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アルベール・カミュ

Albert Camus·1913–1960·フランス(アルジェリア生まれ)·

不条理に気づいた朝、 それでも人はどう生きるのか?

地中海の陽光と戦中のレジスタンスを背負い、神の死の後の「不条理」と「反抗」を書き継いだアルジェリア生まれの作家=思想家

  • 不条理
  • 反抗
  • シーシュポスの神話
  • 異邦人
  • ペスト

時代の空気

カミュが生まれた1913年のアルジェリアはフランス植民地、ピエ=ノワールとアラブ・ベルベル多数派が同じ土地に住み分けて暮らしていた。翌1914年父はマルヌ会戦で戦死、第三共和政下のアルジェ・ベルクール地区で母の沈黙と地中海の陽光のなかで育つ。1940年ドイツ軍占領下のパリで『異邦人』を書き、1943年地下抵抗組織コンバに加わる。戦後1947年第四共和政、1954年アルジェリア戦争開戦で彼は独立派にもフランス当局の拷問にも与しきれず、1957年ノーベル文学賞、1960年ヨンヌ県の事故で死去。

01モンドヴィのピエ=ノワール、沈黙の母

1913年11月7日、フランス領アルジェリアの東部、ボーヌ近郊の農村モンドヴィ(Mondovi、現ドレアン)に生まれた。父リュシアン・カミュはワイン倉庫の季節労働者、ピエ=ノワール(pied-noir、フランス系アルジェリア入植者)の貧しい家系だった。翌1914年、父は第一次大戦に召集され、10月マルヌ会戦で砲弾ほうだんの破片を頭に受けて戦死した。アルベールは父の顔を知らずに育つ。

一家はアルジェ市のベルクール地区、祖母と叔父と母で住む二間のアパートに移った。母カトリーヌは耳がほとんど聞こえず、文字も読めず、他家の家事手伝いで生計を立てた。少年アルベールの最初の倫理は、この母の沈黙だった。「私は貧しさのなかで自由を学び、母の沈黙のなかで世界を学んだ」と後に書く。家にはほとんど本がなかった。あるのは、アルジェの強い陽光と、地中海と、少年たちのサッカーだった。

ベルクールの公立小学校で、若い教師ルイ・ジェルマン(後年、ノーベル賞受賞時の公開書簡で感謝を捧げる人物)が彼の才能に気づき、奨学金でリセ(中等学校)へ進ませた。1930年、17歳でアルジェ大学入学直前、結核けっかくを発病。家族にうつさぬよう叔父ギュスターヴの家に移った。この病はその後生涯再発を繰り返し、サッカー選手の夢を断ち、ひとりで読書と執筆に向かわせる決定的な転機となる。

02アルジェ大学、太陽と貧困の哲学

アルジェ大学で哲学を専攻し、1936年、プロティノスとアウグスティヌスをめぐる高等学位論文『キリスト教形而上学けいじじょうがくと新プラトン主義』を書いた。ここで彼はすでに、ギリシア的な世界の肯定と、キリスト教の罪の感覚との緊張を読み取っている。この緊張は、以後のすべての作品の低音部になる。

師はジャン・グルニエ。エッセイ『島々』(Les Îles、1933)の地中海的静謐せいひつ禁欲きんよくで青年カミュを刺激し、生涯の助言者となる。1934年、最初の妻シモーヌ・イエと結婚(ただしモルヒネ依存と彼女の浮気で2年で破綻)。同時期に共産党にも入党するが、アルジェリアのアラブ人共同体を切り捨てる党の路線に抗議して1937年に除名された。政治と文学の両方で、カミュは早い段階から「多数派に属せない」立ち位置を選び取っていた。

初期エッセイ集『裏と表』(1937)、『結婚』(1939)を自費出版に近い形で刊行。ティパサの廃墟はいきょ、ジェミラの石畳いしだたみ、海、太陽、オランの夏 ― 地中海の感性を哲学する詩的散文は、後期ヨーロッパの重い形而上学とは別の道を準備していた。

03占領下パリ、『異邦人』『シーシュポスの神話』

1940年、戦局の悪化のなかパリへ渡り、『パリ・ソワール』の編集助手になる。ドイツ軍のパリ入城直後、一家は南仏クレルモン=フェラン、次いでリヨンへ避難した。1940年末、故郷アルジェの旧友フランシーヌ・フォールと二度目の結婚。二人はオランに戻って教職につき、ここで長年書きためた三つの作品を仕上げる。「の三部作」 ― 小説『』、哲学エッセイ『』、戯曲『カリギュラ』である。

『異邦人』は1942年、占領下パリのガリマール社から刊行された。母の葬儀で涙を流さず、アルジェの浜でアラブ人を太陽のまぶしさゆえに撃ち殺し、無関心のまま裁判にかけられる青年ムルソー。「今日、母が死んだ」で始まる乾いた一人称は、サルトルを含む同時代人に衝撃を与えた。サルトルはこの小説の書評を書き、二人の交流が始まる。

