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ボーヴォワール

Simone de Beauvoir·1908–1986·フランス·

人は女に生まれるのか、 それともなるのか?

実存を生き、女性の自由を書いた作家にして思想家

  • 第二の性
  • 実存主義
  • 自由

時代の空気

第一次大戦後のパリで、ブルジョワ家庭は持参金が底をつき召使を雇えない没落をくぐっていた。20年代のカフェ・ド・フロールやドゥ・マゴでは現象学・ハイデガー・マルクスが紙ナプキンの上で組み直され、女性はなおアグレガシオン受験者の最年少が話題になる時代だった。1939年に第二次大戦が始まり、占領下のパリは検閲下で出版が続き、1945年の解放後はサルトル・メルロ=ポンティと『レ・タン・モデルヌ』が創刊された。アルジェリア戦争と1971年の中絶合法化運動が知識人の発言の場を作っていた。

01パリの没落ブルジョワ家庭

1908年1月9日、パリ6区ラスパイユ大通りに面したアパルトマンで、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは生まれた。父ジョルジュは弁護士崩れの法律事務所員で、洒脱しゃだつな文芸趣味を持つ懐疑的かいぎてきな自由思想家。母フランソワーズは深く敬虔けいけんなカトリック信者で、二人の娘を厳格なキリスト教教育のもとに育てた。

一家はブルジョワを自称したが、実情は厳しかった。父方の財産は祖父の代に失われ、第一次世界大戦後には母方の持参金も底をついた。召使めしつかいいを雇えなくなり、安い借家を転々とした。没落の気配はシモーヌの幼年期に深い影を落としたが、それ以上に決定的だったのは、両親の世界観の断絶だった。

父が書斎でモリエールやバルザックを声に出して読む夜、母は居間で娘たちに祈りを教えた。どちらを信じればいいのか。シモーヌは両方を試みた。少女時代、彼女は修道女しゅうどうじょになることを夢見るほど信仰に深くはまった。しかし14歳のある夜、彼女は突然、神の存在を疑い始めた。信念が崩れるのに長くはかからなかった。「神はいない」と気づいた瞬間、彼女が後に述懐するところによれば、世界は収縮するどころか広がった。

その喪失は、孤独の始まりであると同時に、自分の頭で考えることの始まりでもあった。

02ソルボンヌからエコール・ノルマルへ

父は息子がいれば弁護士にしたかったと公言していた。娘である以上、自活できる仕事を持たせるしかないと観念した父は、シモーヌを学問の道に押し出した。しかし動機がどうあれ、結果として彼女は当時のフランスで最も難度の高い知的訓練の場に踏み込んでいく。

ソルボンヌで哲学を学び、数学、文学、ラテン語と並行して積み上げた単位は圧倒的だった。次の目標は、国家教員資格試験。フランスのアカデミズムの頂点に立つ競争試験である。1929年、21歳のシモーヌは哲学部門のアグレガシオンに合格した。その年の受験者の中で最年少だった。

試験準備の過程で、彼女はエコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)の学生たちと勉強会を作った。その中に、すでに学内で伝説と呼ばれていた一人の男がいた。ジャン=ポール・サルトル(前年落第し、この年が再挑戦)である。結果はサルトルが首席、ボーヴォワールが次席だった。しかし審査員の間ではボーヴォワールこそ真の哲学者だという声も上がり、その年の最年少合格者は以後、自分の思索の固有の軌道を描いていく。

いずれにせよ、二人の出会いは試験会場の外でも続いた。サルトルは彼女の思考の速度と鋭さに驚き、「あなたは私が今まで会った中で最も知的な女性だ」と言ったとされる。シモーヌは後に、その言葉を苦笑いとともに引用している。

03契約、カフェ、そしてザザの死

1929年の秋、サルトルとシモーヌは「契約」を結んだ。結婚証書も宗教的誓いもなく、ただ二人の口約束だった。内容は明快だった。互いが「本質的な愛」で結びついている間、それぞれが「偶発的な愛」を自由に持つことを認める。独占もなく、嫉妬しっとも禁じる。透明性を唯一の条件とする——そういう関係の実験だった。

外の世界からは奇異に見えたかもしれない。しかしシモーヌにとって、このパクトは実存的な必然性を持っていた。結婚という制度は、女性を法的・経済的に男性に従属させる構造だった。契約は制度への拒絶であり、自由な主体として生きるという宣言だった。二人は生涯この関係を維持し続けた。ただし後年の自伝『女ざかり』で彼女自身が認めるように、「透明性」は理念として掲げるほど対称ではなかった。サルトルの新しい恋ごとに手紙で知らされる側に立ち続けたこと、それを哲学的自由の条件として自分に呑み込み続けたこと──その不均衡は、アメリカのアルグレンへの書簡に別の体温で漏れ出ることになる。

