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嘉
芸術的直観

嘉納治五郎

Jigoro Kanō·1860–1938·日本·

強くなった力は、 何のために使うのか?

柔術を近代化して柔道を創始し、教育と国際スポーツの橋を架けた、明治日本の巨人

  • 柔道
  • 精力善用
  • 自他共栄
  • 講道館
刀を捨てた侍の国が、体を鍛える学校と世界のスポーツへ向かい始めた時代 — ひらく

時代の空気

廃刀令(1876)で士族剣術が衰え、文明開化の波に乗って西洋体育が学校に入り始めた頃、摂津灘の酒造家の三男は東京へ移されて漢学と英学を学んだ。1878年に開学した東京大学で哲学と政治学を修める一方、彼は廃れかけた柔術に師を求める。明治政府が教育勅語(1890)で国民道徳を整え、日清・日露の戦勝で帝国の自信を高めるなか、女子教育や体育の制度化が進む。1894年クーベルタンが近代五輪を構想し、世界はスポーツでつながり始める。満州事変・日中戦争の影が差すなか、1940年東京五輪招致の悲願は戦争で中止に追い込まれ、彼の生涯は時代の希望と挫折のはざまにあった。

01横浜まであと二日

1938年5月4日の未明。太平洋の上を、日本郵船の客船氷川丸(ひかわまる)が横浜へ向かっていた。港まで、あと二日だった。

その船の中で、ひとりの老人が息を引き取った。嘉納治五郎(かのう じごろう)、77歳。柔道を作った人である。船の中で肺炎(はいえん)にかかっていた。

彼はエジプトのカイロから帰る途中だった。IOC(国際オリンピック委員会)の総会に出るためである。そこで彼は、1940年の東京オリンピックを守ってほしいと訴えた。日本はそのとき、中国との戦争のさなかにあった。

総会は無事に終わった。しかし本人は、日本の土を踏めなかった。そして彼の死から二か月後、日本は東京オリンピックを自分から返上する。

なぜ77歳の老人は、戦争中の国のために、海を越えてまでオリンピックを守ろうとしたのか。畳の上の武道を作った男が、なぜ世界のスポーツの席に座っていたのか。時は61年前、1877年の東京に戻る。

、

— 嘉納治五郎が畳の上から世界へ持ち出した八文字。1922年、講道館文化会の綱領として公表

02師の見つからない学生

1877年、嘉納治五郎は東京大学文学部に入った。哲学や政治学を学ぶ学生である。体は小さかった。大人になっても、身長は158センチほどだった。

寄宿先では、年上の生徒に力で押さえつけられた。その屈辱(くつじょく)が、彼を柔術(じゅうじゅつ)へ向かわせたという。柔術は、素手で相手を投げたり押さえたりする、侍の時代の武術である。

ところが、師がなかなか見つからない。1876年の廃刀令(はいとうれい)で、侍は刀を差せなくなっていた。剣術も柔術も、もう古いものと見られていた。それでも同じ1877年、彼は天神真楊流(てんじんしんようりゅう)の福田八之助の門をたたく。

そもそも彼は、東京の生まれではない。1860年、いまの神戸市東灘区にあたる御影村(みかげむら)に生まれた。父は船で荷を運ぶ仕事と酒造りを営む豪商だった。灘(なだ)の酒どころで知られる北風家の流れをくむ、の家である。1868年、一家は東京へ移っていた。

翌1878年、師の福田が病で亡くなる。次に同じ流派の磯正智に学び、磯の死後の1881年、飯久保恒年の起倒流(きとうりゅう)に移った。。二つの流派は、まったく違う技を持っていた。彼はどちらか一方を選ばなかった。

1882年2月。東京下谷(したや)の小さな寺の書院に、十二畳の道場が開かれる。

03十二畳の道場

その寺の名を(えいしょうじ)という。いまの台東区東上野にある。畳はわずか12畳、門人は9名。これが講道館(こうどうかん)の始まりである。彼は二十代になったばかりだった。

