ウィトゲンシュタイン
語り得ぬものに、 どう向き合うか?
言語の限界に思考の境界を見た孤独な哲学者
- 論理哲学論考
- 言語ゲーム
- 家族的類似
時代の空気
19世紀末のオーストリア=ハンガリー帝国は世紀末ウィーンの最盛期にあり、アレーガッセのパレ・ウィトゲンシュタインにはブラームスやマーラーが集い、クリムトらウィーン分離派が支援を受けていた。鉄鋼業を含む産業資本がロスチャイルド家に並ぶ富を生む一方、世紀末の自殺ブームは兄三人の命を奪った。1914年の第一次大戦でハプスブルク帝国は崩壊へ向かい、ガリシア戦線の砲兵部隊と南チロルの捕虜収容所で『論理哲学論考』が書かれた。1929年以降のケンブリッジでは『プリンキピア・マテマティカ』後の論理学が動き、第二次大戦中はガイズ病院の薬品配送係として戦時労働を引き受けた。
01ウィーンの大富豪の末子
1889年4月26日、ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタインはウィーンの豪邸に生まれた。父カール・ウィトゲンシュタインはオーストリア=ハンガリー帝国最大の鉄鋼王で、その資産はロスチャイルド家に匹敵するとも言われた。アレーガッセ16番地(現アルゲンティニア通り16番地)のパレ・ウィトゲンシュタインには、ヨハネス・ブラームスやグスタフ・マーラーら音楽家が集い、グスタフ・クリムトらウィーン分離派の画家たちもこの家の支援を受けた。文化と資本が交錯する場に、ルートヴィヒは末っ子として育った。
成人した八人きょうだいの末子は、しかし幸福な家族に生まれたわけではなかった。兄ハンス、ルドルフ、クルトの三人が自殺あるいは自殺と推定される形で命を絶った。ハンスは音楽の神童だったが、家業の鉄鋼業を強いられそうになった直後にアメリカへ渡り、1902年に船上から失踪した。ルドルフはベルリンのバーで毒薬を飲んだ。クルトは第一次大戦の末期、敗走する部隊の前で銃を自分に向けた。残った兄パウルはピアニストとなり、右腕を失ってなお演奏を続けた——ラヴェルに左手のための協奏曲を依頼したのは彼だ。
この家に生まれることは、特権であると同時に、ある種の重圧でもあった。
02工学からラッセルへ
少年ルートヴィヒは工学を志した。1906年にベルリンのシャルロッテンブルク工科大学で機械工学を学び、1908年にはイギリスのマンチェスター大学に移って航空工学の研究に着手した。プロペラの設計を手がけながら、彼はしだいに数学の基礎に引きつけられていった。数とは何か。論理とは何か。エンジンの設計図を書く手が、もっと根本的な問いを探し始めた。
転機は1911年。ルートヴィヒはケンブリッジを訪れ、バートランド・ラッセルの門を叩いた。ラッセルは当時、ホワイトヘッドとともに『プリンキピア・マテマティカ』を書き上げた直後で、数学の論理的基礎を問い直す最先端の仕事をしていた。最初の面会でルートヴィヒは一時間ほどラッセルと議論し、立ち去り際に「私は馬鹿ですか、天才ですか」と尋ねたという。ラッセルはすぐには答えられなかった。翌学期、ルートヴィヒの書いてきたノートを読んで、ラッセルは友人への手紙に「私はこれ以上、哲学の講義で何も教えられる気がしない」と記した。
ルートヴィヒは師の授業に出席しながら、ラッセルの論理学の根本を問い返し続けた。師は弟子の鋭さに圧倒されながら、彼こそ次の論理学を担う者だと確信した。
03塹壕で書く『論理哲学論考』
1914年7月末に第一次大戦が始まり、8月にはオーストリア=ハンガリーが参戦した。ルートヴィヒはウィーンに戻り、ガリシア戦線の砲兵部隊に志願した。志願の理由は複雑だった——愛国心ではなく、むしろ死に面することで自分を試したかったのだと後に示唆している。前線では危険な観測任務を自ら希望した。
戦場でもノートは手放さなかった。砲弾の音の中でを書き、仮眠の合間にを組み上げた。1916年から1917年にかけての日記には、哲学的考察と並んで、神を信じるとは人生に意味があると見ることだ、といった祈りに似た思索が書きつけられた。戦争はルートヴィヒを壊しかけながら、同時に彼の思考を極限まで研ぎ澄ませた。