戦間期のパリ、二人はカフェ・ド・フロールやドゥ・マゴに入り浸った。哲学の議論はテーブルの上に広がり、紙ナプキンに書き込まれ、夜ごと更新された。フッサールの現象学、ハイデガーの存在論そんざいろん、マルクスの唯物論ゆいぶつろん。あらゆる思想が机の上で解体され、組み直された。

その頃、シモーヌには生涯の親友がいた。エリザベート・ラコワン、通称ザザ。ソルボンヌで出会い、知的情熱を分かち合った唯一無二の存在だった。しかし1929年、ザザは突然の脳炎で21歳の命を落とした。シモーヌはその死を「社会の強制が人を殺す」証拠として胸に刻んだ。ザザは親が決めた結婚への服従と、自分が選んだ愛との板挟みに苦しんでいた。その苦しみが、彼女の体をむしばんだとシモーヌは信じた。この喪失は、のちにを書く動機の一つとして深く潜行し続けた。

04戦争、占領下のパリ、そして書く

1939年9月、第二次世界大戦が勃発した。サルトルは徴兵ちょうへいされてアルザスの気象部隊に送られ、翌年ドイツ軍の捕虜ほりょとなった。シモーヌはパリに残り、リセの教壇に立ちながら書き続けた。

占領下のパリは異様な静けさに包まれていた。カフェは開き、本屋も動いていた。検閲はあったが、思考は地下に潜って生き続けた。シモーヌは1943年、初の小説を刊行した。サルトルとの三角関係を素材にした実存主義小説で、フランス文壇に彼女の名を刻んだ。同年、サルトルの戯曲ぎきょく『蠅』が上演された。レジスタンスとの接触は限定的だったが、彼女はペンを抵抗の手段として使うことを選んだ。

1945年、戦争が終わった。パリの知的空気は一変した。サルトルとボーヴォワールは解放の熱狂の中に立っていた。その秋、二人と盟友めいゆうのメルロ=ポンティは思想誌『(Les Temps Modernes)』を創刊そうかんした。政治と哲学を結びつけ、アンガージュマン(社会参加)を旗印にした雑誌だった。

ボーヴォワールは創刊メンバーとして編集に参加しながら、小説、評論、戯曲を書き続けた。1947年にはアメリカへ渡り、シカゴの作家ネルソン・アルグレンと出会った。二人の関係は激しく長く続いた。彼女はアルグレンから贈られた指輪を死ぬまで外さなかったと伝わる。

『第二の性』

05『第二の性』——1949年の革命

1949年6月、二巻本の大著の第1巻が刊行された。『第二の性』。第2巻は同年11月に続き、第1巻は発売初週で2万2千部が売れた。フランスを震撼しんかんさせ、のちにバチカンは禁書目録きんしょもくろくに加えた。

この本の根幹には一つの問いがある。「女性とは何か」。ボーヴォワールの答えは哲学史を揺るがすものだった。女性とは生物学的事実ではなく、社会が作り上げた構築物だ——「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」。この一文は20世紀思想の中で最も引用された命題の一つになった。

彼女の分析は徹底的だった。神話、宗教、文学、精神分析、生物学、歴史。あらゆる分野で「女性」がどのように定義され、どのように「他者」の位置に押し込められてきたかを解剖した。男性が「主体」であり「絶対者」であるのに対し、女性は「相対的存在」「第二の性」として構成されてきた。

サルトルの実存主義的な語彙——「自由」「状況」「他者」「まなざし」——がフレームとして機能したが、ボーヴォワールの分析はサルトルの思想を超えていた。彼女は抽象的な「人間」ではなく、具体的な性を持った身体と社会的制度の交差点を見つめた。

批判は激しかった。カミュは「フランスの男性をおとしめた」と怒り、サルトル周辺の男性知識人たちも複雑な反応を示した。しかし世界中の女性読者は、この本の中に自分の生の構造を発見した。アメリカではベティ・フリーダンが読み、ケイト・ミレットが読み、フェミニズムの第二の波の水源となった。

06晩年——運動、回想録、そして別れ

1950年代から60年代、ボーヴォワールは知識人として政治の現場に立ち続けた。アルジェリア戦争では独立派を支持し、フランス政府を公然と批判した。彼女は沈黙を哲学的裏切りとみなした。

