葉問(イップマン)
守ってきた秘密を、 なぜ人に開いたのか?
佛山から香港へ亡命し、戦後香港で詠春拳を世界へ開いた、ブルース・リーの師
- 詠春拳
- 小念頭
- 中線理論
革命と戦争が国を裂き、故郷を捨てて海を渡る人が続いた時代 — ひらく
時代の空気
19世紀末から20世紀中葉にかけて、清末の広東省佛山に生まれ、辛亥革命・軍閥混戦・国共内戦・日本軍占領を一身で受けた世代である。佛山は珠江デルタの絹商と武術館の街で、梁贊以来の詠春拳の本場だった。1949年共産党勝利で香港へ亡命し、戦後英領香港の労働組合や狭い九龍道場で詠春を秘伝から公の月謝制武術へ開いた。1953年頃、十三歳の李小龍が門下に入り、のち世界へ拡散する種が植えられる。1972年12月、ブルース・リー世界主演の前夜に喉頭癌で没した。
01深水埗の一室
1950年、香港の九龍、深水埗。ここに料理人たちの労働組合、飯店職工総会があった。その一室を借りて、一人の男が武術を教え始めた。詠春拳(えいしゅんけん)。広東の街、佛山に伝わる拳法である。男の名は葉問(イップ・マン)。五十代も半ばを過ぎていた。
前の年、葉問は単身香港へ亡命していた。家も、財産も、妻や子も、海の向こうに残したままだった。手元にあるのは、幼い日から身につけた詠春拳だけである。最初の弟子のひとりは、組合の料理人たちを束ねる梁相(レオン・シウン)だった。
ここに一つの謎がある。詠春拳は長いあいだ、家の中だけで伝えられてきた秘伝だった。葉問自身も、それまで道場を開いたことがない。警官として働きながら、同僚や親族にだけ教えてきた。その男が、見ず知らずの料理人たちに月謝を取って教える。半世紀守ってきた秘密を、なぜ開いたのか。
答えを知るには、時を五十年ほど戻さなければならない。舞台は清朝の末、広東の佛山である。
02佛山の名家、陳華順の道場
葉問は1893年10月1日、佛山の裕福な家に生まれた。本名は葉繼問(イップ・カイマン)という。父の葉靄多(イップ・オイトー)は絹を商う商人だった。母は呉瑞(ン・スイ)。四人の兄と姉がいて、葉問はその末っ子である。
葉家は佛山の桑園街に大きな屋敷を構えていた。その屋敷の一角を借りて、道場を開いていた男がいる。(チャン・ワーシュン)。もとは両替商で、「找錢華(チャンワー)」のあだ名で呼ばれた。陳は(レオン・ジャン)の高弟だった。梁贊は佛山の詠春拳を立て直した人物で、「中興の祖」と言われる。
7歳のころ、葉家の末っ子は陳華順に入門した。裕福な葉家から月謝を受け取れる、数少ない弟子だったという。少年は(しょうねんとう)・尋橋(じんきょう)・標指(ひょうし)の三つの型を学び始めた。木の人形を相手に打つ(もくじんとう)も、ここで覚えた。手を触れ合わせて相手の力を読む(ちしゅ)も、同じである。
ところが1901年、陳華順は中風(脳卒中)で倒れ、道場を閉じてしまう。葉問は8歳ほどだった。陳は一番弟子の呉仲素(ン・チュンソウ)に、この少年を託した。基本と実戦の感覚は、この兄弟子の手で固められていく。やがて少年は、学校に通うため海の向こうの街へ向かう。
03香港、梁璧の手
16歳のころ、葉問は香港へ渡った。聖ステファノ書院(St. Stephen's College)に入るためである。英国国教会系の名門男子校で、英語と西洋の学問を教えた。裕福な葉家だからこそ選べた道だった。当時の香港は英国の領土で、中国本土とは少し距離を置いた、学問と商売の街だった。
この学校で、同級生がある人物を紹介してくれた。(レオン・ビック)。佛山詠春拳を立て直した、あの梁贊の息子である。もとは清朝の役人で、当時は香港で絹を商っていた。父から受け継いだ詠春拳の奥義を、梁璧は持っていた。
若い葉問は、この人物を試そうとした。黐手を仕掛けたのである。ところが、手もなくあしらわれてしまった。以後、数年にわたり、葉問は梁璧に稽古をつけてもらう。陳華順から学んだ詠春拳を、梁贊直系の感覚で深める機会だった。
佛山で覚えた基本の型と、香港で学んだ応用と理(ことわり)。この二つの流れを、葉問は生涯かけて一つにしていくことになる。だが、その前に彼を待っていたのは、武術とは別の人生だった。
04警官、戦争、そして亡命
やがて葉問は佛山に戻った。張永成(チョン・ウィンセン)と結婚したのは1916年ごろとされる(諸説あり)。佛山の名家の女性だった。長男の葉準(イップ・チュン)は1924年、次男の葉正(イップ・チン)は1936年に生まれた。子は全部で四人。の二人は、のちに香港で詠春拳を受け継ぐことになる。
