胡適
むずかしい書き言葉を捨てて、 ふだんの言葉で書こうと国じゅうに呼びかけた人が、 なぜ自分の結婚だけは古いしきたりに従ったのだろう?
コロンビア大学でデューイに学び、『文学改良芻議』で白話文運動の火を付け、中国近代の思想と文学の語彙そのものを書き換えた自由主義者
- 白話文運動
- 文学改良芻議
- プラグマティズム
- 中国哲学史大綱
- Deweyに学ぶ
皇帝も古い試験も消え、次に何を信じればいいのか、誰にもまだ分からなかった時代 — ひらく
時代の空気
19世紀末から20世紀半ばの中国は、古い秩序が音を立てて崩れていた時代だ。1905年に科挙が廃止され、千数百年続いた読書人の梯子が一夜にして消える。1911年の辛亥革命が運び込んだのは新中国ではなく袁世凱と軍閥混戦であり、1915年に陳独秀が創刊した『新青年』が新文化運動の口火を切った。1919年の五四運動は反帝・反軍閥の政治運動へと展開し、北伐(1926-28)・満州事変(1931)・日中戦争(1937-45)・国共内戦(1946-49)が相次ぐ。1949年に中華民国が台湾へ移ると、冷戦下の知識人たちは大陸を遠望しながら学問の場を守った。
011917年12月、故郷の村での結婚式
1917年12月。安徽省の山あいの村、績渓。26歳の胡適は、母の手配で故郷に帰っていた。目的は結婚式である。相手は(こうとうしゅう)という女性だった。
彼女は、胡適が幼いころから決められていた許嫁(いいなずけ)である。ずっと待たされていた人だった。足には纏足(てんそく)があった。女の子の足を布で固く縛って小さくする、古い中国の習わしである。式は旧式婚、つまり昔ながらのしきたりで行われた。
この年の夏、胡適はアメリカから帰ってきたばかりだった。北京大学の、いちばん若い教授になっていた。その年の1月には、雑誌に一本の論文を出している。むずかしい書き言葉を捨て、ふだんの言葉で書こう。中国の書き言葉を変えていく、その呼びかけの主が彼だった。
『新青年』で古い「貞操論」を批判した思想家が、母への孝としてこの結婚を貫いた。言葉では古いものを捨てよと説いた人が、自分の結婚では古いしきたりに従ったのだ。この矛盾を、彼は生涯静かに引き受けた。江冬秀は終生の伴侶となった。
なぜ、彼は逃げなかったのだろう。なぜ、この人だけは「革命」を選ばなかったのだろう。答えを探すには、母のことを知らなければならない。時計の針を、26年前に戻す。
02母と、暗誦の少年時代
1891年12月17日、胡適は上海で生まれた。本名は胡洪騂、字(あざな、本名とは別の呼び名)は適之という。本籍は安徽省の績渓、上庄村である。この一帯は徽州(きしゅう)と呼ばれ、とを育てた土地だった。朱子学はの一派で、考証学は古い書物を証拠で確かめる学問である。
父の胡伝は、清の役人として各地を回った。1892年からは台湾の台東で、州の長官を務めている。1895年、下関条約で台湾は日本のものになった。父は内地に戻り、同じ年に厦門(アモイ)で急死した。胡適は3歳だった。
母は馮順弟(ふうじゅんてい、1873-1918)という。まだ十代で、父の後妻になった人である。夫を失ってからは、一人息子を育てることだけに力を注いだ。5歳から、母が決めた昔ながらの私塾で学んだ。四書五経(儒教の基本の書物)や、唐や宋の名文を繰り返し声に出して覚えた。
9歳のころには『水滸伝』を暗誦していた。『水滸伝』は、話し言葉に近い白話(はくわ)で書かれた小説である。後の白話文運動の感覚は、この少年期の朗読のうちに芽生えていた。胡適は後年、『四十自述』(1933)に母のことをこう書く。「母は私に厳しくあり、同時に深く愛してくれた。母の苦労の記憶が、私の一生の仕事の倫理的源泉である」。母の苦労が、自分の仕事の道徳の根っこだ、という意味である。
1904年、少年は一人で上海に出た。梅渓学堂という新式学校に入り、その後も澄衷学堂、中国公学と上海の学校を渡り歩く。英語・数学・物理・化学を学びながら、西洋の思想の翻訳を読みふけった。厳復が訳したハックスリーの『天演論』で、彼は「」という言葉に出会う。環境に合う者が生き残る、という進化論の考えである。スペンサーの『群学肄言』も読んだ。そしての『飲冰室合集』にある短い論文の数々が、彼の思想の出発点となった。
母は息子を上海に送り出し、故郷で待った。そして故郷には、もう一つ決められていたことがあった。幼いころに定められた許嫁である。少年はまだ、そのことを深く考えてはいなかった。海の向こうから、もっと大きな知らせが届こうとしていた。
