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デューイ

John Dewey·1859–1952·アメリカ·

「本当かどうか」は、 どうやって確かめるのか?

経験と探究を軸に、民主主義と教育を哲学の中心に据えたアメリカ・プラグマティズムの巨匠

  • プラグマティズム
  • 経験と教育
  • 民主主義
工場と大都市が急に広がり、学校も民主主義も作り直しを迫られていたアメリカ — ひらく

時代の空気

南北戦争後のアメリカは産業化と都市化で急速に変容していた。デューイが育ったヴァーモント州バーリントンはニューイングランドの議会民主主義と公理会派の信仰心が残る雪深い地。シカゴ大学着任(1894)の中西部はジェイン・アダムズのハル・ハウスや進歩主義教育運動の只中で、実験学校はその文脈に立った。1916-30年代のコロンビア時代は二度の世界大戦・大恐慌・赤狩りに重なり、1919年訪中では到着直後の五四運動が彼を北京大学に2年以上留めた。1928年ソ連視察ではスターリン体制への幻滅が深まった。

01メキシコの審判席

1937年、メキシコ。ひとりの老人が、ある調査委員会の委員長を務めていた。名はジョン・デューイ。77歳。教育の哲学者として、世界に名を知られた人だった。

審査するのは、レフ・への告発である。トロツキーはロシア革命の指導者のひとりで、いまはソ連を追われていた。ソ連の首都モスクワの裁判は、彼を「反革命」の罪で告発していた。

デューイの委員会は、その告発を調べ直した。国際独立調査委員会と呼ばれた。どの国の政府にも属さない集まりである。そして結論を公に出した。モスクワの裁判は、作られた話の上に立っている、と。

ここに、ひとつの「なぜ」がある。デューイは政治家でも、法律家でもない。九年前にはソ連を訪れ、その教育に期待さえしていた。学校と子どもについて書き続けてきた老人である。なぜ遠い国の裁判を、自分の目で調べに行ったのか。

答えは、彼の一生をたどると見えてくる。時は78年前、1859年に戻る。

02雑貨屋の息子

1859年10月20日、アメリカ北東部ヴァーモント州のバーリントンに生まれた。父アーチボルドは食料雑貨商だった。南北戦争が始まると北軍に入り、騎兵きへいの連隊で戦った。母ルシーナは信仰の深い人だった。公理会派こうりかいはというプロテスタントの一派に属していた。息子には、まじめに働き、まじめに祈ることを教えた。

兄弟は四人いた。育ったのはジョンを含めて三人である。バーリントンはチャンプレーン湖のほとりにある、州でいちばん大きな町だった。冬は雪が深い。町の人が集まって物事を決める、ニューイングランドの気風が残っていた。

地元の公立学校からヴァーモント大学に進み、1879年に卒業した。大学ではH・A・P・トーリーという先生に哲学の手ほどきを受けた。卒業後は三年ほど、教師をして暮らした。ペンシルベニア州のオイルシティ高校、そして故郷の州にあるレイクビュー・セミナリーである。

雪深い町で育ち、田舎の教室に立った。この短い教師の日々が、のちに大きな確信になる。「教育こそが哲学の実験室である」という確信だ。だがその前に、若い教師は教室を離れる。もっと深く学ぶ場を求めたのである。

03ヘーゲルとパースの教室

1882年、ジョンズ・ホプキンズ大学の大学院に入った。できたばかりの学校である。ドイツをまねて、研究を中心に置く新しい形をとっていた。ここで三人の師に出会う。

ひとりはG・S・モリス。ドイツの哲学者ヘーゲルの考えを教えていた。もうひとりは。記号と論理を研究する先生である。三人目はG・スタンレー・ホール。心の働きを実験で調べる、新しい心理学の先生だった。

いちばん深く食い込んだのは、モリスから学んだヘーゲル哲学だった。精神と物、私と世界、ひとりと社会。それらを切り離さず、動きの中でつかもうとする。この考え方を(べんしょうほう)という。デューイの書き方の底には、生涯この動きが流れ続ける。

1884年、「カントの心理学」という論文で博士号を取った。そしてその秋、ミシガン大学の講師になった。25歳になる年だった。教える側に戻った若者は、そこで一生の相手と出会う。

04ミシガン、家族、そして転回

新しい職場で、デューイは学生のアリス・チップマンと出会った。1886年に結婚する。アリスは自分の考えをはっきり持つ、独立心の強い女性だった。のちにシカゴの学校で校長を務めることになる。

二人には六人の子が生まれた。だが息子のモリスを、ヨーロッパ旅行の途中で失った。ジフテリアという病気だった。この喪失は、夫妻の人生に長い影を落とした。

学問の上でも、静かな変化が起きていた。1887年、最初の本『心理学』を出した。そのあとデューイは、ヘーゲルの考えから少しずつ離れていく。きっかけのひとつが、ウィリアム・ジェイムズの『』(1890)だった。ジェイムズはアメリカの心理学者で、哲学者でもある。

