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メルロ=ポンティ

Maurice Merleau-Ponty·1908–1961·フランス·

考える前に、 体はもう世界を知っているのだろうか

フッサールとハイデガーを引き受けつつ、知覚と身体の側から現象学を書き直したフランスの哲学者

  • 知覚の現象学
  • 身体
  • 肉(chair)
  • 両義性
  • 見えるものと見えないもの
戦争と占領をくぐった知識人たちが、共産主義をめぐって友情を試された時代 — ひらく

時代の空気

1930年代パリ、ベルクソンの後にフッサールが入ってきた季節だった。エコール・ノルマルでサルトル、ボーヴォワール、アロン、イポリット、レヴィ=ストロース、シモーヌ・ヴェイユと前後の机を並べ、コジェーヴのヘーゲル講義に通った。ナチス占領と対独レジスタンスを生き延び、戦後はサルトルとともに『レ・タン・モデルヌ』を立ち上げた。共産党をめぐり朝鮮戦争で旧友と袂を分かち、コレージュ・ド・フランスではソシュールやレヴィ=ストロースの構造主義と静かに対話した。哲学は声を荒げず、世界の奥行きを指で確かめる仕事だった。

01机の上の『省察』

1961年5月3日、パリ。サン=ミシェル大通りの近くに、一軒のアパルトマンがあった。その一室で、一人の哲学者が机に向かっていた。名はモーリス・メルロ=ポンティ。53歳だった。

その日、彼は机に向かったまま、心臓発作で急に亡くなった。机の上には、二つのものが開かれたままだったという。一つは、コレージュ・ド・フランス(パリの名門の講義機関)で行っていた講義のメモ。もう一つは、デカルトの『』(せいさつ)だった。

ここに、ひとつの謎がある。デカルトは「心と体は別のもの」と考えた哲学者である。メルロ=ポンティは、生涯をかけてその分け方を解きほぐした人だった。なぜ、その人が最後の日にデカルトを開いていたのか。

講義のメモは、書きかけの本のためのものだった。題は。この本は完成しなかった。でき上がっていたのは、およそ三分の一。残りは「働きのノート」と呼ばれる下書きである。

彼はいったい、何を書こうとしていたのか。それを知るには、この人が歩いてきた道をたどる必要がある。時は48年前に戻る。父を失った、5歳の少年のところへ。

02父のいない家、祈りの家

1913年、フランス。5歳のモーリスは父を失った。父ベルナールは海軍の士官で、戦地(せんち)で病気にかかって亡くなった。母ルイーズはカトリックの信者だった。母は三人の子どもを連れてパリに出た。シャンベリー街のアパルトマンが、新しい家になった。

モーリスが生まれたのは、その5年前の1908年3月14日。フランス西部の海軍の町、ロシュフォールである。父のいない家を、母の祈りが日々包んだ。のちに友人のサルトルは彼に言った。「あなたは幸福な子ども時代を持った」。

これは、同じ時代の哲学者たちと少し違う。サルトルも父を早く失ったが、その穴は祖父が埋めた。カミュの母は耳が聞こえず、家事手伝いをして家を支えた。メルロ=ポンティの哲学は「身体の沈黙(ちんもく)の確かさ」から始まる。その根の一つは、この温かい家にあったのかもしれない。

1920年代の前半、彼はパリのジャンソン=ド=サイイ校で学んだ。次にルイ=ル=グラン校へ進む。ここで哲学の先生アラン(本名エミール・シャルティエ)の影響を受けた。1926年、18歳で(こうとうしはんがっこう)に入る。フランスで最も入るのが難しい学校の一つだ。

同じ年に入学したのがサルトルだった。ボーヴォワールは、ソルボンヌ大学から講義を聴きに来ていた。前後の学年には、レイモン・アロン、ジャン・イポリット、クロード・レヴィ=ストロース、シモーヌ・ヴェイユ。のちにフランスの思想を背負う顔ぶれが、前後の机に並んでいた。この教室で、彼は何と出会うのだろうか。

03ソルボンヌに来たフッサール

1929年、21歳。メルロ=ポンティは哲学の(教員資格試験)に合格した。翌年、高等師範学校の課程を終える。1931年から39年まで、ボーヴェやシャルトルなど地方の高校(リセ)で哲学を教えた。合間には母校の助手(じょしゅ)も務めた。

