J. クリシュナムルティ
観察する者は、 観察されるものと別なのか?
神智学の「救世主」に祭り上げられ、34歳でその地位を自ら捨てた、教師を持たぬ師
- 観察者は観察される対象
- 教師を持たぬ師
- 自由と叡智
時代の空気
19世紀末の英領インド帝国、マドラス管区マダナパッレ。1875年に米国で創設された神智学協会は1882年にアディヤルへ本部を移し、アニー・ベサントとチャールズ・リードビーターが「来たるべき世界教師」を待望していた。1911年に東方の星の教団がインドの少年を候補として擁立する。第一次大戦と分割独立、冷戦期を貫いて、彼は1929年に教団を自ら解散。1968年にクリシュナムルティ財団を、1969年にイギリスのブロックウッド・パーク教育センターを開く。アルダス・ハクスリーの『知覚の扉』(1954)、ユング、フロムと同時代を生き、晩年はデイヴィッド・ボームと意識の問題を語った。
01マドラス郊外、バラモンの八番目の子
1895年5月12日(ヒンドゥー暦で夜明け前と伝わる)、英領インド・マドラス管区のマダナパッレ(現アーンドラ・プラデーシュ州チットゥール県)で、テルグ語を母語とするバラモン階層の家に生まれた。父ジッドゥ・ナライアニアは植民地政庁の収入役、母ジッドゥ・サンジェーヴァンマ。十一人を産み八人が育った兄弟の八番目で、ヒンドゥー教の慣習にしたがい、第八子の名前は神話のクリシュナにちなむと定められていた。本名はジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)。
少年期は病弱で、マラリアを繰り返し、口数の少ない夢想的な子供で、教師の質問に答えられず頓馬と揶揄されることもあったと伝わる。母は1905年、彼が10歳のとき死去した。父ナライアニアは妻の死後、1907年に植民地政庁を退職し、長くの会員でもあった縁から、家族をマドラス郊外アディヤル(Adyar)の協会本部敷地に移住させ、1909年からは協会の事務職として働き始める。
02神智学協会 ― リードビーターの「発見」
1909年の夏、アディヤルの海岸でクリシュナムルティは偶然、神智学協会の高位幹部チャールズ・リードビーター(C. W. Leadbeater)の目に留まった。少年は弟ニテャ(ジッドゥ・ニテャナンダ)とともに浜辺で水を浴びていた。リードビーターは(彼自身の主張によれば)兄のオーラを透視し、「これは来たるべき世界教師・弥勒(マイトレーヤ)の器になる魂だ」と断じた。
神智学協会の会長アニー・ベサント(Annie Besant)は、リードビーターのこの「発見」を受け入れた。1911年、ベサントは父ナライアニアと協議のうえクリシュナムルティと弟ニテャの法的養母となり、二人をアディヤルの協会施設、ついでイギリスのワーリック家、オランダのエーデ城など各地で徹底的に教育した。英語、フランス語、サンスクリット、スポーツ、神智学の教義 ― 二人の少年は、神智学運動の「来たるべき世界教師」として育てられ始める。同じ1911年、この目的のために設立された国際組織「」(Order of the Star in the East)の頭首に、16歳のクリシュナムルティが据えられた。
03ヨーロッパ、オーメン、選ばれた者の重み
1911年以降、クリシュナムルティはヨーロッパで過ごすことが増えた。イギリス・フランス・オランダを拠点に、神智学協会の後援者の邸宅を転々とし、ロンドン大学入学資格試験(マトリキュレーション)に挑むが失敗を重ねた(学業成績は必ずしも秀でておらず、「世界教師」への教養教育と正規の学歴が噛み合わなかった)。オランダのオーメン近郊、エーデ城は1920年代以降、星の教団の年次集会(スター・キャンプ)の舞台となった。
1920年代前半、弟ニテャと共にカリフォルニアのオハイ渓谷(Ojai Valley)で過ごすことが増えた。この渓谷でクリシュナムルティは1922年8月、深刻な「プロセス」と呼ぶ神秘的身体体験をくぐる。3日間にわたり激しい背中と頭部の痛みと意識変容を体験し、以後も周期的に「プロセス」は再発した。神智学の側はこれをクンダリーニ覚醒として説明したが、本人は晩年までその図式を取らず、ただ「あるプロセス」と呼び続けた。
