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J. クリシュナムルティ

J. Krishnamurti·1895–1986·インド·

「救い主」に選ばれた少年は、 なぜその座を自分で捨てたのか?

神智学の「救世主」に祭り上げられ、34歳でその地位を自ら捨てた、教師を持たぬ師

  • 観察者は観察される対象
  • 教師を持たぬ師
  • 自由と叡智
西洋の神秘家たちが、植民地インドの少年に「世界を救う教師」を待ち望んだ時代 — ひらく

時代の空気

19世紀末の英領インド帝国、マドラス管区マダナパッレ。1875年に米国で創設された神智学協会は1882年にアディヤルへ本部を移し、アニー・ベサントとチャールズ・リードビーターが「来たるべき世界教師」を待望していた。1911年に東方の星の教団がインドの少年を候補として擁立する。第一次大戦と分割独立、冷戦期を貫いて、彼は1929年に教団を自ら解散。1968年にクリシュナムルティ財団を、1969年にイギリスのブロックウッド・パーク教育センターを開く。アルダス・ハクスリーの『知覚の扉』(1954)、ユング、フロムと同時代を生き、晩年はデイヴィッド・ボームと意識の問題を語った。

011929年8月3日、オーメン ― 自分の教団を、自分で閉じる

毎年夏、オランダの小さな町オーメン(Ommen)に、世界中から人が集まった。エーデ城とスター・キャンプの集会に、数千人の信者が集まる。彼らが待っているのは、ひとりの若いインド人だった。彼は「」の頭首とうしゅ、つまりトップである。信者にとって彼は、やがて世界を救う教師になるはずの人だった。

1929年8月3日。約3000人の信者と、各国から来た報道陣を前に、34歳のクリシュナムルティが口を開く。語気は荒くなく、攻撃的でもなく、むしろ静かだったと記録は伝える。

「である(Truth is a pathless land)。いかなる宗教、いかなる宗派、いかなる経路によっても、それに近づくことはできない。したがって私は、東方の星の教団を解散する。」

彼は自分が頭首を務める教団を、自分の手で閉じた。神智学協会しんちがくきょうかいから預かっていた土地も、寄付も、基金もすべて返した。「私は誰にも弟子を取らせない。権威・組織・教義で真理に近づけると説く者は、真理を裏切る」。救い主として育てられた男が、救い主の座を自分で降りたのである。

なぜ、彼はそんなことをしたのか。答えを知るには、時を20年前に戻さなければならない。

真理は道なき土地である。いかなる宗教、いかなる宗派、いかなる経路によっても、それに近づくことはできない

— 1929年8月3日、オランダ・オーメン。約3000人の信者を前にした「東方の星の教団」解散宣言

021909年、アディヤルの浜辺で

1909年の夏。インド南部の大都市マドラス(現チェンナイ)の郊外、アディヤル(Adyar)の海岸に、二人の少年がいた。14歳のクリシュナムルティと、弟のニテャ(ジッドゥ・ニテャナンダ)である。二人は浜辺で水を浴びていた。

そこに目を留めたのが、チャールズ・(C. W. Leadbeater)だった。リードビーターはの高位幹部である。神智学協会は1875年に米国で生まれた団体で、1882年に本部をアディヤルへ移していた。その幹部たちは、人類を導く「来たるべき世界教師」が現れるのを待ち望んでいた。

リードビーターは、少年のオーラを透視とうししたと主張した。「これは来たるべき世界教師・(マイトレーヤ)の器になる魂だ」。弥勒とは、仏教で未来に現れるとされる救い主である。海辺で水を浴びていた少年は、その日を境に「」と呼ばれることになった。

少年の家は、テルグ語を話すバラモン(ヒンドゥー教の僧侶階層)の家だった。彼は1895年5月12日(ヒンドゥー暦で夜明け前と伝わる)、マドラス管区のマダナパッレという町に生まれた。父ナライアニアは植民地政庁の収入役しゅうにゅうやくで、十一人の子のうち八人が育った、その八番目である。ヒンドゥーの慣習で、第八子には神話の神クリシュナの名が与えられた。それが本名ジッドゥ・クリシュナムルティの由来である。