ボーヴォワールは後年、回想録『女ざかり』にこの頃の彼を書き残している。感受性が豊かで、決して無神経ではない。口数は少ないが、確信に満ちた同級生だった、と。

1929年、パリのソルボンヌ大学に、ドイツの哲学者フッサールが来た。「現象学(げんしょうがく)」という新しい哲学を作った人である。講演の主題は、デカルトの『省察』にちなんだものだった。メルロ=ポンティはこの講演を直接聴いたとされる。

ここから、彼はフッサールに深く近づく。まずレヴィナスの博士論文『フッサール現象学における直観の理論』(1930)を読み込んだ。ジャン・ヴァールの現象学入門書も読んだ。やがてドイツ語で、フッサール本人の文章に戻っていく。

同じ頃、パリにはもう一つの思想の教室があった。アレクサンドル・という学者が、高等研究実習院でヘーゲルの『』を読み解く講義だ。1933年から39年にかけて、彼は途切れ途切れにこの講義に通った。教室にはラカン、バタイユ、レーモン・クノーの姿もあった。

1938年、彼は博士論文を提出した。題は『』(刊行は1942年)。、動物行動学、神経学を、哲学の内側から読み直した本である。生き物の行動は、物の因果だけでは説明できない。純粋な意識の決断だけでもない。環境と生き物が、互いに形を作り合っている。この「間(あいだ)」を見る方法が、以後の彼のすべての仕事になる。だが翌年、世界のほうが形を変えた。

04ルーヴァンの原稿、そして戦争

1939年、彼はベルギーのルーヴァンへ向かった。そこに、できたばかりのがあった。フッサールが残した未発表の原稿を集めた場所である。ファン・ブレダ神父の案内で、彼は原稿を読み込んだ。

読んだのは『イデーン II』の身体論の速記稿だった(のちに『Husserliana IV』として刊行)。それに『危機』という本の、(せいかつせかい)についての遺稿。ここでの読書が、決定的だった。

フッサールは晩年、意識を記述するだけでは足りないと考え始めていた。生きられた身体(Leib)から、世界への原初的所属を探ろうとしていたのだ。メルロ=ポンティは、師の遺稿の中にこの線を見つけ出した。そして(じゅにくしたいしき)という形で、正面から引き受けた。意識は体を持って、はじめから世界の中にいる、という考えである。

同じ1939年、第二次世界大戦が始まった。彼は歩兵の少尉(しょうい)として軍に呼ばれた。マジノ線の南の前線で、短い実戦を経験する。1940年6月、フランスは敗れ、彼は軍を離れた。ドイツ軍が占領するパリで、リセ・カルノーの哲学教師に戻る。

対独レジスタンスとの関わりは、手紙や知人の証言に残る程度だった。カミュの新聞『コンバ』や、サルトルの「社会主義と自由」のような目立った活動は少ない。だが戦争が終わると、彼はすぐに左翼の知識人の中心に加わる。そして手元には、書き上げようとしている一冊の本があった。

05『知覚の現象学』― 体は物でも心でもない

1945年、主著がガリマール社から出た。700ページの精密な記述である。序文の宣言は澄んでいる。

世界は私が考えるものではなく、私が生きるものである。

— 『知覚の現象学』序文(1945)。戦争が終わった年のパリで、主著の冒頭に置いた宣言

この本の主人公は、身体である。デカルト以来、哲学は心と体を分けて考えてきた。(しんしんにげんろん)という。体は物のように「在る」だけ。心は世界を「見る」。メルロ=ポンティは、この分け方を解いていく。

体は、物でも意識でもない。その両方にまたがる、(りょうぎせい)を持つ存在だ。私たちは体を通じて、世界の中に場所を持つ。そして世界を意味で満たす。彼はこの体を身体主体と呼んだ。本の中には、そのための言葉が並ぶ。身体図式(schéma corporel)。身体的。運動の感覚。他者の体との間身体性(intercorporéité)。

身体は世界への我々の一般的な媒体(véhicule)である

— 『知覚の現象学』(1945)、要旨訳。身体を、世界へ向かうための乗り物そのものとして語る一節

こうして、純粋な観念論にも物理主義にも落ちない「第三の道」が形になった。同じ年の秋、彼はリヨン大学に職を得る(1945-1949)。1949年からはソルボンヌで、児童(じどう)心理学と教育学の教授になった(1949-1952)。子どもの発達の側から、自分の身体論を確かめる仕事だった。だが同じ1945年、彼にはもう一つの仕事が始まっていた。

