界で、人間はどう立っていられるのか。小説は哲学的問いをそのまま散文にしたような作品だった。ガリマール社から刊行され、批評家たちは困惑しながらも注目した。
。人間はまず存在し、その後に自らを作る。だから人間はに処せられている。
04捕虜収容所から『存在と無』へ
1939年、第二次世界大戦が始まった。サルトルは気象部隊に召集され、翌1940年6月、ドイツ軍の侵攻の中でアルザスのパドゥーに捕虜となった。収容所はトリエのシュタラーク12D。数千人の捕虜が押し込まれたこの場所で、サルトルは読み、書き、議論し続けた。
収容所での経験は彼の思想を根底から変えた。壁で囲まれた空間、他者との強制的な共存、自由の不可能に見える状況の中で、逆説的に「それでも選択は残る」という確信が固まった。クリスマスには捕虜仲間のために戯曲を書き、上演した。1941年春、仮病で釈放に成功しパリへ戻る。
帰還後のサルトルは、カフェ・ド・フロールの隅のテーブルを占拠し、『』を書き続けた。暖房の効いたカフェは占領下パリで数少ない作業場だった。600ページを超えるこの大著は1943年に刊行された。
「(pour-soi)」と「(en-soi)」。意識ある人間存在は「無」を孕み、物のように固定された本質を持たない。それゆえ人間は常に自由であり、その自由は逃げようのない重荷だ。ナチス占領下という極限状況の中で書かれた、実存主義哲学の基礎文献が誕生した。レジスタンスへの参加は表立ってはなかったが、サルトルは地下出版のグループに関わり、戯曲で抵抗の精神を描き続けた。
05実存主義は戦後の流行に
1945年10月、解放後のパリ。クラブ・マントナンでの講演「実存主義はヒューマニズムである」は、数百人が押し掛け、失神者が出るほどの熱狂を呼んだ。翌年、講演録が刊行されると、「実存主義」という言葉はフランス全土に広がった。
サン=ジェルマン=デ=プレ地区が舞台だった。カフェ・ド・フロールとレ・ドゥー・マゴは、哲学者・作家・映画監督・画家が集まるサロンと化した。サルトルとボーヴォワールは毎朝10時に現れ、コーヒーを注文し、数時間執筆した。若者たちは彼らのテーブルを遠巻きに眺め、時に押しかけて議論を挑んだ。ジャズが流れ、ゴダールたちの映画が生まれ、時代の気分は「自由」だった。
同年、サルトルはボーヴォワールとともに雑誌『レ・タン・モデルヌ』(現代)を創刊した。哲学・文学・政治を横断するこの雑誌は、戦後フランスの知識人運動の中心媒体となる。「実存は本質に先立つ」――人間はまず存在し、自らを作る。神も、人種も、階級も、人を規定しない。戦争の廃墟に立つ若者たちにとって、これは解放の宣言に聞こえた。
06アンガジュマン ― ノーベル賞辞退、五月革命、毛派擁護
実存主義は「行動への思想」だった。サルトルの言葉、(engagement=参与)は、知識人が政治と社会に関わり続ける義務を意味した。この義務を、彼は自分の人生で体現し続けた。
1956年、ソ連のハンガリー侵攻を機にサルトルは共産党(PCF)との距離を宣言した。「スターリンなき共産党」への期待と失望を繰り返しながら、彼はマルクス主義を実存主義の枠組みに統合しようとした大著『弁証法的理性批判』(1960)を刊行した。
1964年、ノーベル文学賞の授与が決定した。サルトルは受賞を拒否した。「作家は制度に取り込まれてはならない。私はサルトルであり、ノーベル賞受賞者になるべきではない」。ノーベル賞を辞退した最初の受賞者となった。スウェーデン・アカデミーは困惑したが、世界の若者はこの拒否を喝采した。
1968年5月、パリ5月革命。バリケードで燃えるカルティエ・ラタン。63歳のサルトルは街頭に出て学生たちと連帯した。リュクサンブール公園で学生たちに向かいマイクを握り、「あなたたちは正しい」と叫んだ。68年以降も彼は毛沢東主義系グループの機関紙『ラ・コーズ・デュ・プープル』(人民の大義)を庇護し、自ら街頭で売りさばいた。失明が進む晩年、1973年以後はほとんど読み書きができなくなったが、口述によるインタビューと対話で思想を発信し続けた。
1980年4月15日、サルトルはパリで死去した。享年74歳。葬儀には5万人がモンパルナス墓地まで続いた。ボーヴォワールは棺の傍らに立ち、「それで幸せだった」と後に書いた。
07主要な出来事と著作
- パリ15区に誕生。父ジャン=バティストは翌年に死去
- エコール・ノルマル・シュペリウール入学
- アグレガシオン首席合格。ボーヴォワール次席。二人の契約関係が始まる
- ベルリン留学。フッサール現象学と出会う
- 小説『嘔吐』刊行。実存主義文学の先駆
- ドイツ軍に捕虜となる。シュタラーク12D収容所
- 『存在と無』刊行。カフェ・ド・フロールで執筆
- 「実存主義はヒューマニズムである」講演。雑誌『レ・タン・モデルヌ』創刊
- ソ連のハンガリー侵攻を批判。PCFとの距離を宣言
- 『弁証法的理性批判』刊行。マルクス主義と実存主義の統合を試みる
- ノーベル文学賞を辞退。制度への取り込みを拒否
- 五月革命でカルティエ・ラタンに立つ。学生たちと連帯
- ほぼ失明。口述での思想発信を続ける
- パリで死去。享年74。葬儀に5万人が参列。モンパルナス墓地に埋葬
残した思想の輪郭
- 実存は本質に先立つ ― 人間はまず存在し、その後に自らの本質を作る。神も階級も人を規定しない
- 対自と即自 ― 意識ある人間(対自)は「無」を孕み、物のような固定した本質を持たない
- 自由と責任 ― 人間は常に選択を余儀なくされ、その選択の全責任を負う「自由の刑」に服している
- アンガジュマン(参与) ― 知識人は政治・社会に関わり続ける義務を持つ
- ― が自己を対象化し、固定化しようとする緊張関係
- 状況の中の自由 ― 自由は状況を選べないが、状況への態度を選ぶことは常に可能だ
出典と確認メモ
5件- 文脈原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: quotes.ts sartre-2.context (1945 年 10 月のクラブ・マントナン講演を翌 1946 年に書籍化した小著、実存主義の定義を問われて答えた一節、ペーパーナイフのような道具...