03リンゴの試験と、デューイという先生
1910年8月、胡適はアメリカに渡った。庚子賠款(こうしばいしょう)奨学生の二期生である。義和団事件の賠償金の一部を、米中両国が中国人留学生のために使った制度だ。彼はコーネル大学の農学部に入った。農業を盛んにして、祖国の役に立つつもりだった。
ところが、リンゴの分類の試験でつまずく。三時間以上かけても、結果はよくなかった。『留学日記』には、そのときの反省が日付つきで書かれている。「自分は農業に向いていない」。彼は文学と哲学に進路を変え、1914年6月にコーネル大学の文学部を卒業した。留学中、彼は「適」という名を自分で選んでいる。ダーウィンの「適者生存」から採った名だった。
1915年9月、コロンビア大学の大学院に進み、哲学の博士課程に入った。ここで生涯の師、ジョン・デューイに出会う。デューイは当時50代半ば。プラグマティズムという哲学の、いちばん円熟した時期だった。プラグマティズムとは、考えの正しさを「実際に役に立つか」で確かめる哲学である。胡適は終生「デューイの弟子」を自任した。
博士論文は『先秦名学史』。古代中国の名家・・荀子の論理的な考え方を扱った。それをデューイの工具主義()の視点で読み直す仕事である。思考とは、問題を解くための道具である、という考え方だ。1917年7月、論文を出した直後に25歳で帰国した。学位が正式に授与されたのは1927年である。
デューイから受け取った核心は、動かない「真理」ではなかった。問題を解決するための、考え方の手続きだった。仮説を立て、実験で確かめる。この手続きを、哲学にも道徳にも教育にも政治にも当てはめる。胡適はこの態度を、中国語で実験主義(Experimentalism)と訳した。デューイのプラグマティズムを、中国向けに作り直したのである。
大胆に仮説を立て、小心に証拠を求めよ
大胆に、しかし小心に。この二つを同時に持つことが、彼の一生の方法になる。帰国の半年前、彼は北京に一本の論文を送っていた。中国の書き言葉を変えてしまう論文である。
04『文学改良芻議』— 八つの約束
1917年1月、25歳の留学生はを発表した。北京の(1879-1942)に頼まれて書いたものである。陳独秀は雑誌『新青年』を作った人だった。論文は『新青年』の第2巻第5号に載った。「芻議」とは「粗末な提案」という、へりくだった言い方である。
論文の中心は「八事」、文学をよくするための八つの方針だった。(一)中身のあることを言う。(二)昔の人のまねをしない。(三)文法を大事にする。(四)病気でもないのにうめかない、つまり大げさに嘆かない。(五)使い古した言い回しを捨てる。(六)古典の引用に頼らない。(七)対句(ついく、形をそろえた二つの文)にこだわらない。(八)ふだんの言葉や俗な字を避けない。
この論文が狙ったのは、文学の話だけではなかった。当時の中国の書き言葉は、二つに分かれていた。一つは文言(ぶんげん)、古い漢文をそのまま受け継いだ書き方である。もう一つは白話、明や清の小説に使われた話し言葉に近い書き方だ。まじめな思想や学問は、文言でしか書かれなかった。この分かれ目が、知識人と民衆のあいだに高い壁を作っていた。
胡適の提案は、文言をやめて白話を正式な書き言葉にすることだった。中国語の書き方の決まりそのものを、入れ替える提案である。この論文は、白話文運動の綱領(こうりょう、運動の基本方針)となった。
1917年2月、陳独秀は続けて『文学革命論』を出した。文言を完全に捨てよという、もっと激しい主張である。胡適のおだやかな「改良」は、「革命」へと押し上げられた。1918年には魯迅が、白話で書かれた最初の現代小説を『新青年』に発表する。1920年、胡適自身も中国で最初の白話の詩集『嘗試集』を出した。「試みる詩集」という意味である。
1920年1月、北京の政府は小学校の国語の教科書に白話を採用すると告げた。運動は、5年で実質的な勝利をおさめたことになる。だがその前に、1917年の秋、胡適は北京に立たなければならなかった。そして三か月後、故郷の村へ帰ることになる。
05北京大学、五四運動、そしてデューイの旅
1917年9月、胡適は北京大学の英文学の教授になった。学長のが招いたのである。当時の北京大学には、新しい文化を作ろうとする人たちが集まっていた。陳独秀は文科の学長。は、のちに中国共産党を共同で作る人である。魯迅もいた。銭玄同は文字改革を唱え、劉半農は詩人だった。
