バートランド・ラッセル
私たちが「知っている」と思うとき、 実際には何を知っているのか?
論理分析で哲学を刷新し、核軍縮の先頭にも立った20世紀の知の巨人
- 論理分析
- プリンキピア・マテマティカ
- 平和運動
時代の空気
ヴィクトリア朝末期、祖父ジョン・ラッセル卿は二度首相を務めた自由党の巨頭で、名付け親はジョン・スチュアート・ミルだった。1890年入学のケンブリッジは数学・哲学の革新期で、1900年パリの国際哲学会議でペアノの記号論理学が共有される。1914年の第一次大戦勃発で塹壕の死に直面し、1916年の反戦パンフレットでトリニティ・コレッジを追われ、1918年にはブリクストン監獄で6ヶ月服役。1920年のソ連訪問でレーニンと会見、1945年広島・長崎の核時代と1955年ラッセル=アインシュタイン宣言、1968年五月革命まで戦争と思想弾圧の世紀を貫いた。
01ラヴェル家の孤児
1872年5月18日、ウェールズ国境のモンマスシャーで、バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルが生まれた(後年、兄フランクの死により1931年に第3代ラッセル伯を継承する)。祖父ジョン・ラッセル卿は二度首相を務めた自由党の巨頭。父アンバリー子爵は急進的な自由思想家で、生まれたラッセルの名付け親にジョン・スチュアート・ミルを依頼した(ミルは翌年死去)。
2歳で母ケイトと姉レイチェルをジフテリアで失い、4歳で父が死去した。両親は哲学者ヘンリー・ハーバート(無神論者)を兄弟の後見人に指定したが、祖父母(伯爵夫妻)がこれを法廷で覆し、祖父母の家(ペンブローク・ロッジ、リッチモンド公園内)で厳格なヴィクトリア的教育を受けて育つ。祖母ラッセル夫人は厳格な長老派で、少年バートランドの孤独は深かった。兄フランクが彼に数学を教え、ユークリッド幾何学の公理を見た11歳の少年は「これは人類の達した最も美しいもの」だと直感した。
1890年、ケンブリッジ大学トリニティ・コレッジに入学。アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドが教員として彼を見出し、生涯の協働者となる。ムーア、マクタガート、ケインズら優秀な仲間に囲まれ、ケンブリッジ使徒会に選ばれた。数学と哲学の優等学位を得て、1895年にフェローシップ論文「幾何学の基礎」を提出した。
02『プリンキピア・マテマティカ』――10年の苦闘
1900年、パリの国際哲学会議でジュゼッペ・ペアノの記号論理学を知り、これが突破口となった。1903年、『数学の原理』(Principles of Mathematics)刊行。数学は論理学に還元できる――この論理主義の大胆な主張は、同書の最中でラッセル自身が発見した「」(自分自身を要素として含まない集合全体の集合は?)により根底から揺さぶられた。
パラドクス解消の課題を引き受け、1910年から1913年、ホワイトヘッドとの共著『』(Principia Mathematica)全3巻が出版された。数千の記号と証明から構成されるこの書は、20世紀数学基礎論と分析哲学の出発点となる。第1巻300ページ目あたりで「1+1=2」がようやく証明される、という有名な逸話を生む。
1905年の論文「表示について」(On Denoting)は記述句の論理分析を確立し、分析哲学の古典となった。「現在のフランス王は禿げている」――実在しない対象に言及する文の論理形式を、量化と記述句の分解で解く手法は、ラッセルの記号論理学の精華だった。
03第一次世界大戦、投獄
1914年の大戦勃発とともに、ラッセルは平和活動に身を投じた。教え子の青年たちが塹壕で死んでいく現実に耐えられなかった。非戦闘員役務拒否者協会(NCF)に参加し、良心的兵役拒否者の擁護を公然と行った。
1916年、反戦パンフレットで有罪となり、トリニティ・コレッジの講師職(lectureship)を剥奪された(ケンブリッジでの教壇と居住資格を失ったが、フェローシップは1944年に復帰時に別問題として扱われる)。1918年、平和主義の機関紙『ザ・トリビューナル』に寄稿した反戦記事(アメリカ軍がストライキ鎮圧に投入されうる旨の記述)が起訴対象となり、ブリクストン監獄で6ヶ月服役した(第一部)。獄中で『数理哲学序説』(1919)を書き上げた。
1917年のロシア革命に当初は好意を抱いたが、1920年に革命後のロシア(ソ連邦成立は1922年)を訪問してレーニンと短時間会見し、新政権の抑圧的性格に幻滅する。『ボルシェビズムの実際と理論』(1920)で早期の批判書を著した。直後に中国を1年訪問、北京大学で講義した。
私は愛への憧れ、知識への探求、人類の苦しみへの耐え難い憐れみという、三つの単純だが圧倒的に強い情熱に支配されて生きてきた。
04結婚、学校、大衆的著作