- 文脈原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 1945年10月、解放直後のパリ、クラブ・マントナンでの講演「実存主義はヒューマニズムである」の一節。占領下のカフェで『存在と無』を書き上げた哲学者が、満員の聴衆の前で語った。人間は本質を先に与えられ...
- 抜粋原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 人間は自由の刑に処せられている
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 実存は本質に先立つ。人間はまず存在し、その後に自らを作る。だから人間は自由の刑に処せられている。
- 出典原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 『実存主義とは何か』
つながり
- キルケゴール
先駆 — サルトルはキルケゴール『不安の概念』の自由と不安の分析を引き受け、『存在と無』(1943)で自己欺瞞・投企論へと展開(「実存は本質に先立つ」の定式自体は1945–46年の講演『実存主義とは何か』で標語化)。1964年論文「キルケゴール・唯一的な普遍」(ユネスコ記念講演)で自身の系譜を明示
- ボーヴォワール
伴走 — 1929年ソルボンヌ哲学教授資格試験(アグレガシオン)で出会い、その年から生涯の「契約関係」を結ぶ。『嘔吐』(1938)『第二の性』(1949)等の草稿を互いに読み合い、法的結婚はせず、モンパルナス墓地の同じ墓に葬られる。ボーヴォワール『別れの儀式』(1981)にサルトル最晩年の記録
- ブルース・リー(李小龍)
共鳴 — 実存の自由と自己創造、型に縛られない「成る」という姿勢
- フランツ・カフカ
先駆 — 『嘔吐』(1938)『壁』(1939)の不条理と存在の偶然性の感覚は、カフカ『変身』(1915)『審判』(1925)の世界像の実存主義的引き継ぎ。戦後『シチュアシオン』シリーズでカフカ論を展開、『文学とは何か』(1947)でもカフカを「ユダヤ人作家として書いた最初の偉大な例」として論じた。被投性と疎外の文学的提示という点で系譜的に連続
- フッサール
先駆 — レヴィナスの博士論文を介して現象学に開眼、『存在と無』の方法的基礎
- アルフレッド・アドラー
共鳴 — 目的論と自己選択、「人は自らを作る」という実存主義的モチーフとの響き合い(直接の系譜ではなく理論的親近性)
- アルベール・カミュ
対比 — 「実存は本質に先立つ」の投企論と、世界との齟齬から出発する不条理論は、同じ戦後仏語圏で出発点を異にする二つの哲学 ― 1951年『反抗的人間』をめぐる『レ・タン・モデルヌ』論争(ジャンソン経由の決裂)は、この存在論的差異が歴史的暴力の是非として表面化した事件
- メルロ=ポンティ
伴走 — 1945年『レ・タン・モデルヌ』創刊を共にし政治面を担うが、朝鮮戦争・スターリン主義評価で1953年に離反、『弁証法の冒険』(1955)で公然と袂を分かつ
- フランツ・ファノン
共鳴 — サルトルはファノン『地に呪われたる者』(1961)序文を執筆し、暴力を被植民者の脱人間化に対する再人間化の契機として位置づけた。両者はテュニスでの面会(1961)を経て、実存主義と脱植民地主義の接合点を共有。ただしサルトルの序文の「暴力礼賛」解釈は後にハンナ・アーレント等から批判される
さらに読むならFurther Reading
サルトルの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門実存主義とは何か
ジャン=ポール・サルトル / 訳: 伊吹武彦 ほか / 人文書院
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ジャン=ポール・サルトル / 訳: 鈴木道彦 / 人文書院
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Jean-Paul Sartre / 訳: Carol Macomber / Yale University Press
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生きた跡を辿るPlaces
サルトルが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- カフェ・ド・フロールゆかり
パリ, フランス
サン=ジェルマン=デ=プレ、サルトルがボーヴォワールと議論し執筆した「第二の書斎」
- モンパルナス墓地(サルトルとボーヴォワールの墓)墓所
パリ, フランス
サルトルとボーヴォワールが並んで眠る共通墓。参拝者の絶えない巡礼地
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
サルトルを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ジャン=ポール・サルトル」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Jean-Paul Sartre"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Jean-Paul Sartre"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Jean Paul Sartre: Existentialism"
Internet ArchiveEnglishBeing and Nothingness(Hazel Barnes 英訳) — Internet Archive
『存在と無』英訳
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