胡適は最年少の教授として、中国哲学史の講義を白話の教科書で始めた。その講義の記録が(1919)である。中国哲学を近代の学問の形にした、最初の本となった。
同じ年の12月、彼は績渓に帰った。冒頭の結婚式である。翌1918年、母の馮順弟は世を去った。母が決めた結婚を、彼はその後も守り続けることになる。
1919年5月4日、勃発。パリ講和会議で、山東省にあったドイツの権益を日本に渡すことが決まった。北京大学の学生数千人が天安門の前で抗議し、親日派の役人の邸宅を焼き討ちした。新しい文化の運動は、帝国主義と古い体制に反対する政治運動へ急速に変わっていく。
胡適は運動を支持した。だが同じ年の7月、彼は一本の論文でこう呼びかける。「多研究些問題、少談些主義」。李大釗らが進むマルクス主義の方向と、彼はここで論争した。この論戦は、問題と主義の論争として中国近代の思想史に刻まれる。
問題を多く研究せよ、主義を少なく語れ
その少し前、1919年4月には、彼の働きかけでジョン・デューイ夫妻が中国に着いていた。滞在は2年2か月に及ぶ。胡適は全講演の通訳と中国語の解説を担った。師の思想を、生きたまま中国の若者に手渡したのである。デューイは上海・北京・広州・南京・杭州・済南・長沙・天津・奉天(いまの瀋陽)を回った。北京大学では長い連続講義を行った。
このデューイ中国講演旅行は、20世紀の東西思想交流のなかでも最大級の事件である。講義録は『社会哲学と政治哲学』『教育哲学』『倫理学』『思考方法論』として本になった。胡適自身が書いた文章より、翻訳と解説のほうが多くの紙面を占めた時期だった。一方、彼の机の上には別の仕事が積み上がっていた。古い小説の、古い版本である。
06考証学と学術的業績 — 『水滸伝』『紅楼夢』考証の近代化
胡適の学術的貢献の柱は、白話文運動と並んで中国古典小説の考証学的研究にある。1920年代、彼は『水滸伝考証』(1920)『紅楼夢考証』(1921)『西遊記考証』(1923)『三国志演義序』(1926)など、中国四大奇書の版本史と作者研究を徹底的に実証化した。
特に『紅楼夢考証』は画期的だった。従来の索隠派(『紅楼夢』を清朝王族の暗号小説として読む)に対し、胡適は(1724頃-1763頃)の自叙伝的小説という新しい読解(新紅学)を打ち出し、版本史・作者家系の文書的考証によって実証した。これは単なる文学研究ではなく、清朝考証学の伝統(戴震・段玉裁・王念孫)を、デューイ的実験主義と結合させた近代的実証史学の範型だった。
1930年代以降は『中国哲学史大綱』の下巻(中古哲学史)を計画しつつ、完成には至らず、『戴東原的哲学』(1925)『説儒』(1934、儒家の起源論)など、中国思想史の個別研究を積み重ねた。晩年は『水経注』(北魏の地理書)の版本研究に没頭し、この仕事は死の直前まで続けられた。
学術的には、胡適は新文化運動の理論家としての側面と並んで、近代実証学の実践者としての側面を持つ。両者は彼の中で分離せず、大胆に仮説を立て、小心に証拠を求めよの方法論的標語のもとに統合されていた。そしてこの同じ標語が、学者としてではなく公人としての後半生をも貫くことになる。
07後半生 — 講堂で倒れるまで
1922年5月、胡適は北京で『努力週報』という同人誌を作った。政治と時事を自分の言葉で論じる場である。1927年には中央研究院の創設院士に選ばれた。1928年、国民政府が南京にできると、彼は国民党の政府と距離を保った。『現代評論』『新月』といった自由主義の雑誌で、中心人物として書き続ける。1929年の論文「人権と約法」では、国民党の一党独裁を公然と批判した。法の支配がない、という批判である。
この批判は、国民党の指導者・蒋介石の怒りを買った。胡適は1930年、いったん上海に逃れることになる。1932年には『独立評論』を作った。満州事変のあとの戦時の国のなかで、自由に語れる場をかろうじて守り続けたのである。
1931年には北京大学の文学院長になった。1937年、盧溝橋事件で日本との全面戦争が始まる。蒋介石の強い頼みを受けて、彼は(1938-42)に転じた。アメリカで、日本との戦いへの支援を求める活動を主導したのである。1945年に日本が敗れると、北京大学校長(1946-48)として大学の復興を担った。