1923年から1937年まで、葉問は佛山警察の刑事として勤務した。詠春拳は、同僚や親族にだけ私的に教えた。道場を開いて広く生徒を取ることはなかった。詠春拳はまだ、秘伝の色が濃い時代だったのである。
1937年、盧溝橋事件から日中戦争が始まる。翌年には戦火が佛山にも及んだ。葉問は日本軍占領下で隠遁・貧窮の生活を送ったと伝えられる。人目を避けて暮らし、ひどく貧しかった、ということである。葉家は財産の多くを失った。日本軍への協力を拒んだという逸話もある(ただし諸説あり、映画三部作では大きく誇張された)。
1945年、日本が敗れる。だが中国に平和は来なかった。国民党と共産党が争うが始まったのである。葉問は国民党系の警官だった。1949年8月、共産党の勝利が見えたとき、葉問は香港へ逃れる道を選ぶ。妻の張永成は深圳まで同行したのち、子らと広東へ戻った。葉問は単身香港へ亡命した。五十代半ばの、難民としての再出発だった。
拳は心に由る、心は拳に現る
05秘伝が開かれた日
こうして物語は、深水埗の一室に戻ってくる。秘伝として家の中でだけ伝えてきた武術が、亡命先では生活の糧になった。1950年、葉問は飯店職工総会で詠春拳を教え始める。これが香港で最初の公開の教練班である(のちの弟子たちは、1957年の班を「正式な第一回」と数えることもある)。
最初の弟子のひとり、梁相の尽力で道場は保たれた。やがて葉問は教える場所を変えていく。尖沙咀(チムサーチョイ)、油麻地(ヤウマテイ)、旺角(モンコック)。香港のあちこちで教えるようになった。
この時期から、葉問は詠春拳を秘伝から公共の武術へと開いた。それまでは家門の中で、ほとんど一子相伝に近い形で伝えられてきた。それを、広告を出し、月謝を取って教えた。労働者も学生も、会社勤めの人も、俳優を目指す少年も。幅広い人々が門をくぐった。
1950年代後半から60年代にかけて、多くの名師が育った。(ウォン・シュンリョン)は「講手王」と呼ばれた実戦家である。徐尚田、招允、何金銘らも、この時期の弟子だ。1967年には葉問体育会を設立した。のちの国際詠春総会の母体の一つである。そして俳優を目指す少年たちの中に、ひとり、世界の映画史を変える子がいた。
06十三歳の少年、ブルース・リー
1954年ごろ(一説には1953年)、ひとりの少年が入門した。李小龍(リー・ジュンファン)。のちのブルース・リー(1940-73)である。13歳前後だった。友人で兄弟子の張卓慶(ウィリアム・チョン)の紹介だったとされる。
葉問は60歳前後だった。直接手を取って教えることは少なかった。日々の稽古をつけたのは、黄淳樑や張卓慶ら兄弟子たちである。少年は小念頭から尋橋までを覚え、木人樁と黐手に熱中した。
指導の期間は、1954年ごろから1957〜59年ごろまでとされる。終わり方には諸説ある。ひとつは、兄弟子の抗議説である。リーは母方がユーラシア系(西洋人と東洋人の血を引く)だった。「純粋な中国人以外に中国武術を教えるべきではない」。一部の兄弟子がそう葉問に抗議し、葉問は困難な立場に立たされたという。もうひとつは、リーが映画俳優の道と1959年のアメリカ渡航で、自然に道場を離れたという説である。
伝記作家によって、破門説と円満説の両方が語られている。いずれにせよ、リーは生涯、葉問を師として公言した。1970年前後には香港で葉問を再訪したと伝わる。よく知られる8ミリフィルムがある。葉問がひとりで木人樁を演じる姿を、ブルース・リーが撮影したものだ。リー自身は映っていない。映画『』の撮影は1973年で、葉問の没後である。師と弟子は、それぞれの場所で最後の数年を迎えようとしていた。
拳は心に由る、心は拳に現る。中線を守りて、直を以て直を破る。
07詠春拳の核心 ― 中線・小念頭・黐手
葉問が体系化した詠春拳の骨格は、以下のように整理できる。
- 三套路 ― 小念頭(動かぬ構えの中で小さな手技の原理を定着させる)、尋橋(相手との橋=接触を探す歩法と体軸)、標指(指先を標して攻める緊急時の応用)。
- ― 自分の中心線を守りつつ、相手の中心線に最短の直線で攻める。正面で構え、両手を同時に機能させる(詠春はボクシングのように利き手を後ろに置かない)。
- 黐手(チーサオ、粘手) ― 手首・前腕の接触から相手の力線を読み、攻撃と防御を一挙動で処理する感覚訓練。詠春拳の核であり、これなしでは型が死ぬ。
- 木人樁 ― 木の人形を相手に108の標準套路を反復し、実戦的な距離感と角度を身体に刻む。
