ウィリアム・ジェイムズ
考えが正しいかどうかは、 生きてみなければ分からないのか?
意識の流れを描き、真理を生きた効果で測ったプラグマティズムの父
- プラグマティズム
- 意識の流れ
- 宗教的経験
科学が心まで測り始め、神は要らないと言われかけた時代。信じることの居場所を、若いアメリカが探していた。 — ひらく
時代の空気
19世紀後半のニューイングランドは、独立後二世代を経た知識人の自意識が成熟しつつあった。コンコードのエマソン、ソロー、オルコットの周辺に父ヘンリー・シニアの友人圏があり、スウェーデンボルグ派の宗教遍歴とヨーロッパ遊学を繰り返す家族が育った。ボストン・ブラーミンのサロン、ハーヴァード医学校とローレンス科学学校、ダーウィン受容、ヘルムホルツ・ヴント・フェヒナーが切り拓いたドイツ実験心理学、心霊研究の流行――南北戦争の傷を抱えた共和国で、パース、ジェイムズ、デューイへと継がれるプラグマティズム学派が芽吹いていた。
01日記の一行
1870年4月30日。ウィリアム・ジェイムズは28歳だった。医学は学んだが、医者にはならなかった。体は弱く、心は深い鬱に沈んでいた。自殺念慮、つまり死にたいという思いが、彼を苦しめていた。
彼を追いつめていたのは、学んできた科学そのものだった。心も、物の動きの一部にすぎない。ならば、人が何を選ぶかも、最初から決まっている。科学はそんな宇宙の姿を予告していた。「全ては決定されている」。彼はその考えに恐怖した。
その春、一冊の本を読んだ。フランスの哲学者の『第二論理学試論』である。ルヌーヴィエは自由意志をこう定めていた。「他のことを考え得るのに、これを考える力」。別のことも考えられるのに、あえてこれを考える。その力こそが自由なのだ、と。
ジェイムズは衝撃を受け、日記にこう書いた。「自由意志を信じる最初の行為は、自由意志を信じることだ」。哲学の(正しいかどうかを論じる文)の決着を待つのではない。まず信じる。その行為そのものが救いになる。この日を境に、彼は回復の方へ向かい始めた。
ここに一つの「なぜ」が残る。証明もないのに、なぜ信じることが第一歩になるのか。それは逃げではなかったのか。答えは、その後の40年が示していく。時は28年前に戻る。
02「世界市民」に育てられて
1842年1月11日、ニューヨーク市のアスター・ハウスというホテルで生まれた。父ヘンリー・シニアは、変わった人だった。厳しいキリスト教(カルヴァン主義)の家を離れ、スウェーデンの神秘思想家の考えに深く沈んだ。大学に属さない、在野の思想家である。祖父が残した莫大な財産が、一家の暮らしを支えた。母メアリは、父の精神の旅のかたわらで家庭の碇となった。
きょうだいは五人。すぐ下の弟は、後の小説家である。さらに弟のウィルキとボブ、末の妹アリスが続いた。父は息子たちを「世界市民」に育てようとした。ジュネーヴ、パリ、ボン、ドレスデン。学校は転々と替わった。ウィリアムはフランス語とドイツ語を母語のように話した。絵を描き、生き物の観察に夢中になった。
最初に選んだ道は、画家だった。ロードアイランド州ニューポートで、画家ハントの画塾に通った。しかし1861年、19歳で絵筆を置く。同じ年、ハーヴァード大学(ボストン近くの名門大学)のローレンス科学学校に入った。若い化学の教官チャールズ・エリオットのもとで、化学と解剖学を学んだ。やがて医学部へ進む。
1861年4月、南北戦争が始まった。ウィリアムは健康と年齢の壁から、戦場には行かなかった。代わりに弟のウィルキとボブが、北軍の黒人連隊に志願した。ウィルキは重傷を負った。1865年、23歳のウィリアムは、博物学者アガシーのアマゾン探検隊に参加する。だがブラジルで天然痘に倒れた。これを境に、神経の不調、背中の痛み、不眠が生涯ついて回ることになる。
弟たちは戦い、兄は学び、そして病んだ。この体を抱えたまま、彼はドイツへ渡る。
03ドイツの実験室と、心の闇
1867年、25歳。療養と研究をかねて、ベルリンとハイデルベルクに滞在した。ドイツでは、心を実験で調べる新しい科学が生まれていた。ヘルムホルツのもとで目の仕組みを学び、ライプツィヒではの講義に席を置いた。の精神物理学にも触れた。感覚を数字で測ろうとする試みである。
しかし、体と心は回復しなかった。心を測る科学が進むほど、心は機械に近づいて見えた。そして1870年春、あの日記の一行がある。彼は信じることを選んだ。
回復は、静かに実を結んだ。1872年、旧師エリオットはハーヴァードの学長になっていた。その招きで、30歳のジェイムズは生理学の講師になる。1875年には、アメリカで最初期の実験心理学の講座を開いた。学生が実験に使う器具は、自分の金で買った。1878年、36歳でアリス・ハウ・ギブンスと結婚する。五人の子が生まれ、家庭は彼の碇となった。
同じ1878年、出版社ヘンリー・ホルトと本の契約を結んだ。心理学の本を2年で書く約束だった。その2年は、どこまで延びることになるのか。
04十二年かかった本
約束の2年は、12年になった。1890年秋、『』(The Principles of Psychology)二巻が刊行される。1,400ページ。ジェイムズは48歳になっていた。
