胡適
文語に封じ込められた民の声を、 日常の言葉で解き放つことは、 文学の改革以上の何かだろうか?
コロンビア大学でデューイに学び、『文学改良芻議』で白話文運動の火を付け、中国近代の思想と文学の語彙そのものを書き換えた自由主義者
- 白話文運動
- 文学改良芻議
- プラグマティズム
- 中国哲学史大綱
- Deweyに学ぶ
時代の空気
19世紀末から20世紀半ばの中国は、古い秩序が音を立てて崩れていた時代だ。1905年に科挙が廃止され、千数百年続いた読書人の梯子が一夜にして消える。1911年の辛亥革命が運び込んだのは新中国ではなく袁世凱と軍閥混戦であり、1915年に陳独秀が創刊した『新青年』が新文化運動の口火を切った。1919年の五四運動は反帝・反軍閥の政治運動へと展開し、北伐(1926-28)・満州事変(1931)・日中戦争(1937-45)・国共内戦(1946-49)が相次ぐ。1949年に中華民国が台湾へ移ると、冷戦下の知識人たちは大陸を遠望しながら学問の場を守った。
01安徽績渓縣の役人一家、そして上海の新式学校
1891年12月17日、上海の長官舎で生まれた。本名は胡洪騂、字は適之、後年もっぱら名乗る「適」の名は、米国留学中にダーウィンの「適者生存」から自ら採ったものである。本籍は安徽省徽州府績渓縣上庄村、朱子学と考証学を育てた徽州文化圏の小村であった。父胡伝(1841-1895)は清朝の実務官僚として各地を歴任し、1892年から台湾台東の直隷州知州(清末の地方行政官、州の最高責任者)を務めた。1895年の下関条約で台湾が日本に割譲されたため内地に帰還、同年厦門で急死している。胡適が3歳の時だった。母馮順弟(1873-1918)は17歳で胡伝(52歳)の後妻となった若い女性で、寡婦となってからは一人息子を育てることだけに専念した。
5歳から母が主導する旧式の私塾教育を受け、四書五経・唐宋八大家の文章を反復暗誦した。9歳のころには『水滸伝』を諳んじ、白話小説の語感を体に入れていた──後の白話文運動の感性的下地は、この少年期の朗読のうちに既に芽吹いていた。胡適は後年、母について『四十自述』(1933)で繰り返し書く──「母は私に厳しくあり、同時に深く愛してくれた。母の苦労の記憶が、私の一生の仕事の倫理的源泉である」。
1904年、13歳で単身上海の新式学校梅渓学堂に進学、以後澄衷学堂・中国公学と上海の新式学校を遍歴した。この期間に英語・数学・物理・化学の近代教育と同時に、厳復訳のハックスリー『天演論』(進化と倫理)、スペンサー『群学肄言』(社会学研究)などの西洋思想の中国語訳を読み耽った。梁啓超の『飲冰室合集』の短い論文群が、胡適の思想的な出発点となる。
02コーネルからコロンビア、デューイとの出会い
1910年8月、19歳で庚子賠款奨学生(義和団賠償金の一部を米中両政府が中国留学生奨学金に充てた制度)の二期生として米国に渡った。当初コーネル大学農学部に入学(農業を振興して祖国に貢献するのが目的)。『留学日記』(後の『胡適留学日記』)には、林檎の分類試験で三時間以上かかって結果も芳しくなかった経験をきっかけに、「自分は農業に向いていない」と自省し、文学・哲学への転向を決断した経緯が具体的な日付で書き留められている。1914年6月、コーネル大学文学部を卒業した。
1915年9月、コロンビア大学大学院哲学科博士課程に進学。ここで生涯の師ジョン・デューイ(当時56歳、プラグマティズムの円熟期)と出会う。博士論文は『先秦名学史』(The Development of the Logical Method in Ancient China、古代中国における論理学的方法の発展)、中国古代の名家・墨家・荀子における論理的思考を、デューイ的な工具主義(instrumentalism)の視角から読み直す仕事だった。1917年7月の論文提出直後に25歳で帰国、学位は1927年に正式授与された。胡適は終生「デューイの弟子」を自任し、プラグマティズムを中国近代思想の方法論的中核として翻案し続ける。