しかし1925年11月、最愛の弟ニテャが結核により29歳で死去した。神智学の「マスターたち」が弟を治すと約束していたにもかかわらず、死は訪れた。この事件は、クリシュナムルティに神智学の権威構造への決定的な疑念を植えつけた。1920年代後半、彼は自らが神智学の選ばれた器であるのか、それとも全くの別のものであるのかを、沈黙のなかで問い始める。弟の死後に残された「マスターたち」への疑念が、彼の立ち位置そのものを揺さぶっていた。答えは、世界を巡る講話や著作ではなく、一度の公開宣言によって示されることになる。
041929年8月3日 ― 星の教団解散宣言
毎年夏、オランダのオーメン(Ommen)にあるエーデ城とスター・キャンプで、数千人の信者を集めた東方の星の教団の集会が開かれていた。1929年8月3日、そこに集まった約3000人の信者と国際的な報道陣を前に、34歳のクリシュナムルティは決定的な解散演説を行った。
「である(Truth is a pathless land)。いかなる宗教、いかなる宗派、いかなる経路によっても、それに近づくことはできない。したがって私は、東方の星の教団を解散する。」
語気は荒くなく、攻撃的でもなく、むしろ静かだったと記録は伝える。彼は、自らが頭首を務めていた教団を自らの手で解散し、神智学協会から信託として与えられていた不動産・寄付・基金のすべてを返上した。「私は誰にも弟子を取らせない。権威・組織・教義で真理に近づけると説く者は、真理を裏切る」。養母でもあった神智学協会会長ベサントは苦痛のなかでこれを受け入れた(解散にはベサントとの事前の話し合いがあり、両者にとって決定的破局ではなかったとする伝記者の解釈もある)。1932年にベサントが死去すると、クリシュナムルティは神智学協会の正式会員からも離れる。この宣言は20世紀の精神史の転換点の一つとされ、以後彼は単独の語り手として60年近いキャリアを歩むことになる。
05教師を持たぬ師 ― オハイの長い私事と公の声
解散宣言後、クリシュナムルティは世界各地で公開の対話集会(public talks, discussions)を続けた。インド・ヨーロッパ・アメリカ・オーストラリアを巡回し、1970年代にはカリフォルニア州オハイ、スイス・ザーネン、インド・マドラス/ボンベイを拠点にした。1944年には側近D・ラジャゴパールとともに米国でスター・パブリッシング・トラスト(後のクリシュナムルティ・ライティングズ社)を運営し、毎年の講話を書籍化していった。『』(1954、アルダス・ハクスリー序文)、『』(1969)、『覚醒への第一歩』(1971)、『時間の終焉』(1985、)など数十冊が、生前と没後に世に出た。
ハリウッドに近いオハイには、アルダス・ハクスリー、クリストファー・イシャウッド、グレタ・ガルボ、チャーリー・チャップリンといった同時代の知識人と俳優が訪れ、対話の輪が結ばれた。1932年から1957年頃までの長期にわたり、彼はD・ラジャゴパールの妻ロザリンド(Rosalind Rajagopal、1903-96)と密かに親密な関係を持った。1932年と1934年に二度の流産があったと、後にロザリンドの娘ラーダ・ラジャゴパールが1991年の回顧録『リーヴズ・オブ・ザ・ハート(原題 Lives in the Shadow with J. Krishnamurti)』で公にしている。「真理は道なき土地」と語る男が、ごく近い人々のあいだでは秘匿された関係と養女(ラーダ、1931生まれ)の養育を抱えて生きていた。生前は語られず、没後に明るみに出たこの私事は、彼の脆さと矛盾を含めた人物像の一部として、いまは伝記の側で扱われている。
彼の「教え」は逆説の連続である。師に従うな、私にも従うな。信じるな、観察せよ。時間は心理的な幻想である(記憶から作られた「私」が時間を作る)。観察する者と観察されるものは一つである(Observer is the observed) ― 思考する「私」とその思考内容は、別々ではなく同じ心の運動である。恐怖・嫉妬・怒りを分析するな、ただ観察せよ。関係が鏡である(自己は他者との関係のなかでしか現れない)。この「教え」を彼は教壇から語り続けた。教師を否定する教師、権威を否定する権威者、組織を解散したのちも世界を巡って語る者 ― この根源的な矛盾は、彼自身が折に触れて認めた。「私は議論の相手であって、師ではない」と繰り返したが、聴衆からの「師」としての崇敬は絶えなかった。
真理は道なき土地である。
06デイヴィッド・ボームとの対話 ― 観察者と観察対象の不二