彼は二つの流派の技を、比べ直した。天神真楊流からは当て身・関節技・絞め技。起倒流からは投げ技と、相手の体勢をくずす理論。そこに自分の研究を加えて、一つの体系に組み直した。

当時の柔術の流派は、技を秘密にし、互いをけなし合っていた。彼はそれを筋道立てて整理した。危険な技は外した。そして、相手が本気で抵抗する練習、(らんどり)を中心に置いた。

名前も変えた。「柔術」ではなく「柔道」。術は使うための技、道は心をふくむ修行である。は、技の一覧ではなく、生き方の練習として生まれた。

もう一つ、彼は受身(うけみ)を一番先に教えた。投げられても、けがをしない転び方である。けがが減れば、何年でも稽古を続けられる。当てる技は形(かた)という模範の演武だけで練習し、乱取では使わない。この線引きによって、毎日、本気で技をかけ合える武術が生まれた。

1886年ごろ、警視庁の武術師範をめぐる競争があった。講道館はそこで、他の流派に対する強さを示したと伝えられる。以後、柔道は警察・軍隊・学校へと広がっていく。しかし本人は、道場だけの人にはならなかった。彼の本業は、別のところにあった。

04教室の中の柔道家

嘉納治五郎の本業は教師だった。1882年、講道館を開いたその年に、学習院の教頭になった。1888年からは熊本の第五高等中学校の校長を務めた。

1893年、に就く。全国の中学校の先生を育てる学校である(いまの筑波大学の源流)。彼はこの学校を三度にわたって率い、合わせて25年あまり校長の席にいた。同じ年、須磨子と結婚している。

彼の教育の考えは、三つの言葉にまとめられる。体育・智育(ちいく)・徳育(とくいく)。体を鍛え、知を育て、徳を身につける。三つは別々ではなく、一人の人間の中でつながっている。体操と武道を学校の授業に入れたのも、この考えからだった。

私財を投じて開いたものもある。(かのうじゅく)である。清(しん)、いまの中国からの留学生を迎える宿舎であり学校だった。ここを通った留学生には、魯迅(ろじん)や陳独秀(ちんどくしゅう)、秋瑾(しゅうきん)らがいる。のちに中国の近代化を担う人々である。彼が直接教えたわけではないが、彼らの留学を制度として支えた。

畳の上の柔道と、教室の教育。彼の中では、同じ一つのことだった。1909年、その彼のもとへ、フランスから一通の招きが届く。

05アジアで最初の席

招いたのは、ピエール・ド・クーベルタン男爵。近代オリンピックを作ったフランス人である。1909年9月、嘉納治五郎はアジア初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に選ばれた。48歳だった。

当時のオリンピックは、欧米の人々のものだった。「近代」という言葉さえ、欧米の言葉である。そこに日本人が、アジアを代表して席を得た。

1911年、彼はを作り、初代会長になった。日本がオリンピックに選手を送るための組織である。翌1912年、。彼は自ら派遣団の長として、二人の選手を連れて行った。短距離走の(みしま やひこ)とマラソンの(かなぐり しそう)である。

日本にとって最初のオリンピック参加だった。結果はきびしかった。金栗は途中で棄権し、三島は予選で敗れた。それでも、参加したこと自体が歴史になった。

その後も彼は、大会のたびに選手団を送り、IOCの総会に通い続けた。世界を回る旅の途中では、ロンドンやパリやベルリンの道場で柔道を見せた。欧米に柔道の種をまいたのである。

1936年、ベルリンのIOC総会。の開催が決まった。75歳の彼は、長年の願いをかなえた。しかし翌年、日本と中国の戦争が始まる。世界は、東京でのオリンピックに冷たい目を向け始めた。

精力善用、自他共栄。

— 嘉納治五郎 柔道修行の綱領(1922年公刊)

