ブルース・リー(李小龍)
型に嵌らず、 いかに水となるか?
詠春拳から出発し、東西の哲学を渉猟して「截拳道」を構想した、俳優でもある武道思想家
- 截拳道
- 水のように
- 武道哲学
- 俳優兼思想家
時代の空気
1940年、サンフランシスコで生まれた。父李海泉は粤劇俳優として米国巡業中で、生後すぐ一家は香港へ戻る。日本軍占領下の少年期、戦後は子役と街の喧嘩に明け暮れた。1953年、葉問の詠春拳に入門。1959年に単身渡米しシアトルへ。1961-64年ワシントン大学で哲学・演劇を学び中退、1964年リンダ・エメリーと異人種婚。『グリーン・ホーネット』のカトー役で頭角を現すが、ハリウッドのアジア人差別の壁に阻まれ1971年香港帰還。『燃えよドラゴン』公開直前、1973年7月20日、香港九龍で急死。32歳。
01サンフランシスコのチャイナタウン、香港の路地
1940年11月27日、サンフランシスコ・チャイナタウンの東華病院で生まれた。父リー・ホイチュン(李海泉)は粤劇(広東オペラ)の名優で、当時は香港から米国巡業の最中、ニューヨーク・サンフランシスコの広東劇団で舞台を踏んでいた。母グレース・ホー(何愛瑜)はユーラシア系で、香港の華僑実業家ロバート・ホー・トン(何東)卿の家系と縁戚があったと伝わる。本名はリー・ジュンファン(李振藩)、英名ブルースは病院の看護師が名付けたという。幼少期に「リトル・ドラゴン」を意味するシウロン(小龍)の愛称がついた。
1941年9月、生後数か月で一家は香港へ帰る。間もなく日本軍が香港を占領し、少年期はその占領下の街で過ごすことになった。戦後、6歳の頃に『金門女(Golden Gate Girl)』(1941年撮影、戦後公開)で子役として銀幕にデビューし、以後『細路祥』『人海孤鴻』など20本近い香港映画に出演する。学校はカトリック系の名門ラ・サール書院、のち聖フランシス・ザビエル書院に在籍したが、成績は振るわず、街の抗争に首を突っ込む問題児でもあった。13歳の頃、友人を通じての師・(イップマン)の門下に入る。短気を抑えるための武術という親の勧めもあったという。
02葉問の道場、詠春拳と師兄
佛山から香港へ亡命していた葉問の道場は、九龍のビルの一室だった。小柄で俊敏な少年リーは、小念頭・尋橋・標指の型、木人樁(木人樁)、そして黐手(粘手)と呼ばれる接触感覚の稽古を貪欲に吸収した。とくに中線理論 ― 自らの中心線を守りつつ相手の中心線を直線で突く ― はのちのの骨格となった。
師兄として黄淳樑(ウォン・シュンリョン)らと稽古し、実戦的で粘り強い詠春の感覚を身につけた。指導期間は1953〜54年頃から1957〜59年頃までとされるが、正確な年数・破門説/円満説には諸説ある(白人やユーラシア系との交流で門弟から反感を買ったという説、映画俳優の道を歩み始めて自然に道場を離れたという説など)。1958年には香港チャチャダンス選手権で優勝しており、武術と踊りのフットワークが少年期から並走していたことが分かる。公の場で葉問を師と呼び続け、1972年12月の葉問の死に際してはハリウッドから追悼の意を寄せたと伝わる。
03シアトル、哲学への飛翔
1959年4月、18歳でアメリカへ渡った。香港の街喧嘩が深刻化し、米国市民権を行使してサンフランシスコ・オークランドの母方の親戚を頼ったのである。エディソン工業学校、シアトルのガーフィールド高校を経て、1961年にワシントン大学に入学した。専攻は演劇、副専攻として哲学を学んだとされる(正規の哲学専攻ではないという資料が多く、1964年に単位を残して中退している)。ここでの読書が決定的だった。『道徳経』、『荘子』、クリシュナムルティ、サルトル、鈴木大拙などリーの蔵書・手稿(後にジョン・リトル編『ブルース・リー・ライブラリー』シリーズ他に収録)には東西の精神的古典が並んだ。