少年時代の彼は病弱で、マラリアを繰り返した。口数が少なく、夢を見ているような子だった。教師の質問に答えられず、頓馬とんまと揶揄やゆされることもあったと伝わる。10歳のとき、母サンジェーヴァンマが亡くなった。父は1907年に役所を辞め、長く会員だった神智学協会の本部敷地へ家族を移した。1909年からは、協会の事務職として働き始めていた。浜辺の出会いは、その年のことである。

神智学協会の会長(Annie Besant)は、リードビーターの「発見」を受け入れた。1911年、ベサントは父と話し合いのうえ、兄弟二人の法的な養母ようぼとなった。二人はアディヤルの協会施設、イギリスのワーリック家、オランダのエーデ城などで徹底的に教育された。英語、フランス語、サンスクリット、スポーツ、そして神智学の教え。同じ1911年、この目的のために国際組織「東方の星の教団」(Order of the Star in the East)が作られた。その頭首に据えられたのは、16歳のクリシュナムルティだった。

器に選ばれることと、器として生きることは、別のことだった。

03選ばれた者の重み ― 1911年から1925年

1911年からあと、クリシュナムルティはヨーロッパで過ごすことが増えた。イギリス、フランス、オランダを拠点に、協会の後援者の邸宅を転々てんてんとした。ロンドン大学の入学資格試験(マトリキュレーション)にも挑んだが、失敗を重ねた。学業の成績は必ずしも秀でていなかった。「世界教師」のための教養教育と、正規の学歴とは、噛み合わなかったのである。オランダのオーメン近くにあるエーデ城は、1920年代以降、星の教団の年次集会(スター・キャンプ)の舞台になった。

1920年代の前半には、弟ニテャとともに、カリフォルニアのオハイ渓谷(Ojai Valley)で過ごすことが増えた。1922年8月、この渓谷で彼は、のちに「」と呼ばれる不思議な出来事をくぐる。3日間にわたり、背中と頭に激しい痛みが走り、意識が変わった。以後も周期的に「プロセス」は再発した。神智学の側は、これをクンダリーニ(体内の霊的な力)の目覚めとして説明した。だが本人は晩年までその図式を取らず、ただ「あるプロセス」と呼び続けた。

そして1925年11月、最愛の弟ニテャが結核で死んだ。27歳だった。神智学の「マスターたち」は、弟を治すと約束していた。それでも死は来た。は、神智学の権威に対する決定的な疑いを、彼のなかに植えつけた。1920年代の後半、彼は沈黙のなかで問い始める。自分は本当に、神智学の選ばれた器なのか。それとも、まったく別のものなのか。

答えは、世界を巡る講話でも、著作でもなかった。一度の公開宣言せんげんによって示されることになる。

04教師を持たぬ師 ― 解散のあとで

1929年8月3日の宣言を、養母でもあったベサントは苦痛のなかで受け入れた。解散にはベサントとの事前の話し合いがあり、両者にとって決定的な破局ではなかった、と見る伝記作者もいる。1932年にベサントが死去すると、クリシュナムルティは神智学協会の正式会員からも離れた。この宣言は20世紀の精神史の転換点の一つとされる。以後、彼はひとりの語り手として、60年近い道を歩むことになる。

解散のあと、彼は世界各地で公開の対話集会を続けた。インド、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアを巡回じゅんかいした。1970年代には、カリフォルニア州オハイ、スイスのザーネン、インドのマドラスとボンベイを拠点にした。1944年には、側近D・ラジャゴパールとともに米国でスター・パブリッシング・トラスト(後のクリシュナムルティ・ライティングズ社)を運営し、毎年の講話を本にしていった。『』(1954、序文)、『』(1969)、『覚醒への第一歩』(1971)、『時間の終焉』(1985、)など、数十冊が生前と没後に世に出た。1968年にはが、1969年にはイギリスのに教育センターが開かれた。

ハリウッドに近いオハイには、同時代の知識人と俳優が訪れた。作家のアルダス・ハクスリー、クリストファー・イシャウッド、女優グレタ・ガルボ、喜劇王チャーリー・チャップリン。対話の輪が結ばれた。

