嘉納治五郎
力を正しく使うとは、 どう生きることか?
柔術を近代化して柔道を創始し、教育と国際スポーツの橋を架けた、明治日本の巨人
- 柔道
- 精力善用
- 自他共栄
- 講道館
時代の空気
廃刀令(1876)で士族剣術が衰え、文明開化の波に乗って西洋体育が学校に入り始めた頃、摂津灘の酒造家の三男は東京へ移されて漢学と英学を学んだ。1878年に開学した東京大学で哲学と政治学を修める一方、彼は廃れかけた柔術に師を求める。明治政府が教育勅語(1890)で国民道徳を整え、日清・日露の戦勝で帝国の自信を高めるなか、女子教育や体育の制度化が進む。1894年クーベルタンが近代五輪を構想し、世界はスポーツでつながり始める。満州事変・日中戦争の影が差すなか、1940年東京五輪招致の悲願は戦争で中止に追い込まれ、彼の生涯は時代の希望と挫折のはざまにあった。
01摂津御影、灘の酒造家の三男
1860年12月10日(万延元年10月28日)、摂津国莵原郡御影村(現兵庫県神戸市東灘区御影)に生まれた。父嘉納次作希芝(きしば)は回船業と酒造業を営む豪商で、灘五郷の北風家の流れを汲むに連なり、明治政府の海軍御用も務めた。母定子(中野氏)は3男1女のうち治五郎を末に近い三男として育てた。本名は治五郎。
1868年(明治元年)、一家は東京へ上り、私塾で漢学を学んだあと、1873年に開成学校、1875年に官立東京英語学校を経て、1877年に東京大学文学部に進んだ。体格は小柄(成人時158cm前後)で、寄宿先で年長の生徒に押されて屈辱を覚えた経験が、柔術への傾倒を生んだという。
02柔術修行 ― 天神真楊流と起倒流
東京大学で哲学・政治学・経済学を学ぶ傍ら、治五郎は柔術の師を探した。廃刀令(1876)後の日本で士族の剣術や柔術は斜陽であり、師は容易に見つからなかったが、1877年、18歳のときに天神真楊流の福田八之助の門を叩いて入門した。翌年福田が病没すると、同流の磯正智に就き、磯の死後は1881年、飯久保恒年の起倒流に転じた。
治五郎は両流派の技を比較検討し、天神真楊流の当て身・関節技・絞め技と、起倒流の投げ技・崩しの理論を組み合わせ、そこに自身の研究を加えて独自の体系を構想し始める。当時、柔術諸流派は秘伝的で相互批判的だったが、治五郎は合理的に技を再編成し、危険な技を除き、抵抗のある乱取(らんどり)を中心に据える方針を固めた。1882年2月、東京下谷北稲荷町の永昌寺(現・東京都台東区東上野)の書院に、わずか12畳の道場と9名の門人から、講道館は出発した。創始時点の治五郎は22歳、東京帝国大学卒業は前年の1881年である。
03講道館柔道 ― 投げ・固め・当て身の体系化
治五郎が編み出した柔道は、単なる技術体系ではなく理念を伴う修養法だった。「柔術」を「柔道」と呼び換えたのは、術(実用の技)から道(精神を含む修行)への格上げの宣言である。
技術的には、投技・固技(抑込・絞・関節)・当身技を三本柱とし、受身を最優先に教えた。これは練習で怪我を減らし、長年の稽古を可能にする革命的な発想だった。また、各技を形(かた、模範演武)と乱取(実戦的自由組手)に分け、危険な当て身は形でのみ稽古する ― この分離により、毎日全力で技を掛け合える武術が誕生した。
1886年、警視庁の武術師範競争を背景に、講道館は他流派に対する優位を確立したと伝えられる(直接対戦の単一試合があったとする伝承と、複数回の試合と師範採用の集積を指す研究があり、史料的には後者が強い)。以後、柔道は警察・軍隊・学校に受け入れられ全国に広がる。1893年に妻須磨子と結婚(以後6男3女)、1899年には講道館本部が下富坂に建てられ、1909年の本部改築や段位・級位の整備が続いた。1911年、柔道は全国の中学校の正課として採用される。
04東京高等師範学校長 ― 教育家としての嘉納
治五郎は武術家以上に、教育家として明治日本の根幹を担った。1882年に学習院教頭となり、1888年から熊本第五高等中学校長(五高)を務めたのち、1893年に東京高等師範学校(現・筑波大学の源流)の校長に就いた。1893-97年、1898-99年の文部省体育掛長を挟み、1901-20年と通算25年余、三次にわたって同校を率いた。学生のなかには夏目漱石(英語科講師として赴任した時期が重なる)、芥川龍之介ら、近代日本の知の中核となる人々が含まれる。