1962年、シアトルのバスケットボール・コートの裏手に最初の道場「振藩国術館」を開いた。レストランのバイトをしながら自宅と郊外で中国武術を教えるなかで、のち妻となるリンダ・エメリー(後の)と出会う。1964年8月、シアトルで結婚した。当時の米国では多くの州で異人種婚が違法か社会的に禁忌とされており、1967年の合衆国最高裁ラビング判決の3年前のことだった。長男ブランドン(1965年生、俳優。1993年『クロウ』撮影中に小道具の銃の事故で死亡)、長女シャノン(1969年生)を授かる。
04オークランド決闘、截拳道の胎動
1964年8月のロングビーチ国際空手選手権で、リーは片手腕立てや寸勁(ワンインチ・パンチ)を披露し、ハリウッドのプロデューサーの目にとまった。同年、オークランドで中国人武術家黄沢民(ウォン・ジャックマン)との私闘があった(サンフランシスコ中華街の保守派が白人への中国武術指導を咎めた経緯。詳細には当事者間で証言の食い違いがあり、リーは勝利したと主張したが想定より長引き、自身の型の限界を痛感したという)。
これを契機に、リーは固定された型・型稽古への懐疑を深める。1970年にはメイン州の自宅ガレージで重量挙げ中に第四仙骨神経を損傷し、医師から二度と武術はできないと宣告される事故も経験した(寝たきりの療養中に膨大な研究ノートを書きためたとされる)。詠春拳、西洋ボクシングのフットワーク、フェンシング(兄ピーターの競技で、長男ブランドン命名の語源ともされる)、柔道の崩し、サバットの蹴り、クリシュナムルティの「型への囚われからの自由」という読書を、リーはひとつの地平で接続しようとした。こうして截拳道(ジークンドー、Jeet Kune Do ― 「相手の拳を遮り断つ道」)の萌芽が現れる。命名は1967年頃とされる。
05ハリウッド、カトー、テレビシリーズ
1966-67年、ABC『』のカトー役でアメリカのテレビに登場する。打撃スピードが速すぎてコマ撮りを落とさなければ映らなかったと語り草になった。シリーズは1シーズン26話で終わるが、俳優リーはジェームズ・コバーン、スティーブ・マックィーン、脚本家スターリング・シリファント、ロマン・ポランスキー、空手家ジョー・ルイス、バスケットボール選手カリーム・アブドゥル=ジャバーらをプライベートで指導するようになり、ハリウッドでの存在感を徐々に広げた。
1967年にはロサンゼルスのチャイナタウンに二つ目の振藩国術館を開き、ダン・イノサント、ジェリー・ポティート、ジェームズ・イーらに截拳道を伝授した。しかし自ら構想した「ウォーリアー」のテレビ企画は、中国人主演という理由で棚上げされた(この企画は形を変えて1972年に『燃えよ!カンフー』としてデヴィッド・キャラダイン主演で映像化され、リー家はプロジェクト剽窃を主張、議論は今も続く)。アメリカでは主役を張れない ― そう悟ったリーは、1971年、拠点を香港へ戻す決意をした。
空っぽの心で、形を持つな。。
06香港への帰還、『ドラゴン』四部
1971年、ゴールデン・ハーベストのレイモンド・チョウのもと、リーは『ドラゴン危機一発(The Big Boss)』に主演した。タイの製氷工場を舞台にした労働者の復讐劇は香港映画の興行記録を塗り替え、翌1972年の『ドラゴン怒りの鉄拳(Fist of Fury)』は日本の空手家との対決に植民地主義の屈折を戯画化して観客を熱狂させた。同年の『ドラゴンへの道(Way of the Dragon)』では、ローマのコロッセオでチャック・ノリスとの決闘をリー自身が監督・脚本・共演まで仕立てた。武術映画が「型と見世物」から「動きの哲学」に変容する瞬間だった。