1918年11月、南チロルのイタリア軍に降伏し捕虜となった。モンテカッシーノ近郊の収容所で、彼は原稿を整理し、ひとつの書物の形にまとめ上げた。それが『』(Tractatus Logico-Philosophicus)である。1921年にドイツ語版、翌年英語版が刊行された。世界は事実の総体であり、命題は可能な事態を論理形式によって写像する——そして写像しえないものについては語ることができない。最後の命題は七つ目に置かれた。「については、沈黙しなければならない」。
語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。
04哲学を捨てた人 ― 遺産放棄、教師、建築家
捕虜収容所から解放されたルートヴィヒは、1919年にウィーンへ戻った。帰国後最初にしたことは、莫大な遺産を放棄することだった。父カールが死去した1913年、ルートヴィヒは相続財産を受け取っていたが、戦後それを全額、兄姉たちに分配してしまった。一文無しを自ら選んだ。富は思考の妨げになると彼は感じていた——あるいは、家族が背負った呪いから自分を切り離すために、象徴的な行為が必要だったのかもしれない。
哲学の問題は『論考』で解決したと彼は信じていた。次の仕事を求めて、彼はウィーン師範学校の教員養成課程に入った。1920年から1926年にかけて、オーストリア山村の小学校教師となった。最初はトラッテンバッハ、続いてプッフベルク・アム・シュネーベルクやオッタータールといった辺境の村で子供たちに算数と文法を教えた。しかし村人との摩擦は絶えなかった。彼の教育は子供を叱りすぎるとして父兄から苦情が寄せられ、ある暴力事件のあと1926年に教職を去った。
同年、姉マルガレーテの依頼でウィーンの邸宅の設計に加わった。エンジニア出身の哲学者は、友人の建築家パウル・エンゲルマンとともにウィーン3区クンドマンガッセ19番地の邸宅——ハウス・ウィトゲンシュタイン——を設計した。装飾を徹底的に排した厳密な比例と空間。床から天井まで続く金属製のラジエーター、正確さへの執念が細部に宿るその建物は、今日も立っている。
05ケンブリッジ帰還と思想の転回
1929年、ルートヴィヒはおよそ16年ぶりにケンブリッジへ戻った。経緯は異例だった。彼は事実上すでに有名な哲学者だったが、正式には学位を持っていなかった。博士審査のために、審査委員として呼ばれたのはかつての師ラッセルと、G・E・ムーアだった。ルートヴィヒは審査の場で、審査委員たちの肩を叩きながらこう言ったという——「心配しないでください、お二人には絶対にわかりませんから」。審査論文は『論考』そのものだった。ムーアは報告書に「天才的な作品」と書いた。
しかしケンブリッジに戻ったルートヴィヒは、自分が「解決した」と思っていた哲学の問題が、実は解決されていなかったことに気づきはじめていた。『論考』の言語観——命題は可能な事態を論理形式によって写像する——はどこまで言語の実態を捉えていたか。人は「板を持ってこい」と言うとき、それは事態を写す命題というより、状況の中で生きている言葉の働きそのものである。言語の意味は使用の中にある。
この転回は突然ではなかった。イタリアの経済学者ピエロ・スラッファとの対話、フランク・ラムジーとの論争を経て、彼の思考は静かに変容していった。かつて自ら「解決した」と宣言した問いを、もう一度最初から問い直す覚悟が固まった。
ケンブリッジ時代の逸話として残るのが、1946年10月25日の道徳科学クラブの一夜である。招かれた講演者カール・ポパーが「哲学的問題は本当に存在するか」を論じた席で、議長だったウィトゲンシュタインは暖炉の火かき棒を手に取り、身ぶりを交えながら激しく詰問した──ポパーの後年の回想(『果てしなき探究』)によれば、「倫理的命題の例を一つ挙げよ」と問われたポパーが「訪問講演者を火かき棒で脅さないこと」と応じた直後、ウィトゲンシュタインは火かき棒を置いて退席したと伝わる。出席者の証言は細部で食い違い、どちらが事実をより正確に記憶していたかは今も争われている(デイヴィッド・エドモンズ&ジョン・エイディナウ『ウィトゲンシュタインの火かき棒』2001に詳細)。
06『哲学探究』の二十年
1936年からルートヴィヒは断続的にノルウェーのソグネフィヨルド奥地の小屋に籠もった。人里から数時間歩いた孤立した場所に、彼は1913年に計画し1914年に完成させた小屋を持っていた。そこで書き、消し、書き直し続けた。アイルランドのコネマラでも、ダブリン郊外でも同じことを繰り返した。完成を見るたびに不満が湧き、また書き直した。