同年刊の『シーシュポスの神話』は、その哲学的対を成す。世界に意味はあるか。神はいない。歴史は救いをもたらさない。ならば自殺は唯一の真面目な哲学的問題なのか ― カミュの答えは明確だ。否、不条理を生きること。岩を押し上げては転落させ、また押し上げるシーシュポスの反復こそ、意味なき世界への「」である。「シーシュポスは幸福であると考えねばならない」という結語は、20世紀が手に入れた低い音域のマニフェストになった。

04『コンバ』紙とレジスタンス、『ペスト』

1943年11月、カミュは地下抵抗組織「コンバ」(Combat)に加わり、同名の秘密新聞の編集に携わった。パスカル・ピアに次ぐ実質的編集主幹として、占領下の夜を印刷所と隠れ家で過ごした。1944年8月のパリ解放、「コンバ」第一面の社説「自由の血」は彼の筆。戦後初期の彼の公的発言はすべてこの新聞から発せられた。

この地下期に構想し、戦後1947年に刊行したのが『』(La Peste)である。アルジェリアのオランに発生したペスト。市は封鎖ふうさされ、医師リウー、神父パヌルー、新聞記者ランベール、無名の委員会員タルーが、それぞれの立場から疫病えきびょう=全体主義の寓意ぐういと向き合う。「諸悪は人びとの無知から生まれる」「重要なのは、英雄でも聖人でもなく、医師であることだ」。地味な連帯と持続が、カミュの戦後倫理の形を取った。刊行は即座に爆発的に読まれ、世界中で翻訳された。

頂への闘いそれ自体が、人の心を満たすに足る。シーシュポスは幸福であると考えねばならない。

『シーシュポスの神話』結語(1942)

05『反抗的人間』、サルトルとの決裂

1951年、38歳。思想的主著『』(L'Homme révolté)を刊行した。不条理からの次の歩みとして、カミュは「反抗」(révolte)を据える。反抗は肯定と否定を同時に含む ― 不正を否と言い、同時に人間の尊厳を肯と言う。しかしこの反抗が歴史的必然に身を委ねたとき、それは「革命」と化し、ロベスピエール、ヘーゲル、マルクスを経由してスターリンの強制収容所にまで至る ― これがカミュの診断だった。「限界を持たぬ反抗は暴政になる」。

この書は、フランス左翼知識人のあいだに嵐を起こした。翌1952年、『レ・タン・モデルヌ』誌にフランシス・ジャンソンの厳しい書評が載り、カミュが直接サルトルに抗議の公開書簡を送った。サルトルの返信は有名な絶交状ぜっこうじょうとなった ― 「親愛なるカミュ、我々の友情は容易ではなかった、しかしそれを失うことを私は嘆く」。哲学的対立(歴史と暴力の是非)が人間関係を断った知識人史の象徴的事件である。カミュはこの後しばらく小説を書けなくなった。

同時期、彼はアルジェリア戦争(1954年開戦)にも引き裂かれていた。独立運動にも、フランス当局の拷問にも、どちらにも与しきれなかった。1957年のストックホルム講演で彼は語った ― 「私は正義を信じる。しかし正義の前に、私は自分の母を守る」。この「母のための沈黙」は、以後もっとも誤解され、また最も誠実に引き受けられた彼の政治的姿勢になる。

06『転落』、ノーベル賞、そして事故死

1956年、『転落』(La Chute)を刊行。アムステルダムの薄暗いバー「メキシコ・シティ」で、元パリの高名な弁護士ジャン=バティスト・クラマンスが一人の客に語り続ける独白小説。「懺悔ざんげ-裁判官」を自称する彼は、自分の偽善ぎぜんを暴きつつ聞き手も共犯きょうはんに引きずり込んでいく。かつての道徳家カミュが、自身の知識人としての誠実さを自ら審問にかけるようなこの作品は、批評家の意表を突いた。

1957年10月、ノーベル文学賞。44歳、当時の最年少受賞者の一人(キプリングに次ぐ)。受賞講演の題は「作家の役割」 ― 「私の世代の作家は、歴史のあらゆる虚偽に「否」と言い、あらゆる屈辱に「否」と言わねばならない」。受賞の翌月、カミュはベルクール地区時代の小学校教師ルイ・ジェルマンに手紙を書き、「知らせを聞いたとき、母のすぐ後に私が思ったのはあなたのことでした。あなたが貧しい小さな子どもに差し出してくれた温かい手と、あなたの授業と模範がなければ、これらは何も起こらなかった」と記して受賞講演をジェルマンに献じた(書簡は1994年公刊の『最初の人間』附録に収録)。ストックホルムから帰国後、彼は小さな村ルールマラン(Lourmarin、プロヴァンス)に家を買い、そこで未完の自伝的長編『最初の人間』(Le Premier Homme)に取りかかった。母と故郷アルジェリアへの最も率直な本になるはずだった。