私的な領域では、映画監督クロード・ランズマンとの長い関係があった。ランズマンは17歳年下で、二人は1952年から数年間パートナーとして過ごした。サルトルとの「本質的な愛」は続いていたが、その形は年を重ねるごとに変化し、友情と相互扶助と知的連帯の複合物へと深化した。

1963年から66年にかけて、彼女は四巻の回想録を書き上げた。に始まる自伝シリーズは、20世紀フランス知識人の肖像であると同時に、「女性の一人称で書かれた思想的自伝」という新しいジャンルを切り拓いた。

1971年、ボーヴォワールは決定的な一歩を踏み出した。「」への署名である。自ら中絶を経験したと公言した343人の女性の宣言文。フランスで中絶が犯罪とされていた時代、これは法的リスクを伴う行動だった。彼女の署名が最初に並んでいた。その4年後、中絶は合法化された。

1980年4月15日、ジャン=ポール・サルトルが死んだ。75歳。ボーヴォワールはその臨終りんじゅうに立ち会い、葬儀の後も遺稿いこうの整理と出版を引き受けた。(1981年)は、サルトルの晩年を冷静かつ深く記録した証言書だった。喪失の痛みを、彼女は書くことで乗り越えようとした。

1986年4月14日、パリの病院で78歳で死去した。モンパルナス墓地にサルトルの隣に葬られた。

07主要な出来事と著作

  1. パリ6区に誕生。父ジョルジュ(法律事務所員)、母フランソワーズ(敬虔なカトリック)
  2. 14歳で信仰を喪失。以後、哲学と文学に傾倒
  3. 哲学部門のアグレガシオン(国家教員資格試験)にその年の最年少(21歳)で合格、サルトルと出会い「契約」を結ぶ。親友ザザ(エリザベート・ラコワン)が21歳で夭折
  4. 初の小説『招かれた女』刊行。実存主義作家として文壇に登場
  5. 戦後解放の熱狂の中、サルトル・メルロ=ポンティらと思想誌『レ・タン・モデルヌ』創刊
  6. アメリカ訪問。作家ネルソン・アルグレンと出会い、深い関係が始まる
  7. 『第二の性』刊行。初週2万2千部。バチカン禁書指定
  8. 小説『レ・マンダラン』でゴンクール賞受賞
  9. 自伝四巻(『娘時代の回想』ほか)を刊行
  10. 「343人のマニフェスト」に署名。中絶合法化運動の旗手となる
  11. サルトル死去。『別れの儀式』(1981)でその晩年を記録
  12. パリで死去、享年78。モンパルナス墓地にサルトルと並んで眠る

残した思想の輪郭

  • 「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」 ― 性別は生物学的所与ではなく、社会と文化によって構築されるという宣言
  • 他者化の構造批判 ― 男性が「主体」として自己を定義する際、女性を「」として位置づける仕組みを解析
  • 実存主義的フェミニズム ― サルトルの実存主義の語彙を用いながら、抽象的な「人間」ではなく性を持つ具体的な身体と状況を分析対象とした
  • アンガージュマン(社会参加) ― 知識人の責任として政治的行動を選び、アルジェリア独立支持・中絶合法化運動など時代の最前線に立ち続けた
  • 自伝という思想 ― 回想録を通じて、女性の一人称で語られた思想的自伝という新たな文学ジャンルを切り拓いた
  • 関係の再定義 ― サルトルとの「契約」は制度としての結婚への批判であり、自由な主体同士の関係の実践的実験だった
1986年、パリで没す。サルトルの隣に葬られた。
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  • 思想二次資料で確認済み研究上論争あり

    研究上論争あり: 1949年刊『第二の性』第二巻第一部の冒頭、ボーヴォワールが「女とは何か」への答えをまず時間のなかに置き直した一行。生物学・精神分析・史的唯物論の三つの説明を第一巻で吟味したうえで、女は生得の本質では...

  • 抜粋二次資料で確認済み研究上論争あり

    研究上論争あり: 人は女に生まれるのではない、女になるのだ。

  • 抜粋二次資料で確認済み研究上論争あり

    研究上論争あり: 人は女に生まれるのではない、女になるのだ

  • 出典原典で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: simone.mdx pullsource 「『第二の性』」 は書名としては正確だが、年代・章節・著者表記がない最小表記。Le Deuxième Sexe (Gallimard, 1949 年初版、t...

  • 引用原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 女は、男との関係において定義され区別される。女は非本質的なもの、男に対する他者(l'Autre)である

つながり

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  • 入門第二の性 (I 事実と神話)

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  • カフェ・レ・ドゥ・マゴゆかり

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  • モンパルナス墓地(サルトルとボーヴォワールの墓)墓所

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