「」という概念が形を成してきた。言語の意味は、社会的な実践の中で与えられる。「ゲーム」という言葉が何を指すか?チェス、テニス、輪投げ——それらに共通する本質的な定義は存在しない。ただ「」と呼ぶべき部分的な重なりがある。それと同じように、言葉の意味は文脈の中の使用によって生きている。哲学の問題の多くは、言語の使い方の混乱から生じる——言葉を日常の文脈から切り離したとき、哲学者は迷子になる。
第二次大戦中はガイズ病院の薬品配送係として、ニューカッスルの医学研究所の研究助手として働いた。白衣を着て廊下を歩き回るルートヴィヒを、誰も哲学者とは知らなかった。戦後ケンブリッジの教授職に戻ったが、1947年に辞職した。「大学は哲学の書き方を殺す」と感じていた。
1949年にアイルランドから戻ってからも、『』第一部を中心とする原稿の改訂は続いた。生前の刊行は果たされないまま、『哲学探究』は1953年、彼の死の二年後に遺稿として出版された。
07「素晴らしい人生だった」— 1951年
1949年末から体調が悪化し、前立腺癌と診断された。ルートヴィヒはアメリカのノーマン・マルコムのもとを訪ねてからケンブリッジに戻り、友人でかかりつけのエドワード・ビーヴァン医師の自宅に引き取られた。病院の無菌的な環境より、親しい人の家を選んだ。
最後の数ヶ月、ルートヴィヒはなお書き続けた。『について』の断章群——「私は手があると知っている」という一見自明な命題は、本当に疑えるのか。知識と確実性はどこが違うのか。鉛筆を走らせながら、彼の思考は衰えなかった。
1951年4月28日、意識が遠のきはじめた。ビーヴァン夫人がそばにいた。ルートヴィヒは言った——「素晴らしい人生だったと伝えてくれ」。翌29日夜、彼は没した。享年62歳。
葬儀はカトリック式で行われた。棺を運んだのは、かつての学生たちだった。ウィーンの豪邸から始まり、塹壕と捕虜収容所を経て、山村の教壇に立ち、ウィーンに邸宅を設計し、ノルウェーの小屋に籠もり、病院の廊下を歩いた一つの生。遺産を捨て、職を転々とし、何度も書き直し続けたその人は、最後に「素晴らしかった」と言い残した。
08主要な出来事と著作
- ウィーンに誕生。父カール・ウィトゲンシュタイン(鉄鋼王)の末子
- マンチェスター大学で航空工学を研究。数学の基礎に関心が移る
- ケンブリッジでバートランド・ラッセルに師事
- 第一次大戦に志願。ガリシア戦線、南チロルでイタリア軍に降伏・捕虜
- 帰国後、遺産を全額放棄して兄姉に分配
- トラッテンバッハ、プッフベルクなどオーストリア山村で小学校教師
- 『論理哲学論考』刊行(独語版)。「語り得ぬものには沈黙せよ」
- 姉マルガレーテの邸宅(ハウス・ウィトゲンシュタイン、ウィーン)を設計
- ケンブリッジに復帰。博士審査委員はラッセルとムーア
- ノルウェーの小屋やアイルランドに籠もり『哲学探究』を執筆・改訂
- ケンブリッジ哲学教授。戦中はロンドン・ニューカッスルの病院で実務労働
- 癌によりケンブリッジで死去、享年62。最期の言葉「素晴らしい人生だった」
- 『哲学探究』遺稿として刊行
残した思想の輪郭
- 言語の限界は世界の限界 ― 語り得ることの境界を明確にすること自体が哲学の仕事
- 沈黙の倫理 ― 語り得ぬもの(倫理・美・神秘)は論理命題の形を取れないが、だからこそ重要
- 言語ゲーム ― 言語の意味は固定した本質ではなく、社会的実践の中での「使用」によって与えられる
- 家族的類似 ― 概念は共通の本質でなく、部分的に重なり合う特徴の網目によって成り立つ
- 哲学的治療 ― 哲学の問題の多くは言葉の誤用から生じる混乱であり、それを解きほぐすことが哲学の役割
- 確実性と知識の区別 ― 「私は知っている」という言明が成立するためには、疑いが意味をなす文脈が必要
出典と確認メモ
6件- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: ケンブリッジ時代の逸話として残るのが、1946年10月25日の道徳科学クラブの一夜である。招かれた講演者カール・ポパーが「哲学的問題は本当に存在するか」を論じた席で、議長だったウィトゲンシュタインは暖...