06八文字

話は少し前に戻る。1922年、嘉納治五郎は講道館文化会という会を作った。その綱領(こうりょう)として、二つの四字を公表した。

  • 精力善用(せいりょくぜんよう、Best Use of Energy) ― 自分の持つ心と体の力を、目的に向けて最も効率よく、正しく使う。柔道の「柔能く剛を制す」の原理を、人生全体に広げた言葉。
  • 自他共栄(じたきょうえい、Mutual Welfare and Benefit) ― 自分と相手が、ともに栄える。柔道の稽古は相手がいて初めて成り立つ。稽古相手を傷つけず、育て合う関係こそが、社会全体が栄える原理である。

精力善用は自分一人の生き方、自他共栄は人と人との生き方。二つとも、同じ畳の上から出てきた。相手を投げるための力が、相手を育てる力に変わる。「柔術」を「柔道」と呼び変えた意味を、彼はここでようやく言葉にした。

この八文字を持って、彼は世界を回っていた。では、戦争のなかで守ろうとしたオリンピックは、この八文字とどうつながっていたのか。

07もう一度、氷川丸へ

1938年3月、77歳の嘉納治五郎はカイロへ向かった。IOC総会に出るための、最後の長い旅である。戦争のさなか、東京でのオリンピックを続けたいと訴えた。総会は無事に終わった。

帰りは、アメリカのシアトルから船で太平洋を渡った。その船が氷川丸である。船の中で肺炎を起こした。5月4日の未明、横浜まであと二日というところで、彼は息を引き取った。

遺体は横浜港に戻り、大きな葬儀のあと、東京の青山霊園に葬られた。長男の履正(りしょう)が、のちに講道館の二代目の館長を継いだ。

彼の死から二か月後の1938年7月、日本は東京オリンピックを正式に返上した。1940年4月には、中止が確定する。彼が最後の力を注いだ大会は、開かれなかった。

しかし、話はそこで終わらない。1964年、東京はアジアで初めてのオリンピックを開いた。彼がアジア初の委員になってから55年後である。そしてこの大会で、柔道が初めて正式種目になった。畳の上の武道は、彼の死から26年で世界の競技になった。

冒頭の問いに戻ろう。なぜ77歳の男は、戦争中の国のために、海を越えてまでオリンピックを守ろうとしたのか。彼が守ろうとしたのは、国の勝ち負けの場だったのか。それとも、相手がいて初めて成り立つ場だったのか。12畳の道場から氷川丸の船中まで、彼の歩みを見てきた。もう自分の言葉で答えられるはずだ。

あなたが今、力を注いでいる先に、あなたと「ともに栄える」相手はいるだろうか。

08考証 ― 伝承と史料のあいだ

出自と学歴の細部。父嘉納次作希芝(きしば)は回船業と酒造業を営む豪商で、灘五郷の北風家の流れを汲む嘉納家分家に連なり、明治政府の海軍御用も務めた。母定子(中野氏)は3男1女を育て、治五郎はその三男である。1868年に一家上京後、私塾で漢学を学び、1873年に開成学校、1875年に官立東京英語学校を経て、1877年に東京大学文学部に進んだ。卒業は1881年、講道館創始の前年にあたる。

講道館の制度史。1886年の警視庁武術師範をめぐる講道館の優位については、直接対戦の単一試合があったとする伝承と、複数回の試合と師範採用の集積を指す研究があり、史料的には後者が強い。1893年に須磨子と結婚(以後6男3女)、1899年に講道館本部が下富坂に建てられ、1909年の本部改築と段位・級位の整備が続く。1911年、柔道は全国の中学校の正課として採用された。受身の最優先、形と乱取の分離、当て身の形への限定という三つの設計は、練習で怪我を減らし長年の稽古を可能にした点で、柔術諸流派に対する方法論的な革新である。

東京高等師範学校長としての在任は1893-97年、1898-99年の文部省体育掛長を挟み、1901-20年の三次、通算25年余に及ぶ。同校には夏目漱石(英語科講師として赴任した時期が重なる)や芥川龍之介ら、近代日本の知の中核となる人々が学んだ。嘉納塾から巣立った清国留学生は数千人に上り、魯迅・陳独秀・秋瑾らを含めて、20世紀初頭の日中知的交流の結節点となった。神戸の灘高等学校は、嘉納家筋(本家・分家)の出資により1927年に設立され、治五郎は塾頭として関わった。