この本の中心に、「意識の流れ」(stream of consciousness)という考えがある。それまでの心理学は、心をばらばらの部品の集まりと見ていた。感覚、観念、記憶。それを積み上げれば心になる、と。ジェイムズはそう見なかった。意識は止まらない。川のように流れ、切れ目なく移り変わる。過去の残響と、これから来るものへの予感が、今この瞬間にしみ込んでいる。
意識は断片に切り分けられて現れるのではない。鎖や列車と呼ぶよりも、川や流れと呼ぶのがふさわしい。以後これを思考の流れ、意識の流れと呼ぼう
この描写は、心理学の外にも流れ出した。ジョイス、ウルフ、プルースト。20世紀の小説家たちが、人の頭の中をそのまま書く手法として取り込んでいく。
同書はまた、習慣を「社会の巨大な弾み車」と呼んだ。感情については、順番をひっくり返した。「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」。体の反応が先にあり、感情は後から来る。この考えは、後にと呼ばれる。この大著によって、心理学は哲学から独立した科学になった。1892年には学生向けの短い版『心理学短編 Psychology: The Briefer Course』も出した。二冊は長く読まれ、アメリカの心理学教育の形をつくった。
本が世に出て、彼は心理学者として頂点に立った。だが海の向こうでは、妹アリスが病の床にあった。
05妹の日記と、信じる権利
1892年、妹アリスがロンドンで乳がんのため世を去った。一人、病床に伏したままだった。兄と妹のあいだには「他のどんな人とも違う種類の親密さ」があった。兄は哲学に逃れ場を得た。妹は、ヴィクトリア朝(当時のイギリス)の決まりごとにはばまれ、表現の場を持てなかった。彼女は晩年に日記を残した。人を見る、鋭い観察の記録である。ウィリアムは兄として、また同じ鬱を知る者として、この小さな書物を高く評した。
1896年、『 The Will to Believe』を出す。証拠が足りず、どちらとも決められないとき、人には信じる権利がある。そう論じた本である。1870年の日記の一行と、同じ問いがここにある。
1898年、アディロンダックの山中で道に迷った。56歳の心臓は、大きな負担を受けた。以後、心臓病が進んでいく。それでも彼は、次の大きな仕事に向かった。宗教を、科学者の目で見ることである。
06聖なるものの博物学
1901年から1902年、59歳から60歳。イギリスのエディンバラ大学で、ギフォード講義という連続講演を行った。これが1902年、『』(The Varieties of Religious Experience)として本になる。
ジェイムズは、宗教を教えや組織として扱わなかった。一人ひとりが生きた経験として扱った。回心(生き方が変わる体験)、神秘体験、「病める魂」と「健やかな魂」の二つの型、聖なる人の生き方、祈り。あらゆる宗派、そして無宗派の人の証言を集めた。心理学者として、それを観察した。
彼の言い分はこうだ。信じる人の経験が、その人の生を変える力を持つなら、それは科学者にとっても「データ」である。神がいるかどうか、ではない。その経験が何を生むか、を見る。
この本は、宗教心理学という分野を開いた。心理学者カール・ユングも、アルコール依存の自助グループA・Aを作ったビル・Wも、この本から影響を受けた。ジェイムズ自身は、どの教会にも属さなかった。しかし宗教経験が本物であることを守る、開かれた懐疑家(疑いながらも、心を閉じない人)だった。
経験を、それが何を生むかで測る。この見方を、彼は次に「真理」そのものへ向ける。
07真理は生きる――プラグマティズム
1907年、『プラグマティズム』(Pragmatism: A New Name for Some Old Ways of Thinking)刊行。1906年にボストンのローウェル研究所と1907年にコロンビア大学で行った8回の講演の記録である。65歳のジェイムズは、ハーヴァードの以来の友人C・S・パース(Charles Sanders Peirce)が1878年に「我々の観念を明晰にする方法」で素描した思考の格率を受け継ぎ、自らの講演用語として広めた。
中心命題は明快だ。「真理とは、観念の生きる力だ」。ある観念が真であるかどうかは、それを持つことで人生に具体的な違い(cash-value)が生じるかで測られる。真理は抽象的な対応関係ではなく、経験の中で働くものである。観念は「それが出来事となって真になる(becomes true)」。
観念が真であるのは、それが我々の役に立つからである。役に立つからこそ、真と呼ぶに値するのだ。
この主張は激しい論争を呼んだ。バートランド・ラッセルらは「便宜主義(utility)を真理と混同している」と批判した。語の生みの親パース自身も、自分の本来の主張から離れた大衆向けの「真理便宜論」と一線を画すために、1905年以降は自説を「プラグマティシズム(pragmaticism)――誘拐者にもさらわれぬほどに醜い名」と改称した。しかし二人の友情は最後まで途切れなかった。一方シカゴ大学のジョン・デューイはジェイムズ『心理学原理』を「私をヘーゲル主義から離脱させた決定的な契機」と振り返り、プラグマティズムは教育・民主主義の哲学へと受け継がれていく。1904-05年連作論文(没後『 Essays in Radical Empiricism』1912として編纂)では、主観と客観の二元論を超える根本的経験論を構想し、1909年『 A Pluralistic Universe』(マンチェスター・カレッジのヒバート講義)で多元論の世界像へ展開した。
