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芸術的直観

葉問(イップマン)

Ip Man·1893–1972·香港(佛山)·

中心を守るとは、 どういうことか?

佛山から香港へ亡命し、戦後香港で詠春拳を世界へ開いた、ブルース・リーの師

  • 詠春拳
  • 小念頭
  • 中線理論

時代の空気

19世紀末から20世紀中葉にかけて、清末の広東省佛山に生まれ、辛亥革命・軍閥混戦・国共内戦・日本軍占領を一身で受けた世代である。佛山は珠江デルタの絹商と武術館の街で、梁贊以来の詠春拳の本場だった。1949年共産党勝利で香港へ亡命し、戦後英領香港の労働組合や狭い九龍道場で詠春を秘伝から公の月謝制武術へ開いた。1953年頃、十三歳の李小龍が門下に入り、のち世界へ拡散する種が植えられる。1972年12月、ブルース・リー世界主演の前夜に喉頭癌で没した。

01佛山の名家、陳華順の道場

1893年10月1日、清朝末期の広東省佛山ぶつざん(現佛山市禅城区)に生まれた。本名葉繼問(イップ・カイマン)、のち葉問(イップ・マン)の名で知られる。父葉靄多(イップ・オイトー)は地元の絹商で、母呉瑞(ン・スイ)との間に四人の兄姉があり、葉問はその末子として生まれた。葉家は佛山桑園街に大邸宅を構える富裕商家で、邸宅の一郭を借りて(「找錢華」チャンワーの渾名、銭両替商だった)が詠春拳の道場を開いていた。

7歳頃、葉家の少年は陳華順に入門した。陳は梁贊(ワン・ジャン、佛山詠春拳の中興の祖と言われる)の高弟で、富裕な葉家から月謝を受け取れる数少ない弟子だったという。少年葉問は小念頭しょうねんとう尋橋じんきょう標指ひょうしの三套と木人樁もくじんとう黐手ちしゅを学び始めた。1901年(8歳頃)に陳華順は中風を病み道場を閉じ、一番弟子の呉仲素(ン・チュンソウ)に葉問を託した。基本功と実戦感覚は、この師兄の手を通じて固められた。

02香港、梁璧との遭遇

16歳頃(1909年頃)、葉問は香港の聖ステファノ書院(St. Stephen's College、英国国教会系の名門男子校)に学生として渡った。英語と西洋学を学ぶ英国系の学校で、葉家の財力ならではの選択である。当時の香港は英領で、大陸から距離を置いた華南の知識・商業の結節点けっせつてんだった。ここで同級生の紹介で、(レオン・ビック、佛山詠春拳を再興した梁贊の息子で、当時は元清朝公務員として香港在住)と出会った。梁璧は香港で絹商を営みつつ、父譲りの詠春拳の奥義を継いでいた。

葉問は当初、梁璧を試そうとを仕掛けたが、手もなくあしらわれた。以後数年、師兄として稽古をつけてもらい、陳華順系統で学んだ詠春拳を、佛山本家の梁贊直系の感覚で深化させる機会を得た。佛山での基本套路と、香港での応用と理の二系統を、葉問は生涯にわたって統合し続けることになる。

03佛山での中年 ― 警官、戦争、貧窮

1923年頃、葉問は佛山へ戻った。やがて1916年(諸説あり)に張永成(チョン・ウィンセン、佛山の名家の女性)と結婚し、のち長男葉準(イップ・チュン、1924-、のち香港詠春拳の伝承者の一人)、次男葉正(イップ・チン、1936-、同)ら四人の子をもうけた。葉問は佛山警察の刑事として勤務し(1923年から1937年の日中戦争勃発まで)、詠春拳を同僚や親族に私的に教えた。道場を開いて広く生徒を取ることはなかった ― 詠春拳はまだ秘伝の色が濃い時代だった。

1937年、盧溝橋ろこうきょう事件から始まる日中戦争は、翌年には佛山にも及んだ。日本軍占領下せんりょうかで葉家は財産を大きく失い、葉問は日本軍への協力を拒み隠遁いんとんと極貧の生活を送ったと伝えられる(日本軍の招請を辞退したという逸話には諸説あり、映画三部作で劇的に誇張された)。1945年の日本敗戦後、中国は国共内戦へ突入する。国民党系の警官けいかんだった葉問は、1949年8月の共産党勝利の敗色はいしょくを見て香港へ亡命ぼうめいする道を選んだ。妻張永成は一時深圳まで同行したのち、子らと広東に戻り、葉問は単身香港の街に立った。56歳の難民としての再出発である。