1894年、アメリカ人アリス・ピアソール・スミスと最初の結婚(1921年離婚)。1921年、ドーラ・ブラックと再婚、二児をもうけた。1927年、夫妻はビーコン・ヒル・スクールを創設、進歩的教育の実験場とした。1935年にドーラと離婚、1936年パトリシア・スペンスと結婚(後に離婚)、1952年エディス・フィンチと四度目の結婚で、生涯の伴侶を得た。
1920年代から40年代にかけて、ラッセルは大衆的著作で生計を立てた。『結婚と道徳』(1929)、『幸福の獲得』(1930)、『なぜ私はキリスト教徒でないか』(1927講演、1957書籍化)は広く読まれた。1940年、ニューヨーク市立大学の任命が「道徳的にふさわしくない」として法廷で取り消される事件――「ベトランド・ラッセル事件」――は、アメリカの思想弾圧史に残る。
1945年、膨大な通史『』(A History of Western Philosophy)刊行。タレスから現代までを、機知と論争的な筆致で描いた大著は、ベストセラーとなりラッセルの経済的基盤を安定させた。1950年、「人道主義と思想の自由の多様で重要な著作に対して」ノーベル文学賞が授与された。
05核廃絶運動と第二の投獄
戦後のラッセルは、核兵器廃絶運動の象徴的存在となった。1955年、アインシュタインとの共同「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表――アインシュタイン死の数日前、彼の最後の署名となった文書である。「私たちはあなた方に、人間として人類に向けて訴える」。この宣言は後にパグウォッシュ会議(1957-)へと結実する。
1958年、核軍縮キャンペーン(CND)初代会長に就任。1960年、より急進的な「100人委員会」の会長として直接行動路線を推進し、1961年、89歳のとき反核座り込みで第二の投獄(7日間、後に刑期短縮)。獄中でも講義を続けた。
1963年、バートランド・ラッセル平和財団設立。ベトナム戦争批判、ベトナム戦争犯罪国際法廷(いわゆる「ラッセル法廷」、1967)の主催、チェコスロヴァキア侵攻への抗議など、晩年まで国際政治の批判者であり続けた。
06死、そして遺された問い
1970年2月2日、ウェールズ北部プラス・ペンリンの自宅で、急性気管支炎により死去、97歳。遺灰は本人の遺志によりウェールズ山中に散布された。
ラッセルが残したのは単一の哲学体系ではない。初期の、中期の(現象の論理分析を極めた)、そして晩年の中立的一元論――哲学的立場は何度も転回した。自身がその転回を隠さなかったことも、ラッセルの誠実さだった。「自分の考えが変わることを恐れる哲学者は哲学者ではない」。
弟子のウィトゲンシュタインに強い影響を与え、またその『論理哲学論考』の序文を書いた(ウィトゲンシュタインは序文に不満だったが)。ポパー、エイヤー、クワインを含む分析哲学の系譜は、ラッセルを出発点として広がった。政治思想ではリベラリズム、反戦、合理主義の擁護者として、20世紀の公的知識人の原型となった。
07主要な出来事と著作
- モンマスシャーに誕生。祖父は元首相ジョン・ラッセル卿
- 母、姉、父を相次いで失い、祖父母宅で養育される
- ケンブリッジ大学トリニティ・コレッジ入学
- 『数学の原理』刊行。ラッセルのパラドクス発見
- 論文「表示について」――記述の理論
- ホワイトヘッドと『プリンキピア・マテマティカ』全3巻刊行
- 反戦活動によりトリニティ・コレッジの講師職を剥奪
- 反戦記事(『ザ・トリビューナル』)でブリクストン監獄に6ヶ月服役
- 「なぜ私はキリスト教徒でないか」講演
- 『西洋哲学史』刊行
- ノーベル文学賞受賞
- ラッセル=アインシュタイン宣言発表
- 反核座り込みで第二の投獄、89歳
- 2月2日、ウェールズで急性気管支炎により死去、97歳
残した思想の輪郭
- 論理主義 ― 数学は論理学から導出できるという『プリンキピア・マテマティカ』の主題
- ― 存在しない対象に言及する文を量化記号で論理分析する手法
- ラッセルのパラドクス ― 素朴集合論に潜む自己言及的矛盾、型理論の動機となった
- 論理的原子論 ― 世界を事実の集まりとして分析し、論理形式で捉える中期の立場
- 公的知識人の倫理 ― 核廃絶・反戦・思想の自由を哲学の外側で身体を張って擁護
出典と確認メモ
5件- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 私は愛への憧れ、知識への探求、人類の苦しみへの耐え難い憐れみという、三つの単純だが圧倒的に強い情熱に支配されて生きてきた
一次資料を開くPrologue 冒頭一文目: 'Three passions, simple but overwhelmingly strong, have governed...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 哲学の価値は、多くは不確かさそのもののうちにある。哲学に触れない者は、常識と自分の時代と国の偏見という独断のうちに閉じ込められたまま一生を終える。philograph quotes.ts russel...