1960年1月3日、ルールマランを出発した友人ミシェル・ガリマールの車に同乗し、パリへ向かった。翌1月4日午後2時少し前、ヨンヌ県ヴィルブルヴァン近郊の国道N5でタイヤが破裂、車はプラタナスに激突した。カミュは即死、運転していたガリマールも数日後に死去。46歳。事故車の泥のなかから、使用途中の列車切符、『ゲイ・サイエンス』、そして『最初の人間』の手稿144枚が回収された。この草稿は娘カトリーヌ・カミュの手で1994年にようやく刊行される。

07主要な出来事と著作

  1. フランス領アルジェリア・モンドヴィ(現ドレアン)に誕生。父はピエ=ノワールの季節労働者
  2. 父リュシアンがマルヌ会戦で戦死。母と祖母のもと、アルジェのベルクール地区で育つ
  3. 結核発病。アルジェ大学で哲学、師ジャン・グルニエに出会う
  4. 高等学位論文『キリスト教形而上学と新プラトン主義』。共産党入党(翌年除名)
  5. 『裏と表』『結婚』刊行。アルジェ劇団で演出と俳優を兼ねる
  6. パリへ渡り『パリ・ソワール』の編集助手。二度目の結婚(フランシーヌ・フォール)
  7. 占領下パリで『異邦人』『シーシュポスの神話』刊行。不条理の三部作の中心
  8. 地下抵抗組織「コンバ」の秘密新聞編集に参加、パリ解放期に一面社説を執筆
  9. 『ペスト』刊行。戦後最大級のベストセラーとなり世界的名声
  10. 『反抗的人間』刊行。歴史的暴力を肯定する革命論を批判
  11. 『レ・タン・モデルヌ』誌上の論争を経てサルトルと決裂
  12. 『転落』刊行。アルジェリア戦争下の苦しい沈黙
  13. ノーベル文学賞受賞。ストックホルム講演で「母のための沈黙」
  14. 1月4日、ヴィルブルヴァン近郊で自動車事故により死去。46歳。『最初の人間』の草稿が遺される

残した思想の輪郭

  • 不条理(absurde) ― 世界に意味を求める人間と、沈黙する宇宙との永続する齟齬。その只中でこそ哲学は始まる
  • 反抗(révolte) ― 肯と否を同時に言う倫理。不正に対して「否」を、人間の尊厳に対して「肯」を
  • シーシュポスの幸福 ― 無意味な反復を引き受け直すこと自体が、神なき世界での尊厳の形となる
  • 歴史への懐疑 ― 歴史的必然に身を委ねた革命は強制収容所に至る。反抗は「限界」を持たねばならない
  • 地中海の感性 ― 陽光、海、石、身体 ― ドイツ形而上学の重みに対する、南ヨーロッパからの応答
  • 母の沈黙の倫理 ― 理念よりも具体的な生命の守り、抽象的な正義よりも隣人の顔
1960年1月4日、ヨンヌ県ヴィルブルヴァン近郊で自動車事故により即死。46歳。遺品のカバンには未完の自伝小説『最初の人間』の草稿が残されていた。ルールマランの村の墓地に埋葬。
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  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 頂への闘いそれ自体が、人の心を満たすに足る。シーシュポスは幸福であると考えねばならない。

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: シーシュポスは幸福であると考えねばならない

    一次資料を開くGallimard 公式書誌レコード『Le mythe de Sisyphe』(Albert Camus)。Camus 出版者自身による canonical 書...

  • 出典原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: camus.mdx pullsource '『シーシュポスの神話』結語(1942)' は Camus Le Mythe de Sisyphe (Gallimard 1942) 結語末尾を指す書誌として...

    一次資料を開くGallimard 公式書誌『Le mythe de Sisyphe』。Camus 出版者による canonical 書誌情報、1942 年初版 (Les Es...

  • 引用原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 私は反抗する、ゆえに我々は在る(Je me révolte, donc nous sommes)

    一次資料を開くGallimard 公式書誌レコード『L'Homme révolté』(Albert Camus)。Camus の出版者 Gallimard 自身による can...

  • 解釈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 1942年、ナチス占領下のフランスで書かれた『シーシュポスの神話』結びの一行。岩を山頂へ押し上げては転がり落ちる神々の罰を前に、カミュは自殺でも神への跳躍でもない姿勢を「考えねばならない(Il fau...

    一次資料を開くGallimard 公式 catalog で本書が 1942年 Nrf 初版、1985年 Folio Essais (Nº 11) 再版として記載。末尾 'Il...

  • 引用一次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 真に重大な哲学的問題はただ一つしかない、自殺という問題だ

    一次資料を開くBnF カタログで 1942年 Gallimard Nrf 初版を書誌確認。Première partie 'Un raisonnement absurde' ...

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アルベール・カミュが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ルールマラン墓地墓所

    ルールマラン, フランス

    1960年の交通事故死の後に葬られた。石にローズマリーが絡む質素な墓。ノーベル賞の賞金で購入したルールマランの家の近く

    地図で見る →確認 2026-04-19

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