1973年、ワーナー・ブラザーズとゴールデン・ハーベストの合作『(Enter the Dragon)』の撮影を終える。公開は同年8月19日(米)。それに先立つ5月10日、香港のADRスタジオでアフレコ中に虚脱し、香港バプテスト病院に運ばれて脳浮腫と診断された。応急処置で回復したが、7月20日、香港九龍の女優ベティ・ティン・ペイの自宅で頭痛を訴えて休み、そのまま意識を失う。クイーン・エリザベス病院で死亡が確認された。享年32歳。
剖検では脳浮腫(cerebral edema)が死因とされ、公式結論は「不幸な過敏症」(鎮痛薬エクアジェジックに含まれるアスピリンもしくはメプロバメート成分への、アナフィラキシー的反応)となった。しかしこの結論には当初から疑問が多く、熱射病説、大麻中毒説、てんかん説、暗殺陰謀論、武術団体の遅効毒説など諸説が流布した。2022年、マドリードの研究者らが医学史的観点から低ナトリウム血症(水分過剰摂取と多剤服用に起因)による脳浮腫説を提起し、再注目されている(Clinical Kidney Journal, 2022)。鎮痛剤への過敏症という公式結論を含めて、いずれも決定打ではなく、死因は今も学術的に諸説あるとしておくのが正確である。
07截拳道 ― 型を持たぬ型
リー自身は「截拳道は武術ではない、武術的真理への接近法だ」と語った。その核は以下のような逆説の束である。
型を持たぬことを型とする(Have no way as way)。制限を持たぬことを制限とする(Have no limitation as limitation)。自分に固有の条件・体格・心理から出発し、既成の流派を「忠実に継承する」のではなく、自分にとって使えるものを吸収し、不要なものを捨てる ― これがリーの掲げた「absorb what is useful, discard what is useless, add what is specifically your own」である。
武術的には、詠春拳の中線理論と直線攻撃、フェンシングの構え替えとステップ、ボクシングのフック・アッパー、柔道の崩しと関節、サバットの蹴りを統合したが、それは「ミックス」ではなく「全スタイルをくぐって到達する無スタイル」を目指した運動だった。リーは「スタイルを持つことは檻を作ることだ」と弟子に繰り返し語り、武術の門派対立を乗り越えようとした。
08水と老子 ― 東洋哲学の血流
香港育ちのリーは中国の伝統から逃げなかった。『道徳経』の「上善は水の如し」(第8章)と、より直接に第78章の「天下に水より柔弱なるは莫きも、攻堅強なるに能く之に先んずる者莫し」(天下に水より柔らかなものはない、しかし堅強を攻めるには水に及ぶものがない)が、彼の身体観の根を供給した。ピエール・バートン司会の香港TV『The Pierre Berton Show』(1971年12月9日放映、収録は同年の香港滞在期)で残した「Be water, my friend」は、老子の水の比喩を英語の口語にまで引き下ろして世界化した一言である。
一方でリーの読書は水のみに偏らない。クリシュナムルティの『知られざることからの自由』を愛読し、「教師に従うな、観察せよ」という語り口から、自分固有の観察への信頼を引き出した。サルトルの自由と実存、鈴木大拙経由の禅仏教、そして香港の学校で触れた孔子・孟子の修身の語彙も、それぞれの重みで血流に混ざった。ワシントン大学で哲学を副専攻として学んだ三年間が、この東西の血流の最初の調合の場だった。『截拳道』の断片的メモは、その血流が沸騰している記録である。
09主要な出来事と著作
- 11月27日、サンフランシスコ・チャイナタウンで誕生。本名リー・ジュンファン(李振藩)
- 9月、生後数か月で一家香港へ帰る。日本軍占領下の香港で幼少期
- 香港で子役として『金門女』『細路祥』『人海孤鴻』など約20本の広東映画に出演
- 葉問のもと詠春拳を修行(期間・終わり方は諸説)
- 香港チャチャダンス選手権で優勝