1960年代初頭、量子物理学者デイヴィッド・ボーム(David Bohm、アインシュタインとの共同研究者として知られる)はクリシュナムルティの著作を読んで強い衝撃を受け、1961年に接触を始めた。ボームは「観察者と観察対象の不二」というクリシュナムルティの表現に、量子力学の観測問題と響き合うものを感じた。記録に残る最初の本格的対話は1965年であり、以後およそ20年、二人は対話を重ねた。
対話は1965年から1984年頃まで続き、1980年の対話をもとに編集された『時間の終焉』(The Ending of Time, 1985年刊)、さらにボーム死後に公刊された『思考の限界』(The Limits of Thought, 1999)として書籍化された。二人は、思考の構造(過去の記憶の継続としての自己意識)、時間の心理的構築、意識の全体性といった主題をめぐり、科学者と非-教師の二重の視点から徹底的に論じた。ボーム自身は後に「暗在秩序(implicate order)」という独自の物理哲学を展開し、クリシュナムルティの影響を公言した。
07晩年 ― オハイ、リシヴァレー、最期
晩年のクリシュナムルティは、カリフォルニア州オハイを主たる住処とした。オハイのアーヤマンダ(Arya Vihara)の自宅で、朝5時に起きて散歩し、午前中に執筆または対話、午後に訪問者との面会、という規則的な生活を続けた。インドのリシヴァレー学校(アーンドラ・プラデーシュ)とリシ・ヴァレー学校群、(イギリス・ハンプシャー)、オーク・グローヴ・スクール(オハイ)の教育活動を監督した。
1986年1月、クリシュナムルティはインドでの最後の講話をマドラス(現チェンナイ)で行った。このとき膵臓癌(pancreatic cancer)が進行していた。オハイに戻り、数週間の闘病の後、1986年2月17日夜、自宅で静かに息を引き取った。90歳。死の数日前、彼は「このマインド(mind)が何だったのか、誰も理解しなかった」と弟子に語ったと伝わる。最後の公式な言葉は、録音されたLast Talks at Saanen(1985年の夏、スイス・ザーネンの大集会)のものが知られている。
08主要な出来事と著作
- 5月11日、英領インド・マドラス管区マダナパッレにバラモンの八番目の子として誕生
- 母サンジェーヴァンマ死去(10歳)
- アディヤルの海岸でリードビーターに「発見」される(14歳)
- 「東方の星の教団」の頭首に任命される(16歳)
- オハイ渓谷で神秘的「プロセス」を経験(27歳)
- 弟ニテャが結核で死去、神智学の権威への疑念が決定的に
- 8月3日、オランダ・オーメンで「星の教団」を自ら解散、「真理は道なき土地」宣言(34歳)
- 神智学協会から離脱、世界各地で独立した公開講話を開始
- 独立直前のインドで長期滞在、以後毎年冬はインドで講話
- 『最初で最後の自由』刊行、英語圏で反響
- 物理学者デイヴィッド・ボームと接触を開始(記録された本格的対話の開始は1965年)
- 『知られざることからの自由』刊行、代表作の一つ
- インドのリシヴァレー学校、英国ブロックウッド・パーク、カリフォルニアのオーク・グローヴ・スクールなどの教育活動を監督
- ボームとの対話が集中的に重ねられる(この記録が1985年『時間の終焉』として刊行)
- 1月にマドラスで最後の講話、2月17日オハイの自宅で膵臓癌により死去。90歳
残した思想の輪郭
- 真理は道なき土地である ― いかなる宗教・組織・師匠・経路によっても真理には至らない。道は在らず、ただ今ここの観察のみ
- 観察者は観察される対象 ― 「思考する私」と「思考の内容」は別ではなく、同じ心の運動。自己分裂が心理的苦の根源
- 教師を持たぬ師 ― 師・教義・組織を否定しながら60年語り続けた矛盾を、自ら議論の相手として演じ続けた
- 時間の心理的終焉 ― 記憶から作られた「私」が心理的時間を生む。時間が終わるとき、恐怖と欲望の構造が終わる
- 関係が鏡である ― 自己は他者との関係の中でしか現れない。瞑想も孤独な静寂ではなく、日常の関係の観察が出発点
- ボームとの対話 ― 量子物理学者との20年以上にわたる対話で、科学と精神的探求の間の橋を架けた20世紀の稀有な実例
出典と確認メモ
6件- 引用伝承として記録伝承
伝承: 病んだ社会によく適応しているということは、健康の尺度ではない。この形の文はKrishnamurti本人の確実な逐語出典ではなく、広く帰属される伝承句として扱う。
一次資料を開くKrishnamurti Foundation Trust 公式記事は 'This quote is perhaps Krishnamurti's best-k...