一方で、公の声の裏には、長く語られなかった私事があった。1932年から1957年頃まで、彼はラジャゴパールの妻ロザリンド(Rosalind Rajagopal、1903-96)と密かに親密な関係を持った。1932年と1934年に二度の流産りゅうざんがあったと、後にロザリンドの娘ラーダ・ラジャゴパールが1991年の回顧録(原題 Lives in the Shadow with J. Krishnamurti)で公にしている。「真理は道なき土地」と語る男が、ごく近い人々のあいだでは、秘密の関係と養女(ラーダ、1931生まれ)の養育を抱えて生きていた。は生前は語られず、没後に明るみに出た。いまは彼の脆もろさと矛盾を含めた人物像の一部として、伝記の側で扱われている。

教団を閉じたのちも、彼は世界を巡って語り続けた。師を持つな、と説く人が、師のように仰がれる。この矛盾を、彼自身が折に触れて認めていた。では彼は、聴衆と何をしようとしていたのか。1960年代、その問いに正面から付き合う相手が現れる。

病んだ社会に対して個人が立ち戻るべきほど、その社会は健康なのか?

— 『Commentaries on Living』第三集 (1960) の問いかけ (要旨訳)。病んだ社会に「うまく合わせる」ことを、彼は健康の証とは見なかった

05デイヴィッド・ボームとの対話 ― 観察者と観察対象の不二

1960年代初頭、量子物理学者(David Bohm、アインシュタインとの共同研究者として知られる)はクリシュナムルティの著作を読んで強い衝撃を受け、1961年に接触を始めた。ボームは「観察者と観察対象の不二」というクリシュナムルティの表現に、量子力学の観測問題と響き合うものを感じた。記録に残る最初の本格的対話は1965年であり、以後およそ20年、二人は対話を重ねた。

対話は1965年から1984年頃まで続き、1980年の対話をもとに編集された『時間の終焉』(The Ending of Time, 1985年刊)、さらにボーム死後に公刊された『思考の限界』(The Limits of Thought, 1999)として書籍化された。二人は、思考の構造(過去の記憶の継続としての自己意識)、時間の心理的構築、意識の全体性といった主題をめぐり、科学者と非-教師の二重の視点から徹底的に論じた。ボーム自身は後に「暗在秩序(implicate order)」という独自の物理哲学を展開し、クリシュナムルティの影響を公言した。

科学者との対話は、彼の言葉を試す場でもあった。だが言葉を試すことと、言葉どおりに生きることは、また別の問題である。晩年の彼は、どちらを抱えていたのだろうか。

06晩年 ― オハイ、リシヴァレー、最期

晩年のクリシュナムルティは、カリフォルニア州オハイを主な住まいとした。オハイのアーヤマンダ(Arya Vihara)の自宅で、朝5時に起きて散歩をする。午前中は執筆か対話、午後は訪問者との面会。そんな規則正しい生活を続けた。インドのリシヴァレー学校(アーンドラ・プラデーシュ)とリシ・ヴァレー学校群、イギリス・ハンプシャーのブロックウッド・パーク、オハイのオーク・グローヴ・スクール。これらの教育活動を、彼は見守り続けた。

1986年1月、彼はインドでの最後の講話をマドラス(現チェンナイ)で行った。このとき膵臓癌すいぞうがん(pancreatic cancer)が進行していた。オハイに戻り、数週間の闘病の後、1986年2月17日の夜、自宅で静かに息を引き取った。90歳。死の数日前、彼は「このマインド(mind)が何だったのか、誰も理解しなかった」と弟子に語ったと伝わる。最後の公式な言葉としては、録音された Last Talks at Saanen(1985年の夏、スイス・ザーネンの大集会)のものが知られている。

1929年、オーメンの壇上で教団を閉じた34歳の男。1986年、オハイの自宅で息を引き取った90歳の男。二人は同じ人物で、同じことを言い続けていた。誰の教えにも、私の教えにも、寄りかかるな。ただ自分で見よ。それを最後まで言い続けた人が、「誰も理解しなかった」と言い残した。オーメンの日から57年、彼の言葉は、届いていたのだろうか。