ジェイムズは心を「物」としてではなく、「働き」として見た。生き物が環境に合わせて変わっていく、その過程として心を見るのである。ダーウィンの進化の考えと、実験する心理学が、ここで結びついた。

考えの正しさを、それが実際にどう働くかで測る。この哲学をプラグマティズムという。デューイのプラグマティズムへの転回が、ここから始まる。

ミシガンでの十年は、1888年から翌年までミネソタ大学に移った一年をはさんで続いた。そこへ、新しい大学から誘いが届く。

05シカゴの実験学校

1894年、新しくできたシカゴ大学がデューイを招いた。哲学・心理学・教育学の部門をまとめる主任教授としてである。35歳になる年だった。中西部の大都市の活気の中で、彼の考えは教育の実践へと急速に開いていく。

1896年、シカゴ大学付属の実験学校が開校した。通称「デューイ・スクール」である。アリスは学校の立ち上げと運営に深く関わり、1901年には校長を務めた。ジョンは理論の面で学校を導いた。

子どもたちは、料理や織物から始めた。大工仕事、庭仕事、印刷もした。そこから読み書き、算数、科学、歴史へと学びを広げていく。

知識は外から詰め込まれるものではない。子ども自身が問題にぶつかり、それを解こうとする中で、経験として身につける。この発想が『学校と社会』(1899)と『子どもとカリキュラム』(1902)に結晶した。

しかし1904年、アリスの校長職をめぐって大学本部と衝突した。デューイはシカゴ大学を辞めた。十年の大冒険の終わりだった。夫妻はニューヨークへ向かう。

06ニューヨークの半世紀

1904年の秋、コロンビア大学の哲学部に移った。以後、1930年に定年を迎えるまで26年。名誉教授としてさらに22年。彼はニューヨークに根を下ろした。ここから本が次々に世に出る。

1916年のは、教育哲学の代表作となった。世界では第一次世界大戦が続いていた。この本で彼は、民主主義を政治の仕組みとしてではなく描いた。人々が経験を分け合い、直し合っていく生き方として描いたのである。

民主主義とは、政府の形式である以前に、共生された経験のあり方である。

— 『民主主義と教育』第7章(1916年)。第一次世界大戦のさなか、ニューヨークで書かれた教育哲学の主著から

デューイは書斎にこもる哲学者ではなかった。雑誌「ニュー・リパブリック」に、毎月のように政治の論説を書いた。女性の選挙権、労働組合、平和運動、市民の自由を支えた。大学教員の団体(AAUP)の初代会長になり、教員組合(AFT)の結党にも加わった。黒人の地位向上をめざす団体(NAACP)の初期のメンバーでもあった。

1919年、そのデューイに海の向こうから講演の招きが届く。日本、そして中国へ。

07上海に着いて数日後

1919年、デューイは日本と中国を回る講演旅行に出た。東京帝国大学では、のちにとなる連続講演を行なった。哲学そのものを作り直す、という題である。そして4月30日、上海に着いた。

そのわずか数日後、街に学生のデモが広がった。である。中国の若者たちが、外国の圧力と古い体制に対して立ち上がった運動だった。デューイは予定を大きく変えた。滞在は2年以上に及ぶ。

北京大学に招かれた。通訳をしたのは、胡適こてき、蒋夢麟しょうむりん、陶行知とうこうちといった中国人の弟子たちだった。講演は計200回近くにのぼった。聴衆は彼を「米国の孔子」と呼んだ。孔子は古代中国の、いちばん名高い教師である。

帰国後、1927年に妻アリスが亡くなった。四十年を超える共働の終わりだった。翌1928年、デューイはソ連を訪れ、教育の現場を見て回った。初めは、ソ連の教育の試みに好意的だった。しかし1930年代に入ると、スターリン体制への幻滅げんめつを深めていく。

そして1937年、メキシコ。冒頭の審判席へ、話は戻る。

08メキシコ、ふたたび

なぜ教育の哲学者が、遠い国の裁判を自分で調べに行ったのか。ここまで一生をたどってきた読者には、もう見えているはずだ。

彼にとって、正しさは上から与えられるものではなかった。シカゴの子どもたちは、答えを教わるのではなく、自分で試して確かめた。ある主張が本当かどうかは、みんなで調べ、証拠に当て、直していく中で決まる。デューイはこれを探究と呼んだ。

モスクワの裁判は、デューイの目には探究のない結論だった。政府が「正しい」と言えば正しいのなら、探究はいらない。民主主義もいらない。彼が九年前に期待したソ連の教育も、その上には育たない。

そう読むとき、審判席の老人の姿は不思議ではなくなる。彼は政治家としてではなく、探究する人として座っていた。告発を調べ、結論を公に出す。それは『民主主義と教育』の一節を、そのまま生きることだった。