06『レ・タン・モデルヌ』、静かな決別

1945年10月、サルトルとボーヴォワールが雑誌『』を創刊した。メルロ=ポンティは創刊時から編集委員として加わった。表紙に名前は載らなかった。だが政治面では、実質的な副編集長(ふくへんしゅうちょう)として舵を取った時期がある(1945-1953)。

1947年、『ヒューマニズムと恐怖』を出した。雑誌に連載した論文が核になっている。主題はソ連の、ソ連で行われた政治裁判である。彼はこれを「共産主義の誤謬としての暴力」と認めた。それでも、反共主義をまるごと受け入れることは拒んだ。慎重に、対話の姿勢を保つ本だった。

1950年6月、朝鮮戦争が始まった。ソ連と北朝鮮の侵略性に、彼は衝撃を受けた。雑誌の親共路線から、少しずつ距離を取り始める。1952年、サルトルが「共産主義者と平和」を書いた。二人の間の亀裂(きれつ)は、もう戻せないところに近づいていた。

同じ1952年、彼はコレージュ・ド・フランスの哲学講座の教授に選ばれた。ベルクソン以来の名門講座である。開講の講義「哲学を讃えて」で、彼は哲学をこう定義した。驚きの態度を保ち続ける禁欲(きんよく)、と。

1953年、彼は『レ・タン・モデルヌ』の編集委員を辞めた。1955年、『の冒険』(Les Aventures de la dialectique)を出す。この本で、サルトルの「超ボルシェヴィズム」を公然と批判した。サルトルは雑誌に長い応答を載せ、二人の友情は事実上終わった。カミュとサルトルの破局に続く、戦後左翼哲学者の二度目の決裂だった。

ただ、その決裂の調子は激しい言葉ではなかった。彼は公開の手紙に頼らなかった。自分の本の中で、別の弁証法(べんしょうほう)をゆっくり書き直すことで離れていった。「沈黙の選別」と呼ぶべき別れ方である。声を荒げない哲学者は、次にどこへ向かったのか。

07絵と、言葉と、構造主義との対話

彼の関心は、哲学の外にも広く開いていた。1945年の論考『セザンヌの疑い』は、画家セザンヌの苦闘を描いた。ものそのものを見直そうとする現象学者の苦闘と、同じものとして読んだのである。この文章は、近代絵画論の古典の一つになった。1961年の『』は、死の直前に書かれた講演録だ。絵を描くことを、身体の存在のあり方そのものとして論じている。

言語学(げんごがく)でも、ソシュールとの対話を深めた。未完の『世界の散文』、1951年の論文「言語の現象学について」。これらは、のちの(こうぞうしゅぎ)への橋渡しになった。レヴィ=ストロースやラカンの思想である。

は、死のあとも続いた。レヴィ=ストロースは1962年、著書『』をメルロ=ポンティに捧げた。巻頭の献辞で、旧友との対話の続きをこの本のかたちで届ける、と記している。

彼はサルトルの劇場性とも、ハイデガーの重い詩性とも違う調子を残した。静かで、精密な哲学。大声で断言しない。だが「私たちがすでに生きている世界」の奥行きを、文字で指し示し続けた。その最後の到達点が、あの机の上に残されていた。

08肉、キアスム、そして机の上の『省察』

1950年代後半から、メルロ=ポンティは新しい主著を構想していた。働きの題は『見えるものと見えないもの』(Le Visible et l'Invisible)。前期の身体主体をさらに押し進め、主体と世界、自己と他者、見るものと見られるものを、すでに絡み合ったものとして再記述する新しい存在論の試みだった。

中心概念は肉(chair、la chair du monde)。これは個体の身体ではなく、世界と身体を貫いて両者を絡み合わせる「共通の織地」である。私が木に触れるとき、私の手と木は同じ「肉」の両面を成す。見ること(voyant)と見られること(visible)は交差する(entrelacement、chiasme、)。ハイデガーの存在論が時間を鍵としたなら、メルロ=ポンティは空間的に絡み合う肉を鍵に据えた。