デューイから受け取った核心は、形而上学的な「真理」ではなく、問題解決の方法としての思考だった。「仮説と実験」の手続きを、哲学にも倫理にも教育にも政治にも適用する──この一貫した方法的態度を、胡適は中国語で実験主義(Experimentalism)と訳した。「大胆に仮説を立て、小心に証拠を求めよ」(大胆的假設、小心的求証)という彼の生涯の標語は、デューイのこの方法を10文字の中国語に凝縮した標語である。
03『文学改良芻議』1917年1月 — 白話文運動の綱領
1917年1月、25歳の留学生胡適は、北京の陳独秀(1879-1942、『新青年』編集者)の依頼で書いた論文(文学改良についての草刈り人の議論、「芻議」は謙遜語で「粗末な提案」)を『新青年』誌第2巻第5号に発表した。論文の核心は「八事」──文学改良のための八つの方針である。
(一)言ふこと有り(空疎な修辞を避けよ)、(二)古人を模倣せず、(三)文法を重んず、(四)無病の呻吟せず(感傷的な誇張を避けよ)、(五)爛調陳套の語を去れ(紋切り型を捨てよ)、(六)典を用ひず(古典の引用に頼るな)、(七)対仗を講ぜず(過度の対句を避けよ)、(八)俗字俗語を避けず(口語的な言葉を恐れるな)。
論文の真の射程は、文学批評を超えていた。中国の書き言葉はそれまで文言(文語、古典漢文の継承)と白話(口語的書き言葉、明清小説に使われる)に二分され、正統な思想と学問は文言でしか書かれなかった。この二元構造が、知識人と民衆のあいだに超えがたい言語の壁を築いていた。胡適が提案したのは、文言を廃して白話を正統の書き言葉に昇格させるという、中国語の書字秩序そのものの転換だった。
1917年2月、陳独秀が続編『文学革命論』(もっと過激な革命的文言廃絶論)を同誌に発表、胡適の穏健な改革論を「革命」の次元に押し上げた。1918年には魯迅が白話文の最初の現代小説『狂人日記』を『新青年』に発表、1920年胡適自身も中国最初の白話詩集『嘗試集(Shichang ji)』(試みる詩集)を刊行した。1920年1月、北京政府教育部は小学校の国語教科書に白話文を正式採用することを告示、白話文運動は5年間で実質的な勝利を収めた。
04五四運動と新文化運動 — デューイ中国講演の通訳
1917年7月、胡適は帰国の途に就き、9月には北京大学英文学教授に26歳で就任した(学長蔡元培の招請)。北京大学は当時、陳独秀(文科学長)、李大釗(後の中国共産党共同創設者)、魯迅(『狂人日記』発表当時は北京教育部職員、北京大学講師兼任)、銭玄同(文字改革論者)、劉半農(詩人)ら新文化運動の中核を集めた場所だった。胡適は最年少の教授として、中国哲学史の講義を白話文の教科書で始めた。その講義録は(1919)として刊行、中国哲学の近代的学問としての体裁を初めて整えた書物となった。同年12月、母の手配で郷里績渓に戻り、6歳から許嫁として待たされていた纏足の女性江冬秀と旧式婚を挙げた。新青年で「貞操論」を批判した思想家が母への孝としてこの結婚を貫いたという矛盾は、終生の伴侶関係として静かに引き受けられた。
1919年5月4日、五四運動勃発。パリ講和会議で山東省のドイツ権益が日本に譲渡される決定に抗議して、北京大学の学生数千人が天安門前で抗議デモを行い、親日派官僚の邸宅を焼き討ちした。新文化運動は純粋な文化改革から、反帝国主義・反封建の政治運動へと急速に展開する。胡適は運動を支持しつつも、自由主義的な立場から「多研究些問題、少談些主義」(主義は少なく語れ、具体的な問題をもっと研究せよ、1919年7月論文)を唱え、李大釗らのマルクス主義的方向と論争した。この論戦は問題と主義の論争として中国近代思想史に刻まれる。