- 4月、18歳で単身アメリカへ渡る(米国生まれの市民権を行使)
- ワシントン大学(シアトル)に入学。演劇専攻、哲学副専攻
- シアトルに最初の振藩国術館を開設
- 8月、リンダ・エメリーと結婚。ロングビーチ国際空手選手権で寸勁披露。オークランドで黄沢民との私闘
- TVシリーズ『グリーン・ホーネット』カトー役でアメリカ進出(全26話)
- 截拳道(ジークンドー)を命名。ロサンゼルスに二つ目の振藩国術館
- メイン州の自宅ガレージで重量挙げ事故、第四仙骨神経損傷で長期療養
- 香港へ戻り『ドラゴン危機一発』主演、興行記録更新。バートンTV出演収録
- 『ドラゴン怒りの鉄拳』『ドラゴンへの道』(監督・主演)
- 5月10日、香港ADR中に虚脱。7月20日、香港九龍で急死、享年32。8月19日『燃えよドラゴン』公開
- 遺稿集『Tao of Jeet Kune Do(截拳道への道)』が未亡人リンダと弟子たちにより編纂・公刊
- 長男ブランドン・リー、映画『クロウ』撮影中に小道具の銃の事故で死亡(28歳)
残した思想の輪郭
- 水のように(Be water) ― 老子第78章の水の比喩を身体運動にまで翻訳し、固定された形ではなく相手と状況に応じて変形する動きを核心に据えた
- 型を持たぬことが型 ― 截拳道は特定流派ではなく、各人が自分の身体条件から始めて既成の型を破壊し再構築する真理への接近法
- 吸収せよ、捨てよ、加えよ ― 有用なものを吸収し、無用なものを捨て、固有のものを加える。武術を越えて学習一般の方法論として受容された
- 教師に従わず、観察せよ ― クリシュナムルティ由来の自己観察の優位。師承の型に縛られずに自分の動きを観察する態度
- 東西の統合 ― 詠春拳・ボクシング・フェンシング・柔道・サバットを統合し、同時に道家・禅・実存主義・クリシュナムルティを統合した、20世紀稀有の体現的哲学者
つながり
- 葉問(イップマン)
継承 — 詠春拳の師弟、1950年代後半の香港で直接指導(指導期間・破門/円満説は諸説)
- J. クリシュナムルティ
継承 — ブルース・リー蔵書にクリシュナムルティ『自由とは何か』『The First and Last Freedom』(1954)などが残る。自身の手稿・著作(『ブルース・リー・ライブラリー』シリーズ)で「truth has no path」「observation without the observer」等のクリシュナムルティの語句を反復、截拳道の「型に囚われない観察」の哲学的裏づけに据えた
- 宮本武蔵
共鳴 — 『五輪書』を介した無形の構え・二刀の思想との響き合い
- 老子
継承 — 「水のように(Be water)」は『道徳経』第78章の水の比喩に由来
- 孔子
継承 — 香港の漢学教育と家学経由の儒学受容、修身の語彙として吸収
- サルトル
共鳴 — 実存の自由と自己創造、型に縛られない「成る」という姿勢
さらに読むならFurther Reading
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生きた跡を辿るPlaces
ブルース・リー(李小龍)が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- レイクビュー墓地 ブルース・リー墓所墓所
シアトル, アメリカ
1973年没。キャピトル・ヒル北端の丘に、息子ブランドン・リーと並んで埋葬されている。世界中から年間1万人以上が訪れる
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WikipediaWikipedia 日本語版「ブルース・リー」項
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