1948年12月、国民党と共産党の内戦が激しくなり、北京は共産党の軍に囲まれた。胡適は蒋介石政権の飛行機で北京を脱出する。1949年4月にアメリカへ渡り、プリンストン大学の中国語文献館の仕事などを引き受けながら9年を過ごした。妻の江冬秀とのあいだには、2人の息子と1人の娘がいた。長男は中華民国へ、次男は大陸に残った。家族が地理的に引き裂かれる時代が、ここから始まる。
1958年、彼は台湾のに就任した。中央研究院は中華民国の最高の学術機関で、1928年に蔡元培が作ったものである。蒋介石政権の強権的なやり方をなお批判しながら、彼は台湾の学問の自由の象徴として働いた。
1962年2月24日。南港の中央研究院の講堂で、彼は第5次院士会議の閉会の言葉を述べた。その直後、心臓発作で倒れ、そのまま講堂で死去した。心臓発作で急死したのは、学問の公開の場に立っている、まさにそのときだった。墓は中央研究院に近い南港の公園に作られた。墓碑には本人の詩の一句が刻まれている。「これ地、これ山、これ水、これ人を待つ」(地也、山也、水也、待人也)。
江冬秀との結婚は、この日まで44年続いていた。冒頭の問いに戻ろう。なぜ、古いものを捨てよと呼びかけた人が、自分の結婚では古いしきたりに従ったのか。彼は一度も、すべてを一気に壊す人ではなかった。「改良」を「革命」に押し上げたのは陳独秀であり、五四の熱のなかで「主義を少なく語れ」と言ったのは彼だった。大胆に仮説を立て、小心に証拠を求める。母の苦労を、一生の仕事の根っこと呼んだ。言葉は大胆に変え、自分の暮らしは小心に守った。それが彼の答えだったのかもしれない。
では、あなたはどうだろう。世の中を変える言葉と、自分を縛るしきたり。人はその二つを、同じ速さで変えられるのだろうか。
08主要な出来事と著作
- 12月17日上海で生まれる、本籍は安徽省績渓、本名胡洪騂、字適之
- 3歳で父胡伝を厦門で失う、以後は母馮順弟が一人で育てる
- 上海・梅渓学堂・澄衷学堂・中国公学で新式教育
- 19歳で庚子賠款奨学生(二期生)として米国コーネル大学へ
- コロンビア大学博士課程、ジョン・デューイに師事
- 1月『文学改良芻議』を『新青年』に発表、白話文運動の綱領
- 9月帰国、26歳で北京大学英文学教授に就任(蔡元培招請)
- 12月、母の手配で江冬秀と旧式婚を挙げる
- 『中国哲学史大綱』上巻、五四運動、「問題と主義」論争
- デューイ中国講演旅行の通訳と中国語解説を担当
- 中国最初の白話詩集『嘗試集』刊行
- 『水滸伝』『紅楼夢』『西遊記』考証、新紅学の確立
- 『努力週報』創刊、政論と時事批評の同人誌
- 中央研究院創設院士に選出
- 「人権と約法」で国民党一党独裁を公然と批判
- 『独立評論』創刊、満州事変後の自由主義論壇
- 駐米中華民国大使として対日抗戦の宣伝活動
- 北京大学校長、戦後復興を主導
- 北京を脱出、米国に渡る、以後台湾と米国を往来
- 台湾中央研究院院長、学術的自由の象徴として
- 2月24日南港の院士会議閉会直後に心臓発作で急死、71歳
残した思想の輪郭
- 『文学改良芻議』八事 — 白話文運動の綱領、文言の拘束から中国近代語を解放した出発点
- 実験主義(Experimentalism) — デューイのプラグマティズムを中国に翻案、「大胆に仮説、小心に証拠」
- 『中国哲学史大綱』上巻 — 白話文で書かれた最初の中国哲学史、近代学問としての中国哲学の体裁
- 白話詩集『嘗試集』 — 中国近代詩の出発点、自由詩の実験
- 新紅学 — 『紅楼夢考証』で曹雪芹自叙伝説を実証、清朝考証学と近代実証史学の統合
- 問題と主義の論争 — 1919年李大釗らマルクス主義派への自由主義的応答、「具体的問題をもっと研究せよ」
- デューイ中国講演の通訳 — 1919-21年2年2か月、20世紀東西思想交流の最大級の媒介
- 魯迅との同時代並走 — 『狂人日記』と『嘗試集』の双璧、新文化運動の二極
- 自由主義者としての政治批判 — 国民党一党独裁への1929年論文、蒋介石政権との緊張
- 駐米大使と北京大学学長 — 学者と公人の両立、戦時・戦後の制度的建設
- 中央研究院院長 — 台湾学術界の象徴、晩年まで公開の場に立ち続けた生涯
- 方法論の一貫性 — 実験主義・考証学・白話文運動を貫く「大胆に仮説、小心に証拠」の方法的標語
つながり
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