1919年4月、胡適の働きかけでジョン・デューイ夫妻が中国に到着、以後2年2か月にわたって中国各地で講演を行った。胡適は全講演の通訳と中国語解説を担当、デューイの思想を生きたまま中国の知識人・学生に手渡した。デューイは上海・北京・広州・南京・杭州・済南・長沙・天津・奉天(瀋陽)など主要都市を巡り、北京大学では長期間の連続講義を行った。この講演旅行は、20世紀の東西思想交流の最大級の事件の一つである。講義録は『社会哲学と政治哲学』『教育哲学』『倫理学』『思考方法論』として出版され、胡適自身の執筆より多くの紙面を占める翻訳・解説の仕事となった。
05後半生 — 駐米大使、北京大学学長、中央研究院院長
1922年5月、北京で同人誌『努力週報』を創刊し、政論と時事批評の場を自ら拵えた。1927年には中央研究院の創設院士に選ばれ、1928年に国民政府が南京に樹立されると、胡適は国民党政府と距離を保ちつつ、『現代評論』『新月』など自由主義系雑誌の中心人物として、「人権と約法」(1929年論文)などで国民党一党独裁の法治欠如を公然と批判した。この批判は蒋介石政権の不興を買い、胡適は1930年に一時上海に逃れることになる。1932年には『独立評論』を創刊し、満州事変後の戦時国家のなかで自由主義の論壇を辛うじて保ち続けた。
1931年、40歳で北京大学文学院長に就任。1937年の盧溝橋事件(日中全面戦争開戦)後、蒋介石の懇請を受けて駐米中華民国大使(1938-42)に転じ、米国で対日抗戦への支援と宣伝活動を主導した。1945年の日本敗戦後、北京大学校長(1946-48)として北京大学の復興を担ったが、1948年12月国共内戦の激化で北京が共産党軍に囲まれると、蒋介石政権の空襲機で北京を脱出した。1949年4月に米国へ渡り、プリンストン大学中国語文献館の嘱託として9年間を過ごした。妻との間には3男1女があり、長子は中華民国へ、次子は大陸に残るという家族の地理的分裂もこの時期から始まる。
1958年、67歳で台湾の中央研究院(Academia Sinica、中華民国の国立最高学術機関、1928年蔡元培が創設)院長に就任、生涯最後の学術的役割を担った。蒋介石政権の威権主義を依然批判しつつ、台湾の学術的自由の象徴として機能した。
1962年2月24日、南港の中央研究院本院講堂で第5次院士会議の閉会辞を述べた直後、心臓発作(急性心筋梗塞)で倒れ、そのまま講堂で死去した。享年71。死の瞬間まで学術の公開の場に立ち続けた生涯だった。遺体は中央研究院に近い南港の公園(現胡適公園)に埋葬され、墓碑銘は「これ地、これ山、これ水、これ人を待つ」(地也、山也、水也、待人也)という本人の詩句が刻まれている。
06考証学と学術的業績 — 『水滸伝』『紅楼夢』考証の近代化
胡適の学術的貢献の柱は、白話文運動と並んで中国古典小説の考証学的研究にある。1920年代、彼は『水滸伝考証』(1920)『紅楼夢考証』(1921)『西遊記考証』(1923)『三国志演義序』(1926)など、中国四大奇書の版本史と作者研究を徹底的に実証化した。
特に『紅楼夢考証』は画期的だった。従来の索隠派(『紅楼夢』を清朝王族の暗号小説として読む)に対し、胡適は曹雪芹(1724頃-1763頃)の自叙伝的小説という新しい読解(新紅学)を打ち出し、版本史・作者家系の文書的考証によって実証した。これは単なる文学研究ではなく、清朝考証学の伝統(戴震・段玉裁・王念孫)を、デューイ的実験主義と結合させた近代的実証史学の範型だった。
1930年代以降は『中国哲学史大綱』の下巻(中古哲学史)を計画しつつ、完成には至らず、『戴東原的哲学』(1925)『説儒』(1934、儒家の起源論)など、中国思想史の個別研究を積み重ねた。晩年は『水経注』(北魏の地理書)の版本研究に没頭し、この仕事は死の直前まで続けられた。