葉問はこれらを「力ではなく理で勝つ」武術として言語化し、小柄な者・女性・高齢者にも開かれた武術として提示した。暴力を誇示する武術ではなく、最短・最小労力で中心を制す技術体系 ― これが、戦後香港の狭い路地と狭い道場で20世紀後半に急速に広まった理由だった。
088ミリフィルムと、映画三部作
葉問は喫煙家で、晩年は健康を損ねていった。妻の張永成は1960年に香港で病没している。晩年の身の回りの世話は、弟子筋の女性が担ったとも伝わる(晩年の私生活は史料が薄く、語りには弟子による敬意の脚色が入る)。
死の直前、葉問は8ミリフィルムの撮影をさせた。小念頭・尋橋・標指・木人樁の要点を、自分の身体で演じて残したのである。このフィルムは現存し、詠春拳研究の一次資料になっている。1972年12月2日、香港九龍の自宅で喉頭癌により死去。79歳だった。愛弟子ブルース・リーは、師の葬儀に立ち会えなかった。当時はハリウッドと香港を行き来していた。そのリーも翌1973年7月、32歳で世を去る。師弟はわずか半年差でこの世を去ったことになる。
ここで、深水埗の一室に戻ってみよう。半世紀守ってきた秘密を、なぜ開いたのか。生活のため、というだけでは、このフィルムは説明がつかない。死を前にした老人は、型を隠さなかった。自分の身体で演じ、記録に残した。深水埗で始めたことの、これが最後の一手だったのかもしれない。
葉問の名は、東アジアや欧米の詠春拳の網の中で静かに受け継がれていた。21世紀に入り、映画『イップ・マン』三部作(2008・2010・2015、ウィルソン・イップ監督、ドニー・イェン主演)が作られる。ウォン・カーウァイ監督の『一代宗師(グランド・マスター)』(2013、トニー・レオン主演)も続いた。これらによって、葉問は一般の観客にも広く再発見された。映画は史実を大胆に脚色している。日本軍将校との素手の決闘、西洋人ボクサーとの対決、鉄道での戦い。こうした場面は創作の色が強い。葉家の遺族(葉準・葉正)も制作に参画しつつ、「映画は物語、史実とは別」と明言している。それでも佛山と香港で一介の武術家だった葉問を、世界的な文化アイコンに変えた功績は確かである。神格化(人を神のように祭り上げること)と史実の距離は、観る側が引き受けるべき余白として残されている。
家も財産も失った男が、最後まで手放さなかったものは何か。そして、手放さなかったからこそ、なぜ人に開いたのか。中心を守るとは、閉じることなのか、それとも渡すことなのか。
09主要な出来事と著作
- 10月1日、清朝末期の広東省佛山の絹商家に誕生。本名葉繼問、父葉靄多・母呉瑞の末子
- 陳華順に詠春拳を入門。間もなく陳の中風により師兄呉仲素が指導を引き継ぐ
- 香港の聖ステファノ書院に留学、同級生経由で梁贊の子・梁璧と出会い師事する
- 張永成と結婚(諸説あり)
- 佛山に戻り佛山警察の刑事として勤務、同僚・親族に詠春拳を私的に指導。葉準・葉正ら子をもうける
- 日本軍占領下で隠遁・貧窮、協力を拒否したとの伝承。終戦後は国民党系警官
- 8月、国共内戦の共産党勝利に伴い単身香港へ亡命(56歳)
- 九龍深水埗の飯店職工総会で詠春拳を教え始める。弟子・梁相の尽力
- ブルース・リーが13歳前後で入門(指導期間・終わり方は諸説)
- 公開教練班を本格化(後年の弟子はこの年を「第一回」と数えることもある)
- 妻張永成、香港で病没
- 黄淳樑・徐尚田・招允ら後の名師を輩出、詠春拳を秘伝から公共武術へ。拳譜の公開
- 葉問体育会を設立、詠春拳の組織的伝承を整備
- 8ミリフィルムに小念頭・尋橋・標指・木人樁を残す。12月2日、喉頭癌で死去。79歳
- 弟子ブルース・リー、師の半年後にハリウッドから戻った香港で急死(32歳)
- 映画『イップ・マン』三部作(ドニー・イェン主演)で世界的に再発見。2013年『一代宗師』
残した思想の輪郭
- 中線理論 ― 自他の中心線を見極め、最短の直線で制す。武術の暴力性を幾何学に置換する発想
- 小念頭の思想 ― 動かぬ構えの中で手の小さな原理を何千回も反復し、動きの種を植える。「静から動が生まれる」身体観
- 黐手(粘手)の感覚 ― 接触を通じて相手の力線を読む。目ではなく皮膚で思考する武術的感性
- 秘伝から公共へ ― 家門で一子相伝に近かった詠春拳を、月謝制と広告で戦後香港の庶民に開いた制度革新
- 小さき者の武術 ― 力ではなく理で勝つ。小柄な者・女性・高齢者にも開かれた、民主的な体現哲学
つながり
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