治五郎の教育理念は「三綱領」― 体育・智育・徳育の三者を統合する ― にまとめられる。体を鍛え、知を育て、徳を身につける。彼は体操と武道を学校カリキュラムに組み込む先駆者でもあった。また私財を投じて嘉納塾(清国留学生を迎える宿舎兼学校)を開設し、魯迅・陳独秀・秋瑾ら後の中国近代化を担う人物たちを受け入れた(治五郎が直接教えたわけではないが、彼らの日本留学を制度的に支えた)。嘉納塾から巣立った留学生は数千人に上り、20世紀初頭の日中知的交流の結節点となった。神戸の灘高等学校は、嘉納家筋(本家・分家)の出資により1927年に設立され、治五郎は塾頭として関わった。
051909年 ― アジア初のIOC委員
1909年9月、治五郎はピエール・ド・クーベルタン男爵からの招請により、アジア初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に選出された。当時のオリンピックは欧米中心で、「近代」と呼ばれる運動も欧米の用語だった。そこに、日本人がアジアを代表して席を得たのである。
1911年、治五郎は大日本体育協会を設立して初代会長(1937年まで)に就き、日本のオリンピック参加体制を整えた。1912年のには、自ら派遣団長として、短距離走の三島弥彦とマラソンの金栗四三を率いて参加した。日本にとって初のオリンピック参加である(金栗は途中棄権、三島は予選落ちと結果は厳しかったが、参加自体が歴史的意義を持った)。以後治五郎は1920年アントワープ、1924年パリ、1928年アムステルダム、1932年ロサンゼルス、1936年ベルリンと選手団を送り、IOC総会に出席を重ねた。世界周遊の途次にはロンドン・パリ・ベルリンの道場で柔道の演武を行い、欧米へその種を蒔いている。
1936年ベルリンIOC総会で1940年東京オリンピックの招致が決まった瞬間、治五郎は76歳でその念願を果たした。しかし日中戦争(1937年勃発)の激化により、国際社会は東京開催への批判を強め、晩年は苦渋に満ちた。大会は治五郎の死後、1938年7月に正式返上され、1940年4月に中止が確定する。
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06精力善用、自他共栄
1922年、治五郎は講道館文化会の綱領として二つの四字を公表した。
- 精力善用(せいりょくぜんよう、Best Use of Energy) ― 自分の持つ精神的・肉体的な力を、目的に対して最も効率よく、正しく用いる。柔道の「柔能く剛を制す」の原理を、人生全般に敷衍した標語。
- 自他共栄(じたきょうえい、Mutual Welfare and Benefit) ― 自分と他者が共に栄える。柔道の稽古は相手あってのもの、練習相手を傷つけずに育て合う関係こそが、社会全体の繁栄の原理である。
この二つは、柔道を単なる武術から人生哲学へ引き上げる思想的支柱となった。精力善用は個人倫理、自他共栄は社会倫理であり、合わせて近代日本の市民倫理の一つの型を提示している。治五郎は「道」という字を「柔術」から「柔道」へ置き換えたことの意味を、ここで最終的に言語化したのだった。
07晩年 ― カイロから氷川丸へ
1938年3月、治五郎はカイロで開かれたIOC総会に最後の長旅として出席した。東京五輪招致の維持を訴え、総会を無事に終えた。しかし帰路、シアトル経由で太平洋を横断中、日本郵船氷川丸(Hikawa Maru)船中で肺炎を発症する。5月4日未明、横浜まであと二日というところで、氷川丸の船上で息を引き取った。77歳。遺体は横浜港に戻り、盛大な本葬の後、東京の青山霊園に葬られた。長男履正は後に講道館第二代館長として柔道を継いだ。
彼の死の2か月後、1940年東京オリンピックは日中戦争の影響で正式に返上された。1964年、東京はアジアで初のオリンピックを開催する ― 治五郎が種を蒔いた日から55年後のことだった。さらに同大会では、柔道がアジア発祥の競技として初めてオリンピック正式種目に採用された。治五郎が生涯をかけて近代化した武道は、彼の死後四半世紀で世界競技となったのである。
08主要な出来事と著作
- 12月10日(旧暦10月28日)、摂津国御影村(現神戸市東灘区)の酒造家嘉納家に三男として誕生
- 一家上京、東京で漢学・英学を学ぶ
- 東京大学文学部入学。天神真楊流福田八之助に入門、柔術修行を開始
- 起倒流飯久保恒年に転じる。東京大学卒業、学習院で教鞭を執る
- 下谷北稲荷町永昌寺に講道館を創始(門人9名、道場12畳)。柔道の始まり。学習院教頭
- 熊本第五高等中学校長に就任(夏目漱石ら後の文人と接する)
- 東京高等師範学校校長に就任(以後三次・通算25年余)。須磨子と結婚