オリンピック運動。1909年9月のIOC委員選出はクーベルタン男爵の招請によるもので、日本のオリンピック参加体制は1911年の大日本体育協会設立(初代会長、1937年まで)で整えられた。1912年ストックホルム以後、1920年アントワープ、1924年パリ、1928年アムステルダム、1932年ロサンゼルス、1936年ベルリンと選手団を送り、IOC総会に出席を重ねた。1936年ベルリンIOC総会での1940年東京招致決定ののち、日中戦争(1937年勃発)の激化で国際社会の批判が強まり、大会は治五郎の死後、1938年7月に正式返上、1940年4月に中止が確定した。

思想の位置づけ。1922年に講道館文化会の綱領として公表された精力善用と自他共栄は、柔道を単なる武術から人生哲学へ引き上げる思想的支柱となった。精力善用は「柔能く剛を制す」の原理を人生全般に敷衍した個人倫理であり、自他共栄は稽古相手との共同的修養を社会全体の繁栄原理へ拡張した社会倫理である。合わせて近代日本の市民倫理の一つの型を提示しており、「柔術」から「柔道」への改称が意味した術から道への格上げは、この二綱領によって最終的に言語化された。

09主要な出来事と著作

  1. 12月10日(旧暦10月28日)、摂津国御影村(現神戸市東灘区)の酒造家嘉納家に三男として誕生
  2. 一家上京、東京で漢学・英学を学ぶ
  3. 東京大学文学部入学。天神真楊流福田八之助に入門、柔術修行を開始
  4. 起倒流飯久保恒年に転じる。東京大学卒業、学習院で教鞭を執る
  5. 下谷北稲荷町永昌寺に講道館を創始(門人9名、道場12畳)。柔道の始まり。学習院教頭
  6. 熊本第五高等中学校長に就任(夏目漱石ら後の文人と接する)
  7. 東京高等師範学校校長に就任(以後三次・通算25年余)。須磨子と結婚
  8. 嘉納塾を開設、清国留学生を受け入れ始める(魯迅・陳独秀・秋瑾ら)
  9. クーベルタンの招聘でアジア初のIOC委員に就任
  10. 大日本体育協会を設立、初代会長(-1937)。柔道が中学校正課に採用
  11. ストックホルム五輪に派遣団長として参加(三島弥彦・金栗四三)。日本初の五輪参加
  12. 講道館文化会を結成、綱領として「精力善用・自他共栄」を公表
  13. ベルリンIOC総会で1940年東京オリンピック招致が決定
  14. カイロIOC総会で東京招致維持を訴え、帰路の氷川丸船中で5月4日死去。77歳
  15. 東京オリンピック開催、柔道が正式種目として初採用される(治五郎の死後26年)

残した思想の輪郭

  • 精力善用 ― 自分の力を最高の効率で、正しい目的に用いる。柔道の「柔能く剛を制す」を人生全般の原理に拡張
  • 自他共栄 ― 自己と他者の共栄。稽古相手を育てることで自分も育つ、という共同的修養観
  • 術から道へ ― 柔術の実用技術を、礼法・修養・教育を統合した「道」へと格上げし、武道の近代化の模範を示した
  • 近代教育の設計者 ― 東京高師校長として日本の中等教員養成を約25年間統括、体育・智育・徳育の三綱領を掲げた
  • 国際化の架橋 ― アジア初のIOC委員として日本をオリンピック運動に接続し、戦後の東京五輪と柔道の世界競技化への遠い道筋を敷いた
  • 嘉納塾と日中交流 ― 清国留学生を受け入れ、魯迅や陳独秀ら中国近代化を担う世代を制度的に支えた
1938年5月4日、エジプト・カイロでのIOC総会から帰国途上、太平洋上の氷川丸船中で肺炎により死去。77歳。

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