04深水埗、梁相、公開された詠春

秘伝として家の中でのみ伝えてきた武術が、亡命先では生活の糧となった。1950年、香港九龍深水埗サムスイポーの飯店労働組合(飯店職工総会、レストランワーカーズ・ユニオン)の一室を借りて、葉問は詠春拳を教え始めた。これが香港における第一回の公衆教練班(後年の弟子たちは1957年版を「正式な第一回」と数えることもある)で、最初の弟子のひとりが、組合の料理人たちを束ねる梁相(レオン・シウン)だった。梁相の尽力じんりょくで道場は維持され、やがて葉問は尖沙咀・油麻地・旺角と教場きょうじょうを変えつつ香港全域で指導するようになる。

この時期から、葉問は詠春拳を秘伝から公共の武術へと開いた。それまで家門内で一子相伝に近い形で伝えられていた詠春拳を、広告を出し月謝げっしゃを取り、労働者・学生・ホワイトカラー・俳優志望の少年まで、幅広い階層かいそうに教えた。1950年代後半から60年代にかけて、黄淳樑(ウォン・シュンリョン、「講手王」と呼ばれた実戦家)、徐尚田、招允、何金銘ら後の名師を多数輩出し、1967年には葉問体育会(のちの国際詠春総会の母体の一つ)を設立した。

05ブルース・リーとの師弟

1954年頃(一説には1953年、リーが13歳前後)、李小龍(リー・ジュンファン、のちのブルース・リー、1940-73)が葉問に弟子入門にゅうもんした。友人で先輩弟子の張卓慶(ウィリアム・チョン)の紹介だったとされる。葉問自身は高齢で直接教えることは少なく、黄淳樑や張卓慶ら師兄たちが日々の稽古をつけた。リーは小念頭から尋橋までを習得し、木人樁と黐手に熱中した。

指導期間は1954年頃〜1957〜59年頃とされる。終わり方には諸説あり、リーが白人やユーラシア系(リーは母方がユーラシア系)であるという噂を聞いた一部の兄弟子が、「純粋な中国人以外に中国武術を教えるべきではない」と葉問に抗議し、葉問が困難な立場に立たされたという説、リーが映画俳優の道と1959年のアメリカ渡航で自然に道場を離れたという説、などがある。伝記作家により破門説と円満説の両方が流通しているが、いずれにせよリーは生涯葉問を師として公言し、1970年前後に香港で葉問への再訪を果たしたと伝わる(よく知られる8ミリフィルムは、葉問ひとりが木人樁を演じる姿をブルース・リーが撮影したもので、リー自身は映っていない。映画『燃えよドラゴン』撮影は1973年で葉問没後)。

拳は心に由る、心は拳に現る。中線を守りて、直を以て直を破る。

詠春拳伝承の訓(口伝、のち弟子たちの著述に採録)

06詠春拳の核心 ― 中線・小念頭・黐手

葉問が体系化した詠春拳の骨格は、以下のように整理できる。

  • 三套路 ― 小念頭(動かぬ構えの中で小さな手技の原理を定着させる)、尋橋(相手との橋=接触を探す歩法と体軸)、標指(指先を標して攻める緊急時の応用)。
  • 中線理論ちゅうせんりろん ― 自分の中心線を守りつつ、相手の中心線に最短の直線で攻める。正面で構え、両手を同時に機能させる(詠春はボクシングのように利き手を後ろに置かない)。
  • 黐手(チーサオ、粘手) ― 手首・前腕の接触から相手の力線を読み、攻撃と防御を一挙動で処理する感覚訓練。詠春拳の核であり、これなしでは型が死ぬ。
  • 木人樁 ― 木の人形を相手に108の標準套路を反復し、実戦的な距離感と角度を身体に刻む。

葉問はこれらを「力ではなく理で勝つ」武術として言語化し、小柄な者・女性・高齢者にも開かれた武術として提示した。暴力を誇示する武術ではなく、最短・最小労力で中心を制す技術体系 ― これが、戦後香港の狭い路地と狭い道場で20世紀後半に急速に広まった理由だった。