- 嘉納塾を開設、清国留学生を受け入れ始める(魯迅・陳独秀・秋瑾ら)
- クーベルタンの招聘でアジア初のIOC委員に就任
- 大日本体育協会を設立、初代会長(-1937)。柔道が中学校正課に採用
- ストックホルム五輪に派遣団長として参加(三島弥彦・金栗四三)。日本初の五輪参加
- 講道館文化会を結成、綱領として「精力善用・自他共栄」を公表
- ベルリンIOC総会で1940年東京オリンピック招致が決定
- カイロIOC総会で東京招致維持を訴え、帰路の氷川丸船中で5月4日死去。77歳
- 東京オリンピック開催、柔道が正式種目として初採用される(治五郎の死後26年)
残した思想の輪郭
- 精力善用 ― 自分の力を最高の効率で、正しい目的に用いる。柔道の「柔能く剛を制す」を人生全般の原理に拡張
- 自他共栄 ― 自己と他者の共栄。稽古相手を育てることで自分も育つ、という共同的修養観
- 術から道へ ― 柔術の実用技術を、礼法・修養・教育を統合した「道」へと格上げし、武道の近代化の模範を示した
- 近代教育の設計者 ― 東京高師校長として日本の中等教員養成を約25年間統括、体育・智育・徳育の三綱領を掲げた
- 国際化の架橋 ― アジア初のIOC委員として日本をオリンピック運動に接続し、戦後の東京五輪と柔道の世界競技化への遠い道筋を敷いた
- 嘉納塾と日中交流 ― 清国留学生を受け入れ、魯迅や陳独秀ら中国近代化を担う世代を制度的に支えた
出典と確認メモ
5件- 文脈原典で確認済み要旨訳
要旨訳: kano-1.context: 1922 年 (大正 11 年)、講道館創立 (明治 15 年=1882 年) から 40 年を経た嘉納治五郎が、62 歳で発足させた講道館文化会の綱領として公刊した八...
一次資料を開くJigoro Kano (1860-1938) は 1909 年に IOC 委員に就任した最初のアジア人 (IOC 公式 records)。philoglyph...
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: kano.mdx PullQuote '精力善用、自他共栄。' は嘉納治五郎が定式化した講道館柔道の二大綱領で、書誌として正確。ただし philoglyph pullsource '嘉納治五郎 柔道修...
一次資料を開く講道館公式『自他共栄とは』ページ。引用文献として「なにゆえに精力最善活用・自他共栄の主張を必要とするか」『作興』第4巻第12号 (大正14年) を提示。phil...
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 精力善用、自他共栄
一次資料を開く講道館 (Kodokan Judo Institute) 公式 doctrine ページ。嘉納治五郎が定式化した『精力善用 (Seiryoku Zenyō)』『...
- 出典二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: kano.mdx の pullsource は、未確認の書誌名『柔道修行の綱領』ではなく、嘉納治五郎が1922年の講道館文化会発足期に示した「精力善用」「自他共栄」の理念に基づく要旨として扱う。講道館...
- 引用原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 柔よく剛を制す
一次資料を開く『三略』上略『軍讖曰、柔能制剛、弱能制強』。漢代成立の兵書、四庫全書武経七書の一。philoglyph kano-2.text 出典記述『古代中国『老子』『三略...
つながり
- 植芝盛平
先駆 — 近代武道の制度化と「術から道へ」の系譜、嘉納との面識も伝わる
- 葉問(イップマン)
伴走 — 同時代の東アジアにおける武道近代化の並走(柔道と詠春拳)
- 福澤諭吉
同時代 — 明治の近代化を担う教育者同士の並走、慶應・東京高師の文脈
さらに辿るならExternal References
嘉納治五郎を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「嘉納治五郎」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Kanō Jigorō"
嘉納治五郎が 1882 年に創設した柔道の総本山
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