一次資料を開くChapter 15 'The Value of Philosophy' 冒頭近く: 'The value of philosophy is, in fact,...
- 出典一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 『自伝』序文
一次資料を開くAutobiography Vol. 1 Prologue 'What I Have Lived For'。philoglyph pullsource '『自伝...
- 著作原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 『自伝』(1967年刊、第一巻)の序文冒頭、90歳を超えた哲学者が生涯を三行でまとめた箇所。『プリンキピア・マテマティカ』の論理と核軍縮運動の街頭を両方引き受けた人の自己紹介にしては、徳目でも業績でも...
一次資料を開くRussell 自伝 Prologue 'What I Have Lived For' 全文。'Three passions, simple but overw...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: これら三つの情熱は、大風のように、深い苦悩の大洋の上を、絶望の瀬戸際まで私を揺さぶり続けた
一次資料を開くPrologue 第 2 段落: 'These passions, like great winds, have blown me hither and thi...
つながり
- ウィリアム・ジェイムズ
先駆 — ラッセルは初期論文「ジェイムズのプラグマティズムの本性」(1909)でジェイムズの真理論を批判的に検討、「哲学論文集」(1910)にも収録。『心の分析』(1921)の中立的一元論はジェイムズ『根本的経験論』の「純粋経験」を分析哲学の語彙で引き受けた試み。分析と経験の対立を超える20世紀初頭の橋渡し関係
- ヒューム
継承 — ラッセルはヒュームを「哲学史上最も重要な懐疑論者」と評価し、『西洋哲学史』(1945)第22章では「ヒュームが到達した結論のうちいくつかは、われわれが承認する他はない」と述べる。『人間の知識――その範囲と限界』(1948)で帰納問題(Humean Problem)を分析哲学の枠で再定式化、経験論を論理実証主義と科学的懐疑主義に接続
- ウィトゲンシュタイン
先駆 — 1911年秋ケンブリッジ・トリニティ・カレッジでラッセルに入門、1912-13年の2年間で論理学の基礎をめぐる集中的な師弟関係。『論理哲学論考』(1921/22独英版)にラッセルが有名な序文を寄せるが、ウィトゲンシュタインはこの序文を「根本的に誤解されている」として不満を抱き、戦後両者は思想的に決裂。それでも現代分析哲学はこの師弟関係から派生した
- カール・ポパー
伴走 — ポパー『探究の論理』(1934)はウィーン学団の論理実証主義(カルナップ・ノイラート)への批判書だが、ラッセルとは立場を共有する部分が大きく、ラッセルは本書への肯定的書評を残す。戦後ロンドン亡命時代以降、ポパーがラッセル平和財団・パグウォッシュ会議周辺で協働、1950-60年代の科学哲学・自由社会論で同伴者的関係
- フレーゲ
先駆 — ラッセルは1902年6月16日フレーゲに宛てた書簡で、『算術の基本法則』第2巻(校了直前)の体系に集合論のパラドクス(後のラッセル・パラドクス)を指摘、フレーゲは第2巻巻末に有名な「学問を築こうとする者にとって最も望ましくないのは、仕事が完成しようとする瞬間にその基礎が崩れることである」という後書を加えた。『プリンキピア・マテマティカ』(ラッセル&ホワイトヘッド、1910-13)はフレーゲ論理主義の修復計画として位置づけられる
さらに読むならFurther Reading
バートランド・ラッセルの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門幸福論
バートランド・ラッセル / 訳: 安藤貞雄 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
バートランド・ラッセルが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- トリニティ・カレッジ、ケンブリッジ所属
ケンブリッジ, イギリス
ラッセルが学び、後にフェローとして数学原理を執筆した母校
- プラス・ペナーリン(ラッセル邸跡)住居
ポースマドグ, イギリス
晩年を過ごしたウェールズ北部の邸宅。1970 年ここで没した
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
バートランド・ラッセルを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「バートランド・ラッセル」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Bertrand Russell"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Bertrand Russell"
Project GutenbergEnglishThe Problems of Philosophy(1912)— Project Gutenberg
『哲学入門』原著
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