真理は道なき土地である。

— 1929年8月3日 オランダ・オーメンでの「星の教団」解散宣言

07教師を否定する教師 ― 逆説の構造

彼の「教え」は逆説の連続である。師に従うな、私にも従うな。信じるな、観察せよ。時間は心理的な幻想である(記憶から作られた「私」が時間を作る)。観察する者と観察されるものは一つである(Observer is the observed) ― 思考する「私」とその思考内容は、別々ではなく同じ心の運動である。恐怖・嫉妬・怒りを分析するな、ただ観察せよ。関係が鏡である(自己は他者との関係のなかでしか現れない)。この「教え」を彼は教壇から語り続けた。教師を否定する教師、権威を否定する権威者、組織を解散したのちも世界を巡って語る者 ― この根源的な矛盾は、彼自身が折に触れて認めた。「私は議論の相手であって、師ではない」と繰り返したが、聴衆からの「師」としての崇敬は絶えなかった。

オーメンでの解散宣言は、この逆説の起点にある。「世界教師の器」として据えられた者が、器という制度そのものを退けた。だがその退け方は、沈黙でも隠遁でもなく、60年におよぶ公開の語りだった。師を否定するために師の席に座り続ける ― 彼の生涯はこの二重性を解消せず、むしろ聴衆の前に開いたまま置いた。「観察者は観察される対象である」という命題は、この二重性を彼自身に適用したものとも読める。語る私と、語られる教えは、別々のものではない。

では、あなたの場合はどうだろうか。「誰にも従うな」と言う人の言葉に、あなたは従っているのか。見ている自分は、見られているものと、本当に別なのか。

08主要な出来事と著作

  1. 5月11日、英領インド・マドラス管区マダナパッレにバラモンの八番目の子として誕生
  2. 母サンジェーヴァンマ死去(10歳)
  3. アディヤルの海岸でリードビーターに「発見」される(14歳)
  4. 「東方の星の教団」の頭首に任命される(16歳)
  5. オハイ渓谷で神秘的「プロセス」を経験(27歳)
  6. 弟ニテャが結核で死去、神智学の権威への疑念が決定的に
  7. 8月3日、オランダ・オーメンで「星の教団」を自ら解散、「真理は道なき土地」宣言(34歳)
  8. 神智学協会から離脱、世界各地で独立した公開講話を開始
  9. 独立直前のインドで長期滞在、以後毎年冬はインドで講話
  10. 『最初で最後の自由』刊行、英語圏で反響
  11. 物理学者デイヴィッド・ボームと接触を開始(記録された本格的対話の開始は1965年)
  12. 『知られざることからの自由』刊行、代表作の一つ
  13. インドのリシヴァレー学校、英国ブロックウッド・パーク、カリフォルニアのオーク・グローヴ・スクールなどの教育活動を監督
  14. ボームとの対話が集中的に重ねられる(この記録が1985年『時間の終焉』として刊行)
  15. 1月にマドラスで最後の講話、2月17日オハイの自宅で膵臓癌により死去。90歳

残した思想の輪郭

  • 真理は道なき土地である ― いかなる宗教・組織・師匠・経路によっても真理には至らない。道は在らず、ただ今ここの観察のみ
  • 観察者は観察される対象 ― 「思考する私」と「思考の内容」は別ではなく、同じ心の運動。自己分裂が心理的苦の根源
  • 教師を持たぬ師 ― 師・教義・組織を否定しながら60年語り続けた矛盾を、自ら議論の相手として演じ続けた
  • 時間の心理的終焉 ― 記憶から作られた「私」が心理的時間を生む。時間が終わるとき、恐怖と欲望の構造が終わる
  • 関係が鏡である ― 自己は他者との関係の中でしか現れない。瞑想も孤独な静寂ではなく、日常の関係の観察が出発点
  • ボームとの対話 ― 量子物理学者との20年以上にわたる対話で、科学と精神的探求の間の橋を架けた20世紀の稀有な実例
1986年2月17日、カリフォルニア州オハイの自宅にて膵臓癌により死去。90歳。

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J. クリシュナムルティの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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