- 文脈原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 『論理哲学論考』を閉じる第七命題。第一次大戦中の前線と、降伏ののちに過ごした捕虜期に書き継がれた原稿の、最後に置かれた一行である。それ以前の六つの命題で世界と言語の輪郭を精密に引いたうえで、その縁で踏...
一次資料を開くTractatus Ogden 1922 訳全文。Proposition 7 'Whereof one cannot speak, thereof one mu...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 私の言葉の限界は、私の世界の限界を意味する
一次資料を開くTractatus Proposition 5.6 (Ogden 1922): 「The limits of my language mean the limi...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。
一次資料を開くTractatus Proposition 7 (Ogden 1922, p. 189): 「Whereof one cannot speak, thereof...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 語り得ぬものについては、沈黙しなければならない
一次資料を開くTractatus Proposition 7 (Ogden 1922 Routledge & Kegan Paul, p. 189): 「Whereof on...
- 出典一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: wittgenstein.mdx pullsource '『論理哲学論考』7' は Wittgenstein, Logisch-philosophische Abhandlung (Annalen d...
一次資料を開くTractatus Proposition 7 (Ogden 1922 trans., p. 189)。pullsource '『論理哲学論考』7' は Wit...
つながり
- ニーチェ
共鳴 — 『論理哲学論考』(1921)末尾「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」は、ニーチェの「神の死」後の哲学の沈黙と響き合う。後期『哲学探究』(1953)の言語ゲーム論は、ニーチェ『道徳外の意味における真理と虚偽』(1873)の「真理とは比喩の軍隊」論と問題系を共有。直接の影響関係ではなく言語批判の並行
- バートランド・ラッセル
先駆 — 1911年秋ケンブリッジ・トリニティ・カレッジでラッセルに入門、1912-13年の2年間で論理学の基礎をめぐる集中的な師弟関係。『論理哲学論考』(1921/22独英版)にラッセルが有名な序文を寄せるが、ウィトゲンシュタインはこの序文を「根本的に誤解されている」として不満を抱き、戦後両者は思想的に決裂。それでも現代分析哲学はこの師弟関係から派生した
- アラン・チューリング
先駆 — 1939年ケンブリッジでウィトゲンシュタインの「数学の基礎」講義(1939)にチューリングが受講者として参加、矛盾と論理に関する両者の激しい議論が講義録に残る(『ウィトゲンシュタインの数学の基礎に関する講義 ケンブリッジ1939』、C. ダイアモンド編1976)。同年チューリングは計算可能性理論の基礎(チューリングマシン、計算可能性、決定不能問題)を論文『計算可能数について』(1936)で定式化したばかり
- フレーゲ
先駆 — ウィトゲンシュタインは1911年夏イェーナのフレーゲを訪ね、そこからケンブリッジのラッセルへ紹介された。『論理哲学論考』(1921)序文でフレーゲとラッセルの二人に「大いなる著作への」負債を明言、「思想(Gedanke)」「意義(Sinn)」「意味(Bedeutung)」の区別など、前期ウィトゲンシュタインの骨格はフレーゲから直接継承されたもの。1918-20年に両者は数通の書簡を交わし、フレーゲは『論考』原稿を読んで「ほとんど理解できなかった」と返信した
さらに読むならFurther Reading
ウィトゲンシュタインの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門論理哲学論考
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン / 訳: 野矢茂樹 / 岩波文庫
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ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン / 訳: 鬼界彰夫 / 講談社
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Ludwig Wittgenstein / 訳: C. K. Ogden / Routledge
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生きた跡を辿るPlaces
ウィトゲンシュタインが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
ウィトゲンシュタインを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Ludwig Wittgenstein"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Ludwig Wittgenstein"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Ludwig Wittgenstein"
Project GutenbergEnglishTractatus Logico-Philosophicus(C.K. Ogden 英訳)— Project Gutenberg
『論理哲学論考』英訳
Internet ArchiveEnglishTractatus Logico-Philosophicus(Pears & McGuinness 英訳) — Internet Archive
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