07晩年、映画三部作による再発見

葉問は喫煙家であり、晩年は健康を損ねていった。妻張永成は1960年に香港で病没しており、晩年の身辺の世話は弟子筋の女性が担ったとも伝わる(晩年ばんねんの私生活は史料が薄く、語りには弟子による敬意の脚色が入る)。1972年12月2日、香港九龍の自宅で喉頭癌こうとうがんにより死去。79歳。死の直前、葉問は小念頭・尋橋・標指・木人樁の要点を8ミリフィルムで撮影させ、後世のために残した(これは現存し、詠春拳研究の一次資料になっている)。愛弟子ブルース・リーは師の葬儀には立ち会えず(当時ハリウッドと香港を行き来していた)、翌1973年7月に32歳で世を去った。師弟はわずか半年差でこの世を去ったことになる。

葉問の名は、東アジア・欧米の詠春拳網の中で静かに受け継がれていたが、21世紀に入り映画『イップ・マン』三部作(2008・2010・2015、ウィルソン・イップ監督・ドニー・イェン主演)、およびウォン・カーウァイ監督『一代宗師(グランド・マスター)』(2013、トニー・レオン主演)により、一般観客にも広く再発見さいはっけんされた。映画は史実を大胆に脚色しており(日本軍将校との素手決闘、西洋人ボクサーとの対決、鉄道での戦いなどは創作色が強い)、葉家遺族()もメイキングに参画しつつ「映画は物語、史実とは別」と明言している。それでも佛山と香港で一介の武術家だった葉問を、世界的な文化アイコンに変えた功績は確かである。神格化しんかくかと史実の距離は、観る側が引き受けるべき余白として残されている。

08主要な出来事と著作

  1. 10月1日、清朝末期の広東省佛山の絹商家に誕生。本名葉繼問、父葉靄多・母呉瑞の末子
  2. 陳華順に詠春拳を入門。間もなく陳の中風により師兄呉仲素が指導を引き継ぐ
  3. 香港の聖ステファノ書院に留学、同級生経由で梁贊の子・梁璧と出会い師事する
  4. 張永成と結婚(諸説あり)
  5. 佛山に戻り佛山警察の刑事として勤務、同僚・親族に詠春拳を私的に指導。葉準・葉正ら子をもうける
  6. 日本軍占領下で隠遁・貧窮、協力を拒否したとの伝承。終戦後は国民党系警官
  7. 8月、国共内戦の共産党勝利に伴い単身香港へ亡命(56歳)
  8. 九龍深水埗の飯店職工総会で詠春拳を教え始める。弟子・梁相の尽力
  9. ブルース・リーが13歳前後で入門(指導期間・終わり方は諸説)
  10. 公開教練班を本格化(後年の弟子はこの年を「第一回」と数えることもある)
  11. 妻張永成、香港で病没
  12. 黄淳樑・徐尚田・招允ら後の名師を輩出、詠春拳を秘伝から公共武術へ。拳譜の公開
  13. 葉問体育会を設立、詠春拳の組織的伝承を整備
  14. 8ミリフィルムに小念頭・尋橋・標指・木人樁を残す。12月2日、喉頭癌で死去。79歳
  15. 弟子ブルース・リー、師の半年後にハリウッドから戻った香港で急死(32歳)
  16. 映画『イップ・マン』三部作(ドニー・イェン主演)で世界的に再発見。2013年『一代宗師』

残した思想の輪郭

  • ― 自他の中心線を見極め、最短の直線で制す。武術の暴力性を幾何学に置換する発想
  • 小念頭の思想 ― 動かぬ構えの中で手の小さな原理を何千回も反復し、動きの種を植える。「静から動が生まれる」身体観
  • 黐手(粘手)の感覚 ― 接触を通じて相手の力線を読む。目ではなく皮膚で思考する武術的感性
  • 秘伝から公共へ ― 家門で一子相伝に近かった詠春拳を、月謝制と広告で戦後香港の庶民に開いた制度革新
  • 小さき者の武術 ― 力ではなく理で勝つ。小柄な者・女性・高齢者にも開かれた、民主的な体現哲学
1972年12月2日、香港九龍の自宅で喉頭癌により死去。79歳。ブルース・リーに先立つ半年前のことだった。

つながり

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