学術的には、胡適は新文化運動の理論家としての側面と並んで、近代実証学の実践者としての側面を持つ。両者は彼の中で分離せず、大胆に仮説を立て、小心に証拠を求めよの方法論的標語のもとに統合されていた。
07主要な出来事と著作
- 12月17日上海で生まれる、本籍は安徽省績渓、本名胡洪騂、字適之
- 3歳で父胡伝を厦門で失う、以後は母馮順弟が一人で育てる
- 上海・梅渓学堂・澄衷学堂・中国公学で新式教育
- 19歳で庚子賠款奨学生(二期生)として米国コーネル大学へ
- コロンビア大学博士課程、ジョン・デューイに師事
- 1月『文学改良芻議』を『新青年』に発表、白話文運動の綱領
- 9月帰国、26歳で北京大学英文学教授に就任(蔡元培招請)
- 12月、母の手配で江冬秀と旧式婚を挙げる
- 『中国哲学史大綱』上巻、五四運動、「問題と主義」論争
- デューイ中国講演旅行の通訳と中国語解説を担当
- 中国最初の白話詩集『嘗試集』刊行
- 『水滸伝』『紅楼夢』『西遊記』考証、新紅学の確立
- 『努力週報』創刊、政論と時事批評の同人誌
- 中央研究院創設院士に選出
- 「人権と約法」で国民党一党独裁を公然と批判
- 『独立評論』創刊、満州事変後の自由主義論壇
- 駐米中華民国大使として対日抗戦の宣伝活動
- 北京大学校長、戦後復興を主導
- 北京を脱出、米国に渡る、以後台湾と米国を往来
- 台湾中央研究院院長、学術的自由の象徴として
- 2月24日南港の院士会議閉会直後に心臓発作で急死、71歳
残した思想の輪郭
- 『文学改良芻議』八事 — 白話文運動の綱領、文言の拘束から中国近代語を解放した出発点
- 実験主義(Experimentalism) — デューイのプラグマティズムを中国に翻案、「大胆に仮説、小心に証拠」
- 『中国哲学史大綱』上巻 — 白話文で書かれた最初の中国哲学史、近代学問としての中国哲学の体裁
- 白話詩集『嘗試集』 — 中国近代詩の出発点、自由詩の実験
- 新紅学 — 『紅楼夢考証』で曹雪芹自叙伝説を実証、清朝考証学と近代実証史学の統合
- 問題と主義の論争 — 1919年李大釗らマルクス主義派への自由主義的応答、「具体的問題をもっと研究せよ」
- デューイ中国講演の通訳 — 1919-21年2年2か月、20世紀東西思想交流の最大級の媒介
- 魯迅との同時代並走 — 『狂人日記』と『嘗試集』の双璧、新文化運動の二極
- 自由主義者としての政治批判 — 国民党一党独裁への1929年論文、蒋介石政権との緊張
- 駐米大使と北京大学学長 — 学者と公人の両立、戦時・戦後の制度的建設
- — 台湾学術界の象徴、晩年まで公開の場に立ち続けた生涯
- 方法論の一貫性 — 実験主義・考証学・白話文運動を貫く「大胆に仮説、小心に証拠」の方法的標語
つながり
- デューイ
継承 — 1915-17年コロンビア大学博士課程でデューイのもとで『先秦名学史』の博士論文を執筆、プラグマティズムを「実験主義(Experimentalism)」として中国に導入。1919-21年デューイの中国講演旅行(5月4日運動の直中)を通訳として全面的に支え、『胡適文存』所収の論考群でデューイの工具主義をそのまま中国近代の方法論として翻案した直系の弟子
- 魯迅
伴走 — 1917-23年ともに『新青年』誌に寄稿し五四新文化運動の双璧として活動。胡適『文学改良芻議』(1917)が白話文運動の綱領となり、魯迅『狂人日記』(1918)が最初の現代口語小説として応答した二人三脚の関係。1925年以降の政治的立場(胡適=自由主義・国民党穏健派、魯迅=左翼作家連盟)で分岐するが、1936年魯迅死去時に胡適は追悼文を書き「文学革命の最大の成果」と評価した
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