08最後の夏、そして日記の一行へ
1907年、ハーヴァードを退官した。1909年、『多元的宇宙』と、論争に応えた『真理の意味 The Meaning of Truth』を出す。1910年夏、ロンドンに住む弟ヘンリーを連れてヨーロッパから帰国した。ニューハンプシャー州チョコルアの山荘で養生する。しかし1910年8月26日、心臓病により死去。68歳だった。
ここで、1870年4月30日の日記に戻ろう。28歳の彼は、証明もないのに「信じる」ことを選んだ。当時の彼に、それを説明する言葉はなかった。言葉になったのは37年後、『プラグマティズム』である。ある考えが真かどうかは、それが人生に何を生むかで見る。動けなくなる考えと、立ち上がれる考え。彼はどちらを選んだか。日記の一行は、あの本の最初の実験だったのかもしれない。
ジェイムズが残したのは、一つの体系ではない。プラグマティズム、意識の流れ、宗教経験の心理学、根本的経験論。それぞれが別の受け継ぎ手を見つけた。デューイはプラグマティズムを教育と民主主義へ。ホワイトヘッドは過程哲学へ。ウィトゲンシュタインは後期の日常言語の分析へ。小説家たちは意識の流れへ。彼の多面性は弱点ではなかった。生きた経験を切り詰めずに掬い上げようとした、誠実の産物だった。
あなたが今、信じるかどうか迷っている考えは、あなたの明日に何を生むだろうか。
09主要な出来事と著作
- 1月11日、ニューヨーク市アスター・ハウスに誕生。父はスウェーデンボルグ思想の在野思想家
- ハーヴァード大学ローレンス科学学校入学。弟ウィルキ・ボブはのちに北軍黒人連隊へ志願
- ハーヴァード医学校に進学
- アガシーのアマゾン探検隊に参加、ブラジルで天然痘に罹患
- ベルリン・ハイデルベルク留学、ヘルムホルツ、ヴント、フェヒナーに触れる。深い鬱
- 4月、ルヌーヴィエを読み、自由意志を信じる決心で危機を脱する
- 学長エリオットの招きでハーヴァード生理学講師に着任
- ハーヴァードで実験心理学の講座を開設
- アリス・ハウ・ギブンスと結婚。ヘンリー・ホルトと『心理学原理』執筆契約
- 『心理学原理』二巻刊行――意識の流れ・習慣・情動の身体起源説
- 教科書版『心理学短編 Psychology: The Briefer Course』刊行。妹アリス没
- 『信ずる意志 The Will to Believe』刊行
- エディンバラ大学ギフォード講義
- 『宗教的経験の諸相』刊行
- 『プラグマティズム』刊行、ハーヴァード退官
- ヒバート講義に基づく『多元的宇宙』、『真理の意味』刊行
- 8月26日、ニューハンプシャー州チョコルアで心臓病により死去、68歳
- 没後『根本的経験論 Essays in Radical Empiricism』編纂刊行
残した思想の輪郭
- 意識の流れ ― 意識は要素の集積ではなく、連続し移り変わる川のような現象
- プラグマティズム ― 観念の真理性は、それが経験にもたらす具体的な違いで測る
- 根本的経験論 ― 主観と客観を分ける前の「純粋経験」から世界を再構成する試み
- 多元的宇宙 ― 一なる絶対への合流ではなく、互いに関係しあう多なる経験の編み目
- 信ずる意志 ― 決定不能なときに信じることが正当化される、宗教経験の権利論
- 宗教経験の心理学 ― 教義ではなく個人の生きた経験として宗教を観察する方法
- 意志的な生 ― 決定論の暗黒に抗して、信じる力で人生を方向づける実践的哲学
つながり
- デューイ
伴走 — 『心理学原理』に出会ってヘーゲル主義を離れ、プラグマティズムのもう一本の柱となった人。
- バートランド・ラッセル
継承 — ジェイムズの真理論を批判した論客は、のちにその「純粋経験」を分析哲学の語彙で引き受けた。
さらに読むならFurther Reading
ウィリアム・ジェイムズの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
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生きた跡を辿るPlaces
ウィリアム・ジェイムズが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
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Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "William James"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "William James (1842—1910)"