- 文脈原典で確認済み要旨訳
要旨訳: krishnamurti-1.context: 1929 年 8 月 3 日、オランダ Ommen の夏期集会 (Star Camp、Eerde Castle 近郊) で、34 歳の J. Krish...
一次資料を開くKrishnamurti Foundation Trust 公式 1929 演説 archive。日付 (1929-08-03) + 場所 (Ommen Sta...
- 引用本文原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 真理は道なき土地である。
一次資料を開くKrishnamurti Foundation 公式 1929 演説 archive
- 抜粋原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 真理は道なき土地である。いかなる宗教、いかなる宗派、いかなる経路によっても、それに近づくことはできない
一次資料を開くKrishnamurti Foundation Trust 公式アーカイブで 1929 年 8 月 3 日 Ommen Star Camp での Order o...
- 出典原典で確認済み要旨訳
要旨訳: krishnamurti.mdx pullsource '1929年8月3日 オランダ・オーメンでの「星の教団」解散宣言' は J. Krishnamurti による Order of the Sta...
一次資料を開くKrishnamurti Foundation Trust 公式 1929 演説 archive。日付・場所・聴衆・組織名を canonical 確定
- 引用原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 病んだ社会に対して個人が立ち戻るべきほど、その社会は健康なのか?
一次資料を開くKrishnamurti Foundation 公式が attribution 公式声明を発表。verbatim 短縮形は K 自身の発言とは確定できないが、C...
つながり
- ブルース・リー(李小龍)
継承 — ブルース・リー蔵書にクリシュナムルティ『自由とは何か』『The First and Last Freedom』(1954)などが残る。自身の手稿・著作(『ブルース・リー・ライブラリー』シリーズ)で「truth has no path」「observation without the observer」等のクリシュナムルティの語句を反復、截拳道の「型に囚われない観察」の哲学的裏づけに据えた
- ゴータマ・シッダールタ
継承 — 自己観察と渇愛の滅、教師なしの目覚めという問題意識の共有
- シャンカラ
先駆 — 不二一元(アドヴァイタ)の「観察者と対象の不二」への遠い響き
さらに読むならFurther Reading
J. クリシュナムルティの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門自我の終焉 ― 絶対自由への道
J・クリシュナムーティ / 訳: 根木宏、山口圭三郎 / 篠崎書林
Amazonでこの版を探す →原著 / 英訳The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti / HarperOne
Amazonで原著を探す →
※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。
さらに辿るならExternal References
J. クリシュナムルティを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ジッドゥ・クリシュナムルティ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Jiddu Krishnamurti"
公式EnglishKrishnamurti Foundation Trust 公式サイト
クリシュナムルティ財団による公式講演/著作アーカイブ
修正を提案する Send a correction
一次資料で確認できる事実誤認は優先して確認します。解釈差異は編集判断です。
修正フォームを開く ▸