民主主義とは、政府の形式である以前に、共生された経験のあり方である。

— 同じ一節を、メキシコの審判席に座った老人の側から読み直すとき——『民主主義と教育』第7章(1916年)

09経験と探究 ― 思想の核

デューイの思想の中核は経験と探究である。経験は受動的な印象の蓄積ではなく、環境との相互作用のなかで生じる問題状況への能動的な応答である。探究は、不確定な状況を確定した状況へ変換する、共同体的で仮説検証的な営みだ。真理は「対応」ではなく、探究のなかで確証された保証された主張可能性(warranted assertibility)である。

疑念から仮説を立て、検証へと進む思考の運動を、デューイはと呼んだ。それを教育の場に制度化したのがであり、そこで試された方法は今日、の名で受け継がれている。概念や理論を現実を映す鏡ではなく問題解決のための道具とみなす立場はと呼ばれる。ここにはパースの探究概念、ジェイムズの機能主義的な心理学、そしてヘーゲル的弁証法の動的統合の感覚が、ひとつの系譜として流れ込んでいる。その思想は胡適ら中国人の弟子たちを通じて、中国にも受け継がれた。

コロンビア時代に世に出た主要著作は次の通りである。

  • 『民主主義と教育』(1916) ― 教育哲学の金字塔
  • 『人間性と行為』(1922) ― 習慣・衝動・知性の倫理学
  • 『経験と自然』(1925) ― 形而上学
  • 『公衆とその諸問題』(1927) ― 民主主義論
  • 『確実性の探求』(1929) ― ギフォード講演
  • 『経験としての芸術』(1934) ― 美学
  • (1938) ― 探究の論理学
  • (1938) ― 進歩主義教育の自己批判を含む晩年の教育論

1087歳の再婚、そして最後の問い

1946年、87歳のデューイはロベルタ・グラントと再婚した。四十歳あまり年下の女性である。二人は親を失った兄弟姉妹二人を養子に迎え、晩年に新しい家族を得た。90歳を越えても、書き、論争を続けた。

1952年6月1日、ニューヨークの自宅で肺炎はいえんのため息を引き取った。92歳。遺骨は生まれ故郷バーリントンのヴァーモント大学に納められた。アイラ・アレン・チャペルという礼拝堂の脇に立つ記念碑である。碑文には『共通の信仰(A Common Faith)』という彼の本の一節が刻まれている。

雑貨屋の息子は、子どもの教室から遠い国の裁判まで、同じひとつのことを問い続けた。ある答えが本当かどうかは、誰が、どうやって決めるのか。あなたが今日「正しい」と信じていることは、誰かから受け取ったものだろうか。それとも、自分で試して確かめたものだろうか。

11主要な出来事と著作

  1. ヴァーモント州バーリントンの食料雑貨商の家に誕生
  2. ヴァーモント大学卒業。田舎学校で教師を勤める
  3. ジョンズ・ホプキンズ大学で博士号取得、ミシガン大学講師に
  4. アリス・チップマンと結婚
  5. シカゴ大学に招聘、哲学・心理学・教育学部門の主任教授
  6. シカゴ大学付属実験学校(デューイ・スクール)開校
  7. 『学校と社会』刊行
  8. シカゴ大学を辞任、コロンビア大学に移る
  9. 『民主主義と教育』刊行
  10. 日本・中国講演旅行、東大で『哲学の改造』連続講演
  11. 『経験と自然』刊行
  12. エディンバラでギフォード講演、1929年に『確実性の探求』として刊行
  13. メキシコでデューイ委員会委員長、トロツキー裁判の虚構性を公表
  14. 『論理学 ― 探究の理論』『経験と教育』刊行
  15. 87歳でロベルタ・グラントと再婚
  16. 6月1日、ニューヨークで肺炎のため死去。享年92

残した思想の輪郭

  • 経験 ― 受動的印象の集積ではなく、環境との相互作用としての能動的・連続的な過程
  • 探究(inquiry) ― 不確定な状況を確定した状況へ変換する仮説検証的で共同的な営み
  • 工具主義 ― 概念・理論は現実を映す鏡ではなく、問題解決のための道具である
  • 民主主義 ― 政府の形式である以前に、多様な人々が経験を共有し修正し合う生き方
  • 教育 ― 訓練や詰め込みではなく、生徒自身が問題状況を通じて成長する探究の過程
  • 経験としての芸術 ― 美は日常経験が完成された秩序と意味を獲得した瞬間に生じる
1952年6月1日、ニューヨークの自宅で肺炎のため死去。92歳。遺灰はのちに母校ヴァーモント大学構内、アイラ・アレン・チャペル隣接の記念碑に妻ロベルタとともに納められた。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

デューイの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

デューイが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • イラ・アレン礼拝堂 デューイ記念碑墓所

    バーリントン(ヴァーモント州), アメリカ

    1859年バーリントン生まれ。母校UVMキャンパス内のイラ・アレン礼拝堂に1972年に夫妻の遺灰が納められた

さらに辿るならExternal References

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