ここで、冒頭の机に戻る。1961年5月3日、机の上にはこの講義のメモと、デカルトの『省察』が開かれていた。『省察』は心身二元論の出発点であり、(「我思う、故に我あり」)が宣言された書物である。こう並べると、彼の仕事は一貫してこの書物との対話として読める。1929年にソルボンヌで聴いたとされるフッサールの講演は、デカルト的省察を主題としていた。1945年の『知覚の現象学』は、心身二元論を解体しつつ、観念論にも物理主義にも回収されない第三の道を記述した。そして後期の思索は、思考のコギトに先立つ ― 身体がすでに世界に住みついて意味を成立させている次元 ― を、肉の存在論として書き直す作業であった。、生活世界、身体的志向性という前期の語彙は、ここで「見えるもの」と「見えないもの」の交差へと組み替えられていく。

しかしこの本は完成しなかった。死から3年後、弟子が編集して『見えるものと見えないもの』(1964)として刊行した。全体のおよそ三分の一が完成稿、残りは「働きのノート」(Notes de travail)として付されている。未完のまま、しかし20世紀存在論の重要な一章になった。

なぜ、身体の哲学者は最後の日にデカルトを開いていたのか。机の上の二つの紙束は、向かい合う敵だったのか。それとも、同じ一枚の織地の裏と表だったのか。答えは書かれずに残った。あなたが本の頁に指で触れるとき、触れているのは指なのか、頁なのか。

09主要な出来事と著作

  1. 3月14日、シャラント=マリティム県ロシュフォールに誕生。父は海軍士官
  2. 父ベルナールが戦地で病没、母の手で兄妹と育つ
  3. 高等師範学校入学。サルトル、ボーヴォワール、アロン、イポリット、レヴィ=ストロースらと同世代
  4. 哲学のアグレガシオン取得。フッサールのソルボンヌ講演を聴く
  5. ボーヴェ、シャルトルのリセで哲学教師、ENS助手も務める
  6. コジェーヴのヘーゲル『精神現象学』講義に通う
  7. ルーヴァンのフッサール文庫で『イデーン II』『危機』遺稿を精読
  8. 歩兵少尉として動員、敗戦後はパリのリセ・カルノーで教える
  9. 『知覚の現象学』刊行。『レ・タン・モデルヌ』創刊参加、政治面副編集長を担う
  10. リヨン大学教授
  11. 『ヒューマニズムと恐怖』でモスクワ裁判を論じる
  12. ソルボンヌ児童心理学・教育学教授
  13. コレージュ・ド・フランス哲学教授に就任(43歳、ベルクソン以来の名門講座)。開講講義「哲学を讃えて」
  14. 『レ・タン・モデルヌ』編集委員を辞任、サルトルと実質的に離反
  15. 『弁証法の冒険』でサルトル「超ボルシェヴィズム」を批判
  16. 5月3日、パリで心臓発作により急逝。53歳。遺稿『見えるものと見えないもの』が机に残される
  17. クロード・ルフォール編集で『見えるものと見えないもの』刊行

残した思想の輪郭

  • 身体主体 ― 身体は道具でも対象でもなく、世界への原初的所属を支える両義的な存在である
  • 知覚の第一性 ― 科学的客観性の手前に、知覚がすでに形成している世界の地平がある
  • 両義性(ambiguïté) ― 主体と客体、能動と受動、自己と他者を二分する前の絡み合いこそ記述すべき対象
  • 間身体性 ― 他者との共有は、意識の推論ではなく身体どうしの呼応として成立する
  • 肉(chair) ― 後期存在論の鍵。世界と身体を貫く共通の織地、見るものと見られるものの交差(chiasme)
  • 沈黙のコギト ― デカルトの思考のコギトに先立ち、身体がすでに世界に住みついて意味を成立させている
  • 絵画と身体 ― セザンヌやクレーの画面は、身体が世界を見るその仕方そのものを示す哲学的出来事
1961年5月3日、パリのアパルトマンで心臓発作により急逝。53歳。机にはコレージュ・ド・フランス講義草稿『見えるものと見えないもの』が開かれたままだった。ペール・ラシェーズ墓地に埋葬。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

メルロ=ポンティの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

メルロ=ポンティが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ペール・ラシェーズ墓地墓所

    パリ, フランス

    メルロ=ポンティが1961年に埋葬されたパリ東郊の大墓地

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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